瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:多度津街道

肥後熊本藩の中老松洞が江戸屋敷赴任のために瀬戸内海を藩船で航行した紀行文を見ています。

瀬戸内海航路 伊予沖
周防・安芸・伊予沖の航路図(江戸時代)

旧暦3月8日に大分鶴崎を出港して、次の港を潮待ち寄港を繰り返しながら4日間で航行してきます。
周防の上関 → 大津浦(周防大島) → 加室 → ぬわ(松山市怒和島)→御手洗(呉市大崎下島) → 鞆(福山市)

 鞆からは備中・備前側の備讃瀬戸北航路をたどるルートと、塩飽に立ち寄ってからさらに東を目指す航路がありました。しかし、ここではそのどちらも取らずに、讃岐多度津に渡ります。
金毘羅船 航海図宮島
「金毘羅・宮島海陸案内図」
   上の案内図は「金毘羅・宮島海陸案内図」となっています。
しかし、この絵図の主役は手前の宮島にあったことが一目で分かります。宮島は鳥居から本社に至る細部まで描き込まれています。それに対して、金毘羅は象頭山が描かれているだけです。これは、18世紀当時の両者の知名度の差でもありました。近世始めに流行神として登場した金毘羅信仰が、庶民に広がって行くには時間が必要でした。上方から参拝客が本格化するのは18世紀半ばに、金比羅船が就航して以後です。さらに東国からの伊勢参りの客が、金毘羅まで廻ってくるのが本格化するのは19世紀になってからです。それまでの金毘羅は、この絵図に見られるように宮島詣でのついでに参拝する程度の宗教施設でした。
 この絵図は大きくデフォルメされているので、現在の地理感覚からすると、ついて行けない部分が多々あります。特に、四国側と中国側の港町の位置関係が大きくずれています。しかし。鞆の対面に讃岐の多度津や丸亀があるという感覚を、見る人に与える役割は果たしています。宮島から帰りに、金比羅に寄って帰ろうか、そのためには鞆から多度津へ渡る・・・。という地理感覚が形成されます。九州から上方や江戸に登っていく人達の感覚も同じであったようです。そのために鞆から真鍋諸島沿いに三崎(荘内)半島の紫雲出山を目指して、三野・仁尾や多度津に渡ってくる廻船も多かったことは以前にお話ししました。それをもう一度、押さえておきます。

庄内半島と鞆
鞆と荘内半島
  吉田東伍「大日本地名辞書」の讃岐国には、次のように記します。(意訳)
箱御埼(三崎:荘内半島)は、讃州の西端にあって、荘内村大字箱浦に属す。備中国所属の武嶋(六島)と向き合うこと、二海里余(約4㎞)の距離である。塩飽諸島は北東方に碁石を打ったように散らばり、栗島が一番近い島である。三崎(荘内)半島の先端には海埼(みさき)明神の祠がある。
 この岬は、西北に伸びて、十三海里で備後津に至る。その間に、武嶋(六島)、宇治島、走島がある。(中略)
水路志には、次のように記されている。
 三崎半島は、讃岐の西北部にあって、塩飽瀬戸と備後灘とを分ける。東方より航走してきた船は、ここで北に向かうと三原海峡、南に行くと来島海峡に行くことになる。
ここからは次のようなことが分かります。
①荘内半島は備讃瀬戸から鞆・尾道・三原に向かう航路と、来島海峡に向かう航路の分岐点であったこと。
②海埼(みさき)明神の祠があったこと、

江戸時代初期作成の『西国筋海上道法絵図』と
    米田松洞一行を乗せた千代丸は、鞆を出て多度津に向かいます。
晴天  多度津着 
十二日今朝六半時分出帆 微風静濤讃岐タドツ之湊二着船夕ハツ半時分也。風筋向イ雨ヲ催シ 明日迄ハ此処二滞在之由 御船頭申候。左様ナラバ明日昆(金)比羅二参詣すべしと談し候得者 三里有之よし 隋分宜ク阿るべし卜申候 明日船二残る面々ハ今晩参詣いたし度よし申候二付任其意候野田一ハ姫嶋伝 内門岡左蔵林弥八郎此面々今晩参詣 夜二入九ツ時分帰る
 意訳変換しておくと 

