瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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林求馬 大塩平八郎の書
大塩平八郎の書(林求馬邸)
前回は多度津奥白方の林求馬邸に、大塩平八郎の書が掲げられていることを紹介しました。
  慮わざれば胡ぞ獲ん
為さざれば胡ぞ成らん
(おもわざればなんぞえん、なさざればなんぞならん)
意訳変換しておくと
考えているだけでは何も得るものはない。行動を起こすことで何かを得ることができる

「知行一致」「行動主義」と云われる陽明学の教えが直線的に詠われています。平八郎の世の中を変えなくてはならないという強い思いが伝わってきます。これが書かれたのは、大塩平八郎が大坂で蜂起する数カ月前で、多度津町にやって来たときのものとされます。どうして、大塩平八郎が多度津に来ていたのでしょうか?
今回は、平八郎と多度津をつないだ人物を見ていくことにします。テキストは「林良斎 多度津町誌808P」です。

大塩平八郎の乱(日本)>1

多度津で湛浦の築造工事が行われている頃の天保6年(1835)、大塩平八郎が多度津にやってきています。
平八郎は貧民救済をかかげ、幕府に反乱を起こした大坂町奉行の元与力です。多度津にやってきたのは金毘羅参りだけでなく、ある人物に会いにやって来たようです。それが林良斎(りょうさい:直記)です。林良斎は、多度津の陣屋建設に尽力した多度津藩家老になります。彼が林求馬邸を建てた養父になります。

林良斎

林 良斎については、多度津町史808Pに次のように記されています。
文化5年(1808)6月、多度津藩家老林求馬時重の子として生まれる。 通称は初め牛松、のち直記と言い、名は時荘、後に久中、隠居して良斎と改めた。字は子虚、自明軒と号した。父時重は厳卿と号し、文化4年多度津に藩主の館を建て、多度津陣屋建設の基礎をつくった。母は丸亀藩番頭佐脇直馬秀弥の娘で、学問を好み教養高い婦人であった。父求馬時重は、伊能忠敬の測量に来た文化5年9月良斎の生後わずか3か月で死去し、兄勝五郎が家督を継いだ。文化14年(1817)勝五郎は病と称して致仕したので、10歳にして家督を継ぎ、藩主高賢の知遇を得て、文政9年家老となり、多度津陣屋の建設の総責任者として、文政11年(1828)これを完成した。ときに林直記は弱冠21歳であった。多度津藩は初代高通より代々丸亀の藩邸に在って、政を執っていたのであるが、文政12年6月、第四代高賢はじめて多度津藩邸に入部した。多度津が城下町として発展するのはこの時からである。

林良斎全集(吉田公平監修 多度津文化財保存会編) / 松野書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

ここからは次のようなことが分かります。
①父時重は良斎の生後3か月の時に、陣屋建設途上で亡くなったこと
②兄に代わって10歳で家老職を継ぎ、陣屋建設の総責任者となり、21歳で完成させたこと。

そして天保4年(1833)、26歳のとき、甥の三左衛門(林求馬)に家督を譲ります。
良斎の若隠居の背景は、よく分かりません。自由の身になった彼は天保6年(1835)、大阪へ出て平八郎の洗心洞の門を叩き、陽明学を学びます。その年の秋、平八郎が良斎を訪ねて多度津に来たというわけです。このときは、まだ湛浦(多度津新港)は完成していないので、平八郎は、桜川河口の古港に上陸したのでしょう。二人の年齢差は、14歳ほど違いますが惹きつけ合う何かがあったことは確かなようです。
林良斎の名言「聖人の学は、無我を以て的となし、慎独を以て功となす」額付き書道色紙/受注後直筆(Y1082) その他インテリア雑貨 名言専門の書道家  通販|Creema(クリーマ)
良斎の言葉
良斎は「中斎(平八郎)に送り奉る大教鐸(きょうたく)の序」に次のように記しています。

 「先生は壯(良斎)をたずねて海を渡って草深い(多度津の)屋敷にまでやって来てくれた。互いに向き合って語ること連日、万物一体の心をもって、万物一体の心の人にあるものを、真心をこめてねんごろにみちびきだしてくれた。私どもの仲間は仁を空しうするばかりで、正しい道を捨てて危い曲りくねった経(みち)に堕ちて解脱(げだつ)することができないでいる。このとき、先生の話をじっと聞いていた者は感動してふるい立ち、はじめて私の言葉を信用して、先生にもっと早くお目にかかったらよかったとたいへん残念がった。」

