瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:多度津町海岸寺

 前回は金毘羅詣での参拝客を多度津に取り込むために、海岸寺が「多度津白方=空海誕生地説」流布・信仰センターとして白方奥の院の整備を進めたこと。それに対して、本家本元の善通寺誕生院が海岸寺に対して「弘法大師生誕地」「屏風浦」の使用禁止、産盥堂の建設差し止めなどを丸亀藩に提訴したこと。これに対して海岸寺は、自らの主張を譲らずに、調停は行き詰まったことをお話ししました。
 丸亀藩の指導を海岸寺が受けいれることはなかったのです。海岸寺は多度津藩に属していて丸亀藩の主権が及ぶところではありませんでした。
こうなると、善通寺に残された道は、海岸寺の本寺に訴え出て適切な指導をお願いする以外になくなります。
海岸寺の本寺とは、京都嵯峨の大覚寺で超大物寺院です。善通寺が直接交渉できる相手ではありません。善通寺も自分の本寺を通じて、交渉を行うことになります。善通寺の本寺は同じく京都の随心院でした。しかし、本格寺と随心院では格が違います。政治力がまるでちがうのです。例えば、大覚寺と随心院は同じく門跡寺とは言っても
①大覚寺は法親王が住職される宮門跡
②随心院は摂関家の子弟が住持する摂関門跡
です。その教団規模も、大覚寺には井関、野路井(二軒)衣笠、三上など十数軒の坊官がいますが、随心院には本間、芝、岡本、長尾の四軒があるだけです。讃岐国内を見ても、大覚寺の末寺には大窪寺、宝蔵院、八栗寺、弘憲寺、国分寺、三谷寺、竜灯院(滝宮)、地蔵院など大きなお寺が多いのに比べて、随心院末寺は善通寺以外にはありません。讃岐国内での影響力も大きな格差があったのです。善通寺には、
「本寺の随心院に頼んでも、嵯峨(大覚寺)と対等の話い合いができるわけでない」

という諦めというか歎きもあったようです。大覚寺の政治力の前に、善通寺の主張が通じるだろうかという疑念でもあります。逆に、海岸寺からすれば本寺同士の交渉ならば、大覚寺が悪いようにはしないという目算もあったようです。ある意味、大船に乗っていられるということでしょうか、それが分かっていたので、海岸寺は国元での善通寺の要求を強く拒むことが出来たのかもしれません。ここまでは、海岸寺の「読み勝」になるようです。
さらに、随心院と大覚寺の間には、善通寺をめぐって古くから反目する気持があったようです。
 それは大覚寺の後宇多法皇が、それまで荒廃していた善通寺の堂塔修理のために、多くの供養田を寄進しました。そのため大覚寺門跡が代々善通寺別当を兼任していたのが、暦応四年(1311)の勅裁により、善通寺が大覚寺を離れて随心院の所属となります。大覚寺には、善通寺を随心院に奪われたという気持ちがあったようです。古いことですが僧侶達は、このような経緯をきちんと学習しています。このため交渉に出てきた大覚寺の僧侶達の中には、随心院や善通寺に対して反感を持つ者もいたようです。

海岸寺との交渉経過は、当事者の詳しい記録が善通寺に残っています。それが善通寺市史に載せられています。
それに従って京都での交渉経過を見ていくことにします。
 文化12年(1815)の末に、京都で本寺同士の随心院と大覚寺の交渉となり、智積院が仲介に入ることになります。善通寺からは、子院の観智院、玉泉院、行願院などが上洛して智積院に滞在します。ここを拠点に、情報収集や関係有力寺院への支援要請を行っていきます。どんな情報が入っていたのかを一部紹介します。
  交渉経過   1816年
1月21日、嵯峨の坊官三上民部が善通寺の交渉団が滞在する智積院に来て、次のように言い残していったと記します。
「誕生所という名目は差止めます。しかし、産盥のことは、御住職のお頼みだから、せいいっぱいやってみるけれども、止めさせられるかどうか分らない。そのうち、明王院、海岸寺が上京して、光照院まで掛合に来ることでしよう」

