瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:多度津藩

まんのう町文化財協会の仲南支部の秋のフィルドワークが多度津の林求馬邸と合田邸になりました。その「事前研修資料」として、林求馬邸をアップしておきます。
香川県の近代和風建築 : ShopMasterのひとりごと

テキストは「香川県の近代和風建築 香川県近代和風建築総合調査報告書113P 林求馬邸 香川県教育委員会」です。 

 林求馬5
林求馬邸は、幕末の嘉永4年(1851)から慶応4年(1868)の間に、多度津藩家老を務めた林求馬(1825~1893)の屋敷として奥白方に建てられたものです。それを聞いて最初に私が疑問に思ったのは次の二点です。
①どうして、海の見えない奥白方に建てたのか
②どうして明治維新間際の時代に、建てられたのか
①の奥白方に建てられたのは、幕末の軍事情勢の中で、海からの艦砲射撃を受ける可能性が出てきたためです。多度津港のそばにあった陣屋では、それを防ぎきれません。多度津藩は、幕末に軍備の近代化を進める一方、土佐藩に接近し、倒幕の動きを強めていました。そのような中で、丸亀藩や高松藩に比べると、強い軍事的な緊張感を持っていたことは以前にお話ししました。そのような中で、藩主や家老の避難場所として奥白方に白羽の矢が立ったようです。ここは、瀬戸内海の展望を楽しむための別荘や保養施設ではなかったこと、非常時のための待避場所(下屋敷)として急遽建設されたことを押さえておきます。
林求馬広間2
林求馬邸座敷
②の建設時期については、座敷の天丼裏に、嵯峨法泉院の祈祷札があります。
そこには「慶応3(1867)年6月」という年号が記されているので、鳥羽伏見の戦いの始まる直前に、この建物が完成していたことが分かります。まさに江戸幕府が倒れる前年に、新築された建物ということになります。
 廃藩置県後に、家老の林求馬は免官となります。
その後は林求馬は、この建てられたばかりのこの家を自邸として使います。その後も子孫が居住して建物が維持されてきましたが、1960代から無住となりました。その後の活用化を年表化しておきます。
1977年、林家より林求馬邸の土地建物が寄付され、財団法人多度津文化財保存会が設立
1983年、周辺整備を終えて、一般公開開始
1986年 求馬の養父林良斎が開いた私塾弘濱書院が敷地内に新築復元
1995年 南土蔵を改造した資料展示館がオープンし、林家に伝わる書画や古記録類なども公開
弘濱書院(復元)
弘濱書院(復元)
「香川県の近代和風建築」には、この建物について、次のように記します。

林求馬平面図
林求馬
邸平面図
林求馬邸の敷地面積は1,646㎡で、敷地南辺に表門を開く。門の北側に、西から主屋(座敷棟)、頼所、管理棟を建て、門の北東に弘濱書院、その南に展示資料館を建てる。
林家には、明治20~30年代初頭の屋敷の様子を描いた銅版画(鳥睡図)が伝わり、ほぼ建築当初の敷地内の様子を知ることができる。また、昭和30年発行の『白方村史』には内部の見取図が記されている。それらの資料と、現状の平面図を比較すると、頼所から西側部分は建築当初に近い状態で現存していると考えられ。東側部分は、家族の居住空間で、生活様式に合わせて改変が加えられたたと思われる。かつて台所や湯段があった場所に、現在は弘濱書院が建設されている。現在資料館となっている南土蔵、管理事務所とつながる東西の土蔵2棟は建設当時から現存するものと考えられ、土蔵をつなぐ部分は昭和になってから増築されたものという。

林求馬正面

 表門は、建設時に、陣屋から移築したものと伝えられ、その両脇に続く土塀は建設当時からあったが、昭和57年の修理時に腰部を海鼠壁とした。敷地南辺以外の土塀は現在失われている。
林求馬玄関

主屋は、入母屋造、妻入で正面に入母屋造の屋根を持つ大玄関が付く。屋根はいずれも本瓦葺、外壁は黒漆喰塗りである。
林求馬大玄関

大玄関の式台の奥に、8畳間があり、その両側に6畳間がある。板敷きの廊下が東西に通り、それをはさんで北側に14畳の広間、その東に6畳の枠の間と8畳の座敷が配置されている。
IMG_0006林求馬

広間は西側に、8畳の座敷は東側にそれぞれ床の間を配置し、北側は背後の山を借景にした庭を望むことができる。大玄関は、藩主のための玄関で、座敷は藩主との対面の場、広間は多くの家臣が集まる場所として作られたものであろう。従者は、大玄関の東側にある小玄関から出人りし、控の間に入る。
林求馬邸 | 香川県の多度津町観光協会
頼所(よりしょ:白壁の建物)

 民衆の用件を聞く場所として使われた頼所は、つし2階建、入母屋造、本瓦葺、妻入で、外壁は白漆喰塗りで、下部は海鼠壁(当初は縦板張り)とする。戸口を入ると土間で、奥に板の間及び廊下が続き現在の事務宇、その奥の土蔵へとつながる。
頼所の出入口の木戸には、内側から相手を確認するための小さなのぞき窓がついており、 2階の窓かららも人の出入りを確認できる。2階は、天丼を張らず、主に収納場所として使われていたと考える。
IMG_0004林求馬
林求馬邸

内部に陳列されている物を簡単に見ておきましょう。

林求馬邸 文化財図録


林求馬 広間
林求馬邸内部
林求馬 ふすま絵図
立屏風
林求馬 備前焼唐獅子
藩主から送られた備前焼の唐獅子
林求馬 龍昇天図
龍昇天図
しかし、林求馬邸のなかで一番大切にされているのは、この書のようです。
大塩平八郎の書 乱の前年
大塩平八郎の書
慮わざれば胡ぞ獲ん
為さざれば胡ぞ成らん
(おもわざればなんぞえん、
なさざればなんぞならん)
意訳変換しておくと
考えているだけでは何も得るものはない
行動を起こすことで何かを得ることができる
「知行一致」「行動主義」と云われる陽明学の教えが直線的に詠われています。平八郎の世の中を変えなくてはならないという強い思いが
伝わってくるような気がします。これが書かれたのは、大塩平八郎が大坂で蜂起する数カ月前で、多度津町にやって来たときのものとされます。どうして、大塩平八郎が多度津に来ていたのでしょうか?
それはまた次回に・・・

林求馬 古文書
林求馬邸に残された古文書
林求馬邸について、まとめておきます。
①この建物は、薩長と幕府の軍事衝突が間近に迫った時期に、藩主や家老の避難先として奥白方に建設された建物である。
②そのため華美な装飾や不用な飾りは見られず、シンプルで機能重視で建てられている。
③しかし、近世の武家屋敷の様式を継承し、大小の玄関や広間・座敷など主要な部分が良好に保存されている。
④東西に一直線に廊下を配置した間取りは改築の痕跡がなく、建築当初からのものと考えれる。
⑤座敷など「表」の部分と、台所など「奥」の部分とを分離し、円滑な行き来を重視した機能的な配置である。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  香川県の近代和風建築113P 林求馬邸  
「白方村史」(白方村史編集委員会1955年)
「林家所蔵文化財図録」(多度津文化財保存会2003年)


四国遍路のユネスコ登録に向けての準備作業の一環として、霊場の調査が行われ、その報告書が次々と発行されています。2022年1月に愛媛県教育委員会から発行された三角寺の調査報告書を見ていて目に留まったものがあります。それがこの写真です。
三角寺 大般若経箱横側
三角寺の大般若経経箱
黒い漆の箱の横に金書で書かれた内容からは、 この箱が正徳6年(1716)に京極高登が金比羅大権現に寄進したものであることが分かります。京極高澄を、グーグルで検索すると次のように出てきます。

「京極高澄(高通)は多度津藩の初代藩主。丸亀藩2代藩主高豊の子として高或が生まれる前年の元禄4年(1691)に生まれたが、正室との間の子であった高或が世継となった。しかし高豊が元禄7年に没するとその遺言により高澄には1万石が分知されて多度津藩が成立した。」
 香川県の多度津町観光協会
多度津藩の殿様

京極高登とは、多度津藩初代藩主京極高通(1691-1743)のことののようです。箱の正面を見てみましょう。

三角寺 大般若経正面

  箱の正面には「六百」と金書された引き出しが4つ。左側面には「大般若経 六百巷」と見えます。そして、上面には京極家の家紋である四つ目結があるようです。
この箱には大般若経が入れられていたようです。
『大投若経』は、正式には『大般若波羅蜜多経』で、唐代玄実の訳出で、全600巻にもなるものです。三角寺の蔵本は、全600巻の内557巻が現存します。5巻をひとまとめにして、ひとつの引き出しに25巻ずつ収められています。引き出しは4段あるので、1箱に百巻を収めることになります。全600巻ですので、箱は6つあります。「六百」と書かれているので、最後の500巻代の経が納められています。
祈り込め、大般若経の転読 山形・立石寺で法要|モバイルやましん
大般若経転読のようす

どこで作られたものなのでしょうか?
一番最後の巻第六百には、次のように記されています。

三角寺大般若経 巻末
寛文十(庚戊)仲冬吉日
中野氏是心板行
板木細工人
藤井六左衛門
彫り職人と摺り職人の名前が記され、この大般若経が寛文10年(1670)の仲冬(12月)に摺られたことが記されています。それでは表装を行ったのは誰なのでしょうか?

三角寺大般若経 巻末印

 巻末には黒印が押されています。拡大して見ると次のように読めます。
「御用所大経師 降屋内匠謹刊」

大経師(だいきょうじ)を辞書で調べると、次のように書かれています。
 「  もと朝廷御用の職人で、経巻および巻物などを表装する表具師の長。奈良の歴道である幸徳井・賀茂両氏より新暦を受けて大経師暦を発行する権利を与えられたもの」

 朝廷御用の職人で江戸初期は浜岡家が大経師でしたが、貞享元年(1684)頃に断絶し、その後に大経師となったのが降屋内匠のようです。その名前がここにあります。

三角寺 大般若経大経師
大経師
以上から、三角寺の『大般若経』は、寛文10年(1670)に摺られていた摺刷を、大経師である降屋内匠が表装したものであることが分かります。
 同じ版木で摺られた「大般若経」が滋賀県野洲市の浄満寺にもあるようです。
滋賀県野洲市 浄満寺大般若経
    浄満寺の大般若経(野洲市『広報やす 2011年』8月1号参照)
一番最後の巻末には、次のように記されています。
寛文十庚戌仲冬吉日
中野氏是心板行
版木細工人藤井六左衛門」
先ほど見た三角寺と同じ版木で刷られたことが分かります。
しかし、大経師の降屋内匠の印はありません。

三角寺大般若経巻頭
三角寺大般若経1巻 表紙見返しの貼紙
今度は大般若経の一番最初の巻を見てみましょう。
巻の表紙見返の貼紙には、次のように墨書されています。

楠公筆 京極壱岐守 高澄 
大般経(二十箱二而 六箱)六百巻 
奉寄附 本ムシナシ極上々物也 類ナシ 
正徳六丙中歳 正月十日 
金昆羅大権現宝前

 ここからは改めて三角寺の大般若経は、正徳6年(1716)に京極高登が金比羅大権現に寄進したものであることが確認できます。
今までの所を年代別に並べておきます。
1670(寛文10)年 大般若経版木の摺刷
1691(元禄 4)年 京極高通(登)誕生(丸亀藩2代藩主高豊の子)
1694(元禄 7)年 4歳で多度津藩主に
1711(正徳 元)年 京極高通が藩主として政務開始
1716(正徳 6)年 京極高通(登)が金比羅大権現に寄進
1735(享保20)年 長男・高慶に藩主の座を譲り隠居
1743(寛保 3)年 江戸藩邸で病没した。享年53。
この年表を見ると京極高通が実質的な政務を執り始めたのが1711年(20歳)の時になります。そして、その5年後に大般若経は金毘羅大権現(現金刀比羅宮)に奉納されたことになります。新しい藩の門出と、その創立者としての決意を、大般若経奉納という形で示す。そのためには、格式ある専門家やに大経師に作成を依頼する。そのような流れ中で作られたのが、この大般若経のようです。

金毘羅に寄進されたものが、どうして三角寺にあるのでしょうか?
 これについては搬入経過を示す史料がないので、よく分からないようです。
三角寺大般若経内側

ただ、巻156-160、巻476480、巻481-485、巻486-490、巻491-495の各峡の内側に「三角寺現侶 賢海完英代」と上のように墨書されています。大般若経がもたらされたときの三角寺の住持は賢海だったことが分かります。

巻1表紙見返を見てみましょう。
三角寺大般若経巻頭2

墨抹された部分には、次のように記されているようです。
発起願主
嘉永元(1848)戊中六月□□□
宇摩郡津根村八日市
近藤豊治隆重三男
完英貳十有六」

そしてその横に
「本院(三角寺)現住法印権大僧都賢海

と記します。ここに出てくる完英と賢海は同人物であることが分かっています。ここからは、当時の住職は賢海で、嘉永元年(1848)年には賢海と呼ばれ26歳であったことが分かります。棟札などからは嘉永年間には、弘宝が住持で、賢海はまだ住持ではなかったことが分かります。
  どちらにしても『大般若経』転入には、当時の住持である弘宝か、次の住持となる賢海が関係していたことがうかがえます。さらに研究者は「賢海が三角寺の住持になった後、「大投若経」巻第一の署名を再び書き直した」と推察します。以上から、「この頃(嘉永年間)に大般若経が三角寺へ持ち込まれたのではないか」とします。