 翌年の天保7年(1836)にも、良斎は再び大坂に行って洗心洞を訪ね、平八郎に教えを乞いています。
この頃、天保の大飢饉が全国的に進行していました。長雨や冷害による凶作のため農村は荒廃し、米価も高騰して一揆や打ちこわしが全国各地で激発し、さらに疫病の発生も加わって餓死者が20~30万人にも達します。これを見た平八郎は蔵書を処分するなど私財を投げ打って貧民の救済活動を行います。しかし、ここに至っては武装蜂起によって奉行らを討つ以外に解決は望めないと決意します。そして、幕府の役人と大坂の豪商の癒着・不正を断罪し、窮民救済を求め、幕政刷新を訴えて、天保8年3月27日(1837年5月1日)、門人、民衆と共に蜂起します。しかし、この乱はわずか半日で鎮圧されてしまいます。平八郎は数ヶ月ほど逃亡生活を送りますが、ついに所在を見つけられ、養子の格之助と共に火薬を用いて自決しました。享年45歳でした。明治維新の約30年前のことです。
この大岡平八郎の最期を、多度津にいた良斎はどのよう感じていたのでしょうか?
 それが分かる史料は今は見つかっていません。ただ、良斎はその後も陽明学の研究を続け、「類聚要語(るいしゅうようご)」や「学微(がくちょう)」など多くの著書を書き上げます。「知行一致」の教えのもとに、直裁的な蜂起を選んだ大岡平八郎の生き方とは、別の生き方を目指します。
弘濱書院(復元)
再建された弘浜書院(林求馬邸)

 39歳の秋には、読書講学の塾を多度津の堀江に建てています。
その塾が弘浜(ひろはま)書院で、そこでまなんだ子弟が幕末から明治になって活躍します。教育者としては、陽明学を身につけ行動主義の下に幕末に活躍する多度津の若者達を育てたという評価になるようです。この弘浜書院は、現在は奥白方の林求馬邸の敷地の中に再建されています。そこには「自明軒」という扁額が掲げられています。これは大塩平八郎から贈られたもので、林良斎が洗心洞塾で学んでいたとき、平八郎が揮号(きごう)したものと伝えられます。良斎の教えを受けた人々の流れが、多度津では今も伝えられていることがうかがえます。思想家としては、良斎は陽明学者としては讃岐最初の人だとされ、幕末陽明学の讃岐四儒と称されるようになります。

良斎の残した漢詩「星谷観梅歌」を見ておきましょう。(読み下し文)
星谷観梅歌     林良斎
明呈夜、天上より来る     
巨石を童突して響くこと宙の如し
朝に巨石を看れば裂けて二つと為る   
須愈にして両間に一梅を生ず      
恙無(つつがな)きまま東風幾百歳
花を著くること燦々、玉を成して堆(うづたか)し
騒人、鐘愛して清友と称ふ 
恨むべし一朝、雪の為に砕かる    
又、他の梅を聘したひて嗣と為す
花王宰相をもて良き媒(なかだち)と定む      
我、来りて愛玩し聊(いささ)か酒を把れは
慇懃に香を放ち羽杯を撲(う)つ        
汝も亦、天神の裔なることを疑はず
風韻咬として、半点の埃(ちり)無し
 高吟して試みに問へども黙して答へず
唯見る、風前の花の嗤ふが如し
良斎は、大潮平八郎が没してから12年後の嘉永2年(1849)5月4日、43歳で没しました。
田町の勝林寺には良斎の墓が門人達の手によって建立されています。
 多度津町家中(かちゅう)の富井家には、大塩平八郎の著書といわれている「洗心洞塾剳記(せんしんどうさつき)」と「奉納書籍聚跋(ほうのうしょせきしゅうばつ)」の2冊が残されているそうです。いずれも「大塩中斎(平八郎)から譲られたものを良斎先生より賜れる」と墨書きされています。ここからは、この書が大塩平八郎が良斎に譲ったもので、その後に富井泰藏(たいぞう)に譲られたことが分かります。
林良斎~シリーズ陽明学27 - 読書のすすめ

 良斎が亡くなると、その門弟の多くは池田草庵について、学んだ者が多いようです。
但馬聖人 池田 草庵 | 但馬再発見、但馬検定公式サイト「ザ・たじま」但馬事典 さん
池田草庵は但馬八鹿の陽明学者で、京都で塾を開いていましたが、郷里の人々の懇望で、宿南の地に青然書院を開いて子弟に教えていました。良斎の人柄に感じ、生前には書簡で親睦を深め、自らの甥、池田盛之助を多度津の弘浜書院に行かせて学ばせています。ここからは、弘浜書院と青繁書院とは、人的にも親密に結ばれ活発な交流があったことがうかがえます。
 池田草庵は名声高く、俊才が集まり、弘化4年(1847)から明治11年(1878)までの青鉛社名簿には、多度津から入門者が次のように記されています。
讃岐多度津藩士 林求馬・岡田弥一郎・庭村虎之助・古川甲二郎
白方村高島喜次郎 藩医小川束・林凝・名尾新太郎・服部利三郎・塩津国人郎・野間伝三・大久保忠太郎・河口恵吉・早川真治
以下は明治以後)
菅盛之進・名尾晴次・字野喜三郎・畑篤雄・菅半之祐・神村軍司・大久保穐造・長野勤之助・小野実之助・奥白方村山地喜間人。

