瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:多度津藩の廃仏論

     
  幕末に、1万石の小藩が年収の何倍もの資金を小銃を買うために支出し、鳥羽伏見の戦いで薩摩軍と共に幕府軍と戦い勝利します。これが多度津藩です。丸亀藩や高松藩が太平の眠りの中で動こうとしなかったのに、小藩の多度津藩は、なぜ狂気のような軍隊の近代化に邁進したのでしょうか。
 多度津藩の軍事改革への積極的な取り組みは、四代藩主高賢に源がありそうです。
彼は若くして藩主となると、丸亀藩からの自立・独立を目指して陣屋建設にとりくみました。同時に、藩の将来に対する布石をいろいろと打っています。
 『古田流大奥秘之書』によると、宝暦八年(1758)に二百目御筒と同稲妻筒を財田上之村で鋳造し、試射しています。文化二年(1805)には、藩士を長崎に派遣して高島秋帆の門下で西洋流砲術を学ばせています。そして、その年の9月1日には、白方村と堀江村で藩主高賢が見守る中で同筒の早打乱打が行わたと記されています。ここには、小藩であるがゆえの軍事力の限界を、砲術の導入によって補強しようとする若き藩主のねらいが読み取れます。 多度津藩は、本家の丸亀京極家からの自立のために陣屋や多度津新港を建設し、経済的な成長をはかりながら「軍事技術の近代化」にも取り組んでいたようです。
多度津の兵制改革が本格化するのは、ペリー来航以後です。
その藩軍制の再編成と砲術訓練を見てみましょう 
 黒船来航より5年前の嘉永元年(1848)には、多度津は越後流兵式の一隊を編成します。これが時代遅れなのに気づくとオランダ式に、さらにイギリス式に編成替えをするなど時代の流れを捉えています。安政五年(1858)9月に、大坂の御用商人米屋佐助は多度津藩に新式のモルチール銃を献上します。この銃の性能の良さを知った多度津藩は、小銃調達に力を入れるようになり、歩兵主体の戦闘組織への編成に着手していきます。
 さらに文久二年(1862)1月25日から白方で大砲鋳造がはじまり、2月7日に試射されています。
指揮にあたった砲術方の富井泰蔵は、『西洋流砲術見聞録』に次のように記しています。
「二月七日、白方土壇に於て六斤此度鋳造御筒試し打ち、ショウエンギ三度目凡そ七丁、強薬三百五拾匁、七発打つ。コロスも入れる。鉄丸製実丸の六斤弾丸一つに付代料凡そ十匁づつ也、加濃砲」
同四年二月一九日見立山に於て新六斤加濃砲二挺(三原出来)試し打ち七丁場、林家連中これを打つ、十一放、矢倉三度強二寸歩これあり、打薬百六拾匁又百八拾匁、右あとにて十三寸弱臼砲(新規装造三原出来)試し打ち、四五度、満薬、百七拾匁、強百九拾匁」
など、 鋳造された大砲の試し打ちが白方で何度も行われ、これを藩主も見守っています。
(1863)7月8日にの記録には次のように記されています。
「御丁場に於て大砲方へ 此度より毎月塩硝二貫目宛御下げ下し置かれ、六月分より受取り、一、二、三番へ三ッ割り一組六六六匁六分六厘也、右を此度一、二番一所に致し都合一貫三三三匁三分二厘也、打薬十発分一貫三〇〇匁掛り筒払薬にいたす」
   ここからは大砲方の本格的な演習が始まり、六か月分の火薬が一度に現場に渡されています。 このような多度津藩の兵制改革(兵制の近代化)は、ひろく藩外から注目されていたようです。多度津藩の大砲方一番組を率いていた富井泰蔵の記録だけでも、他藩の砲術家が何人も来藩して砲術訓練に参加しています。そして、その訓練の様子を、藩主もやってきて見守っていたようです。当時の藩主は京極高典です。彼が先頭に立って、家老を筆頭に砲術研究をさせ、自ら大砲の試射に立ち会うなど、積極的な軍備強化策を進めていたことがうかがえます。
   多秋山秀夫氏は、「多度津の家中屋敷は語る」(文化財報17号)で、丸亀藩と多度津藩の軍事政策に比較し次のように述べています。
「双方の重臣たちの時代感覚がちがいます。
丸亀は保守派が枢要を占め勤王派を圧迫し、武備も旧来の山鹿流を主体とする編成です。多度津藩は高島秋帆の流れを汲む洋式で。最終時にはフランス流からイギリス式という吸収の早さです。鉄砲も本藩を出し抜いて、直接に横浜五十五番館で購入していました。
 殿様が多度津に居館を移してから39年目です。このような事態を心配していたのか、時の丸亀藩主高朗は、その娘豊姫を高琢に嫁にやって百数十年の兄弟の交りを、今度は親子として親しみを復しています。このような心づかいも世の流れ故なのか判らない間に、両家の意志を疎外するような現象がつぎつぎに起きるのは不思議です
 多度津藩が宗藩の不安を無視して、積極的な兵制改革を推進した背景に、丸亀藩からの干渉を抜けだし、己の自立をめざしての富国強兵策であったことが、ここからも窺えます。