  しかし、これについては私は次のような疑問を覚えます。
幕藩期において、多度津藩主が金毘羅大権現(金光院)に奉納した大般若経を、断りなく他所へ譲り渡すと言うことが許されるのでしょうか。これがもし発覚すれば大問題となるはずです。私は、大般若経が三角寺にもたらされたのは、明治の神仏分離の廃仏毀釈運動の中でのことではないかと推測します。

明治の金刀比羅宮を巡る状況を見ておきましょう。
神仏分離令を受けて、金毘羅大権現が金刀比羅宮へと権現から神社へと「変身」します。そして、権現関係の仏像や仏画は撤去され、「裏谷の倉」の一階と二階に保管されます。それが明治5(1872)年になると、神道教館設置のための資金調達のためにオークションにかけられることになります。これを差配したのが禰宜の松岡調であることは以前にお話ししました。
讃岐の神仏分離7 「神社取調」の立役者・松岡調は、どんなひと? : 瀬戸の島から
松岡調

彼の日記である『年々日記』明治五年七月十日条には、次のように記されています。(意訳)

7月10日 明日11日から始まる競売準備のために、書院のなげしに仏画などをかけて、おおよその価格を推定し係の者に記入させた。百以上の仏画があり、古新大小さまざまである。中には、智証大師作の「草の血不動」、中将卿の「草の三尊の弥陀」、弘法大師の「草の千体大黒」、明兆の「草の揚柳観音」などもあり、すぐれたものも多い。数が多過ぎて、目を休める閑もないほどであった。 

7月18日 裏谷の蔵にあった仏像の中で、商人が買いそうなものを抜き出して、問題のないものを選んで売りに出した。数多くの商人が、競い合って買う様子がおもしろい。

7月19日 昨日と同じように、次々と入札が進められ、残っていた仏像はほとんど売れた。誕生院(善通寺)の僧侶がやってきて、両界曼荼羅図を金20両で買っていった(以下略)

7月21日 御守処のセリの日である、今日も商人が集い来て、罵しり合うように大声で「入札」を行う。刀、槍、鎧の類が金30両で売れた。昨日、県庁へ書出し残しておくtことにしたもの以外を売りに出した。百幅を越える絵画を180両で売り、大般若経(大箱六百巻)を35両で売った。今日で、神庫にあったものは、おおかた売り払った。

ここからは入札が順調に進み「出品」されていたものに次々と、買い手が付いて行ったことが分かります。数多くの仏像や仏画・聖教などが競売にかけられて、周辺の寺院に引き取られていったのです。
 その中に気になる記述があります。7月21日の「大般若経(大箱六百巻)を35両で売った。」です。
これが三角寺の大般若経だと私は考えています。競売が行われたのは明治5(1872)年7月です。経路は分かりませんが、それ以後に三角寺にもたらされたようです。
以上をまとめておきます
①三角寺には、多度津藩初代藩主が金毘羅大権現に奉納した大般若経がある。
②この大般若経は、京の大経師・降屋内匠に表装を依頼し、漆塗りの6つの箱に収められたもので、殿様の奉納物らしい仕立てになっている。
③入手経路についてはよく分からないが、神仏分離後に金刀比羅宮が行った仏像・仏画などの競売の際に流出したものが、何らかの経路を経て三角寺にもたらされたことが考えられる。
④金毘羅大権現から競売を通じて流出した仏像・仏画は、膨大なものがあり、善通寺など周辺の有力寺院はそれを買い求めたことが松岡調の日記からは分かる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「四国八十八箇所霊場詳細調査報告書 第六十五番札所三角寺 三角寺奥の院 2022年 愛媛県教育委員会」の「(139P)聖教 大般若経」
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         P1120863
弥谷寺本堂西側の山崎家の墓域
17世紀中頃の丸亀藩藩主・山崎家治の代に、弥谷寺の麓での田地開発が許可されたことが、郡奉行から大見村庄屋又大夫に伝えられた史料に残されています。この史料からは弥谷寺が畑6反3畝の土地を開発し、伽藍修理料としての「御免許」(年貢免除)を得たことが分かります。これが「御免許地」、つまり田畑の税を免除された最初の寺領になるようです。(「御免許山林田畑之事」、文書2-106-19)
 さらに山崎家断絶の後に入封してきた京極藩の高和の代に、郡奉行へ新開地1町5反を、大庄屋上の村の新八、下高瀬村宇左衛門、大見村庄屋七左衛門を通して「御免許地」として願い出ています。そこには、「開地漸く七反余開発仕り、用水池を構えた」とあります。ため池築造とセットで、新田開発が引き続いて行われていたことがうかがえます。
 元禄7年(1694)に、丸亀藩の支藩として多度津京極藩が成立します。
2多度津藩石高
多度津藩の石高
前回お話ししたように弥谷寺のある大見村は、多度津藩に属します。そのため多度津藩の領地決定まで土地開発は一時中断したようです。多度津藩の領地が決定すると、改めて1町5反の開発を、大見村庄屋善兵衛が大庄屋三井村の須藤猪兵衛、上ノ村宇野与三兵衛へ申し出て、大庄屋の二人から代官に願い出ています。そして正徳4年(1714)3月に、次のような証文を得ています。

弥谷寺格別の儀二思し召され、後代堂塔修理料として、開田畑壱町五反御免許

こうして5月には、この田畑1町5反(田2反9畝、畑1町2反1畝)が御免許地とされます。これを山崎家時代に認められていた6反3畝と併せると御免許地は2町1反3畝になります。

P1150031
大見から見た弥谷山(真ん中 右が天霧山)
これらの弥谷寺の寺領は、どこにあったのでしょうか?
  弥谷寺の下に広がる大見の地は、中世に秋山氏によって開かれたとされます。秋山氏の一族である帰来秋山氏は、竹田に舘を構えていました。近世になると三野湾が大規模に干拓されていきます。そのような中で弥谷寺に続く斜面も開墾され、その上部の谷頭にため池を築造することで棚田状の新田を開発したことが推測できます。

P1150038
現在の八丁目太子堂付近 左が旧遍路道

 現在の八丁目太子堂辺りに、かつては大門があったことは以前にお話ししました。この太子堂の裏には谷頭に作られたため池があります。
弥谷寺 遍路道
八丁目大師堂(大門跡)の南に残る「寺地」

太子堂から本山寺に続く遍路道を下りていくと旧県道と交わる辺りに「寺地」という地名が残ります。江戸時代に、弥谷寺が開発し、「御免許地」となったは2町1反3畝の水田は、この辺りにあったと私は考えています。この土地は、弥谷寺にとっては伽藍維持や日常的な寺院経営にとっての経済基盤となったはずです。
弥谷寺 八丁目大師堂 大門跡
弥谷寺の寺地周辺
 また、4月には大見村の鳥坂原で、新開畑5反5畝が弥谷寺分として認められています。この地については「当夏成より定めの通り上納仕るべき者なり」とあるので、「夏成」(夏年貢)を納める必要があったようです。(以上、「御免許山林田畑之事」、文書2-11「19、「弥谷寺由来書上」、文書1-17-8)。

弥谷寺は、自らの手による新田開発以外にも、有力者からの田畑の寄進を受けています。
弥谷寺に残された田畑等の寄進証文を、研究者が年代順に整理したのが次の表です。
弥谷寺 田地寄進状
弥谷寺への田畑等の寄進証文一覧表

これを見ると一番古いのは「1の元禄12年の三野郡上高瀬村の田中清兵衛」によるもので、精進供料とし田畑5畝(高2斗5升が寄進されています。この時期は、弥谷寺境内に多くの墓標が造立され始めたころで、18世紀中頃にかけて急速にその数が増えていきます。墓標を弥谷寺境内に建てると同時に、追悼供養として寄進が始まったようです。
弥谷寺 紀年名石造物の推移
弥谷寺の墓標造立数の推移表
2は、先ほど見た大見村寺地組の有力者で深谷家の当主です。新田として開発された周辺の土地が寄進されたのかも知れません。3~5は、大見村の属する「上の村組」の大庄屋である宇野家によるものです。宇野家は大庄屋として、多度津藩が命じて弥谷寺で行われる大般若経の転読や雨乞祈願などの行事には、上の村組の庄屋たちのトップとして臨席する立場にありました。ある意味、宇野家にとっては弥谷寺は慰霊の地であるとともに「ハレの場」でもあったのです。そこに、「観音堂修理料」の名目で、土地が3ケ所寄進されています。その後の田畑寄進者の名前を見ると、宇野家を見習うように大見村土井家、大見村庄屋大井家や、大見村内の有力者の名前が続きます。
 生駒氏や松平氏が新興の金毘羅神を保護し、金光院に多くの土地を寄進しました。それを真似るように、この時代になると庄屋や有力者が田畑を寺社に寄進するようになります。弥谷寺への土地寄進の先頭を切ったのは、大庄屋の宇野家で、これを見習うように庄屋たちが続いていきます。その背後には、彼らが弥谷寺を死霊の集まる山として霊山信仰をもち、そこに墓標を建てるようになったことがあります。

P1150281
弥谷寺の墓標
その中で6の正徳3年の5月と翌年3月に、美作の久米南条郡金間村平尾次郎兵衛が、岩谷奥院灯明料を寄進しています。
その理由は研究者にも分からないようです。ただ、近世以前の弥谷寺は、善通寺の影響下に入らずに、白方の海岸寺や父母院と同じ山伏(修験者・聖)たちとともに「空海=白方誕生説」を流布してたことは以前にお話ししました。そして、その源は多度津の道隆寺を経て、海を渡って備中児島の五流修験者たちとのつながりが見て取れます。五流の修験者の中には、海岸寺や弥谷寺を空海生誕の聖地として、先達なって信者たちを誘引していた時期があります。その名残がこの背景にはあるのではと、私は推測しています。

弥谷寺に寄進地された土地は、あまり広い田畑はないようです。
一番広いのが田畑5反3畝25歩の享保12年9月の上ノ村の大庄屋三野(宇野)浄智(与三兵衛)です。その次が寛延3年6月の田畑3反2畝27歩の宇野清蔵(宇野浄智の一族と思われる)になります。寄進目的としては精進供料、本尊仏倉向備、観音堂修理料、岩屋奥院三尊前言明料、石然地蔵尊仏倉向備、観音堂供灯明料、常灯明料・護摩供支具料・地蔵尊敷地・寺地普請などが記されています。
 宇野浄智の場合は常接待料・接待堂・常接待石碑となっており、遍路のための参詣者や接待堂建設のための寄進もあることに研究者は注目します。
弥谷寺 Ⅲ期の地蔵菩薩
弥谷寺の地蔵刻印の墓標


これらの寄進地は、その土地からの収入がすべて弥谷寺の収入となったわけではありません。
作徳米(藩へ年貢)を納めた後の収納米が弥谷寺の収入になります。たとえば一番古い元禄12年の田中兵衛の寄進状には、次のように記されています。
大見村小原にて田畑五畝、此の高弐斗五升の田畑買い求め、弥谷寺弘法大師の御精進供料二事二仕る処なり、尤も御年貢諸役等其の方二て御勤め、其の余慶を以て御精進供御備え願い奉る者なり、右の意趣は両親のため、現世安穏後生善くする所なり
意訳変換しておくと
大見村小原で田畑五畝、石高弐斗五升の田畑を買い求め、弥谷寺弘法大師の御精進供料として寄進する。もちろん御年貢諸役などを納めたあとの余慶を、御精進供御備するものである。この意趣は両親のため、現世安穏・後生を善くするためである。

ここからは次のようなことが分かります。
①寄進地は、従来から持っていた田畑ではなく、新たに弥谷寺周辺の田畑を買い求めたものであること。
「弘法大師の御精進供料」と弘法大師信仰がみられること
③「御年貢諸役等其の方二て御勤め」とあるように、年貢やその他の藩への負担である諸役は弥谷寺から納め、残った分を「其の余慶を以て御精進供御備え」に充てるとあること
この「余慶」が作徳米になります。つまり田畑の寄進を受けたとはいっても、それが「御免許地」のように藩への年貢貢等税が免除された寺領という性格ではなかったことを押さえておきます。
 P1120835
弥谷寺本堂下の磨崖に彫られた五輪塔とその前に並ぶ墓標

