瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:増田一良

高松電灯と牛窪求馬
            髙松に電灯を初めてともした髙松電灯と牛窪求馬
日本で最初に電灯が灯るのは明治15年のことでした。13年後に髙松に電灯を灯したのは、牛窪求馬(もとめ)で、彼は髙松藩家老の息子でした。資本金は5万円で、旧藩主の松平氏が大口の出資者です。髙松に電灯が灯ると、中讃でも電灯会社設立の動きが活発化します。ここで注意しておきたいのは「電力会社」ではなく「電灯会社」であることです。この時期の電灯会社は、町の中に小さな発電所を作って電線を引いて灯りを灯すという小規模なものです。電灯だけですから営業は夜だけです。これが近代化の代名詞になっていきます。しかし、電気代は高くて庶民には高値の花でした。誰もが加入するというものではなく、加入者は少数で電灯会社の経営は不安定だったことを押さえておきます。
     髙松に習って中讃でも電灯事業に参入しようとする動きが出ています。

中讃の電灯会社設立の動き

ひとつが多度津・丸亀・坂出の資産家連合です。その中心は、多度津の景山甚右衛門で、讃岐鉄道会社や銀行を経営し「多度津の七福神の総帥」とも呼ばれ、資本力も数段上でした。それと坂出の鎌田家の連合体です。もうひとつが、農村部の旧地主系で、助役や村会や郡会議員を務める人達のグループです。
景山甚右衛門と鎌田勝太郎の連合ですから、こちらの方が有力と思うのですが、なぜか認可が下りたのは旧庄屋連合でした。その中心メンバーを見ておきましょう。

西讃電灯設立発起人

西讃電灯の発起人と役員達です。ここからは次のような事が読み取れます。
①発起人には、当然ですが景山甚右衛門など多度津の七福神や坂出の鎌田勝太郎などの名前がないこと②大坂企業家と郡部有力者(助役・村会議員クラスの名前があること。
③七箇村からは、増田穣三・田岡泰(村長)・近石伝四郎(穣三の母親実家)の3名がいること 
実は、この会社設立には増田穣三が深く関わっており、郡部の有力者を一軒一軒訪ねて投資を呼びかけています。ここからは旧庄屋層が電力会社という近代産業に投資し、投資家へと転進していこうとする動きが見えます。当時の増田穣三は「七箇村助役」で、政治活動等を通じて顔なじみのメンバーでした。こうして資本を集めて会社はスタートします。ここでは、この電灯会社が素人の郡部の元庄屋たちの手で起業されたことを押さえておきます。しかし、この事業は難産でした。なかなか創業開始にこぎつけられないのです。その理由は何だったのでしょうか?3年経っても火力発電所ができない理由を株主総会で次のように説明しています。

西讃電灯開業の遅れ要因

資金不足で、発電機械が引き取れなかった。土地登記に時間がかかり電柱が建てられない。要は素人集団が電力会社経営を始めたのです。ある意味では「近代化受容」のための高い授業料を払っていたことになります。これに対して、いつまでたっても操業開始に至らずに、配当がない出資者たちは不満がたかまります。なんしよんやという感じでしょうか。そこで名ばかりの社長と役員の更迭が次のように行われます。

西讃電灯の役員更迭と増田穣三

赤が社長、青が役員です。③1897(明治31)年に、西讃電灯は発足し、翌年9月に発電所建設に着工します。 ④しかし、3年経っても操業できずに、その責任と取って社長が短期間で3人交代しています。そして⑤1900年10月には、役員が総入れ替えています。彼らは経営の素人集団でした。操業にこぎつけられないための引責辞任です。こうしたなかで「七箇村村長+県会議員」であった増田穣三への圧力がかかります。「なんとかせい、あんたが有利な投資先やいうきに株式を購入したんぞ。あんたが社長になって早急に営業開始せえ。」というところでしょうか。⑥1901年8月、前社長の「病気辞任(実質的更迭)」を受けて、増田穣三が社長に就任します。これは「火中の栗」をひろう立場です。この時に⑦増田家本家で従兄弟の増田一良も役員に迎え入れられています。こうして、増田穣三体制の下で操業開始に向けた動きが本格化します。そして1年後には操業にこぎつけます。西讃地域で最初に稼働した発電所を見ておきましょう。

西讃電灯 金倉寺発電所
西讃電灯の金倉寺発電所(JR金蔵寺駅北側)
創業から5年目にして、金倉寺駅の北側に完成した石炭火力発電所です。土讃線沿いに、空に煙をはく煙突が木のように描かれています。発電行程を見ておきましょう。
①貨車で石炭が運び込まれる
②線路際の井戸から水が汲み上げられて
③手前のボイラー棟で石炭が燃やされ、蒸気が起こされる。
④蒸気が発電棟に送られ弾み車を回して発電機に伝えて電気を起こす。
⑤蒸気は、レンガ積の大煙突から排出される。
⑥ボイラーの水は鉄道路線沿いの井戸より吸い上げ、温水は南の貯水池に流していた。
⑦手前の小さい建物が本社で、社長以下5人位の事務員がいた。
どうして金蔵寺に発電所が作られてたのでしょうか?

金倉寺発電所の立地条件

火力発電所の立地条件としては土地と水と原料輸送です。まず多度津の近くには安い適地が見つからなったようです。さらに港に運ばれてきた石炭輸送を荷馬車などではこぶと輸送コストがかさみます。鉄道輸送が条件になります。そうすると、もよりの駅は金倉寺です。金倉寺周辺が旧金倉川の地下水が豊富にあります。こうして、金蔵寺駅の北側が発電所設置場所として選ばれます。就任して1年で開業にこぎ着けた増田穣三の手腕は評価できるようです。それでは、営業成績はどうだったのでしょうか?

讃岐電気 開業1年目の収支決算

営業開始から1年で、契約者は480戸。収入は支出の1/3程度。累積赤字は80000円を超えています。
これに対して、増田穣三の経営方針はどうだったのでしょうか?

増田穣三の拡大策

増田穣三の経営方針は「現時点の苦境よりも未来を見つめよ」でした。「当会社の営業は近き将来に於て一大盛況を呈す可きや。期して待つ可きなり」とイケイケ路線です。その見通しは「善通寺11師団や琴平の旅館が契約を結べば、赤字はすぐにも解消する。今は未来を見据えて、投資拡大を行うべきだ」と、「未来のためへの積極的投資」路線です。
これに対して株主たちはどう動いたのでしょうか?

讃岐電気 経営上の対立

会社が設立されてから約10年。出資者は一度も配当金を受け取っていません。その間に、出資総額の12万円の内の8万円を赤字で食い潰しています。このまま増田穣三のいうように拡大路線を進めば、赤字は雪だるま式に膨らみ、その負担を求められる畏れがでてきます。株主たちは、「新体制でやり直すべき」という意見でした。そして譲三は、実質的に更迭されます。

増田穣三更迭後、西讃電灯はどのように経営の建て直しが行われたのでしょうか?

増田穣三解任後の西讃電灯

①経営陣に景山甚右衛門と武田熊造を迎えます。
②そして累積赤字を資本金で精算します。資本金全体は12万円でしたから、残りは3,4万円と言うことになります。出資者達は約2/3を失うことになります。
③これでは会社の経営ができないので、11,4万円の増資を行います。
④注目しておきたいのは、この増資引受人を5人だけに限ったことです。つまり、この電灯会社の資本・経営権をこの5人で握ったことになります。この人達が「多度津七福神」と呼ばれたメンバーです。その顔ぶれを見ておきましょう。

多度津七福神の不在地主化

1916(大正16)仲多度郡の大地主ランキングのトップ10です。一目盛りが50㌶です。
塩田家2軒、武田家が3軒、合田家、その統帥役とされたのが景山甚右衛門の7軒です。彼らは江戸末期から持ち船を持ち多度津港を拠点にさまざまな問屋活動を展開し、資本を蓄積します。そして、明治になって経済活動の自由が保障されると、近代産業に投資して産業資本から金融資本へと成長して行きます。
多度津七福人.1JPG
多度津銀行の設立者

その拠点機関となったのが多度津銀行でした。彼らは銀行経営を通じて情報交換し、より有利な投資先を選んで投資をして金融資本家に成長していきます。同時に互いに姻戚関係を結んで結びつきを強めます。この時期の地方の資本家は、地方銀行・鉄道・電力を核に成長して行く人達が多いようです。多度津銀行にあつまる資本家も、この機会に電力事業への進出を目論んだようです。そのためには営業権をもつ西讃電灯(讃岐電気)を傘下に置く必要がありました。増田穣三更迭後の経営権を握りますが、そのやり方が増資出資者を5人限定するという手法だったのです。こうして電灯会社の経営権は多度津銀行の重役達に握られたのです。その中心人物して担ぎ上げられたのが頭取の景山甚右衛門です。

景山甚右衛門と福沢桃介2
景山甚右衛門と福沢桃介
新しく社長に就任した景山甚右衛門は前経営陣の失敗に学びます。新しい産業を起業するのは素人集団には無理、プロに頼るのが一番ということです。景山甚右衛門が見込んだのが福沢桃介です。桃介は福沢諭吉の娘婿で、甲府に水力発電所を作って、それを東京に送電し「電力王」と称されるようになっていました。大都市から遠く離れた渓谷にダムを造り、水力で電気を起こし、高圧送電線で都市部に送るというビジネスモデルを打ち立てたのです。この成功を見た地方資産家達は、水力発電事業に参入しようと福地桃介のもとに日参するものが数多く現れます。桃介の協力・支援を取り付けて、資本参加や技術者集団の提供を実現しようとします。その中の一人が景山甚右衛門ということになります。こうして讃岐電気は「四国水力発電(四水)」と名称変更します。
ちなみに、この桃介の胸像は、現在の四国電力のロビーにあります。四国電力が自分の会社のルーツをどこに求めているかがうかがえます。一方、景山甚右衛門の銅像は、四国電力本社にはありません。この胸像があるのは、多度津のスポーツセンターの一角で、人々に目には触れにくいところです。

大正15(1926)の四水の送電線網です。

四水の送電線網大正15年

祖谷川出合いの三繩からの電力が池田・猪ノ鼻峠をこえて財田で分かれて、観音寺と善通寺方面に送電されています。髙松方面には、辻から相栗峠をこえた高圧電線が伸びます。こうして水力発電所で作られた安価で大量の電気を、讃岐に供給する体制が第1大戦前に整いました。

花形産業に成長した電力産業

これが第一次世界大戦の戦争特需による電力需要を賄っていくことになります。この結果、巨大な利益が四水にはもたらされることになります。10年前のほそぼそと火力発電所で電灯をともしていた時代とは大きく変わったのです。

四水本社(多度津)

景山甚右衛門の業績

こうして電力会社の経営権を握り、水力発電に大規模投資して電源開発を進め、四国水力を発展させた景山甚右衛門の業績は高く評価されるようになります。

一方、社長を退いた増田穣三はどうなったのでしょうか?
増田穣三は電灯会社設立の時には、投資を呼びかけて廻るなど中心メンバーでした。それが「資本減少」という形で出資者に大きな損益をあたえる結果になりました。このことを責める人達も現れ、増田穣三への信用は大きく傷きます。これに対して増田穣三は、どんな責任の取り方がをしたのでしょうか? 

増田穣三の責任の取り方.2jpg

讃岐電気社長辞任の後、村長も辞任し、その年の県会選挙にも出馬していません。公的なものから身を退いています。これが彼の責任の取り方だったと私は考えています。これは政治家生命の終わりのように思えます。ところが5年後に、景山甚右衛門引退後の衆議院議員に押されて当選しています。これは堀家虎造や景山甚右衛門の地盤を継ぐという形で実現したものです。ここにはなんらかの密約があった気配がします。


増田穣三は、電車会社の設立にも関わっています。その経緯を見ていくことにします。

讃岐電気軌道設立趣意書
讃岐電気軌道株式会社の設立趣意書
①彼が設立したのが讃岐電気軌道株式会社です。耳慣れない会社名ですが、後の琴平参宮電鉄(ことさん)のことです。琴平から坂出、多度津を結ぶチンチン電車でした。営業申請したときの社名はここにあるように「讃岐電気軌道株式会社」で、明治37年(1904)のことです。これは、増田穣三が電力会社の社長を辞任する2年前のことになります。電力会社として、電力需要先を作り出すこと、沿線沿いの電力供給権を手に入れるという経営戦略があったようです。

讃岐電気軌道 増田穣三

上図で線路が書き込まれているのが讃岐鉄道(現JR路線)です。多度津から西の予讃線は未着工で多度津駅が港の側にあります。今の多度津駅の位置ではありません。朱色が電車会社の予定コースです。坂出から宇多津・丸亀・善通寺・琴平を結んでいます。気がつくのは、多度津への路線がないことです。この時点では、多度津を飛ばして、丸亀と善通寺を結ぼうとしていたことが分かります。面白いのは、善通寺を一直線に南下するのでなく、わざわざ赤門前にまわりこんでいます。これは11師団や善通寺参拝客の利用をあてこんでいたようです。この電車会社が営業を開始するのは1922年のことになります。設立から開業までに18年の時が流れています。一体何があったのでしょうか?