   良斎の影響で多度津の向学に燃える青年たちが京都に出て学んでいたことが分かります。

以上をまとめておくと
①林家は多度津藩の家老の家柄で、林求馬の祖父や養父である良斎が多度津陣屋建設に尽力した。
②良斎は、若くして家老として陣屋建設の責任者として対応したが完成後は若隠居した
③良斎は26歳で、大坂の大塩平八郎の門を叩き、陽明学を学び交流を深めた
④そのため良斎の元には、大庄平八郎の書や書物などが残り遺品として、現在は林求馬邸に残っている
⑤良斎は、教育機関として弘浜書院を開設し、行動主義の陽明学を多度津に広めた。
⑥この中から登場する若者達が明治維新の多度津の躍進の原動力になっていった。
⑦良斎の後、林家を継いだ甥の林求馬は、幕末の混乱期に多度津藩の軍事技術の近代化を進めた。
⑧長州遠征後の軍事衝突に備えて、藩主や家老の避難先として奥白方が選ばれ、そこに新邸が建設された。
⑨それは明治維新直前のことで、明治になって林家はここで生活した。
⑩そのため、林家に伝わる古文書や美術品が林求馬邸に、そのまま残ることになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 多度津町誌808P

DSC03831

約70年前(1955年)の多度津港の「出帆御案内」の時刻表です。
ここには、関西汽船と尼崎汽船の行先と出帆時刻・船名が次のように掲げられています。
①志々島・粟島  つばめ丸
②六島(備後)  光栄丸
③笠岡          三洋丸
④福山 大徳丸
⑤鞆・尾道 大長丸
⑦大阪・神戸   明石丸
⑧神戸・大阪   あかね丸
尼崎汽船は3便で
⑨笠岡      きよしま丸
⑩福山 はつしま丸
⑪瀬戸田 やまと丸(随時運航)

1955年の多度津港は、東は神戸・大阪、西は福山・鞆・尾道・瀬戸田まで航路が延びて、定期船が通っていたことが分かります。現在の三原港(広島県)や今治港(愛媛)のように、いくつも航路で瀬戸の港と結ばれていた時代があったようです。そんな時代の多度津港を今回は見ていくことにします。テキストは「多度津町誌629P  明治から大正の海運」です。
 まず幕末から明治にかけての瀬戸内海海運の動きを見ていくことにします。
 徳川幕府は、寛永12年(1625)以来、海外渡航用の大型船の建造を禁止していました。しかし幕末の相次ぐ外国船の来航に刺激されて、嘉永6年(1853)9月、大船建造の禁令を解きます。そして、各藩に対して大型船建造を奨励するとともに、外国より汽船を購入することを奨励するようになります。毛利藩が若い高杉晋作に上海へ艦船購入に行かせるのも、坂本竜馬が汽船を手に入れて、「海援隊」を組織するのも、こんな時代の背景があるようです。
 その結果、明治元年(1868)には、洋式船舶の保有数は次のようになっていました。
幕府44艘、各藩94艘、合計138艘、 1万7000トン余り

 明治維新政府にとっても商船隊の整備充実は重要政策でした。そこで、次のような措置をとります。
明治2年(1869)10月、太政官布告で個人の西洋型船舶の製造・所有を許可
明治3年(1870)1月 商船規則を公布して西洋型船舶所有者に対して特別保護を付与
1870年 築地波止場前を行く汽船
        築地波止場前を行く汽船(1870年)

このような汽船促進策の結果、明治4年3月までには、大阪だけで外国人から購入した船舶は16隻に達します。買入主は、徳島藩、広島藩、熊本藩、高知藩などの7藩、民間では大阪商人や阿波商人、土佐佐藩士岩崎弥太郎の九十九商会など数名です。これらの船は、各藩と大阪の間を往復して米穀その他の国産物を運ぶようになります。

瀬戸内海航路の汽船 1871年
瀬戸内海航路の汽船(1871年) 
こうして、大阪を起点として、各藩主導で次のような定期航路が開かれます。
大阪~徳島間
大阪~和歌山間
大阪~岡山間
大阪~多度津間
大阪~長崎間
旧高松藩主松平家も、讃岐~大阪間に金比羅丸を就航させています。
金刀比羅丸は、慶応4年ごろに高松藩が大阪藩邸の田中庄八郎に命じて神戸港で建造し、玉吉丸と命名した貨客船です。暗車(スクリュー)推進の蒸気船で、2本マストのスクーナー型で帆装し、40馬力でした。それが明治4年の廃藩置県で、香川県に引き継がれ、旧藩主の松平頼聡他2名に払い下げられます。それを金刀比羅丸と改称し、取り扱い方を田中庄八に委嘱し、大阪~神戸~高松~多度津間の航海を始めたようです。

品川沖の東京丸(三菱商船)1874年
1874年 品川沖の東京丸(三菱商会)

 この頃に、多度津では宮崎平治郎が汽船取り扱い業を開業します。そして凌波丸(木製、81屯)を購入して、大阪から岡山・高松を経て多度津に寄港し、更に鞆・尾道にまで航路を延ばしていました。その2、3年後には、大阪の川口屋清右衛門、神戸の安藤嘉左衛門と田中庄八の3人は共同して三港社を創立し、大阪の宗像市郎所有の太陽丸(木製、67トン)と飛燕丸で阪神・多度津間を定期航海を行うようになります。
 ここでは、明治初期には旧藩の所有船が民間に払い下げられて、大坂航路に投入され、瀬戸内海の各港と畿内を結ぶ航路が開けたことを押さえておきます。