弥谷寺への土地の売り渡し・質入れ証文が残っているのは、どうして?
享保11年(1726)から、幕末の嘉永元年(1848)までに20通を数える売り渡し・質入れ証文があります。どうして個人の証文が弥谷寺に残っているのでしょうか。研究者は次のように考えています。享保11年と同12年の大庄屋宇野浄智の売り渡し証文は、計田5反3畝25歩です。これは寄進地の第22表8番目の三野郡財田上ノ村宇野浄智と一致します。また宝暦6年2月の「利助取次」が宛名になっています。畑4畝12歩は、さらに大見村庄屋の大井平左衛門宛となっています。これは寄進地の13番目の宝暦6年12月大井平左衛門の田畑6畝5歩と同一の田畑だと研究者は指摘します。ここから大庄屋の宇野家や大見村庄屋の大井平左衛門は、質流れで手に入れた土地を、自分のものとするのではなく弥谷寺へ寄進したとことが分かります。この頃の庄屋は自分の利益だけを追い求めていたのでは、村役人としてやっていけなかった時代です。質流れの抵当として手に入れた土地は、寺社に奉納するという姿勢を見せておく必要があったのかもしれません。
以上をまとめておくと
①17世紀の弥谷寺は、八丁目大師堂の下あたりの斜面を開墾し、谷頭にため池を築造し新たな田畑を開いた。
②これは藩から「御免許地2町1反3畝」として無税の寺領として認められた。
③一方、18世紀になると大庄屋の宇野家など、境内に墓標を建てた有力者たちから先祖供養代などとして土地寄進が行われるようになった。
④その土地には「質流れ担保」で、庄屋たちの多くは自分のものとせずに弥谷寺に寄進する道を選んだ。
前回は大般若経の転読や雨乞い祈祷などの宗教行事を通じて、地域の有力者が弥谷寺と深く関わっていたことを見てきました。今回は、大庄屋などの有力者が経済的に弥谷寺をどのように支えてきたのかを見たことになります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  木原博幸  近世の弥谷寺と地域社会  弥谷寺調査報告書
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   多度津藩の初代京極高通は、正徳2年(1713)年4月19日に、将軍徳川家宜から多度津領知の朱印状を授けられます。幕府からの朱印状の石高は次のようになっています。
       公儀より京極高通への御朱印状          
讃岐国多度郡之内拾五箇村、三野郡之内五箇村
高壱万石(目録在別紙)事充行之屹依正徳之例領知之状如件
享保二年八月十一日
  京極壱岐守どのへ
こうして多度津藩は丸亀藩の支藩として成立します。その石高は以下の通りです。
2多度津藩石高
多度津藩の石高(多度郡+三野郡)

多度津藩の石高1万石は、多度郡が7130石余(15か村)、三野郡が2869石余(5か村)でした。その内で三野郡5か村は大見村・松崎村・原村・神田村・財田上ノ村で、その石高は次の表の通りです。

2多度津藩石高変化
多度津藩各村毎の石高推移

三野郡では宝暦年間は、大見村の石高一番多く、少ないのが原村だったことが分かります。それが明治4年には、神田や財田上(上の村)の石高が倍増しています。山間部での水田開発が継続して行われていたことがうかがえます。
弥谷寺 大見村と上の村組
多度津藩の三野郡5ケ村の位置

上の地図のように前者の3ケ村は三野郡の北部で、後者の神田村(山本町)・財田上ノ村(財田町)は、三野郡の南部になります。ふたつは離れた飛び地でした。環境の違うふたつのグループをまとめていくことは、なかなか大変だったことが予想されます。どちらにしても、弥谷寺のある大見村は、三野郡5か村で構成される上ノ村組に属していました。
上ノ村組の大庄屋は、財田上の宇野家が務めていたようです。
正徳1(1711)年に、神田村に隣接する羽方村(高瀬町)が多度津領に追加されます。その2年後の正徳3(1713)年4月に、上の村組大庄屋の宇野与惣兵衛が観音堂修理料として弥谷寺に田5畝を寄進しています。
弥谷寺 田地寄進状
弥谷寺への田地寄進一覧表
 宇野家は大庄屋を代々務め、多度津藩の湛甫建設が本格化する天保7(1836)年3月まで、宇野弥三左衛門の名前は大庄屋として確認できます。一方、大見村の庄屋は、近世初期の元和6年(1620)以降、明治まで、大井家がずーっと継承しています。(『新大見村史』)
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弥谷寺の本坊
字野家や大井家と、弥谷寺はどんな関係だったのでしょうか?
その関係を垣間見える資料を研究者は2つ挙げています。ひとつは、享保19年(1734)に、弥谷寺住職智等が隠居願いを本寺の善通寺誕生院へ提出しています。それと同時に,大見村庄屋大井平左衛門と連名で大庄屋の宇野与三兵衛へも提出しています。しかし、これは認められなかったようです。
 2つ目は、隠居願いが認められなかった住職智等は、3年後の元文2(1737)年に、有馬温泉への入湯願いが出されています。このほかにも住職の高野山への登山や、本山善通寺の造塔のための大坂行についても承認伺いが庄屋や大庄屋に出されています。ここからは弥谷寺の願書は、直接に多度津藩の寺社奉行に提出され、その結果が直接に弥谷寺へ伝えられるという形式ではなく、庄屋・大庄屋の承認を受けて後に、藩に取り次がれるという仕組みになっていたことが分かります。それだけ弥谷寺の維持、運営に大庄屋・庄屋が深く関わっていたようです。
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弥谷寺本坊
次に弥谷寺の住職の後継者決定手続きを見てみましょう。
寛政11(1799)年暮れに住職蜜範が病死し、後継者を決めることになります。その際の記録に「法春並びに村役人共打ち寄り評議仕り候」とあります。法春とは同一宗門を修行する仲間のことで、弥谷寺の住職の決定には「法春」とともに村役人が「評議」して、その承認が必要であったことが分かります。蜜範の後継者には、松崎村の長寿院が転住して住職となっています。この時は大見村宝城院と大見村庄屋玉三弥源太連名で大庄屋字野四郎右衛門へ願い出ています。(「諸願書控」、文書2-104-3)。

 その次の後継者選びは、文政9年(1826)に住職霊熙が病気隠居し、後任者に大見村の宝城院が兼帯することを願い出ています。この時も弥谷寺と大見村後見大井勇蔵の連名で大庄屋字野四郎右衛門へ願書を提出しています。このことは善通寺誕生院へも伝えられ、多度津藩では「願書二誕生院よりの添翰を以て願い出」ているので、これを認めています。(「奉願口上之覚」、文書2-116-11)
 幕末の嘉永5年(1852)に弥谷寺では住職智量が隠居したため、後継者を決めることになります。この時も寛政11年の時の「法春井びに村役人共評議仕り」との同じような文言があります。ここからは弥谷寺の後継者決定にも、大見村の村役人が深く関わっていたことが分かります。村役人と弥谷寺の関係の強さがうかがえます。
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弥谷寺十王堂

弥谷寺の住職は多度津藩の陣屋が出来るまでは、藩主が在国している時には、年頭に丸亀城で丸亀藩主・多度津藩主にお目見えをしていたようです。また、正・五・九月には丸亀城内で、般若経の転読や祈祷を行っています。ここからは、弥谷寺は丸亀藩・多度津藩の祈祷寺だったことが分かります。(「弥谷寺故事謂」)

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弥谷寺十王堂からのながめ

 明和7(1770)年はこの年は不作で、丸亀藩では農民に対し、「夫喰」(食料米)の貸与を行っています。これに対して5月に、多度津藩・寺社奉行は弥谷寺と道隆寺を呼んで、次のように命じていることが「五穀成就民安全祈祷控」に記されています。(要約)

藩主・京極高文様が近年の旱魃という領内不幸に、「百姓貧殺イタセシ事」を深く悲しんでおられる。そのために正月に「五穀豊熟民安全」を祈って、藩主自らが大般若経の「御札」を書き、その版木を道隆寺へ奉納することになった。そこで、多度津藩内の道隆寺と弥谷寺に大般若経の転読を命じ、祈祷料として銀5枚、領内へ配る御札用の料紙として杉原一束が渡された。祈祷料と御札紙のことは、弥谷寺から地元の「上の村組中」へも伝えらた。

 大般若経とは、正式な名前を「大般若波羅蜜多経」といいます。
 唐の時代に三蔵法師玄奘侶が16年のインド(天竺)留学から持ち帰り、その後4年を費やして翻訳(漢訳)します。小品般若、大品般若、金剛般若、文殊般若、秘密般若、理趣般若などさまざまな般若部経典の大全集で、その数は600巻にもなるようです。内容は、「般若波羅密」と訳される”悟りに至る智恵”を説く諸経典を集成したもので、「色即是空 空即是色」、一切の存在はすべて空であるという空間思想を説いているとされています。
2020年8月 – 三方石観世音
大般若経600巻

   しかし、中世の村々の寺社では、災異や疫病の流行を鎮め豊作を祈るための祈願行事となります。村々では日々の安寧を祈るため、大般若経を手に入れて祈願するようになります。導師が説草を唱える合間に、大般若経600巻を複数の僧侶で転読し、藩内の安全、五穀豊穣、また地区住民の厄災消除、家内安全を祈願するものです。

大般若経転読法要: 薬師寺日記
大般若経の転読(薬師寺)
しかし、600巻もあるお経を読むのも、長い巻物を巻くのも大変です。そのため、お経の形は5センチくらいの幅で蛇腹折りにした「折本」の形に変えられ、これを片手から片手へパラパラと落とし受けられるようにし、これでお経を読んだことにする「転読」が広く行われるようになりました。村のお経は、共同体の拠りどころである神社の宮座に置かれたので、仏教の経典が神社に伝わるという保管状況になっていたところが多いようです。それが、神仏分離で神社からお寺に移され、保管されてきたようです。
大般若シリーズ【3】 転読 その1新米和尚の仏教とお寺紹介

 経本を1巻1巻正面で広げ流し読むことで、それによって清らかな”般若の風”が起き、疫病や災害が吹き飛ばされるとされます。それぞれの僧侶が、1巻1巻「大般若波羅蜜多経 巻第○○(巻数) 唐三蔵法師玄奘奉詔訳ー!!」と、大音声で経巻数を唱え、最後に「調伏一切大魔最勝成就!」と唱え締めくくります。
このような転読会が多度津藩主から弥谷寺と道隆寺には命じられていたようです。
この時の弥谷寺の大般若経の転読には、代拝使として寺社奉行と寺社取次・代官奈良井藤右衛門らがやってきています。そして三野郡大庄屋字野十蔵を初めとする、大見村など4ヶ村の庄屋や村々の長百姓、組頭らも弥谷寺へやってきます。これは、多度津藩上ノ村組の大庄屋・庄屋・村役人のフルメンバーになります。そこに大勢の見物人もやってきます。その前で、弥谷寺住職によって大般若経の転読が行われています。一大イヴェントです。ここからは、弥谷寺が「上の村組」の重要な宗教的センターの役割を担っていたことが分かります。弥谷寺は、藩の保護を受けた特別なお寺と地元では認識されるようになります。ちなみに、この転読には弥谷寺のほかに、宝城院・長寿院・牛額寺・萬福寺・吉祥寺ら11人の僧が参加しています。その頂点に立つのが弥谷寺住職ということを目に見える形で、地元の人たちに知らしめる機会にもなります。
それから半世紀近く経った文化12年(1815)に、弥谷寺と道隆寺へ御紋幕が下賜されています。
その下賜理由は、次のように記されています。(要約)
「昨年秋の旱魃では、多度津領内は「一統困窮」した。そこで今年の夏は「五穀成就 民安全の御祈祷」を命じた。その結果、秋には領内全体に「作り方宜しく 村々より冥加米等献上」されている。これを祝して紋幕一対を下賜するので今後も、「五穀成就 民安全の祈念」をするように」とのことであった。
文化12年10月「御紋幕御寄附之控」、文書2-106-3=裏竃.

5善女龍王4j本山寺pg
本山寺の善如龍王(男神像)
幕末の頃には「雨乞執行(祈祷)」が弥谷寺で行われています。
丸亀藩が日照りの時に、善通寺に雨乞い祈祷を命じていたことは以前にお話ししました。また、三野郡の威徳院(高瀬町)や本山寺(豊中町)では、善女龍王信仰による雨乞祈願が早くから行われていたことは、以前にお話ししました。それを見て多度津藩でも幕末になると「此の節照り続き、潤雨もこれ無く、郷中一統難儀たるべし」として、弥谷寺へ雨乞い祈祷を命じ、祈祷料として銀2枚が与えられています。この時の雨乞い祈祷開催については、各村から役人総代と百姓2人ずつを、弥谷寺へ参詣させるように藩は通知しています。その周知方法は次の通りです。
①多度津藩から上ノ村組大庄屋近藤彦左衛門へ、
②さらに大庄屋近藤彦左衛門から大見村庄屋大井又太夫へ伝えられ
③上ノ村組の五か村へ通知
ここからは、弥谷寺での雨乞い祈躊が、上ノ村組という地域全体の行事として捉えられていたことが分かります。
 また年は分かりませんが18世紀前半のものと思われる次のような文書があります
「御本尊御開扉成さるべく候処、御本堂先年御焼失後、御仮普請未だ御造作等御半途二付き、御修覆成され度」
意訳変換しておくと
「御本尊を開帳したいが、本堂が先年焼失したままで、まだ仮普請状態で造作の道の半ばに過ぎない。本堂改築の資金調達のために、・・・・」

と境内に墓所のある人たちに寄進を依頼しています。(「小野言衛門書状」、文書2-96-100)。本堂が焼失した記録は享保5(1720)にありますので、この頃のことのようです。
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生駒一正のものとされる五輪塔(弥谷寺)
以上をまとめておくと次のようになります
①弥谷寺は中世は、高野聖などの念仏僧によって阿弥陀浄土信仰の拠点となっていた。
②そのために周辺の有力な信者たちが磨崖五輪塔を建立し、納骨するなど慰霊の聖地となった。
③守護代の香川氏は天霧城を拠点とすると、弥谷寺を菩提寺として、西院周辺に墓域を設け五輪塔を造立し続けた
④戦国時代末に藩主としてやってきた生駒氏も、ここに五輪塔を造立するとともに、弥谷寺で作った五輪塔を墓碑として各地の寺院に造立した
⑤丸亀藩主の山崎氏も本堂の西側に、藩主のものを含めて五輪塔3基を造立した。
⑥18世紀になると香川氏・生駒氏・山崎氏の墓標がならぶ弥谷寺境内に、それに習うかのように周辺の有力者が墓標を造立するようになる。
⑦境内に墓標を建てた有力者は、弥谷寺の保護者となり寺院経営に協力していくことになった。

