瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:多度津白方

   室町期に活発化するのが海民の「海賊」行為です。
その中で「海の武士」へ飛躍したのが芸予諸島能島の村上氏です。この時代の「海賊」には、次の二つの顔があったようです。
①荘園領主の依頼で警固をおこなう護衛役(海の武士)
②荘園押領(侵略)を行う海賊
このような「海賊=海の武士団」は、讃岐にもいたことを以前にお話ししました。多度津白方や詫間を拠点とした山地(路)氏です。

3弓削荘1
芸予諸島の塩の島・弓削島

山地氏は燧灘を越えて、芸予諸島まで出掛けて、塩の島と云われた弓削島を押領していることが史料から分かります。そこには押領(海賊)側として、「さぬきの国しらかたといふ所二あり。山路(山地)方」と記されています。「さぬきの国しらかた」とは、現在の多度津町白方のことです。ここからは15世紀後半の讃岐多度津白方に、山地氏という勢力がいて、芸予諸島にまで勢力を伸ばして弓削島を横領するような活動を行っていたことが分かります。そのためには海軍力は不可欠です。山地氏も「海賊」であったようです。

京都・東寺献上 弓削塩|弓削の荘
弓削は東寺の「塩の荘園」であった 

 今回は、山地氏がどのようにして香川氏の家臣団に組織化されていったのかという視点から見ていきたいと思います。テキストは 「橋詰茂  海賊衆の存在と転換 瀬戸内海地域社会と織田権力」
です。
瀬戸内海地域社会と織田権力(橋詰茂 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

山路氏は、『南海通記』に「西方関亭(立)中」として出てくることは、以前にお話ししました。
  香西成資の『南海通記巻七』(享保三年(1718)の「細川晴元継管領職記」の部分です。ここでは管領細川氏の内紛時に晴元が命じた動員について、当時の情勢を香西成資が次のように説明しています。その内容は、3段に分けることが出来ます。
1段目は、永正17年(1520)6月10日に細川澄元が亡くなり、その跡を継いだ晴元が、父の無念を晴らすために上洛を計画し、讃岐をはじめとする5ケ国に動員命令を出し、準備が整ったことを記します。
 2段目は「書二曰ク」と晴元書状を古文書から引用しています。その内容は
「京への上洛について、諸国の準備は整った。先兵として、明日軍勢を差し向けるので、急ぎ務めることが肝要である。香川氏にも申し付けてある」

日付は7月4日、差出人は細川晴元、受取人は「西方関亭(立)中」です。3段目が引用した晴元書状についての説明で、「この書、讃州西方山地右京進、その子左衛門督と云う者の家にあり」と注記しています。ここから、この文書が山地氏の手元に保管されていたことが分かります。
この文章で謎だったのが2段目の宛先「西方関亭(立)中」と山地氏との関係でした。これについては、以前に次のようにお話ししました。
①関亭は関立の誤記で「関を守るもの」が転じて海の通行税を徴収する「海賊衆」のこと
②山地氏は、能島村上氏とともに芸予諸島の弓削島を押領する「海賊衆」であったこと。
③山地氏は、多度津白方や詫間を拠点とする海賊衆で、後には香川氏に従うようになっていたこと
細川晴元が讃岐の海賊衆山地氏に対して、次のような意味で送った文書になるようです。
「上洛に向けた兵や兵粮などの準備が全て整ったので、そちらに送る。船の手配をよろしく頼む。このことについては、讃岐西方守護代の香川氏も連絡済みで、承知している。」

 この書状は細川晴元書状氏から山地氏への配船依頼状で、それが「讃州西方山地右京進、其子左衛門督」の家に伝わっていたようです。逆に山路(地)氏が「関亭中への命令」を保存していたと云うことは、山地氏が関亭中(海賊衆)の首であったことを示しています。
 ①守護細川氏→②守護代香川氏 → ③海賊衆(水軍)山地氏
という命令系統の中で、山地氏が香川氏の水軍や輸送船として活動し、時には守護細川氏の軍事行動の際には、讃岐武士団の輸送船団としても軍事的な役割を果たしていたことが見えてきます。

関亭は関立で海賊のことだとすると、「西方関立中」とは何のことなのでしょうか?
西方とは、讃岐を二つに分けたときに使われる言葉で、讃岐の西半分エリアをさします。守護代も「讃岐西方守護代」と呼ばれていました。つまり讃岐西方の海賊衆ということになります。文中に「此書は讃州西方山地有京進、その子左衛門督と云う者の家にあり」と記されています。最初に見たように寛正3年(1463)の弓削島を押領していた白方海賊衆山路氏が出てきました。その末裔がここに登場してくる山地氏だと研究者は考えています。「西方関立=海賊衆山路(地)氏」になるようです。そして、海賊衆山路氏は細川晴元の支配下にあったことが分かります。
 文書中に「香川可申候」とあります。この香川氏は讃岐西方守護代の香川氏です。
当時、西讃岐地方は多度津の香川氏によって管轄されていました。「香川氏も連絡済みで、承知している。」とあるので、細川氏は守護代の香川氏を通じて山路氏を支配していたことがうかがえます。

兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳 多度津船の活動
 文安2年(1445)の『兵庫北関入松納帳』には、守護細川氏の国料船の船籍地が、もともとは宇多津であったのが多度津に移動したことが記されています。また過書船は多度津を拠点とし、香川氏によって運行支配されていました。 つまり多度津港は、香川氏が直接に管理していた港だったようです。香川氏は多度津本台山に居館を構え、詰城として天霧城を築きます。香川氏が多度津に居館を築いたのは、港である多度津を掌握する目的があったと研究者は考えています。そうして香川氏は経済力を高めるとともに、これを基盤として西讃岐一帯へ支配力を強化していきます。山路氏のいる白方と多度津は隣接した地です。香川氏の多度津移動は山路氏の掌握を図ったものかもしれません。つまり海賊衆である山路を支配下におくことで、瀬戸内海の海上物資輸送の安全と船舶の確保を図ろうとしたと研究者は考えています。
3 天霧山4
香川氏の天霧城

香川氏は、永正16年(1519)、細川澄元・三好之長に従って畿内へ出陣しています。
しかし、五月の京都等持寺の戦いで細川高国に敗れて降伏し、その後は高国に属するようになります。その後の享禄元年(1528)からの高国と晴元の戦いでは、阿波の三好政長に与して晴元に属し高国軍と戦っています。その年の天王寺の戦いでは、香川元景は細川晴几の武将として木津川口に陣を敷いています。めまぐるしく仕える主君を変えていますが、「勝ち馬」に乗ることが生き残る術です。情報を集め、計算尽くで己の路を決めた結果がこのような処世術なのでしょう。
 これらの畿内への出陣には、輸送船と護衛船が必要になります。
その役割を担ったのが海賊衆の山路氏だったと研究者は考えています。文安年間(1444)以降は、山路氏は細川氏から香川氏の支配下に移り、香川氏の畿内出陣の際に活動しています。

多度津陣屋10
       多度津湛甫が出来る前の桜川河口港(19世紀前半)

晴元が政権を掌握した後、西讃岐の支配は香川氏によって行われています。
香川氏と細川晴元の関係を示すものとして次のような史料があります。
其国之体様無心元之処、無別儀段喜入候、弥香川弾正忠与相談、無落度様二調略肝要候、猶右津修理進可申候、謹言、
卯月十二日                            (細川)晴元(花押)
奈良千法師丸殿
発給年は記されていませんが、天文14、15年のものと研究者は推測します。宛て名の奈良千法師丸は誰かは分かりませんが、宇多津聖通寺城主の奈良氏が第1候補のようです。奈良氏は細川四天王の一人といわれていますが、讃岐での動向はよく分からないようです。この史料はわずかに残る奈良氏宛のものです。文中に「香川弾正忠与相談」とあります。守護の細川晴元は、守護代の香川弾正忠に相談してすすめろと指示しています。ここからは、次のような事が推測できます。
①それだけ西讃エリアでの香川氏の存在が大きかったこと。
②奈良氏の当主が幼少であったために、香川氏を後見役的立場としていたこと
奈良氏の支配領域は、鵜足郡が中心で聖通寺山に拠点をおいていました。香川氏にわざわざ相談すせよと指示しているのです。最初に見た山路氏の文章にも、香川氏には連絡済みであると記されていました。ここからは、細川晴元にとって香川忠与は頼りになる存在であったことがうかがえます。逆に言うと、香川氏を抜きにして西讃の支配は考えられなかったのかもしれません。それほど香川氏の支配力が西讃には浸透していことがうかがえます。内紛で細川氏の勢力が弱体化していることを示すものかもしれません。この時期には香川氏の勢力は、西讃岐だけでなく、中讃岐へも及んでいた気配がします。どちらにしても、細川氏の弱体化に反比例する形で、香川氏は戦国大名化の道を歩み始めることになります。
  以上をまとめておきます
①多度津白方や詫間を拠点として、芸予諸島の弓削島を押領していたのが山路(地)氏である
②山地氏は、海賊衆(海の武士団)として、管領細川氏に仕えていたことが史料から分かる。
③多度津からの讃岐武士団の畿内動員の際には、その海上輸送を山地氏が担当していた。
④多度津港は、香川氏の直轄港であり守護細川氏への物資を輸送する国領・過書船の母港でもあった。
⑤多度津港は、瀬戸内海交易の拠点港として大きな富をもたらすようになり、それが香川氏の成長の源になる。
⑥このような海上輸送のための人員やノウハウを提供したのが山地氏であった。
⑦細川家の衰退とともに、香川氏は戦国大名化の道を歩むようになり、山地氏も細川氏から香川氏へと仕える先を換えていく。
⑧その後の山地氏の一族の中には、海から陸に上がり香川氏の家臣団の一員として活躍する者も現れる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  「橋詰茂  海賊衆の存在と転換 瀬戸内海地域社会と織田権力」です。