横浜発の汽船 三菱商会
1875年 横浜発の汽船(三菱商会)
瀬戸内海を行き交う蒸気汽船が急増したのは、明治10年(1877)の西南の役前後からでした。
この内乱は、兵員や他の物資の輸送で海運業界に異常な好景気をもたらします。そして、次のような船会社が設立されます。
岡山の偕行会社
広島の広凌会社
丸亀の玉藻会社
淡路の淡路汽船
和歌山の明光会社、共立会社
徳島の太陽会社
この時期に新たに就航した汽船は110余隻、船主も70余名に達します。この機運の中で多度津港にも、寄港する汽船の数が急増します。明治14年ごろの大阪港からの定期船の出船状況を、まとめたものが多度津町史632Pに載せられています。

1881年 大阪発出船の寄港地一覧1
1981年 大阪出港の汽船の寄港地一覧表
ここからは次のようなことが分かります。
①大坂航路に就航していた汽船のほとんどが、多度津に寄港後に西に向かっている。
②岡山・高松よりもはるかに多度津に寄港する船の方が多かった。
③多度津には、毎日3便程度の瀬戸内海航路の汽船が寄港している
   山陽鉄道が広島まで伸びるのは、日清戦争の直前でした。
明治10年代には、瀬戸内海沿岸は鉄道で結ばれていなかったので汽船が主役でした。その中で多度津は「四国の玄関」として多くの汽船が寄港していたこと押さえておきます。
明治十年代の多度津港について『明治前期産業発達史資料』第3集 開拓使篇西南諸港報告書(明治14年)は、次のように記します。
多度津港
愛媛県下讃岐国多度郡多度津港ハ海底粘上ニシテ船舶外而水入ノ垢フ焚除スルニ使ニシテ毎年春2月ヨリ8月ニ至ルマデノ間タデ船ノ停泊スルモノ最多ク謂ハユル日本船ノドツクトモ称スベキ港ナリ又小汽船は毎月2百餘隻ノ出入アリ又冬節西風烈シキ時ハ小船ハ甚困難ノ処アリ港中深浅等ハ別紙略図ニ詳ナリ
戸数本年1月1日ノ調査千2百3拾戸 人口4千4百4拾1人 内男2千2百2拾5人 女2千2百拾6人 北海道ヨリハ鯡〆粕昆布数ノ子ノ類フ輸入シ昆布数ノ子ハ本国丸亀多度津琴平等2転売ス鯡〆粕ハ本国那珂多度三野豊田部等へ転売ス。
 物産問屋3拾9軒 問屋ハ輸入ノ物品フ預り仲買ヲシテ売捌カシムルノ習慣ナリ。 定繋出入ノ船舶3百石以下5拾5艘アリ 北海道渡航3百石以上2艘アリ(中略)
地方著名産物1ケ年輸出ノ概略ハ砂糖凡8万4千5百斤 代価凡5万7千7百5拾式円5拾銭。綿凡式万目 代価凡1万円ニシテ砂糖ハ北海道又ハ大阪へ売捌 綿ハ北海道又西海道へ輸出ス
近傍農家肥料ハ近来鯡〆粕ノ類多ク地味2適セシヤ之フ用フレバ土質追々膏艘(こうゆ)ニ変シ作物生立宜ク随テ収獲多シ

  意訳変換しておくと
多度津港
愛媛県(当時は香川県はなかった)多度郡の多度津港は、海底が粘土で船に入った垢を焚除するために、毎年春2月から8月まで、「タデ船」のために停泊する船が数多い。そのため「日本船のドック」とも呼ばれる港である。小汽船の入港数は、毎月200隻前後である。ただ、冬の北西季節風が強い時には、小船の停泊は厳しい。港の深度などは別紙略図の通りである。
 多度津の本年1月1日調査によると、戸数千2百3拾戸 人口4千4百4拾1人 内男2千2百2拾5人 女2千2百拾6人
 北海道からは、鯡・〆粕・昆布・数ノ子などが運び込まれ、この内の昆布・数ノ子は、丸亀・多度津・琴平などに転売し、鯡〆粕は、那珂多度郡や三野豊田郡など周辺の農村に転売する。物産問屋は39軒 問屋は、搬入された物品を預り、仲買をして売捌くことが生業となっている。
  出入する船舶で、3百石以上の船が55艘、北海道に渡航する300以上が2艘ある(中略)
特産品としては、砂糖が約84500斤 代価凡57752円、綿約2万目 代価凡1万円。砂糖は北海道か大阪へ、綿は北海道や西海道へ販売する。近来、周辺の農家は、肥料として鯡・〆粕を多く使用するようになったので、地味は肥えて作物の生育に適した土壌となっている。
ここからは次のようなことが分かります。
①船のタデや垢抜きのために、多度津港に寄港する船が多く、「和船のドック」とも呼ばれている。以前に金毘羅参詣名所図会の多度津港の絵図には、船タデの絵が載せられていることを紹介しました。明治になっても、多度津港は「和船のドック」機能を継続して維持していたことが分かります。
②北海道からの数の子や昆布、鯡〆粕が北前船で依然として運び込まれていること
③それを後背地の農村や、都市部の金毘羅・丸亀などに転売する問屋業が盛んであること
④特産品として、砂糖や綿が積み出されていること