27日、観智院、三泉院が九条家へ参殿。芝氏とゆるゆる相談。また二条家の人江五郎右衛門方へもまいる。
28日、行願院、玉泉院、所用に付、大坂へ下る。高野へも登山のつもり。
2月朔日、行願院、玉泉院が高野登山。智蔵院に相談して、京都で片付かない場合は、高野山に御厄介をかけることにになると思うので、前もってお聞さおき下さいという意味の「口上書」を、年預坊に差し出す。
2月12日、伊賀国の諦仁師、四国巡拝の途次、善通寺を訪ね、香山と会談、一件について次のような意見を述べる。
江戸の公裁になれば海岸寺は流罪、軽くても追放だろう。このことを海岸寺側の者によく言い聞かせたなら、早く折れて来るのではないか。建石も海岸寺が勝手にたてたものだから、領主に断るまでもなく、本山から言い聞かせて取払うことができるのでないか。嵯峨に、正気があるなら江戸へ出る気遣いはない。

五月朔日 秀明師が次のように伝えます。
「明王院と海岸寺は、産盥のことでは、善通寺の言うことを聞く考えは全くない、『江戸へ出てでも争う』と言っている」

以上から分かることは、大覚寺の支援を受けた海岸寺が石器(産盥)に関しては、決して譲れないと踏ん張っていることです。
今風に云えば「弘法大師生誕地」という「商標」が認められなくなれば、その商標が使われていた商品も販売できなくなるのが当然の法解釈ですが、仏教界ではそれが通らない社会だったようです。

 例えば次のような京都仏教界の空気を示す記録が残されています。
 文化12年(1815)の末、善通寺交渉団の滞在先である智積院に、東寺のすぐ側の隣の実法院が見舞いに来て、次のように話します。
此度之一件、京都二而御落着被成候時ハ、兎角京ハ物件キレイニ不被成候而ハ不宜候。先ツ御勘孝可被成候。江戸工事卜申物ハ誕生院之御格式二而江戸詰メト申時ハ、物入一ケ年百五十金位ハ費べ可申候。其上随分早ク御裁許御座候所、二年ハ掛り可申候。然ル時ハ三百金ハ手軽ク入可申候。其金子之半分位営院エ入候得ハ、手際キレイニ出来可申与奉存候。拙老杯茂毎度江戸掛り合二者参候事故、馬御心得御噂中候

意訳すると
 京都では何でも金を使わないと、物事はきれいに治まらない。江戸での裁定になれば、滞在費だけでも大変で、善通寺の格式からすれば一年に一五〇両の出費になる。早くすむ時でも二年はかかるだろうから三〇〇両、その半分を私方へ納めてくれたら手際よく片附けてあげます

と持ちかけられたようです。それを玉泉院は、日記に何でもないことのように書き留めています。これが当時の「仏教界の相場」であったようです。

 また、争論に決着が付いた後の文政元年(1818)4月16日 に、お世話になった京都の関係者のお礼に、玉泉院が出向いています。たそして、宿舎となった智山へ銀子10枚と進物品を届けています。
また、一条家佐々木大監を訪ねると、大監は、次のように云ったようです。
御礼銀は、上様へは銀二〇枚、外に諸大夫五人、用人二人、六位一人、これらは重役だから相当のお礼が必要だし、下役、奥向の女中などへも心付けをするのでないと、私はようお世話しない。善通寺ではどう考えているのか」