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多度津白方

以前に、善通寺以外に「弘法大師誕生所」と名乗る寺院が多度津白方に現れ「多度津白方=空海誕生地説」を流布するようになったことをお話ししました。そこには中世から近世初頭に弥谷寺を中心に活動した高野山系の阿弥陀信仰・念仏行者たちの影が見えました。彼らが白方のお堂を「仏母院」と改称して流布していたようです。その後、弥谷寺が善通寺の末寺になってからは、弥谷寺や仏母院による流布は一時的に停まります。広報拠点がなくなったからでしょう。しかし、庶民信仰として「多度津白方=空海誕生地説」は根強く広がっていたようです。
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 その信仰を参拝者獲得に積極的に活用しようとするお寺が出てきます。それが海岸寺です。18世紀末頃から海岸寺は「多度津白方=空海誕生地説」を再び流布し、奥の院を空海生誕地として売り出そうとするプロジェクトを開始するのです。
 これは善通寺誕生院にとっては、放置することの出来ない事件です。海岸寺の「第2の空海誕生地」設置計画を止めさせようとします。ここに善通寺と海岸寺が「空海生誕地」をめぐる争論がおきます。それを追って見たいと思います。
テキストは次の二冊です
1 松原秀明 徳川時代の善通寺 善通寺市第2巻       昭和63年
2 乾千太郎 弘法大師誕生地の研究 善通寺 初版発行 昭和11年
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海岸寺奥の院

18世紀後半頃から海岸寺は、次のような由来を主張するようになります。
海岸寺奥院は弘法大師母公の実家があった所で、白方の三角寺仏母院が母公別館である。大師は海岸寺奥院産盥堂で生まれ、その時の産湯に用いたのが石の産盥(うぶたらい)である。

この由来に基づいて、「多度津白方=空海誕生地説」を流布するための信仰・広報センターとして奥の院を新たに建立し、その目玉に空海が生まれた時に使った「産盥」をセールスポイントにした広報作戦を展開し始めます。

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 海岸寺奥の院 産盥堂の産湯井戸
産盥堂再建(実際には新築)の勧進帳の表紙には
讃州白方屏風浦産盥堂再建勧化帳。経納山海岸寺
 
その勘化文には、次のように記します
  夫れ吾海岸寺なる奥院の御影堂は、弘法大師降誕ましませし霊場なり・・・其の洗盥(うぶたらい)なるは、三業諸垢を清めて、現富の益日々新なり・・、
          文化乙歳季夏    現住職  快道誌
 奥院には、産盥堂と染め抜いた幕や雪洞をかかげ、正面に大きな地蔵を建立して、台座石に産盥堂再建と刻します。また産水井(ウブミズノイ)。浴巾掛松(ユテカケノマツ)という立て札を建てます。納組帳には「弘法大師御産生之所也」と書きます。

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海岸寺奥の院の産水井(ウブミズノイ)

 さらに寺への参拝道の要所要所の岐路には「屏風浦道」や「奥院、産盥堂へ何丁」という道しるべを建て、寺の前には「屏風浦」といふ建石を立てます。

このような海岸寺の動きを放置できなくなった善通寺は、次のように丸亀藩に訴えます。
①寛政10(1798)頃、奥州の回国行者金作という者を召抱え、大師御夢想の灸治というのを始めた。しかし、これは不人気で一年ばかりで止んだ。                                  
②「大師御伝記」という書物を、版元は土州一宮(高知一宮神社)ということにして、海岸寺で印刷して売り広めた。この本は空海を「大師ハ讃岐国白方屏風浦猟師とうしん丈夫の子也」として、空海の父を「漁師のとうしん」とする偽書である。しかし、土地の人はよろこんで読み、文句を空で覚えているほどである。
③海岸寺の地名を屏風浦と称し、所々に「屏風浦道」「奥院、産盥堂へ何丁」という建石を立てた。
④白方屏風浦絵図を印刷して「大師降誕之霊地」と書いて売り広めた
⑤二間四方の辻堂のような堂を産盥堂と名付け、箱に入れた石器をかざり、十二銭で旅人に拝ませている。
⑥二間四面の堂を三間四面に立て直し、さらにその前に、二間と六間の礼堂を唐破風付に建てようと計画している。
⑦池を掘って産井と名付け、やはり「勧進帳序」にその功徳を書き立てた。
⑧松を植て浴巾掛(ゆやかけ)之松と称した。
⑨新しく掘った池の近くに子安観音といって菩薩の形にして幼兒を懐いた石像を作り、大師の母君が大師を懐く尊像だと言いふらした。
⑩寛政10(1798)頃に彫刻した大師の童形、御両親の尊像を、礼堂に安置した。
⑪諸国から参拝客が乗り降りする多度津の浜へ建石を立て、大師誕生像に白方屏風浦と記した産盥堂道案内を乗船客に配布するようになった。
  ここからは、海岸寺が「多度津白方=空海誕生地説」を流布し、その信仰拠点センターである奥の院の整備を急速に進めていく様子がうかがえます。
どうして18世紀の後半になって、このような動きを展開するようになったのでしょうか。当時の金比羅さんとの関係で見てみましょう。
①18世紀半ばに大坂からの金比羅船が就航し、金比羅詣客が急激に増加します
②18世紀後半には、それに応えるように金毘羅さんのお堂や施設、石段や玉垣、そして街道も整備されます。
③金毘羅さんの周辺の宗教施設は、金比羅参拝客をどのようにして自分の所へ立ち寄らせるかの算段を考えるようになるのがこの時期です。善通寺や弥谷寺の境内整備計画は、その一環として捉えることができることを以前にお話ししました。そして次のような集遊コースが形成されるようになります。 
丸亀港 → 金毘羅さん → 善通寺 → 弥谷寺 → 海岸寺 → 丸亀港