西南戦争を契機に、旅客船の数が急速に増えたことを先ほど見ました。
1993年 三菱と共同運輸の競争
1883年 三菱と共同運輸の競争を描いた風刺画
 汽船や航路の急速な増加は、運賃値下げ競争や無理なスピード競争での客の奪い合いを引き起こします。そのため海運業界には不当競争や紛争が絶えず、各船主の経営難は次第に深刻化していきます。
この打開策として打ちだされたのが「企業合同による汽船会社統合案」です。
 明治17年5月1日、住友家の総代理人広瀬宰平を社長として、50名の船主から提供された92隻の汽船を所有する大阪商船会社が設立されます。この日、伊万里行き「豊浦丸」、細島行き「佐伯丸」、広島行き「太勢丸」、尾道行き「盛行丸」、坂越行き「兵庫丸」の木造汽船5隻が大阪を出港します。
大阪商船
         大阪商船会社のトレードマーク
その船の煙突には、大阪商船会社のトレードマークとなる「大」の白字のマークが書き込まれていました。
 大阪商船の開業当時の航路は、大阪から瀬戸内海沿岸を経て山陽・四国・九州や和歌山への18航路でした。

大阪商船-瀬戸内海附近-航路図
大阪商船の航路
このうち香川県の寄港地は小豆島・高松・丸亀・多度津の4港です。その中でも多度津港は9本線と1支線の船が寄港しています。高松・丸亀・小豆島が2本線の船だけの寄港だったのに比べると、多度津港の重要性が分かります。この時期まで、多度津は幕末以来の「四国の玄関港」の地位を保ち続けています。

希少 美品 大正9年頃(1920年) 今無き海運会社 大阪商船株式会社監修 世界の公園『瀬戸内海地図』和楽路屋発行 16折り航路図  横120cm|PayPayフリマ
大阪商船航路図(大正8年)讃岐の寄港
 旅客輸送の船は、明治20年前後からはほとんどが汽船時代に入ります。
しかし、貨物輸送では、明治後期まで帆船が数多く活躍していたことは、以前にお話ししました。明治になっても、江戸時代から続く北前船(帆船)が日本海沿岸や北海道との交易に従事し、多度津港にも出入りしていたのです。
 たとえば北陸出身の大阪の回船問屋西村忠兵衛の船は、明治5年2月25日、大阪から北海道へ北前交易に出港します。出港時の積荷は、以下の通りです
酒4斗入り160挺。2斗入り55挺
木綿6箱
他に予約の注文品瀬戸物16箱・杉箸2箱
2月28日兵庫津(神戸)着 3月1日出帆
3月3日 多度津着 
多度津で積荷の酒4斗入りを102挺売り、塩4斗8升入り1800俵と白砂糖15挺を買って積み入れ、8日出帆
ところが3月21日長州福浦を出港後間もなく悪天候のため座礁、遭難。(西村通男著「海商3代」)
ここからは、明治に半ばになっても和船での北前交易は行われており、多度津に立ち寄って、塩や砂糖を手に入れていることが分かります。ところが、日本海に出る前に座礁しています。伝統的な大和型帆船は、西洋型船のような水密甲板がなく、海難に対して弱かったようです。そのため政府は、西洋型船の採用を奨励します。その結果、明治十年代には西洋型帆船が導入されるようになりますが、大和型帆船は、伝統的な航海技術と建造コストが安かったので、しぶとく生き残っていきます。そこで政府は、明治18年からの大和型500石以上の船の製造禁止を通達します。禁止前年の明治17年には、肋骨構造などで西洋型の長所を採用しながら外見は大和型のような「合の子船」とよばれる帆船が数多く造られたようです。大正初めまで、和船は貨物輸送のために活躍し、多度津港にも入港していたことを押さえておきます。ここでは明治になってすぐに帆船が姿を消したわけではないこと、
  明治20(1887)年ごろより資本主義的飛躍が始まると、海運業も大いに活気を呈するようになります。
京極藩士冨井泰蔵の日記「富井泰蔵覚帳」には、次のように記されています。
「今暁、船笛(フルイト)高く狼吠の如き、筑後川、木曽川、錦川丸の出港なり。本日三度振りなり。近村の者皆驚く」

 ここに出てくる筑後川丸(鋼製、694屯)、木曽川丸(鋼製、685屯)、錦川丸(木製、310トン)は、大阪商船の定期船です。そのトン数を見ると、700屯クラスの定期船で、明治初めから比べると、4倍に大型化し、木製から鋼製に変わっています。
 明治27年の大阪商船航路乗客運賃表によると、大阪ー多度津間の運賃は、次の通りです。
下等が95銭
中等が1円
上等は1円5銭
別室上等は2円
明治30年10月発行の「大日本繁昌記懐中便覧」には、当時の多度津の様子を次のように記されています。

多度津ハ(中略)、港内深ク,テ汽船停泊ノ順ル要津ナレバ水陸運輸ノ使ナルコー県下第1トナス。亦夕金刀比羅官ニ詣ズル旅客輩ニ上陸スベキ至艇ノ地ナレバ汽船′出入頻はなシテ常ニ煤煙空ヲ蔽ヒ汽笛埠頭ニ響キ実ニ繁栄の一要港卜云フベラ」

