瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:多度津七福人

讃岐の風流踊りについて書かれた書物や論文を読んでいると、否応もなく「讃岐民俗研究会」の残した業績に出会います。その中心にいたのが多度津の武田明です。しかし、武田明の生い立ちや業績については、断片的な知識しか私にはありませんでした。そんな中で出会ったのが「佐々木涼成 昭和十三年の地方民俗学会 武田明と讃岐民俗研究会成立まで 香川の民俗85号(2024年5月)」です。これを読んだ跡を読書メモ代わりに残しておきます。
 
   北前船の寄港地として、船主と、北前船を利用して各地の物産を売り買いする商人が現れます。それらの商人を廻船問屋といい、多度津でとくに有名な廻船問屋で財を成した商人を「多度津七福神(武田3・塩田2・合田・景山)」と呼んでいました。

多度津七福人
P1240919 多度津七福人
多度津七福人 商業資本から産業資本へと脱皮していく
彼らは明治時代になると、鉄道・銀行・電力など近代産業に積極的に投資して、産業資本家へと成長して行きます。武田明の生家は、曽祖父の代までは北前船で砂糖を商い、分家して以後の祖父熊造の代には肥料を商うようになります。
祖父の武田熊造は、1915(大正4)年の「人事興信録」には、次のように記されています。
香川縣平民  職業 多度津銀行、四國水力電氣株式會 各取締役 
安政元年((1854)九月二十三日生武田茂祐の二男  妻 リサ 
(略伝)
君は香川縣平民亡武田茂祐の二男にして安政元年九月二十三日を以て生れ後、分れて一家をなす。現時前記諸會の重役たり。家族は前記の外、
七女秀子(明二九、八生)・八女艷子(同三三、一二生)・九女子(同三八、二生)
孫淳(同四五、二生、二男亮太郞長男)あり。
三女ツネ(同一八、四生)は香川縣平民武田茂?
四女タメ(同二一、九生)は同縣平民大西利三郞二男豹治郞に
妹ヱイ(安政四、二生)は同縣平民景山甚右衞門に
同モト(元治元、一〇生)は同縣平民武田定治郞に 
五女末(明二三、五生)は同縣平民武田定次郞長男謙に嫁せり」
祖父熊造について、多度津町の作成したパンフレットには次のように記されています。
 安政元年(1854)9 月 23 日 生 ~ 大正 11 年(1922)3 月 28 日 没 69 歳 
菩提寺:宝性寺(本通一丁目)
廻船問屋・米穀肥料を営む。武田家分家。初代 武田茂祐の次男に生まれ、分家して米穀肥料商を営んだ。㈱多度津銀行の創立に携わり、讃岐電気㈱・四国水力電気㈱では取締役として、景山甚右衛門とともに事業の再建と安定化に尽力した。また、多度津商工会議所の前身団体や教育団体「明徳会」の設立に携わったほか、県立多度津中学校の設立に際して寄付を行ったり、私財を投じて公会堂「楽水館」を建てたりするなど、教育・産業発展のための活動にも熱心であった。政治家としては、多度津町会議員を数期にわたって務めるなどして活躍した。妹は景山甚右衛門の妻エイ。また、第14代町長で民俗学者でもある武田明(1913~1992)と、版画家の武田三郎(1915~1981)は熊造の孫である。
   ここからは祖父の熊造は、多度津銀行や讃岐電気株式会社の経営者でもあり、香川の近代化のパイオニア的な人物だったことが分かります。また、「多度津七福神」の総帥と言われた景山甚右衛門の妻は、武田明の伯母になるようです。。

   武田明の父・武田亮太郞については1928(昭和3)年版に次のように記されています。
多度津銀行、共益、多度津製氷各(株)、取締役 慶尚共立銀行、多度津魚市場、讃岐土地各(株)監査役
明治二十年二月 (1887)生 武田熊造の二男  妻 ハナ 
君は香川縣人武田熊造の二男にして明治二十年二月を以て生れ大正十年家督を相續す。現時前記各銀行會社の重役にして、縣下の多額納税者たり。
家族は二男明(大二、一二生)・三男三郞(同四、一二生)・五男迪雄(同九、四生)・六男睦也(同一二、一一生)・七男杢夫(同一四、三生)・八男克也(同一五、七生)
ここからは、武田明が8人兄弟の次男として、1913(大正2)年に生まれたこと、長男の戦死後は跡継ぎとなったことが分かります。

