瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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約70年前(1955年)の多度津港の「出帆御案内」の時刻表です。
ここには、関西汽船と尼崎汽船の行先と出帆時刻・船名が次のように掲げられています。
①志々島・粟島  つばめ丸
②六島(備後)  光栄丸
③笠岡          三洋丸
④福山 大徳丸
⑤鞆・尾道 大長丸
⑦大阪・神戸   明石丸
⑧神戸・大阪   あかね丸
尼崎汽船は3便で
⑨笠岡      きよしま丸
⑩福山 はつしま丸
⑪瀬戸田 やまと丸(随時運航)

1955年の多度津港は、東は神戸・大阪、西は福山・鞆・尾道・瀬戸田まで航路が延びて、定期船が通っていたことが分かります。現在の三原港(広島県)や今治港(愛媛)のように、いくつも航路で瀬戸の港と結ばれていた時代があったようです。そんな時代の多度津港を今回は見ていくことにします。テキストは「多度津町誌629P  明治から大正の海運」です。
 まず幕末から明治にかけての瀬戸内海海運の動きを見ていくことにします。
 徳川幕府は、寛永12年(1625)以来、海外渡航用の大型船の建造を禁止していました。しかし幕末の相次ぐ外国船の来航に刺激されて、嘉永6年(1853)9月、大船建造の禁令を解きます。そして、各藩に対して大型船建造を奨励するとともに、外国より汽船を購入することを奨励するようになります。毛利藩が若い高杉晋作に上海へ艦船購入に行かせるのも、坂本竜馬が汽船を手に入れて、「海援隊」を組織するのも、こんな時代の背景があるようです。
 その結果、明治元年(1868)には、洋式船舶の保有数は次のようになっていました。
幕府44艘、各藩94艘、合計138艘、 1万7000トン余り

 明治維新政府にとっても商船隊の整備充実は重要政策でした。そこで、次のような措置をとります。
明治2年(1869)10月、太政官布告で個人の西洋型船舶の製造・所有を許可
明治3年(1870)1月 商船規則を公布して西洋型船舶所有者に対して特別保護を付与
1870年 築地波止場前を行く汽船
        築地波止場前を行く汽船(1870年)

このような汽船促進策の結果、明治4年3月までには、大阪だけで外国人から購入した船舶は16隻に達します。買入主は、徳島藩、広島藩、熊本藩、高知藩などの7藩、民間では大阪商人や阿波商人、土佐佐藩士岩崎弥太郎の九十九商会など数名です。これらの船は、各藩と大阪の間を往復して米穀その他の国産物を運ぶようになります。

瀬戸内海航路の汽船 1871年
瀬戸内海航路の汽船(1871年) 
こうして、大阪を起点として、各藩主導で次のような定期航路が開かれます。
大阪~徳島間
大阪~和歌山間
大阪~岡山間
大阪~多度津間
大阪~長崎間
旧高松藩主松平家も、讃岐~大阪間に金比羅丸を就航させています。
金刀比羅丸は、慶応4年ごろに高松藩が大阪藩邸の田中庄八郎に命じて神戸港で建造し、玉吉丸と命名した貨客船です。暗車(スクリュー)推進の蒸気船で、2本マストのスクーナー型で帆装し、40馬力でした。それが明治4年の廃藩置県で、香川県に引き継がれ、旧藩主の松平頼聡他2名に払い下げられます。それを金刀比羅丸と改称し、取り扱い方を田中庄八に委嘱し、大阪~神戸~高松~多度津間の航海を始めたようです。

品川沖の東京丸(三菱商船)1874年
1874年 品川沖の東京丸(三菱商会)

 この頃に、多度津では宮崎平治郎が汽船取り扱い業を開業します。そして凌波丸(木製、81屯)を購入して、大阪から岡山・高松を経て多度津に寄港し、更に鞆・尾道にまで航路を延ばしていました。その2、3年後には、大阪の川口屋清右衛門、神戸の安藤嘉左衛門と田中庄八の3人は共同して三港社を創立し、大阪の宗像市郎所有の太陽丸(木製、67トン)と飛燕丸で阪神・多度津間を定期航海を行うようになります。
 ここでは、明治初期には旧藩の所有船が民間に払い下げられて、大坂航路に投入され、瀬戸内海の各港と畿内を結ぶ航路が開けたことを押さえておきます。

横浜発の汽船 三菱商会
1875年 横浜発の汽船(三菱商会)
瀬戸内海を行き交う蒸気汽船が急増したのは、明治10年(1877)の西南の役前後からでした。
この内乱は、兵員や他の物資の輸送で海運業界に異常な好景気をもたらします。そして、次のような船会社が設立されます。
岡山の偕行会社
広島の広凌会社
丸亀の玉藻会社
淡路の淡路汽船
和歌山の明光会社、共立会社
徳島の太陽会社
この時期に新たに就航した汽船は110余隻、船主も70余名に達します。この機運の中で多度津港にも、寄港する汽船の数が急増します。明治14年ごろの大阪港からの定期船の出船状況を、まとめたものが多度津町史632Pに載せられています。

1881年 大阪発出船の寄港地一覧1
1981年 大阪出港の汽船の寄港地一覧表
ここからは次のようなことが分かります。
①大坂航路に就航していた汽船のほとんどが、多度津に寄港後に西に向かっている。
②岡山・高松よりもはるかに多度津に寄港する船の方が多かった。
③多度津には、毎日3便程度の瀬戸内海航路の汽船が寄港している
   山陽鉄道が広島まで伸びるのは、日清戦争の直前でした。
明治10年代には、瀬戸内海沿岸は鉄道で結ばれていなかったので汽船が主役でした。その中で多度津は「四国の玄関」として多くの汽船が寄港していたこと押さえておきます。
明治十年代の多度津港について『明治前期産業発達史資料』第3集 開拓使篇西南諸港報告書(明治14年)は、次のように記します。
多度津港
愛媛県下讃岐国多度郡多度津港ハ海底粘上ニシテ船舶外而水入ノ垢フ焚除スルニ使ニシテ毎年春2月ヨリ8月ニ至ルマデノ間タデ船ノ停泊スルモノ最多ク謂ハユル日本船ノドツクトモ称スベキ港ナリ又小汽船は毎月2百餘隻ノ出入アリ又冬節西風烈シキ時ハ小船ハ甚困難ノ処アリ港中深浅等ハ別紙略図ニ詳ナリ
戸数本年1月1日ノ調査千2百3拾戸 人口4千4百4拾1人 内男2千2百2拾5人 女2千2百拾6人 北海道ヨリハ鯡〆粕昆布数ノ子ノ類フ輸入シ昆布数ノ子ハ本国丸亀多度津琴平等2転売ス鯡〆粕ハ本国那珂多度三野豊田部等へ転売ス。
 物産問屋3拾9軒 問屋ハ輸入ノ物品フ預り仲買ヲシテ売捌カシムルノ習慣ナリ。 定繋出入ノ船舶3百石以下5拾5艘アリ 北海道渡航3百石以上2艘アリ(中略)
地方著名産物1ケ年輸出ノ概略ハ砂糖凡8万4千5百斤 代価凡5万7千7百5拾式円5拾銭。綿凡式万目 代価凡1万円ニシテ砂糖ハ北海道又ハ大阪へ売捌 綿ハ北海道又西海道へ輸出ス
近傍農家肥料ハ近来鯡〆粕ノ類多ク地味2適セシヤ之フ用フレバ土質追々膏艘(こうゆ)ニ変シ作物生立宜ク随テ収獲多シ

  意訳変換しておくと
多度津港
愛媛県(当時は香川県はなかった)多度郡の多度津港は、海底が粘土で船に入った垢を焚除するために、毎年春2月から8月まで、「タデ船」のために停泊する船が数多い。そのため「日本船のドック」とも呼ばれる港である。小汽船の入港数は、毎月200隻前後である。ただ、冬の北西季節風が強い時には、小船の停泊は厳しい。港の深度などは別紙略図の通りである。
 多度津の本年1月1日調査によると、戸数千2百3拾戸 人口4千4百4拾1人 内男2千2百2拾5人 女2千2百拾6人
 北海道からは、鯡・〆粕・昆布・数ノ子などが運び込まれ、この内の昆布・数ノ子は、丸亀・多度津・琴平などに転売し、鯡〆粕は、那珂多度郡や三野豊田郡など周辺の農村に転売する。物産問屋は39軒 問屋は、搬入された物品を預り、仲買をして売捌くことが生業となっている。
  出入する船舶で、3百石以上の船が55艘、北海道に渡航する300以上が2艘ある(中略)
特産品としては、砂糖が約84500斤 代価凡57752円、綿約2万目 代価凡1万円。砂糖は北海道か大阪へ、綿は北海道や西海道へ販売する。近来、周辺の農家は、肥料として鯡・〆粕を多く使用するようになったので、地味は肥えて作物の生育に適した土壌となっている。
ここからは次のようなことが分かります。
①船のタデや垢抜きのために、多度津港に寄港する船が多く、「和船のドック」とも呼ばれている。以前に金毘羅参詣名所図会の多度津港の絵図には、船タデの絵が載せられていることを紹介しました。明治になっても、多度津港は「和船のドック」機能を継続して維持していたことが分かります。
②北海道からの数の子や昆布、鯡〆粕が北前船で依然として運び込まれていること
③それを後背地の農村や、都市部の金毘羅・丸亀などに転売する問屋業が盛んであること
④特産品として、砂糖や綿が積み出されていること

西南戦争を契機に、旅客船の数が急速に増えたことを先ほど見ました。
1993年 三菱と共同運輸の競争
1883年 三菱と共同運輸の競争を描いた風刺画
 汽船や航路の急速な増加は、運賃値下げ競争や無理なスピード競争での客の奪い合いを引き起こします。そのため海運業界には不当競争や紛争が絶えず、各船主の経営難は次第に深刻化していきます。
この打開策として打ちだされたのが「企業合同による汽船会社統合案」です。
 明治17年5月1日、住友家の総代理人広瀬宰平を社長として、50名の船主から提供された92隻の汽船を所有する大阪商船会社が設立されます。この日、伊万里行き「豊浦丸」、細島行き「佐伯丸」、広島行き「太勢丸」、尾道行き「盛行丸」、坂越行き「兵庫丸」の木造汽船5隻が大阪を出港します。
大阪商船
         大阪商船会社のトレードマーク
その船の煙突には、大阪商船会社のトレードマークとなる「大」の白字のマークが書き込まれていました。
 大阪商船の開業当時の航路は、大阪から瀬戸内海沿岸を経て山陽・四国・九州や和歌山への18航路でした。

大阪商船-瀬戸内海附近-航路図
大阪商船の航路
このうち香川県の寄港地は小豆島・高松・丸亀・多度津の4港です。その中でも多度津港は9本線と1支線の船が寄港しています。高松・丸亀・小豆島が2本線の船だけの寄港だったのに比べると、多度津港の重要性が分かります。この時期まで、多度津は幕末以来の「四国の玄関港」の地位を保ち続けています。

希少 美品 大正9年頃(1920年) 今無き海運会社 大阪商船株式会社監修 世界の公園『瀬戸内海地図』和楽路屋発行 16折り航路図  横120cm|PayPayフリマ
大阪商船航路図(大正8年)讃岐の寄港
 旅客輸送の船は、明治20年前後からはほとんどが汽船時代に入ります。
しかし、貨物輸送では、明治後期まで帆船が数多く活躍していたことは、以前にお話ししました。明治になっても、江戸時代から続く北前船(帆船)が日本海沿岸や北海道との交易に従事し、多度津港にも出入りしていたのです。
 たとえば北陸出身の大阪の回船問屋西村忠兵衛の船は、明治5年2月25日、大阪から北海道へ北前交易に出港します。出港時の積荷は、以下の通りです
酒4斗入り160挺。2斗入り55挺
木綿6箱
他に予約の注文品瀬戸物16箱・杉箸2箱
2月28日兵庫津(神戸)着 3月1日出帆
3月3日 多度津着 
多度津で積荷の酒4斗入りを102挺売り、塩4斗8升入り1800俵と白砂糖15挺を買って積み入れ、8日出帆
ところが3月21日長州福浦を出港後間もなく悪天候のため座礁、遭難。(西村通男著「海商3代」)
ここからは、明治に半ばになっても和船での北前交易は行われており、多度津に立ち寄って、塩や砂糖を手に入れていることが分かります。ところが、日本海に出る前に座礁しています。伝統的な大和型帆船は、西洋型船のような水密甲板がなく、海難に対して弱かったようです。そのため政府は、西洋型船の採用を奨励します。その結果、明治十年代には西洋型帆船が導入されるようになりますが、大和型帆船は、伝統的な航海技術と建造コストが安かったので、しぶとく生き残っていきます。そこで政府は、明治18年からの大和型500石以上の船の製造禁止を通達します。禁止前年の明治17年には、肋骨構造などで西洋型の長所を採用しながら外見は大和型のような「合の子船」とよばれる帆船が数多く造られたようです。大正初めまで、和船は貨物輸送のために活躍し、多度津港にも入港していたことを押さえておきます。ここでは明治になってすぐに帆船が姿を消したわけではないこと、
  明治20(1887)年ごろより資本主義的飛躍が始まると、海運業も大いに活気を呈するようになります。
京極藩士冨井泰蔵の日記「富井泰蔵覚帳」には、次のように記されています。
「今暁、船笛(フルイト)高く狼吠の如き、筑後川、木曽川、錦川丸の出港なり。本日三度振りなり。近村の者皆驚く」

 ここに出てくる筑後川丸(鋼製、694屯)、木曽川丸(鋼製、685屯)、錦川丸(木製、310トン)は、大阪商船の定期船です。そのトン数を見ると、700屯クラスの定期船で、明治初めから比べると、4倍に大型化し、木製から鋼製に変わっています。
 明治27年の大阪商船航路乗客運賃表によると、大阪ー多度津間の運賃は、次の通りです。
下等が95銭
中等が1円
上等は1円5銭
別室上等は2円
明治30年10月発行の「大日本繁昌記懐中便覧」には、当時の多度津の様子を次のように記されています。

多度津ハ(中略)、港内深ク,テ汽船停泊ノ順ル要津ナレバ水陸運輸ノ使ナルコー県下第1トナス。亦夕金刀比羅官ニ詣ズル旅客輩ニ上陸スベキ至艇ノ地ナレバ汽船′出入頻はなシテ常ニ煤煙空ヲ蔽ヒ汽笛埠頭ニ響キ実ニ繁栄の一要港卜云フベラ」

意訳変換しておくと
多度津は、港内の水深が深く、汽船の停泊に適した拠点港なので、水陸運輸の使用者は県下第1の港である。また金刀比羅宮へ参拝する旅客にとっては、上陸に適した港なので汽船出入は多く、常に汽船のあげる煤煙が空をおおい、汽笛が埠頭に響く。これも繁栄の証というべきである。

この他にも、香川県下の汽船問屋・和船問屋の数は、高松に8軒、坂出に1軒、小豆島に11軒、丸亀4軒で、多度津は25軒だったことも記されています。

山陽鉄道全線開通
山陽鉄道全線海開通
明治24年に山陽鉄道の姫路・岡山間が開通し、更に同34年には下関まで延長開通します。 
 それまで西日本の乗客輸送の主役だった旅客船は、これを契機に次第に鉄道にとって代わられていきます。それを年表化してみると
1895(明治28)年  山陽鉄道と讃岐鉄道の接続のために、大阪商船は玉島・多度津間に定期航路開設
1896(明治29)年 善通寺に第11師団が設置。2月に丸亀~高松間が延長開通。
1902年 大阪商船が岡山・高松間にも航路開設
1903年 岡山・高松航路を山陽汽船会社が引き継ぎ、玉藻丸を就航。同時に尾道・多度津間にも連絡船児島丸を就航。
1906年 鉄道国有化で航路も国鉄へ移管。
      尾道・多度津鉄道連絡船は東豫汽船が運航。
1910年 宇野線開通によって宇野・高松間に宇高鉄道連絡航路が開設