多度津藩の大砲を主体とする兵制改革が、小銃を主体とした歩兵編成に切替えられるのは慶応年間に入ってからです。
その要因を2つ挙げておきます。
 多度津藩は、一万石小藩にしては「小粒で精鋭の実力」を持つ藩と高く評価されるようになり、これが本家の丸亀藩を出し抜いて朝廷への軍役の一端を担う道を開きます。元治元年(1864)11月に、朝廷は、京都御所日御門の警衛警備を命じます。多度津藩の小隊は上京し、薩摩など部隊と共に御所警備の任に就き行動を共にすることになります。この時に培われた経験やネットワークは、その後の多度津藩の動きに大きな影響を与えることになります。また、小銃小隊の充実整備が多度津藩にとって急務であることを身を以て経験する場にもなったようです。
 もう一つの要因は多度津港に入港してくる幕府や雄藩の軍艦です。
改修された多度津港は、水深もあり当時の大型艦船の入港には、丸亀港よりも適していました。そのため雄藩が買い入れた西洋式軍艦が、相次いで多度津港に入港するようになります。例えば文久三年(1863)12月5日には、佐賀藩の軍艦二隻が多度津沖合に停泊します。この時には多度津藩士が乗艦見学する機会を得ています。慶応元年(1865)7月15日にはイギリス軍艦が入港しています。
 そして、翌年正月には長州征伐のために将軍御召艦順徳丸が多度津港に入港します。江戸幕府が威信をかけて購入した軍艦の艦上に上がる体験した指導者達は、その近代兵器の威力や指揮系列などに大きな刺戟を受けたはずです。ところが幕府軍は敗れます。長州での勝敗を左右したのは、軍艦でも大砲でもなく、小銃を持った庶民編成の小編成部隊だったのです。戦後の軍事分析はすぐさま多度津にも伝わります。これから整備すべきは歩兵小銃部隊と全国の砲術家たちは考え、藩主や重臣に提言します。そして、各藩は一斉に小銃買付に走ります。
 長州征伐失敗後の幕末威信の失墜についても、リアルな情報が次々と多度津港にはもたらされます。小藩で風通しもよく、藩士たちの意思疎通も行えていたので、藩論は、急速に尊皇討幕の方向へとまとまっていきます。ここで多度津藩も小銃買付に動きます。多度津藩が丸亀藩などと比べて有利だったのは、すでに独自の買付ルートを持っていたこと、そして小銃歩兵の組織編成が出来ており演習なども行ってきていることです。
 かつて、藤沢周平原作で山田洋次監督の時代劇3部作の「鬼の爪」で、維新間近の東北のある藩での小銃歩兵訓練の様子を描いていたのを思い出します。砲術指南が雇われてやってきて武士達を歩兵として使おうとしますが、なかなかうまくいかないのです。隊列縦隊行進をさせようとすると嫌がる、早駆けを命じてもすり足でしか走れない。武士の作法と流儀は、なかなか歩兵には向かないことをさりげなく描いていました。
 多度津藩には、すでに歩兵はいたのです。後は新式銃を買い求め与えるだけです。
多度津藩の慶応二年(1866)の小銃大量買付け
当時の日本における兵器市場を見ておきましょう。長崎のグラバー亭が武器市場の中心であった時代は、すでに終わっています。慶応期に入ると、とくに横浜・兵庫からの小銃購入が中心になります。まず幕末期における横浜貿易と小銃輸入の状況について見ておきましょう。
1ゲベール銃2
 当時は旧式になっていたゲベール銃
横浜貿易の輸入品目の中で、長州征伐前後の元治元年(1864)以降は、幕府や諸藩が争うように兵器を購入するので、小銃の需要は高まるばかりで輸入量はうなぎ登りに増えます。
1864年、11568挺で約12万ドル
1865年 56843挺で約85万ドルへ
と数量で四倍、輸入額で7倍の急激な増加ぶりです。ここには戊辰戦争の接近を感じて各藩の準備が進んでいたことがうかがわれます。
 戊辰戦争突入寸前の小銃の国際マーケットでの評価は、次のようなものでした。
①最も旧式ゲベール銃クラスは、ただ同然でも良いから欧米諸国は売り払いたかった。
②南北戦争終了後、不要なエンフィールド銃を大量に持つ米国は大口の購入先を探していた。
③新型後装式銃は、スナイドル=薩長、シャスポー=幕府、のルートで情報を保有。
④最新式小銃は先覚的諸藩のみ情報を把握して購入を模索していた。佐賀藩入手
 極東の小国日本の動乱は「死の商人=武器輸出業者」にとって旧式銃器、余剰銃器の供給先として注目を集めます。欧米では余った銃器が、ミニエー銃18両、エンフィールド銃が40両、旧式のゲベール銃でさえ5両で売れたのです。
1ミニエー銃FAGUN0002