十二日の早朝六半(午前7時)頃に出帆 微風で波も静かで、讃岐多度津港に夕刻ハツ半(4時頃)に着船した。明日の天気は、向風で雨なので多度津に停船だと船頭が云う。そうならば明日は、金毘羅参詣をしようと云うことになる。金毘羅までは三里(12㎞)だとのこと。船の留守番も必要なので全員揃っての参拝はできない。そこで船の留守番のメンバーは今晩の内に参詣するようにと申しつけた。それを受けて野田・姫嶋伝内・門岡左蔵・林弥八郎の面々は今晩参詣し、夜中の夜二入九ツ(12時)時分に帰ってきた。

微風の中を午前7時に出港した船は、夕方に多度津に着いています。その間のことは何も記しません。地理的な知識がないと浮かぶ島々や、近づいてくる半島なども記しようがないのかもしれません。

金毘羅参詣名所図会 下津井より南方面合成画像000022

下津井からの丸亀方面遠望(塩飽の島々と讃岐富士)

十三日今朝小雨如姻 五ツ過比占歩行二て昆比羅へ参詣 一丁斗参候得者 雨やむ道もよし已 原理兵衛御船頭安平十次郎尉右工門 同伴也 供二ハ勘兵衛 澄蔵白平八大夫又右工門仲左工門なり 兼て船中占見覚候 讃岐ノ小富士トテ皆人ノ存シタル山アリ 此山之腰ヲ逡り行扨道筋ハ上道中ノ如ク甚よし 道すがら茶屋女多ク 上道中同前二人ヲ留ム銭乞も多し 参詣甚多し 

意訳変換しておくと
十三日の朝 小雨に烟る中を 五ツ過(7時)頃に歩行で金毘羅参詣へ向かう。少し行くと雨も止んだ。同伴は原理兵衛・御船頭安平十次郎・尉右工門、供は勘兵衛・澄蔵・白平八大夫・又右工門・仲左工門の8人である。船中からも望めた讃岐小富士や象頭山の全景がよくが見えてきた。この山腰を廻って多度津街道を進む。その道筋ハ東海道中のように整備されている。道すがらには茶屋女が多くいて、銭乞も多い。参詣者の数が多く街道は賑わっている。 

多度津街道参拝図2
多度津ー金毘羅街道

多度津ー金毘羅街道は、善通寺を経由しますが、ここでも善通寺については何も触れられていません。当時の善通寺は金堂は再興されていましたが五重塔などはなく、弘法大師伝説も今ひとつ庶民には普及せずに旅人にとって魅力ある寺社という訳ではなかったようです。それに対して善通寺が五重塔再興などの伽藍整備に乗り出すのは、19世紀になってからのことのようです。この時点では、米田松洞一行は、行きも帰りも善通寺は素通りです。

 金比羅からの道標
金毘羅より各地への距離(金毘羅参詣名勝図会)
四ツ時過二本町二着 是二而足ヲ洗イ衣服ヲ改ム 町筋之富饒驚入候 上道中本宿之大家卜同前二て候 作事甚美麗ナリ 商売物も萬也 遊君も多し 旅人行代候林真二京都の趣也 
則丸亀公之御領分也 夫占坂二かかるル坂殊之外長クして急なり 何レも難儀二て甚夕おくれ候
拙者ハ難儀二少も不覚呼吸も平日之通リニ有之候 十次郎先二立参候がやがて跡二成候 山中甚広シ本社迄ハ暗道ニテ幾曲モまがる甚険ナリ 社内桜花甚見事目ヲさます已 今不怪賞シ被申候 鳥井赤金張ナリ金色朧脂ノ如し 見事なる事也本社ハ不及申末社迄も結構至極扨々驚人事也 絵馬も甚よし 真言寺持也 寺も大キ也 是亦佳麗可申様無之候拝シ終り夫占社内不残巡覧ス 何方とても結構之事驚大候 
意訳変換しておくと