ここからは大阪商船が鉄道網整備にそなえて、鉄道連絡船を各航路に就航させ、それが最終的には国鉄に移管されていったことが分かります。
高松港築港(明治36年)
高松築港旅客待合所(明治36年頃)
このような動きを、事前に捕らえて着々と未來への投資を行っていたのが高松市です。
高松は、日露戦争前後から、大正時代にかけて数次にわたり港の改修、整備に努めます。その結果、出入港船が増加し、宇高鉄道連絡船による岡山経由の旅宮も呼び込むことに成功します。こうして金毘羅参拝客も、岡山から宇野線と宇高連絡船を利用して高松に入ってくるようになります。
高松港 宇高連絡船 初入港(明治43年)
明治43年 宇高航路の初航海で入港する玉藻丸

高松・多度津港の入港船舶数の推移からは、次のようなことが分かります。
多度津・高松港 入港船舶数推移

①高松港入港の船舶数は、大正時代になって約7倍に急増している
②それに対して、多度津港の入港船舶数は、減少傾向にある。
③乗船人数は明治14年には、高松と多度津はほぼ同じであったのが、大正14年には、高松は6倍に増加している。
④貨物取扱量も、大正14には高松は多度津の約8倍になっている。

四国でも鉄道網は、着々と伸びていきます。
昭和2年に、予讃線が松山まで開通
昭和10年 高徳線は徳島まで、予讃線は伊予大洲まで
      土讃線は高知須崎まで開通.
      宇高連絡航路には貨車航送船が就航。
こうして整備された鉄道は、旅客船から常客を奪って行きます。これに対して、大阪商船は瀬戸内海から遠洋航路に経営の重点を移していき、内海航路の譲渡や整理を行います。しかし、そんな中でも有望な航路には新設や、新造船投入を行っています。
昭和3年12月新設された瀬戸内海航路のひとつが、大阪・多度津線です。
大信丸 (1309トン)と大智丸(1280トン)の大型姉妹船が投入されます。この両船は昭和14年に、日中戦争の激化で中国方面に転用されるまで多度津港と大阪を結んでいました。
 昭和10年ごろの多度津港への寄港状況は、次のように記されています。
大阪商船                                          
①大阪・多度津線
(大阪・神戸・高松・坂出・多度津)に、大信丸と大智丸の2隻で毎日1航海。
②大阪・山陽線
 大阪・神戸・坂手・高松・多度津・柄・尾道・糸崎。忠海・竹原・広・音戸・呉。広島・岩国。柳井・室津・三田尻・宇部・関門に、早輌丸・音戸丸・三原丸のディーゼル客船の第1便と、尼崎汽船の協定船による第2便があり、それぞれ毎月十数回航海。
③大阪と大分線
大阪・神戸・高松・多度津・今治・三津浜・長浜・佐賀関・別府が毎日1便寄港.

瀬戸内海航路図2
瀬戸内商の船航路図

この他に、瀬戸内商船が多度津・尾道鉄道連絡船を毎日4便運航していました。 しかし、花形航路である別府航路の豪華客船は高松に寄港しましたが、多度津港には寄港しません。また、昭和初期から整備に努めてきた丸亀・坂出の両港が、物流拠点として産業港に発展していきます。その結果、多度津港の相対的な地盤沈下は続きます。
 最初に見た多度津港の「出帆御案内」の航路も、戦前のこの時期の
航路を引き継いだもののようです。

1920年 多度津港
1920年の絵はがき(多度津港)

 日中戦争が長期化し、戦時体制が強化されるにつれて船舶・燃料不足から各定期航路も減便されます。
その一方で、旅客、貨物量は減少せず、食糧や軍需物資の荷動きは、むしろ増加します。特に、大平洋戦争開戦前の昭和15年度は、港湾の利用度が飛躍的に増加し、乗降客が56万を突破し、入港船舶は2万5000余隻と戦前の最高を記録しています。これは善通寺師団の外港としての多度津港が、出征将兵や軍需物資の輸送に最大限に利用されたためと研究者は指摘します。

瀬戸内商船航路案内.2JPG

 戦時下の昭和17年2月になると、燃料油不足と効率的な物資輸送確保のために、海運界は国家管下に置かれるようになります。内海航路でも「国策」として、船会社や航路の統合整理が強力に進められます。その結果、大阪商船を主体に摂陽商船・阿波国共同汽船・宇和島運輸・土佐商船・尼崎汽船・住友鉱業の7社の共同出資により関西汽船株式会社が設立されます。

Kansailine


こうして尾道・多度津鉄道連絡航路を運行してきた瀬戸内商船も、関西汽船に委託されます。そして、昭和20年6月に多度津―笠岡以西の瀬戸内海西部を運航する旅客船業者7社が統合されて「瀬戸内海汽船株式会社」が設立されます。尾道、多度津鉄道連絡船は、この会社によって運航されるようになります。

 戦争末期になると瀬戸内海に多数投下された機雷のため、定期航路は休航同然の状態となります。
その上、土佐沖の米軍空母から飛び立ったグラマンが襲来し、航行する船や漁船にまで機銃掃射を加えてきます。こうして関西汽船の大阪~多度津航路も昭和20年6月5日以降は運航休止となります。多度津港を出入りするのは、高見~佐柳~栗島などの周辺の島々をつなぐ船だけで、それも機雷と空襲の危険をおかして運航です。ちなみに、この年には乗降客は7万9000余名、入港船舶は5000余隻に激減しています。しかもこの入港船舶のほとんどは軍用船や空襲避難のために入港した船で、定期船はわずか524隻です。それも周辺の島通いの小型船だけでした。関西汽船などの大型定期船はすべて休航し、港はさびれたままで8月15日の敗戦を迎えたようです。

1920年 多度津桟橋の尾道航路船
多度津港(1920年の絵はがき) 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「多度津町誌629P  明治から大正の海運」

多度津藩の湛甫築港と、その後の経済的な効果については以前にお話ししました。しかし、それ以前の多度津の港については、私にはよく分かっていませんでした。多度津町史を見ていると巻頭絵図に、文政元年(1818)石津亮澄「金毘羅山名勝図会」の多度津港の様子が載せられていました。今回は、この絵図で湛甫築港以前の多度津港を見ていくことにします。テキストは「多度津町史510P  桜川の港510P」です。多度津港については、江戸前・中期に関する史料がほとんどなくてよく分からないようです。
確かな史料は、「金毘羅山名勝図会」文政元年(1818)に描かれた多度津港です。この絵から読み取れることを挙げておきます。
金毘羅名勝図会
金毘羅名勝図会 多度津町史口絵より

此津も又諸国よりの参詣の舟入津して、丸亀におなしく大都会の地にて、舟よりあかる人昼夜のわかちなし。湊は大権現祭場の旧地にして、磯ちかき所に影向の霊石あり。九月八日の潮川の神蔓、いにしへは此津にて務めしか、後神慮によつて、今の石淵にうつれり。されとも例によつて、此地より汐・藻葉を今もかしこにおくれり。又祭礼頭屋の物類いにしへの風を残して、此津よりつくり出す。其家を工やといふ。

  意訳変換しておくと
 多度津も諸国からの金毘羅舟が出入りして、丸亀と同じように、舟から揚がる人が昼夜を分かたず多く、繁盛している。湊は金毘羅大権現の祭場の旧地にあたり、磯に近い所に影向の霊石がある。九月八日の潮川神事は、古にはこの津で行われていたという。それが現在では金毘羅石淵に移された。しかし、今でもここで採った藻葉を金毘羅に送っている。又、祭礼頭屋で使う物類も古の風を残して、多度津で作られた物が使われている。その家を「工や」と呼ぶ。

①「多度津の港参拝舟入津」として、港の賑わいぶりと紹介する絵図であること
②手前には大型船の帆だけが描かれているが、港には着岸できず沖合停泊であること。

多度津港 金毘羅山名勝図会」文政元年(1818)
       多度津港 金毘羅名勝図会の右側拡大部分

③桜川河口西側の堤防が沖に向かって伸ばされ、北西風を遮断する機能を果たしていること
④河口西側堤防の先端附近に高灯籠と港の管理センター的な役所が描かれていること
⑤河口から極楽橋までの桜川西側に小舟が停泊し、雁木(荷揚用階段)がいくつも整備されていること。

多度津港 金毘羅山名勝図会」(1818)
      多度津港 金毘羅名勝図会の左側拡大部分
⑥桜川東側には接岸・上陸機能はないこと
⑦桜川河口西側の岩壁に沿って、金毘羅街道が南に伸びていること、その街道の背後に町屋が形成
⑧桜川河口東側の突端附近に金毘羅社が鎮座し、その前に白い燈籠が2つ建っている
⑨桜川河口東側は砂州上で、そこに陣屋が造営され、周辺に家臣住居が集まっていること
⑩金毘羅に続く街道の先にポツンと見える鳥居が鶴橋の鳥居?

この絵図からは1818年の多度津港は、桜川河口の金昆羅社から極楽橋にかけての西河岸に雁木が整備され小舟が接岸できる港湾施設であったことが分かります。これは多度津湛甫(新港)以前の絵図ですが、この時点で、すでに金毘羅参詣船や廻船などがかなり寄港していたことがうかがえます。
 私が分からないのは、陣屋ができるのは文政十年(1827)11月のことですが、それ以前に書かれたとするこの絵図に陣屋が書き込まれていることです。今の私には分かりません。
もうひとつ不思議なことは、多度津の街並みと背後の山々が整合しないことです。
例えば、多度津港背後の多度津山(元台)がきちんと描かれていません。そして、金毘羅街道が向かう金毘羅象頭山がどの山か分かりません。鶴橋鳥居のはるか向こうの山とすると、左側の山々が説明できません。多度津から南を望めば、大麻山(象頭山)と五岳が甘南備山として続きます。これがきちんと描かれていなということは、絵師は現地を訪れずことなく他人の描いた下絵に基づいて書いたことが考えられます。地元絵師の下絵に基づいて、有名絵師が「名勝図会」などを出版していたことは以前にお話ししました。

次に工屋長治によって描かれた「多度津湊の図」(天保2年(1831)を見ておきましょう。

「多度津湊の図」(天保2年(1831)
   天保2年工屋長治の多度津絵図

 1818年の金毘羅名勝図会と比較すると、つぎのような変化が見られます。

多度津絵図 桜川河口港
       天保2年 工屋長治の多度津絵図(拡大図)

①桜川河口東側が浚渫され広くなっている
②桜川河口東側の金毘羅社の先に着岸施設が新たに作られ、舟が停泊している。
③極楽橋周辺には、大型船も着岸しているように見える
④桜川河口西側の湾には、一文字堤防など港湾施設はないが、多くの舟が接岸せず停泊している
ここからは、①②のように桜川河口の東側にも接岸施設が新たに設けられ、③極楽橋まで中型船が入港できるように改修工事が行われたことがうかがえます。しかし、④にみられるように、河口外の西側湾内には入港待ちの舟が停泊しています。つまり、オーバーユース状態となって、入港する舟を捌ききれなくなっていたことがうかがえます。
 街並みも桜川河口を中心として、金毘羅街道沿いに北へと延びている様子が描かれています。

丸亀湊 金刀比参拝名所図会
丸亀藩の福島湛甫と新堀湛甫(讃岐国名勝図会)
多度津藩の本家である丸亀藩は、文化3年(1806)に福島湛甫を築き、入港船の増加に対応しました。
しかし、金毘羅舟の大型化が急速に進み、この湛甫では底が浅く、大船の出入りは潮に左右され不便でした。そこで天保3年(1832)に、第3セクター方式で新堀湛甫を開きます。これが金昆羅参詣客の定期月参船のゴールに指定され、参拝客が急増します。多度津藩も、金比羅参拝客の急増を黙って見ているわけにはいきません。そこで動き出したのが多度津の民間業者たちです。

 「藩士宮川道祐(太右衛門)覚書」には、多度津湛甫の着工までの経緯が次のように記されています。
そもそも、多度津の湛甫築造の発端は、天保五年(1834)
に浜問家総代の高見屋平治郎・福山屋平右衛円右の両人から申請された。それを家老河口久右衛門殿が取り次いで、藩主の許可を受けて、幕府のお留守居平井氏より公辺(幕府)御用番中へ願い出たところ、ほどよく許可が下りた。建設許可の御奉書は江戸表より急ぎ飛脚で届いた。ところがそれからが大変だった。このことを御本家様(丸亀藩)へ知らせたところ、大変機嫌がよろしくない。あれこれと難癖を言い立てられて容易には認めてはくれない。 
 家老河口氏には、大いに心配してし、何度も御本家丸亀藩の用番中まで出向いて、港築造の必要性を説明した。その結果、やっと丸亀藩の承諾が下りて、工事にとりかかることになり、各方面との打合せが始まった。運上諸役には御用係が任命され、問屋たちや総代の面々にも通達が出されたった。石工は備前の国より百太郎という者が、陣屋建設の頃から堀江村に住んでいたので、棟梁を申し付けた。その他の石工は備前より多く雇入れ、石なども取り寄せて取り掛ったのは天保五年であった。

この工事については以前にお話したので、建設過程や工事費捻出については触れませんが小藩にしては不相応の大工事で、本家様(丸亀藩)は、事前相談がなかったと終始、非協力的だったようです。
 
 暁鐘成編(弘化四年刊)「金毘羅参詣名所図会」には、次のように記します。
多度津湛甫 33
多度津湛甫 (金毘羅参詣名所図会)
   此の津は、円亀に続きての繁昌の地なり。原来波塘の構へよく、人船の便利よきが故に湊に泊る船著しく、浜辺には船宿、 旅籠屋建てつづき、或は岸に上酒、煮売の出店、饂飩、蕎麦の担売、甘酒、餅菓子など商ふ者往来たゆることなく、其のほか商人、船大工等ありて、平生に賑はし。且つ亦、西国筋の往返の諸船の内金毘羅参詣なさんず徒はここに着船して善通寺を拝し象頭山に登る。其の都合よきを以て此に船を待たせ参詣する者多し。

  意訳変換しておくと

   多度津港は、丸亀に続ぐ繁昌の地である。この港は波浪への備えがきちんとしており、潮待ち湊としても便利がよいので、湊に入港する船が多い。そのため浜辺には、船宿、 旅籠屋建が建ち並び、岸には上酒、煮売の出店、饂飩、蕎麦の屋台、甘酒、餅菓子などを商ふ者の往来が絶えない。その他にも商人や、船大工らもいて町は賑わっている。さらに、九州ばどの西国筋の諸船が金毘羅参詣する時には、この港に着船して善通寺に参拝してから、象頭山・金毘羅大権現に登ることが恒例になっている。そのために、都合のいいこの港に、船を待たせて参詣する者が多い。

ここからは九州などの西国からの金比羅詣での上陸港が多度津であったことが分かります。
それを裏付けるのが安政6年(1859)9月、越後長岡の家老河井継之助の旅日記「塵壷」です。
塵壺

ここには金毘羅参詣で立ち寄った多度津のことが次のように記されています。
多度津は城下にて、且つ船附故、賑やかなり、昼時分故、船宿にて飯を食ひ、指図にて直ちに船に入りし処、夜になりて船を出す、それ迄は諸方の乗合、しきりにば久(博打)をなし、うるさき事なり、さきに云ひし如く、玉島、丸亀、多度津、何れも船附の杵へ様、奇麗なり。

意訳変換しておくと

多度津は城下町であると同時に、船附(港町)であるので賑やかである。昼頃に、船宿で飯を食べて、指図に従って船に入りって休息し、潮待ちする。夜になって、船を出す。それまでの間、乗船客が博打をして、うるさくて眠れない。先述したように。玉島、丸亀、多度津の港は、奇麗に整備されている。

慶応元年(1865)の秋から冬にかけ、京都の蘭医小石中蔵が京都~平戸間を往復しています。その帰途、多度津港に上陸、金毘羅参詣をしたときのことを旅日記「東帰日記」に、次のように記します。