 ミニエー銃(後込・ライフル)
 新旧取り混ぜての世界中からの銃器の売り込みを前にして、諸藩指導者の見識レベルが大きく作用します。火縄銃とそう変わらない①の1670年のフランスで開発された旧態依然たるゲベール銃を安価で購入して主力装備とした諸藩もあれば、最新鋭の④のスペンサー銃を装備したのが佐賀鍋島藩です。その結果、戊辰戦争は戦国時代以来の火縄銃から旧式のゲベール銃、普及型のミニエー、スプリングフィールド、エンフィールド銃、新型のスナイドル、ドライゼ、シャスポー銃、加えるに最新型のスペンサー銃まで世界中の「新旧小銃の試験場」となったと研究者は指摘します。

1戊辰戦争『会津藩使用 イギリス製 エンフィールド・ミニエ
 鳥羽伏見の戦いの段階では、佐幕派の会津藩はミニエー銃を薩長両藩はミニエー銃の英国バージョンのエンフィールド銃を主として戦っています。双方の小銃共に②の先込式ライフル銃なので銃器の性能的には大差が無かったようです。
1スペンサー銃
最新式のスペンサー銃
多度津藩が買付けたのはフランスのミニエー小銃、ゲエベル小銃、ヤアゲル小銃、カラパン小銃、ピストルなどだったようです。
小銃一挺当り価格は一丁13~15ドルで輸入されたものを、多度津藩では伊勢屋から21ドルで買入れています。仲買の伊勢屋の利益は、一丁につき5ドル前後となります。当時の1ドルは、大まかに計算すると約1両になるようです。 
慶応二年(1866)における小銃買付けの詳細を、富井家文書でみてみましょう
 慶応二年九月 横浜御用元払算用帳
   元
十二月四日 一金百両 大納戸占請取之
同 十四日 一金干両 右同断
   渡
十二月四日 一金弐拾五両 六連砲 いせ彦次郎渡、
       役所二而渡
 同 八日 一金四拾両  右同断 同人渡、
       野毛三浦屋二而
       一金拾両   右同断 同人宅二而
 同 十日 一金弐拾五両 右同断 役所二而渡
  金百両  壱丁二十一ドル ドル相場四拾五匁五厘、
       代金拾六両として七分五厘負ヶ
       金九百六拾両、小銃六拾挺代金壱丁廿壱ドル
       洋銀弐百六拾匁
       内金五拾両 万延四年二而百両之内立用引
    差引 金九百両 野毛広島屋二而彦次郎渡候、
       但シ金拾両渡シ、不足明算用
 同十一日  トル四拾六匁弐分二厘
       一金五拾両 引落 六連砲五挺代之内渡
卯正月十一日 右同断 彦次郎 書付文
 同 十三日 右同断 同人渡 同断
     〆金手八拾両 渡
  小銃代金
五月十八日 一金三拾両       いせ屋彦次郎
       但シ岩四郎引受之証文入渡
       正 月  一金三拾両      前々年代金
       一金弐拾五両     彦次郎渡
       一金七百七拾壱両三歩 同人渡
          〆金八百弐拾六両三歩 渡
     一金百四拾両壱歩壱朱弐匁弐分五厘
惣都合 金九百七拾壱両壱朱弐匁弐歩五厘
 この史料からは、
①慶応二年(1866年)9月に藩の大納戸役から1100両が支出
②横浜で小銃60挺と12挺の六連砲を買付