と言う対応ぶりです。そのくらいは持ってこいという言い方のです。玉泉院は「この頃、寺では色々物入り多く、そうそうはお礼銀も差し上げられない」と断っています。京都では金と政治力が幅をきかすことを改めて学んだ善通寺の僧侶達だったようです。 
 幕藩体制のなかで、寺院は土地人民を治めてゆく支配機構の末端組織でした。それは為政者の側に立ち、大小さまざまの世俗的な権力と冨を持っていました。そのために本来の使命である仏法の護持ということを忘れて、実際的な利益に走る気風が京都ではより強く働いていたことがうかがえます。
 事件を金で片附けるという考えは、善通寺の側にもあったようです。
当時、善通寺に香山という老僧がいました。善通寺所蔵の古い書付類から先例を探し出して、書式など考えるのも香山の役目でした。京都滞在の観智院や玉泉院に手紙でいろいろと先例や意見を書き送っていて、それは事件の進展に大きな影響力を与えたようです。世間的な経験も豊かで、末寺の住職達からも信頼されていました。その香山が京都滞在中の観智院と華蔵院に宛てた手紙が残っています。
 嵯峨御所御寄附物と云事、世上の人々如何可有哉と万茶羅、天真沙弥等毎度申出事二候。是も尤なる事に候。しかし、うまうまと行く事ならば、夫れも不苦、七十五日也。
 尤合戦中二ヲ持込候事者、先達而桃陽(出釈迦寺)被中候通、温屯之跡の蕎公切にて、馳走ニハ不相成候。且又此方之腰ヨハク相見へ可申候

意訳すると
「うまくゆくなら、嵯峨へ金を送って事件を善通寺の考え通りに運ばせるのもよいと思う。人がどうこう言うのも、諺どおり七五日だけだと思うが、今は交渉の最中だから、こんなときに○(金)を持込んでも効果はなく、そのうえこちら側の腰が弱いと見抜かれてしまうだろう」

と、饂飩(うどん)と蕎麦に掛けて「金」での解決の方法も示しています。善通寺の側からは、大覚寺がこの交渉を通じて「和解・調停金」を求めているために交渉が長引いていると察していたことがうかがえます。
 交渉に進展がなく、滞在は長引きます。しかし、打切ることも出来ません。
仲介に入っている智積院は、善通寺が破談を主張しても、それをそのまま大覚寺へ通告することはしてくれなかったようです。交渉が長引くにつれて、こちらに向いては善通寺の立場を理解している態度を示し、同じように嵯峨へ向かっては嵯峨の言い分をもっともだと言っているのかもしれないと、善通寺の使節団僧侶たちは疑うようになります。
8月29日、三宮寺と玉泉院(善通寺子院)が智山へ出向き次のように申し入れます。
「きっぱり破談にしたい。嵯峨からの書付は、みながみな海岸寺の申出ばかりを書取り、善通寺から差し出した書類の趣は全く取入れられていない。このようなものには到底請書できない」

「もはや破綻にする外ない」との立場を貫くと、9月5日に妙徳院がやってきて、
「今になって破談というのでは、智山僧正をはじめ、我々も面日を失うことで困ってしまう」

と泣きついてきます。しかし、善通寺としても嵯峨(大覚寺)の提示案では、同意できないことを改めて強く伝えます。そこで調停者の立場も考えて、嵯峨から来た案については、善通寺では知らぬ体にして、なんとか破談だけは取り止め、調停者の面目が立つようにすることになります。こうして、調停書(口達之覺 )を受け取ります。
その内容は次の通りです。
口達之覺    (意訳)                           
昨年12月に、弘法大師御誕生所について差障の件について、小野御殿への書付をお届けした所、当山の僧正承之は気の毒に思い、穏便に取りはからうように小野御殿へ伝えられ、相手方の本山である嵯峨御殿へ取り次ぎました。この度、嵯峨御殿から海岸寺並びに本寺明王院をお呼びになり、次のような決定を伝えました。
一 縁起  一 勧進帳  ― 建石之事   
一 船問屋から差出候案内切出之事
に関しては、國元の丸亀藩に願出ること
一、御誕生之霊跡  一、御降誕生之霊地  一、御初誕之地 
一、御産生所
以上の八ケ條については、海岸寺の使用を差し止めるように申しつけました。
一別館之事  一、産盥之事  一、屏風浦之事
以上の三ケ條については、国元に関わることでなので藩主の裁断を仰ぐように指示しました。決定は以上の通りです。このことについて、ご承知ください。
以上。
文化十三年間八月           智山鑑事 妙徳院 印
讃州 善通寺 御役者中