DSC01351坂下と芝居小屋
元禄期の大祭寺の金毘羅 上部が内町から坂町への参拝道。下部が芝居小屋や人形浄瑠璃小屋が描かれている。
 四ツ時(10時)過に金毘羅本町に到着。
ここで足を洗って衣服を改める。町筋の富貴は驚かされる。東海道の道中の本宿と同じような大家が並び、しかも造りが美麗である。商売物も多く、遊女も多い。旅人も多くまるで京都の趣がする。ここは丸亀公の御領分(実際は、朱印地で寺領)である。
 本社までの坂は長く、急である。拙者は、少しも難儀に感じることはなく、呼吸も平常通りであったが、十次郎は先に立っていたが、やがて遅れるようになった。
 境内は山中のようで、非常に広い。本社までは森の中の暗い道で、いくつもの曲がりがある。社内の桜が見事で目を楽しませてくれる。 
 さらに境内の建物類も素晴らしい。鳥居は金張で、金色に光り輝いて、見事なものである。本社は言うに及ばず末社に至るまで手の込んだ物が多く人を驚かせる。絵馬もいい。金毘羅大権現は、真言寺であり、寺の建物も大きく立派で、佳麗でもあった。参拝が終わり 社内を残らず巡覧したが、どこを見ても結構なことに驚かされる。
金毘羅本社絵図
金毘羅本社(金毘羅参詣名勝図会)
当時の旅人の視点は、街並みの立派さや建物の大きさ、豪壮そうに目が行きます。「わび・さび」を指向する感覚はありません。そして、京都や東海道と比較して、ランク付けするという手順になります。生駒氏や松平頼重の保護を受けて整備されてきた社殿群が、遠来からの参拝客の目を楽しませる物になっていたことがうかがえます。逆に言うと、地方でこれだけの整備された社殿群や伽藍を持っていた宗教施設は、当時は稀であったことがうかがえます。それが、賞賛となって現れているのかも知れません。
 そうだとすれば、他の宗教施設は「目指せ! 金毘羅」のスローガンの下に、伽藍や社殿を整備し、参拝客を呼び込もうとする経営戦略を採用する人達も現れたはずです。それが讃岐では、善通寺や弥谷寺・白峰寺・法然寺などで、周辺では阿波の箸蔵寺、備中の喩伽山蓮台寺などかもしれません。
観音堂 讃岐国名勝図会
金毘羅観音堂
 又忠左工門事ヲ申出ス 山ヲ下り本之町屋へ立寄候得者早速昼飯ヲ出ス 是亦殊之外綺麗ナリ 酒取肴等二至マテ上品ナリ 是ハ上道中二十倍勝レリ
酒も美ナリ 宮仕之女も衣服綺麗ナリ 湊占是迄百五拾丁之道程也 食餌等仕舞帰路二向フ雨も今朝之通二てふらず よき間合也 暮前ニタドツニ帰ル 夫占少々ふり出し候 
扨江戸大火之よし 則丸亀之御飛脚江戸占早打二て参慄よし 里人共申慄驚大慄 然共たしかの
儀不相知 一刻も早ク室二到可致承知卜出船ヲ待 風よく明日ハ出帆のよし 御船頭申候 太慶ス
意訳変換しておくと
 山を下て門前に立寄って昼飯をとる。この料理も殊の外に綺麗で、酒や肴に至るまで上品である。これは、東海道の街道筋の店に比べると二十倍勝っている。酒もうまく、宮仕女の衣服も綺麗である。多度津湊までは、150丁の道程である。昼食を終えて、帰路に着く頃には、雨も止んでいた。いい間合だ。暮前には、多度津に帰ってきたが、それからまた雨が少々降り始めた。
 多度津で江戸大火のことを聞く。丸亀藩の江戸からの飛脚早打の知らせが届き、町人たちは驚き騒いでいる。しかし、詳細については知ることが出来ない。一刻も早く室津に向かおうと出船を待つ。そうしていると、明日は風もよく出帆できるとの知らせがあった。太慶ス
4344104-39夜の客引き 金山寺
夜の金毘羅金山寺町 客引き遊女たち
金毘羅大権現の名を高めたのは、宗教施設だけではなかったようです。門前の宿の豪華さや料理・サービスなども垢抜けた物を提供していたことが分かります。さらに芝居小屋や富くじ、遊郭まで揃っています。富貴な連中が上方を始め全国からやってきて、何日も金毘羅の宿に留まって遊んでいます。昼間は遊女を連れ出して、満濃池に散策し、漢詩や短歌を詠んでいます。金毘羅は信仰の街だけでなく、ギャンブルや遊戯・快楽の場でもあったのです。熊本藩の中家老は、金毘羅門前に泊まることはありませんでした。そのため夜の金比羅を見ることはなかったようです。