金毘羅さんにやってきた、参拝客の多くがこのルートで動き始めます。19世紀に始めに十返舎一九の弥次喜多コンビもこのルートを巡っています。
 海岸寺としては、弥谷寺から白方へ参拝者を導入するためには強力な「集客力のあるアイテム」が必要だったのでしょう。そこで目を付けたのが1世紀前に、弥谷寺や仏母院が流布し、その後に取りやめられた「多度津白方=空海誕生地説」だったようです。これをリニュアルして流布するようになったのです。その拠点として新たに整備されたのが、海岸寺奥の院のようです。

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1815年5月24日 善通寺は海岸寺のやり方を九亀藩へ訴え出ます。それに対して、6月22日 海岸寺から多度津藩へ返答書が差し出されます。どんな返答書なのか見てみましょう。
  海岸寺返答書
一 誕生院は大師御誕生の霊場であることは綸旨院宣から明らかなことは、承知しております。
二 富寺(海岸寺)は往古からの寺説に次のように記します
 「大師の母公が海岸之景色を、常に愛し、この浦に別館を構え、時々遊覧することがあった。あたかも六月十五日の炎天の日に、この別館で大師を降誕されたので、その聖地に一宇を構え、御母公が愛する所ゆえに海岸寺と名付けた。その後、これを信じる者達が、その徳を慕って石を割て産盥を作り、池を掘って産井と名付け、松を植て浴巾掛松と称して、大師初誕の地と呼んできた」 これが古くからの伝来です。

三 産盥堂の再建については、先達の勧進僧の願いを受けて取りかかり、ほぼ完成しています。この勧進方法などについては先達達が自主的に運営していることで、海岸寺は指図していないのでよく分かりません。
 誕生院が産盥堂と申すこの度の建物については「再建」であって、見分して頂ければ分かる通り古来よりあったものです。新しく建立したものではありません。
四 勧進帳に「御誕生之霊場」と記載されていたのも、大師旧跡再建の方便で古くから用いていました。寺説にも往古から「初誕之地」と称してきました。
五 弥谷寺の境内の建石(丁石)のことは、当寺のまったく関与していないことなので分かりません。
六 屏風浦の称号については、古来よりそのように称してきました。旧記にも屏風浦と記しています。それのみならず白方村でも屏風浦と呼んでいます。古い地理では、筆山の麓までも入海であったと伝えられます。また、天霧山の麓の辺りも屏風浦と呼ばれていたと云います。当寺辺りも屏風浦の分内になるのではないかと愚案します。
七 産盥についての善通寺の批判には納得がいきません。これについては、先述した通り古来より寺説にあることです。
亥六月                                     海岸寺

最初に確認しておきたいのは(一)で分かるとおり、海岸寺も「誕生院は大師御誕生の霊場」であることは認めていて、これについて争うつもりはないということです。そのうえで、海岸寺が主張する「寺説」を、どこまで承認するかということが争われることになります。
そして、目にかかるのは善通寺の提訴について強気の反論を行っていることです。最後の方は、「確信犯」とも見える開き直りぶりです。これだけ強気になれるのは、どうしてか私には疑問に思えてきます。それは、追々見えてくることなので、先を急ぎます。
この海岸寺の返答書は、8月19日には、次のようなルートで善通寺に写しが届けられています。
海岸寺 → 多度津藩 → 丸亀藩 → 善通寺 

写しが届いた日に、万福寺、曼茶羅寺、出釈迦寺が善通寺へ集り、海岸寺への反論(再質問状)を作成しています。この問題に対応したのがこの3つの住職たちであったことが分かります。それでは、彼らが作成した反論書を見てみましょう
海岸寺の答書を受けて
1 綸旨院宣等が善通寺にあるにも関わらず、(海岸寺)が「弘法大師生誕地」や「屏風浦」を古来の寺説にあるからと主張することについて
 これは世間の俗説であります。もし仮に古書にそのように書いてあっても綸旨や宣旨に反することは認められません。誕生地がふたつあるはずがありません。また海岸寺が反論書で挙げた根拠史料も妄説で信用なりません。大師降誕之霊場と主張することは、宣旨を軽視した行為で、とうてい認められるものではありません。強く彼地を御誕生所と主張することは 綸旨院宣並びに数百年前からの古い撰述を無視することで、そんなことをすれば海岸寺は信用できないことになります。海岸寺の考えを、今一度お聞き頂きたいと思います。

2 産盥堂は再建であり、新たに建てるものではないと海岸寺は主張しています。しかし、我々は新設・再建のことを言っているのではありません。この建立についての勧進帳序文の不都合を申し立てているのです。

3 屏風浦の称号については、海岸寺は古くから称してきたし、旧記も書かれていると言います。誕生所の証拠もあるという。それならば、確認のためにその旧記の年代を教えいただきたい。追って詳細は伝えます。
4 海岸寺の返答書の中で、屏風浦の地名は旧記に書かれていると主張します。その寺説と由来について申し上げたい。善通寺には綸旨や院宣の中に屏風浦と明記されています。それに対して、海岸寺は我々善通寺に寺説にあるからと反論しています。これには、天地ほどの隔たりがあります。
海岸寺の寺説というのは、信用がならない史料で、偽造・誤り数多く見られます。そのため近郷を始め他國からもこれを疑う人々が数多くあります。そのため海岸寺は「菖跡之実 否不分明候様成行可申哉」と言い出す始末です。このような様を察して、呉々も賢明な判断を出して頂けるようにお願い申し上げます。以上。

