
法照寺寺史の歴代住職一覧は、15代霊順法師について次のように記します。
大正2(1913)年 12月31年没
未生流皆伝(諸国総会司)。経済力に強く、寺田1町を小作人に耕作させ、寺経済に寄与していた
前後の在職年数を整理すると、先代は幕末から明治半ばまで34年に渡って住職を務めています。
在職期間 在職年数
14代 勧浄法師 万延 元年~明治27年 34年 漢方薬「奇妙湯」調合販売
14代 勧浄法師 万延 元年~明治27年 34年 漢方薬「奇妙湯」調合販売
15代 霊順法師 明治27年~大正 2年 19年 未生流皆伝(諸国総会司)
先代の勧浄による漢方薬「奇妙湯」調合販売が経済的にプラスに働いたのか、霊順については「経済力に強く、寺田1町歩を小作人に耕作させ、寺経済に寄与」と、「未生流(立花)皆伝(諸国総会司)」と記されています。法照寺には、未生流の「初傳・中傳・奥傳」の3冊と、立花絵図と「天円地方」論などの書物が残されています。これらの書物は総て、師範である如松斎丹波法橋の署名と印があり、彼から免許の授与と同時に渡されたもののようで、時期は明治13年前後のものになります。この時期に、霊順が如松斎丹波法橋から未生流を学んでいたことが分かります。今回は、これらの花伝書を見ていくことにします。
高井流 立花初傳關疑抄 (法照寺文書)
巻末を見てみます。
高井流 立花初傳關疑抄の巻末
如松斎丹波法橋(藤原氏貫)が、明治14年10月に三好霊順に初傳を相伝したことが分かります。次に中傳を見ておきましょう。
中伝の巻末は、虫に食われてボロボロになっています。名前の部分が失われていますが、如松斎丹波法橋が三好霊順に与えたものでしょう。注意しておきたいのは、以下の二点です。
①如松斎丹波法橋が「未生流家元 国會司師範代」と名のっていること
②日付が明治13年11月で、相伝された花伝書の中では一番早いこと
次に奥傳の「如松流 立華奥傳秘極書」を見ておきます。
明治初期に、未生流立花を三好霊順に伝えた如松斎丹波法橋とは何者なのでしょうか?
高井流 立花初傳關疑抄の巻末
如松斎丹波法橋(藤原氏貫)が、明治14年10月に三好霊順に初傳を相伝したことが分かります。次に中傳を見ておきましょう。
中伝の巻末は、虫に食われてボロボロになっています。名前の部分が失われていますが、如松斎丹波法橋が三好霊順に与えたものでしょう。注意しておきたいのは、以下の二点です。
①如松斎丹波法橋が「未生流家元 国會司師範代」と名のっていること
②日付が明治13年11月で、相伝された花伝書の中では一番早いこと
次に奥傳の「如松流 立華奥傳秘極書」を見ておきます。
嵯峨御所御立華職 家元如松齊自然法橋 藤原氏貫
年号はありませんが、如松斎丹波法橋が未生流から独立して「如松流」を名のり、その家元と称していたこと、また、三好霊順の華号が蓮甫であったことが分かります。 嵯峨御所御立花職 兼未生家師範代 如松齊園田丹波法橋撰 慶応初年
巻末に「佐文村 三好家有宝物」と記されている
ここからは、これらの花伝書が「宝物」として、法照寺に伝えられてきたことがうかがえます。明治初期に、未生流立花を三好霊順に伝えた如松斎丹波法橋とは何者なのでしょうか?

園田翁(如松斎丹波法橋)顕彰碑(まんのう町宮田の法然堂(西光寺)
丹波法橋の顕彰碑が宮田の西光寺境内に建っています。これについては以前にお話し、内容を年表的にまとめると次のようにまとめておきました。①如松斉は丹波国、園田市左衛門の二男で、悟譽蓬山和尚という浄土宗西山派の僧侶
②文久2(1862)年 西光寺第17世住職となり堂塔修繕など功績多し
③明治4(1871)年2月10日、生間の豊島家の持庵に移り、未生流師範として活動
④遠近から教わりに来る者が多く、各地方に招かれて出張指導も行った。
⑤その結果、未生流は広く那珂郡南部一帯に広がり、門弟は六百余名に達した。⑥明治13・14年 三好霊順に初・中・奥傳を伝授
⑦明治16(1883)年2月17日死去、享年76歳。⑧生前に春日の増田秋峰(穣三:後の国会議員)に家元を継承させる
ここからは幕末に丹波法橋が廻国の僧侶として、西光寺にやってきて勧進活動を進めて堂塔修繕をおこなったこと、その後は引退して10年余りを未生流華道の普及に尽くしたことが分かります。
丹波法橋の七回忌にあたる明治23(1890)年4月に、この碑は建立されています。
碑文裏側には、建立発起人の名前が並んでいます。

その先頭にあるのは、池元を継承した増田秋峰(穣三)です。2番目の田岡泰は、穣三の幼なじみので、初代七箇村村長になる人物です。この二人は、丹波法橋が亡くなった時には27歳でした。そして3番目に三好霊順の名前があります。ここからは次のような情報が読み取れます。
丹波法橋の七回忌にあたる明治23(1890)年4月に、この碑は建立されています。
碑文裏側には、建立発起人の名前が並んでいます。

その先頭にあるのは、池元を継承した増田秋峰(穣三)です。2番目の田岡泰は、穣三の幼なじみので、初代七箇村村長になる人物です。この二人は、丹波法橋が亡くなった時には27歳でした。そして3番目に三好霊順の名前があります。ここからは次のような情報が読み取れます。
①筆頭に名前のある増田穣三が如松斉亡き後の門下を束ね、如松流家元を継承した
②三好霊順も丹波法橋に高く評価され、如松流立花集団の中で髙い立場にあり、さまざまな文化人との交流があった
③立花集団の指導者の年齢が20代後半で、非常に若いこと
③立花集団の指導者の年齢が20代後半で、非常に若いこと