江戸の大火
明和の大火の焼失エリア(赤)
 多度津に帰ってみると「江戸大火」の知らせが丸亀藩の飛脚によってもたらされていました。
 この時の大火は「明和の大火」とよばれ、江戸の三大大火とされている惨事です。明和9年2月29日(1772年4月1日)に、目黒行人坂(現在の目黒一丁目付近)から出火したため、目黒行人坂大火とも呼ばれ、出火元は目黒の大円寺。出火原因は、武州熊谷無宿の真秀という坊主による放火です。真秀は火付盗賊改長官・長谷川宣雄の配下によって捕縛され、市中引き回しの上で、小塚原で火刑に処されています。
 金毘羅船 航海図C10
晴天十四日
朝五ツ時分占出帆 無類之追風也 夕飯後早々室之湊二着船 御船頭安平を名村左大夫方二早速使二遣シ江戸大火之儀を間合 慄処無程安平帰り 直二返答可申由二て 直二側二参申候ハ目黒行人坂右火出桜田辺焼出虎御門焼失龍口へかかり御大名様方御残不被成候よし上野仁王門焼候よし風聞然共此方様御屋敷之儀如何様共不承よし大坂二問合候得共今以返飼申不参候

  意訳変換しておくと
晴天十四日朝五ツ(8時)頃に多度津港出帆 無類の追風で、夕飯後には早々と室津に着船した。早々に、船頭の安平を室津の役人左大夫の所に遣って、江戸の大火之について問い合わさせた。安平が聞いてきた情報によると、目黒行人坂が火元で、桜田辺から虎御門の龍口あたりの大名屋敷は残らず燃え落ちたとのこと。上野の仁王門も焼けたという。風聞が飛び交い、当藩の屋敷のことについてもよく分からない。大坂屋敷に問い合わせたが、今だに返事を貰えないとのこと。
 明日の出帆について訊ねると「順風です」とのこと。そこで明日、灘に渡ってから対応策を考えることにする。

  多度津までは、街道や海道の桜を眺めてののんびりとした旅模様でした。ところが多度津以降の旅は、江戸の大火を受けて対応策を考えながらの旅になります。そのため桜や周囲の景色についてはほどんど記されることがなくなります。

  以上をまとめておくと
①17世紀後半に、髙松藩初代の松平頼重によって整えられた金毘羅の社殿や伽藍は、その後も整備が続けられ、19世紀には近隣に類のない規模と壮麗さを兼ね備えるようになった。
②それを受けて、九州の大名達の参拝や代参が行われるようになった。
③さらに九州と上方や江戸を行き来する家中や商人たちも、金比羅詣でを行うようになった。
④その際の参拝スタイルは多度津港に船を留めて日帰りで参拝するもので、多度津や金毘羅の宿を利用することはなかった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 柳田快明   肥後藩家老金毘羅参拝『松洞様御道中記(東行日録)』について

延岡藩2
日向延岡藩の内藤家
  幕末に大名夫人が金毘羅詣でをした記録を残しています。
その夫人というのが延岡藩内藤家の政順に嫁いでいた充真院で、桜田門で暗殺される井伊直弼大老の実姉(異母)だというのです。彼女は、金毘羅詣でをしたときの記録を道中記「海陸返り咲ことばの手拍子」の中に残しています。金毘羅参拝の様子が、細やかな説明文と巧みなスケッチで記されています。今回は、大名夫人の金毘羅道中記を見ていくことにします。テキストは神崎直美「日向国延岡藩内藤充真院の金毘羅参り」です。

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充真院(じゅうしんいん:充姫)
まずは、充真院のことにいて「事前学習」しておきます。
  充真院は、寛政12年(1800)年5月15日、近江国彦根藩・井伊家の江戸屋敷で生まれています。父は第11代彦根藩主の井伊直中(なおなか)です。直中は歴代藩主の中で最も子宝に恵まれた殿様で、記録に残るだけで男子16人、女子6人を儲けています。正室との間にのちに藩主を継ぐ直亮、側室君田富との間には充姫の異母弟にあたる直弼(後の大老)がいます。
 15歳で充姫は、2歳年上の延岡藩主内藤正順に嫁いで男子をもうけますが早世します。病弱だった正順も天保五年(1834)に亡くなったので、出家して「充真院」と称しました。
 