これに対して、11月に海岸寺から、屏風浦の名称は、世俗一統住古より称し来たことで、生駒家寄附状にも屏風ヶ浦と書かれているなどの返答書が出されます。また、海岸寺の本寺明王院(道隆寺)が上京し、本山である大覚寺との対応協議と、支援の取り付けを行ったようです。海岸寺に「悪うございました」と謝る姿勢は見えません。臨戦態勢を整えていくようです。

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  こうした中で12月8日 多度津藩家老畑六郎・林勝五郎から、九亀藩岡織部宛に、書状が届きます。そこには
「藩としてはこの度の件について掛合(調停)を離れ、善通寺と海岸寺の本寺明王院(道隆寺)とで話合をさせるのがよいと思う」

という内容が書かれていました。
多度津藩には海岸寺の行為を強く罰するという姿勢は見えません。
海岸寺の「「多度津白方=空海誕生地説」流布プロジェクトを、見て見ぬ振りをしながら影では支援していた節もあります。
 多度津藩は丸亀藩から分離独立した1万石足らずの小藩で、お城や陣屋を持たずに本家の丸亀城内に「寄宿」してきました。ところが寛政八年(1796)に21歳の四代高賢が家督を継ぐと藩の空気が変わっていきます。若い林求馬時重を家老に登用し、藩政の改善・丸亀藩からの自立化を進めようとします。その手始めが藩主の居館と政庁を多度津に移すことでした。
 林は、お城ではなく伊予西条藩のような陣屋を多度津に新たに建設する案を、丸亀藩の重役方藩や同僚の反対を押して決定します。こうして陣屋建設が始まりますが、工事途中の文化五年(1808)家老の林が突然に亡くなってしまいます。建設工事は、林という推進力を失って一時的に中断します。善通寺と海岸寺の争論が起きているのは、ちょうどこの時期になります。
 多度津藩は小藩のため家臣団と地主・有力商人、僧侶が密接に交流し、その身分の垣根が低いのも多度津藩の特徴であることは以前にお話ししました。ここからは小説風になります。海岸寺の進めるプロジェクトを、家臣団や重臣達が知らないはずがありません。特に家老の林家は白方の奥に別邸をもっています。その行き帰りに、海岸寺の前を通ったはずです。海岸寺の住職と懇意であったことも考えられます。海岸寺のプロジェクトに対して、了解し密かな支援を送っていたかもしれません。このような状況証拠からすると、多度津藩に海岸寺の行為を罰したり、停止させたりすることはさせたくないという意向があったような気がします。もっと云えば金比羅詣での参拝客が「弘法大師生誕地=多度津白方海岸寺」にも立ち寄ることは、多度津港の発展につながり、ひいては藩の経済力向上にもなる。そのためには海岸寺を守ってやらねばならぬという気持ちの方が強かったのではないでしょうか。

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海岸寺奥の院
 善通寺は九亀藩内にあり、海岸寺とその本寺明王院道隆寺は多度津藩に属していました。
もし、海岸寺が九亀藩内にあれば
「僧侶之身分二有間敷次第、言語道断沙汰之限」
と判断した藩主の考えで、すぐも罰せられたかもしれません。しかし多度津藩の寺であるために、九亀藩の意向もそのままには通用しません。どちらにしても多度津藩は、これ以上は調停・解決へ介入するのは避けたいと丸亀藩に伝えてきたのでのです。
12月12日、このような多度津藩の意向を丸亀藩寺社方から伝えられた善通寺は、関係者会議を開きます。
 招集されたのは末寺の甲山寺満願、観智院兼万福寺光顕、曼茶羅寺光海、出釈迦寺百光、宝城院戒珠、歓喜院光馬、九品院仁全、吉祥寺兼持宝院快心、法楽寺寅了、万恒寺大智等です。善通寺の重要な決定については、末寺院に諮問されていたようです。
 その会で明王院と海岸寺が何の返事もしないことに対して、今後の対策が話し合われます。そしてこれ以上、丸亀藩に厄介をかけるのは申し訳ないので、本山随心院へお願いして、早く決着をつけるように善通寺へ進言します。
 一方、多度津藩の意向を受けた九亀藩からは、この問題解決のために海岸寺の本山明王院と直接掛け合うようにと通達されます。これを受けて善通寺は、使僧を明王院へやりますが
「住職は、播州竜野法帷院へ出かけており、いつ帰院するかは分らない」

という返事でした。明王院道隆寺は、善通寺との直接の協議を避けていたようです。

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海岸寺奥の院
 もう一度事件の経過を振り返って起きましょう
海岸寺を訴えることになった契機は、九条家の家人の次のような申し出でした。
  海岸寺の行為をこのままにしておいてよいのか。このような行為を聞けば京都の本寺嵯峨大覚寺でも、これをそのままに捨ておくことはあるまい。九条家へ申し上げ、九条家から丸亀藩へ頼んでやめさせたらどうか。