讃岐電気軌道特許状 発起人
讃岐電気軌道認可特許状
①電気鉄道敷設の「認可特許状」です。
②年紀は明治43(1910)年5月20日の認可になっています。申請から認可までに6年の月日が流れています。増田穣三は1906年に電力会社の社長は辞めています。
③12名の発起人のトップが丸亀の生田さん。2番目が増田家本家で穣三の従兄弟・一良です。
④四条村の東条正平や高篠村の長谷川氏は、先ほど見た西讃電灯の発起人でもありました
⑤5番目に増田穣三の名前が見えます。その後には坂出の塩田王鎌田勝太郎、多度津の景山甚右衛門がいます。
⑥その後に県会のボスであり、衆議院議員でもあった堀家虎造がいます。その下で裏工作を担当していたのが増田穣三でした。いわば、これは中讃の主要な政治家連合という感じがします。ところがこの会社は、その後に次のような奇々怪々な動きを見せます。
認可翌年の明治44年(1911)5月に認可された営業権の譲渡承認書です。

讃岐電気軌道譲渡契約
               讃岐電気軌道特許状の転売承認書
①明治44年2月7日の年号と、総理大臣桂太郎の名があります
②譲渡先は堺市の野田儀一郎ほか大阪の実業家7名の名前が並びます。この結果、創立総会も大阪で行われた上に、本社も大阪市東区に置かれます。株式の第一回払込時に、讃岐の地元株主の株数は全体の二割程度でしかありません。つまり、先に出された開業申請書は、開業する意志がなく営業権を得た会社そのものを「転売」する目論見が最初からあったのではないか考える研究者もいます。その後、営業免許は初代社長才賀藤吉が亡くなると、以下のように権利が転売されます。
A 三重県の竹内文平とその一族
B 高知県の江渕喜三郎
C 広島県桑田公太郎
そして大正6(1917)年に、ようやく事務所が丸亀東浜町に開設され、翌年に本社が丸亀東通町に設置されるという経過をたどります。
讃岐電気軌道経営権をめぐる不可解な動き

実は、同時期にもう一枚の認可状が讃岐電気に内閣総理大臣の桂太郎から出されています。
 
讃岐電気軌道への電力供給権

発起人総代が増田穣三と大塩長平となっています。内容は讃岐電気が電車事業へ電力供給権とその沿線への電力供給を認めるものです。これからは、沿線への電力供給権を得るために電車事業を計画したことがうかがえます。つまり、線路をひく予定はこの時点ではなかったことがうかがえます。そのため電車部門は特許状だけ得て、会社も設立せずに転売した可能性があります。この辺りのことは、今の私にはよく分かりません。しかし、琴電の設立に関して、大西氏の動きを見ると讃岐電気軌道を反面教師にしながら起業計画を考えたことがうかがえます。

最後にJR塩入駅前の増田穣三像をもう一度見ておきます。 

増田穣三の3つの側面

増田穣三には三つの面がありました。仲南町史などでは地元で最初に国会議員となったことに重点が置かれて、他の部分にはあまり触れられていません。起業家として電力や電車産業に関わったことや、前回お話しした未生流華道の家元であったことなどはあまり触れられていません。
この銅像は亡くなる2年前の昭和14年に建てられたことは前回お話しました。ということは、着衣は彼が選んでいたことになります。

増田穣三4
増田穣三(左は原鋳造所で戦後に再建されたもの)
右側は衆議院議員時代のモーニング姿の正装です。政治家なら右の姿を銅像化するのが普通のように思います。しかし、穣三が選んだのは右手に扇子を持った着物姿です。着物を着た銅像というのは、戦前の政治家としては少ないように思います。この銅像を見ていると、増田穣三自身は華道家元としてお墓に入ろうとしていたのではないかと私には思えてきます。政治や経済界で活躍しながらも、晩年は華道や浄瑠璃を窮め、心の平安を得ていたのではないかと私は考えています。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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増田穣三レジメ表紙

今日は増田穣三についてお話しします。
「政治家 + 電力・鉄道の起業家 + 華道家元」でもあった増田穣三をいろいろな面から見ていこうと思います。同時にその背後の明治という時代がどんなものであったのか。かみ砕いて云うと「村にやって明治=近代」というものがどんなものだったのかが見えるような視点で進めていきたいと思っています。よろしくお願いします。
   さて、増田穣三についてご存じの方は? 私も10年ほど前までは何も知りませんでした。忘れ去
られようとしている存在かもしれません。私が増田穣三と出会は、この銅像です。この銅像が今は、どこにあるかご存じですか?

増田穣三 塩入駅前
              増田穣三像 JR塩入駅前の像は2代目
やってきたのは塩入駅です。駅を見守るように立っています。正面から見てみましょう。着流し姿で右手に扇子を持っています。政治家という威圧感やいばった感じがしません。どこか茶道や華道の師匠というのが私の第一印象でした。台座の正面は「増田穣三翁之碑」とあります。代議士という言葉はどこにもありません。台座下の銅板プレートを見ておきます。

増田穣三像の供出と再建
増田穣三像の台座プレート「銅像再建 昭和三十八年」とある
台座プレートには「銅像再建昭和38年3月」とあります。昭和38(1963)年に再建された2代目の銅像であることが分かります。先代に銅像からの流れを確認しておくと、次のようになります。
昭和12年 増田穣三の銅像建立(七箇村役場前 生前建立) 
昭和14年 増田穣三 高松で死去(82歳) 
昭和18年 銅像供出 
昭和38年 銅像再建。
再建時には、町村合併で七箇村役場はなくなっていました。そこで、塩入駅前に再建されたようです。 その時に鋳型は原鋳造に残されていたものが使われます。この銅像は2代目で、最初のものは戦前に役場前に建てられたことを押さえておきます。

増田穣三 碑文一面
             増田穣三像の台座碑文(冒頭部意訳) 
台座を見てみます。周囲3面には、増田穣三の経歴・業績がびっしりと刻まれています。最初の部分を上に意訳しておきます。ここからは次のような事が分かります。
①春日の増田伝次郎の長男。 
②明治維新を10歳で迎えた。
人間は「時代の子」なので、どんな時代に自己形成をしてきたかが大きな意味を持ちます。例えば1945年の敗戦を何歳に迎えたかによって「学徒動員世代」「戦後焼け跡世代」「戦争を知らない子どもたち世代」と価値観や考え方に大きな違いがありました。同じように明治維新を何歳で迎えたかがポイントになります。ちなみに大久保諶之丞は20歳前後、増田穣三や景山甚右衛門は10歳前後です。そのため小学校がまだありません。増田穣三が近代的な学校教育ではなく儒学などの江戸時代の教養の中で育ったことを押さえておきます。
増田穣三が教えを受けた人達を見ておきましょう。
A 日柳三州は燕石の息子 のちに大阪府の教育行政の役人として活躍。
B 黒木啓吾は、吉野の大宮神社の宮司さんで、髙松藩の藩校教授
三人ともに、このあたりでは有名な文人たちです。その下で「和漢の学」をおさめたとあります。私が注目するのは。⑤丹波法橋のもとで華道をならい。池元を継承し、多くの門下生を育てたことです。これについては後で触れるとして、これくらいの予備知識をもってフィールドワークにいきましょう。
まず春日の生家を訪れてみます。

春日神社

塩入駅から県道四号塩入線を塩入温泉方面にのぼっていくと春日神社があります。春日神社は、尾野瀬神社や、福良見集落の白鳥神社、久保集落の久保神社を摂社としていた時期あります。ここからは春日がこのあたりで最も早く開かれた地帯で、七箇村の中心地だったことがうかがえます。さらにのぼっていくと・・・
春日の増田家の本家と分家
増田穣三と増田一良の生家(まんのう町春日)

造田に抜ける農免道路を越えてさらに南下すると田んぼの中に大きな屋敷が2つ見えて来ます。左側が、戦前に長きに渡って七箇村村長や県会議員を努めた増田一良の家で、こちらが本家です。そして右側が、その分家の増田穣三の屋敷で、こちらが分家です。ふたりは従兄弟同士で、年は一回り違いますが兄弟のように仲が良くて、一良はいろいろな面で穣三を助けています。
 増田家は「阿讃の峰を越えてやってきた阿波出身」と言い伝えられています。増田家が阿波との関係が深い浄土真宗興正寺派の有力寺院の財田の法光寺門徒であることも、「阿波出身」を裏付ける材料の1 つです。増田家のルーツを見ておきましょう。

仲南町史には次のように記します。

増田穣三生家と尾野瀬神社

1856年は、増田穣三の生まれる2年前のことになります。曾祖父の増田伝左衛門は、拝殿を寄進するだけの財力をもっていたこと、それが林業によるものだったことを押さえておきます。
現在、増田穣三の家として残っているのは、穣三が本家と同規模で新築したものです。もともとは、塩入街道沿いにあって、穣三が若い頃には呉服商や酒造業も営んでいて、「春日正宗」という日本酒を販売もしていたこと、呉服の仕入れに京都に出向いていたことなどが仲南町史には記されています。
増田一族の系譜を見ておきます。

増田穣三系図2

先ほど見た尾野瀬神社に拝殿を寄進したのが穣三から見て曾祖父の伝左衛門。伝左エ門の子が伝蔵(祖父)になります。伝蔵は4人の男の子がいました。長男の伝四郎が本家(東増田家)、次男が伝次郎(西増田家)、三男が鳶次郎(下増田家)です。しかし、長男には子どもがなかったので、後に末弟の4男伝吾を養子とします。結果的には、四男傳吾が本家を継ぐことになります。
 次に伝蔵の孫たちを見ておきましょう。伝次郎の子が穣三・蔦次郎の子が米三郎、傳吾の子が一郎です。彼らは従兄弟同士で穣三が一番上になります。そして、増田穣三を筆頭に、米三郎・一良が村長・県会議員として活躍するようになります。これを見ると戦前の七箇村長は、第2代村長が譲三、第4・8代が正一 、第6・9代が一良と「春日の増田家3人の従兄弟たち」が、長きにわたってその座を占めていたいたことが分かります。どうしてこんなことができたのでしょうか。
それは後で見ることにして、増田一族の財政基盤を見ておきましょう。

大正初めの仲多度郡長者番付

仲多度郡史に載っている大正初めの仲多度郡の大正時代の長者番付です。
NO1は、多度津の塩田家
NO9が、景山甚右衛門まで、「多度津の七福神」と呼ばれた多度津に資産家がトップテンを占めます。商売だけでなく、この時期になると不在地主として広大な農地を所有していたことが分かります。この人達については、後で触れます。
NO10が金刀比羅宮の宮司の琴丘さんです。以下は、まんのう町の地主だけを拾ってあります。
NO18の三原氏は、大庄屋で三原監督の家です。
NO36が帆山の大西家です。
NO38に増田一良の名前が見えます。これが先ほど見た増田家の本家になります。所有する山林のひろさです。ここからも増田家本家が山林に基盤を置く資産家であったことが裏付けられます。
NO48が三男が分家した下増田家です。
この資産に対して、地租3%がかけられます。仲多度で一番多く税金を払っていたのは塩田家ということになります。ここには増田穣三の家は出てきません。しかし、仲南町史によると酒の鋳造所で独自銘柄の酒を販売していたこと、呉服屋を営んでいて若いときの増田穣三が京都に着物の仕入れに行っていたことなどが書かれているので、手広く商いを行っていたことが分かります。
増田穣三はどんな青年時代を送ったのでしょうか。先ほど見た銅像の台座には「華道の家元を若くして継承した」とありました。