③「金九百六拾両、小銃六拾挺 」とありますから、小銃は60丁はで960両ですから1挺=1 6両=21ドルで購入しています。
④伊勢屋彦次郎を主とする貿易商に1080両支払
 多度津藩と小銃の取引きをしていた伊勢屋彦次郎は、伊勢の松坂に本店をもつ伊勢屋の江戸店の支店のようです。伊勢屋はこの小銃取引きで、総額で420ドル余の純益をあげた勘定になります。一挺あたりにすると約5ドルです。

1普仏戦争 M1866 歩兵銃
 小銃買付資金を、多度津藩はどのように捻出したのでしょうか?
 この時の60丁の買付でも千両の資金が必要でした。多度津藩の天保年間の『積帳』によると、この千両は藩予算の支出総額の30~35%に当たります。平時に置いては「異常な比重」であり、まさに戦時軍事予算と考えざるを得ません。1万石の小藩の財政状況では、出せるお金ではありません。
 しかし、多度津藩には陣屋や新港建設の際の資金集金のノウハウがありました。領民への小銃買付のための上納金を拠出依頼です。これに応じて多額の上納金を納めているのが次のメンバーです。
米屋七右衛門、大隈屋宇右衛門、浜蔵屋四郎兵衛、高見屋平次郎、島屋孫兵衛、綿屋林蔵、舛屋助右衛門、大黒屋調兵衛、松屋三四郎、浜田屋仁兵衛、福島屋平十郎、野田屋伝左衛門、舛屋彦兵衛、梶屋忠兵衛、戎屋弥平、紀伊国屋発右衛門、大和屋嘉蔵、島屋徳次郎、角屋定蔵、松島屋弥兵衛、土屋嘉兵衛、松本屋常蔵、柳井屋治左衛門
 彼らは城下の回船問屋をはじめ、干鰯問屋などの「商業資本」層で、陣屋や新港建設でも資金調達マシーンの役割を果たし、「多度津新港建設後の経済発展」の恩恵を最も受けていた階層です。この中に後に「多度津の七福人」と呼ばれ、鉄道・電力・銀行などの讃岐の近代化のトレッガーに成長していく人たちの名前も見られるようです。
 新港建設で経済的な成長を果たしていた彼らは、藩の求めに応じたのです。このような多度津の商業資本の成長と経済力があってこそ、小銃の購入資金は調達できたのでしょう。
小藩の藩主高典が、なぜ積極的に軍備の近代化を推し進めたのでしょうか?
多度津藩の積極的な兵制改革は、藩政に対する「宗藩」丸亀藩のきびしい干渉や制約からの自立をめざすための「富国強兵策」として推進されたのではないかと研究者は考えているようです。「外圧」を利用することによって、
①慢性的藩財政の窮乏を克服するための財源を得、
②農村荒廃による石高・身分制原理の引締めをめざそうとする
ここには、「外圧に対する危機感」を背景に藩論を統一し、兵制改革に突破口を見出そうとする藩主高典もくろみがあったのかもしれません。また、多度津藩は①陣屋建設 → ②大規模新港建設というビッグイヴェントを、官民総出でやり遂げてきた実績とノウハウをもっていました。その経験を生かして「軍備の近代化」という目標を掲げて藩論を統一していくというのは、ある意味で実現可能な政策のようにも思えます。どちらにせよ、多度津藩は身丈に合わない軍事力を持ち明治維新を切り開く現場に官軍の一員として立ったのです。これが戦後の明治維新において、高松藩や丸亀藩よりも有利な座を占めることにつながります。