延岡藩 
内藤家と伊達家との関係

 跡継ぎを失った内藤家は、充姫の実家である井伊家と相談の上、充姫の弟で15歳になる直恭を養子として迎えます。この時、候補として20歳になる直弼もあがったようです。しかし早世した子に年齢が近い方がよかろうと直恭が選ばれます。
直恭は、正義と改名し内藤家を継ぐことになります。20歳年下の弟の養母となった充姫は、正義を藩主として教育し、彼が妻を迎えたのを機に一線を退きます。こうして見ると、充真院は実弟を養子として迎え、後継藩主に据えて、その養母となったことになります。このため充真院の立場は強く、単に隠居という立場ではなく、内藤家では特別な存在として過ごしたようです。
充姫は嫁ぐ前から琴や香道などの教養を身に着けていました。それだけに留まらず、婚姻後は古典や地誌といった学問に取り組むようになります。「源氏物語」の古典文学、歌集では「風山公御歌集」(内藤義概著)を初め「太田伊豆守持資入道家之集」「沢庵和尚千首和歌」、「豪徳寺境内勝他」など数多くの古典、歌集を自ら書写しています。
 さらに「日光道の記」「温泉道の記」、「玉川紀行」、「玉川日記」といった紀行文も好んで読んでいます。それが60歳を越えて江戸と延岡を二往復した際の旅を、紀行文として著す素材になっているようです。
彼女のことを研究者は次のように評しています。

生来多芸多能、特に文筆に長じ、和歌.絵をよくし.前項「海陸返り咲くこと葉の手拍子」など百五十冊余の文集あり.文学の外、唄、三味線の遊芸にも通じ、薬草、民間療法、養蚕に至るまであらゆる部門に亘り一見識を持ち、その貪埜な程の知識慾、旺盛な実行力、特に計り知れぬその記憶力は誠に驚く斗りのものがある。

 江戸時代の大名の娘は、江戸屋敷で産まれて、そこで育ち、そして他藩の江戸屋敷に嫁いでいきます。
一生、江戸を出ることはありませんでした。それなのに充真院は、本国の延岡に帰っています。「大名夫人が金毘羅詣り」と聞いて、私は「入り鉄砲に出女」の幕府の定めがある以上は、江戸を離れることは出来ないはずと最初は思いました。ところが幕末になって幕府は、その政策を百八十度政策転換して、藩主夫人達を強制的に帰国させる命令を出しています。そのために充真院も始めて江戸を離れ、日向へ「帰国」することになったようです。弟の井伊直弼暗殺後の4年後のことになります。
幕末大名夫人の寺社参詣―日向国延岡藩 内藤充真院・続 | 神崎 直美 |本 | 通販 | Amazon

充真院は2度金毘羅詣でを行っていますが、最初に金毘羅を訪れたのは、文久三(1863)年5月15日です。
64歳にして、始めて江戸を離れる旅です。辛い長旅でもあったと思うのですが、充真院が残した旅行記「五十三次ねむりの合の手」を見てみると、充真院は辛い長旅をも楽しんでいる雰囲気が伝わってきます。精神的にはタフで、やんちゃな女性だったように私には思えます。

文久3(1863)4月6日に江戸を出発、名古屋で1週間ほど留まって大坂の藩屋敷に入ります。
金毘羅までの工程は次の通りです。
4月 6日 江戸出発
4月24日 大坂屋敷着
5月 6日 大阪で藩船に乗船
5月13日 多度津入港
5月15日 金毘羅参拝、
東海道は全行程を藩の御用籠を使っています。大坂に着くと、堂島新地にあった内藤家の大坂屋敷(現在の福島区福島一丁目)に入っています。ここで、藩の御座船がやってくるまで、10日間ほど過ごします。その間に、充真院は活動的に住吉神社などいくつもの大坂の寺社参詣を行っています。
日向国延岡藩内藤充真院の大坂寺社参詣
大坂の新清水寺(充真院のスケッチ)

 それまで外出する機会がほとんどなかった大名夫人が、寺社参りを口実に自由な外出を楽しんでいるようにも見えます。例えば、立寄った茶屋では接待女や女将らと気さくに交流しています。茶屋は疲れを癒しながらにぎやかなひとときをすごしたり、茶屋の人々から話を聞いて大坂人の気質を知る恰好の場所でもあったようです。そういう意味では、大坂での寺社参詣は長旅の過程で気晴らしになるとともに、充真院の知的関心・好奇心を満たしたようです。
5月6日 大坂淀川口の天保山から御座船で出港します。
そして、兵庫・明石・赤穂・坂出・大多府(?)を経て多度津に入港しています。ここまでで7日間の船旅になります。