上の8項目については、使用差し止め処分となりましたが別館之事 、産盥之事 、屏風浦之事」については、国元のことなので藩主の裁断を改めて仰げということです。海岸寺としては、ある意味納得できる内容であったと思われます。しかし、善通寺にとっては何のために京都までやって来たのかという思いの方が強かったかもしれません。
 しかし、後は丸亀藩に任せるほかないのです。
お世話になった関係者への挨拶とお礼を済ませて、高瀬舟で京を去ります。
こうして、、厳蔵一行を乗せた下津丼船が九亀西川口へ着船したの9月22日、夜九ッ時のことでした。その夜は、一行は福島北渚亭に泊まり、翌日に、丸亀家老や寺社奉行など関係者に帰国・経過報告をしています。 
ここから丸亀藩に任された「別館・産盥・屏風浦呼称」の3項目についての裁断に向けた準備が始まります。丸亀藩は、どんな判断を下すのでしょうか。それは、また次回に・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
1 松原秀明 徳川時代の善通寺 善通寺市第2巻        昭和63年
2 乾千太郎 弘法大師誕生地の研究 善通寺 初版発行 昭和11年

四国霊場71番弥谷寺NO3 阿弥陀=浄土観を広げた念仏行者たち

 


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仁王門(弥谷寺)

「空海=多度津白方生誕説」が、いつ、どこで、誰の手によって、どんな目的で創り出されたのかをみてきました。最後に、白方の背後の天霧山中にある弥谷寺を見ていくことにしましょう。
 弥谷寺は佐伯真魚(空海の幼年名)が修行した地と「高野大師行状図画」にも伝えられ、古くから空海の修行場として信じられてきました。現在、十世紀末から十一世紀初期ころの仏像が確認できるので、そのころにはこの寺が活動していたことが推察できます。
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弥谷寺仁王門
 その後、鎌倉時代の初めには道範が訪れたことが「南海流浪記」に記されています。また本堂横の岩壁に阿弥陀三尊や南無阿弥陀仏の名号が彫られていて、その制作年代は鎌倉時代末期のものと言われます。
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阿弥陀三尊磨崖仏(本堂下)

 戦国時代には讃岐の守護代であり、天霧城の城主・香川氏の菩提寺とされ、香川氏一族の墓といわれる墓石も数多く残されています。なお寺伝では、香川氏の滅亡とともに寺は衰退したと伝えます。その後、生駒氏・山崎氏・京極氏などの保護の下に徐々に復興がなされたようです。
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天霧城主香川氏の代々の墓とされる石造物