武田明の長男・総一郎氏が近所の人から聞いた話として、次のようなことを伝えています。
①武田家は多度津町から琴平にむけて、幅50m×14㎞の大地主だった。
②商家・大地主だった武田家には、小作人を束ねる支配人や、家に勤める男衆など様々な人々がいた。
以上からは武田家が北前船の寄港地で富を蓄積した「商業資本家」から、明治になって近代産業の「鉄道・銀行・電気」などに投資して、「産業資本家」へと成長して行く姿が見えてきます。同時に、彼らは利益を土地購入にも向けて大地主としての性格も持ちます。武田明は「多度津七福人」と称される飛び抜けて裕福な家の次男として育ったことを押さえておきます。同時に、大地主でもあった家には、多くの農民達や出入りしていたようです。これが「常民」への視線につながっていくのかもしれません。
武田明は、祖父が開設に尽力した旧制多度津中学に進学します。それまでは多度津に旧制中学はなかったので、その設立は地域の願いでもありました。
石川和夫は、旧制多度津中学校時代の武田明について次のように記します。(1938年)
①「(多度津)中学時代から民間伝承に趣味を持っていた
②「旧制中学5年のころに、家にあった柳田の『石神問答』と出合い刺激された。
③そして、一人で山深く道祖神をたずね歩くようになった
④もともと絵画が好きで、美術史を専攻したかった
⑤しかし、美術大学は学生数が少ないのと、美学という哲学のジャンルも学ぶことが求められるのが厭で断念
ここからは、柳田國男の本が家にあったこと、大学選択に関してもいろいろな情報を手に入れているなど、知的な環境の中で育ったこと、そして旧制中学時代から道祖探訪などを行っていたことが分かります。
1931(昭和6)年、武田明は、折口が教鞭をとる慶応義塾大学へ進学します。
そこで「万葉集をはじめとして源氏物語国文学史芸能史」などを学ぶと後に書いています。同級生には、加藤守男や池田爾三郎など後の国文学・民俗学者がいました。武田が昔話を専門とするようになったのは、折口の講義の影響があるようです。
1934(昭和9)年の春休みには、昔話採集のために初めて阿波の祖谷に入って、人形劇の三番雙まわしに出会います。そこで翁の神歌とちがって伝承されていない歌詞があると知ります。これが後の「祖谷山民族誌」につながっていくようです。

祖谷山民俗誌 (1955年) (民俗選書 民俗学研究所編)  武田 明,


武田明と子泣き爺
子泣き爺を阿波で最初に発見したのは武田明 

1935(昭和10)年、7月31日から8月6日には、日本青年館で日本民俗学講習会が行われます。この時の開会の辞で柳田國男は、次のように述べています。

三重、宮城、島根、香川、福岡等の重要な数県から一人も賛同者を得なかったことは残念である

ここからは、香川県からは参加者はいなかったようなので、武田明も入会していなかったことがうかがえます。

民間伝承 第十一巻第二号 民間伝承の会

しかし、その年の12月20日発行の『民間伝承』第4号に、新入会員として武田明の名があるので、この頃に民間伝承の会に加わり、柳田國男と出会ったと研究者は考えています。

1935(昭和10)年、7月31日から8月6日には、日本青年館で日本民俗学講習会が行われます。
武田明は「柳田先生の絵はがき」と題した追想で、柳田との出合いを次のように述べます。

「成城のお邸に始めてお伺いしたのは、確か昭和十(1935)年で関敬吾さんの御紹介でした。丁度その頃は雑誌「昔話研究」が刊行されて居り、阿波の祖谷の昔話を集めて来たのを先生にお目にかけると、大層励まして下さいました。それからは月に二回ぐらいお伺いしていました」