それを裏付ける碑文が宮田の法然堂(西光寺)の境内に立っています。
宮田の法然堂
法然堂(西光寺) まんのう町宮田
法然さんが讃岐に流されたときにここまでやって来たと伝わるので、法然堂と地元では呼ばれています。
園田如松斉の碑文 法然堂
園田如松斉(丹波法橋)の石碑 (まんのう町宮田の法然堂)
その境内にある石碑です。「園田翁之碑」とあります。これが園田如松斉のことです。内容を意訳して見ておきましょう。ここには次のように記されています。
①丹波からやってきた廻国の僧侶(放浪僧)で法然寺に住み着いて再興に尽くしたこと
②晩年は生間の庵で未生流生け花を教えたこと 
③その結果、600人近くの門弟を抱えるようになったこと。
④その高弟が増田穣三で、若くして華道の家元の座を譲られたこと。
明治16年に亡くなっていますから、穣三が26歳の時になります。それから7年後の七回忌の明治23年4月に、この碑は建てられています。裏面を見ておきましょう。

園田如松斉の碑文 裏面 法然堂
園田如松斉(丹波法橋)の石碑裏面

碑文裏側には、建立発起人の名前が並んでいます。その先頭にくるのが増田秋峰(穣三)です。これは穣三が、園田如松斉の後継者であることを裏付けています。穣三の次に田岡泰とあります。この人は穣三の幼なじみで、この年に初代七箇村町長となる人物です。3番目は佐文の法照寺5代住職三好霊順です。以下、細川・泉・近石・山内など、十郷や七箇の有力者の名前が並びます。
わたしが不思議なのは、どうして若い増田穣三が選ばれたかです。
門下にはもっと年長者もいたはずです。しかし、園田如松斉は若い増田穣三を選んだのです。死に際の枕元に増田穣三を呼んで、奥義を伝えたと伝えられます。これは増田穣三の人間的な魅力や人間性を見込んでのことだったのでしょう。それが華道家元として多くの人達と接し、鍛錬する中で磨かれていったとしておきます。若い頃からただの呉服屋や蔵元のお坊ちゃんを越えた存在で、一目置かれていたと私は考えています。 
これは未生流家元の秋峰(増田穣三)が出した免許状です。

増田穣三の華道免許状 尾﨑清甫宛

「当流の口授者なり」とあり、明治24年12月の年季が入っています。穣三28歳の時のものになります。家元になって翌年のものです。伝授者として最後に名前が記される尾﨑伝次は、佐文の住人で、穣三の次の家元となる人物です。また、佐文綾子踊りについての貴重な史料を残した人物でもあります。尾﨑家には未生流の作品が写真として残っています。それを見ておきましょう。
 
未生流の作品 尾﨑清甫
                未生流の作品(尾﨑清甫蔵)
作品を見ると大きな松が一本真ん中に生けられいます。このように大きな作品が特徴だったようです。こんな花材が手に入るのは山村だからの強みでしょう。金毘羅の旅館の依頼で伝次は旅館の玄関をこのような作品で荘厳して好評だったようです。当時は生け花や作法は、裕福な家の男たちの社交場でした。女性が多くなるのは女学校で、茶道や華道が必須科目になって以後のことです。
増田穣三・尾﨑清甫
未生流華道の流れ
 いずれに20代の穣三は未生流一門を束ね、指導していく立場にありました。それが新たな人間関係を結んだり接待術・交流・交渉力などを養うことにつながります。そして後の政治家としての素養ともなったと私は考えています。
園田如松斉の七回忌に追悼碑が建てられた年は、初めて七箇村会が開かれた年でもあります。
増田穣三も田岡泰も議員に共に33歳で選出されています。政治家としてスタートの歳になります。次に、その模様を史料で見ていくことにします。

七箇村村会議事録
七箇村村会議事録 明治23年(まんのう町仲南支所蔵)
増田穣三が法然堂に師匠の石碑を建てた明治23年は、新しい村が生まれ、初めての村の選挙が行われた年でもありました。この史料は仲南支所に残されたい七箇村の村会議事録です。ここに明治23年の年号があります。前年に大日本帝国憲法が施行され、各村々に村議会が開設されることになった年です。右側が香川県知から七箇村村会議長の増田傳吾(増田家の本家)への認可状です。「田岡泰を村長として認可ス」とあります。議長の増田傳吾は、増田家の本家当主で穣三の叔父にあたります。それでは議員や村長がどのように選ばれたのかを見ておきましょう。

明治の村会議員選挙のシステム

①選挙権が与えられたのは、2円の税金納付者です。農民なら2㌶程度の田甫をもっていないと納められません。つまり普通の農民には参政権がありません。②さらに選挙人を差別化します。たくさん税金を納めている選挙人たちを1級、残りを2級に差別化します。その分け方は、納税総額の半分を納めている上位選挙人が議員定数の半分を選出できました。多度津だと上位9人で税金の半分を納めていました。そのため9人で議員の半分を選びます。のこりをその他大勢の2級選挙人が選ぶということになります。そのために大口納税者の増田一族は、親族の近石氏などを含めると過半数の6名を送り込めたのです。そして、村長は議員の互選です。こうして増田一族の中から村長や助役が選ばれます。さらに、村長や助役は名誉職(ボランテア)で、給料が一般職員よりも安かったのでだれでも立候補できるものでもありませんでした。議会録を見ておきましょう。

七箇村村長選出結果報告書
七箇村の村長選挙報告書(明治23年)
県への村長選挙の報告書です。田岡泰11点と増田喜代太郎(穣三)1点とあります。ふたりは幼なじみで同級生で、未生流門下の高弟同士です。年齢は二人ともに33歳です。続いて助役選挙の結果です。ここでも増田穣三は4票を得ています。次期の村長候補であったことがうかがえます。明治維新の面白さは、年寄りが自信を失って道を若い人達に譲ったこと。そのために若い人達によって国造りが担われていくことです。地方議会でも、50・40歳台の人達が道を譲って、30代の若者を村長に選んでいます。
 今までの所を年表で整理して起きます。

増田穣三経歴

①維新に増田穣三13歳・景山甚右衛門16歳、同世代にあたること。近代の学校教育を受けていない世代になること。
②20歳台は酒倉と呉服屋の若旦那、華道の家元
③30代前半からに村会議員
④37歳で助役をしながら、電力会社設立へ
⑤42歳で村長と県会議員を兼職
こうしてみるとつまり、42歳の時には村長と県会議員を兼務し、44歳の時には、電力会社の社長も務めていたことになります。当時の増田穣三が担っていた課題を見ておきましょう。

増田穣三・村長・県会議員・社長

七箇村村長としては、丸亀三好線の開通が大きな課題でした。これは現在の県道4号線で、阿波昼間から男山・東山峠・塩入・切通・琴平までの里道開通です。
明治32(1899)年3月15日の日付の増田穣三宛の書簡が残っています。

11師団からの礼状2増田穣三.jpg2

宛先は七箇村長増田穣三殿で、送り主は善通寺歩兵第二十二旅団長小島政利とあります。内容を見ると
「新練兵場の地ならしすは、目下の急務である。貴村人民の内60名の助力を頂いた結果・・・」スムーズに完成したことに感謝する内容です。練兵場は、現在のこどもと大人の病院と農事試験場に作られましたが、その整地作業に七箇村から60人のボランテイアを出した事への礼状です。日露戦争前に急速に進められた整備に周辺の村々からも奉仕作業が提供されていたことが分かります。

次に県会議員としての働きぶりを見ておきましょう。

増田穣三評
讃岐人物評論の増田穣三評(意訳)
当時の香川県の政治経済面で活躍中の人物を紹介したものです。(読み上げながら下の解釈を同時に行う。)どんな風に表されているのか見ておきましょう。
①夜の金毘羅界隈で名の知れた存在、浄瑠璃がうまい 
②村長兼務で県会議員の参事会員になっている
③調停斡旋役に徹して、
④時には切り崩し工作のために買収工作なども担当し
⑤堀家虎造の下で存在感を見せていること。
また、「香川新報」も「県会議員評判録」では次のように記します。

「議場外では如才ない人で多芸多能。だが、議場では、沈黙しがちな議員のなかでも1、2を争っている」

ここでも議場における寡黙さが強調されています。しかし、明治36年11月に政友会香川支部から多くの議員達が脱会し、香川倶楽部を結成に動いた「政変」の際にも、堀家虎造代議士の下で実働部隊として動いたのは増田穣三や白川友一だったようです。それが「寡黙ながら西讃の頭目」と評されたのでしょう。この「論功行賞」として、翌年の県会議長や景山甚右衛門や堀家虎造引退後の衆議院議員ポストが射程範囲に入ってくるではないかと私は考えています。
 大久保諶之丞のような名言や大言壮語はない。議場では静かなもので、夜の料亭で根回しを充分に積んで周到に進めておくというやり方がうかがえます。その際にお花の師匠としての客あしらい・接待方法は役だったはずです。粋でいなせな姿が見えてきます。
今回は、生育歴とお花の師匠・政治家の側面を紹介しました。次回に実業家としての増田穣三をみていくことにします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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 土讃線が財田駅まで伸びて、まんのう町に汽車が走り始めて今年は百年目になることを以前にお話ししました。電灯が仲南に灯ったのも百年目になります。今回は、その経過を追いかけてみます。
 1904年の日露戦争開戦前に多度津に火力発電所が作られ、11師団のある善通寺や琴平までは電線が伸び電灯が灯るようになります。しかし、それから南のエリアに電線が伸びてくるのは20年後のことになります。第1次世界大戦の「戦争景気」で電力需要は、うなぎ登りに伸びます。この追風を受けて電力会社は、水力発電所の開発と送電網整備を進めます。多度津に拠点を置く四国水力電気(四水)も、吉野川沿いに水力発電所を建設し、高圧鉄塔で讃岐へ電力を引いてくることに成功します。その結果、電力が過剰状態になります。
 ところが四水の営業認可エリアは、琴電の線路の北側までとされていたので、それより南には電柱を建てることができません。そこで四水から電力を買い入れ、地元に供給しようとする人たちが現れます。四水も「余剰電力」が売れるのなら渡りに船です。こうして両者の思惑が一致し、小さな電気事業者がいくつも生まれることになります。
 1921年4月に仲南・財田への電力供給のために設立されたのが塩入水力会社です。
社名だけ見ると、塩入に水力発電所を建設したかの印象を受けますが、そうではありません。全電力を四水から「購入」する目論見でした。この事業を興したのが、春日の増田一良です。

増田穣三評伝 2 まんのう町春日と増田家について : 瀬戸の島から
増田一良 旧七箇村村長 県議

彼は七箇村村長を経て県会議員を務めた人物で、諸事情に精通していました。また、従兄弟には国会議員を引退した増田穣三もいました。穣三は、四水と名前を変える前の電力会社の社長を務めていたこともあります。塩入駅前に銅像が建っている人物です。

増田穣三4
増田穣三(左は銅像)
二人の経験と政治力からすれば、四水と交渉したり、電線網を整備したりすることは決して難しい話ではなかったでしょう。
設立された塩入水力電気株式会社は、多度津に本店を置き、買田に配電所を設けて電力供給を始めます。
それが1923年4月のことでした。今年がちょうど百年前になります。営業エリアは、七箇・十郷・財田・河内(旧山本町)の4ケ村で、電灯数は約千戸でした。 ほとんどの家が電球1個(1ヵ月80銭)の契約で、点灯時間は日没時から日の出までの夜間のみです。ひとつしか電灯はないので、コードを長くして家中に引張り廻します。婚礼や法事など、ひとつで足りないときには、臨時灯をつけてもらいました。中には、二股ソケットで電灯を余分につけたり、契約よりも大きい電球をつけるなどの「盗電」をする者もあったようです。そのため電力会社は、年に何回か、不意うちの盗電検査を夜間に行っています。
 当時は、電気製品がありません。電気は単に照明用だけなので、夜間だけの利用でした。敗戦後にモーターが普及するようになると、財田缶詰会社などの要請で、昼夜の配電がはじまります。それは、昭和21年5月のことでした。汽車が走り、電球が灯り目に見える形で「近代」が姿を見せ始めるのは今から百年前頃になるようです。