それが本堂改築の資金調達であったり、以前にお話した金剛拳菩薩建立のための資金調達であったようです。
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金剛拳菩薩(弥谷寺)
このように弥谷寺は多度津藩の有力寺院として公的な行事を行う中で寺格を上げていきます。同時に後継者決定には、大庄屋や庄屋たちを関わらせることで、地域の有力者の寺院経営への参加意識を高め、伽藍整備に関わる資金調達をスムーズに行うシステムを作り上げていたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  木原博幸  近世の弥谷寺と地域社会  弥谷寺調査報告書
                                                      

    
   高瀬町史の年表篇を眺めていると幕末の慶長2年のところに、次のような記事がありました
1866(慶応2)年
1月 坂本龍馬の斡旋で薩長連合成立
6月20日  丸亀藩 幕府の長州討伐に対しての警備強化通達に応えて、領内8ケ所に「固場」を置き郷中帯刀人に「固出張」と命じる(長谷川家文書
12月 多度津藩、横浜でミニュエール銃を百丁買い入れる
この年、多度津藩は50人編成の農民隊「赤報隊」を組織する

 第二次長州戦争が勃発する中で、濁流のように歴史が明治維新に向けて流れ出す局面です。多度津藩は、その流れの中で長州の奇兵隊を真似て、赤報隊を組織しています。一方、丸亀藩はと見ると「固場」を設置しています。これは何なのでしょうか。「固場」に光を当てながら、丸亀藩の幕末の動きを見ていきたいと思います。テキストは 小山康弘  讃岐諸藩の農兵取立 香川県立文書館紀要   香川県立文書館紀要NO4 2000年 

丸亀藩では慶応元(1865)年に第二次長州征伐に備えて、軍用人足の徴用が行われています。
ところが徴用に応じたのは20人に過ぎなかったと長谷川家文書には記されています。困った村々の庄屋たちは相談の上で、次のような口上書を藩に提出しています。

夫役人足之義は高割にて組分取計、村分ケ之所も右に順シ高割にて引分ヶ、村方においては鵬立之者相選、家別に割付人数国取にて繰出候事」
意訳変換しておくと
夫役人足の不足分については村高に応じて人数を割り当て、強健な者を選び、家ごとに割り当てる。以下、寺社井びに庄屋、組頭、五人頭、肝煎、使番の医師などは除き、十五歳より六十歳の者から差出す。

 つまり、村役人や医師は除いて、農家の家毎に強制的に割り当てるという案です。そして賃銀は一日拾匁位で、半分を藩より、半分は村方より出す。留守中の家族は宿扶持を支給し、農地は親類や村方で面倒を見る。出勤日数は適当に交替する。出夫の者が病死し、残された者が難渋する場合は御上より御救遣わす等が列記されています。
 藩にとっても、軍用人足の徴用は簡単にはいかなかったことがうかがえます。
幕末のすべて
第二次長州戦争

  第二次長州戦争が本格化すると、瀬戸内海沿岸の丸亀藩も領内監視体制を強化することを幕府から求められます。
その一貫として、翌年の慶応2(1866)年6月11日に設けられたのが「御固場」です。
「当今不容易形勢に付、郷中帯刀之者野兵と相唱、要路之場所え固めとして出張申付候」

意訳変換しておくと
昨今の不穏な情勢に対応するために、郷中の帯刀者を野兵として、街道の重要地点において、その場所の監視や固めのために出張(駐屯)を申しつける。

御固場の設置は、次の8ヶ所です。
左(佐)文村牛屋口、      (まんのう町佐文 伊予土佐街道)
大麻村にて往還南手処、   (善通寺大麻村 多度津往還)
井関村御番所、                 (観音寺市大野原町)
箕之浦上州様御小休場所 (豊浜町 伊予・土佐街道)
和田浜にて往還姫浜近分南手処、 (豊浜町)
観音寺御番所
仁尾村御番所
庄内須田御番所                 (詫間町須田)
そして取締り責任者に、次の者達が任ぜられます。
佐文村 宮武住左衛門、 寛助左衛門
大麻村 真鍋古左衛門、 福田又助
庄内 斉田依左衛門、 早水伊左衛門
仁尾村 松原得兵衛、 真鍋清左衛門
観音寺 勝村与兵衛、 須藤弥一右衛門
井関村 古田笑治、 西岡理兵衛
和田浜 藤寛左衛門、 渡辺半八
箕浦 大田小左衛門 早水茂七郎
この取り締まりを命じられた人たちは、どんな立場の人たちなのでしょうか
彼らは「野兵」と呼ばれた人たちで、大庄屋、庄屋を除く帯刀人だったようです。大麻村では、人数不足のために7月には、神原幸ら十人が新たに「出張」が命じられています。その働きに対して「御間欠これ無き様厳重相勤候様」と「礼状」が出されています。野兵は9月には58人に増員されます。

6月19日には、丸亀の商家大坂屋に数人の浪人が押し入り、番頭二人を殺害し、放火するという事件が起きます。残された書状には、「天下精義浮浪中」と名乗り、砂糖入札などを通じ、藩の要人と結託した奸商を成敗するとありました。巷では尊攘志士のしわざとの噂もあり、小穏な情勢が生まれていきます。このような状態を受けて、6月27日に、丸亀藩の京極佐渡守家来宛に幕府より次のような通達がきます。
「此度防長御討伐相成候二付、国内動揺脱た等も之れ有り、自然四国え相渡り粗暴之所行致すべくも計り難く候間、ゝ路之場所え番兵差出置、怪敷者見受候はゞ用捨無く討取候様致すべく根、其地近領え乱妨に及び候義も之れ有り候はゞ相互に応接速に鎮定候致すべく候」。
意訳変換しておくと
「この度の防長討伐については、国内の動揺もあり、その影響で四国へ渡り粗暴を働く者がでてくることも予想でる。ついては要路に番兵を置き、怪しい者を見受た時には、容赦なく討取ること。また、近隣で乱暴を働くような者が現れたりした時には、相互に協力し、迅速に鎮圧すること。」

御固場設置は、長州討伐にともなう不穏な情勢を、事前に絶つための治安維持のために設けられたようです。
御固場が、どう運営されたかを見ておきましょう。
 御固場に出仕する「野兵」への手当はなく、ボランテア的存在でしたが食事は出たようです。その経費について「御固メ所御役方様御賄積り書」には、次のように記されています。
「御役方様御賄之義は先づ村方より焚出候様、尤一菜切に仕り候ゝ仰付られ候、然に御手軽之御賄方には御座候へ共、当時諸色高直に御候間、余程之入箇に相見申候」
「一ヶ所一日之入筒高凡百五拾目、八ヶ所一日分〆高を貫弐百目に相成、一ヶ月二拾六貫日、当月より当暮まで六ヶ月分弐百冷六貫日、此金三千両に相成候様相見申候」
  意訳変換しておくと
「御固場に出仕する野兵の食事については、先づ村方で準備するように。内容は一菜だけでいいとの仰付けであった。確かに高価な賄いではないが、この節は物価も上がっているので、大きな経費になりそうだと話し合っている

「一ヶ所の御固場の一日当たりの経費として凡150目、八ヶ所では一日分合計1貫200目になる。これは一ヶ月で26貫芽、当月から今年の暮までの6ヶ月分では2弐百十六貫日、併せて三千両の見積もりとなる」

と、当初から多大な経費がかかることが危惧されていたようです。
周辺の住民は、御固場近隣の見回りに駆り出されています。

「敷地之者軒別順番にて三・四人づヽ見廻り仕らせ候ヶ処も御座候、(中略)如何様当今米麦高直故、家別廻り番当たり候ては迷惑之者御座候故に相聞申候
意訳変換しておくと
「地域内の者を家軒別に順番で、三・四人づつで見廻させている所もありますが・・(中略) 
当今は米麦の値段も上がり、家別の廻り当番が頻繁に当たっては(麦稈などの夜なべ仕事もできず)迷惑至極であるとの声も聞こえてきます。
御固場は、近隣の村々には迷惑だったようです

これに対して、9月2日には御用番岡筑後より指示があり、次の条目が御固場に張り出されます
一、御固所出張之者共心得筋之義は、取締役も仰付られ、一通規定も相立候由には候得共、猶又不作法之義これ無様厳重二番致すべき事
一、出番之義昼夜八人相詰、四人づゝ面番これ有、通行之者鳥乱ヶ間敷儀これ有候はゞ精々押糾申すべき事
一、組合々々之中、筆上直支配之者申合、油断これ無き様気配り令むべき事
一、面番之者仮令休足中たりとも、外方え出歩行候儀停止たるべき事
一、若病気にて出張相調い難き者これ有候節は、其持場出張之者共え申出候はヾ 与得見届け、弥相違これ無候得ば連名之書付を以て申出るべき事
一、非常之節、固場所にて早拍子木太鼓打候はゞ、其最寄り々々にて請継ぎ、銘々持場え駆付け相図中すべき事
一、非常之節、銘々持場を捨置、家宅を見廻り候義は無用之事
但、近火之節、代り番申遣置、引取候て不苦、盗難同断之事
一、出番中酒肴取扱い之義堅無用之事
右之条々堅相守申すべきもの也
意訳変換しておくと
一、御固所への出張勤務している者の心得については、取締役からの仰付であり、規定も出しているので、不作法がないように厳重に勤めること
一、勤務については昼夜8人体制で、4人づつが交替で監視に当たること。通行者による騒動が起きないようにし、もし発生すれば速やかに取り締まること
一、組内のメンバー同士は、意思疎通をはかり、上に立つ者の指示に基づいて、油断のないように  気配りすること。
一、当番のメンバーは休息中といえどもも御固所を離れて、外へ出歩くことのないように
一、もし病気で出張(勤務)ができない場合は、組のメンバーに申し出、メンバーが確認し、間違いないことを見届けた上で連名で書付(欠勤届)を提出すること
一、非常時には固場所で早拍子や太鼓を打ち鳴らし、最寄りの村々に知らせること、その際には早  急に持場へ駆付け対応すること
一、非常の際には、持場を捨てて、自分の家を見廻るようなことはしないこと
  ただし、火事の時には、番を交替し、引取ることを認める。盗難についても同じである
一、出番(勤務)中の酒肴は、堅く禁止する
  以上について、堅く守ること

長州征伐は幕府の苦戦が続き、8月11日になると将軍家茂死去を理由に征長停止の沙汰書が出されます。そして10月には、四国勢も引き揚げを開始します。これにともなって御固所も役目を終えたようです。6月に設置されてから約4ヶ月の設置だったことになります。
御固所が解散された後の治安維持は、村々に任されます。つまりは、村役人に丸投げされたことになります。以後の対応も問題ですが、それ以上の問題は、今までの御固所の運営経費の精算も済んでいなかったことです。この方が庄屋たち村役人にとっては心配だったようです。
 そんな中、11月21日になって、次のような通達が藩から廻ってきます。
一、太鼓鐘拍子木等鳴候はゞ、聞付け次第村方庄屋役人は得物持参、百姓は竹槍持参駆付け、妨方心配致すべき事。 
一、村庄屋役人罷出候節、村高張、昼は職持たせ、役人は銘々提灯持参致すべき事
一、村々において廿人歎廿五人歎壼組として其頭に心附候者二人位相立、万一之節は其頭之者方へ相揃付添組頭所え罷出、案内致し、指図を請罷出申候事」
意訳変換しておくと
一、太鼓・鐘・拍子木などが鳴るのを聞いたら直ちに、村方庄屋役人は武具を付けて、百姓は竹槍持参で駆付けるなど、騒動の早期鎮圧に心がけること
一、村庄屋役人が出動するときには、村高張、昼は職持たせ、役人はめいめいに提灯を持たせること
一、村々において20~25人を1組として、そのリーダーにしっかりとした者2人を立て、万一の時には、そのリーダーの者へ集合し、組頭の所へ出向き、指図を受けること
伝達された内容は、御固場条目を踏襲しているようです。
ここから分かるように、丸亀藩の御固場は、長州征討に伴う不穏な事態に対処するために設けられた軍用人足だったことです。それも長州征討が行われた慶応2年6月から10月にかけての、わずか4月間の設置だったようです。
   これは、隣の多度津とは大違いです。多度津藩の軍備近代化についての意義や評価をもう一度見ておきましょう。
白方村史は次のように評価します。
赤報隊は、地主や富農の子弟からえらばれ、集団行動を中心とする西洋式戦術によって訓練され、戦闘力も大きく、海岸防備や一揆の鎮圧、さらに維新期の朝廷軍に協力してあなどり難いものがあった」

三好昭一郎の「幕末の多度藩」には、次のように記されています。
「兵制改革展開の上で最大の壁は、何といっても家臣団の絶対数不足という現実であったし、藩財政の窮乏に伴って地方に対する極端な負担増を背景として発生することが予想される農民闘争に対して、十分な対応策を早急に講じなくてはならないという、二つの課題の同時的解法の方策が求められていた」

