土讃線が財田駅まで伸びて、まんのう町に汽車が走り始めて今年は百年目になることを以前にお話ししました。電灯が仲南に灯ったのも百年目になります。今回は、その経過を追いかけてみます。
1904年の日露戦争開戦前に多度津に火力発電所が作られ、11師団のある善通寺や琴平までは電線が伸び電灯が灯るようになります。しかし、それから南のエリアに電線が伸びてくるのは20年後のことになります。第1次世界大戦の「戦争景気」で電力需要は、うなぎ登りに伸びます。この追風を受けて電力会社は、水力発電所の開発と送電網整備を進めます。多度津に拠点を置く四国水力電気(四水)も、吉野川沿いに水力発電所を建設し、高圧鉄塔で讃岐へ電力を引いてくることに成功します。その結果、電力が過剰状態になります。
ところが四水の営業認可エリアは、琴電の線路の北側までとされていたので、それより南には電柱を建てることができません。そこで四水から電力を買い入れ、地元に供給しようとする人たちが現れます。四水も「余剰電力」が売れるのなら渡りに船です。こうして両者の思惑が一致し、小さな電気事業者がいくつも生まれることになります。
ところが四水の営業認可エリアは、琴電の線路の北側までとされていたので、それより南には電柱を建てることができません。そこで四水から電力を買い入れ、地元に供給しようとする人たちが現れます。四水も「余剰電力」が売れるのなら渡りに船です。こうして両者の思惑が一致し、小さな電気事業者がいくつも生まれることになります。
1921年4月に仲南・財田への電力供給のために設立されたのが塩入水力会社です。
社名だけ見ると、塩入に水力発電所を建設したかの印象を受けますが、そうではありません。全電力を四水から「購入」する目論見でした。この事業を興したのが、春日の増田一良です。
彼は七箇村村長を経て県会議員を務めた人物で、諸事情に精通していました。また、従兄弟には国会議員を引退した増田穣三もいました。穣三は、四水と名前を変える前の電力会社の社長を務めていたこともあります。塩入駅前に銅像が建っている人物です。
設立された塩入水力電気株式会社は、多度津に本店を置き、買田に配電所を設けて電力供給を始めます。
社名だけ見ると、塩入に水力発電所を建設したかの印象を受けますが、そうではありません。全電力を四水から「購入」する目論見でした。この事業を興したのが、春日の増田一良です。
増田一良 旧七箇村村長 県議
彼は七箇村村長を経て県会議員を務めた人物で、諸事情に精通していました。また、従兄弟には国会議員を引退した増田穣三もいました。穣三は、四水と名前を変える前の電力会社の社長を務めていたこともあります。塩入駅前に銅像が建っている人物です。
増田穣三(左は銅像)
二人の経験と政治力からすれば、四水と交渉したり、電線網を整備したりすることは決して難しい話ではなかったでしょう。設立された塩入水力電気株式会社は、多度津に本店を置き、買田に配電所を設けて電力供給を始めます。
それが1923年4月のことでした。今年がちょうど百年前になります。営業エリアは、七箇・十郷・財田・河内(旧山本町)の4ケ村で、電灯数は約千戸でした。 ほとんどの家が電球1個(1ヵ月80銭)の契約で、点灯時間は日没時から日の出までの夜間のみです。ひとつしか電灯はないので、コードを長くして家中に引張り廻します。婚礼や法事など、ひとつで足りないときには、臨時灯をつけてもらいました。中には、二股ソケットで電灯を余分につけたり、契約よりも大きい電球をつけるなどの「盗電」をする者もあったようです。そのため電力会社は、年に何回か、不意うちの盗電検査を夜間に行っています。
当時は、電気製品がありません。電気は単に照明用だけなので、夜間だけの利用でした。敗戦後にモーターが普及するようになると、財田缶詰会社などの要請で、昼夜の配電がはじまります。それは、昭和21年5月のことでした。汽車が走り、電球が灯り目に見える形で「近代」が姿を見せ始めるのは今から百年前頃になるようです。
塩入駅前の増田穣三像