 一方で、関敬吾は次のように記します。

「武田君と初めて会ったのはいつか、もう定かに記憶していない。多分、わたしが雑誌「昔話研究」を編集していた昭和十年か十一年ごろであったろう。柳田□男先生の引合わせで、私の隔居を訪ねてこられた」

柳田國男から武田明への葉書3

柳田國男から武田明への葉書2
柳田國男から武田明への葉書(東京からの帰郷後のもの)

以上をまとめておきます。
①武田明と民俗学の出会いは、家に出入りする農民たちの暮らしに興味を持ったことに始まる。
②家にあった柳田國男の「石神間答」を読んだことで、民俗学を志す。
③慶応義塾大学予科で折口に学んだことで昔話採集をはじめ、「昔話研究」への投稿を通じて柳田と出会った。

当時の柳田國男は、木曜日ごとにほぼ毎週、砧(きぬた〔現世田谷区成城〕)の自宅で、民間伝承論を講義していました。
この聞き取りにあたったのが、後藤興善・比嘉春潮、大藤時彦、杉浦健一、大間知篤三、橋浦泰雄などでした。この中の後藤興善は後に早稲田大学の教授としてマタギの研究などで知られるようになります。この講義はのちに『民間伝承論』という題名で出版されます。このあつまりが1934年(昭和9)1月から戦後の1947年3月までつづく「木曜会」の始まりになります。「木曜会」は柳田邸を拠点とする民俗学サロンで、月に1、2回開かれ、300回以上続きます。このサロンで、全国の山村・海村調査などが計画され、研究が深められていくことになります。そして、国男の書斎は「郷土生活研究所」と呼ばれるようになります。
 木曜会に出入りしていたのは次のような人達でした

桜田勝徳・守随一、山口貞夫、最上孝敬、瀬川清子、萩原正徳(「旅と伝説」編集長)、佐々木彦一郎、倉田一郎、関敬吾、島袋源七、和歌森太郎、丸山久子、金城朝永、鈴木棠三

この中に慶応大学在学中の武田明も飛び込んでいくことになります。ある意味では木曜界に集ったメンバーが柳田國男の弟子ということになります。

柳田國男と木曜会
柳田國男と木曜会のメンバー
三軒茶屋に下宿していた武田は、柳田邸での木曜会のことを次のように記します。

木曜会の皆さんの採集報告を聞かせて戴いたり、先生のお話を伺って私にとってもこれほど有益なことはありませんでした」(武田1969)

同席していた大藤ゆきは、昔話の報告をした武田を次のように評します。
「黒い詰衿学生服の清楚な慶應ボーイ」

柳田國男は1936(昭和11)年8月に「山の神とオコゼ」と題して、次のような報告を発表しています。
「志々島では、漁の初めに葉オコゼが網にかかると、其日はマンが悪いと云って嫌ふ」(柳田1936年)

この記述は武田明の報告に依拠しています。ここからは柳田の問題提起に応じて、香川県の事例を木曜会で報告していたと研究者は考えています。

以上をまとめておきます。
①武田明と民俗学の出会いは、家に出入りする農民たちの暮らしに興味を持ったことに始まる。
②そして柳田國男の「石神間答」を読んだことで、民俗学を志す。
③慶応義塾大学予科で折口に学んだことで昔話採集をはじめ、「昔話研究」への投稿を通じて柳田と出会った。
1936(昭和11)年には、雑誌『民間伝承』に志々島の餅無し正月や三豊のモモテなどの多数報告をするようになります。そのやりとりを研究者は次のようにまとめています。
①6号で柳田が田植えの夢を見ると近親が死ぬ言い伝えを紹介
②8号で宇和島市の会員山日常助が夢の良し悪しを報告、
③9号で広島県の山田次三の夢についての報告
④これを受けて第10号で、武田明が財田村で田植えの夢が忌まれることを報告
ここからは『民間伝承』では、柳田の話題提供の後に会員がそれに関する資料を報告するという流れで進められていたことが分かります。
 雑誌への報告だけでなく、当時の武田明の次のような活動が確認できます。
①1936年8月開催の第2回日本民俗学講習会に参加
②8月11日から、山村調査で三豊郡五郷村(観音寺市五郷)を訪れた瀬川清子に随行
③「柳田先生から行って来いと言われ」、福島県双葉郡に昔話の採集調査を行い、その成果を「昔話研究12巻4号」に報告
④1937年10月末から、長野県八ヶ岳山麓での採集調査。
④の八ケ峰山麓の調査のことについて、武田明は次のように記します。