     琴平に置かれた四国会議とは?
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明治の神仏分離令で「象頭山から金刀比羅山」に変更
四国にあった十三の藩は、明治維新後に諸藩の情報交換・連絡調整という名目で「四国会議」という定期的な会合を開くようになります。この会議をリードしたのは土佐藩でした。土佐藩の現状分析としては

「薩長の連合がこのまま続くはずがない。近いうちに必ず争いが起きる。それに備えて「四国諸藩をまとめた同盟」を形成しておく必要がある」
と考えていたようです。
金刀比羅宮3
 その戦略下に四国十三藩に呼び掛けて「四国会議」が開かれる事になりました。
 場所は「四国の道は金毘羅さんに通じる」という交通の利便性や、旧天領であったことの中立性、大阪・京都への利便性、そして、土佐軍が駐屯していたことなどから琴平に自然に決まったようです。そのため琴平には、各藩からは「代表団」がやって来て、各旅館に駐在する事になります。代表団が夜な夜な繰り広げたどんちゃん騒ぎの記録が、地元の旅館などには残っていて、これはこれで読んでいて面白いのです。「会議は踊る」という言葉がありますが、四国会議は「会議の前に飲み、会議の後に詠い・・」という感じです。それはまた別の機会にして・・・・
DSC01510
 ここではいろいろな情報交換が行われています。
例えば、神仏分離令に対しての各藩の対応なども報告されて情報が共有化されます。
その中で「廃仏棄釈運動」への対応タイプを整理すると
①廃仏運動が四国で最も過激に展開した高知藩
②最初は激しい布令が出されたのに、竜頭蛇尾に終わった多度津藩
③一貫して微温的な徳島藩
の三藩が特徴的な動きでした。
前回は、この内の①の高知藩の過激な動きを見ましたので、
今日は弱小1万石の多度津藩の動きを見ていくことにします。
 多度津藩は、丸亀京極家の分藩で一万石という小藩です。

多度津陣屋2
 それまで親藩の丸亀藩のお城の中に間借り住まいしていた殿様が、幕末になって多度津に陣屋を構え、その勢いで小藩にふさわしくないような大きな港を多度津に完成させてしまいます。
porttadotsu多度津
これが多度津湛甫と呼ばれる新港です。この新港は西回りの九州や北前航路からの金毘羅参拝客を惹き付けて、人とモノと金が流れ込むようになり、大盛況となります。このような経済活況を背景に多度津藩は、小藩にもかかわらず兵制改革を行い近代的軍隊を持つようになります。そして、幕末には土佐軍と行動を共にし戦果を挙げます。こうして明治の御一新に、小藩ですがその存在意味を果たしていこうとする意欲が家中には生まれてきます。

多度津陣屋5
多度津陣屋(模型)
神仏分離令が出されると、多度津藩は次のような改革案を発表します。
             達
従朝廷追々被仰出趣旨に付、此度当管内一宗一ヶ寺縮合申付候間 良策見込之趣も有之趣大参事中へ申波候間此段可相達事小
    十月二十八日          民政掛
  その内容は、藩内の寺院を整理・統合して「藩内一宗一寺」にするというものです。つまり、各宗派は一つにして、他は廃寺にするという超過激な内容です。本家藩の丸亀藩や高松藩は模様眺めなのに、なぜ多度津藩は素早く過激な廃仏政策案を実施しようとしたのでしょうか