IMG_8072
金毘羅航路の出発点 淀川河口の天保山

内藤藩の御座船は、大坂から延岡に下る場合には、次のような航路を取っていました。
①大坂の淀川の天保山河口を出て、牛窓附近から南下し、讃岐富士(飯野山)・象頭山をめざす。
②丸亀・多度津沖を経て、以後は四国の海岸線を進みながら佐田岬の北側を通って豊後水道を渡る。
③豊後国南部を目指し、以後は海岸沿いに南下して日向国の延岡藩領の入る。
④島野浦に立ち寄ってから、延岡の五ヶ瀬川の河口に入り、ここから上陸
この航海ルートから分かるように、内藤家の家中にとって、四国の金毘羅はその航海の途上に鎮座していることになります。大坂から延岡へ進む場合は、これからの航海の安全を祈り、延岡から大坂に向かう場合は、これまでの航海を感謝することとなります。どちらにしても、危険を伴う海路の安全を祈ったりお礼をするのは、古代の遣唐使以来の「海民」たちの伝統でした。そういう意味でも、九州の大名達が頻繁に、金毘羅代参を行ったのは分かるような気もします。

金毘羅船 航海図C13
金毘羅船の航路(幕末)

御座船のとった航行ルートで、私が気になるのは次の二点です。
①一般の金毘羅船は、大坂→室津→牛窓→丸亀というコースを取るが、延岡藩の御座船は明石・坂出などを経由していること。
②丸亀港でなく多度津に上陸して金毘羅詣でを行っていること。
①については、藩の御用船のコースがこれだったのかもしれませんがよく分かりません。
②については、九州方面の廻船は、多度津に寄港することが多かったようです。また、多度津新港の完成後は、利便性の面でも多度津港が丸亀港を上回るようになり、利用する船が急増したとされます。そのためでしょうか、

充真院は金毘羅を「金毘羅大権現」とは、一度も表記していません。
「金毘羅様」「金ひら様」「金毘羅」などと表記しています。当時の人々に親しまれた名称を充真院も使っているようです。

多度津湛甫 33
多度津湛甫(新港)天保9年(1838)完成
 多度津入港後の動きを見ていくことにします。
13日の夕七つ(午後四時頃)に多度津に入港して、その日は船中泊。
14日も多度津に滞在して仕度に備えた後、
15日に金毘羅に向けて出発。
充真院の旅行記には、13日の記録に次のように記します。
「明日は金昆羅様へ参詣と思ひし所、おそふ(遅く)成しまゝ、明日一統支度して、明後早朝よりゆかん(行かん)と申出しぬ」

ここからは当初の予定では14日に金毘羅を参拝する予定だったようですが、前日13日に多度津に到着するのが遅くなったので、予定を変更して、15日早朝からの参拝になったようです。大名夫人ともなると、それなりの格式が求められるので金毘羅本宮との連絡や休息所確保などに準備が必要だったのでしょう。
 充真院の金毘羅参りに同行した具体的な人数は分かりません。
同行したことが確認できるのは、御里附重役の大泉市右衛門明影と老女の砂野、小使、駕籠かきとして動員された船子たちなどです。同行しなかったことが確実な者は、重役副添格の斎藤儀兵衛智高、その他に付女中の花と雪です。斎藤儀兵衛智高は、御座船の留守番を勤め、花と雪は連絡準備のために前日に金毘羅に先行させています。      

 充真院にとって金昆羅参りは、その道中の多度津街道での見聞きも大きな関心事だったようです。 
そのため見たり聞いたりしたことを詳しく記録しています。幸いにも参拝日となった15日は朝から天気に恵まれます。一行は、夜が明けぬうちから準備をして出発します。多度津から金毘羅までは3里(12㎞)程度で、ゆっくり歩いても3時間です。そんなに早く出発する必要があるのかなと思いますが、後の動き見るとこのスケジュールにしたことが納得できます。
 旧暦の5月当初は、現在の六月中旬に相当するので、一年の中でも日の出が早く、午前4時頃には、明るくなります。まだ暗い午前4時頃の出発です。まず、「船に乗て」とあります。ここからは、係留した御座船で宿泊していたことがうかがえます。御座船から小船に乗り換えて上陸したようです。岸に移る小船から充真院は、「日の出之所ゆへ拝し有難て」と日の出を眺めて拝んでいます。海上から海面が赤々と光輝く朝日を見て、有難く感じています。

  多度津港の船タデ場
多度津湛甫拡大図 船番所近くに御座船は係留された?