多度津は、京極淡路様御城下なり、御城は平城にて海に臨む、松樹深くして見え難し、御城の東(西の間違いか)に湊あり、波戸にて引廻し、入口三か処あり、わたり二丁廻りあるべし、みな石垣切石にて、誠に見事也、数十の船此内に泊す、凡大坂西国の便船、四国路にかゝる、此湊に入る也、其船客、金毘羅参詣の者、みな此処にかゝる、此舟も大坂往来の片路には、かならず参詣するよし、外舟にも此例多し。

   意訳変換しておくと
多度津は、京極淡路様の御城下である。お城は平城で、海に面している。松が深く茂り、その内は見えないが、城の東(西の間違い?)に湊はある。防波堤を周りに巡らして、入口が三つある。全町は、2丁(220m)はあろうか。堤防はすべて石垣切石にて、誠に見事である。数十の船がこの港内に停泊している。大坂から西国への便船で、四国路(備讃瀬戸南)を航行するほとんどの舟が多度津港に入港する。その内のほとんどの船客が、金毘羅参詣者である。この舟も大坂往来の片路には、かならず参詣するという。外舟にもこの例多し。

これらの記録は、19世紀にあって多度津港が多くの船や金昆羅参詣船の寄港地としての繁盛しているようすを伝えます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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天保2年 工屋長治の多度津絵図(多度津町誌表紙裏)

参考文献      
「多度津町史510P  桜川の港510P」

延岡藩2
日向延岡藩の内藤家
  幕末に大名夫人が金毘羅詣でをした記録を残しています。
その夫人というのが延岡藩内藤家の政順に嫁いでいた充真院で、桜田門で暗殺される井伊直弼大老の実姉(異母)だというのです。彼女は、金毘羅詣でをしたときの記録を道中記「海陸返り咲ことばの手拍子」の中に残しています。金毘羅参拝の様子が、細やかな説明文と巧みなスケッチで記されています。今回は、大名夫人の金毘羅道中記を見ていくことにします。テキストは神崎直美「日向国延岡藩内藤充真院の金毘羅参り」です。

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充真院(じゅうしんいん:充姫)
まずは、充真院のことにいて「事前学習」しておきます。
  充真院は、寛政12年(1800)年5月15日、近江国彦根藩・井伊家の江戸屋敷で生まれています。父は第11代彦根藩主の井伊直中(なおなか)です。直中は歴代藩主の中で最も子宝に恵まれた殿様で、記録に残るだけで男子16人、女子6人を儲けています。正室との間にのちに藩主を継ぐ直亮、側室君田富との間には充姫の異母弟にあたる直弼(後の大老)がいます。
 15歳で充姫は、2歳年上の延岡藩主内藤正順に嫁いで男子をもうけますが早世します。病弱だった正順も天保五年(1834)に亡くなったので、出家して「充真院」と称しました。
 
延岡藩 
内藤家と伊達家との関係

 跡継ぎを失った内藤家は、充姫の実家である井伊家と相談の上、充姫の弟で15歳になる直恭を養子として迎えます。この時、候補として20歳になる直弼もあがったようです。しかし早世した子に年齢が近い方がよかろうと直恭が選ばれます。
直恭は、正義と改名し内藤家を継ぐことになります。20歳年下の弟の養母となった充姫は、正義を藩主として教育し、彼が妻を迎えたのを機に一線を退きます。こうして見ると、充真院は実弟を養子として迎え、後継藩主に据えて、その養母となったことになります。このため充真院の立場は強く、単に隠居という立場ではなく、内藤家では特別な存在として過ごしたようです。
充姫は嫁ぐ前から琴や香道などの教養を身に着けていました。それだけに留まらず、婚姻後は古典や地誌といった学問に取り組むようになります。「源氏物語」の古典文学、歌集では「風山公御歌集」(内藤義概著)を初め「太田伊豆守持資入道家之集」「沢庵和尚千首和歌」、「豪徳寺境内勝他」など数多くの古典、歌集を自ら書写しています。
 さらに「日光道の記」「温泉道の記」、「玉川紀行」、「玉川日記」といった紀行文も好んで読んでいます。それが60歳を越えて江戸と延岡を二往復した際の旅を、紀行文として著す素材になっているようです。
彼女のことを研究者は次のように評しています。

生来多芸多能、特に文筆に長じ、和歌.絵をよくし.前項「海陸返り咲くこと葉の手拍子」など百五十冊余の文集あり.文学の外、唄、三味線の遊芸にも通じ、薬草、民間療法、養蚕に至るまであらゆる部門に亘り一見識を持ち、その貪埜な程の知識慾、旺盛な実行力、特に計り知れぬその記憶力は誠に驚く斗りのものがある。

 江戸時代の大名の娘は、江戸屋敷で産まれて、そこで育ち、そして他藩の江戸屋敷に嫁いでいきます。
一生、江戸を出ることはありませんでした。それなのに充真院は、本国の延岡に帰っています。「大名夫人が金毘羅詣り」と聞いて、私は「入り鉄砲に出女」の幕府の定めがある以上は、江戸を離れることは出来ないはずと最初は思いました。ところが幕末になって幕府は、その政策を百八十度政策転換して、藩主夫人達を強制的に帰国させる命令を出しています。そのために充真院も始めて江戸を離れ、日向へ「帰国」することになったようです。弟の井伊直弼暗殺後の4年後のことになります。
幕末大名夫人の寺社参詣―日向国延岡藩 内藤充真院・続 | 神崎 直美 |本 | 通販 | Amazon

充真院は2度金毘羅詣でを行っていますが、最初に金毘羅を訪れたのは、文久三(1863)年5月15日です。
64歳にして、始めて江戸を離れる旅です。辛い長旅でもあったと思うのですが、充真院が残した旅行記「五十三次ねむりの合の手」を見てみると、充真院は辛い長旅をも楽しんでいる雰囲気が伝わってきます。精神的にはタフで、やんちゃな女性だったように私には思えます。

文久3(1863)4月6日に江戸を出発、名古屋で1週間ほど留まって大坂の藩屋敷に入ります。
金毘羅までの工程は次の通りです。
4月 6日 江戸出発
4月24日 大坂屋敷着
5月 6日 大阪で藩船に乗船
5月13日 多度津入港
5月15日 金毘羅参拝、
東海道は全行程を藩の御用籠を使っています。大坂に着くと、堂島新地にあった内藤家の大坂屋敷(現在の福島区福島一丁目)に入っています。ここで、藩の御座船がやってくるまで、10日間ほど過ごします。その間に、充真院は活動的に住吉神社などいくつもの大坂の寺社参詣を行っています。
日向国延岡藩内藤充真院の大坂寺社参詣
大坂の新清水寺(充真院のスケッチ)

 それまで外出する機会がほとんどなかった大名夫人が、寺社参りを口実に自由な外出を楽しんでいるようにも見えます。例えば、立寄った茶屋では接待女や女将らと気さくに交流しています。茶屋は疲れを癒しながらにぎやかなひとときをすごしたり、茶屋の人々から話を聞いて大坂人の気質を知る恰好の場所でもあったようです。そういう意味では、大坂での寺社参詣は長旅の過程で気晴らしになるとともに、充真院の知的関心・好奇心を満たしたようです。
5月6日 大坂淀川口の天保山から御座船で出港します。
そして、兵庫・明石・赤穂・坂出・大多府(?)を経て多度津に入港しています。ここまでで7日間の船旅になります。

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金毘羅航路の出発点 淀川河口の天保山

内藤藩の御座船は、大坂から延岡に下る場合には、次のような航路を取っていました。
①大坂の淀川の天保山河口を出て、牛窓附近から南下し、讃岐富士(飯野山)・象頭山をめざす。
②丸亀・多度津沖を経て、以後は四国の海岸線を進みながら佐田岬の北側を通って豊後水道を渡る。
③豊後国南部を目指し、以後は海岸沿いに南下して日向国の延岡藩領の入る。
④島野浦に立ち寄ってから、延岡の五ヶ瀬川の河口に入り、ここから上陸
この航海ルートから分かるように、内藤家の家中にとって、四国の金毘羅はその航海の途上に鎮座していることになります。大坂から延岡へ進む場合は、これからの航海の安全を祈り、延岡から大坂に向かう場合は、これまでの航海を感謝することとなります。どちらにしても、危険を伴う海路の安全を祈ったりお礼をするのは、古代の遣唐使以来の「海民」たちの伝統でした。そういう意味でも、九州の大名達が頻繁に、金毘羅代参を行ったのは分かるような気もします。

金毘羅船 航海図C13
金毘羅船の航路(幕末)

御座船のとった航行ルートで、私が気になるのは次の二点です。
①一般の金毘羅船は、大坂→室津→牛窓→丸亀というコースを取るが、延岡藩の御座船は明石・坂出などを経由していること。
②丸亀港でなく多度津に上陸して金毘羅詣でを行っていること。
①については、藩の御用船のコースがこれだったのかもしれませんがよく分かりません。
②については、九州方面の廻船は、多度津に寄港することが多かったようです。また、多度津新港の完成後は、利便性の面でも多度津港が丸亀港を上回るようになり、利用する船が急増したとされます。そのためでしょうか、

充真院は金毘羅を「金毘羅大権現」とは、一度も表記していません。
「金毘羅様」「金ひら様」「金毘羅」などと表記しています。当時の人々に親しまれた名称を充真院も使っているようです。

多度津湛甫 33
多度津湛甫(新港)天保9年(1838)完成
 多度津入港後の動きを見ていくことにします。
13日の夕七つ(午後四時頃)に多度津に入港して、その日は船中泊。
14日も多度津に滞在して仕度に備えた後、
15日に金毘羅に向けて出発。
充真院の旅行記には、13日の記録に次のように記します。
「明日は金昆羅様へ参詣と思ひし所、おそふ(遅く)成しまゝ、明日一統支度して、明後早朝よりゆかん(行かん)と申出しぬ」

ここからは当初の予定では14日に金毘羅を参拝する予定だったようですが、前日13日に多度津に到着するのが遅くなったので、予定を変更して、15日早朝からの参拝になったようです。大名夫人ともなると、それなりの格式が求められるので金毘羅本宮との連絡や休息所確保などに準備が必要だったのでしょう。
 充真院の金毘羅参りに同行した具体的な人数は分かりません。
同行したことが確認できるのは、御里附重役の大泉市右衛門明影と老女の砂野、小使、駕籠かきとして動員された船子たちなどです。同行しなかったことが確実な者は、重役副添格の斎藤儀兵衛智高、その他に付女中の花と雪です。斎藤儀兵衛智高は、御座船の留守番を勤め、花と雪は連絡準備のために前日に金毘羅に先行させています。      

 充真院にとって金昆羅参りは、その道中の多度津街道での見聞きも大きな関心事だったようです。 
そのため見たり聞いたりしたことを詳しく記録しています。幸いにも参拝日となった15日は朝から天気に恵まれます。一行は、夜が明けぬうちから準備をして出発します。多度津から金毘羅までは3里(12㎞)程度で、ゆっくり歩いても3時間です。そんなに早く出発する必要があるのかなと思いますが、後の動き見るとこのスケジュールにしたことが納得できます。
 旧暦の5月当初は、現在の六月中旬に相当するので、一年の中でも日の出が早く、午前4時頃には、明るくなります。まだ暗い午前4時頃の出発です。まず、「船に乗て」とあります。ここからは、係留した御座船で宿泊していたことがうかがえます。御座船から小船に乗り換えて上陸したようです。岸に移る小船から充真院は、「日の出之所ゆへ拝し有難て」と日の出を眺めて拝んでいます。海上から海面が赤々と光輝く朝日を見て、有難く感じています。

  多度津港の船タデ場
多度津湛甫拡大図 船番所近くに御座船は係留された?

船から上陸した波止場は石段がひどく荒れていて、足元が悪く危険だったようです。
「人々に手こしをおしもらひしかと」
「ずるオヽすへりふみはつしぬれは、水に入と思て」
「やうノヽととをりて駕籠に入」
と、お付きの手を借りながら、もしも石段がすべり足を踏み外したならば、海に落ちてしまうと危険な思いをしながらも、やっとのことで石段を登って駕籠に乗り込みます。
多度津港から駕籠に揺られて金毘羅までの小旅行が始まります。
充真院は駕籠の中から周囲の景色を眺め、多度津の町の様子を記します。この町は「大方小倉より来りし袴地・真田、売家多みゆる」
袴の生地や真田紐を販売する店が沢山あることに目を止めています。これらの商品の多くが小倉から船で運ばれてきたことを記しています。充真院が興味を持ち、御付に尋ねさせて知ったのかもしれません。それだけの好奇心があるのです。このあたりが現在の本町通りの辺りでしょうか。
多度津絵図 桜川河口港
金毘羅案内絵図 (拡大図)
 さらに進むと農家らしき建物が散在して、城下であると云います。
多度津港に上陸した参詣客達は、金毘羅大権現の潮川神事が行われる須賀金毘羅宮を左手に見ながら金毘羅山への道を進みはじめます。門前町(本通り一丁目)を、まっすぐ南進すると桜川の川端に出ます。
門前町のことを「城下」と呼んでいたとしておきます。
 また、三町(327m)程進むと松並木が続き、左側には池らしいものが見えたと記します。松並木が続くのは、街道として、このあたりが整備されていたことがうかがえます。そこから先は田畑や農家が多くあったというので、街道が町屋から農村沿いとなったようです。

DSC06360
              多度津本町橋
ここが桜川の川端で、本町橋が架かるところです。その左手には絵図には遊水池らしきものがえがかれています。この付近で「金ひら参の人に行合」とあり、同じ様に金昆羅参りに向かう人に出会っています。 
多度津街道ルート上 jpg
 多度津から善通寺までの金毘羅街道(多度津街道調査報告書 香川県教育委員会 1992年)

その後、 一里半(6㎞)程進んでから、小休憩をとります。ちょうど中間点の善通寺門前あたりでしょうか。地名は書かれていないので分かりません。建物の間取りが「マイブーム」である充真院は、さっそく休憩した家の造作を観察して次のように書き留めています。
「此家は間を入と少し庭有て、座敷へ上れは、八畳計の次も同じ」
「脇に窓有て、めの下に田有て、夫(それ)にて馬を田に入て植付の地ならし居もめつらしく(珍しく)」
門や庭があることや、八畳間が二部屋続いている様子を確認しています。ここで充真院は休憩をとります。そして、座敷にある窓から外を見るとすぐ下に田んぼが広がり、馬を田に入れて田植えに備えて地ならしをしていたのが見えました。こんなに近くで農作業を見ることは、充真院にとって初めての体験だったのかもしれません。飽かず眺めます。そして「茶杯のみ、いこひし」とあるので、お茶を飲みながら寛いだようです。
  このあたりが善通寺の門前町だと思うのですが、善通寺については何も記されていません。充真院の眼中には「金毘羅さん」しかなかったようです。
多度津街道を歩く(4)金刀比羅神社表参道まで
    金毘羅案内絵図 天保二(1831)年春日 工屋長治写

 休憩を終えて再び駕篭に乗って街道を進みます。

「百姓やならん門口によし津をはりて、戸板の上にくたもの・徳りに御酒を入、其前に猪口を五ツ・六ツにな(ら)へて有、幾軒も見へ候」

意訳変換しておくと
「百姓屋の門口に葦簀をはって、簡素な休憩所を設けて、戸板の上に果物・徳利に御酒を入れて、その前に猪口を五ツ・六ツに並べてある、そんな家を幾軒も見た」

ここからは、金毘羅街道を行き来する人々のために農家が副業で簡素な茶店を営業していたことが分かります。庶民向けの簡素な休憩所も、充真院の目に珍しく写ったようです。ちなみに充真院は、お酒が好きだったようなので、並んだ徳利やお猪口が魅力的に見えたのかも知れません。このあたりが善通寺門前から生野町にかけてなのでしょうか。
丸亀街道 田村 馬子
    枠付馬(三宝荒神の櫓)に乗った参拝客(金毘羅参詣名勝図会)