塩入駅前の増田穣三像

 コロナで開かれなかった文化財保護協会の総会が3年ぶりに開催されることになりました。その研修行事として、旧仲南町にある3つの銅像を「巡礼」し、郷土の偉人達のことを知るとともに、顕彰しようということになりました。以前に「増田穣三伝」を書いたことがあるので、案内人に指名されました。そこで、レジメ兼資料的なモノを、アップして事前に見てもらおうと思います。見てまわる銅像は、次の順番で3つです。
山下谷次 
戦前の衆議院議員 実業教育の魁として多くの学校設立。 仲南小学校正門前
増田穣三 
戦前の衆議員議員 県道三好丸亀線整備に尽力・華道家元 塩入駅前
③ 二宮忠八 
模型飛行機の飛行実験・飛行神社の建立 樅木峠道の駅    
山下谷次銅像
山下谷次(仲南小学校正門前)
①の 山下谷次の銅像は、仲南小学校体育館前に、登校する生徒達を見守るように立っています。台座には次のように刻まれています。
P1250143
山下谷次銅像の碑文(昭和13年9月時)
昭和11年6月先生逝去ノ後 知友相議リ其偉績ヲ後世二伝へ 英姿ヲ聯仰セントシ追善會経費ノ一部ヲ以テ遺像ヲ鋳造シ寄贈ヲ受ケタリ 依テ村会ノ議決ヲ経テ之レヲ校庭二建設ス
昭和十三年九月  十郷村
意訳変換しておくと
  ①昭和11年6月に山下谷次先生が亡くなり葬儀を終えると、友人や教え子たちが相談して、先生のお姿を後世に伝えようということになった。②そこで集まった資金で遺像を鋳造し十郷村に寄贈した。これを受けて、村会は大口の小学校の校庭に建立することを議決した。
昭和13年9月  十郷村
 裏側面には、1952(昭和27)年に追加された次のような銅板プレートが埋め込まれています。

P1250142
正五位勲四等山下谷次先生ハ我郷ノ人傑ナリ資性温粁謙和事ヲ篤スニ堅忍撓マス常二数歩ヲ時流二先ンス十八才笈ヲ洛ニ負ヒ大久保在我堂先生二師事シテ刻苦年アリ最モ算数二長ス平生幣衣短袴湾輩ノ毀誉ヲ顧ミス学成リテ京華郁文等ノ私学ヲ興シ傍ラ著述二従フ明治三十六年東京商工学校ヲ創メ大イニカヲ実業教育ノ振興二致シ措据経営三十余年早生ノ心血フ澱ク教フ受クル者萬フ超工皆悉ク国家有用ノ材タリ大正十三年以降選ハレテ衆議院議員タルコト五期文政ノ府二参典トシテ献替頗ル多ク昭和三年功ヲ以テ帝綬褒草フ賜フ
昭和十一年六月五日先生逝去ノ後知友及卒業生相諮り其偉業ヲ後世二博へ英姿フ謄仰セントシ昭和十三年九月村会ノ議決ヲ経テ此ノ地二遺像ノ建設ヲナシタリ然ルニ大戦ノ篤政府二収納セラレ遺憾二堪ヘザリシガ今日十七回忌二際シ再知友及卒業生ノ醸金フ得テ錢二英像フ建設ス
昭和二十七年六月五日   十郷村
建設委員長  五所野尾基彦
松園清太郎 門脇正助 真鍋清三郎  有志
香川県三豊郡辻村 原鋳造所謹製
原型師  織田朱越
鋳物司  原磯吉正知
「巡礼」を行う6月25日は、銅像の前で、この顕彰文を読み上げて敬意を表そうと思います。意訳変換しておくと
1952(昭和27)年に追加された碑文(現代訳)
正五位勲四等を受けた③山下谷次先生は、十郷村の出身で、性格は温和で、何かを行うときには辛抱強く諦めずに取組み、常に時代の数歩先を考えていた。④十八才で京都の大久保彦三郎(諶之丞の弟)の設立した尽誠舎で苦学し、特に算数に長じた能力を発揮した。いつもは幣衣短袴姿で、服装には無頓着であった。尽誠舎を卒業した後に、再度上京して京華郁文学校などの創建にかかわった。一方では数学関係の教科書の著述も行った。⑤明治36年には東京商工学校を設立し、実業教育の振興や経営に30校以上かかわった。谷次先生の教えを受けた生徒は、ほとんどが国家有用の人材となった。
 大正13年以降は、⑥衆議院議員を五期務め、実業教育振興のための献策を数多く出した。そのため昭和3年に、その功績を認められて、帝綬褒賞を受けている。
 昭和11年6月5日に先生が亡くなって後に、友人や卒業生が協議して、その業績を後世に伝え、英姿を残そうということになり、昭和13年に銅像を十郷村に寄進した。寄進を受けた十郷村は、昭和13年9月に村会の議決を経て、銅像を建立した。⑦ところが先の大戦に際に、政府に収納されてしまった。銅像がなくなったことを、非常に残念に思っていた教え子達は、17回忌に際して知友や卒業生から資金を募り、銅像を再建することになった。
⑧昭和27年6月5日   十郷村
建設委員長  五所野尾基彦
松園清太郎 門脇正助 真鍋清三郎  有志
⑨香川県三豊郡辻村 原鋳造所謹製
原型師  織田朱越
鋳物司  原磯吉正知
このふたつの碑文からは、次のようなことが分かります。
①1936(昭和11)年6月8日 山下谷次が東京で亡くなった後に、銅像建立計画が具体化
②1938(昭和13)年9月 寄進された銅像を十郷村が村会決議を経て旧大口小学校に建立
③山下谷次は明治5年(1872)2月22日に、十郷村帆山で誕生
④18才で大久保彦三郎(諶之丞の弟)が京都に設立した尽誠舎に入学、その後教員へ
⑤上京し、東京商工学校(現埼玉工業大学)設立など、30以上の実業学校の設立・経営に関与
⑥増田穣三引退後の地盤から衆議院に出馬し、5期務め実業教育関係の法整備などに尽力
⑦1943(昭和18)年5月29日 戦時中の金属供出のため銅像撤去。
⑧1952(昭和27)年6月5日  山下谷次像が、17回忌に旧大口小学校に再建 
⑨銅像製作所は、三豊市山本町辻の原鋳造所。増田穣三像も同じ。
  戦前に建立された銅像は、戦中の金属供出で国に持って行かれたこと、現在の銅像は17回忌に、教え子達が再建したもののようです。

台座の礎石には、下のようなプレートが埋め込まれています。

P1250147
山下谷次銅像移築記念
ここからは、1983(昭和58)年度の仲南中学校の卒業記念事業として、旧大口小学校からここへ移されたことが分かります。今年が移築40周年になるようです。

P1250148
山下谷次銅像台座の石工名

竹林正輝と読めます。地元の追上の石工によって台座は作られています。

山下谷次伝―わが国実業教育の魁 (樹林舎叢書) | 福崎 信行 |本 | 通販 | Amazon

山下谷次については、山脇出身のライターである福崎信行氏が「山下谷次伝 わが国実業教育のさきがけ」を出版していて、まんのう町の図書館にもおさめられています。詳しくは、そちらを御覧下さい。ここでは少年期のことを簡単に記しておきます。

山下谷次の少年時代   「成功は (清香)貧しきにあり 梅の花」
 谷次の立身出世の道を開いた3人の人物に焦点を絞りながら少年時代を見ていくことにします。谷次は帆山の山下重五郎の4男で、6歳の時父を失います。そのため生活に追われ、兄たちは高等小学校にも進めていません。そのような中で、谷次は母の理解で高等小学校に行き、そしてさらに上級学校への進学の道が開けます。
当時、仏教の金毘羅大権現から神道へと様変わりを果たした金毘羅宮は、神道の指導者養成のために明道学校を設立します。旧制中学校に代わるもので、全国から優秀な教師を招いて、鳴り物入りで開学でした。しかも授業料は無料。母が兄たちを説得して、谷次はここに通うことが出来るようになります。もし、この母がいなければ谷次の勉学の道はふさがれ、その後の道は開かれなかったはずです。
 入学することを許された谷次は、帆山から琴平まで毎日歩いて通学します。しかし、設立当初は授業料無料であった授業料が有料化されると、退学を余儀なくされます。そのような中で、明治21年8月に十郷大口の宮西簡易小学校で代用教員として、月給2円で務めることになります。帆山から大口までの通勤の道すがらも本を読み、休日は田んぼの中の藁小屋に入って終日不飲不食で勉強を続けたと自伝には書かれています。しかし、沸き上がる向学心を抑えきれずに蓄えた5ヶ月分の給料10円を懐に入れて、その年の12月31日の朝、家を脱け出します。そして東京で学ぼうと多度津港から神戸を経て上京。しかし、あても伝手もなく支援者もなく、資金はまたたくまに底を突きます。しかし、郷里にも帰れない。神戸まで帰ってきて丁稚として働くことになります。

1大久保諶之丞
大久保彦三郎(左)と大久保諶之丞(右)の兄弟

 行き詰り状態の中にあった谷次を救うのが、財田出身の大久保彦三郎(諶之丞の弟)でした。
彦三郎は京都に尽誠舎を開いたばかりで、それを聞いた谷次が、その門を叩きます。彦三郎は、谷次の能力を見抜いて、生徒として編入させ1年で卒業させます。そして、翌年には教員として迎えます。こうして、学校経営のノウハウを彦三郎から学んで再度上京。私立学校の教員として東京で働くようになります。そのような中で恩師の大久保彦二郎危篤の電報を受けると、職を辞して京都に帰り尽誠舎の幹事兼教師として尽力。彦三郎の讃岐に帰って静養するために尽誠舎が閉じられると、三度目の上京度目の上京を果たします。大久保彦三郎との出会いがなければ、谷次は神戸で丁稚奉公を続け、商売人になっていたかもしれません。そこから脱出の手を差し伸べたのが大久保彦三郎ということになります。
 教員として実力も経歴もつけた谷次は、郁文館中学校の数学担任教師兼庶務係として採用されます。それでも向学心は止まず、夜は東京理科大夜間部に通って勉学につとめ、実力をつけます。そして明治31年には江東学院を創設。以後、30校を越える学校の設立や運営に関与するようになるのです。
学園創立110周年の歩み | 学校法人 智香寺学園 | 埼玉工業大学
山下谷次の設立した東京商工学校(現埼玉工業大学)
  実業教育に関わる内に、国家の手による法整備などの必要性を痛感した谷次は、妻の実家のある千葉県から衆議員に出馬しますが落選。その後、郷里香川県から再出馬し、当選します。その際には、衆議院議員を引いた増田穣三や、その従兄弟で増田本家の総領で県会議員でもあった増田一良の支援があったようです。地元では当選の経緯から「増田穣三の後継者」と目されていたようです。

イメージ 2
増田一良
 増田一良は、大久保彦三郎に師事し、その崇拝者で京都に尽誠舎を設立した際には、それに付いていって京都で学んでいます。その時に、山下谷次が編入してきて、翌年には教員として教えを受けたようです。つまり、山下谷次と増田一良は、先輩後輩の関係でもあり、師弟の関係でもあったことになります。それが増田一良をして、山下谷次の支援をさせることにつながります。もし、増田一良がいなければ、郷里讃岐からの出馬という機会はなかったかもしれません。

山下谷次
山下谷次
それでは山下谷次Q&A
①豊かでない山下家の4男谷次が、どうして上級の学校に進めたのか?(兄三人は尋常小学校卒) 母の理解と金毘羅宮が設立した明倫学校が授業料無料だったこと。
②勉学のために上京した谷次を支えた郷土の先輩とは?
 大久保彦三郎(諶之丞の弟)が京都に設立した尽誠舎が、谷次を迎え入れた。
③妻方の地盤から出馬し落選した衆議院議員。それを支援した郷土の後輩とは?
 京都の尽誠舎のときの後輩にあたる増田一良(いちろ:増田穣三の従兄弟)が選挙地盤を斡旋。

P1250161
山下谷次銅像

これで、仲南小学校にある山下谷次像の「巡礼」は終了。次は、彼の生家を見に行きます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

琴平以南に電灯がついたのは百年前、誰が電気を供給したのか?