「沿海漁業権や藩制に対する丸亀藩のきびしい干渉や制約のもとで、宗藩からの自立をめざすための宮国強兵策として推進されるとともに、何よりも外圧を利用することによって、慢性的藩財政の窮乏を克服するための財源を得、さらに藩の支配力低下と農村荒廃による石高・身分制原理の引締めをめざそうとする意図をもって、藩論を統一し兵制改革に突破口を見出だそうとしたことも明らかな史実であった」

以上から多度津藩の軍備の近代化の意図と意義を次のようにまとめておきます。
①幕末の多度津藩は近代的な小銃隊を編成することを最重要課題とした。
②そのためには、武士層が嫌がるであろう銃砲隊を新たな農兵隊によって組織することで兵制改革を実現しようとした
③その軍事力を背景に、藩内の諸問題の打開を図るとともに、幕末情勢に対応する藩体制の強化をねらった。
このような多度津藩の取組に比べると、丸亀藩の対応の遅れが対照的に見えてきます。
丸亀藩では、多度津藩に比べると新たな兵制改革に取り組む意欲には欠けていたようです。丸亀藩でも、洋式銃隊は上級藩士の子弟で集義隊が編成されます。ところがペリー来航の翌年の元治元年(1854)6月、集義隊員の6人が脱藩事件を起こします。彼らが提出した建言書には次のように記されています。
「御向国御固め武備御操練等も御座遊ばさるべき御儀と存じ奉り候処、今以て何の御沙汰もこれ無く、右様御因循に御過し成され候ては、第一朝廷を御欺き幕府を御蔑成され候御義に相当り、実に以て国家の御大事恐燿憂慮の至りに存じ奉り候。依て熟慮仕り候処、御家老方には御重職の儀御奮発御配慮御座候有るべくは勿論の御儀には候へ共、全く以て姦人等両三輩要路に罷り在り、一己の利欲に相迷い、武辺の儀ハ甚だ以て疎漏」(村松家文書)

意訳変換しておくと
「国を守るための武備や操練などが行われるものと思っていましたが、今以て何の御沙汰もありません。このようなことを見逃しているのは、朝廷を欺き幕府を侮ることになります。実に以て国家の大事で憂慮に絶えません。なにとぞ熟慮の上に、家老方には重職に付いての件は、奮発・配慮の結果とは思いますが、この3人は全く以て姦人で、要路に居ること自体が問題で、一己の利欲に相迷い、武辺の儀ハ甚だ以て疎漏な輩です」(村松家文書)

 これだけでは訓練の中で何が起こっていたのかは分かりません。しかし、管理運営をめぐって反発する若者が脱藩したことは分かります。彼らはまもなく帰還しています。これに対する処罰も与えられた形跡はありません。所属隊から脱走しても責任が問われない軍隊だったことになります。

当時の丸亀藩では、原田丹下らの洋式訓練と佐々九郎兵衛らの和式訓練との対立が激しかったようです。藩主自らが「西洋銃砲でいく!」と決めて、突き進んだ多度津藩とは出発点からしてちがうようです。そして、その対立は明治元年の高松征討の際にまで続いていたようで、高松に向けてどちらが先に立って出発するかろめぐって和式と洋式が争ったという話が伝わっています。ここからは丸亀藩では、藩を挙げての兵制改革はほど遠い状態であったことがうかがえます。

以上をまとめておきます。
①多度津藩は、小藩故の身軽さから藩主が先頭に立って、軍制の西洋化(近代化)を推進し、農民兵による赤報隊を組織することに成功した。
②赤報隊を組織化を通じて藩内世論の統一にも成功し、挙国一致体制を取り得た。
③その成功を背景に、幕末においては土佐藩と組むことで四国における特異性を発揮しようとした。④一方、丸亀藩はペリー来航後も藩内世論の統合ができず、幕末の動乱期においても、その混乱を主体的に乗り切って行こうとする動きは見られなかった。
④それは長州戦争時に設置された御固場に象徴的に現れっている。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 小山康弘  讃岐諸藩の農兵取立 香川県立文書館紀要   香川県立文書館紀要NO4 2000年 

  多度津港 天保2年 湛甫以前
天保2年の多度津 湛甫工事前で桜川河口に港がある

多度津湛甫は天保九年(1838)に完成します。
桜川沿いの須賀の金刀比羅神社の鳥居には、次のように刻まれています。
「天保十一年庚子季冬良日  当藩講連中」

築港完成と藩講成就記念として、この鳥居が建てられたことが分かります。湛甫の完成は、次のようなものを多度津にもたらします。
①金毘羅参拝客の中国・九州方面からの受入港としての機能
②北前船につながる瀬戸内海交易の拠点港としての機能
③湛甫(港)工事を通じて形成された官民一体性 
④その中で台頭してきた商業資本の活発な活動 
これらが小藩に人とモノと金があつまるシステムと、商業資本に活動の舞台をもたらします。それが後の「多度津七福人」と呼ばれる商業資本家グループの形成につながるようです。今回は、多度津港のその後を見ていきたいと思います。テキストは 多度津町史「港湾の変遷と土地造成」501P~ です。

 北前船の出入で賑わう港 天保の港で多度津藩は飛躍 
 多度津湛甫に入港する舟からは帆別銀が徴収されました。
その甫銭(入港料)は次の通りでした。
①一隻につき30文
②波止内入船については、帆一反について18文ずつ
③30石舟で三反、180石積で14反、四・五百石積以上の千石船は21反で計算
21反の帆を持つ千石舟で計算すると
21反×18文=376文 + 入港料一律30文 で、千石舟は400文近くの入港料を納めていたことになります。ちなみに天保十年の正月より六月まで半年間の入船数は1302艘と記されます。
 しかし、入港料よりも多度津に富をもたらしたのは、千石舟がもたらす積荷です。その積荷を扱う問屋は、近隣港や後背地との商売で多額の利益を上げるようになります。こうして、幕末の多度津は新興交易港として急速な発展を見せ、街並みも拡充していったようです。
多度津町教育委員会

江戸末期になると綿などの商品作物栽培のために、農家は千鰯を肥料として多く使用するようになります。北前船の入港によって羽鰊・鱗〆粕など魚肥の需要が増え、これを扱う干鰯問屋が軒を並べて繁盛するのは、瀬戸の港町のどこにも見られる風景になります。
丸亀港をも凌ぐ讃岐一の良港の完成によって、多度津港は中国・九州・上方はもとより、遠く江戸方面からの金毘羅宮・善通寺への参詣船や、あるいは諸国の物産を運ぶ船でにぎわい、瀬戸内海屈指の良港として繁栄していきます。
暁鐘成編(弘化四年刊)「金毘羅参詣名所図会」(写真)には次のように記されています。
金毘羅船々♫

此の津は、円亀に続きての繁昌の地なり。原来波塘の構へよく、入船の便利よきが故に湊に泊る船移しく、浜辺には船宿、 旅籠屋建てつづき、或は岸に上酒、煮売の出店、饂飩、蕎麦の担売、甘酒、餅菓子など商ふ者往来たゆる事なく、其のほか商人、船大工等ありて、平生に賑はし。」
亦、西国筋の往返の諸船の内金毘羅参詣なさんず徒はここに着船して善通寺を拝し象頭山に登る。其の都合よきを以て此に船を待たせ参詣する者多し。
意訳変換しておくと
この港は、丸亀に続いて繁盛している。波留設備が得できていて、入船出船の便利がいいので、数多くの舟が湊に入ってくる。岸には船宿、 旅籠屋が建ち並び、上酒や煮売など出店、饂飩(うどん)や蕎麦の屋台、甘酒・餅菓子などを商う者が行き交う姿が絶えることが内。その他にも商人や船大工等もいて、よく賑わっている。
 また、西国筋の往来船の中で、金毘羅参詣する者はここに着船して善通寺を参拝してから象頭山金毘羅さんに登る。それに都合がいいので、この港に船を待たせ参詣する者が多い。

と、多度津港の繁栄ぶりを記しています。

もう少し幕末の多度津を見ておきましょう。
安政六年(1859)九月、越後長岡の家老河井継之助が、尊敬していた山田方谷を備中国松山にたずねた時の旅日記「塵壺」には、多度津の姿が次のように記されています。

多度津は城下にて、且つ船着故、賑やかなり。昼時分故、船宿にて飯を食い、指図にて直ちに舟に入りし処、夜になりて舟を出す。それまでは諸方の乗合、しきりにば久(博打)をなし、うるさき事なり、さきに云ひし如く、玉島、丸亀、多度津、何れも船着きの備え様、奇麗なり。

意訳変換しておくと
多度津は城下街で、かつ船着港であるため賑やかである。昼時分なので船宿で飯を食べて、指示通りにすぐに舟に入ったが、舟が出たのは夜になってからだった。それまでは、舟の上では乗合客が、博打をうってにぎやかなことこのうえない。先ほども云ったが、玉島、丸亀、多度津は、どこも港町で街も奇麗である。

更に、慶応元年(1865)の秋から冬にかけ、京都の蘭医小石中蔵が京都~平戸間を往復した帰途に、多度津港に上陸して金昆羅参詣をしています。その時の多度津港の様子を、彼は旅日記「東帰日記」には次のように記されています。
多度津は、京極淡路様御城下なり、御城は平城にて海に臨む、松樹深くして兇え難し、御城の東(西の間違いか)に湊あり、波戸にて引廻し、入口三か処あり、わたり二丁廻りあるべし、みな石垣切石にて、誠に見事也、
数十の船此内に泊す、大凡大坂西国の便船、四国路にかゝる、此湊に入る也、其船客、金毘羅参詣の者、みな此処にかゝる、此舟も大坂往来の片路には、かならず参詣するよし、外舟にも此例多し。
意訳変換しておくと
多度津は、京極淡路守様の御城下である。城は平城にで海を臨み、松が繁り伺いがたい。御城の西に湊があり、歯止めがあり、入口が三か処あり、すべて石垣は切石で、誠に見事な造りである。
数十艘の舟が湾内には停泊しており、大体が大坂西国の便船で四国路に関係する舟はこの湊に入る。金毘羅参詣の者はみなここで下りる。この舟も大坂往来の際には、かならず参詣するという。その他の舟も、このような例が多い。
これらの記録からは、多度津の金毘羅参詣船の寄港地としての繁盛ぶりがうかがえます。                
天保九(1838)年に完成した多度津湛甫は、明治半ばになると、港内に桜川からの堆積物が流れ込み、港内が埋まってきます。一方で
 明治中期になると、瀬戸内海の各港を結ぶ定期航路が整備され、客船が盛んに多度津港へも出入りするようになり、客船の大型化が進みます。従来の和船と違って吃水の深い汽船は、出入りに不便が生じるようになります。
 明治になっても金刀比羅宮や善通寺参詣熱は衰えませんでした。参拝客でにぎわっていた多度津港にとって、新しい蒸気船時代にあった港の整備が課題になってきます。

多度津湛甫の見取り図

明治5年には、当時の多度津戸長(町長)が港ざらえについて、次のような通達を出しています。
湛浦浚方の事
当湛浦は一村の盛衰に係候場所に候所 各々存知の通り、次第に浅く相成り既に干汐の節は入船入り難く、小繁昌の基いに付、此度浚方(さらえ)相企て本願候処御聞済下され、毎年帆別銭悉差し下し相成、其上金百両下賜候右様県庁よりも深く御世話下され候段感激奉り候。
各々家職の義は港の深浅に依り、損益少なからず候事に付一層勉励致し、相磨き力を合わせて前文諸説を合わせて資金として、永世不場の仕方相立て度候条、浚方簡場の見込有之候はば無腹臓中出すべく候
此段相達候也
壬申(明治5年)九月                                    戸 長
この願い出は、明治9年10月にはいったん許可になり、 直ちに工事に着手しました。ところが5年後の明治14年5月になって「ご詮議の次第あり」と港ざらえ中止の通達が下されます。
そうした矢先に、明治17年8月には台風水害のため港は一層浅くなってしまいます。
 そこで、多度津村会は次のような願出を愛媛県知事に提出しています。
「先年許可になった一三か年間の帆別銭の取り立てのうち、明治9年11月から14年2月までの56か月分を除いた8年4か月分の帆別銭を徴収させて欲しい。浚渫した土砂は、桜川一帯を埋め立てて宅地とし、これを売った益金を今後の港改修費用にあてたい」
 


この計画案は、明治21年2月18日付で次のように許可されます。
①桜川埋め立ては本年12月までに竣工すること
②港内浚渫は許可日より50日以内に着手、10か月間に竣工。
③竣工後、8年5か月間、規定の入港銭徴収を認める。しかし軍艦、水上警察署官用船からは徴収できない
④先に引き揚げた遺払残金1320円60銭3厘は郡役所を経て下げ渡す。
これを受けて 
旧藩主京極家より 2000円
郡より    820円
船改所の公売代金 1366円
12人の寄付金   804円
合計4900円で浚渫工事に着工します。
この時に浚渫から出た土砂で、桜川の旧港や左岸一帯は埋め立てられたようです。
こうして桜川沿いの仲ノ町5番10号から東浜4・5番のあたりが造成され、港に通じる道路の両側には、旅館・商店等が軒を連ねる繁華街が生まれます。
P1240931
浚渫の土砂で埋め立てられた上に、建設された鉄道施設
明治22年には、桜川河口右岸にあった旧藩士調練場とその周辺(現市民会館サクラート)は、讃岐鉄道に買収されます。ここを起点として多度津駅並びに器械場(修理工場)が建設されます。こうして旧京極藩陣屋は、鉄道ステーションへと一変することになります。