 ここに九条家が登場します。九条家は金毘羅の金光院の山下家と名義上の姻戚関係を持つようになり、なにかと金毘羅さんの運営にも口出し、経済的な見返りを要求するようになっていました。金毘羅さんの富くじ開催などはその典型です。問題が発生すると、調停を買って出て礼金をいただくという家人たちがいたようです。
 その助言に従って、丸亀藩に訴え出て、丸亀藩から多度津藩に依頼して、海岸寺の行為を止めさせようとしたのでした。ところが海岸寺は素直に謝罪せず、反論してきます。多度津藩もそれを罰せようとはしません。丸亀藩も、多度津藩は子藩ですが、他藩のことなのでそれ以上の介入は控えたいので、この時点では強権発動には至らず、善通寺と海岸寺の直接の話し合いで解決せよと投げ出した形になります。しかし、善通寺が海岸寺に話し合いのテーブルに着くように求めても、海岸寺は応じないのです。
  当初は九条家の云うように、九亀藩の命令ですぐ解決するものと善通寺は考えていた節があります。しかし、予想しなかった方向に事態は進み、地元では解決できず、舞台を京都へ移し、交渉は2年の歳月がかかることになります。しかもその解決は、善通寺にとっては納得のゆくものではなかったようです。

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海岸寺の不動明王

 これだけ海岸寺が徹底抗戦できたのは、当時の金毘羅参拝客の誘致という多度津藩の政策目標の一環として、海岸寺の進める「多度津白方=空海誕生地説」が位置づけられていたからという気がします。
以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
1 松原秀明 徳川時代の善通寺 善通寺市第2巻        昭和63年

四国霊場71番弥谷寺NO3 阿弥陀=浄土観を広げた念仏行者たち

 

「空海=多度津白方生誕説」をめぐる寺社めぐり   

近世初頭の四国辺路には、空海の生誕地であることを主張するお寺が善通寺以外にもあったようです。それが多度津白方の仏母院や海岸寺です。空海が生まれたのは善通寺屏風ヶ浦というのが、いまでは当たり前です。四国辺路の形成過程で、どうしてそのような主張がでてきたのでしょう。その背景を見ていくことにします。
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白方の丘から望む備讃瀬戸 高見島遠景

仏母院の歴史を資料でみてみましょう。
最も古い四国霊場巡礼記とされる澄禅『四国辺路日記』(1653)には仏母院が次のように記されています。 
夫ヨリ五町斗往テ 藤新太夫ノ住シ三角屋敷在、是大師誕生ノ所。御影堂在、御童形也、十歳ノ姿卜也。寺ヲハ幡山三角寺仏院卜云。
此住持御影堂ヲ開帳シテ拝モラル。堂東向三間四面。
此堂再興七シ謂但馬国銀山ノ米原源斎卜云者、讃岐国多度郡屏風が浦ノ三角寺ノ御影堂ヲ再興セヨト霊夢ヲ承テ、則発足シテ当国工来テ、先四国辺路ヲシテ其後御影堂ヲ三間四面二瓦フキニ結構ゾンデ、又辺路ヲシテ阪国セラレシト也。
又仏壇ノ左右二焼物ノ花瓶在、是モ備前ノ国伊部ノ宗二郎卜云者、霊夢二依テ寄付タル由銘ニミェタリ。猶今霊験アラタ也。
意訳すると
海岸寺から約五〇〇メートル東に藤新太夫(空海の父)が住んだ仏母院があり、弘法大師の誕生所とされ、御影堂が建立されていた。そこに十歳の弘法大師が祀られている。寺を三角寺という。この寺の住職が御影堂を開き、その像を開帳してくれた。堂は東に向かって三間四面の造である。この堂を再興したのは但馬銀山米原源斎で、夢の中でお告げを聞いて、直ち四国巡礼を行い、このお堂を建立し、帰路にも四国巡礼をおこない帰国した。仏壇の左右の焼きものの花瓶は、備前の部ノ宗二郎の寄進である。霊験あらたな寺である
 藤新太夫は空海の父。三角屋敷が空海の生まれた館のことです。
ここからは備前や但馬の国で「空海=多度津白方生誕説」が拡大定着していたことがうかがえます

 仏母院に関しては『多度津公御領分寺社縁起」(明和6年1769)に、次のように記されています。
多度郡亨西白方浦 真言宗八幡山三角寺仏母院
一、本尊 大日如来 弘法大師作、
一、三角屋敷大師堂 一宇本尊弘法大師・御童形御影右三角屋敷は弘法大師、御母公阿刀氏草創之霊地と申伝へ候、故に三角寺仏母院と号し候、
 『生駒記』(天明3年1783)には
白方村の内の三隅屋敷は大師誕生の地なりとて、小堂に児の御影を安置す、
とあり、弘法大師誕生地として認められています。しかし、その50年後の天保十年(1839)の『西讃府志』では  
仏母院 八幡山三角寺卜琥ク云々。西方に三角の地アリ、大師並二母阿刀氏、及不動地蔵等ノ諸仏ヲ安置ス。
とあり、弘法大師の誕生地とは記されていません。しかも母はあこや御前ではなく、阿刀氏になっています。この間に誕生地をめぐる善通寺との争論があり、敗れているのです。これ以後、生誕地であることを称する事が禁止されたことは、以前にお話ししました。