意訳変換しておくと
多度津は、港内の水深が深く、汽船の停泊に適した拠点港なので、水陸運輸の使用者は県下第1の港である。また金刀比羅宮へ参拝する旅客にとっては、上陸に適した港なので汽船出入は多く、常に汽船のあげる煤煙が空をおおい、汽笛が埠頭に響く。これも繁栄の証というべきである。

この他にも、香川県下の汽船問屋・和船問屋の数は、高松に8軒、坂出に1軒、小豆島に11軒、丸亀4軒で、多度津は25軒だったことも記されています。

山陽鉄道全線開通
山陽鉄道全線海開通
明治24年に山陽鉄道の姫路・岡山間が開通し、更に同34年には下関まで延長開通します。 
 それまで西日本の乗客輸送の主役だった旅客船は、これを契機に次第に鉄道にとって代わられていきます。それを年表化してみると
1895(明治28)年  山陽鉄道と讃岐鉄道の接続のために、大阪商船は玉島・多度津間に定期航路開設
1896(明治29)年 善通寺に第11師団が設置。2月に丸亀~高松間が延長開通。
1902年 大阪商船が岡山・高松間にも航路開設
1903年 岡山・高松航路を山陽汽船会社が引き継ぎ、玉藻丸を就航。同時に尾道・多度津間にも連絡船児島丸を就航。
1906年 鉄道国有化で航路も国鉄へ移管。
      尾道・多度津鉄道連絡船は東豫汽船が運航。
1910年 宇野線開通によって宇野・高松間に宇高鉄道連絡航路が開設

ここからは大阪商船が鉄道網整備にそなえて、鉄道連絡船を各航路に就航させ、それが最終的には国鉄に移管されていったことが分かります。
高松港築港(明治36年)
高松築港旅客待合所(明治36年頃)
このような動きを、事前に捕らえて着々と未來への投資を行っていたのが高松市です。
高松は、日露戦争前後から、大正時代にかけて数次にわたり港の改修、整備に努めます。その結果、出入港船が増加し、宇高鉄道連絡船による岡山経由の旅宮も呼び込むことに成功します。こうして金毘羅参拝客も、岡山から宇野線と宇高連絡船を利用して高松に入ってくるようになります。
高松港 宇高連絡船 初入港(明治43年)
明治43年 宇高航路の初航海で入港する玉藻丸

高松・多度津港の入港船舶数の推移からは、次のようなことが分かります。
多度津・高松港 入港船舶数推移

①高松港入港の船舶数は、大正時代になって約7倍に急増している
②それに対して、多度津港の入港船舶数は、減少傾向にある。
③乗船人数は明治14年には、高松と多度津はほぼ同じであったのが、大正14年には、高松は6倍に増加している。
④貨物取扱量も、大正14には高松は多度津の約8倍になっている。

四国でも鉄道網は、着々と伸びていきます。
昭和2年に、予讃線が松山まで開通
昭和10年 高徳線は徳島まで、予讃線は伊予大洲まで
      土讃線は高知須崎まで開通.
      宇高連絡航路には貨車航送船が就航。
こうして整備された鉄道は、旅客船から常客を奪って行きます。これに対して、大阪商船は瀬戸内海から遠洋航路に経営の重点を移していき、内海航路の譲渡や整理を行います。しかし、そんな中でも有望な航路には新設や、新造船投入を行っています。
昭和3年12月新設された瀬戸内海航路のひとつが、大阪・多度津線です。
大信丸 (1309トン)と大智丸(1280トン)の大型姉妹船が投入されます。この両船は昭和14年に、日中戦争の激化で中国方面に転用されるまで多度津港と大阪を結んでいました。
 昭和10年ごろの多度津港への寄港状況は、次のように記されています。
大阪商船                                          
①大阪・多度津線
(大阪・神戸・高松・坂出・多度津)に、大信丸と大智丸の2隻で毎日1航海。
②大阪・山陽線
 大阪・神戸・坂手・高松・多度津・柄・尾道・糸崎。忠海・竹原・広・音戸・呉。広島・岩国。柳井・室津・三田尻・宇部・関門に、早輌丸・音戸丸・三原丸のディーゼル客船の第1便と、尼崎汽船の協定船による第2便があり、それぞれ毎月十数回航海。
③大阪と大分線
大阪・神戸・高松・多度津・今治・三津浜・長浜・佐賀関・別府が毎日1便寄港.