P1240953 初代多度津駅
初代多度津駅
 そして5月23日には多度津~琴平、多度津~丸亀間に鉄道が開通し、多度津駅がその起点となるのです。この時に、金毘羅橋の北手の讃岐信用金庫多度津支店裏通り付近も埋め立てられました。

多度津駅初代
初代多度津駅
一方、明治19年4月、大久保誰之丞の提唱で四国新道工事も伸びて来ます。
そのため琴平~多度津間の道路も拡張されます。この一環として鍛冶屋町(現仲/町付近)や須賀町(現大通り)の民家が立ち退きになります。須賀町にあった金刀比羅神社も、この道路にかかり、現在地へ移されます。この道路の開通により現在の大通りが形成され、人家は急速に立ち並んで行くことになります。
多度津 明治24年桜川埋め立て概況
明治24年 多度津桜川の埋め立て部分

日清戦争時の多度津港改築の出願 東浜の埋め立て 
 日清戦争後の明治29年(1896)10月、港内の浚渫と、東浜内港の埋め立てが終了します。この埋立地は現在の東浜六にあたり、ここに水上警察署用地・荷揚場・階段(大がんぎ)・道路・宅地合わせて、2906㎡を造り、内港に入れない汽船からの旅客の上陸や、貨物の荷揚げの便をはかられました。この荷揚場は、日露戦争に出航する兵士の乗船場として大いに役立ったと云います。

多度津港地図

西浜海岸の埋め立て
 日露戦争が始まると出征する第十一師団の各部隊は、多度津沖に停泊した大型汽船で大陸に出征していきました。旅順攻撃で戦死・戦傷して帰還するため、多度津港は送迎の官民で溢れるようになります。
 そのモニュメントして桃陵公園に立っているのが「一太郎やーい」の銅像です。戦地に赴く息子を見送る母親像については、以前に紹介しましたが、この時に一太郎が乗った船はハシケでした。ここからは、大型汽船は沖合に停泊して、乗降者はハシケに乗って、港と船を移動しなければならなかったことが分かります。善通寺11師団の多度津港の軍用港としての整備拡充が、政府の「富国強兵」からも求められるようになります。
日露戦争時の多度津港

日露戦争時の多度津港

 このような機運を受けて、多度津町長塩田政之は 明治39年4月、内務大臣原敬に次のような改築工事申請書を提出します。

多度津は四国の各地を始めとし、阪神地方及び西海中国の諸港と交通の衝路に当り船舶輻輳して貨客集散の地たり。殊に金刀比羅宮参詣旅客の、当港より登降するもの夥しく、四時絶ゆることなし。而して当港に接近せる地方の物産、海外に輸出するものを挙ぐれば、麦科真田・竹細・団扇・花筵・紡縞・生糸、食塩・米穀・木綿及び、水産物製造品等にして、其の需要国は支那・朝鮮及び英米なり。

 輸入品は米穀・肥料・砂糖・石油・織物・綿・洋鉄の類にして、明治36年の調査に依れば、其の輸出入品価格は実に130万円に達せり。而して人口一万未満の当町商人の取扱する、当港経由輸出入商品の価格は、明治三十六年に於いて218万余円なり。而して一等測候所あり、一等郵便電信局あり、水難救済所あり、共の他船舶司検所あり、港湾の要具悉く備れり。且つ本港は第十一師団司令部を経る、僅一里十町(約5㎞)に過ぎずして、商業最も繁盛の地なり。讃岐鉄道も本港を起点として高松に達し南琴平に至る。しかのみならず四国新道は既に開通して、高知徳島愛暖に達する便あり、且つ現今に於いて当港と尾道間に於いて、山陽鉄道連絡汽船日々航海をなし、運輸上に革新を来すと雖も、現在の多度津港は未だ交通の開けぎる、天保年間当時の築港なれば、規模甚だ小にして、今日の趨勢に適応すること能はず。共の不便実に鮮少ならぎるなり。而して東方高松に於いては、長きに築港の完成なるあり。故に今之れを改築して、高松と東西相呼応し、以て貨客集故の要地となすは、刻下の急務と存ぜられ候。而して時恰も日露戦後に際し、臨時乙部碇泊司今部の設置等ありしも、軍隊輸送上大いに不便を感ずる所あり。故に今回更に測量の結果、ニケ年の継統工事となし、本港を改築する事を、町会に於いて本議を一決し、永遠の利益を企図し、一面軍事上運輸交通を便にし、殖産興業の発達を謀り、又日露戦役の紀念たらしめんとする。
 然るに其の費額総計19万7917円3銭7厘の巨額を要するを以て、共の内金18万9340円67銭6厘は、之を公債に仰がんとす。共の所以は本町民の負担を見るに、国税割等90銭戸別割は一戸につき8円50銭強の負担にして、何れも重荷なるのみないず、直接国税府県町村税等の負担を合すれば、 一戸につき29円60銭3厘なり。斯の如く各種の負担は、共の極に辻し、重課と云はざるを得ず。故に本事業に対する費額全部を、一時に賦課徴収するは、不可能の事に属するを以て、之れを公債に依らんとするや、実に止むを得ざるなり。
この申請書は認められます。その費用は次の通りでした
総工事費は 385568円
県費補助    25910円
郡費補助     1200円
町税及び公債 221543円
公債は港と桟橋の使用料で支払う計画だったようです。当時の道路や港が町村の「自己負担」なしではできなかったことがここからは分かります。町長は、県の支援額をできるだけ多く得てくることと、地元負担をどのようにして集めるかが大きな手腕とされた時代です。予算オーバーすれば、町長が自腹を切ったという話がいろいろな町に残っています。町長は県議を兼任し、県議会で地元の道路や港などの建設資金の獲得に奔走したのは、以前にお話ししました。
1911年多度津港
明治44(1911)年の多度津港 
この起債申請に対し、明治39年7月に国の許可が下ります。
こうして12月1日に、東突堤中心位置に捨石が投入されて工事が始まります。この拡張工事は、天保9(1837)の湛甫の一文字堤防の北側に外港を造って、その中に桟橋を設けて大型汽船の横付けができるようにするものでした。そのために、次のような工事が同時に進められます。
①西側は、嶽ケ下の北側に長さ510mの西突堤
②東側は、約26000㎡の埋め立ての北に、防浪壁のついた330mの東突堤
③同時に浚渫した土砂で埋め立て地を造成

1911年多度津港 新港工事
多度津港の外港工事

こうして、幕末から明治末に掛けての多度津は、すぐれた港湾設備を持つことによって、高松や丸亀を凌駕するほどの港町となっていたのです。そこに蓄積された資本や人脈が鉄道や電力などの近代工業を、この町に根付かせていくことになったようです。まとまりがなくなりましたが最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 多度津町史「港湾の変遷と土地造成」501P~ 


 多度津は早くから小銃を核とする歩兵編成への転換を行ってきましたが、長州征伐における奇兵隊の活躍に学んで農民からの志願制の農兵組織の編成に動きます。これが赤報隊と呼ばれた農民兵たちです。
 赤報隊の募兵状況を見てみましょう。
 大見村の場合村内で応募したのは次の11人です
「小畑惣兵衛・三好初治・横田大蔵・藤田粂蔵・横田茂市・三好勝之丈・藤田文治・佐藤信治・佐藤半之助・則包万助・森綱造」
神田村(現三豊市山本町)の場合には、
地主や富農の子弟からえらばれ、集団行動を中心とする西洋式戦術によって訓練され、戦闘力も大きく、海岸防備や一揆の鎮圧、さらに維新期の朝廷軍に協力してあなどり難いものがあった。神田から岩倉六二(伍長)・長谷川一二(同)・細川保五郎・岩倉角治・山下品治・森利吉・穐山重吉・石川春治・大西雪治の九名が志願」
と山本町史に記されています。隊員は詰襟服と帽子、そして小銃が支給されました。全体では50人規模の編成だったようです。
 次の辞令で赤報隊の性格や隊員の待遇の一端を知ることができます。
  其方儀 此度赤報隊二差加、依之在隊中扶持二人笛字帯刀差許シ 藩籍二差加者也 
 隊員は在隊中に限って二人扶持が支給され、苗字帯刀の特権が許され「新足軽」という身分に格村けされ「藩版」に加えられたようです。隊員が支給された扶持米は、一日玄米一升になりますから、二人扶持は玄米二升で年間に七石三斗の玄米支給となり、藩の全隊員への支給総額は365石にのぼったという計算になります。これも小藩にとってはかなりな財政負担となったはずです。
 赤報隊の隊員を送りだした村サイドから見れば、
①「農家の過剰人口対策」として口減し
②玄米収入の道であり、
③士籍を得るための絶好の機会
という「一挙三得のいい就職先」という認識があったようです。
 他方、藩サイドからすれば、
 新歩兵銃隊の編成を農民で行うことによって小藩の藩士不足=兵力不足を打開することができます。また、先ほど述べたように武士達は単独で戦うことを訓練されており、集団密集訓練や「鉄砲足軽」を嫌がる風潮があり、はっきり言うと不向きでした。農民出身者を鍛えた方がものになるということを長州の高杉晋作は奇兵隊で実証したのです。これに学ばぬ手はありません。従来の軍事力を補完し、農民出身者を小銃隊として編成するメリットはいくつも挙げられます。
 あらたに赤報隊を組織したので、小銃が足りなくなります。多度津藩が慶応期において、大量の小銃買付けに走った理由のひとつはここにありました。赤報隊のための小銃購入だったのです。ちなみに赤報隊のためのミニエー銃60丁は千両の支出で藩予算の支出総額の3割半にあたります。
 赤報隊に初出動が命ぜられたのは、慶応四年(1868)の高松征伐のときです。
高松藩は、同年正月五日に鳥羽伏見で官軍と戦って朝敵とされ、藩主松平頼聡は官位を剥奪され、京都と大坂の藩邸も没収されます。同十七日に土佐藩士片岡健吉率いる土佐郡が丸亀城下に到着し、高松征伐の勅命を伝達します。そこで一九日には丸亀藩200人、多度津藩50人が先鋒として高松城下に向かいます。このときの多度津藩の兵員が多度津藩大目付服部喜之助に率いられた赤報隊でした。
 征討軍を迎えた高松藩では、すでに朝廷に恭順の意を表していて、19日には高松城を開け渡し、浄願寺に謹慎していました。丸亀・多度津両藩の征討軍は、石清尾山に布陣しますが、戦う意志がないことを確認し、土佐藩とともに高松城を受取り、21日には多度津に引揚げています。赤報隊の「戦歴」はこれだけです。彼らのその後は、どのようになったのでしょうか。それを語る史料にまだ出会えていません。
 赤報隊が50人編成で、その規模は小さい部隊です。
しかし、奇兵隊と比較してみると長州藩は37万石で1500人程度の組織だったとされます。これは一万石で40人弱の規模になり、多度津藩と変わらない隊員数になります。その扶持米と小銃調達に伴う支出額も、決して軽いものではありません。多度津藩の兵制改革の積極性を示すものとみることができます。
 しかし、長引く「戦時予算」で軍事支出は増大し巨額の借金が増え続けます。
 慶応四年(1868)5月付の「御軍用御入目請払帳」から多度津藩の軍費会計の収支決算書を作成すると次のようになります。
この決算額約一万三千両というのは、当時の江戸の米相場に換算すると米一石は金で約四両となるようです。多度津藩が慶応四年にミニエー銃をはじめ火器購入のために支出した代金は、石高に換算すると約3250石となります。これは藩石高の33%になります。
 慶応四年人金額一覧表を見ると、藩の元方、吟味方、元方よりの入金の下に、湯浅為八、木谷綱輔、木元茂三郎、岡栄治、佐藤栄助、大塚茂佐衛門、大塚新太郎、和泉屋源助など人名が並びます。これは多度津の商人からの献金によって調達された資金のようです。ここからは藩財政が地元の有力な商業資本からの支援なしでは立ちゆかない状況がうかがえます。ここにも天保期の湛甫(新港)修築という藩運を傾けた大事業が、地元商人たちの利益につながり、それを契機とし多度津藩の兵制改革にも支援協力をおこなっている姿が垣間見えます。

次の表は軍事装備費の支出状況を費目別に整理したものです。
総額12689両余の内訳は、
銃砲購入代金として、大砲・小銃に  1289両
大岡藤左衛門へ             65両
江戸・横浜への小銃支出       5193両
その他の小銃代            387両
以上の合計額が           6934両
それは年間支出総額の53%にあたります。これ以外にも弾丸・雷管・火薬類に1722両が支払われています。鳥羽伏見の戦いによる「戦時予算」であったとは言え、軍備充実政策が藩財政を破綻に追い込んでいることが分かります。多度津藩という一万石の外様小藩が、その財政規模や藩政機構の限界を無視して行った兵制改革の顛末がここに現れているようです。

 時代を先取りし、その実績を持って新政権のなかで一定の地位を占めようとした多度津の狙いは小藩にもかかわらず幕末に独自の軌跡を残しました。しかし、藩の経済力をはるかに越えた軍事支出は、大きな負債となり破滅的状況を迎えます。多度津藩は、明治4年の廃藩置県を待たずに、新政府に対して廃藩の認可を求める上奏をしなければならない状況においこまれます。
 しかし、藩主は去っても地元資産家は残ります。
そして、幕藩体制の桎梏から解き放たれ商業資本家から産業資本家へ変身を遂げ、西讃地方の近代化のトレッガーとなっていきます。それが「多度津七福人」と呼ばれる資産家達です。その若きリーダとして登場するのが景山甚右衛門なのでしょう。