充真院は街道を行く人々にも興味を寄せています。
 反対側から二人乗りした馬が充真院一行とすれ違った時のことです。充真院らを見て、急いで避けようとして百姓らが設置した休憩所の葦簾張りの中に入ろうとしました。ところが馬に乗ってい人が葦簾にひっかかり、葦簾が落ちて囲いが壊れます。それに、馬が驚いて跳ねて大騒ぎになります。充真院は、この思いがけないハプニングを見て肝を冷やしたようです。「誠にあふなくと思ふ」と心配しています。
 実は、充真院を載せた籠は、本職の籠かきが担いでいるのではなかったようです。
「舟中より参詣する事故、駕籠之者もなく」
    船中からの参拝なので籠かきを同行していない
「舟子共をけふは駕籠かきにして行」   
      今日は船子を籠かきにして参拝する
其ものヽ鳴しを聞は、かこは一度もかつぎし事はなけれと、先々おとさぬ様に大切にかつき行さへすれはよからんと云しを聞き
  船子等は駕籠を担いだことが一度もないので本人たちも不安げだ。駕籠を落とさないように大切に担いでいけば良いだろうと話し合っていたのを耳にした。
これを聞いて充真院の感想は、「かわゆそうにも思、又おかしともおもへる由」と、本職ではない仕事を命じられた船子たちを可哀相であると同情しながらも、その会話を愉快にも感じています。同時に気の毒に思っています。身分の低い使用人たちに対しても思いやりの心を寄せる優しさが感じられます。
 こうして船子たちは

「かこかきおほへし小使有しゆへ、おしヘノヽ行し」

と、駕籠かきを経験したことがある小使に教えられながら、金毘羅街道を進んで行きます。
 しかし、素人の悲しさかな、中に乗っている人に負担にならぬよう揺れを抑えるように運ぶことまではできません。そのためか乗っていた充真院が、籠酔いしたようです。  なんとか酔い止めの漢方薬を飲んで、周りの風景を眺めて美しさを愛でる余裕も出てきます。

早苗のうへ渡したる田は青々として詠よく、向に御山みへると知らせうれしく、夜分はさそな蛍にても飛てよからんと思ひつゝ

意訳変換しておくと
 一面に田植え後の早苗の初々しい緑が広がる田は、清清しく美しい。向こうに象頭山が見えてきたという知らせも嬉しい。この辺りは夜になると、蛍が飛び交ってもいい所だと思った。」

充真院の心を満たし短歌がふっと湧くように詠めたようです。このあたりが善通寺の南部小学校の南の寺蔵池の堰堤の上辺りからの光景ではないかと私は推測しています。
美しい風景を堪能した後で、寺で小休憩をとります。
この寺の名前は分かりません。位置的には大麻村のどこかの寺でしょうか。この寺は無住で、村の管理下にあったようです。充真院一行が休憩に立ち寄ることが急に決まったので、あらかじめ清掃できず、寺の座敷は荒れ放題で、次のように記します。
「すわる事もならぬくらひこみ(ゴミ)たらけ、皆つま(爪先)たてあるきて」

と、座ることも出来ない程、ごみだらけで、 人々は汚れがつかないように爪先立ちで歩いたと記します。そして「たはこ(煙草)杯のみて、早々立出る」と、煙草を一服しただけで、急いで立ち去っています。ここからは、彼女が喫煙者であったことが分かります。
 大名夫人にとって、荒れ放題でごみだらけの部屋に通されることは、日常生活ではあり得ないことです。非日常の旅だからこそ経験できることです。汚さに辟易して早々に立ち去った寺ですが、充真院は庭に石が少しながら配してあったことや、さつきの花が咲いているが、雑草に覆われて他は何も見えなかった記します。何でも見てやろう的なたくましい精神力を感じます。
 寺を出てから、再び田に囲まれた道を進みます。
この辺りが大麻村から金毘羅への入口あたりでしょうか。しばらくすると町に近づいてきます。子供に角兵衛獅子の軽業を演じさせて物乞いしている様子や、大鼓を叩いている渡世人などを見ながら進むうちに、金毘羅の街までやってきたようです。「段々近く間ゆる故うれしく」と鰐口の響く音が次第に近づいて聞こえてくることに充真院は心をときめかせています。
象頭山と門前町
象頭山と金毘羅門前(金毘羅参詣名勝図会)
金昆羅の参道沿いの町について次のように記します。
「随分家並もよく、いろいろの売物も有て賑わひ」と、家並みが整って、商売が繁盛していることを記します。また「道中筋の宿場よりもよく、何もふしゆうもなさそふにみゆ」と、多度津街道の街道の町場と比較して、金毘羅の門前町の方が豊かであると指摘します。
 充真院一行は、内藤家が定宿としている桜屋に向います。
桜屋は表参道沿いの内町にある大名達御用達の宿屋でした。先行した女中たちが充真院一行が立ち寄ること伝えていたので、桜屋の玄関には「延岡定宿」と札が掛けてあります。一階の座敷で障子を開けて、少し休憩して暑さで疲れた体を休めようとします。ところが参道をいく庶民がのぞき込みます。そこで、二階に上って風の通る広間で息つきます。そして、いよいよ金昆羅宮へ参詣です。
今回はここまでにします。続きはまた次回に 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     神崎直美「日向国延岡藩内藤充真院の金毘羅参り」

   室町期に活発化するのが海民の「海賊」行為です。
その中で「海の武士」へ飛躍したのが芸予諸島能島の村上氏です。この時代の「海賊」には、次の二つの顔があったようです。
①荘園領主の依頼で警固をおこなう護衛役(海の武士)
②荘園押領(侵略)を行う海賊
このような「海賊=海の武士団」は、讃岐にもいたことを以前にお話ししました。多度津白方や詫間を拠点とした山地(路)氏です。

3弓削荘1
芸予諸島の塩の島・弓削島

山地氏は燧灘を越えて、芸予諸島まで出掛けて、塩の島と云われた弓削島を押領していることが史料から分かります。そこには押領(海賊)側として、「さぬきの国しらかたといふ所二あり。山路(山地)方」と記されています。「さぬきの国しらかた」とは、現在の多度津町白方のことです。ここからは15世紀後半の讃岐多度津白方に、山地氏という勢力がいて、芸予諸島にまで勢力を伸ばして弓削島を横領するような活動を行っていたことが分かります。そのためには海軍力は不可欠です。山地氏も「海賊」であったようです。

京都・東寺献上 弓削塩|弓削の荘
弓削は東寺の「塩の荘園」であった 

 今回は、山地氏がどのようにして香川氏の家臣団に組織化されていったのかという視点から見ていきたいと思います。テキストは 「橋詰茂  海賊衆の存在と転換 瀬戸内海地域社会と織田権力」
です。
瀬戸内海地域社会と織田権力(橋詰茂 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

山路氏は、『南海通記』に「西方関亭(立)中」として出てくることは、以前にお話ししました。
  香西成資の『南海通記巻七』(享保三年(1718)の「細川晴元継管領職記」の部分です。ここでは管領細川氏の内紛時に晴元が命じた動員について、当時の情勢を香西成資が次のように説明しています。その内容は、3段に分けることが出来ます。
1段目は、永正17年(1520)6月10日に細川澄元が亡くなり、その跡を継いだ晴元が、父の無念を晴らすために上洛を計画し、讃岐をはじめとする5ケ国に動員命令を出し、準備が整ったことを記します。
 2段目は「書二曰ク」と晴元書状を古文書から引用しています。その内容は
「京への上洛について、諸国の準備は整った。先兵として、明日軍勢を差し向けるので、急ぎ務めることが肝要である。香川氏にも申し付けてある」

日付は7月4日、差出人は細川晴元、受取人は「西方関亭(立)中」です。3段目が引用した晴元書状についての説明で、「この書、讃州西方山地右京進、その子左衛門督と云う者の家にあり」と注記しています。ここから、この文書が山地氏の手元に保管されていたことが分かります。
この文章で謎だったのが2段目の宛先「西方関亭(立)中」と山地氏との関係でした。これについては、以前に次のようにお話ししました。
①関亭は関立の誤記で「関を守るもの」が転じて海の通行税を徴収する「海賊衆」のこと
②山地氏は、能島村上氏とともに芸予諸島の弓削島を押領する「海賊衆」であったこと。
③山地氏は、多度津白方や詫間を拠点とする海賊衆で、後には香川氏に従うようになっていたこと
細川晴元が讃岐の海賊衆山地氏に対して、次のような意味で送った文書になるようです。
「上洛に向けた兵や兵粮などの準備が全て整ったので、そちらに送る。船の手配をよろしく頼む。このことについては、讃岐西方守護代の香川氏も連絡済みで、承知している。」

 この書状は細川晴元書状氏から山地氏への配船依頼状で、それが「讃州西方山地右京進、其子左衛門督」の家に伝わっていたようです。逆に山路(地)氏が「関亭中への命令」を保存していたと云うことは、山地氏が関亭中(海賊衆)の首であったことを示しています。
 ①守護細川氏→②守護代香川氏 → ③海賊衆(水軍)山地氏
という命令系統の中で、山地氏が香川氏の水軍や輸送船として活動し、時には守護細川氏の軍事行動の際には、讃岐武士団の輸送船団としても軍事的な役割を果たしていたことが見えてきます。

関亭は関立で海賊のことだとすると、「西方関立中」とは何のことなのでしょうか?
西方とは、讃岐を二つに分けたときに使われる言葉で、讃岐の西半分エリアをさします。守護代も「讃岐西方守護代」と呼ばれていました。つまり讃岐西方の海賊衆ということになります。文中に「此書は讃州西方山地有京進、その子左衛門督と云う者の家にあり」と記されています。最初に見たように寛正3年(1463)の弓削島を押領していた白方海賊衆山路氏が出てきました。その末裔がここに登場してくる山地氏だと研究者は考えています。「西方関立=海賊衆山路(地)氏」になるようです。そして、海賊衆山路氏は細川晴元の支配下にあったことが分かります。
 文書中に「香川可申候」とあります。この香川氏は讃岐西方守護代の香川氏です。
当時、西讃岐地方は多度津の香川氏によって管轄されていました。「香川氏も連絡済みで、承知している。」とあるので、細川氏は守護代の香川氏を通じて山路氏を支配していたことがうかがえます。

兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳 多度津船の活動
 文安2年(1445)の『兵庫北関入松納帳』には、守護細川氏の国料船の船籍地が、もともとは宇多津であったのが多度津に移動したことが記されています。また過書船は多度津を拠点とし、香川氏によって運行支配されていました。 つまり多度津港は、香川氏が直接に管理していた港だったようです。香川氏は多度津本台山に居館を構え、詰城として天霧城を築きます。香川氏が多度津に居館を築いたのは、港である多度津を掌握する目的があったと研究者は考えています。そうして香川氏は経済力を高めるとともに、これを基盤として西讃岐一帯へ支配力を強化していきます。山路氏のいる白方と多度津は隣接した地です。香川氏の多度津移動は山路氏の掌握を図ったものかもしれません。つまり海賊衆である山路を支配下におくことで、瀬戸内海の海上物資輸送の安全と船舶の確保を図ろうとしたと研究者は考えています。
3 天霧山4
香川氏の天霧城

香川氏は、永正16年(1519)、細川澄元・三好之長に従って畿内へ出陣しています。
しかし、五月の京都等持寺の戦いで細川高国に敗れて降伏し、その後は高国に属するようになります。その後の享禄元年(1528)からの高国と晴元の戦いでは、阿波の三好政長に与して晴元に属し高国軍と戦っています。その年の天王寺の戦いでは、香川元景は細川晴几の武将として木津川口に陣を敷いています。めまぐるしく仕える主君を変えていますが、「勝ち馬」に乗ることが生き残る術です。情報を集め、計算尽くで己の路を決めた結果がこのような処世術なのでしょう。
 これらの畿内への出陣には、輸送船と護衛船が必要になります。
その役割を担ったのが海賊衆の山路氏だったと研究者は考えています。文安年間(1444)以降は、山路氏は細川氏から香川氏の支配下に移り、香川氏の畿内出陣の際に活動しています。

多度津陣屋10
       多度津湛甫が出来る前の桜川河口港(19世紀前半)

晴元が政権を掌握した後、西讃岐の支配は香川氏によって行われています。
香川氏と細川晴元の関係を示すものとして次のような史料があります。
其国之体様無心元之処、無別儀段喜入候、弥香川弾正忠与相談、無落度様二調略肝要候、猶右津修理進可申候、謹言、
卯月十二日                            (細川)晴元(花押)
奈良千法師丸殿
発給年は記されていませんが、天文14、15年のものと研究者は推測します。宛て名の奈良千法師丸は誰かは分かりませんが、宇多津聖通寺城主の奈良氏が第1候補のようです。奈良氏は細川四天王の一人といわれていますが、讃岐での動向はよく分からないようです。この史料はわずかに残る奈良氏宛のものです。文中に「香川弾正忠与相談」とあります。守護の細川晴元は、守護代の香川弾正忠に相談してすすめろと指示しています。ここからは、次のような事が推測できます。
①それだけ西讃エリアでの香川氏の存在が大きかったこと。
②奈良氏の当主が幼少であったために、香川氏を後見役的立場としていたこと
奈良氏の支配領域は、鵜足郡が中心で聖通寺山に拠点をおいていました。香川氏にわざわざ相談すせよと指示しているのです。最初に見た山路氏の文章にも、香川氏には連絡済みであると記されていました。ここからは、細川晴元にとって香川忠与は頼りになる存在であったことがうかがえます。逆に言うと、香川氏を抜きにして西讃の支配は考えられなかったのかもしれません。それほど香川氏の支配力が西讃には浸透していことがうかがえます。内紛で細川氏の勢力が弱体化していることを示すものかもしれません。この時期には香川氏の勢力は、西讃岐だけでなく、中讃岐へも及んでいた気配がします。どちらにしても、細川氏の弱体化に反比例する形で、香川氏は戦国大名化の道を歩み始めることになります。
  以上をまとめておきます
①多度津白方や詫間を拠点として、芸予諸島の弓削島を押領していたのが山路(地)氏である
②山地氏は、海賊衆(海の武士団)として、管領細川氏に仕えていたことが史料から分かる。
③多度津からの讃岐武士団の畿内動員の際には、その海上輸送を山地氏が担当していた。
④多度津港は、香川氏の直轄港であり守護細川氏への物資を輸送する国領・過書船の母港でもあった。
⑤多度津港は、瀬戸内海交易の拠点港として大きな富をもたらすようになり、それが香川氏の成長の源になる。
⑥このような海上輸送のための人員やノウハウを提供したのが山地氏であった。
⑦細川家の衰退とともに、香川氏は戦国大名化の道を歩むようになり、山地氏も細川氏から香川氏へと仕える先を換えていく。
⑧その後の山地氏の一族の中には、海から陸に上がり香川氏の家臣団の一員として活躍する者も現れる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  「橋詰茂  海賊衆の存在と転換 瀬戸内海地域社会と織田権力」です。

室町時代の讃岐は、守護細川氏の求めに応じて何度も兵団を畿内に送り込んでいます。細川氏は、讃岐武士を、どのように畿内に動員していたのでしょうか、今回はこれをテーマにしたいと思います。テキストは「国島浩正 讃岐戦国史の問題       香川史学26号 1999年」です。
 細川晴元が丸亀平野の武士たちをどのように、畿内へ送り込んでいたのかがうかがえる史料を見ていくことにします。