瀬戸内海航路図2
瀬戸内商の船航路図

この他に、瀬戸内商船が多度津・尾道鉄道連絡船を毎日4便運航していました。 しかし、花形航路である別府航路の豪華客船は高松に寄港しましたが、多度津港には寄港しません。また、昭和初期から整備に努めてきた丸亀・坂出の両港が、物流拠点として産業港に発展していきます。その結果、多度津港の相対的な地盤沈下は続きます。
 最初に見た多度津港の「出帆御案内」の航路も、戦前のこの時期の
航路を引き継いだもののようです。

1920年 多度津港
1920年の絵はがき(多度津港)

 日中戦争が長期化し、戦時体制が強化されるにつれて船舶・燃料不足から各定期航路も減便されます。
その一方で、旅客、貨物量は減少せず、食糧や軍需物資の荷動きは、むしろ増加します。特に、大平洋戦争開戦前の昭和15年度は、港湾の利用度が飛躍的に増加し、乗降客が56万を突破し、入港船舶は2万5000余隻と戦前の最高を記録しています。これは善通寺師団の外港としての多度津港が、出征将兵や軍需物資の輸送に最大限に利用されたためと研究者は指摘します。

瀬戸内商船航路案内.2JPG

 戦時下の昭和17年2月になると、燃料油不足と効率的な物資輸送確保のために、海運界は国家管下に置かれるようになります。内海航路でも「国策」として、船会社や航路の統合整理が強力に進められます。その結果、大阪商船を主体に摂陽商船・阿波国共同汽船・宇和島運輸・土佐商船・尼崎汽船・住友鉱業の7社の共同出資により関西汽船株式会社が設立されます。

Kansailine


こうして尾道・多度津鉄道連絡航路を運行してきた瀬戸内商船も、関西汽船に委託されます。そして、昭和20年6月に多度津―笠岡以西の瀬戸内海西部を運航する旅客船業者7社が統合されて「瀬戸内海汽船株式会社」が設立されます。尾道、多度津鉄道連絡船は、この会社によって運航されるようになります。

 戦争末期になると瀬戸内海に多数投下された機雷のため、定期航路は休航同然の状態となります。
その上、土佐沖の米軍空母から飛び立ったグラマンが襲来し、航行する船や漁船にまで機銃掃射を加えてきます。こうして関西汽船の大阪~多度津航路も昭和20年6月5日以降は運航休止となります。多度津港を出入りするのは、高見~佐柳~栗島などの周辺の島々をつなぐ船だけで、それも機雷と空襲の危険をおかして運航です。ちなみに、この年には乗降客は7万9000余名、入港船舶は5000余隻に激減しています。しかもこの入港船舶のほとんどは軍用船や空襲避難のために入港した船で、定期船はわずか524隻です。それも周辺の島通いの小型船だけでした。関西汽船などの大型定期船はすべて休航し、港はさびれたままで8月15日の敗戦を迎えたようです。

1920年 多度津桟橋の尾道航路船
多度津港(1920年の絵はがき) 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「多度津町誌629P  明治から大正の海運」

 今回は湛甫完成後の多度津の繁栄ぶりを見ていくことにします。テキストは、「多度津町誌267P 北前船の出入りで賑わう港」です。
 北前船航路図

①北前船は春2月ごろ、大坂で諸雑貨・砂糖・清酒などを買い積み出港
②瀬戸内海の港々を巡りながら、塩荷などを買い込みながら下関に集結。
③冬の最後の季節風を利用して、日本海沿岸の諸港に寄港し、荷の積み下ろし(売買)をしながら北海道へ向かう。
④北海道で海産物を買積み、8月上旬ごろに北海道を出発して夏の南東風の季節風をはらんで一気に下関まで帆走
⑤手に入れた商品を、どの港で売るかを状況判断をしながら、荷を神戸・大坂方面へ持ち帰る。
このように北前船は、荷の輸送とともに商いをも兼ねた船でした。

鰊漁粕焚き
鯡(にしん)粕焚き

北前船で特に利益があったのは、北海道の鯡〆粕・昆布でした。
北前船の活躍が活発化したのを受けて、丸亀藩や多度津藩は新しい湛甫築造をおこなったことになります。多度津湛甫の完成は、天保9年(1838)年のことです
19世紀半ばになると、 讃岐三白といわれた砂糖・綿・塩なども北前船の取扱商品になっていきます。
讃岐三白を求めて多度津の港に寄港する舟も増えます。丸亀や多度津の湛甫構築も、金毘羅参拝客の誘致以外に、商品経済の受入口として港湾整備するというねらいが廻船問屋たちにはあったことを押さえておきます。
  多度津の回船問屋かつまや(森家)に残る史料を見ておきましょう。
「清鳳扇」と題する海路図は、まず見開きに「針筋早見略」があって津軽半島から北海道の松前半島への次のような針路が説明されています。
本州北端の津軽半島、小泊港より鯵ケ沢、男鹿半島、飛島、栗島、佐渡沢崎、能登塩津、平(舶)倉島、七ツ島、福浦、隠岐、三保ケ関、 笠浦、 宇竜三崎、 湯津、 浜田、津島

それと日本海を南下する針路が示されています。この海路図は、安政五年(1858)のもので、かつまやの盛徳丸が使っていたものです。また、次のような21反帆の千石船仁政丸の往来手形もあります。
 反帆船仁政丸、沖船頭森徳三郎、水夫十人、右は私方持船で乗組一統は宗旨万端改め済みで相違ありません。津々の関所はつつがなくお通しドさい。
元治元年六月 大阪 綿屋平兵衛
これらの北前船は、松前島(北海道)の海産物を多度津に運び、その見返り品として洒、衣料、雑貨の輸送にあたっていたことが分かります。森家には「松前落御家中家名並列席の記」や「箱館港出船許可書」などが保存されています。ここからは、廻船問屋森家の船が北前船として、幕末に蝦夷との交易を行っていたことが分かります。