「仏母院 多度æ´\ ブログ」の画像検索結果
仏母院に残されている過去帳には、大善坊秀遍について次のように記されています。
 不知遷化之年月十二口滅ス、当院古代大善坊卜号ス、仏母院之院号 寛永十五年戊寅十月晦日、蒙免許ヲ是レヨリ四年以前、寛永十二乙亥八月三日、此秀遍写スコト白方八幡ノ服忌會ヲ之奥書ノ處二大善坊秀遍トアルヲ見雷タル様二覚ヘダル故二、今書加へ置也能々可有吟味。

 意訳変換しておくと
当院は古くは大善坊と号していた、寛永十五年(1638)十月晦日に、仏母院の院号を名乗ることが許された。その4年前の寛永十二(1635)八月三日、秀遍が白方(熊手)八幡神社の古文書を書写していたときに、その奥書に大善坊秀遍とあるのを見つけたので、ここに書き加えておくことにする。よく検討して欲しい。

ここからは寛永十五年(1638)に寺名が
善坊から仏母院に変更されたことがわかります。「仏母」とは、空海の母のことを指しているのでしょう。つまり、高野系の念仏聖が住んでいた寺が、「空海の母の実家跡に建てられた寺院=空海出生地」として名乗りを挙げているのです。
古代善通寺の外港として栄えた多度津町白方の仏母院にも、次のような念仏講の石碑があります
寛丈―三年
(ア)為念仏講中逆修菩提也
七月―六日
寛丈十三(1673)の建立です。四国霊場を真念や澄禅が訪れていた時代になります。先ほど見た弥谷寺のものと型式や石質がよく似ていて、何らかの関係があると研究者は考えているようです。
仏母院は霊場札所ではありませんが、『四国辺路日記』の澄禅は、弥谷寺参拝後に天霧山を越えて白方屏風ケ浦に下りて来て、海岸寺や熊手八幡神社とともに神宮寺のこの寺に参拝しています。

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仏母院の墓地には、次のような二基の墓石が見つかっています。
右  文化九(1812)壬申天
   六月二十一   行年七十五歳
正面 (ア) 権大僧都大越家法印甲願
   法華経一百二十部
左  向左奉謡光明真言五十二万
   仁王経一千部
(裏面には刻字無し)
(向右)天保(1833)四巳年二月十七日
正面(ア) 権大僧都大越家法雲
(左・裏面には刻字無し)
研究者が注目するのは「権大僧都」です。これは「当山派」修験道の位階のことで、醍醐寺が認定したものです。この位階を下から記すと
①坊号 ②院号 ③錦地 ④権律師 ⑤一僧祗、⑥二僧祗、⑦三僧祗、⑧権少僧都 ⑨権大僧都、⑩阿閣梨、⑪大越家 ⑫法印の12階からなるようです。そうすると⑪大越家は、大峰入峰36回を経験した者に贈られる高位者であったことが分かります。ここからは、19世紀前半の仏母院の住持は、吉野への峰入りを何度も重ねていた醍醐寺系当山派修験者の指導者であったことがうかがえます。

 また、享保二年(1717)「当山派修験宗門階級之次第」によると、仏母院は江戸時代初期以前には、念仏聖が住居する寺院であることが確認できるようです。そして、仏母院住職は、熊手八幡神社の別当も勤めていました。



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仏母院遠景

 この寺は先ほど見たように、澄禅が参拝した時代には、但馬の銀山で財を成した米原源斎が御影堂を再興したり、備前の伊部宗二郎が花瓶を寄進するなど、すでに讃岐以外の地でも、霊験あらたかな寺として知られていたようです。仏母院の発展には、それを喧伝し、参拝に誘引する先達聖たちがいたようです。弘法大師の母の寺であることの宣伝広報活動の一環として、仏母寺という寺名の改称にまで及んだと研究者は考えているようです。

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弘田川河口からの天霧山

 しかし、「空海=多度津白方生誕説」を記す3つの縁起には仏母院の名は登場しません。これをどう理解すればいいのでしょうか。
考えられることは、縁起成立の方が仏母院などの広報活動よりも早かったということです。縁起により白方屏風が浦が注目されるようになり、それに乗じて、大善坊が「空海=白方誕生説」を主張するようになり、仏母院と寺名を変えたと研究者は考えているようです。
 そうだとすると「空海=白方誕生説」を最初に説いたのは、白方の仏母寺や海岸寺ではないことになります。これらの寺は、「空海=白方誕生説」の縁起拡大の流れに乗っただけで、それを最初に言い出したのではないことになります。 

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 最後に現在の仏母院をみてみましょう。

 善通寺から流れ込む弘田川の河口近くの多度津白方に仏母院はあります。境内は大きく二つに分けられていて、東側に本堂・庫裏と経営する保育所があり、道路を挟み、西側には大師の母が住居していたという三角形の土地があります。
三角地は御住屋敷(みすみやしき)と呼ばれていましたが、これは空海の母の実家であることに由来します。空海の臍の緒を納めたという御胞衣塚(えなづか)などがあります。澄禅が日記に残している御影堂は、この三角地に建てられていたものと思われます。現在の御堂には新しく作られた玉依御前・不動明王・弘法大師の三体の像が安置されていますが、かつては童形の大師像(十歳)があり、三角寺と呼ばれていたようです。
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戦国時代の永禄年間(1558年 - 1570年)に戦乱により荒廃します。その後、修験者の大善坊が再興したことから、寺院名も三角寺から大善坊と称するようになります。そして「空海=多度津白方生誕説」が広がると、寛永15年(1638年)寺院名が大善坊から仏母院に改められました。
 御胞衣塚には石造(凝灰岩)の五輪塔がありますが制作年代は、水輪・火輪の形状からみて桃山時代から江戸時代初期ころ、つまり16世紀末から17世紀前半ころとされています。ちょうど「空海=多度津白方生誕説」の広がりと一致します。このことは大善
坊から仏母院への改名との関連、さらに本縁起の制作時期などと考え合わせれば、重要なポイントです。
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 また御住屋敷の南端に寛文13年(1673)7月16日建立の「念仏講衆逆修菩提也」の石碑があります。ここから江戸時代前期に仏母院に、念仏講があったことが分かります。つまり高野山系の時宗念仏系の信仰集団がいたようです。この石碑と同様のものが弥谷寺にもあります。
 