「福島県の双葉郡や信州の南佐久郡、伊予の怒和二神の島々へ先生から昔話採集に行くようにすすめられて行って来ました。双葉郡の昔話は採集して来たのをお目にかけた処、方言の記述の仕方が間違っていると散々おしかりを受けました。雑誌「昔話研究」は方言研究の人々も見ているのだから、よく注意するようにと言われ、その後は行く前には土地の方言を調べてから行くようにしました」(武田1992)

この時には、柳田國男から少額ながら旅費が渡されています。柳田國男の手足として調査活動を行う一方で、厳しい指導を受けていたことが分かります。

武田明氏の調査ノート、テープ、カメラ
武田明愛用のノートやカメラ
1937(昭和12)年4月末には、渋沢敬三にも出会います。
  渋沢栄一の孫敬三は、実業家、政治家のかたわら民俗学にも関心を寄せ、自宅にアチックミュージアム(屋根裏博物館)を私設し、宮本常一らを全国に派遣し、漁村・漁業資料や民具の収集に力を注いでいたことは以前にお話ししました。渋沢は、1937年に自ら船を仕立て、「瀬戸内海島嶼巡訪調査」として岡山から香川県域の備讃瀬戸の島々を調査を行うことになります。大学院在籍中の武田明もこれに誘われたようです。

瀬戸内島嶼巡訪調査時の記念写真
瀬戸内海島嶼巡訪調査のメンバー
 こうして5月15日から20日にかけて、備讃瀬戸の島々を船で巡るの調査活動が行われます。

瀬戸内島嶼巡訪調査

その時の旅行の記録をまとめたもので、採訪先で各々がノートに書き留めた土地ごとの暮らしや生業、民具、民家のつくり、信仰、行事、語彙といった事柄が記されています。この船には、澁澤のほかに宮本常一など著名な民俗学者や、岡山の郷土史家・岡長平も参加していていたようです。参加メンバーを挙げておきます
〈東京〉礒貝勇、岩倉市郎、小川徹、櫻田勝徳、澁澤敬三、高橋文太郎、武田明、宮本馨太郎、村上清文、山口和雄
〈岡山〉岡長平、高戸都三、永山卯三郎、花田一重
〈大阪〉宮本常一
〈広島〉結城次郎
〈高松〉高野敏夫」
巡回コースは次の通りです

  第一日】  八濱
【第二日】 味野  釜島  興島  岩黒島  櫃石島  田ノ浦
【第三日】 六口島 手島  小手島 佐柳島  眞鍋島  小飛島  大飛島 走島
【第四日】 魚島 高井神島 股島  伊吹島  室濱   志々島  高見島
【第五日】 鹽飽本島  牛島 沙彌島 瀨居島
【第六日】 牛窓町  前島  豐島  男木島 女木島
このような調査活動には宮本常一も参加しています。船での調査活動を通じて、研究者からいろいろなことを学ぶと同時に、ネットワークを形成していったことがうかがえます。同時に、武田明の瀬戸内海への島々の関心は、この時期から生まれていたことが分かります。

備讃瀬戸の民俗と風土(文 武田明 写真 高橋克夫

武田明は慶応時代の学生生活を振り返って「授業に出ずに、ほとんど調査をしていた」と回顧しています。それが頷けるほど各地で調査活動を行っています。こうして「木曜会や日本民俗学講習会への出席 + 各地への調査活動 = 民俗学者間のネットワーク形成」へと繋がっていきます。

1938(昭和13)年3月には、武田明は慶応大学大学院を修了します。
その後も研究生活を続けるつもりでしたが、兄が招集を受けたために東京での研究者としての道を諦め、地元多度津に帰ってきます。そして選んだが高松高等女学校の教員でした。この時の武田は、木曜会や民話伝承の会に後ろ髪を引かれながらの帰郷だったかもしれません。しかし、それが讃岐民俗研究会の発足につながっていきます。それは、また次回に