多度津廻船船の積み荷と水揚げ場
船の積み荷と水揚げ場、積み入れ場などを記載した資料

石州浜田港(島根県浜田市)回船問屋但馬屋の「諸国御客船帳」には、次のように記されています。
幕末から明治に初期にかけて、記載されている讃岐廻船は307艘。その内、多度津の船は8艘。東讃では三本松や津田浦の船が多く、西讃では栗島や浜村浦の船が多く寄港。浜田での讃岐船の売買積荷商品は、
①揚げ荷(売却商品)は 讃岐特産物の「大白・大蜜・焚込」の砂糖と塩、それに繰綿が若千
②積荷商品(買上商品)は、塩鯖・鯖・平子干鰯・扱芋・鉄・半紙などの石見の特産物


多度津 廻船問屋塩田屋土蔵
「塩田家(煙草屋)」の土蔵
北前船で財を成した廻船問屋としては、多度津七福神のひとつである「塩田家(煙草屋)」が有名です。塩田家には北前船の積み荷を集積するために使用した土蔵が今でも残されています。

魚肥料

江戸末期になると、綿花などの栽培に、農家は大量の魚肥(金肥)を使うようになります。
最初は、瀬戸内海の千鰯が中心でしたが、北前船の出入りで、羽鰊・鯡〆粕などが手に入るようになると、魚肥の需要はさらに高まります。多度津には干鰯問屋が軒を並べ、倉庫が甍を競うようになり、丸亀港をしのぐようになります。こうして多度津の問屋はヒンターランドの多度郡や那珂郡の庄屋や富農と取引を活発に行い繁盛します。

江戸時代後期の多度津の様子について、柚木学「讃岐の廻船と船持ちたち」(多度津文化財16号 1973年)は、次のように記します。
「廻船問屋には、かつまやを始め米尾七右衛門・蛭子辱伊兵衛・竹景平兵衛などがあり、またよろず問屋・千鰯問屋中には、油屋佐右衛門・松尾屋清蔵・島屋係兵衛・煙草屋仙治・柳屋次郎七・茶屋儀兵衛・浜蔵屋四郎兵衛・尾道屋豊蔵・伏見屋一場太郎・同山屋武兵衛・松島躍惣兵衛・大黒膵調兵衛など七十余軒」

 また多度津町誌270Pには、角屋町(今の本通一丁目)、南町、中ノ町筋にあった多度津問屋中のメンバーを、次のように挙げています。
油屋佐右衛門・中屋佐七・松嶋屋惣兵衛・煙草屋仙治・戎屋祖右衛門・嶋屋徳次郎・尾道屋豊蔵・湊屋義之助・木屋槌蔵・舛屋仙古・柴屋文右衛門・神原治郎七(柳屋)・金屋源蔵・工屋榮五郎・阿波屋甚七・海老屋与助・油屋平蔵・松尾屋久兵衛・竹屋清兵衛・北屋辰適蔵・伊予屋五右衛門・古手屋佐平・柳屋常次郎・入江屋喜平・茶屋儀兵衛・伊予屋伴蔵・尾道屋彦太郎・茶屋七右衛門・三井屋弁次郎・中屋民蔵。備前屋伝五郎・菊屋治郎兵衛・嶋屋治助・工屋伝右衛門・伏見有屋吉蔵・松尾屋清蔵・輌屋半蔵・麦屋芳蔵。大津屋善治郎・松崎屋排治・唐津屋長兵衛・井筒屋和平・舛屋久右衛門・木屋万蔵・播磨屋和古。塩飽屋弥平・岡山屋武兵衛・出雲屋長兵衛・伏見屋嘉太郎・播磨屋岩右衛門・中村屋紋蔵。塩飽屋岩吉・松島屋新七・竹嶋屋槌蔵

多度津 本町
多度津の町割り

角屋町(今の本通一丁目)、南町、中ノ町筋に70軒余りの問屋が立ち並ぶようになります。こうして多度津の街並みは、金毘羅街道沿いに南へと伸びていきます。

多度津の街並み
多度津本通りの街並み

これらの多度津の問屋中(仲間)の名前は、当時造られたのモニュメントにも残されています。
 弘化二(1845)年に落成した金刀比羅宮の旭社(当時金堂)の建立寄進帳に、多度津魚方中(926匁)と並んで「金二十一両寄進多度津問屋中」と名を連ねています。慶応二年(1866)藩主主京極高琢寄進の石灯籠一対の裏手石垣を奉納しています。

04多度津七福神


北前船の活躍した時代は、江戸時代後半から明治中期まででした。
明治に入ると西洋型帆船、明治中期以後になると汽船が参入するようになります。しかし、北前船を駆逐したのは鉄道でした。鉄道の全国整備が進むにつれて、北前船は姿を消して行きます。しかし、海運で蓄積した富を、鉄道や水力・銀行設立などの近代化に投資していくことによって、多度津は近代化の先頭に立つのです。
今回は、ここまでです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「多度津町誌267P 北前船の出入りで賑わう港」
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