船から上陸した波止場は石段がひどく荒れていて、足元が悪く危険だったようです。
「人々に手こしをおしもらひしかと」
「ずるオヽすへりふみはつしぬれは、水に入と思て」
「やうノヽととをりて駕籠に入」
と、お付きの手を借りながら、もしも石段がすべり足を踏み外したならば、海に落ちてしまうと危険な思いをしながらも、やっとのことで石段を登って駕籠に乗り込みます。
多度津港から駕籠に揺られて金毘羅までの小旅行が始まります。
充真院は駕籠の中から周囲の景色を眺め、多度津の町の様子を記します。この町は「大方小倉より来りし袴地・真田、売家多みゆる」
袴の生地や真田紐を販売する店が沢山あることに目を止めています。これらの商品の多くが小倉から船で運ばれてきたことを記しています。充真院が興味を持ち、御付に尋ねさせて知ったのかもしれません。それだけの好奇心があるのです。このあたりが現在の本町通りの辺りでしょうか。
多度津絵図 桜川河口港
金毘羅案内絵図 (拡大図)
 さらに進むと農家らしき建物が散在して、城下であると云います。
多度津港に上陸した参詣客達は、金毘羅大権現の潮川神事が行われる須賀金毘羅宮を左手に見ながら金毘羅山への道を進みはじめます。門前町(本通り一丁目)を、まっすぐ南進すると桜川の川端に出ます。
門前町のことを「城下」と呼んでいたとしておきます。
 また、三町(327m)程進むと松並木が続き、左側には池らしいものが見えたと記します。松並木が続くのは、街道として、このあたりが整備されていたことがうかがえます。そこから先は田畑や農家が多くあったというので、街道が町屋から農村沿いとなったようです。

DSC06360
              多度津本町橋
ここが桜川の川端で、本町橋が架かるところです。その左手には絵図には遊水池らしきものがえがかれています。この付近で「金ひら参の人に行合」とあり、同じ様に金昆羅参りに向かう人に出会っています。 
多度津街道ルート上 jpg
 多度津から善通寺までの金毘羅街道(多度津街道調査報告書 香川県教育委員会 1992年)

その後、 一里半(6㎞)程進んでから、小休憩をとります。ちょうど中間点の善通寺門前あたりでしょうか。地名は書かれていないので分かりません。建物の間取りが「マイブーム」である充真院は、さっそく休憩した家の造作を観察して次のように書き留めています。
「此家は間を入と少し庭有て、座敷へ上れは、八畳計の次も同じ」
「脇に窓有て、めの下に田有て、夫(それ)にて馬を田に入て植付の地ならし居もめつらしく(珍しく)」
門や庭があることや、八畳間が二部屋続いている様子を確認しています。ここで充真院は休憩をとります。そして、座敷にある窓から外を見るとすぐ下に田んぼが広がり、馬を田に入れて田植えに備えて地ならしをしていたのが見えました。こんなに近くで農作業を見ることは、充真院にとって初めての体験だったのかもしれません。飽かず眺めます。そして「茶杯のみ、いこひし」とあるので、お茶を飲みながら寛いだようです。
  このあたりが善通寺の門前町だと思うのですが、善通寺については何も記されていません。充真院の眼中には「金毘羅さん」しかなかったようです。
多度津街道を歩く(4)金刀比羅神社表参道まで
    金毘羅案内絵図 天保二(1831)年春日 工屋長治写

 休憩を終えて再び駕篭に乗って街道を進みます。

「百姓やならん門口によし津をはりて、戸板の上にくたもの・徳りに御酒を入、其前に猪口を五ツ・六ツにな(ら)へて有、幾軒も見へ候」

意訳変換しておくと
「百姓屋の門口に葦簀をはって、簡素な休憩所を設けて、戸板の上に果物・徳利に御酒を入れて、その前に猪口を五ツ・六ツに並べてある、そんな家を幾軒も見た」

ここからは、金毘羅街道を行き来する人々のために農家が副業で簡素な茶店を営業していたことが分かります。庶民向けの簡素な休憩所も、充真院の目に珍しく写ったようです。ちなみに充真院は、お酒が好きだったようなので、並んだ徳利やお猪口が魅力的に見えたのかも知れません。このあたりが善通寺門前から生野町にかけてなのでしょうか。
丸亀街道 田村 馬子
    枠付馬(三宝荒神の櫓)に乗った参拝客(金毘羅参詣名勝図会)