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「佐々木涼成 昭和十三年の地方民俗学会 武田明と讃岐民俗研究会成立まで 香川の民俗85号(2024年5月」
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 今回は湛甫完成後の多度津の繁栄ぶりを見ていくことにします。テキストは、「多度津町誌267P 北前船の出入りで賑わう港」です。
 北前船航路図

①北前船は春2月ごろ、大坂で諸雑貨・砂糖・清酒などを買い積み出港
②瀬戸内海の港々を巡りながら、塩荷などを買い込みながら下関に集結。
③冬の最後の季節風を利用して、日本海沿岸の諸港に寄港し、荷の積み下ろし(売買)をしながら北海道へ向かう。
④北海道で海産物を買積み、8月上旬ごろに北海道を出発して夏の南東風の季節風をはらんで一気に下関まで帆走
⑤手に入れた商品を、どの港で売るかを状況判断をしながら、荷を神戸・大坂方面へ持ち帰る。
このように北前船は、荷の輸送とともに商いをも兼ねた船でした。

鰊漁粕焚き
鯡(にしん)粕焚き

北前船で特に利益があったのは、北海道の鯡〆粕・昆布でした。
北前船の活躍が活発化したのを受けて、丸亀藩や多度津藩は新しい湛甫築造をおこなったことになります。多度津湛甫の完成は、天保9年(1838)年のことです
19世紀半ばになると、 讃岐三白といわれた砂糖・綿・塩なども北前船の取扱商品になっていきます。
讃岐三白を求めて多度津の港に寄港する舟も増えます。丸亀や多度津の湛甫構築も、金毘羅参拝客の誘致以外に、商品経済の受入口として港湾整備するというねらいが廻船問屋たちにはあったことを押さえておきます。
  多度津の回船問屋かつまや(森家)に残る史料を見ておきましょう。
「清鳳扇」と題する海路図は、まず見開きに「針筋早見略」があって津軽半島から北海道の松前半島への次のような針路が説明されています。
本州北端の津軽半島、小泊港より鯵ケ沢、男鹿半島、飛島、栗島、佐渡沢崎、能登塩津、平(舶)倉島、七ツ島、福浦、隠岐、三保ケ関、 笠浦、 宇竜三崎、 湯津、 浜田、津島

それと日本海を南下する針路が示されています。この海路図は、安政五年(1858)のもので、かつまやの盛徳丸が使っていたものです。また、次のような21反帆の千石船仁政丸の往来手形もあります。
 反帆船仁政丸、沖船頭森徳三郎、水夫十人、右は私方持船で乗組一統は宗旨万端改め済みで相違ありません。津々の関所はつつがなくお通しドさい。
元治元年六月 大阪 綿屋平兵衛
これらの北前船は、松前島(北海道)の海産物を多度津に運び、その見返り品として洒、衣料、雑貨の輸送にあたっていたことが分かります。森家には「松前落御家中家名並列席の記」や「箱館港出船許可書」などが保存されています。ここからは、廻船問屋森家の船が北前船として、幕末に蝦夷との交易を行っていたことが分かります。

多度津廻船船の積み荷と水揚げ場
船の積み荷と水揚げ場、積み入れ場などを記載した資料

石州浜田港(島根県浜田市)回船問屋但馬屋の「諸国御客船帳」には、次のように記されています。
幕末から明治に初期にかけて、記載されている讃岐廻船は307艘。その内、多度津の船は8艘。東讃では三本松や津田浦の船が多く、西讃では栗島や浜村浦の船が多く寄港。浜田での讃岐船の売買積荷商品は、
①揚げ荷(売却商品)は 讃岐特産物の「大白・大蜜・焚込」の砂糖と塩、それに繰綿が若千
②積荷商品(買上商品)は、塩鯖・鯖・平子干鰯・扱芋・鉄・半紙などの石見の特産物