今から百年ほど前、第1次世界大戦は日本社会に「戦争景気」をもたらしました。工場ではモーターが動力として導入され、工場電化率は急速に高まります。そして家庭の電灯使用率も好景気を追風に伸びます。この追風を受けて、電力会社は電源の開発と送電網の拡大を積極的に進めます。その結果、電気事業はますます膨大な資本を必要とするようになります。第一次大戦前の大正6年頃までは産業投資額は、鉄道業・銀行業・電気事業の順でしたが,大戦後の大正14年には銀行業を追い抜いてトップに躍り出て、花形産業へ成長していきます。

 増田穣三に代わって景山甚右衛門が率いる四国水力電気は、

積極的な電源開発を進めます。吉野川沿いに水力発電所を建設しするだけでなく、徳島の他社の発電所を吸収合併し、高圧鉄塔網を建設し讃岐へと引いてくることに成功します。その結果、供給に必要な電力量を越える発電能力を持つようになります。余剰電力を背景に高松市などでは、料金値引合戦を展開して競合する高松電灯と激しく市場争いを演じるます。

しかし、目を農村部に向けると様相は変わっていました。

 四水は琴平より南への電柱の架設工事は行わなかったのです。
なぜでしょうか?
それは、設立時に認められていた営業エリアの関係です。
四水の前身である讃岐電灯が認可された営業エリアは、鉄道の沿線沿いで、東は高松、南は琴平まででした。そのため四水は、琴平より南での営業は行えなかったのです。そこで、四水から余剰電力を買い入れ、四水の営業認可外のエリアで電力事業を行おうとする人たちが郡部に現れます。四水も「余剰電力の活用」に困っていましたので、新設される郡部の電力会社に電力を売電供給する道を選びました。こうして、県下には中小の電気事業者が数多く生まれます。この時期に設立された電力会社を営業開始順に表にしてみると、次のようになります。
高松電気軌道 明治45年4月  高松市の一部、三木町の一部
東讃電気軌道 大正 元年9月 
大川電灯   大正 5年3月  大川郡の大内町・津田町・志度町・大川町
岡田電灯   大正 9年    飯山町・琴南町・綾上町
西讃電気   大正11年    多度津町と善通寺市の一部
飯野電灯   大正11年    丸亀市の南部
讃岐電気   大正12年    塩江町
塩入水力電気 大正12年4月  仲南町・財田町の一部
 この内、西讃電気、東讃電気軌道、高松電気軌道は自社の火力発電所をもっていましたがその他の電気事業者は発電所を持たない四国水力電気からの「買電」による営業でした。

 このような動きを当時県会議員を務めていた増田一良は、当然知っていたはずです。電灯の灯っていない琴平以南の十郷・七箇村と財田村に、電気を引くという彼の事業熱が沸いてきたはずです。相談するのは、従兄弟の増田穣三。穣三は当時は代議士を引退し、高松で生活しながらも、春日の家に時折は帰り「華道家元」として門下生達の指導を行っていたはずです。そんな穣三を兄のように慕う一良は、隣の分家に穣三の姿を見つけるとよく訪問しました。ふたりで浄瑠璃や尺八などを楽しむ一方、一良は穣三にいろいろなことを相談した。
 その中に、電気会社創業の話もでてきたはずです。穣三は、かつて四水の前身である讃岐電灯の社長も務め、景山甚右衛門とも旧知の関係でした。話は、とんとん拍子に進んだのではないでしょうか。

  仲南町誌には、この当たりの事情を次のように紹介しています。
大正10年 増田穣三、増田一良たち26名が発起人となり、大阪の電気工業社長藤川清三の協力を得て、塩入水力電気株式会社を設立。当初釜ケ渕に水力発電所を設設する予定で測量にかかった。しかし資金面効率面で難点が多く、やむなく四国水力電気株式会社から受電して、それを配電する方策に転換した。買田に事務所兼受電所を設置。七箇村、十郷村、財田村、河内村を配電区域として工事を進めた。
「資金面効率面で難点が多く、やむなく四国水力電気株式会社から受電して、それを配電する方策に転換」と書かれていますが、すでに四水からの「受電」方式を採用した電気会社がいくつか先行して営業を行っていました。「自前での水力発電所の建設を検討した」というのは、どうも疑問が残ります。
 また、「水力発電所」建設にかかる巨額費用を穣三は、「前讃岐電灯社長」としての経験から熟知していたはずです。当初から「受電」方式でいく事になっていたのではないでしょうか。にもかかわらず社名をあえて、「塩入水力電気株式会社」と名付けているところが「穣三・一良」のコンビらしいところです。

 1923(大正12)4月 七箇・十郷村にはじめて電燈が灯ります。

 設立された塩入水力電気株式会社は、資本金10万円で多度津に本店を置き、四国水力電気より電気を買い入れ、買田に配電所を設けて供給しました。家庭用の夜間電灯用として営業は夜だけです。営業エリアは、当初は七箇・十郷・財田・河内の4ケ村で、総電灯数は約1000燈(大正12年4月24日 香川新報)でした。
 旧仲南町の買田、宮田、追上、大口、後山、帆山、福良見、小池、春日の街道沿いに建てられた幹線電柱沿いの家庭のみへ通電でした。そして財田方面へ電線が架設され、四国新道沿いに財田を経て旧山本町河内まで、伸びていきます。供給ラインを示すと
 買田配電所 → 樅の木峠 → 黒川 → 戸川(ここまでは五㎜銅線)→ 雄子尾 → 久保ノ下 → 宮坂 → 本篠口 → 長野口 → 泉平 → 入樋 → 裏谷 → 河内(六㎜鉄線)へと本線が延びていました。 
これ以外の区域や幹線からの引き込み線が必要な家庭は、第2次追加工事で通電が開始されました。
そして、同年10月には1500灯に増加し、翌年(大正13年)3月末には、約2000燈とその契約数を順調に伸ばしていきます。
  春日の穣三の家は、里道改修で車馬が通行可能になった塩入街道沿いにあり、日本酒「春日正宗」醸造元でもありました。この店舗にも電線が引き込まれ、通電の夜には灯りが点ったことでしょう。電気会社の筆頭株主は増田一良であり、社長も務めました。穣三は点灯式を、どこで迎えたのでしょうか。華やかな通電式典に「前代議士」として出席していたのか、それとも春日の自宅で、電灯が点るのを待ったのでしょうか。
 かつて、助役時代に中讃地区へ電灯を点らせるために電力会社を設立し、有力者に株式購入を求めたこと、社長として営業開始に持ち込んだが利益が上がらず無配当状態が続いたこと、その会社が今では優良企業に成長していること等、穣三の胸にはいろいろな思いが浮かんできたことでしょう。
 あのときの苦労は無駄ではなかった、形はかわれどもこのような形で故郷に電気を灯すことになったと思ったかもしれません 

家庭に灯った電灯は、どんなものだったのでしょうか?

仲南町誌は次のように伝えます。 
ほとんどの家が電球1個(1ヵ月料金80銭)の契約だった。2燈以上の電燈を契約していたのは、学校、役場、駅などの公共建物や大きい商店、工場と、ごく一部の大邸宅だけであった。
 また、点燈時間は日没時から日の出までの夜間のみであった。一個の電燈で照明の需要をみたすために、コードを長くしてあちらこちらへ電球を引張り廻ったものである。婚礼や法事などで特に必要なとぎには、電気会社へ要請して、臨時燈をつけてもらった。二股ソケットで電灯を余分につけたり、10燭光契約で大きい電球をつけるなどの盗電をする者もたまにあったようで、盗電摘発のために年に何回か、不定期に不意うちの盗電検査が夜間突如として襲いきたものであった。
「盗電検査」があったというのがおもしろいです。

 ちなみに1925(大正14)年10月ごろに塩入電気が、四水から受電していた電力は60㌗アワーでした。最初は、電気は単に照明用として夜間だけ利用されていましたが、終戦後に使用の簡便なモーターが普及するようになります。財田缶詰会社などの要請で電気が昼夜とも配電されるようになったのは、戦後の1946(昭和21)年5月でした。この時同時に、塩入地区へも電気が導入されたようです。

 
縁あって郷土から出た戦前の衆議院議員との出会いがあった。
何の知識もない中で、銅像や碑文を訪ね、町誌を読み、関係者から話を聞く機会を頂いた。
その中から、おぼろげながらも次第に増田穣三の姿が見えてくるようになった。法然堂の未生流師匠碑文の裏面のトップに増田穣三の名前を見つけた時は驚いた。
農村歌舞伎の太夫として浄瑠璃を詠い、玄人はだしでであった
塩入線誘致を行い「土讃線のルート決定」に大きな影響を与えたという従来の評価については調べれば調べるほど疑念がわいてきた。今までの増田穣三への評価を貶めることになるのではないか。これでいいのかという迷い。
いいのだ、まんのう町の讃岐山脈のふもとで幕末に生まれた男が、明治・大正と云う時代を郷里の課題に向き合いながらどう生きたのか、それをあるがままに記録することがまんのう町の未来への遺産となるのだと、そんな風に思い直し、行きつ戻りつしながら調べたものを書き並べた。
その「成果」がここにあげたものです。
この「出会い」をいただいたことに感謝

   土讃線開通と増田穣三
「土讃線ルート」の決定には、増田穣三が大きな政治力を発揮したとされている。
その一例として次の新聞記事を見てみよう  
 「四国の群像69 増田穣三 土讃線ルートに政治的手腕」
              (朝日新聞1981年7月19日)
ドドーン、ドン」空に花火がこだまし、芸者の手踊りや花相撲が繰り広げられ、夜のちょうちん行列に琴平の町は三日間にわたる祝賀行事でにぎわった。香川県内の土讃線琴平-讃岐町田間の起工式があった大正9(1920)年4月1日のことだ。当時土讃線のルート決定に際し、以下の3案を巡り激しい陳情合戦が展開された。
1 高松から清水越えで徳島県脇町ー池田に至るルート。
2 西讃の観音寺ー池田間。
3 中間の琴平ー池田の現路線
それぞれの関係町村は地元選出国会議員を先頭に徳島県側の町村と連携し、鉄道院・国会へあの手この手の猛運動を続けた。それが現在の路線に決まった裏に。仲南町出身の増田穣三の政治的手腕が大きく影響した。
 中略  
増田穣三は、香川県議になって住居を高松市に移し、第十三代県議会議長を務める。次いで衆院議員へと、舞台が大きくなるにつれ、策士ぶりを発揮した。土讃線のルート決定に先立つ明治32,3年ごろ、徳島ー池田間の軽便鉄道敷設権を、徳島県出身の内務大臣らが取得した。これが実現すれぱ、香川県からの土讃線ルートも大きな影響を受けた。そこで、善通寺にあった旧陸軍十一師団の乃木希典師団長に「徳島ー池田軽便鉄道敷設に異議を唱えて欲しい」と申し入れた。
 土讃線が琴平ー池田ルートに決まった理由の一つに善通寺第十一師団と金刀比羅の存在が挙げられる。それだけに、軍部の意向をくんだ増田穣三の政治判断がルート決定に大きな影響を与えた。
 と、当時の路線決定の経緯を紹介した上で「現路線に決まった裏に、増田穣三の政治的手腕が大きく影響」と評価している。

 この記事の下敷きになっているのが従兄弟の増田一良(いちろ)によって語られた回顧談である。

 増田一良は、譲三の15歳年下の従兄弟になる。
二人は旧仲南町春日出身で、一良が増田家本家、穣三はその分家の跡継ぎの関係だ。一良は譲三の後ろ姿を追いかけるように、七箇村村会議員を経て村長・県会議員へと進み、地域の発展に貢献した。さらに譲三が師範であった未生流の活花や浄瑠璃の弟子でもあり、ふたりのつながりは、地縁・血縁的なもの以上に深いものがあった。
 その増田一良が、晩年に増田穣三について語った回顧談が仲南町史に収められている。土讃線誘致に関する部分を見てみよう。  

「塩入駅名の弁」(仲南町史1008P)で、増田一良は次のように述べている

土讃鉄道の建設については激烈なる競争運動あり。当時の記憶をたどり述べんと思う。
此の鉄道には3線の候補ありて、東讃方面は高松から清水峠を経て徳島県脇町に出て西、池田に至る線、仲讃としては多度津琴平間既成鉄道あるを以て琴平町を起点とて塩入越を経て池田町に至る線、又、西讃に於ては観音寺町より曼陀越を経て池田町に至る線にして、何れも帝国議会及鉄道院に請願陳情、国会議員間も亦、百方手を尽したるものにして東讃は高松選出田中定吉代議士を基とし、東讃選出代議士外有志、中讃にありては仲多度郡選出増田穣三代議士を首とし綾歌郡選出大林森次郎代議士及丸亀市選出加治寿衛吉代議士外有志、西讃に於ては三豊郡選出松田三徳代議士を首として、元代議士高橋松斉氏、観吉寺町長西山影氏外有志等、特に松田氏の如き所属政党を脱し鉄道院総裁後勝新平伯の傘下に走るなど、激烈な誘致合戦の末に、現路線に決定した。
 この回顧談にはいくつかの疑問点が出てくる。それを洗い出してみよう。