 香西成資の『南海通記巻七』(享保三年(1718)の「細川晴元継管領職記」の一部です。

A
永正十七年(1520)6月10日細川右京大夫澄元卒シ、其子晴元ヲ以テ嗣トシテ、細川讃岐守之持之ヲ後見ス。三好筑前守元長入道喜雲ヲ以テ補佐トス。(中略)
讃岐国ハ、(中略)細川晴元二帰服セシム。伊予ノ河野ハ細川氏ノ催促二従ハス.阿波、讃岐、備中、土佐、淡路五ケ国ノ兵将ヲ合セテ節制ヲ定メ、糧食ヲ蓄テ諸方ノ身方二通シ兵ヲ挙ルコトヲ議ス。其書二曰ク、
B
出張之事、諸国相調候間、為先勢、明日差上諸勢候、急度可相勤事肝要候ハ猶香川可申候也、謹言
七月四日               晴元判
西方関亭中
C
  此書、讃州西方山地右京進、其子左衛門督卜云者ノ家ニアリ。此時澄元卒去ョリ八年二当テ大永七年(1527)二
(中略)
細川晴元始テ上洛ノ旗ヲ上ルコト此ノ如ク也。
意訳変換しておくと
A
永正17年(1520)6月10日細川澄元が亡くなり、その子・晴元が継いで、細川讃岐守が後見役、三好筑前守之長入道が補佐役となった(中略)
讃岐国ハ(中略)細川晴元に帰服した。これに対して伊予の河野氏は細川氏の催促に従わなかった。阿波、讃岐、備中、土佐、淡路五ケ国ノ兵将を合せて軍団を編成し、糧食を蓄えて、諸方の味方と連絡を取りながら挙兵について協議した。その書には、次のように記されていた。
B
「京への上洛について、諸国の準備は整った。先兵として、明日軍勢を差し向けるので、急ぎ務めることが肝要である。香川氏にも申し付けてある」で、日付は七月四日、差出人は細川晴元、受取人は「西方関亭中」です。
C
 「この書は、讃州西方山地右京進、その子左衛門督と云う者の家に保管されていた
これは、澄元が亡くなって8年後の大永七年(1527)のことで、(中略)細川晴元が、初めて軍を率いて上洛した時のことが記されている。
この史料は、管領細川氏の内紛時に晴元が命じた動員について、当時の情勢を香西成資が『南海通記巻七』の中で説明した文章です。その内容は、3段に分けることが出来ます。
 A段は澄元の跡を継いだ晴元が、父の無念を晴らすために上洛を計画し、讃岐をはじめとする5ケ国に動員命令を出し、準備が整ったことを記します。B段は「書二曰ク」と晴元書状を古文書から引用しています。その内容は
「京への上洛について、諸国の準備は整った。先兵として、明日軍勢を差し向けるので、急ぎ務めることが肝要である。香川氏にも申し付けてある」

 というのですが、これだけでは何のことかよく分かりません。
C段には、引用した晴元書状についての説明で、
「この書、讃州西方山地右京進、その子左衛門督と云う者の家にあり」と注記しています。ここから、この文書が山地氏の手元に保管されていたことが分かります。

この文章で謎だったのがB段文書の宛先「西方関亭中」と山地氏との関係でした。
これについては、以前に次のようにお話ししました。
①関亭という語は、「関を守るもの」が転じて海の通行税を徴収する「海賊衆」のこと
②山地氏は、能島村上氏とともに芸予諸島の弓削島を押領する「海賊衆」であったこと。
③山地氏は、多度津白方や詫間を拠点とする海賊衆で、後には香川氏に従うようになっていたこと
つまり、B段については、細川氏が海賊衆の山地氏に対して、次のような意味で送った文書になるようです。

「上洛に向けた兵や兵粮などの準備が全て整ったので、船の手配をよろしく頼む。このことについては、讃岐西方守護代の香川氏も連絡済みで、承知している。」

 この書状は細川晴元書状氏から山地氏への配船依頼状で、それが讃州西方山地右京進、其子左衛門督という者の家に伝わっていたということになるようです。逆に山地氏が「関亭中への命令」を保存していたと云うことは、山地氏が関亭中(海賊衆)の首であったことを示しています。
 ①守護細川氏→②守護代香川氏 → ③海賊衆(水軍)山地氏

という封建関係の中で、山地氏が香川氏の水軍や輸送船として活動し、時には守護細川氏の軍事行動の際には、讃岐武士団の輸送船団としても軍事的な役割を果たしていたことが見えてきます。

それでは兵は、どのように動員されたのでしょうか
「琴平町史 史料編」の「石井家由緒書」のなかに、次のような文書の写しがあります。
同名右兵衛尉跡職名田等之事、昆沙右御扶持之由被仰出候、所詮任御下知之旨、全可有知行由候也、恐々謹言。
         武部因幡守  重満(花押)
 永禄四年六月一日       
 石井昆沙右殿
意訳変換しておくと
同名(石井)右兵衛尉の持っていた所領の名田について、毘沙右に扶持として与えるという御下知があった。命の通りに知行するように 

差出人は花押のある「武部因幡守重満」で、宛先は石井昆沙右です。
差出人の「武部」は、高瀬の秋山文書のなかにも出てくる人物です。武部は賢長とともに阿波にいて、秋山氏の要請を澄元に取り次ぐ地位にいました。つまり、武部因幡守は阿波細川氏の家臣で、主君の命令を西讃の武士たちに伝える奉行人であったことが分かっています。

享禄四年(1532)は、細川晴元と三好元長が、細川高国を摂津天王寺に破り、自害させた年になります。石井昆沙右らは細川高国の命に従い、西讃から出陣し、その恩賞として所領を宛行われたようです。
石井氏は、永正・大永のころ小松荘松尾寺で行われていた法華八講の法会の頭人をつ勤めていたことが「金毘羅大権現神事奉物惣帳」から分かります。そして、江戸時代になってからは五条村(現琴平町五条)の庄屋になっています。戦国時代の石井氏は、村落共同体を代表する土豪的存在であって、地侍とよばれた階層の武士であったことがうかがえます。
 以上の史料をつなぎ合わせると、次のような事が見えてきます。
①石井氏は小松荘(現琴平町)の地侍とよばれた階層の武士であった
②石井氏は細川晴元に従軍して、その恩賞として名田を扶持されている。
これを細川晴元の立場から見ると、丸亀平野の地侍級の武士を軍事力として組織し、畿内での戦いに動員しているということになります。
琴平の石井氏の動員は、どんな形で行われたのでしょうか。
それがうかがえるのが最初に見た『南海通記』所収の晴元書状です。晴元の書状は、直接に西方関亭中(海賊衆)の山地氏に送られていました。山地氏はこのときに、晴元の直臣だったようです。それを確認しておきましょう。
応仁の前の康正三(1456)年のことです。村上治部進書状に、伊予国弓削島を押領した海賊衆のことが次のように報告されています。
(前略)
去年上洛之時、懸御目候之条、誠以本望至候、乃御斉被下候、師馳下句時分拝見仕候、如御意、弓削島之事、於此方近所之子細候間、委存知申候、左候ほとに(あきの国)小早河少泉方・(さぬきの国のしらかたといふ所二あり)山路方・(いよの国)能島両村、以上四人してもち候、小早河少泉・山路ハ 細河殿さま御奉公の面々にて候、能島の事ハ御そんちのまへにて候、かの面々、たというけ申候共、
意訳変換しておくと
昨年の上洛時に、お目にかかることが出来たこと、誠に本望でした。その時に話が出た弓削島については、この近所でもあり子細が分かりますので、お伝えいたします。弓削島は安芸国の小早河少泉方・讃岐白方という所の山路(地)氏・伊予国の能島村上両氏の四人の管理(押領)となっています。なお、小早河少泉と山路(地)は管領細川様へ奉公する面々で、能島は弓削島のすぐ近くにあります。

ここからは次のようなことが分かります。
①弓削島が安芸国小早河(小早川)少泉、讃岐白方の山路、伊予の能島両村(両村上氏)の四人が押領していること
②小早河少泉・山路は管領細川氏の奉公の面々であること
③4氏の本拠地はちがうが、海賊衆という点では共通すること
  そして、最後に「小早河少泉と山路は管領細川様へ奉公する面々」とあります。山地氏が細川氏の晴元の直臣だったことが確認できます。
 讃岐からの出兵に関しての軍事編成や出陣計画は「猶香川可い申候」とあります。
香川氏と事前の打ち合わせを行いながら、その指示の下に行えということでしょうか。ここからは、この出兵計画の最高責任者は讃岐西方守護代の香川氏だったことがうかがえます。もちろん、香川氏も兵を率いて畿内に出陣したでしょう。その際に使用された港は、多度津港であったことが考えられます。
 「兵庫北関入船納帳」(文安二年(1445)には、香川氏の管理のもとに、多度津から守護細川氏への京上物を輸送する国料船が出ていたのは以前にお話ししました。ここからは、堀江港に替わって桜川河口に多度津港が開かれ、そこに「関」が置かれ、山地氏らの海賊衆が国料船をはじめ多度津港に出入する船の警固に当っていたことは以前にお話ししました。 
 それが16世紀前半になると、多度津港は、阿波細川氏の西讃における海上軍事力として、軍兵の輸送や軍船警固の拠点港になっていたようです。

 西讃守護代の香川氏は、少なくともこの時期に2回の畿内出兵を行っています。県史の年表を見ておきましょう。
1517 永正14 9・18 阿波三好衆の寒川氏,淡路へ乱入
1519 永正16 11・6 細川澄元・三好之長ら,四国の兵を率いて摂津兵庫に到る。東讃の安富氏とともに香川氏も出陣
1520 永正17 3・27 三好之長,上京する(二水記)
      5・3 香川・安富ら,細川高国の陣に降る
      5・5 細川高国,三好之長を京都にて破る
  7 細川澄元,京都での敗戦
を聞き阿波に帰る
      5・11 三好之長父子,京都にて自害
      6・10 細川澄元,阿波において没する
   2年前から東讃の安富氏とともに香川氏も細川澄元・三好之長に従って出陣したが、この年五月、京都等持寺の戦いで細川高国軍に敗れ、之長は切腹、安富・香川は高国に降伏しています。

1531 亨禄4 2・21 三好元長,阿波より和泉堺に到る
      6・4 三好元長,細川高国を摂津天王寺に破る
      6・8 細川高国,細川晴元勢に攻められ摂津尼崎で自害

 享禄4年(1531)、細川晴元と三好元長が、大永七年に京都を脱出して以来各地を転々としながら抵抗を続けていた細川高国を摂津天王寺に破り、自害させた年です。この時に先ほど見た、琴平の石井昆沙右らは高国との一連の戦いに多度津から出陣し、その恩賞として晴元から所領を宛行われたと推測できます。

以上の年表から香川氏の畿内への出兵を考えると
一度は永正16年(1519)年で、東讃の安富氏とともに細川澄元・三好之長に従って出陣しています。しかし、翌年に細川高国軍に敗れ、之長は切腹、安富・香川は高国に降伏しています。
二度目は大永7年から享禄4(1531)年までの時期です。
享禄4年の天王寺合戦の際には、香川中務丞元景は晴元方の有力武将として、木津川口に陣を敷きます。
 畿内に出陣するためには、瀬戸内海を渡らなければなりません。この時に、多度津から阿波に陸路で向かい、三好軍とともに淡路水軍に守られて渡海するというのは不自然です。多度津から白方の海賊衆の山地氏や、安富氏の管理下にあった塩飽の水軍に警固されながら瀬戸内海を横断したとしておきましょう。
 以上を整理しておくと、
①阿波細川氏は讃岐の国侍への影響力を高め、畿内での軍事行動に動員できる体制を作り上げた。
②丸亀平野南端の小松庄(琴平町)の地侍・石井昆沙右は、細川晴元の命によって畿内に従軍している。
③その方法は、まず讃岐西方守護代・香川氏の命に応じて、多度津に集合
④細川晴元直臣の海賊衆山地氏の輸送船団や軍船に防備されて海路で畿内へ
⑤畿内での働きに対して、阿波細川氏より名田の扶持を下賜されている

 このように地侍級の武士を、有力国人武士の下に組織する軍事編成は寄親・寄子制といい、戦国大名たちの編成法のようです。そして、阿波細川氏の力が弱体化していくと、香川氏は地侍や三野氏・秋山氏などの有力国人武士や、海賊衆の山地氏などを自分の家臣団に組織化し、戦国大名への道を歩んでいくことになります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 国島浩正 讃岐戦国史の問題       香川史学26号 1999年
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金毘羅案内図 「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」明治初年

 町史ことひら5絵図・写真篇には、金毘羅信仰をめぐるいろいろな絵図や写真が収められています。前回まで見てきた金毘羅案内絵図も、この中に載せられている絵図類です。これらのパターンは丸亀港に上陸して、金比羅から善通寺+四国霊場七ヶ寺巡礼」をおこなって丸亀に帰ってくるというパターンでした。そんな中にあって、毛色のかわったものがひとつ収められています。
それが、下の多度津を起点とする絵図です。
多度津街道を歩く(4)金刀比羅神社表参道まで
金毘羅案内絵図 天保二(1831)年春日 工屋長治写

丸亀城が右下の端で、存在感が小さいようです。そして丸亀福島湛甫や新堀を探すと・・・・ありません。丸亀城の上(西)を流れる金倉川の向こうに道隆寺、その向こうに大きく広がる市街地は多度津のようです。多度津の街並みを桜川が堀のよう囲っています。この絵図の主役は、多度津のようです。多度津から金毘羅への街道が真ん中に描かれます。多度津には、大きな港が見えます。私は、これが多度津湛甫かなと最初は思いました。しかし、右上の枠の中には「天保二(1831)年春日 工屋長治写」とあります。当時の年表を見ておきましょう。
天保4年 1833 丸亀新掘湛甫竣工。
天保5年 1834 多度津港新湛甫起工。
天保6年 1835 金毘羅芝居定小屋(金丸座)上棟。
天保9年 1838 多度津港新湛甫完成。多度津鶴橋鳥居元に石燈籠建立。
天保11年1840 多度津須賀に石鳥居建立。 善通寺五重塔落雷を受けて焼失。
弘化2年 1845 金毘羅金堂、全て成就。観音堂開帳。
安政4年 1857 多度津永井に石鳥居建立。
万延元年 1860 高燈籠竣成。
 多度津湛甫が完成するのは、1838年のことですから、この絵図が書かれた時には湛甫はまだなかったことになります。ここに書かれている港は、それ以前の桜川河口の港のようです。丸亀港の繁栄ぶりを横目で見ながら、多度津の人々が次の飛躍をうかがっていた時期です。天保年間の多度津の港と町を描いた貴重な史料になります。
 ちなみに「天保二(1831)年春日 工屋長治写」とある工屋長治は、金毘羅神事の潮川神事の時に使われる祭器を作る家でもある格式のある家柄だったようです。

  全体絵図のモニュメントの完成期を見ておきましょう。
①善通寺の五重塔 天保11(1840)年落雷を受けて焼失するまで存続
②金毘羅の高灯籠 万延元(1860)年に完成なので、まだ見えず
③金比羅金堂   弘化2(1845)年完工。
③の金毘羅金堂は描かれているようです。これは、着工から30年近くかかって完成していて、瓦葺きから銅板葺への設計変更などもあり、それ以前から姿をみせていたということにしておきます。
 
 多度津町内部分を拡大して見てみましょう。
多度津絵図 桜川河口港

陣屋と市街地を結ぶ極楽橋が見えます。陣屋はかつての砂州の上に立地しています。中世は、ここが埋墓で、その管理や供養を行っていた
のが多聞院や摩尼院であることは、以前にお話ししました。ここには、高野の念仏聖などが住み着いて、阿弥陀信仰布教の拠点となっていたようです。墓地と寺院を結ぶ橋なので「極楽橋」と名付けられたのでしょう。そこに近世も終わりになって陣屋が建てられたことになります。
この絵図から読み取れることを挙げておきます。
①桜川に囲まれたエリアが「市街地」化している。
②桜川の東側は田んぼが広がっている
③桜川には、極楽橋・豊津橋・鶴橋の3本の橋しかなく、桜川が防備ラインとされていたことがうかがえる。
④豊津橋から西へ伸びる道と河口から南に伸びる金毘羅街道が戦略的な要路なっている。


多度津陣屋10
多度津陣屋
多度津港は陣屋が出来る前から、桜川の河口にあって活発な交易活動を展開していたようです。 18世紀後半安永年間の多度津港の様子を、船番所報告史料は次のように記します。
「安永四(1775)年、四月四日の報告には、一月八日より二十五日までの金比羅船の入港数が「多度津川口入津 参詣船数五百十一艘・人数三千二百十四人」