多度津 廻船問屋塩田屋土蔵
「塩田家(煙草屋)」の土蔵
北前船で財を成した廻船問屋としては、多度津七福神のひとつである「塩田家(煙草屋)」が有名です。塩田家には北前船の積み荷を集積するために使用した土蔵が今でも残されています。

魚肥料

江戸末期になると、綿花などの栽培に、農家は大量の魚肥(金肥)を使うようになります。
最初は、瀬戸内海の千鰯が中心でしたが、北前船の出入りで、羽鰊・鯡〆粕などが手に入るようになると、魚肥の需要はさらに高まります。多度津には干鰯問屋が軒を並べ、倉庫が甍を競うようになり、丸亀港をしのぐようになります。こうして多度津の問屋はヒンターランドの多度郡や那珂郡の庄屋や富農と取引を活発に行い繁盛します。

江戸時代後期の多度津の様子について、柚木学「讃岐の廻船と船持ちたち」(多度津文化財16号 1973年)は、次のように記します。
「廻船問屋には、かつまやを始め米尾七右衛門・蛭子辱伊兵衛・竹景平兵衛などがあり、またよろず問屋・千鰯問屋中には、油屋佐右衛門・松尾屋清蔵・島屋係兵衛・煙草屋仙治・柳屋次郎七・茶屋儀兵衛・浜蔵屋四郎兵衛・尾道屋豊蔵・伏見屋一場太郎・同山屋武兵衛・松島躍惣兵衛・大黒膵調兵衛など七十余軒」

 また多度津町誌270Pには、角屋町(今の本通一丁目)、南町、中ノ町筋にあった多度津問屋中のメンバーを、次のように挙げています。
油屋佐右衛門・中屋佐七・松嶋屋惣兵衛・煙草屋仙治・戎屋祖右衛門・嶋屋徳次郎・尾道屋豊蔵・湊屋義之助・木屋槌蔵・舛屋仙古・柴屋文右衛門・神原治郎七(柳屋)・金屋源蔵・工屋榮五郎・阿波屋甚七・海老屋与助・油屋平蔵・松尾屋久兵衛・竹屋清兵衛・北屋辰適蔵・伊予屋五右衛門・古手屋佐平・柳屋常次郎・入江屋喜平・茶屋儀兵衛・伊予屋伴蔵・尾道屋彦太郎・茶屋七右衛門・三井屋弁次郎・中屋民蔵。備前屋伝五郎・菊屋治郎兵衛・嶋屋治助・工屋伝右衛門・伏見有屋吉蔵・松尾屋清蔵・輌屋半蔵・麦屋芳蔵。大津屋善治郎・松崎屋排治・唐津屋長兵衛・井筒屋和平・舛屋久右衛門・木屋万蔵・播磨屋和古。塩飽屋弥平・岡山屋武兵衛・出雲屋長兵衛・伏見屋嘉太郎・播磨屋岩右衛門・中村屋紋蔵。塩飽屋岩吉・松島屋新七・竹嶋屋槌蔵

多度津 本町
多度津の町割り

角屋町(今の本通一丁目)、南町、中ノ町筋に70軒余りの問屋が立ち並ぶようになります。こうして多度津の街並みは、金毘羅街道沿いに南へと伸びていきます。

多度津の街並み
多度津本通りの街並み

これらの多度津の問屋中(仲間)の名前は、当時造られたのモニュメントにも残されています。
 弘化二(1845)年に落成した金刀比羅宮の旭社(当時金堂)の建立寄進帳に、多度津魚方中(926匁)と並んで「金二十一両寄進多度津問屋中」と名を連ねています。慶応二年(1866)藩主主京極高琢寄進の石灯籠一対の裏手石垣を奉納しています。

04多度津七福神


北前船の活躍した時代は、江戸時代後半から明治中期まででした。
明治に入ると西洋型帆船、明治中期以後になると汽船が参入するようになります。しかし、北前船を駆逐したのは鉄道でした。鉄道の全国整備が進むにつれて、北前船は姿を消して行きます。しかし、海運で蓄積した富を、鉄道や水力・銀行設立などの近代化に投資していくことによって、多度津は近代化の先頭に立つのです。
今回は、ここまでです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「多度津町誌267P 北前船の出入りで賑わう港」
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