DSC01386多度津街道1
 西からの金毘羅参りの受入港となった多度津から金毘羅へ伸びる街道図
多度津藩の家臣で四国会議にも出席していた人物は、次のように回顧しています。
「我藩は祖先が徳川幕府から減封されたので、幕府に対し始終快よからず思って陰に陽に反対する気風があった。……そのため幕末には土佐藩について倒幕に加わった。・・その後も土佐藩とよしみを持っていこうした。
土佐藩が廃仏を主張するので我が藩もこれに同調したのである。土佐藩に習って廃仏の模範たらんとする意気込みであった……」

 つまり、見習うべきは土佐藩であって、土佐藩が寺院整理政策を実施しているので、多度津藩も時流に乗りおくれまいと「一宗一ヶ寺に縮合」案を出したというのです。それもあったでしょうが、ここでも寺領没収=財政収入源の確保という経済的な側面もあったように私は思います。しかし、高知藩のようにはすんなりとは進みませんでした。

tadotujinya_01讃岐多度津陣屋
 藩の過激な布令に対しては、まず藩内の寺院からの存続要求運動が展開されます。
     奉歎願口上願                        
此度当管内一宗一派一ヶ寺御縮合之儀、被為仰付奉恐入候、
然るに至急之儀、甚当惑仕候。何共御報之奉申上様も無御座、右民政御役所に付非常格外之御仁慈を以、今暫御延被成下度候、伏而奉懇願。右之趣宜敷御取繕被仰上可被下候 
以上
                                     多度津 法中連中
 ここにはに「一宗一ヶ寺」への縮小統合案に各寺院が当惑していること、今は殿様がいないので、非常に格外(重要)なことなので今しばらく延期して欲しいこと請願しています。
 さらに、檀家である領民達も次のような嘆願書を提出します。
 此度 合社寺之趣、被仰出奉恐入候。然るに是迄長々崇敬仕候事、実に痛痛敷奉存候間何卒在来之通成置被下度、偏に一統奉願上候。 此段宣御取成程奉願上候。以上
  意訳すると
「合社寺(=一宗一派一ヶ寺への縮合)について、恐れながら申し上げます。長い間、崇敬(信仰)してきたことなので、心が痛む事です。何とぞ従来通りの信仰が許されますように、通達をお取り下げくださるようお願いいたします」

 と、領民達は改革案を取り下げることを求めています。寺院の嘆願書よりも一歩踏み込んだ内容です。百姓等は、自分たちの寺を守ろうと立ち上がっていることが伝わって来ます。この辺りが高知藩とは違うところです。高知の農民達は、真言宗が多数をしめる寺院を守ろうとはしませんでした。ところが多度津の農民は浄土真宗の多い自分たちの寺を守ろうとしています。この辺りに、真言宗と浄土真宗の日常における宗教活動の差があったのかもしれません。
52_1
多度津藩の当時の担当者であった後の元香川県代議士伊東一郎氏の回顧談をもう一度見てみましょう
 多度津藩は小藩ではあるが、当時は随分勢力を振ったものである。夫は先に土佐藩が西讃岐の本山と云ふ所へ出軍したとき、軍使を発して多度津藩に向背如何を問ふた、此時同藩が其先鋒たらんことを誓った、この故を以て.土佐藩が非常に多度津居を優遇した。これが同藩の幅を利かした所以である。
 以上の理由で、土佐の排佛案には、何れも承服した。殊に多度津は排佛の模範を示さんと云ふ意気込みであった。もっとも、阿波藩が溜排論と、又火葬癈止論を出した。ここでまた一言せねばならね。これは多度津藩は、陽明學を奉じたにも拘らず、排佛論を取ったと云ふ所以である、陽明學は陽儒陰佛とも云はるるもので、決して排佛論などの出る所以がない。これは多分、多度津藩が土佐藩の歓心を買んがため、一方から云へば、チト祭上られて居られたのではあるまいかと思はれる。
 こうして土佐藩は、極端なる排佛ではなかったが.枝末の多度津藩は、領内一宗一寺に合寺するといふので、隨分極端なものであった。あわせて合寺のみではない、合祀も同時にいい出したのである。ところが合祀については、左程の反抗もないが、合寺については、領民殆んど金部が蜂起せんとした、又寺院側では、模範排佛と云ふので、讃岐金挫の寺院が法輪院と云ふ天台宗の寺に、連口の協議會を開いて、反抗の態度に出んとした。(中略)