 正月の17日間で「金比羅船511隻、乗船客3214人」が多度津の桜川河口の港を利用していたことが分かります。一日平均にすると30隻、190人の金比羅詣客になります。ちなみに一隻の乗船人数は平均6,3人です。以前にお話したように、18世紀後半当時は金毘羅船は小型船であったようです。
 金毘羅山名勝図会
金毘羅山名勝図会
  文政年間(1818年~31)年に、大原東野が関わって出された「金毘羅山名勝図会」には、次のように記されています。
 (上巻)又年毎の大祭は、十月十日、十一日、又、三月、六月の十日を会式という。丸亀よりも多度津よりも参詣の道中は畳を布ける如く馬、升輿の繁昌はいうもさらなり。
 (下巻)多度津湊上只極壱岐守の御陣屋有此津も亦諸国よりの参詣の舟入津して、丸亀におなじく大都会の地にして、舟よりあがる人昼夜のわかちなし。
丸亀と同じく金毘羅詣で客で賑わう港町であることが記されて、次のような絵図も載せられています。

多度津港 桜川河口港
桜川河口の多度津港 金毘羅山名勝図会

この絵図にも桜川沿いに多くの船が係留され河口一帯が港の機能を持っていたことがうかがえます。また川沿いには蔵米館や倉庫が林立している様が見えます。桜川沿いに平行に街並みは形成されていたこともうかがえます。

19世紀に入ると、十返舎一九の弥次喜多コンビも丸亀港経由で金毘羅さんにお参りするように、金毘羅詣客が激増します。

丸亀港2 福島湛甫・新堀湛甫
丸亀の福島湛甫と新堀湛甫

そのため丸亀藩は新たに福島湛甫を建設し、受入体制を整えます。しかし、それも30年もしないうちにオーバーユースとなり、新堀湛甫を建設します。それほど、この時期の参拝客の増加ぶりは激しかったようです。そのような繁盛ぶりを背景に金毘羅さんは三万両の資金を集めて金堂新築を行うのです。
 一方、多度津に陣屋を構えたばかりの多度津藩も、大きな投資を行います。それが多度津湛甫の建設です。建設資金は、一万両を超えるもので、この額は多度津藩の1年の予算額に相当するものでした。親藩の丸亀藩からは「不相応なことはやめとけ」と、云われますが強行します。
天保9年 1838 多度津港新湛甫完成。
天保11年1840 多度津須賀に石鳥居建立。
弘化2年 1845 金毘羅金堂、全て成就。
安政4年 1857 多度津永井に石鳥居建立。 
  天保九(1838)年に完成した成したのが多度津湛甫です。9年後の弘化四(1847)年刊の「金毘羅参詣名所図絵」には、多度津湛甫がきれいに描かれています。

多度津湛甫 33
多度津湛甫 弘化四(1847)年刊の「金毘羅参詣名所図絵」

ここからは①の桜川河口の西側に堤防を伸ばし、一文字堤防などで港を囲んだ多度津湛甫の姿がよく分かります。桜川と隔てる堤防の上に船番所が設けられています。船番所は現在の多度津商工会議所付近になるようで、ここで入遊行船や上陸者を管理していたようです。新しく作られた港についてはよく分かるのですが、この絵図は多度津の街並みや、桜川河口の旧港は範囲外で知ることが出来ません。多度津の街並みについては、先ほどの絵図に頼るほかないようです。
  話が横道に逸れて今しました。もとに返って多度津港と金毘羅街道をみていくことにします。
多度津金毘羅案内図 多度津拡大

 多度津港に上陸した参詣客達は、金毘羅大権現の潮川神事が行われる須賀金毘羅宮を左手に見ながら金毘羅山への道を進みはじめます。須賀金毘羅宮には、多度津旧港周辺に寄進されていた常夜燈がすべて集まられているようです。門前町(本通り一丁目)を、まっすぐ南進すると桜川の川端に出ます。

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多度津本町橋
ここが現在の本町橋です。ここにはかつては、多度津街道最古の燈籠(明和六年(1796)や丁石八丁跡などが立っていたようです。
ここを右に折れ川端道を進むとすぐに鶴橋に出ます。
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多度津鶴橋
ここに弥谷道と金毘羅道に分かれる道標がありますので、ここが金毘羅道の起点と研究者は考えているようです。
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鶴橋の道標 右いやだに寺 左 こんぴら
  
鶴橋から金毘羅街道を100m程行くと次のようなモニュメントが建っていました。
①寛政六年(1794)に、雲州松江の金毘羅信者講が寄進した明神造大鳥居
②天保十一年(1840)に、芸州広島廻船方の鶴亀講寄進)の一対の燈寵
この絵図の中にも①の鶴橋の鳥居は描かれています。この鳥居は、寄進者のなかに「雷電為右衛門」等力士の名があるので雷電鳥居とも呼ばれていたようです。
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雷電鳥居 現在は桃陵公園の登坂に移転
現在は、鳥居・燈寵とも西の桃陵公園の登坂の途中に移転されています。
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雷電鳥居の東柱

東柱の寄進者氏名 松江世話人
    一 段 目
左官文三良 奥屋伝十 渡屋勘助  内崎屋六左衛門 中條正蔵  魚屋利兵衛 野自村久七 同村興三右衛門 内田屋新吉 畳屋茂助 木挽新蔵
    二 段 目
 廃屋茂吉 同 久五良 木村屋仙次郎  肥後屋喜右衛門 
自潟魚町 講 
同町石井戸講  古潭屋嘉兵衛  末次屋新三良 
田中屋次平  
高河屋彦三郎講 大芦屋次兵衛  船大工喜三八講 
坂井七良太 市川善次 川津屋善七講 津田海道講 高見亦吉 高見清二良 
    三 段 目
 乃木村甚蔵 隠部村嘉右衛門 福富村祖七 大谷村定右衛門 木挽覚三郎  筆屋祐兵衛 櫛屋平四郎 弦師屋忠右衛門 鍛治文三良講 荒嶋屋太五良 東海屋友八 木挽惣兵衛 吉田屋久兵衛  山根屋勘兵衛 張武浅吉講 久家太十 持田屋十左衛門  同 十五良 間村舞申 肝坂嘉左衛門
    四 段 目
 白潟上灘町講 寄進某 同町講中 南天神町講 湯町屋松之助講
 木挽惣兵衛講
 乃木屋伝兵衛講  古浦屋喜助講 伊予屋丁中 上灘町講中 寺町講中 
 筆屋文吉講
 灘町中組講 同町新講中 左官文吉講 名和野屋善兵衛 三
 吉屋覚兵衛 灘町講中
 福田善九郎 門脇七良左衛門
   五 段 目
 水浦屋五兵衛講  棟物屋兵吉講 三代屋伝之助講  坂井屋又右衛門講 本湯屋勝太良講  田中屋庄兵衛講 古浦屋定七講 西尾屋久助講 山本屋文吉講 和田見講中 川津屋善助 森脇屋伝 加茂屋次右衛門  木村屋藤右衛門 野波屋嘉左衛門 木挽政之助 八百屋七兵衛 八軒屋丁講 岩倉祖吉 布屋嘉兵衛
寛政の名力士「雷電為右衛門」は、鳥居の足下辺りに刻まれています。
  多度津の鶴橋から金毘羅までは、善通寺を抜けて約3里(12㎞)の距離でした。これを多度津街道と呼んでいました。この街道については、また別の機会に紹介します。
  
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
  香川県歴史の道調査報告書第5集 金毘羅参拝道Ⅰ 多度津街道 調査報告書 香川県教育委員会 1992年
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 今年の3月に販売開始になった「坂出市史近世編 下 第三節 海運を支えた与島」を読んでいると『金毘羅参詣名所図会』の多度津港を描いた絵図に、船たで場が描かれていると書かれていました。この絵図は何度も見ているのですが、気づきませんでした。疑いの気持ちを持ちながら再度見てみることにします。
香川県立図書館のデジタルアーカイブスで『金毘羅参詣名所図会』4巻を検索し、33Pを開くと出てきます。
200017999_00159多度津港
多度津湛甫(港)(金毘羅参詣名所図会4巻)

①の桜川河口の西側に長い堤防を築いて、1838年頃に完成したのが多度津湛甫でした。これより先に本家の丸亀藩は、福島湛甫を文化三年(1806)に築いています。その後の天保四年(1833)には、金毘羅参拝客の増大に対応して新堀湛甫を築いています。これは東西80間、南北40間、人口15間、満潮時の深さは1文6尺です。
 これに対し、その5年後に完成した多度津の新湛甫は、東側の突堤119間、西側の突堤74間、中央に120間の防波堤(一文字突堤)を設け、港内方106間です。これは、本家の港をしのぐ大工事で、総費用としても銀570貫(約1万両)になります。当時の多度藩の1年分の財政収入にあたる額です。陣屋建設を行ったばかりの小藩にとっては無謀とも云える大工事です。このため家老河口久右衛門はじめ藩役人、領内庄屋の外問屋商人など総動員体制を作り上げていきます。この時の官民一体の共同体制が幕末の多度津に、大きなエネルギーをもたらすことになります。幕末の動乱期に大砲や新式銃を装備した農民兵編成などの軍事近代化を果たし、これが土佐藩と結んで独自の動きをする原動力となります。多度津藩はなくなりますが、藩とともに近代化策をになった商人たち富裕層は、明治になると「多度津七福人」と呼ばれる商業資本家に脱皮して、景山甚右衛門をリーダーにして多度津に鉄道会社、銀行、発電所などを設立していきます。幕末から明治の多度津は、丸亀よりも高松よりも文明開化の進展度が早かったようです。その原点は、この港建設にあると私は考えています。
多度津港が完成した頃の動きを年表で見ておきます
1829年 多度津藩の陣屋完成
1831年 丸亀藩が江戸の民間資金の導入(第3セクター方式)で新堀湛甫を完成させる。
1834年 多度津藩が多度津湛甫の工事着工
1838年 多度津湛甫(新港)完成
1847年 金毘羅参詣名所図会発行

絵図は、多度津湛甫の完成から9年後に書かれたもののようです。多くの船が湾内に係留されている様子が描かれています。
船タデ場は、どこにあるのでしょうか?拡大して見ましょう。

多度津港の船タデ場
多度津港拡大図
桜川河口の船だまりの堤防の上には、船番所の建物が見えます。ここからの入港料収入などが、多度津藩の軍事近代化の資金になっていきます。そして、その奧の浜を見ると現在の桃陵公園の岡の下の浜辺に・・・

多度津港 船タデ場拡大図

確かに大型船を潮の干満を利用して浜に引き上げ、輪本をかませ固定して船底を焼いている様子が描かれています。勢いよく立ち上る煙りも見えます。陸上では、船が作られているようです。周囲には用材が数多く並べられています。これは造船所のようです。ここからは、多くの船大工や船職人たちが働いていたことが見てとれます。これは拡大して見ないと分かりません。

タデ場 鞆の浦3
造船所復元模型

船たで場については、以前にお話ししましたが、簡単におさらいしておきます。
廻船は、杉(弁甲材)・松・欅・樫・楠などで造られていたので、早ければ3ヶ月もすると、船喰虫によって穴をあけられることが多かったようです。これは世界共通で、どの地域でもフナクイムシ対策が取られてきました。船喰虫、海藻、貝殻など除去する方法は、船を浜・陸にあげて、船底を茅や柴など(「たで草」という)で燻蒸することでした。これを「たでる」といい、その場所を「たで場」「船たで場」と呼んだようです。
タデ場 フナクイムシ1

船タデの作業工程を、時間順に並べておきます。
①満潮時にタデ場に廻船を入渠させる。
②船台用の丸太(輪木)を船底に差し入れ組み立てる。
③干潮とともに廻船は船台に載り、船底が現れる。
④フジツボや海藻などを削ぎ取りる
⑤タデ草などの燃材を使って船底表層を焦がす。
⑥船食虫が巣喰っていたり、船材が含水している場合もあるので、防虫・防除作業や槙肌(皮)を使って船材の継ぎ目や合わせ日に埋め込む漏水(アカの道)対策や補修なども同時に行う。
 確かに、幕末に描かれた多度津湛甫(金毘羅参詣名所図会)には、船タデ場と造船所が描かれていました。これを文献史料で裏付けておきましょう。
 摂州神戸の網屋吉兵衛の船タデ場の建設願書には、次のように記されています。
「播磨の最寄りの港には船たで場がなく、廻船が船タデを行う場合は、讃州多度津か備後辺まで行かねばなりません。その利便のためと、村内の小船持、浜稼のもの、または百姓は暇々のたで柴・茅等で収入が得られ、村方としても利益になります。また、建設が決まれば冥加銀を上納いたします。」

 ここからは次のようなことが分かります。
①播州周辺には、適当な船タデ場がなく、多度津や備後の港にある船タデ場を利用していたこと
②船タデ場が地元経済にとっても利益をもたらす施設であったこと
播州の廻船だけでなく瀬戸内海を行き来する弁才天や、日本海を越えて蝦夷と行き来する船も多度津港を利用する理由の一つが有力なタデ場を保有港であったことがうかがえます。

 以前にお話ししましたが、タクマラカン砂漠のオアシスはキャラバン隊を惹きつけるために、娯楽施設やサービス施設などの集客施設を競い合うように整備します。瀬戸の港町もただの風待ち・潮待ち湊から、船乗り相手の花街や、芝居小屋などを設置し廻船入港を誘います。
船乗りたちにとって入港するかどうかの決め手のひとつがタデ場の有無でした。船タデは定期的にやらないと、船に損害を与え船頭は賠償責任を問われることもあったことは廻船式目で見たとおりです。また、船底に着いたフジツボやカキなどの貝殻や海藻なども落とさないと船足が遅くなり、船の能力を充分に発揮できなくなります。日本海へ出て行く北前船の船頭にとって、船を万全な状態にして荒海に漕ぎ出したかったはずです。

  タデ場での作業は、通常は「満潮―干潮―満潮」の1サイクルで終了です。
しかし、船底の状態によつては2、3回繰り返すこともあったようです。この間船乗りたちは、船宿で女を揚げてドンチャン騒ぎです。御手洗の船宿の記録からは、船タデ作業が長引いているという口実で、長逗留する廻船もあったことが分かります。「好きなおなごのおる港に、長い間おりたい」というのが水夫たちの人情です。御手洗が「おじょろぶね」として栄えたのも、タデ場と色街がセットだったからだったようです。
 船の整備・補修技術や造船技術も高く、船タデ場もあり、馴染みの女もいる、そんな港町は自然と廻船が集まって繁盛するようになります。そのためには港町の繁栄のためには「経営努力」と船乗りたちへのサービスは怠ることができません。近世後期の港町の繁栄と整備は、このようなベクトルの力で実現したものだと私は考えています。
新しく完成した多度津港の繁盛は、タデ場の有無だけではなかったはずです。
それはひとつの要因にしか過ぎません。その要因のひとつが金毘羅信仰が「海の神様」と、ようやく結びつくようになったからではないかと私は考えています。つまり、船タデのために入港する廻船の船乗りたちも金刀比羅詣でを始めるようになったのではないでしょうか。
 金毘羅神は、もともとは天狗信仰で修験者や山伏たちが信仰し、布教活動を行っていました。そのため金毘羅信仰と「海の神様」とは、近世後半まで関係がなかったようです。よく塩飽廻船の船乗りたちが金毘羅信仰を全国の港に広げ、その港を拠点に周囲に広がっていったというのは俗説です。それを史料的に裏付けるモノはありません。史料が語ることは、塩飽船乗りは摂津の住吉神社を海の神様として信仰していて、住吉神社には多くの塩飽船乗りの寄進燈籠が並ぶが、金刀比羅宮には塩飽からの寄進物は少ない。古くから海で活躍していた海民の塩飽衆は、金毘羅神が登場する前から住吉神社の信者であった。
 流し樽の風習も、近世に遡る起源は見つからない。流し樽が行われるようになったのは、近代の日本海軍の軍艦などが先例を作って行われるようになったものである。そのため漁師達が流し樽を行う事はほとんどない。
 いろいろな所で触れてきたように、金毘羅神は近世になって産み出された流行神で、当初は天狗信仰の一部でした。それが海の神様と結びつくのは19世紀になってからのようです。そして、北前船などの船乗りたちの間にも急速に信者を増やして行くようになります。そこで、船タデのために寄港した多度津港で、一日休業を金比羅参りに宛てる船乗りが増えた。船頭は、金比羅詣でのために多度津港で船タデを行うようになったと私は想像しています。これを裏付ける史料は、今のところありません。
「好きなおなごのいる港に入りたい」と思うように、「船を守ってくれる海の神様にお参りしたい」という船頭もいたと思うのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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  多度津港 天保2年 湛甫以前
天保2年の多度津 湛甫工事前で桜川河口に港がある