如松流立花の作品 (尾﨑家)
如松流の創始者である如松斎丹波法橋が住職を務めた「法然堂」の春市には、門下生がその成果を発表する華道展が毎年開かれていたようです。それらを取り仕切ったのも若き日の増田穣三や三好霊順だったのでしょう。華道を通じて霊順の人的ネットワークも広がります。また、霊順は地元の佐文でも青年たちに、未生流立花の指導を行ったようです。その中から現れるのが三好霊順と同じ佐文に住む尾﨑伝次(蔵)です。伝次は、霊順の指導で如松流を学ぶようになり、明治24年に次のような皆伝を2代目家元の増田秋峰(穣三)から受けています。
尾﨑伝次(清甫)の免許状 秋峰(穣三)の名前が見える
以上の未生流の家元継承を表にすると以下のようになります。

ここでは三好霊順は、浄土真宗の僧侶としてだけでなく、如松流立花の高弟、漢方薬「奇妙湯」の製造販売元という肩書きをもって活動していたことを押さえておきます。

未生流(みしょう)華道とは、どんな流派だったのか。

以上の未生流の家元継承を表にすると以下のようになります。

ここでは三好霊順は、浄土真宗の僧侶としてだけでなく、如松流立花の高弟、漢方薬「奇妙湯」の製造販売元という肩書きをもって活動していたことを押さえておきます。

未生流(みしょう)華道とは、どんな流派だったのか。
江戸時代後半になって町人文化が成熟期に入ると、生花にも多くの流派が生まれます。中には花をいけるに理屈は関係なく、ただ上手に生けられればいいとする風潮や、変わった形や、複雑化、単に形のための形を求めるといった流れも出てきます。
そのような中で 未生斎一甫は、文化十三年(1816年) 「生花百錬」を著します。
そのような中で 未生斎一甫は、文化十三年(1816年) 「生花百錬」を著します。

花とは何か。どうして美しく咲いている花を切って活けるのかということを問いかけます。そして「未生自然の花矩(はながね)」にたどりつきます。これは「天地創造に当たって、混沌としたカオスが生命の根源として存在する。」という立場で、立花を通じて、宇宙観、生命観を追求していくというスタイルをとります。

未生斎一甫の「生花百錬」この中で未生自然の花矩とは「天円地方説」という宇宙観から成り立っているとします。
天を円形、地を正方形で表し、円に正方形を内接してできた図形に天、人、地の三才(三つの働き)を配し、天と地の間に森羅万象が存在するとして「天地間の形するものにこの三角形より出ざるものなし」とした。これはガリレオの人体図にもみられる構図で、盛花の造形理論にも同じ図形が取り入れられます。この天・地・人の長さの比は、西洋の「黄金比」(1:0.618)とほぼ同じで「白銀比(はくぎんひ)」(1:0,708) )とも呼ばれ、美しい構成比とされました。一甫は、格外に枝や蔓(つる)が伸びるのも臨機応変に認め、「格に入って格を出よ」と説きます。
こうしていままでのルールに縛られることなく、自己否定によってさらに美の追求を可能とする自由な芸術論の地平に立つことができるようになります。これは当時の知識人にとっては、今までにない新鮮でアカデミックな雰囲気がする華道の流派と感じられたようです。そのため知識人を中心に広く受け入れられ、門人を増やします。
未生流二代目をついだ未生斎広甫は、大覚寺の華務職となり、多くの未生流の著作を世に出します。その結果、未生三百といわれるほど多くの未生流系の諸流が各地に生まれることになります。ちなみに、遠州流は約八十流派以上に、古流は百以上に分派します。こうした中で、未生流生け花が丹波法橋によってまんのう町にもたらされます。
幕末の金毘羅周辺の村々には、遍歴の宗教者(僧侶・山伏・修験者)が集まってきて住み着きます。
その例を挙げておくと
A 棒術などの武芸を身につけた修験者
B 街道整備の勧進集団を率いる土木集団系勧進僧
明治維新によっていろいろな封建的な束縛から解放された若者は、新たな知識や習い事に飢えていました。若者たちが生間に隠居した丹波法橋の庵を訪れ、立花を習ったのです。そのメンバーが建立したのが西光寺の顕彰碑になります。ある意味で、外部からやってきた僧侶(知識人)が新しい文化を植え付けたことになります。現在の「町作り支援隊」にもつながるものがありそうに思えてきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
まんのう町佐文 法照寺の文書
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幕末の金毘羅周辺の村々には、遍歴の宗教者(僧侶・山伏・修験者)が集まってきて住み着きます。
その例を挙げておくと
A 棒術などの武芸を身につけた修験者
B 街道整備の勧進集団を率いる土木集団系勧進僧
会津からやってきた智典法師
丹波法橋もこのような廻国の勧進僧だったのでしょう。宮田の法然堂(西光寺)の改修活動を通じて、人々の信頼を集め、その後は未生流華道を広め、如松流として独立し家元を称することになります。明治維新によっていろいろな封建的な束縛から解放された若者は、新たな知識や習い事に飢えていました。若者たちが生間に隠居した丹波法橋の庵を訪れ、立花を習ったのです。そのメンバーが建立したのが西光寺の顕彰碑になります。ある意味で、外部からやってきた僧侶(知識人)が新しい文化を植え付けたことになります。現在の「町作り支援隊」にもつながるものがありそうに思えてきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
まんのう町佐文 法照寺の文書
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