 第一に「土讃線」誘致合戦が行われた時期はいつなのか

1889 明治22年5月 讃岐鉄道琴平~多度津開通 
1890 高松・阿波脇町間の鉄道建設計画で実地調査の結果、
   脇町線建設は困難との調査報告が柴原知事より提出(讃岐日報) 
1893 鉄道院が線路調査に際して、高松-箸蔵間は猪鼻線として計上
1912 第11回衆議院議員選挙執行.増田穣三初当選 
1914 徳島線が延長し池田まで開通し、阿波池田駅設置。
12月二個師団増設案成立のために大浦内相が政友会議員に買収工作実施
1915 3月 第12回衆議院議員総選挙で大浦内相による選挙干渉激化
    白川友一・増田穣三共に当選後に大浦事件に関わり逮捕・拘束
    9月 第9回県会議員選挙実施 増田一良 次点で落選   
1916 1月 白川友一衆議院議員の当選無効確定し補充選挙実施
1917 12月 塩入線鉄道期成同盟会をつくり貴衆両院へ請願書提出
 塩入線の速成を貴衆両院へ請願書提出することとなり塩入線鉄道期成同盟会をつくり会長に堀家嘉道副会長に沢原頁岩を選定した。(町史)
1919 3月 琴平-土佐山田間が鉄道敷設法第一期線に編入=路線決定
   9月 県会議員選挙で増田一良初当選
1920 1月 実測開始、豊永を境とし、土讃北線は多度津建設事務所担当
  4月1日 土讃鉄道工事起工祝賀会開催(琴平)

この年表からは
1917年に塩入線鉄道期成同盟会設立、
1919年には路線決定、
1920年工事開始という動きが分かる。すると誘致合戦が行われたのは1917年前後から本格的に動き始めたようだ。  

 まず路線決定を行う鉄道省の思惑を見ていきたい。

 鉄道省は琴平起点の土讃線ルート(財田猪ノ鼻線)を早い時期から本命と考えていた。その背景には、
第1に、1889年に鉄道が琴平まで延びていること。
第2に、第11師団が善通寺に置かれていること。
第3に、池田ー財田間がもっとも山間部が短く、かつトンネルの長さも短くてすむこと
第4に、四国新道沿いであり工事にも利便性が高いこと
など、外のルートにくらべて優位性が高く早い段階からこのルートを「既定路線」として考えていたようだ。それを裏付ける記述がまんのう町周辺の町誌にいくつか見いだせる。
例えば財田町誌には、琴平まで鉄道が開通した段階で「四国新道」沿いに池田に通じる「猪ノ鼻ルート」建設が当然とされており、そのための誘致運動を行った記録はない。増田穣三や一良が行ったという塩入ルートに関しては「そのような誘致運動があったことは、仲南町誌を見て知った」と記されている。
 また三好町誌や池田町誌にも1914年に開通した徳島線が、池田で土讃線と結ばれることは当然と考えられていたことが記されている。三好側が七箇村塩入と箸蔵を結ぶ塩入ルート建設運動を働きかけた見当たらない。

 仲多度に設立されたという「塩入線鉄道期成同盟会」も、

「塩入線」と名付けた運動団体の存在を示す当時の新聞記事や資料などから私は見つけ出すことが出来ない。その名前があるのは仲南町誌のみである。鉄道促進運動を担った仲多度地区の議員達は「猪ノ鼻ルート」を念頭に置いて運動を行っていたように見える。誘致運動で「塩入ルート」を考えていたのはごく一部だったのではないか。 

最後に、誘致運動が佳境であった1917年前後の増田穣三の置かれていた政治的な状況を見ておこう。

譲三は、前々年に衆議院議員総選挙後の大浦事件に関わり白川友一等と共に逮捕・拘束されている。白川友一は議員を失職。その後、穣三は不起訴には終わったが同僚の政友会の議員を政府資金を用いて買収を行ったという事実は残った。政友会の同僚議員の目は冷たかった。このような中で表立った政治活動を行うことは難しく「政治的謹慎状態」が続いていた。そして、次期総選挙には出馬せずに政界からの引退という道を選ぶことになる。このような中で「塩入線誘致運動」の先頭に立って旗振りを行う状況にはなかったと思われる。
 つまり「塩入線誘致合戦」に増田穣三が積極的に動ける状態ではなかった。一良も1915年の県議会初挑戦では落選しており、誘致運動が展開された時期には県議会議員ではない。
 以上のような背景を考慮に入れると「塩入線鉄道期成同盟会」→ 増田一良 → 増田穣三 を通じて誘致運動が増田穣三を中心に推し進められたという状況は考えにくい。  

増田穣三が乃木希典に土讃線建設について要望陳情を行ったという話について

  乃木希典は1889年(明治32)年に善通寺第11師団長に就任。一方、増田穣三は3月に県会議員に初当選し、4月に七箇村長にも就任している。穣三は七箇村村長として、設置が決まったばかりの善通寺第十一師団の練兵場建設に「援助隊」募り派遣した。その助力に対して師団より村長宛の感謝状をもらっている。各施設の建設が進む中で、師団長として陸軍中将乃木希典が任地に善通寺に赴任する。この時期、穣三は県議会の副議長や参事議員を務めており、公的な行事で乃木師団長と出会うこともあり顔見知りとなっていたことは考えられる。
 土讃線に関する陳情が行われたとすればこの時期であるが、前述したようにこれは土讃線誘致運動の時期よりも十数年早い段階のことである。土讃線誘致にからんで乃木希典に陳情を行ったということないようである。しかも、陳情を行ったのは土讃線のことではなく、徳島線に関することである。   
増田一良が回顧している徳島ー池田軽便鉄道敷設権について見ておきたい。
此時最も難問題として起たのは徳島県出身の元内務大臣、芳川顕正伯の主唱によって徳島、池田間に軽便鉄道敷設権が認可されたことだ。これ実現すれば香川県よりの三線ともその影が薄くなり大いなる影響を及ぼすことが考えられる。そのためこれを打破する事が最も重要となった。しかし貴衆両院通過成立したものを取消す事は勅命によるか参謀本部の異議による外道なく窮余の考として堀家、三谷、松浦、増田等共に第十一師団を訪つれ参謀長に面談協力を求めた。しかし、乃木閣下は軍人が政治に容喙するは良くないとの信念を待ち、「吾々は何共申上兼ぬるか資格を離れ個人としては高知との短距離の結び付は固より望む所である」との事にて期待した回答を得ることは出来なかった。また、これも増田代議士へ報告せり。
 其後伝聞する所によれば乃木中将上京となり参謀本部の抗議によりたる者か徳島池田間軽便鉄道は実現を見す沙汰止となれり。
  一良の回顧談の「此時最も難問題として起た・・・」の部分は「塩入線誘致運動」に続けて載せられている。最後の部分が「また、これも増田代議士へ報告せり。」で終わっているために塩入線誘致の際のことと誤解されやすいが、これは乃木師団長在任中のことであり、誘致運動佳境の十数年前のエピソードである。
 しかも、内容は徳島線の軽便鉄道敷設権認可に関わることである。その後、徳島線は1914年に池田まで開通しており、土讃線の路線決定に影響を及ぼす要因とはなっていない。あるとすれば池田で土讃線と結ばれるというのが鉄道院の既定路線であったということである。
 長々と述べてきたが以上から推察すると、「増田穣三が土讃線のルート決定に大きな政治力を発揮した」「塩入線誘致運動を進めた」ということを裏付ける史料は、穣三の従兄弟の増田一良が「仲南町誌」作成の際に語ったことに基づくものに限られるようだ。「塩入ルート」が、路線検討の対象となったかどうかは、今後の検討課題としたい。  

  一良は自分の回顧を次のように閉めている

欺の如くして獲得したるものにして塩入と云う名の広く知れ渡りたる関係上、福良見、小池、春日の三部落を隔たて一里以上離れたる十郷村帆山に設置されたる駅の名を塩入と名づけたるは増田穣三の銅像を駅構内に設置と共に意義を得たるものにして適当なる所置と信す。
 尚ほ塩入線の決定に附ては第十一師団の軍事上の観点と金毘羅宮の所在地琴平町を起点とする所に潜在の大なる力のありたる事を認むべきと思ふ茲に其経過関係の概要を述べて参考に資す。                     増田一良回顧談 昭和四十年六月

 増田穣三の従兄弟・増田一良について  

 増田穣三と深く関わる人物として挙げたい人物がもうひとりいる。増田一良(いちろ)である。
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一良は譲三より14歳年下で、増田家の本家と分家で隣同士という地縁血縁的に非常に近い関係になる。一良は、譲三の後ろ姿を見ながら育ち、成長につれて「兄と弟」のような強い絆で結ばれていく。
 例えば、若き時代の二人が熱中したものに浄瑠璃がある。当時、塩入の山戸神社大祭には阿波から人形浄瑠璃がやって来て、「鎌倉三代記」とか、「義経千本桜」などを上演していた。阿波は人形浄瑠璃が盛んで、塩入には三好郡昼間の「上村芳太夫座」と「本家阿波源之蒸座」がやって来ていた。
 その影響を受けて、春日を中心に浄瑠璃が「寄せ芝居」として流行していく。素人が集まって、農閑期に稽古をして、衣裳などは借りてきて、祭の晩や秋の取入れの終わった頃に上演する。そして見物人からの「花」(祝儀)をもらって費用にあてる。ちなみに大正15年ごろの花代は、50銭程度だったという。この寄せ芝居で若き時代の譲三や一良は、浄瑠璃を詠って好評を博していた。県会議員時代には、この時の「成果」が酒の席などでは披露され「玄人はだし」と評されている。
 仲南町誌には、次のような記述が載せられている。
明治中頃、春日地区で、増田和吉を中心に、和泉和三郎・山内民次・林浪次・大西真一・森藤茂次・近石直太(愛明と改名)・森藤金平・太保の太窪類市・西森律次たち、夜間増田和吉方に集合して歌舞伎芝居の練習に励んだ。ひとわたり習熟した後は、増田穣三・増田和吉・和泉広次・近石清平・大西又四郎たちの浄瑠璃に合わせて、地区内や近在で寄せ芝居を上演披露し、好評を得ていた。
 明治43年ごろには、淡路島から太楽の師匠を招いて本格的練習にはいり、和泉兼一・西岡藤吉・平井栄一・大西・近石段一・大西修三・楠原伊惣太・山内熊本・太山一・近藤和三郎・宇野清一・森藤太次・和泉重一・増田和三郎たちが、劇団「菊月団」を組織。増田一良・大西真一・近石直太(愛明)・本目の山下楳太たちの浄瑠璃と本目近石周次の三味線に合わせて、歌舞伎芝居を上演した。当地はもちろん、財田黒川・財田の宝光寺・財田中・吉野・長炭・岡田村から、遠く徳島県下へも招かれていた。
 その出し物は、「太閤記十役目」「傾城阿波の鳴門」「忠臣蔵七役目」「幡州肌屋敷」「仙台萩・政岡忠義の役」「伊賀越道中沼津屋形の役」などを上演して好評を博していた。                                                              (仲南町誌617P)
  若き時代の二人が浄瑠璃を共に詠い、村の人々共に演じ、娯楽を提供していた姿が伝わってくる。これ以外にも、未生流の活花や書道も一良は、譲三を師としている。