多度津湛甫は天保九年(1838)に完成します。
桜川沿いの須賀の金刀比羅神社の鳥居には、次のように刻まれています。
「天保十一年庚子季冬良日  当藩講連中」

築港完成と藩講成就記念として、この鳥居が建てられたことが分かります。湛甫の完成は、次のようなものを多度津にもたらします。
①金毘羅参拝客の中国・九州方面からの受入港としての機能
②北前船につながる瀬戸内海交易の拠点港としての機能
③湛甫(港)工事を通じて形成された官民一体性 
④その中で台頭してきた商業資本の活発な活動 
これらが小藩に人とモノと金があつまるシステムと、商業資本に活動の舞台をもたらします。それが後の「多度津七福人」と呼ばれる商業資本家グループの形成につながるようです。今回は、多度津港のその後を見ていきたいと思います。テキストは 多度津町史「港湾の変遷と土地造成」501P~ です。

 北前船の出入で賑わう港 天保の港で多度津藩は飛躍 
 多度津湛甫に入港する舟からは帆別銀が徴収されました。
その甫銭(入港料)は次の通りでした。
①一隻につき30文
②波止内入船については、帆一反について18文ずつ
③30石舟で三反、180石積で14反、四・五百石積以上の千石船は21反で計算
21反の帆を持つ千石舟で計算すると
21反×18文=376文 + 入港料一律30文 で、千石舟は400文近くの入港料を納めていたことになります。ちなみに天保十年の正月より六月まで半年間の入船数は1302艘と記されます。
 しかし、入港料よりも多度津に富をもたらしたのは、千石舟がもたらす積荷です。その積荷を扱う問屋は、近隣港や後背地との商売で多額の利益を上げるようになります。こうして、幕末の多度津は新興交易港として急速な発展を見せ、街並みも拡充していったようです。
多度津町教育委員会

江戸末期になると綿などの商品作物栽培のために、農家は千鰯を肥料として多く使用するようになります。北前船の入港によって羽鰊・鱗〆粕など魚肥の需要が増え、これを扱う干鰯問屋が軒を並べて繁盛するのは、瀬戸の港町のどこにも見られる風景になります。
丸亀港をも凌ぐ讃岐一の良港の完成によって、多度津港は中国・九州・上方はもとより、遠く江戸方面からの金毘羅宮・善通寺への参詣船や、あるいは諸国の物産を運ぶ船でにぎわい、瀬戸内海屈指の良港として繁栄していきます。
暁鐘成編(弘化四年刊)「金毘羅参詣名所図会」(写真)には次のように記されています。
金毘羅船々♫

此の津は、円亀に続きての繁昌の地なり。原来波塘の構へよく、入船の便利よきが故に湊に泊る船移しく、浜辺には船宿、 旅籠屋建てつづき、或は岸に上酒、煮売の出店、饂飩、蕎麦の担売、甘酒、餅菓子など商ふ者往来たゆる事なく、其のほか商人、船大工等ありて、平生に賑はし。」
亦、西国筋の往返の諸船の内金毘羅参詣なさんず徒はここに着船して善通寺を拝し象頭山に登る。其の都合よきを以て此に船を待たせ参詣する者多し。
意訳変換しておくと
この港は、丸亀に続いて繁盛している。波留設備が得できていて、入船出船の便利がいいので、数多くの舟が湊に入ってくる。岸には船宿、 旅籠屋が建ち並び、上酒や煮売など出店、饂飩(うどん)や蕎麦の屋台、甘酒・餅菓子などを商う者が行き交う姿が絶えることが内。その他にも商人や船大工等もいて、よく賑わっている。
 また、西国筋の往来船の中で、金毘羅参詣する者はここに着船して善通寺を参拝してから象頭山金毘羅さんに登る。それに都合がいいので、この港に船を待たせ参詣する者が多い。

と、多度津港の繁栄ぶりを記しています。

もう少し幕末の多度津を見ておきましょう。
安政六年(1859)九月、越後長岡の家老河井継之助が、尊敬していた山田方谷を備中国松山にたずねた時の旅日記「塵壺」には、多度津の姿が次のように記されています。

多度津は城下にて、且つ船着故、賑やかなり。昼時分故、船宿にて飯を食い、指図にて直ちに舟に入りし処、夜になりて舟を出す。それまでは諸方の乗合、しきりにば久(博打)をなし、うるさき事なり、さきに云ひし如く、玉島、丸亀、多度津、何れも船着きの備え様、奇麗なり。

意訳変換しておくと
多度津は城下街で、かつ船着港であるため賑やかである。昼時分なので船宿で飯を食べて、指示通りにすぐに舟に入ったが、舟が出たのは夜になってからだった。それまでは、舟の上では乗合客が、博打をうってにぎやかなことこのうえない。先ほども云ったが、玉島、丸亀、多度津は、どこも港町で街も奇麗である。

更に、慶応元年(1865)の秋から冬にかけ、京都の蘭医小石中蔵が京都~平戸間を往復した帰途に、多度津港に上陸して金昆羅参詣をしています。その時の多度津港の様子を、彼は旅日記「東帰日記」には次のように記されています。
多度津は、京極淡路様御城下なり、御城は平城にて海に臨む、松樹深くして兇え難し、御城の東(西の間違いか)に湊あり、波戸にて引廻し、入口三か処あり、わたり二丁廻りあるべし、みな石垣切石にて、誠に見事也、
数十の船此内に泊す、大凡大坂西国の便船、四国路にかゝる、此湊に入る也、其船客、金毘羅参詣の者、みな此処にかゝる、此舟も大坂往来の片路には、かならず参詣するよし、外舟にも此例多し。
意訳変換しておくと
多度津は、京極淡路守様の御城下である。城は平城にで海を臨み、松が繁り伺いがたい。御城の西に湊があり、歯止めがあり、入口が三か処あり、すべて石垣は切石で、誠に見事な造りである。
数十艘の舟が湾内には停泊しており、大体が大坂西国の便船で四国路に関係する舟はこの湊に入る。金毘羅参詣の者はみなここで下りる。この舟も大坂往来の際には、かならず参詣するという。その他の舟も、このような例が多い。
これらの記録からは、多度津の金毘羅参詣船の寄港地としての繁盛ぶりがうかがえます。                
天保九(1838)年に完成した多度津湛甫は、明治半ばになると、港内に桜川からの堆積物が流れ込み、港内が埋まってきます。一方で
 明治中期になると、瀬戸内海の各港を結ぶ定期航路が整備され、客船が盛んに多度津港へも出入りするようになり、客船の大型化が進みます。従来の和船と違って吃水の深い汽船は、出入りに不便が生じるようになります。
 明治になっても金刀比羅宮や善通寺参詣熱は衰えませんでした。参拝客でにぎわっていた多度津港にとって、新しい蒸気船時代にあった港の整備が課題になってきます。

多度津湛甫の見取り図

明治5年には、当時の多度津戸長(町長)が港ざらえについて、次のような通達を出しています。
湛浦浚方の事
当湛浦は一村の盛衰に係候場所に候所 各々存知の通り、次第に浅く相成り既に干汐の節は入船入り難く、小繁昌の基いに付、此度浚方(さらえ)相企て本願候処御聞済下され、毎年帆別銭悉差し下し相成、其上金百両下賜候右様県庁よりも深く御世話下され候段感激奉り候。
各々家職の義は港の深浅に依り、損益少なからず候事に付一層勉励致し、相磨き力を合わせて前文諸説を合わせて資金として、永世不場の仕方相立て度候条、浚方簡場の見込有之候はば無腹臓中出すべく候
此段相達候也
壬申(明治5年)九月                                    戸 長
この願い出は、明治9年10月にはいったん許可になり、 直ちに工事に着手しました。ところが5年後の明治14年5月になって「ご詮議の次第あり」と港ざらえ中止の通達が下されます。
そうした矢先に、明治17年8月には台風水害のため港は一層浅くなってしまいます。
 そこで、多度津村会は次のような願出を愛媛県知事に提出しています。
「先年許可になった一三か年間の帆別銭の取り立てのうち、明治9年11月から14年2月までの56か月分を除いた8年4か月分の帆別銭を徴収させて欲しい。浚渫した土砂は、桜川一帯を埋め立てて宅地とし、これを売った益金を今後の港改修費用にあてたい」
 


この計画案は、明治21年2月18日付で次のように許可されます。
①桜川埋め立ては本年12月までに竣工すること
②港内浚渫は許可日より50日以内に着手、10か月間に竣工。
③竣工後、8年5か月間、規定の入港銭徴収を認める。しかし軍艦、水上警察署官用船からは徴収できない
④先に引き揚げた遺払残金1320円60銭3厘は郡役所を経て下げ渡す。
これを受けて 
旧藩主京極家より 2000円
郡より    820円
船改所の公売代金 1366円
12人の寄付金   804円
合計4900円で浚渫工事に着工します。
この時に浚渫から出た土砂で、桜川の旧港や左岸一帯は埋め立てられたようです。
こうして桜川沿いの仲ノ町5番10号から東浜4・5番のあたりが造成され、港に通じる道路の両側には、旅館・商店等が軒を連ねる繁華街が生まれます。
P1240931
浚渫の土砂で埋め立てられた上に、建設された鉄道施設
明治22年には、桜川河口右岸にあった旧藩士調練場とその周辺(現市民会館サクラート)は、讃岐鉄道に買収されます。ここを起点として多度津駅並びに器械場(修理工場)が建設されます。こうして旧京極藩陣屋は、鉄道ステーションへと一変することになります。

P1240953 初代多度津駅
初代多度津駅
 そして5月23日には多度津~琴平、多度津~丸亀間に鉄道が開通し、多度津駅がその起点となるのです。この時に、金毘羅橋の北手の讃岐信用金庫多度津支店裏通り付近も埋め立てられました。

多度津駅初代
初代多度津駅
一方、明治19年4月、大久保誰之丞の提唱で四国新道工事も伸びて来ます。
そのため琴平~多度津間の道路も拡張されます。この一環として鍛冶屋町(現仲/町付近)や須賀町(現大通り)の民家が立ち退きになります。須賀町にあった金刀比羅神社も、この道路にかかり、現在地へ移されます。この道路の開通により現在の大通りが形成され、人家は急速に立ち並んで行くことになります。
多度津 明治24年桜川埋め立て概況
明治24年 多度津桜川の埋め立て部分

日清戦争時の多度津港改築の出願 東浜の埋め立て 
 日清戦争後の明治29年(1896)10月、港内の浚渫と、東浜内港の埋め立てが終了します。この埋立地は現在の東浜六にあたり、ここに水上警察署用地・荷揚場・階段(大がんぎ)・道路・宅地合わせて、2906㎡を造り、内港に入れない汽船からの旅客の上陸や、貨物の荷揚げの便をはかられました。この荷揚場は、日露戦争に出航する兵士の乗船場として大いに役立ったと云います。

多度津港地図

西浜海岸の埋め立て
 日露戦争が始まると出征する第十一師団の各部隊は、多度津沖に停泊した大型汽船で大陸に出征していきました。旅順攻撃で戦死・戦傷して帰還するため、多度津港は送迎の官民で溢れるようになります。
 そのモニュメントして桃陵公園に立っているのが「一太郎やーい」の銅像です。戦地に赴く息子を見送る母親像については、以前に紹介しましたが、この時に一太郎が乗った船はハシケでした。ここからは、大型汽船は沖合に停泊して、乗降者はハシケに乗って、港と船を移動しなければならなかったことが分かります。善通寺11師団の多度津港の軍用港としての整備拡充が、政府の「富国強兵」からも求められるようになります。
日露戦争時の多度津港

日露戦争時の多度津港

 このような機運を受けて、多度津町長塩田政之は 明治39年4月、内務大臣原敬に次のような改築工事申請書を提出します。

多度津は四国の各地を始めとし、阪神地方及び西海中国の諸港と交通の衝路に当り船舶輻輳して貨客集散の地たり。殊に金刀比羅宮参詣旅客の、当港より登降するもの夥しく、四時絶ゆることなし。而して当港に接近せる地方の物産、海外に輸出するものを挙ぐれば、麦科真田・竹細・団扇・花筵・紡縞・生糸、食塩・米穀・木綿及び、水産物製造品等にして、其の需要国は支那・朝鮮及び英米なり。

 輸入品は米穀・肥料・砂糖・石油・織物・綿・洋鉄の類にして、明治36年の調査に依れば、其の輸出入品価格は実に130万円に達せり。而して人口一万未満の当町商人の取扱する、当港経由輸出入商品の価格は、明治三十六年に於いて218万余円なり。而して一等測候所あり、一等郵便電信局あり、水難救済所あり、共の他船舶司検所あり、港湾の要具悉く備れり。且つ本港は第十一師団司令部を経る、僅一里十町(約5㎞)に過ぎずして、商業最も繁盛の地なり。讃岐鉄道も本港を起点として高松に達し南琴平に至る。しかのみならず四国新道は既に開通して、高知徳島愛暖に達する便あり、且つ現今に於いて当港と尾道間に於いて、山陽鉄道連絡汽船日々航海をなし、運輸上に革新を来すと雖も、現在の多度津港は未だ交通の開けぎる、天保年間当時の築港なれば、規模甚だ小にして、今日の趨勢に適応すること能はず。共の不便実に鮮少ならぎるなり。而して東方高松に於いては、長きに築港の完成なるあり。故に今之れを改築して、高松と東西相呼応し、以て貨客集故の要地となすは、刻下の急務と存ぜられ候。而して時恰も日露戦後に際し、臨時乙部碇泊司今部の設置等ありしも、軍隊輸送上大いに不便を感ずる所あり。故に今回更に測量の結果、ニケ年の継統工事となし、本港を改築する事を、町会に於いて本議を一決し、永遠の利益を企図し、一面軍事上運輸交通を便にし、殖産興業の発達を謀り、又日露戦役の紀念たらしめんとする。
 然るに其の費額総計19万7917円3銭7厘の巨額を要するを以て、共の内金18万9340円67銭6厘は、之を公債に仰がんとす。共の所以は本町民の負担を見るに、国税割等90銭戸別割は一戸につき8円50銭強の負担にして、何れも重荷なるのみないず、直接国税府県町村税等の負担を合すれば、 一戸につき29円60銭3厘なり。斯の如く各種の負担は、共の極に辻し、重課と云はざるを得ず。故に本事業に対する費額全部を、一時に賦課徴収するは、不可能の事に属するを以て、之れを公債に依らんとするや、実に止むを得ざるなり。
この申請書は認められます。その費用は次の通りでした
総工事費は 385568円
県費補助    25910円
郡費補助     1200円
町税及び公債 221543円
公債は港と桟橋の使用料で支払う計画だったようです。当時の道路や港が町村の「自己負担」なしではできなかったことがここからは分かります。町長は、県の支援額をできるだけ多く得てくることと、地元負担をどのようにして集めるかが大きな手腕とされた時代です。予算オーバーすれば、町長が自腹を切ったという話がいろいろな町に残っています。町長は県議を兼任し、県議会で地元の道路や港などの建設資金の獲得に奔走したのは、以前にお話ししました。
1911年多度津港
明治44(1911)年の多度津港 
この起債申請に対し、明治39年7月に国の許可が下ります。
こうして12月1日に、東突堤中心位置に捨石が投入されて工事が始まります。この拡張工事は、天保9(1837)の湛甫の一文字堤防の北側に外港を造って、その中に桟橋を設けて大型汽船の横付けができるようにするものでした。そのために、次のような工事が同時に進められます。
①西側は、嶽ケ下の北側に長さ510mの西突堤
②東側は、約26000㎡の埋め立ての北に、防浪壁のついた330mの東突堤
③同時に浚渫した土砂で埋め立て地を造成