 この寺は明治初年の神仏分離以前は、熊手八幡神社の神宮寺でした。そのため神仏分離・廃仏毀釈の際に、八幡大菩薩と彫られた扁額や熊手がこの寺に移され本堂に安置されています。

 次に海岸寺を史料で見てみましょう

「多度æ´\ 海岸寺」の画像検索結果 
弘田川河口の西側の海に面した海水浴場に隣接した広大な地に本堂・庫裏・客殿などがあります。さらにそこから南西口約1,1㎞の所に空海を祀った奥の院があります。この寺の古い資料はあまり多くありません。そのため江戸時代以前のことはよく分かりません。 
最初に記録に見えるのは四国霊場の道隆寺の文書の中です。
天正二十年(1592)六月十五日 白方海岸寺 大師堂供養導師、良田、執行畢。
その後も、これと同じように道隆寺の住職が導師を勤める供養の記録が何点かあるので、その当時から道隆寺の末寺であったことが分かります。ついで澄禅『四国辺路日記』に、次のように記されています。
谷底ヨリ少キ山ヲ越テ白方屏風力浦二出。此浦白砂汗々ダルニー群ノ松原在リ、其中二御影堂在リ、寺は海岸寺卜云。
門ノ外二産ノ宮トテ石ノ社在。州崎二産湯ヲ引セ申タル盟トテ外方二内丸切タル石ノ毀在。波打キワニ幼少テヲサナ遊ビシ玉シ所在。寺ノ向二小山有リ、是一切経七干余巻ヲ龍サセ玉フ経塚也。
意訳変換しておくと
(弥谷寺)から峠を越えて白方屏風力浦に下りていく。ここは白砂が連なる浜に松原がある。その中に御影堂があり、寺は海岸寺という
門の外「産の宮」という石社がある。空海誕生の時に産湯としたという井戸があり、外側は四角、内側は丸く切った石造物が置かれている。波打際には、空海が幼少の時に遊んだ所だという。寺の向うには小山があり、ここには一切経七干余巻が埋められた経塚だという。
ここからは、次のような事が分かります。
①澄禅が弥谷寺から天霧山を越えて白方屏風ガ浦に出て、海岸寺に参詣したこと
②海岸寺には、御影堂(大師堂)があり、門外に石の産だらいが置かれていたこと。
澄禅が、ここを空海生誕地と信じていたように思えてきます。

 また『玉藻集』延宝五年(1677)は
「弘法大師多度郡白潟屏風が浦に生まれ給う。産湯まいらせし所、石を以て其しるしとす云々」
とあり、弘法大師の誕生地と信じられていたようです。
そして、空海が四十二歳にして自分の像を安置して本尊とした。四十余の寺院があったが天正年中に灰塵に帰した。それでも大師の像を安置して、未だ亡せずと記しています。
 なお『多度津公御領分寺社縁起』(明和六年-1769)には
「本堂一宇、本尊弘法大師御影、不動明王、愛染明王 産盟堂一宇」
などが記されています。このような海岸寺の「空海=白方誕生説」を前面に出した布教活動は、文化年中に善通寺から訴えられ、大師誕生地をめぐる争論を引き起こすことになります。これに海岸寺は敗れ、その後は海岸寺は「空海=白方誕生説」を主張することを封印されます。その結果、いまでは奥の院はひっそりとしています。
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 以上のとうに海岸寺の創建期は不明ですが、戦国時代末期には大師堂(御影堂)があり、やがて江戸時代初期にはその存在が知られるようになっています。
 
ただ澄禅『四国遍路日記』には、大師誕生地として仏母院の方を明記して、海岸寺は石盥があったことを記すだけです。ここが誕生地だとは主張されていません。
 なお善通寺蔵版本『弘法大師御伝記』は、その末尾に「土州一ノ宮」とあり、土佐一ノ宮の刊行のようにみられます。しかし、この版元は実は海岸寺であったとされています。そうだとすれば、この寺は「空海=多度津白方生誕説」の縁起本を流布していたことになります。
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以上からは次のようなことが言えるのではないでしょうか。
①17世紀の段階では、四国霊場は固定しておらず流動的だった。
②空海伝説もまだ、各札所に定着はしていなかった
③そのため独自の空海生誕説を主張するグループもあり、争論になることもあった。
④白方にあった海岸寺や父母院は、先達により中国地方に独自の布教活動を展開し、信者を獲得していた。
以上「空海=多度津白方生誕説」に係わるお寺を史料でめぐってみました。

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