 その一良に大きな影響を与えた師が大久保彦三郎である。

 大久保彦三郎は、安政6年(1859年)生で、増田穣三より1歳年下になる。讃岐国三野郡財田上村戸川に富農階層の次男として生まれた。現在の尽誠学園の創設者でもある。兄は「四国新道」を作った大久保諶之丞になる。
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まず大久保彦三郎が歩んだ「学びの道」をたどってみたい。
 明治初年期は、尋常小学校が整備されていない。そのため江戸時代と同じように寺小屋で読み書きを学んだ後、富裕層クラスの師弟は周辺の知識人の塾の門を叩く。この辺りは、増田穣三が琴平の日柳三舟のもとに通ったのと同じだ。
 大久保彦三郎は、十郷村山脇の香川甚平の塾まで歩いて通った。
香川甚平は、藩政改革に大きな実績を上げて著名になっていた備中の儒者山田方谷の徳業を称えていたという。さらに、明治9年(1876)9月からは、高松の黒本茂矩の下で漢学及び国学を学ぶ。黒本茂矩は、古野村(現まんのう町)大宮神社の社家に生れ、明治2年33歳で高松藩校講道館皇学寮教授になり、田村神社の禰宜をしながら高松で私塾を開いていた。 明治初期の讃岐における著名人である。ちなみに増田穣三と幼なじみで初代七箇村長を務めた田岡泰も、ここの門下生であった。田岡泰は、この時期に整備されていく師範学校に進んだが、彦三郎は、儒学・国学・仏教方面をより深く学ぶため京都へ上り、さらに東京で終生の師三島中洲出会い漢学等を修める。しかし、学半ばにして病にかかり保養のため郷里財田村に帰郷する。当時、兄の諶之丞は戸長として、財田村のために尽力していた最中だ。その姿を見ながら彼はかたわら塾を開く。 
 病が一服した明治17(1884)年3月1日には、正式に「忠誠塾」を開設する。
設立目的を述べた「教旨」によると、「国家有用の真士」を作ることであり、そのための手段は主として「儒教・漢学を通じての忠誠心涵養」に求めるとある。対象は小学校を卒業上級志向者で、中学校の代用学校の役割をもったものであったようだ。 
開塾されたばかりの「忠誠舎」の門を、叩いたのが増田一良である。
 彦三郎25歳、一良11歳の師弟の出会いとなる。
忠誠舎は、漢文だけではなく、新聞体、西洋訳書、新著書その他「有益書」を選択して教えたり、体操、詩歌吟舞、学術演説、討論等も教授する新しいタイプの教育機関を目指した。
 明治20年には彦三郎は「忠誠塾」の発展を願い、拠点を京都に移し「尽誠舎」と改名する。忠誠塾の一期生である一良も、これを追いかけて京都に上り、尽誠舎に入学する。師である彦三郎を慕い仰ぐ気持ちが伝わってくる。こうして、一良は忠誠塾の一期生、尽誠舎でも第一期生としての誇りを持つと同時に、大久保彦三郎の薫陶を深く受ける。母校に対する愛情は深く、終生変わらぬものがあったようだ。
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尽誠の同窓会にて 中央に座るのが増田一良 
 一良に遅れて2年後(M22年)に入学してくるのが山下谷次である。
 山下谷次は、まんのう町帆山出身で、後に「実業教育の魁」として衆議院議員に当選し活躍する。この時期、彼は同郷出身者を訪ね、勉学の熱意を訴え支援を仰いだがかなわず、貧困の中にあった。谷次を援助したのが彦三郎である。彦三郎は、尽誠舎への入学を認めると共に、舎内への寄宿を許した。そして、谷次に学力が充分備わっているのを確かめると、半年で卒業させ、さらに大抜擢し学舎の幹事兼講師として採用している。 
この時期は、一良の京都遊学時代と重なるようである。
ふたりは京都尽誠舎で、「師弟の関係」にあった可能性がある。
後に谷次は、香川選挙区から衆議院議員に立候補し当選する。
その原動力の一つに、現職の県会議員増田一良や、元衆議院議員の増田穣三など「増田家」に連なる人々の支援があったのではないだろうか。       参考資料 福崎信行「わが国実業教育の魁 山下谷次伝」
 
 尽誠舎卒業後の一良の足取りは、上京し駒場農林学校に進学するまではたどれるが、そこから先が今のところ分からない。資料がそろっていないのだ。今後の課題としたい。 

一良の政治家としてのスタート

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一良は明治35年に29歳で七筒村会議員に当選する。これが政治家としてのスタートになる。当時、七箇村長は増田穣三である。譲三は県会副議長も兼務しており、明治34年からは多度津に設立されていた「讃岐電気株式会社」の社長も務めていた。そのため多忙で高松に家を借り、春日の本宅を空けることが多くなっていた。そのような中で、譲三が帰宅すると一良は隣の譲三宅を訪ね、いろいろな情報のやりとりを行う一方、二人で浄瑠璃や活花を楽しむ姿がよく見られたという。
 譲三が衆議院議員になり上京することが多くなると、その「国家老」的役割を果たしていたのは一良であったと思われる。例えば、土讃線誘致合戦の一コマについて一良は、次のような回顧を行っている。 
1917(大正6年) 12月に「塩入線鉄道期成同盟会」をつくり貴衆両院へ請願書提出した。仲多度多度郡に於ては郡会議員を実業会員として発足し、徳島県関係方面との連絡を取る必要ありとして会長堀家嘉造、副会長三谷九八、松浦英治、重田熊次郎、増田一良(本人)と出発の際、加治寿衛吉氏加わり一行六名塩入越を為し徳島県昼間村に至り村長に面談。共に足代村長を訪い相携えて箸蔵寺に至る。住職大いに悦び昼食の饗応を受け小憩、此の寺を辞し吉野川を渡り、池田町に至り嶋田町長と会談を為し、徳島県諸氏と別れ猪の鼻峠を越え琴平町に帰着、夕食を共にし別れる。
 此の旨、在京増田代議士に之通告す。
  土讃線の琴平ー池田ルート誘致のために徳島への誘致工作を、郡議会議員が行った際のことである。わずか一日で、塩入から東山峠を越え昼間ー箸蔵寺ー池田と訪問し、夕方には琴平に帰っている。百年前の人たちの健脚ぶりに驚かされる。
 同時に「此の旨、在京、増田(譲三)代議士に之通告する」とし、頻繁な連絡が取られていたことが推察される。
 また情報を分析して有利と思われる新規事業には二人で共に投資を度々行っている。その幾つかをあげてみると
1903(M36)年 八重山銀行設立(黒川橋東詰)社長に一郎就任。
1911年 讃岐電気軌道株式会社のが設立発起人に、増田一良・増田穣三・長谷川忠恕・景山甚右衛門・掘家虎造の名前がる。
1921年 七箇・十郷村に初めて電力を供給した塩入水力電気株式会設立社設立も、一良・譲三が中心となって行っている。 
このようにふたりは、政治的にも経済的にも緊密な関係を維持しつつ諸事に対応していたことが窺える。

村議から県会議員、そして村長へ

一良は明治35年(1902)に29歳で七筒村会議員となり、翌年には、仲多度郡会議員も兼務する。しかし、村長職には年上の従兄弟増田正一が就任しており、一良が村長に就くのはずっと後になる。
 そのためか、譲三が衆議院議員に転出した後の県議会への出馬の機会を伺う。最初の挑戦は、大正4年9月であった。この時は、5月の衆議院選挙で増田穣三が再選されるも、その直後に大浦事件が発覚し、譲三が刑事訴追されるという逆境の中での選挙となり、結果は次点であった。
 2回目は、4年後の大正8年(1919)9月である。この時は「譲三の後継者」と、土讃線誘致運動の中心人物としての実績を前面に出し、初当選を果たす。

 一良は、雅号を春峰と称し、琴古流尺八は悟竹と号して、譲三と共に浄瑠璃は玄人の域に達していた。「春と秋」の二人で浄瑠璃を楽しむ姿が、譲三の晩年にもよく見られたという。
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春日の一良の家の客間には「老木の木」と題された文書と写真が掲げられている。

昭和39年一良が91歳の時に書き残したものである。
全文を紹介する。 
 老木の木       昭和39年6月増田一良撰
吾が邸内の北隅に数百年を経たると思われる榎木の老木あり。周囲2丈余。其根東西に張り出すこと四間余。緑濃く繁茂空を掩い樹勢旺盛にして其枝広く四方に延び、特に北方の枝先地に垂れ、吾幼少の頃、枝先より登り遊びたることあり。
 6年前その枝が倒れ折れ垣塀二間を破壊し、裏の畑地に横たわる。その木にて基盤3面を取り、余りは木を挽いて板と為す。其後南方に出たる枝折れ、続いて北の方、東の方の枝も折れ、西向の枝のみ生残り居りしが。昭和38年風も無きに東方の折れ株が朽ち落ちると間もなく生き残りの西方の枝(周囲1丈一寸)の付け根より6丈ほどの處にて西北と西南とに分岐し居りしが大音響と共に付け根の處より裂け折れ、西南の枝は向こうの部屋の屋根の棟木と母屋を折り枝先向庭の地に付き、西方の枝は垣塀の屋根を壊し藪際の畑地にその枝先を付け茲に長く家の目標となりし老木も遂に其終わりとなる。
付記
  往年増田穣三氏若かりし時、呉服商を営み居りしを以てわが妹の婚衣買い求め為、呉服仕込みの京都行に同行。帰途穣三氏が曾て師事したる大阪の日柳三船先生訪問にも同行。三船先生は元那珂郡榎井村の出身にして維新の際勤王家として素名を知られたる日柳燕石先生の男にして大阪府参事官をつとめ大阪に住せり。種々談を重ねるうち先生曾て吾家に来りしことあり。巨木榎に及び其時古翠軒という家の号を書き与えらる。今吾居室に掲げある大きな額が夫れである。
 一良は戦後、村長職を退いた後も春日の地に留まり、晩年は県下最年長者として悠々自適の老後を送り104歳の長寿を全うした。

 
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前川知事が県下最長寿者・増田一良を訪問

 増田一良の年譜

1858 安政5年    増田譲三と田岡泰が七箇村春日に生る。
1873 明治6年  7月22日 増田一良(いちろ)生  
1884 明治17年3月 大久保彦三郎により財田上ノ村に開設されたばかりの忠誠塾入塾。
1887 明治20年大久保彦三郎が京都に開設した尽誠舎入学     
   その後、駒場農林学校に進学。(卒業後の経歴が不明)
1890 明治23年6月 七箇村役場(旧東小学校)開庁
1897 明治30年 春日地区で、増田穣三等の浄瑠璃に合わせて寄せ芝居を上演披露し好評。
1899 明治32年3月 第5回県会議員 増田穣三が初当選(41歳)
        4月 増田穣三第二代七箇村長に就任(41歳)
1902 明治35年3月 増田一良(29歳)が七筒村会議員となる。
           以後20年間村議を務める。
1903 明治36年9月 増田一良、仲多度郡会議員に当選。
           以後大正8年まで連続四期当選
1903 明治36年 黒川橋の東に八重山銀行設立。社長に増田一郎就任。副社長:大西豊照(帆山)ほか七名の重役格と業務執行者森川直太郎によって営業
1906 明治39年3月 増田穣三 七箇村村長退任 
          9月 第3回県会議員選挙に増田穣三出馬せず
1911 明治44年9月 讃岐電気軌道株式会社が設立。
    発起人に、仲多度郡の増田一良・増田穣三・長谷川忠恕・景山甚右衛門・掘家虎造の名前あり。
                3月 増田正一が七箇村村議に選出され、助役に就任。
1912 明治45年5月 第11回衆議院議員選挙で増田穣三初当選。
1914 大正3年 7月 七箇村長に増田正一就任(譲三・一良の従兄弟)
1915 大正4年 3月衆議院議員総選挙で白川友一と共に増田穣三再選。
   5月 白川友一代議員と大浦内相が収賄で高松高裁へ告訴され「大浦事件」へ
   9月 第9回県会議員選挙に増田一良初出馬するも428票で次点。1917 大正6年12月 塩入線鉄道速成会総会で土讃線の速成を貴衆両院へ請願書提出。
1919 大正8年 9月 県会議員選挙で増田一良初当選(46歳)
1920 大正9年 4月 土讃鉄道工事起工祝賀会開催(琴平)
1921 大正10年 増田一良 穣三らと共に塩入水力電気株式会社設立。
1923 大正12年5月 土讃線琴平-讃岐財田間が開通 琴平駅が移転。
1924 大正13年5月 山下谷次 香川選挙区より衆議院議員初当選
1926 大正15年   七箇村会議員選挙実施 増田一良は2位当選
1934 昭和9年 9月 増田一良 第6代七箇村長就任
1935 昭和10年11月 土讃線全面開通(三縄~豊永間が開業)
1937 昭和12年増田一良村長の呼びかけで生前に増田穣三の銅像建立
1938 昭和13年   山下谷次の銅像建立(十郷村会の決議で大口に)
1939 昭和14年2月 増田穣三 高松で死去(82) 七箇村村葬。
1943 昭和18年2月 増田一良が第9代目村長に再度就任。
1963 昭和38年3月 増田穣三の銅像が塩入駅前に再建される。
1977 昭和52年9月12日 増田一良104歳で永眠。