澄禅『四国遍路日記』で、江戸時代初期のこの寺の様子を見てみましょう
剣五山千手院、先坂口二二王門在、ココヨリ少モ高キ石面二仏像或五輪塔ヲ数不知彫付玉ヘリ、自然石に楷ヲ切付テ寺ノ庭二上ル、寺南向、持仏堂、西向二巌二指カカリタル所ヲ、広サニ回半奥へ九尺、高サ人言頭ノアタラヌ程ニイカニモ堅固二切入テ、仏壇I間奥へ四尺二是壬切火テ左右二五如来ヲ切付王ヘリ、中尊大師の御木像、左右二藤新太夫夫婦ヲ石像二切玉フ、北ノ床位牌壇也、又正面ノ床ノ脇二護摩木棚二段二在り、東南ノニ方ニシキ井・鴨居ヲ入テ戸ヲ立ル様ニシタリ、寺ノ広サ庭ヨリー段上リテ鐘楼在、又一段上リテ、護摩堂在、是モ広サ九尺斗二間二岩ヲ切テロニ戸ヲ仕合タリ、内二本尊不動其ノ外仏像何モ石也、
夫ヨリ少シ南ノ方へ往テ水向在リ、石ノ二寸五歩斗ノ刷毛ヲ以テ阿字ヲ遊バシ彫付王ヘリ、廻り円相也、今時ノ朴法骨多肉少ノ筆法也、其下二岩穴在、爰二死骨を納ル也、水向ノル中二キリクノ字、脇二空海卜有、其アタリニ、石面二、五輪ヲ切付エフ亨良千万卜云数ヲ不知、又一段上り大互面二阿弥陀三尊、脇二六字ノ名号ヲ三クダリ宛六ツ彫付玉リ、九品ノ心持トナリ、又一段上テ本堂在、岩屋ノ口ニ片軒斗指ヲロシテ立タリ、片エ作トカヤ云、本尊千手観音也。其廻りノ石面二五輪ヒシト切付玉ヘリ、其近所に鎮守蔵王権現ノ社在り。
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弥谷寺案内図
意訳変換しておくと
剣五山千手院は、坂口に二王門があり、ここからは参道沿いの磨崖には、仏像や五輪塔が数知ず彫付られている。自然石に階段が掘られて、寺の庭に上っていく。
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寺(現大師堂)は南面して、持堂は西向の巌がオバーハングしている所を、広さニ回半、奥へ九尺、高は人の頭が当たらないくらいに掘り切って開かれている。
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仏壇は、一間奥へ四尺に切入って左右に如来を切付ている。ここには中尊大師の御木像と、その
左右に藤新太夫夫婦の石像が掘りだされている。
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 北の床は位牌壇となっている。また正面の床の脇には護摩木棚が二段あって、東南の方に敷居・鴨居などが入れられて戸を立てるようになっている。

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獅子の岩屋
庭よりー段上って鐘楼があり、又一段上がると護摩堂がある。これらも広さは九尺ほどで二間に岩を切り開いて入口に戸を付けている。その内には、本尊不動明王と、何体もの仏像があるがすべて石仏である。
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護摩堂(弥谷寺)

ここから少し南の方へ行くと水場がある。周囲の磨崖には、多くの真言阿字が彫付られて、その廻りは円で囲まれている。この字体は、今時朴「法骨多肉少:の筆法である。その下に岩穴があり、ここには死骨が納められている。水場周辺の磨崖にはキリク文字が掘られ、脇には空海と刻まれている。この辺りの赤面には、数多くの五輪塔が掘り込まれている。
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水場周辺
その一段上の磨崖には、阿弥陀三尊が掘られ、その
脇には六字名号が3セット×3つ=9彫りつけられている。九品の心持ちを示している。さらに一段登ると本堂在、岩屋に突き刺すように片軒の屋根が覆っている。「片エ作」と呼んでいる。本尊は千手観音で、その廻りの石面には五輪塔が数多く彫りつけられている。この近くに鎮守蔵王権現の社がある。

以上から江戸時代初期の弥谷寺の様子が分かります。ここで
注目したいのは次の2点です。
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本堂下の磨崖仏

まず1点は坂口に仁王門があり、そこから参道沿いの岩面の至る所に仏像や五輪塔が数知れず彫り込まれていることです。
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弥谷寺の磨崖仏の位置



「自然石を彫り刻み石段として寺の庭にあがると、寺は南面し持仏堂がある。この持仏堂に「空海=多度津白方生誕説」で、空海の父母とされる藤新太夫夫婦の石像が安置されていた記されています。この寺でもこの時期には、「空海=多度津白方生誕説」が信じられていたようです。
 ところが、その後に真稔が巡礼した時には、この夫婦の石像はなくなり、阿弥陀と弥勒の石像になっていたというのです。つまり、この間に藤新太夫夫婦の石像が消えたことになります。どうしてでしょうか?
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弥谷寺の五輪塔
 2つ目は次の部分です。
「水場から一段上ると磨崖に阿弥陀三尊と、その脇に六字名号が三クダリ宛六ツ彫付玉リ」