参考文献 三好昭一郎 慶応期外様小藩の兵制改革   讃岐多度津藩の小銃政策をめぐって 

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多度津藩歴代藩主系図
多度津京極藩系図

多度津藩は元禄七年(1694)に丸亀藩から独立します。

しかし、自前の陣屋を持つことはなく、丸亀城の西屋敷に「間借り」して政務が行われるという状態が百年近く続きます。
丸亀城 大手町居住者19jpg
現在の丸亀裁判所付近に①林求馬の屋敷 ②御用所(政庁)があったことを示す絵図。

間借り状態では、藩運営も丸亀藩のしきたり通り行うのが常道とされていました。
 ところが寛政八年(1796)に21歳の四代高賢が家督を継ぐと藩の空気が変わっていきます。まず林求馬時重が家老に就任します。彼は、30歳前の働き盛りで藩政の改善、自立化を進めようとします。 その第一が藩主の居館と政庁を多度津に移すことでした。
 林は、お城ではなく伊予西条藩のような陣屋を多度津に新たに建設する案を、丸亀藩の重役方藩や同僚の反対を押して決定します。こうして陣屋建設が始まりますが、工事途中の文化五年(1808)家老の林が突然に亡くなってしまいます。建設工事は、林という推進力を失って中断してしまいました。
多度津藩陣屋跡位置図
多度津藩陣屋位置図
しかし、藩主高賢は計画をあきらめてはいませんでした。
約20年後の文政九年(1826)に工事を再開させます。工事中の多度津の陣屋御殿に移り住み、工事を見守り、推進役となります。同時に藩士にも厳しい倹約を求めたようです。陣屋建築のためには、すでに大阪の鴻池別家や京都の萬猷院から三千両の借り入れがありましたが、それでも資金は足りません。そこで藩は富商や村々の庄屋をはじめ広く領民に「陣屋御引越し」の冥加金を課します。形の上では出資者の自発性が尊重され、各人、各村は自らの資力、村の規模や家格、藩との関係や役柄を考慮しながら、最後は談合により、それぞれ出来るだけ横並びに負担額を決めたようです。
多度津陣屋配置図
多度津町内遺跡発掘調査報告書2 多度津藩陣屋施設

 実質的には、これは「献金の強制」です。しかし「多度津へ御引越し献上金」という大義名分に、領民の多くが強制と受け取らず、むしろ積極的に献金に応じたようです。人々は藩の自立を望み、その象徴として多度津の陣屋建設に期待をかけたのかもしれません。領民にとって、これまでは多度津藩に城がないことを
「多度津あん(さん)に後ろ(後頭部のふくれ)なし」
と頭の形にかけて、郡楡されてきた悔しさがその背景にあったとも伝えられます
多度津陣屋10
多度津藩陣屋

 工事が再開された文政九年の三回の献上金目録が藩日記に残されています

第一回 多度津の商家66人で計51貫500匁。
第二回 藩内町方・村方の富裕層23人で計銀100貫
第三回 一部富裕層8人の再度の献金(74貫)と藩内村方の庄屋19人(18貫)ほか これら全三回の総計は銀448貫(=7442両)と記されています。
金一両は現代感覚(賃金の比較)で今の三〇万円になると研究者は考えているようです。この年に多度津藩領民が陣屋建設に献上した総額7442両は、22億3260万円ほどになります。
多度津湛甫(たんぼ)の建設の背景と目論見は?  
18世紀後半の多度津港は、急速に発達した日本海沿岸と大坂を結ぶ瀬戸内海航路の拠点として重要性を増しつつありました。それに加えて、金比羅船が就航し庶民の間で琴平詣での人気が高まるにつれ、大阪はじめ瀬戸内海沿岸や九州各地から参詣客を運ぶ船が丸亀・多度津を目指すようになっていました。受け入れ側の港の拡充・新設が求められていたのです。
丸亀港3 福島湛甫・新堀湛甫
丸亀藩の福島湛甫と新堀

 これに最初に動いたのは、丸亀藩です。丸亀藩は、江戸で金比羅講を使って「民間資金の導入=第三者セクター方式」で、天保二年(1831)新しい船溜まり(新堀湛甫)を短期間で作り上げます。
これを追いかけるように4年後に、多度津藩も新港建設に着手します。
多度津港 陣屋建設以前?
        旧多度津港 桜川河口が港だった
 
それまでの多度津の港は、町の中心を流れる桜川の河口を利用した船溜まりにすぎませんでした。新しい港は、その西側にの崖下の海岸を長い突堤や防波堤で囲んで、深い水深と広い港内海面をもつ本格的な港の計画書が作成されます。これは丸亀藩新堀湛甫に比較すると本格的で工費も大幅にかさむことが予想されましたが、この計画案を発案したのは藩ではなく、回船問屋や肥料や油・煙草などを扱う万問屋など町の有力商人たちでした。
 前年に父に代わったばかりの20歳の新藩主・高琢は、この案に乗り気ですぐに同意したようです。この事業のために隠居していた河口久右衛門が家老に呼び戻され、采配を振うことになります。そして財務に明るい家老に次ぐご用役に小倉治郎左衛門が就き補佐する体制ができます。
「藩士宮川道祐(太右衛門)覚書」(白川武蔵)には、その経緯が次のように記されています。
そもそも、多度津の湛甫築造の発端は、当浜問家総代の高見屋平治郎・福山屋平右衛円右の両人から申請されたもので、家老河口久右衛門殿が取り次いで、藩主の許可を受けて、幕府のお留守居平井氏より公辺(幕府)御用番中へ願い出たところ、ほどよく許可が下りた。建設許可の御奉書は江戸表より急ぎ飛脚で届いた。ところがそれからが大変だった。このことを御本家様(丸亀藩)へ知らせたところ、大変機嫌がよろしくない。あれこれと難癖を言い立てられて容易には認めてはくれない。 
 家老河口氏には、大いに心配してし、何度も御本家丸亀藩の用番中まで出向いて、港築造の必要性を説明した。その結果、やっと丸亀藩の承諾が下りて、工事にとりかかることになり、各方面との打合せが始まった。運上諸役には御用係が任命され、問屋たちや総代の面々にも通達が出されたった。石工は備前の国より百太郎という者が、陣屋建設の頃から堀江村に住んでいたので、棟梁を申し付けた。その他の石工は備前より多く雇入れ、石なども取り寄せて取り掛ったのは天保五年であった。

 これより先に本家の丸亀藩は、福島湛甫を文化三年(1806)に築いています。その後の天保四年完成した新堀湛甫は東西80間、南北40間、人口15間、満潮時の深さは1文6尺です。これに対し多度津の新湛甫は、東側の突堤119間、西側の突堤74間、中央に120間の防波堤(一文字突堤)を設け、港内方106間です。これは、本家の港をしのぐ大工事で、総費用としても銀570貫(約1万両)になります。当時の多度藩の1年分の財政収入にあたる額になります。陣屋建設を行ったばかりの小藩にとっては無謀とも云える大工事です。このため家老河口久右衛門はじめ藩役人、領内庄屋の外問屋商人など総動員体制を作り上げていきます。

多度津陣屋5

 多度津新港の実現には、さまざまな困難があったようです。特に資金集めには苦労したようです。史料には次のように記されています。

それより数年長々かかり、お上に於いても余程の御物入りに相なり、大坂屋(丸亀の豪商)へも御頼み入りに相掛り候えども不承知の由にて、河口姓にも大いに心配いたされ、御同人備前下津丼へ御自分直々罷り出で、荻野屋(久兵衛)方へ御相談に及び候処、承知致され同所にて金百貫目御借入に相成る。
 然る処引き足り申さず、依って役人中御評議の上、何い取り候て、御家中一統頂戴物(俸禄)の中七歩の御引増(天引)仰せ出され、是又三か年おつづけに相成る。然る処、何分長々の事に付き出来兼ね候に付、河口姓にはかれこれ心痛に及ばれ、吉川又右衛門御代官役中に御相談になり、夫れに付き吉川氏より庄村高畠覚兵衛を呼び取り、お話合いに相なり、尚又御領分大庄屋御呼び寄せ、お話し合いの上、御頼みに相成り、これにより金百貫目御備え出来、右金にて漸く出来申し候。
久右衛門においては、湛甫一条の骨折り心配は、容らならざる儀にこれ有り候。仕上がりまで御年数十一年に及び候事。惣〆高、金五七十貫余りに相成り候。くわしくは御用処元方役所帳面に之れ有りここに略す。是れ拙者所々にて聞き取りしままをあらまし申し置き候也

 幕府認可はすぐ得られたようですが、障害は丸亀藩の理解と協力が得られなかったことです。 丸亀藩の重役たちは親藩の了承を得ずに、支藩が始めたこの計画に難色を示します。家老の河口が説得して、やっと渋々の許諾を得たと伝わります。

それに忖度してか、丸亀の豪商大坂屋は多度津藩への資金助力を断っています。そのため家老の河口は、瀬戸内海の対岸である下津井に出かけ、荻野屋久兵衛に相談して金千両(銀62)を借ります。この融資を元金に講銀を設け、多度郡15か村の庄屋たちと協議の上に、借金の返済および港建設の資金調達をめざします。
 一万石という小さな大名のうえに、陣屋新設という大事業を成し遂げたばかりの多度津藩にとって、矢継ぎ早に取り組む大規模な港建設はいささか無謀な思い上がった冒険な工事と思う人たちも多かったようです。
多度津湛甫 33
多度津湛甫

 そのうえ天保年間には全国的な気候不順が天保飢饉を引き起こし、世の中は大塩平八郎の乱のように政情不安が広がった時期です。讃岐でも米価の高騰や買占めに抗議して各地で一揆や打ち壊しが起こっています。多度津でも一揆や、干水害のため被害が広がります  このような緊迫した情勢下で、百姓にまで負担を負わす新港建設資金集めの難しさを関係者はよく分かっていたようです。藩が強制的に取り立てるというよりも、地主や大商人層と協議を重ねながら協力体制を築いて、資金を出してもらうというソフトな対応に心がけてます。 
多度津湛甫 3

どのようにして多度津藩は資金を集めたのか?  
 幕末が近づくにつれて年貢に頼る藩財政は、行き詰まってきます。陣屋や新港建なども藩の独自事業としてはやって行けないことを、町の有力商人や村方の地主層は初めから良く知っていたようです。だから「陣屋御引越し」の時のように、民間金融組織としての講をつくって対応しようとしたのです。逆に見ると幕藩体制の行き詰まりが、はっきり見て取れます。

1965年頃の多度津

 天保六年(1835)に発足した「御講」は、村ごとに一口銀一八〇匁(=金三両)で加入者を募りました。大商人や地主などは一口以上、多数の庶民は一口を細かく分割し共同で引き受けるようにされています。この年十一月末に、各村が引き受けた口数と納入掛金額が届け出順に記されています。   
庄村   十九口半    銀三貫四二十匁   
三井村  十六口三厘   銀二貫百三十二匁
多度津  百二十一口   銀二十一貫八百七十匁
堀江村   五口九歩   銀一貫六十四匁四分   
北鴨村   九口九歩   銀一貫七百八十二匁   
南鴨村  十一口二分四厘 銀二貫二十四匁七分
葛原村  二十九口九歩厘 銀五貫三百九十四匁六歩   
道福寺村 十六口半     二貫九百七十匁   
碑殿村  二十二口     三貫七百二十匁   
山階村  三十九口八厘   七貫三十六匁   
青木村  十五口九歩三厘  二貫八百六十七匁四分   
東白方村 十八口三歩五厘  三貫三百三匁   
西白方村 十三口九歩九厘  二貫五十八匁   
奥白方村 九口三歩     一貫六百七十四匁   
新町村  半口         九十匁    
計    347口7歩9厘6毛 62貫603匁3分

この額は、最初に下津井の荻野屋から借りた元金総額と同額になります。こうして、講銀取立ては天保六年秋より始まり、同七年秋から十四年正月まで春秋二期ごとに、利銀を含めて春季分二〇七貫余、秋季分三五七貫、計五六〇貫(九二九六両)を上納しています。 湛甫建設出費は一万両を超えていたようです。この費用の大部分を負担したのは領民で、各村の負担口数はおおむね村の戸数に応じて配分されたことが分かります。
porttadotsu多度津