 しかし、廃仏論は藩全体の意見ではありませんでした。小数の「激論党」が、「土佐の威を借りて主張した少数の意見」だったのです。なので、領内が騒ぎ出すと、「多数党」からの反撃が起こり、結局は廃仏論を撤回することになります。
また「明治維新 神仏分離史料第四巻 611」Pには、当時の憲兵中尉河口秋次氏の次のような証言を載せています。
拙者は常時神官として有力なりし某氏の言を聞く、先高松藩に蘆澤伊織といふ人あり。領内の神官を召集して、皇學漢學武術の三科を研究せしむる弘道館なるものを起こせり。これを丸亀・多度津の二藩が倣って、各弘道館を起せり。讃岐の排佛論は、全くこの弘道館思想の発せしものなり、
また日く、多度津蒋の排佛論に對して有力なる反抗を試みしものは、西覚寺常栄、光賢寺幽玄の二師なりし.その一端を云へば、全部の寺院住職打揃ひ、青竹に焔硝を詰め、夫を背に負ひ、以て藩に強訴を為す。若し聴されずんば、自ら藩邸と共に焦土たらんと云ふの策なりし。而して其主唱者が上の二師なりし。
又曰くその時藩と寺院の間に介して、円満なる解決をなしめたるものは、同町の丸尾熊造居士なりし云々、
 ここには西覚寺常栄と光賢寺幽玄が中心になって「全住職が「青竹爆弾」を背負って強訴」するとテロ行為まで考えていた事が分かります。そして、反対の中心にあったのは「西覚寺(丸亀市綾歌町岡田)の常栄と光賢寺(琴平町苗田)の幽玄」と記されています。この二人は多度津藩内の僧侶ではありません。隣接する丸亀藩の僧侶が「一宗一ヶ寺」への縮小統合案に反対し支援しているのです。藩を超えた真宗興正寺派の支援を受けていたようです。
 
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 強行手段に訴えても廃仏政策の撤廃を要求するという動きは、下層民だけでなく、庄屋・富商層の支持も得ていました。このような団結した領民と僧侶の要求に対して、廃仏政策を強行するということは、農民一揆を誘発させる可能性もあります。それは小藩の多度津藩の幹部達にとっては、絶対に避けなければならないことです。こうして、寺院の統合縮小案は撤回されます。
多度津藩紋
そして、次のような告示を藩内に出します。
寺院縮合之儀申達候得共、未だ究り候儀には無之、良策見込も有之候はば、可申承内意之事に候間、此段心得違無之様可相達候事
   閏十月五日            民政掛
以上のように、寺院統合案については調査・研究不足な点もあるので撤回する。他の良策を検討するので、心得違いをして軽はずみな行動を起こさないようにという内容でした。
こうして多度津藩は、実にあっさり寺院縮小案を撤回したのです。
 研究者は、これについて次のように指摘します。
「多度津藩の廃仏論は、藩全体の意見ではなく、わずかの過激派の主張した小数意見で、上層部との調整を経て政策化されたものではなかった。そのため領内で騒動を起きそうになると、上層部は急進派を切り捨て、廃仏論を徹回することによって無事落着した」
 このように多度津藩の場合は、藩内の一部少数の過激派が、高知藩という雄藩の傘の下にで、新政府の信頼を得ようと、「藩内一宗一寺」案を出します。しかし、それは土佐藩の歓心を買いたいという弱小藩の苦しい立場を代弁する行為であったのかもしれません。
参考文献
三好昭一郎 四国諸藩における廃仏毀釈の展開 
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