本堂下の水向けの所の岩穴には死骨が納められ、その周辺には阿弥陀三尊やと「六字の名号」(=南無阿弥陀仏)が彫られていたとあります。
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阿弥陀三尊像
  弥谷寺周辺の山は死者心霊がこもる山として、祖霊信仰がみられことが民俗学からは指摘されてきました。イヤダニマイリという葬式の翌日には、毛髪や野位牌などを弥谷寺に納める習俗があったというのです。そこには祖先信仰にプラスして、浄土系の阿弥陀信仰が濃厚に漂います。

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本堂下の磨崖仏

 さらに、現在この寺で行われている永代経という日月聘供養、経木塔婆、水供養という先祖供養形式が高野山で行われる供養の形式と非常に似ていると言われます。
 それは道範以来、高野山と弥谷寺との関係が深くなり、戦国時代末期以降になると、高野山や善通寺と関係の深い僧侶が住職となます。その結果、江戸時代中期から末期にかけて高野山方式の先祖供養形式が確立したと研究者は考えています。弥谷寺と高野山とは、何かしらの関係がある時期からできたようです。
 民俗学の立場からは次のように指摘されきました。
「弥谷寺一帯は、古くは、熊野の神話が物語るごとき死霊のこもるところ、古代葬送の山、「こもりく」であったかも知れぬが、中世、一遍につながる熊野系の山伏、念仏聖、比丘尼、巫女などの民間宗教者たちの手によってでき上がった山寺である」

 以上の説を総合すると、次の2点が見えてきます。
①弥谷寺は高野山との関係、
②高野聖など念仏系の僧の存在
そのわずかに残る痕跡を現在の弥谷寺に探ってみましょう。
弥谷寺 九品浄土1

弥谷寺本堂下の岩壁には南無阿弥陀仏の名号が九つ彫られています。いまは摩耗してほとんど見えなくなっています。しかし、かつてはその名号の下部には、次のような唐の善導大師の謁が彫られていて、かつては見ることが出来たと言います。

門々不同八万四為滅無明果業因利剣即是阿弥陀一称正念罪皆除

さらに本堂下の墓石群の中には、次のような念仏講の石碑が建立されています。
「延宝四二六七六」丙辰天 八月口口日大見村竹田 念仏講中二世安楽也」
江戸時代前期とやや時代が下るものの、念仏聖となんらかの関係を示す遺品です。この石碑は先日紹介した多度津白方の、仏母院に見られた念仏講のものと形状が良く似ており、両者に関係がありそうだと研究者は指摘します。