湛甫建設工事は天保五年に始まり、4年後に竣工します。

丸亀の新堀湛甫が一年余の工事で、工費も2千両余だったのに比べると、その額は5倍にもなり、いかに大工事だったかが分かります。海中に東突堤(242メートル)、西突堤(三面メートル)、中央に一文字突堤(218メートル)、港内面積(5,6ヘクタール)、水深(7メートル)の港は四国一の港で、この港が明治以後も機能して多度津の近代化のために大きな役割を果たすことになります。建設に先頭に立って尽力した家老河口は、10年余の心労のために工事完成後間もなく病のために64歳で亡くなっています。
大正頃の多度津港
湛甫の完成後に多度津港を利用する船は増え、港も栄えた。  
多度津港に立ち寄る船の主力は、松前(北海道)からの海産物とその見返りに内地産の酒や雑貨・衣料を運ぶ千石船や北前船でした。それに加えて、西国からの琴平詣での金比羅船も殺到するようになります。深い港は、大型船が入港することもできるために、幕末にはイギリスや佐賀藩、幕府の蒸気船が相次いで入港し、多度津港は瀬戸内海随一の良港としての名声を高めていきます。これに伴い町の商売も繁盛し、特に松前からもたらされる鰯や地元産の砂糖・綿・油等を商う問屋は数十軒を超え、港に近い街路は船宿や旅人相手の小店でにぎわいます。
巨費かけて完成させた湛甫建設は、藩の財政にも寄与することになります。
多度津藩は、港での魚介取引を専売制にして、取引量に応じて魚方口銀をとっていました。また入港する船から、船の大きさに応じて「帆別銀」などを徴収していましたが、これら港関係の収入は今後の増収を期待できる数少ない財源でした。ちなみに天保10年(1839)の多度津藩「亥の年御積帳(予算表)」(『香川県史9 近世史料I』)を見ると、
年貢収入6903石 - 家臣への俸禄3908石 =他の支出用 約3000石
これと諸銀納収入を合わせても、俸禄以外の年間諸支出に当てられる予算は641(10256両)しかありませんでした。
多度津港7
 一万石の支藩多度津が親藩丸亀から自立し、その意向に逆らって丸亀の新港をしのぐ大きな港を建設し、自立と繁栄の道を歩み始めます。これに対して丸亀藩の重役達は、「分を過ぎた振る舞い」と厳しい態度を見せるようになります。湛甫完成直後の天保九年(1838)八月、この事業の指導者である小倉治郎左衛門を無理矢理隠居に追い込みます。これは、彼が事前に丸亀にはからず幕府から工事認可を得たことへの親藩重臣の抗議に多度津藩主が屈したためだったと言われます。これをきっかけに本家と分家の間の連絡事項が細かく取り決められます、例えば、丸亀藩主の江戸への出府や帰藩のたびごと、多度津の主だった藩士がわざわざ丸亀まで送迎に出向かねばならなかったほどでした。
多度津港3
しかし、多度津藩は強(したた)かでした 。
 陣屋・多度津新港に続いて、多度津藩は自立のための次の手段として「国防強化のため兵制の近代化」に取り組み始めるのです。 それは、また次回に 

 参考文献 多度津町史     
      木谷勤 讃岐の一富農の300年 
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     琴平に置かれた四国会議とは?
DSC01163
明治の神仏分離令で「象頭山から金刀比羅山」に変更
四国にあった十三の藩は、明治維新後に諸藩の情報交換・連絡調整という名目で「四国会議」という定期的な会合を開くようになります。この会議をリードしたのは土佐藩でした。土佐藩の現状分析としては

「薩長の連合がこのまま続くはずがない。近いうちに必ず争いが起きる。それに備えて「四国諸藩をまとめた同盟」を形成しておく必要がある」
と考えていたようです。
金刀比羅宮3
 その戦略下に四国十三藩に呼び掛けて「四国会議」が開かれる事になりました。
 場所は「四国の道は金毘羅さんに通じる」という交通の利便性や、旧天領であったことの中立性、大阪・京都への利便性、そして、土佐軍が駐屯していたことなどから琴平に自然に決まったようです。そのため琴平には、各藩からは「代表団」がやって来て、各旅館に駐在する事になります。代表団が夜な夜な繰り広げたどんちゃん騒ぎの記録が、地元の旅館などには残っていて、これはこれで読んでいて面白いのです。「会議は踊る」という言葉がありますが、四国会議は「会議の前に飲み、会議の後に詠い・・」という感じです。それはまた別の機会にして・・・・
DSC01510
 ここではいろいろな情報交換が行われています。
例えば、神仏分離令に対しての各藩の対応なども報告されて情報が共有化されます。
その中で「廃仏棄釈運動」への対応タイプを整理すると
①廃仏運動が四国で最も過激に展開した高知藩
②最初は激しい布令が出されたのに、竜頭蛇尾に終わった多度津藩
③一貫して微温的な徳島藩
の三藩が特徴的な動きでした。
前回は、この内の①の高知藩の過激な動きを見ましたので、
今日は弱小1万石の多度津藩の動きを見ていくことにします。
 多度津藩は、丸亀京極家の分藩で一万石という小藩です。

多度津陣屋2
 それまで親藩の丸亀藩のお城の中に間借り住まいしていた殿様が、幕末になって多度津に陣屋を構え、その勢いで小藩にふさわしくないような大きな港を多度津に完成させてしまいます。
porttadotsu多度津
これが多度津湛甫と呼ばれる新港です。この新港は西回りの九州や北前航路からの金毘羅参拝客を惹き付けて、人とモノと金が流れ込むようになり、大盛況となります。このような経済活況を背景に多度津藩は、小藩にもかかわらず兵制改革を行い近代的軍隊を持つようになります。そして、幕末には土佐軍と行動を共にし戦果を挙げます。こうして明治の御一新に、小藩ですがその存在意味を果たしていこうとする意欲が家中には生まれてきます。

多度津陣屋5
多度津陣屋(模型)
神仏分離令が出されると、多度津藩は次のような改革案を発表します。
             達
従朝廷追々被仰出趣旨に付、此度当管内一宗一ヶ寺縮合申付候間 良策見込之趣も有之趣大参事中へ申波候間此段可相達事小
    十月二十八日          民政掛
  その内容は、藩内の寺院を整理・統合して「藩内一宗一寺」にするというものです。つまり、各宗派は一つにして、他は廃寺にするという超過激な内容です。本家藩の丸亀藩や高松藩は模様眺めなのに、なぜ多度津藩は素早く過激な廃仏政策案を実施しようとしたのでしょうか

DSC01386多度津街道1
 西からの金毘羅参りの受入港となった多度津から金毘羅へ伸びる街道図
多度津藩の家臣で四国会議にも出席していた人物は、次のように回顧しています。
「我藩は祖先が徳川幕府から減封されたので、幕府に対し始終快よからず思って陰に陽に反対する気風があった。……そのため幕末には土佐藩について倒幕に加わった。・・その後も土佐藩とよしみを持っていこうした。
土佐藩が廃仏を主張するので我が藩もこれに同調したのである。土佐藩に習って廃仏の模範たらんとする意気込みであった……」

 つまり、見習うべきは土佐藩であって、土佐藩が寺院整理政策を実施しているので、多度津藩も時流に乗りおくれまいと「一宗一ヶ寺に縮合」案を出したというのです。それもあったでしょうが、ここでも寺領没収=財政収入源の確保という経済的な側面もあったように私は思います。しかし、高知藩のようにはすんなりとは進みませんでした。

tadotujinya_01讃岐多度津陣屋
 藩の過激な布令に対しては、まず藩内の寺院からの存続要求運動が展開されます。
     奉歎願口上願                        
此度当管内一宗一派一ヶ寺御縮合之儀、被為仰付奉恐入候、
然るに至急之儀、甚当惑仕候。何共御報之奉申上様も無御座、右民政御役所に付非常格外之御仁慈を以、今暫御延被成下度候、伏而奉懇願。右之趣宜敷御取繕被仰上可被下候 
以上
                                     多度津 法中連中
 ここにはに「一宗一ヶ寺」への縮小統合案に各寺院が当惑していること、今は殿様がいないので、非常に格外(重要)なことなので今しばらく延期して欲しいこと請願しています。
 さらに、檀家である領民達も次のような嘆願書を提出します。
 此度 合社寺之趣、被仰出奉恐入候。然るに是迄長々崇敬仕候事、実に痛痛敷奉存候間何卒在来之通成置被下度、偏に一統奉願上候。 此段宣御取成程奉願上候。以上
  意訳すると
「合社寺(=一宗一派一ヶ寺への縮合)について、恐れながら申し上げます。長い間、崇敬(信仰)してきたことなので、心が痛む事です。何とぞ従来通りの信仰が許されますように、通達をお取り下げくださるようお願いいたします」

 と、領民達は改革案を取り下げることを求めています。寺院の嘆願書よりも一歩踏み込んだ内容です。百姓等は、自分たちの寺を守ろうと立ち上がっていることが伝わって来ます。この辺りが高知藩とは違うところです。高知の農民達は、真言宗が多数をしめる寺院を守ろうとはしませんでした。ところが多度津の農民は浄土真宗の多い自分たちの寺を守ろうとしています。この辺りに、真言宗と浄土真宗の日常における宗教活動の差があったのかもしれません。
52_1
多度津藩の当時の担当者であった後の元香川県代議士伊東一郎氏の回顧談をもう一度見てみましょう
 多度津藩は小藩ではあるが、当時は随分勢力を振ったものである。夫は先に土佐藩が西讃岐の本山と云ふ所へ出軍したとき、軍使を発して多度津藩に向背如何を問ふた、此時同藩が其先鋒たらんことを誓った、この故を以て.土佐藩が非常に多度津居を優遇した。これが同藩の幅を利かした所以である。
 以上の理由で、土佐の排佛案には、何れも承服した。殊に多度津は排佛の模範を示さんと云ふ意気込みであった。もっとも、阿波藩が溜排論と、又火葬癈止論を出した。ここでまた一言せねばならね。これは多度津藩は、陽明學を奉じたにも拘らず、排佛論を取ったと云ふ所以である、陽明學は陽儒陰佛とも云はるるもので、決して排佛論などの出る所以がない。これは多分、多度津藩が土佐藩の歓心を買んがため、一方から云へば、チト祭上られて居られたのではあるまいかと思はれる。
 こうして土佐藩は、極端なる排佛ではなかったが.枝末の多度津藩は、領内一宗一寺に合寺するといふので、隨分極端なものであった。あわせて合寺のみではない、合祀も同時にいい出したのである。ところが合祀については、左程の反抗もないが、合寺については、領民殆んど金部が蜂起せんとした、又寺院側では、模範排佛と云ふので、讃岐金挫の寺院が法輪院と云ふ天台宗の寺に、連口の協議會を開いて、反抗の態度に出んとした。(中略)

 しかし、廃仏論は藩全体の意見ではありませんでした。小数の「激論党」が、「土佐の威を借りて主張した少数の意見」だったのです。なので、領内が騒ぎ出すと、「多数党」からの反撃が起こり、結局は廃仏論を撤回することになります。
また「明治維新 神仏分離史料第四巻 611」Pには、当時の憲兵中尉河口秋次氏の次のような証言を載せています。
拙者は常時神官として有力なりし某氏の言を聞く、先高松藩に蘆澤伊織といふ人あり。領内の神官を召集して、皇學漢學武術の三科を研究せしむる弘道館なるものを起こせり。これを丸亀・多度津の二藩が倣って、各弘道館を起せり。讃岐の排佛論は、全くこの弘道館思想の発せしものなり、
また日く、多度津蒋の排佛論に對して有力なる反抗を試みしものは、西覚寺常栄、光賢寺幽玄の二師なりし.その一端を云へば、全部の寺院住職打揃ひ、青竹に焔硝を詰め、夫を背に負ひ、以て藩に強訴を為す。若し聴されずんば、自ら藩邸と共に焦土たらんと云ふの策なりし。而して其主唱者が上の二師なりし。
又曰くその時藩と寺院の間に介して、円満なる解決をなしめたるものは、同町の丸尾熊造居士なりし云々、
 ここには西覚寺常栄と光賢寺幽玄が中心になって「全住職が「青竹爆弾」を背負って強訴」するとテロ行為まで考えていた事が分かります。そして、反対の中心にあったのは「西覚寺(丸亀市綾歌町岡田)の常栄と光賢寺(琴平町苗田)の幽玄」と記されています。この二人は多度津藩内の僧侶ではありません。隣接する丸亀藩の僧侶が「一宗一ヶ寺」への縮小統合案に反対し支援しているのです。藩を超えた真宗興正寺派の支援を受けていたようです。
 
1000000108_L

 強行手段に訴えても廃仏政策の撤廃を要求するという動きは、下層民だけでなく、庄屋・富商層の支持も得ていました。このような団結した領民と僧侶の要求に対して、廃仏政策を強行するということは、農民一揆を誘発させる可能性もあります。それは小藩の多度津藩の幹部達にとっては、絶対に避けなければならないことです。こうして、寺院の統合縮小案は撤回されます。
多度津藩紋
そして、次のような告示を藩内に出します。
寺院縮合之儀申達候得共、未だ究り候儀には無之、良策見込も有之候はば、可申承内意之事に候間、此段心得違無之様可相達候事
   閏十月五日            民政掛
以上のように、寺院統合案については調査・研究不足な点もあるので撤回する。他の良策を検討するので、心得違いをして軽はずみな行動を起こさないようにという内容でした。
こうして多度津藩は、実にあっさり寺院縮小案を撤回したのです。
 研究者は、これについて次のように指摘します。
「多度津藩の廃仏論は、藩全体の意見ではなく、わずかの過激派の主張した小数意見で、上層部との調整を経て政策化されたものではなかった。そのため領内で騒動を起きそうになると、上層部は急進派を切り捨て、廃仏論を徹回することによって無事落着した」
 このように多度津藩の場合は、藩内の一部少数の過激派が、高知藩という雄藩の傘の下にで、新政府の信頼を得ようと、「藩内一宗一寺」案を出します。しかし、それは土佐藩の歓心を買いたいという弱小藩の苦しい立場を代弁する行為であったのかもしれません。
参考文献
三好昭一郎 四国諸藩における廃仏毀釈の展開 
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