春日の西方を流れ下る財田川。

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春光寺より南を望む  はるかに阿讃の山脈が連なる

香川県内の河川は北流するのがほとんどなのに、財田川は観音寺に向けて西流する。源流の東山峠から春日までは北流している。しかし、春日にさしかかると大きく屈曲し、流れを西に変える。
この屈曲は「河川争奪」によるものだと地質学者は言う。
耳慣れない言葉だ。
仲南町誌(43P)にはこのように書かれている。 
財田川上流部は、以前は福良見の谷を通って丸亀平野の方向へ流れていた(金倉川上流)ものを洪積世末期(約2~3万年前)財田川下流部の河谷を流れていた川が頭部侵食で上流側へ掘り進み河道を争奪して現在の河系を形成したところである。争奪以前の河川堆積物がこの付近の財田川河谷の谷壁に付着して残存している。特に久保付近の河谷の南岸には比高三31mの段丘崖の好露出があり、この河崖は河川堆積物の成層状態を明瞭に示し、地形発達史研究上貴重なもので県内ではほかに例を見ない。
つまり3万年前は、春日より上流の部分は金倉川の上流部であった。それを「河川争奪」で財田川が奪ったというのだ。河の世界にも「争奪戦」があるようだ。
 地表面の水は奪われても、地下水脈は今まで通り北流する。
そのため春日地区は伏流水が豊富だ。これは初期稲作農耕には適した条件である。その適性を活かして、この地は山間部の中では早くから「開発」が始まった。そして、この春日の地を中心に周辺集落が開かれていったようである。

 それをうかがい知ることが出来るのが春日神社である。

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 平安期に藤原氏の荘園となった小松庄(櫛梨を除く琴平町全域)は、藤原氏の氏神である春日神社を勧進し、それ中心に発展していく。この地は小松庄の出作地(荘園の近くの開墾地)として経営され、その後、藤原氏の荘園になったのではないか。ここにも春日神社が勧進される。
していつ頃からか、この地は、春日と呼ばれるようになる。
ことひら町誌や満濃町誌は、以上のように推論している。 
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「朝倉家神社御改牒控」(明治10年)によると、春日神社は数多くの境外末社を持っていた。

その中には、雨乞いの神様として信仰を集めていた尾瀬神社や隣接する福良見集落の白鳥神社、久保集落の久保神社が含まれている。
 このことからも周辺集落に対して、春日が伝統的に優位的立場にあったことがうかがい知れる。
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 ちなみに増田穣三は、県会議員時代に春日神社の郷社格上げ運動を行った。しかし、社殿が嘉永元年(1848年7月)火災にあっており、資料を失っていたため実現に至らなかったようである。
 増田穣三の名のある灯籠や玉垣を探したが、見つけることはできなかった。この鎮守の森は、遊び場であり、学び場として幼いときからの穣三を育んだ場所であったのかもしれない。

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春日の信号のある交差点からさらに塩入温泉方面に向かって南下する

と、二軒の旧家が耕地整理の済んだ田園の中に並んでいる。
これが増田家の本家と分家である。
 この左側の本家が村長や県会議員を努めた増田一良宅、
右側が衆議院議員の増田穣三の旧宅である。
増田家は「阿讃の峰を越えてやってきた阿波出身」と言い伝えられている。
増田家が財田にある阿波との関係が深い浄土真宗興正寺派の有力寺院の門徒であることも、「徳島
「阿波出身」を裏付ける材料の1 つかもしれない。
 
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 増田家を系図で見てみよう

祖父 伝蔵には4人の子どもがいた。
①長男 伝四郎(子どもなく死亡、弟伝吾を養子)

②次男 伝次郎長広(分家) →   譲三(第2代村長)

③三男 蔦次郎(下増田家分家)→正一 (第4・8代村長)

④四男 伝吾(兄の養子となり本家相続) 一良(第6・9代村長)
 増田家は江戸時代からの庄屋ではない。しかし、江戸時代後半より財力を蓄えてきたようで、世代毎に分家を増やしている。幕末期の譲三の祖父・伝蔵の時代にも2つの分家を分け、伝蔵の3人の息子達がそれぞれの家を継いでいた。(系図参照))

 まず、長男の伝四郎が本家を継いだが子どもがなく、伝蔵の4男伝吾を養子として迎える。伝四郎からすれば末の弟を養子としたわけである。

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 伝蔵は2つの分家を作った。
次男伝四郎には、本家の西側に分家を建てた。この伝次郎の長男が穣三である。後に、譲三は本家と同じ規模で、本家の隣に家屋を建設する。これが上の写真の家である。街道沿いに建つもうひとつの屋敷では、穣三が若い時には呉服商も営んでいたし、酒造業も営み「春日正宗」という日本酒を販売もしていたという。 三男蔦次郎の分家は「下増田」と呼ばれ、本家とは離れたている。

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ちなみに伝蔵の孫世代にあたる増田一良・穣三・正一は従兄弟同士である。

と同時に、村会議員として活躍し、40歳を越えると七箇村長に就任していく。戦前の七箇村長は、第2代村長が譲三、第4・8代が正一 、第6・9代が一良と「春日の増田家3人の従兄弟たち」が、長きにわたってその座を占めている。
 
 また、明治22年に村会議が開設されたとき11名の村会議員の内、3名が増田家から出ている。その中で議員番号1の1級議員として選出され、村長決定までの議長を努めたのは増田本家の傳吾であり、穣三の叔父に当たる。増田家の七箇村での「重さ」が伝わってくる。  

  仲多度郡史に見る増田家の資産(496P)

   大正5年に編纂された仲多度郡史には、「大地主」の一覧が載せられている。項目には田畑・宅地・山林の地目に別れて所有面積や地価総額や一家の来歴も載せられている。ちなみに地価総額に地租税を掛けたものが地租支払額となる。
 地価総額の上位6名までが多度津在住であり、幕末以来の多度津の経済力の高さを示す数字となっている。まんのう町に関係のある家を列挙してみると次のようになる。
順位  氏名         住所        価総額      田   畑・山林     来歴
 塩田角治  多度津  103204円  156町11町     商家 
9 景山甚右衛門 多度津  22239円 29町     前衆議院議員 
10 琴陵光煕    琴平        22176円 38町         金毘羅宮宮司
12 新名功   吉野村   20802円 39町    元庄屋
18 三原一彦  真野村   17573円  39町 山林23町   代々の農家
32 赤松秀太郎 東高篠村   9411円 15町  山林7町  元庄屋 村会員
34 安達熊三郎 吉野村   9002円  17町  山林24町  造田より転居 村長
36 大西豊輝    十郷村     8627円  20町  山林42町   代々農家 村会議員
38 増田一良    七箇村 8393円  15町  山林114町   代々農家  郡会議員
40 谷口輿市 東高篠村  6522円  10町   農家  郡会議員
41 竹林幾子  西高篠村  2607円  11町  元大庄屋  
43 石井虎治郎 神野村 6600円 11町  山林3町  琴平銀行重役 郡会議員
45 大西 貞次郎  十郷村 4946円  12町   山林5町   代々の農家 村長
47 斉藤 英一  吉野村   4883円  14町  山林12         元商家
48 増田米三郎 七箇村  4205円  10町  山林11町  七箇村助役

 郡会議員は「大地主クラブ」と呼ばれたというが、確かに地主が郡会議員に推されていたことがこの表からも分かる。彼らは政府の進める富国強兵には総論賛成だが、軍備増強ための増税=地租引き上げ等には頑強に抵抗した。その一つの拠点が郡議会であった。

七箇村の最大の土地所有者は増田一良で増田本家

50町を越える「大地主」と呼べるほどの田畑を所有していたわけではない。それでも山林所有面積は100町を超えており、仲多度郡最大の山林主である。
 この中に増田穣三の名前は見当たらない。増田家は江戸時代以来の庄屋を務める家柄ではなかったことは前述した。譲三の家は、呉服商や酒造業を営んでいたとしても後に、県会議員や国会議員として活躍するための経済的な基盤がどこにあったのか現時点では分からない。

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群議会議員時代の若き増田一良(増田本家の総領で、穣三の従兄弟に当たる)
 「仲多度郡史」の編纂に携わった増田正三は、当時の七箇村町増田正一(下増田家)の長男に当たる。この郡史完成の時には、叔父・譲三が国会議員で、本家の叔父・一良が県会議員、父・正三が村長の職を勤めたいたようだ。勤めていたようだ。

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 村議会開設の際に、分家の増田穣三の家からは、父伝次郎も生存していたが出馬せず33歳の穣三が選出されている。「新しい時代を担うのは若い世代で」という新時代を迎えた明治の風潮なのかもしれない。
 譲三は、「名望家」としての増田家を背負う形で、村議→助役→村長→県会議員→衆議院議員へと成長していく。そして本家を継いだ一良も譲三の後を追いかけることになる。


田穣三銅像の台座碑文には何が書かれているの?

仲南町史を調べてみると増田穣三についての記述は何カ所かありました。銅像が建つくらいだから町誌に載るのも当たりまえかもしれません。以下町誌に載せられている台座の文章を紹介します。
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増田穣三の銅像碑文(仲南町誌1319P掲載分より) 
安政元年(1858 8月15日)生 昭和14年(1939年2月22日)没
春日 増田伝二郎の長男。秋峰と号す。翁姓は増田 安政5年8月15日を持って讃の琴平の東南七箇村に生る。伝次郎長広の長男にして母は近石氏なり 初め喜代太郎と称し後穣三と改む。秋峰洗耳は其に其号なり 幼にして頴悟俊敏 日柳三舟 中村三蕉 黒木啓吾等に従うて和漢の学を修め 又如松斉丹波法橋の門を叩いて立花挿花の菖奥を究め終に斯流の家元を継承し夥多の門下生を出すに至れり 
明治23年 村会議員と為り 
31年 名誉村長に推され又琴平榎井神野七箇一町三村道路改修組合長と為り日夜力を郷土の開発に尽くす 
33年 香川県会議員に挙げられ爾後当選三回に及ぶ 
    此の間参事会員副議長議長等に進展して能く其職務を全うす 
35年 郷村小学校敷地を買収して校舎を築き以て児童教育の根源を定め又同村基本財産たる山村三百余町歩を購入して禁養の端を開き以て副産物の増殖を図れり 
45年 衆議院議員に挙げられ
大正4年再び選ばれて倍々国事に盡痙する所あり 
    其年十一月大礼参列の光栄を荷ふ 
    是より先四国縦貫鉄道期成同盟会長に推され東奔西走効績最も大なりと為す。翁の事に当るや熱実周到其の企画する所一一肯?に中る故に衆望常に翁に帰す。
今年八十にして康健壮者の如く猶花道を嗜みて目々風雅を提唱す郷党の有志百謀って翁の寿像を造り以て不朽の功労に酬いんとす 。 翁と姻戚の間に在り遂に不文を顧み字其行状を綴ると云爾
昭和十二年五月
       東京 梅園良正 撰書
 
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 碑文の中にもあるように増田穣三が生前80歳の時に建てられたよ

うです。年表で示すと
1934 昭和9年9月 増田一良 第6代七箇村長就任
1937 昭和12年  増田穣三の銅像建立(七箇村役場前)
         → S18年銅像供出 
1938 昭和13年  山下谷次の銅像建立(村会の決議で)
         → S18年銅像供出
1939 昭和14年  2・22 増田穣三 高松で死去(82)
       七箇村村葬により手厚く葬られた。
1963 昭和38年3月 増田穣三の銅像が塩入駅前に再建 
          その際に顕彰碑は以前の物を使用。
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 建立を進めたのは当時の町長増田一良で、増田穣三とは従兄弟にあっるようです。最初、七箇村役場前(現在の協栄農協七箇支所)に等身大のものが建てられました。しかし、戦時中の金属供出のため撤去。そして、戦後になって、場所を変えて塩入駅前に再建。
ということでしょうか。 
増田穣三について分かったことは?
第2代の七箇村長と県会議員を兼務しながら、大正時代の初めに衆議

院議員として国政にも参加した人物のようです。なかなか面白くなっ

てきました。この顕彰碑文と町誌を参考にもう少し調べてみます。
 

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