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弥谷寺の磨崖仏

  
 戦国時代に弥谷寺の上の天霧城主だった香川氏一族は、長宗我部元親と姻戚関係を結びます。そして、土佐軍の撤退と共に香川氏も土佐へ亡命します。天霧城は破棄され、弥谷寺も荒廃したといいます。弥谷寺のその後について、『大見村誌』正徳四年(1714)は宥洋法印の記録として、以下のように記しています。 
その後戦乱平定するや、僧持兇念仏の者、当山旧址に小坊を営み、勤行供養怠たらざりき、時に慶長の初め、当国白峰寺住職別名法印、当山を兼務し、堂舎再建に努め、精舎僧坊を建立す。
 慶長五年十二月十九日、高松城主、生駒讃岐守一正より、田畑山林を寄付せられ、其証書今に存せり。別名法印遷化後、直弟宥慶法印常山後住となり執務中、図らすも藩廳に対して瑕径あり。爰に住職罷免され、善通寺に寄託される、その後の住職は善通寺僧徒、覚秀房宥嗇之に当り寛永十二年営寺に入院し、法務を執り堂塔再建に腐心廿り、
 意訳変換しておくと
江戸時代になって戦乱が平定すると、念仏僧侶が弥谷寺の境内の中に小坊を営み、勤行供養を怠たらずに務めた。慶長年間の初めに、白峰寺住職別名法印が当山を兼務することになり、堂舎再建に努め、精舎僧坊を建立した。
 慶長五年十二月十九日には、高松城主の生駒讃岐守一正から、田畑山林を寄付された。その寄進状は当寺に今も残る。別名法印が亡くなった後は、直弟の宥慶法印が後住となったが、生駒藩への過失があり住職を罷免された。そのため当寺は、善通寺に寄託されることになった。その後は、善通寺の覚秀房宥嗇之が、寛永12年に住職となり、法務を執り堂塔再建に腐心することになった。
 ここからは戦国時代に香川氏が土佐に落ち延びて、保護者を失って、寺が荒廃したことがうかがえます。その時に、念仏行者が境内の旧址に小坊を営み寺に住んでいたというのです。境内に残るいくつかの石造物からは、念仏信仰を周辺の村々に広げ念仏講を組織していた僧侶の存在が見えてきます。彼らは、時宗系の高野聖であったと研究者は考えています。
 そして、生駒氏の時代になってから白峯寺から別名法印が住職を兼務したといいます。別名法印については詳しいことは分かりませんが、海岸寺所蔵の元和六年(1620)の棟札に「本願弥谷寺別名秀岡」とあります。ここからはこの時期には、海岸寺と弥谷寺とが深い関係にあったことが分かります。ちなみに、弥谷寺の海浜の奥社が海岸寺だったようです。ここでは補陀落渡海の修行場で、弥谷寺との間は小辺路ルートで結ばれていたとも言われます。
イメージ 9
生駒一正の墓碑とされる塔
 このように弥谷寺は、もともとは阿弥陀信仰を中心とする念仏系の寺院であったことが透けて見えてきます。
中世から戦国末期には、修験者+熊野行者+高野聖+念仏行者の活動拠点で、境内に彼らの「院房」があったのです。そこに住んでいた僧の中には、時宗念仏系の僧侶がいて弥谷寺を拠点に布教活動をおこなっていたいたようです。
また「剣五山弥谷寺一山之図」には、東院旧跡の近くに「比丘尼谷」という地名があります。ここからは、弥谷寺に比丘尼が生活していたこともがうかがえます。

さて、この寺院の檀那たちはどこにいたのでしょうか?
 慶長五年(1600)四月吉日に、この寺に寄進された本尊の鉄扉は次のように記されています。

「備中国賀那郡四条 富岡宇右衛門家久」
寛永八年(1632)正月寄進の鐘の檀那は
「備前国岡山住井上氏」

ここからは白方の仏母院の信者は、瀬戸内海を挾んだ対岸の備前地方の人々の信仰を集めていたことが分かります。しかし、それがどのような理由で繋がっていたかを示す史料はありません。
 最後に、備中・備前の人たちが海岸寺や弥谷寺の有力な檀家となっていた背景を想像力を羽ばたかせて考えて見たいと思います。
①五流山伏と小豆島の関係のように、小豆島を聖地として修験者先達が、信者を引率して参拝させるシステムが海岸寺や弥谷寺でも機能していた。
②そのため海岸寺は、補陀洛信仰の聖地として海の向こうの吉備の信者たちの信仰を集めるようになった。
③そこに大師信仰が広がると、当時流布されるようになった「空海=白方生誕説」を採用し、寺院運営をおこなうようになる。
④それは、吉備から海を越えてやって来る信者たちへのセールスポイントともなった。
しかし、争論の結果「空海=白方生誕説」は認められなかった。そこで弥谷寺は「空海=幼年修行地説」にセールスポイントを変えて、寺社経営を行うようになります。それが、金毘羅大権現の隆盛と相まって、四国にやって来た金毘羅詣での参拝者は、善通寺と弥谷寺にはよって帰るというコースを選ぶようになり、寺は栄えるようになります。この寺も弘法大師伝説は、近世になって付け加えられたようです。
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弥谷寺


 
参考文献    武田 和昭      『弘法大師空海根本縁起』について

                            

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