1911年多度津港 新港工事
多度津港の外港工事

こうして、幕末から明治末に掛けての多度津は、すぐれた港湾設備を持つことによって、高松や丸亀を凌駕するほどの港町となっていたのです。そこに蓄積された資本や人脈が鉄道や電力などの近代工業を、この町に根付かせていくことになったようです。まとまりがなくなりましたが最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 多度津町史「港湾の変遷と土地造成」501P~ 


多度津藩歴代藩主系図
多度津京極藩系図

多度津藩は元禄七年(1694)に丸亀藩から独立します。

しかし、自前の陣屋を持つことはなく、丸亀城の西屋敷に「間借り」して政務が行われるという状態が百年近く続きます。
丸亀城 大手町居住者19jpg
現在の丸亀裁判所付近に①林求馬の屋敷 ②御用所(政庁)があったことを示す絵図。

間借り状態では、藩運営も丸亀藩のしきたり通り行うのが常道とされていました。
 ところが寛政八年(1796)に21歳の四代高賢が家督を継ぐと藩の空気が変わっていきます。まず林求馬時重が家老に就任します。彼は、30歳前の働き盛りで藩政の改善、自立化を進めようとします。 その第一が藩主の居館と政庁を多度津に移すことでした。
 林は、お城ではなく伊予西条藩のような陣屋を多度津に新たに建設する案を、丸亀藩の重役方藩や同僚の反対を押して決定します。こうして陣屋建設が始まりますが、工事途中の文化五年(1808)家老の林が突然に亡くなってしまいます。建設工事は、林という推進力を失って中断してしまいました。
多度津藩陣屋跡位置図
多度津藩陣屋位置図
しかし、藩主高賢は計画をあきらめてはいませんでした。
約20年後の文政九年(1826)に工事を再開させます。工事中の多度津の陣屋御殿に移り住み、工事を見守り、推進役となります。同時に藩士にも厳しい倹約を求めたようです。陣屋建築のためには、すでに大阪の鴻池別家や京都の萬猷院から三千両の借り入れがありましたが、それでも資金は足りません。そこで藩は富商や村々の庄屋をはじめ広く領民に「陣屋御引越し」の冥加金を課します。形の上では出資者の自発性が尊重され、各人、各村は自らの資力、村の規模や家格、藩との関係や役柄を考慮しながら、最後は談合により、それぞれ出来るだけ横並びに負担額を決めたようです。
多度津陣屋配置図
多度津町内遺跡発掘調査報告書2 多度津藩陣屋施設

 実質的には、これは「献金の強制」です。しかし「多度津へ御引越し献上金」という大義名分に、領民の多くが強制と受け取らず、むしろ積極的に献金に応じたようです。人々は藩の自立を望み、その象徴として多度津の陣屋建設に期待をかけたのかもしれません。領民にとって、これまでは多度津藩に城がないことを
「多度津あん(さん)に後ろ(後頭部のふくれ)なし」
と頭の形にかけて、郡楡されてきた悔しさがその背景にあったとも伝えられます
多度津陣屋10
多度津藩陣屋

 工事が再開された文政九年の三回の献上金目録が藩日記に残されています

第一回 多度津の商家66人で計51貫500匁。
第二回 藩内町方・村方の富裕層23人で計銀100貫
第三回 一部富裕層8人の再度の献金(74貫)と藩内村方の庄屋19人(18貫)ほか これら全三回の総計は銀448貫(=7442両)と記されています。
金一両は現代感覚(賃金の比較)で今の三〇万円になると研究者は考えているようです。この年に多度津藩領民が陣屋建設に献上した総額7442両は、22億3260万円ほどになります。
多度津湛甫(たんぼ)の建設の背景と目論見は?  
18世紀後半の多度津港は、急速に発達した日本海沿岸と大坂を結ぶ瀬戸内海航路の拠点として重要性を増しつつありました。それに加えて、金比羅船が就航し庶民の間で琴平詣での人気が高まるにつれ、大阪はじめ瀬戸内海沿岸や九州各地から参詣客を運ぶ船が丸亀・多度津を目指すようになっていました。受け入れ側の港の拡充・新設が求められていたのです。
丸亀港3 福島湛甫・新堀湛甫
丸亀藩の福島湛甫と新堀

 これに最初に動いたのは、丸亀藩です。丸亀藩は、江戸で金比羅講を使って「民間資金の導入=第三者セクター方式」で、天保二年(1831)新しい船溜まり(新堀湛甫)を短期間で作り上げます。
これを追いかけるように4年後に、多度津藩も新港建設に着手します。
多度津港 陣屋建設以前?
        旧多度津港 桜川河口が港だった
 
それまでの多度津の港は、町の中心を流れる桜川の河口を利用した船溜まりにすぎませんでした。新しい港は、その西側にの崖下の海岸を長い突堤や防波堤で囲んで、深い水深と広い港内海面をもつ本格的な港の計画書が作成されます。これは丸亀藩新堀湛甫に比較すると本格的で工費も大幅にかさむことが予想されましたが、この計画案を発案したのは藩ではなく、回船問屋や肥料や油・煙草などを扱う万問屋など町の有力商人たちでした。
 前年に父に代わったばかりの20歳の新藩主・高琢は、この案に乗り気ですぐに同意したようです。この事業のために隠居していた河口久右衛門が家老に呼び戻され、采配を振うことになります。そして財務に明るい家老に次ぐご用役に小倉治郎左衛門が就き補佐する体制ができます。
「藩士宮川道祐(太右衛門)覚書」(白川武蔵)には、その経緯が次のように記されています。
そもそも、多度津の湛甫築造の発端は、当浜問家総代の高見屋平治郎・福山屋平右衛円右の両人から申請されたもので、家老河口久右衛門殿が取り次いで、藩主の許可を受けて、幕府のお留守居平井氏より公辺(幕府)御用番中へ願い出たところ、ほどよく許可が下りた。建設許可の御奉書は江戸表より急ぎ飛脚で届いた。ところがそれからが大変だった。このことを御本家様(丸亀藩)へ知らせたところ、大変機嫌がよろしくない。あれこれと難癖を言い立てられて容易には認めてはくれない。 
 家老河口氏には、大いに心配してし、何度も御本家丸亀藩の用番中まで出向いて、港築造の必要性を説明した。その結果、やっと丸亀藩の承諾が下りて、工事にとりかかることになり、各方面との打合せが始まった。運上諸役には御用係が任命され、問屋たちや総代の面々にも通達が出されたった。石工は備前の国より百太郎という者が、陣屋建設の頃から堀江村に住んでいたので、棟梁を申し付けた。その他の石工は備前より多く雇入れ、石なども取り寄せて取り掛ったのは天保五年であった。

 これより先に本家の丸亀藩は、福島湛甫を文化三年(1806)に築いています。その後の天保四年完成した新堀湛甫は東西80間、南北40間、人口15間、満潮時の深さは1文6尺です。これに対し多度津の新湛甫は、東側の突堤119間、西側の突堤74間、中央に120間の防波堤(一文字突堤)を設け、港内方106間です。これは、本家の港をしのぐ大工事で、総費用としても銀570貫(約1万両)になります。当時の多度藩の1年分の財政収入にあたる額になります。陣屋建設を行ったばかりの小藩にとっては無謀とも云える大工事です。このため家老河口久右衛門はじめ藩役人、領内庄屋の外問屋商人など総動員体制を作り上げていきます。

多度津陣屋5

 多度津新港の実現には、さまざまな困難があったようです。特に資金集めには苦労したようです。史料には次のように記されています。

それより数年長々かかり、お上に於いても余程の御物入りに相なり、大坂屋(丸亀の豪商)へも御頼み入りに相掛り候えども不承知の由にて、河口姓にも大いに心配いたされ、御同人備前下津丼へ御自分直々罷り出で、荻野屋(久兵衛)方へ御相談に及び候処、承知致され同所にて金百貫目御借入に相成る。
 然る処引き足り申さず、依って役人中御評議の上、何い取り候て、御家中一統頂戴物(俸禄)の中七歩の御引増(天引)仰せ出され、是又三か年おつづけに相成る。然る処、何分長々の事に付き出来兼ね候に付、河口姓にはかれこれ心痛に及ばれ、吉川又右衛門御代官役中に御相談になり、夫れに付き吉川氏より庄村高畠覚兵衛を呼び取り、お話合いに相なり、尚又御領分大庄屋御呼び寄せ、お話し合いの上、御頼みに相成り、これにより金百貫目御備え出来、右金にて漸く出来申し候。
久右衛門においては、湛甫一条の骨折り心配は、容らならざる儀にこれ有り候。仕上がりまで御年数十一年に及び候事。惣〆高、金五七十貫余りに相成り候。くわしくは御用処元方役所帳面に之れ有りここに略す。是れ拙者所々にて聞き取りしままをあらまし申し置き候也

 幕府認可はすぐ得られたようですが、障害は丸亀藩の理解と協力が得られなかったことです。 丸亀藩の重役たちは親藩の了承を得ずに、支藩が始めたこの計画に難色を示します。家老の河口が説得して、やっと渋々の許諾を得たと伝わります。

それに忖度してか、丸亀の豪商大坂屋は多度津藩への資金助力を断っています。そのため家老の河口は、瀬戸内海の対岸である下津井に出かけ、荻野屋久兵衛に相談して金千両(銀62)を借ります。この融資を元金に講銀を設け、多度郡15か村の庄屋たちと協議の上に、借金の返済および港建設の資金調達をめざします。
 一万石という小さな大名のうえに、陣屋新設という大事業を成し遂げたばかりの多度津藩にとって、矢継ぎ早に取り組む大規模な港建設はいささか無謀な思い上がった冒険な工事と思う人たちも多かったようです。
多度津湛甫 33
多度津湛甫

 そのうえ天保年間には全国的な気候不順が天保飢饉を引き起こし、世の中は大塩平八郎の乱のように政情不安が広がった時期です。讃岐でも米価の高騰や買占めに抗議して各地で一揆や打ち壊しが起こっています。多度津でも一揆や、干水害のため被害が広がります  このような緊迫した情勢下で、百姓にまで負担を負わす新港建設資金集めの難しさを関係者はよく分かっていたようです。藩が強制的に取り立てるというよりも、地主や大商人層と協議を重ねながら協力体制を築いて、資金を出してもらうというソフトな対応に心がけてます。 
多度津湛甫 3

どのようにして多度津藩は資金を集めたのか?  
 幕末が近づくにつれて年貢に頼る藩財政は、行き詰まってきます。陣屋や新港建なども藩の独自事業としてはやって行けないことを、町の有力商人や村方の地主層は初めから良く知っていたようです。だから「陣屋御引越し」の時のように、民間金融組織としての講をつくって対応しようとしたのです。逆に見ると幕藩体制の行き詰まりが、はっきり見て取れます。

1965年頃の多度津

 天保六年(1835)に発足した「御講」は、村ごとに一口銀一八〇匁(=金三両)で加入者を募りました。大商人や地主などは一口以上、多数の庶民は一口を細かく分割し共同で引き受けるようにされています。この年十一月末に、各村が引き受けた口数と納入掛金額が届け出順に記されています。   
庄村   十九口半    銀三貫四二十匁   
三井村  十六口三厘   銀二貫百三十二匁
多度津  百二十一口   銀二十一貫八百七十匁
堀江村   五口九歩   銀一貫六十四匁四分   
北鴨村   九口九歩   銀一貫七百八十二匁   
南鴨村  十一口二分四厘 銀二貫二十四匁七分
葛原村  二十九口九歩厘 銀五貫三百九十四匁六歩   
道福寺村 十六口半     二貫九百七十匁   
碑殿村  二十二口     三貫七百二十匁   
山階村  三十九口八厘   七貫三十六匁   
青木村  十五口九歩三厘  二貫八百六十七匁四分   
東白方村 十八口三歩五厘  三貫三百三匁   
西白方村 十三口九歩九厘  二貫五十八匁   
奥白方村 九口三歩     一貫六百七十四匁   
新町村  半口         九十匁    
計    347口7歩9厘6毛 62貫603匁3分

この額は、最初に下津井の荻野屋から借りた元金総額と同額になります。こうして、講銀取立ては天保六年秋より始まり、同七年秋から十四年正月まで春秋二期ごとに、利銀を含めて春季分二〇七貫余、秋季分三五七貫、計五六〇貫(九二九六両)を上納しています。 湛甫建設出費は一万両を超えていたようです。この費用の大部分を負担したのは領民で、各村の負担口数はおおむね村の戸数に応じて配分されたことが分かります。
porttadotsu多度津

湛甫建設工事は天保五年に始まり、4年後に竣工します。

丸亀の新堀湛甫が一年余の工事で、工費も2千両余だったのに比べると、その額は5倍にもなり、いかに大工事だったかが分かります。海中に東突堤(242メートル)、西突堤(三面メートル)、中央に一文字突堤(218メートル)、港内面積(5,6ヘクタール)、水深(7メートル)の港は四国一の港で、この港が明治以後も機能して多度津の近代化のために大きな役割を果たすことになります。建設に先頭に立って尽力した家老河口は、10年余の心労のために工事完成後間もなく病のために64歳で亡くなっています。
大正頃の多度津港
湛甫の完成後に多度津港を利用する船は増え、港も栄えた。  
多度津港に立ち寄る船の主力は、松前(北海道)からの海産物とその見返りに内地産の酒や雑貨・衣料を運ぶ千石船や北前船でした。それに加えて、西国からの琴平詣での金比羅船も殺到するようになります。深い港は、大型船が入港することもできるために、幕末にはイギリスや佐賀藩、幕府の蒸気船が相次いで入港し、多度津港は瀬戸内海随一の良港としての名声を高めていきます。これに伴い町の商売も繁盛し、特に松前からもたらされる鰯や地元産の砂糖・綿・油等を商う問屋は数十軒を超え、港に近い街路は船宿や旅人相手の小店でにぎわいます。
巨費かけて完成させた湛甫建設は、藩の財政にも寄与することになります。
多度津藩は、港での魚介取引を専売制にして、取引量に応じて魚方口銀をとっていました。また入港する船から、船の大きさに応じて「帆別銀」などを徴収していましたが、これら港関係の収入は今後の増収を期待できる数少ない財源でした。ちなみに天保10年(1839)の多度津藩「亥の年御積帳(予算表)」(『香川県史9 近世史料I』)を見ると、
年貢収入6903石 - 家臣への俸禄3908石 =他の支出用 約3000石
これと諸銀納収入を合わせても、俸禄以外の年間諸支出に当てられる予算は641(10256両)しかありませんでした。
多度津港7
 一万石の支藩多度津が親藩丸亀から自立し、その意向に逆らって丸亀の新港をしのぐ大きな港を建設し、自立と繁栄の道を歩み始めます。これに対して丸亀藩の重役達は、「分を過ぎた振る舞い」と厳しい態度を見せるようになります。湛甫完成直後の天保九年(1838)八月、この事業の指導者である小倉治郎左衛門を無理矢理隠居に追い込みます。これは、彼が事前に丸亀にはからず幕府から工事認可を得たことへの親藩重臣の抗議に多度津藩主が屈したためだったと言われます。これをきっかけに本家と分家の間の連絡事項が細かく取り決められます、例えば、丸亀藩主の江戸への出府や帰藩のたびごと、多度津の主だった藩士がわざわざ丸亀まで送迎に出向かねばならなかったほどでした。
多度津港3
しかし、多度津藩は強(したた)かでした 。
 陣屋・多度津新港に続いて、多度津藩は自立のための次の手段として「国防強化のため兵制の近代化」に取り組み始めるのです。 それは、また次回に 

 参考文献 多度津町史     
      木谷勤 讃岐の一富農の300年 
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