充真院は街道を行く人々にも興味を寄せています。
 反対側から二人乗りした馬が充真院一行とすれ違った時のことです。充真院らを見て、急いで避けようとして百姓らが設置した休憩所の葦簾張りの中に入ろうとしました。ところが馬に乗ってい人が葦簾にひっかかり、葦簾が落ちて囲いが壊れます。それに、馬が驚いて跳ねて大騒ぎになります。充真院は、この思いがけないハプニングを見て肝を冷やしたようです。「誠にあふなくと思ふ」と心配しています。
 実は、充真院を載せた籠は、本職の籠かきが担いでいるのではなかったようです。
「舟中より参詣する事故、駕籠之者もなく」
    船中からの参拝なので籠かきを同行していない
「舟子共をけふは駕籠かきにして行」   
      今日は船子を籠かきにして参拝する
其ものヽ鳴しを聞は、かこは一度もかつぎし事はなけれと、先々おとさぬ様に大切にかつき行さへすれはよからんと云しを聞き
  船子等は駕籠を担いだことが一度もないので本人たちも不安げだ。駕籠を落とさないように大切に担いでいけば良いだろうと話し合っていたのを耳にした。
これを聞いて充真院の感想は、「かわゆそうにも思、又おかしともおもへる由」と、本職ではない仕事を命じられた船子たちを可哀相であると同情しながらも、その会話を愉快にも感じています。同時に気の毒に思っています。身分の低い使用人たちに対しても思いやりの心を寄せる優しさが感じられます。
 こうして船子たちは

「かこかきおほへし小使有しゆへ、おしヘノヽ行し」

と、駕籠かきを経験したことがある小使に教えられながら、金毘羅街道を進んで行きます。
 しかし、素人の悲しさかな、中に乗っている人に負担にならぬよう揺れを抑えるように運ぶことまではできません。そのためか乗っていた充真院が、籠酔いしたようです。  なんとか酔い止めの漢方薬を飲んで、周りの風景を眺めて美しさを愛でる余裕も出てきます。

早苗のうへ渡したる田は青々として詠よく、向に御山みへると知らせうれしく、夜分はさそな蛍にても飛てよからんと思ひつゝ

意訳変換しておくと
 一面に田植え後の早苗の初々しい緑が広がる田は、清清しく美しい。向こうに象頭山が見えてきたという知らせも嬉しい。この辺りは夜になると、蛍が飛び交ってもいい所だと思った。」

充真院の心を満たし短歌がふっと湧くように詠めたようです。このあたりが善通寺の南部小学校の南の寺蔵池の堰堤の上辺りからの光景ではないかと私は推測しています。
美しい風景を堪能した後で、寺で小休憩をとります。
この寺の名前は分かりません。位置的には大麻村のどこかの寺でしょうか。この寺は無住で、村の管理下にあったようです。充真院一行が休憩に立ち寄ることが急に決まったので、あらかじめ清掃できず、寺の座敷は荒れ放題で、次のように記します。
「すわる事もならぬくらひこみ(ゴミ)たらけ、皆つま(爪先)たてあるきて」

と、座ることも出来ない程、ごみだらけで、 人々は汚れがつかないように爪先立ちで歩いたと記します。そして「たはこ(煙草)杯のみて、早々立出る」と、煙草を一服しただけで、急いで立ち去っています。ここからは、彼女が喫煙者であったことが分かります。
 大名夫人にとって、荒れ放題でごみだらけの部屋に通されることは、日常生活ではあり得ないことです。非日常の旅だからこそ経験できることです。汚さに辟易して早々に立ち去った寺ですが、充真院は庭に石が少しながら配してあったことや、さつきの花が咲いているが、雑草に覆われて他は何も見えなかった記します。何でも見てやろう的なたくましい精神力を感じます。
 寺を出てから、再び田に囲まれた道を進みます。
この辺りが大麻村から金毘羅への入口あたりでしょうか。しばらくすると町に近づいてきます。子供に角兵衛獅子の軽業を演じさせて物乞いしている様子や、大鼓を叩いている渡世人などを見ながら進むうちに、金毘羅の街までやってきたようです。「段々近く間ゆる故うれしく」と鰐口の響く音が次第に近づいて聞こえてくることに充真院は心をときめかせています。
象頭山と門前町
象頭山と金毘羅門前(金毘羅参詣名勝図会)
金昆羅の参道沿いの町について次のように記します。
「随分家並もよく、いろいろの売物も有て賑わひ」と、家並みが整って、商売が繁盛していることを記します。また「道中筋の宿場よりもよく、何もふしゆうもなさそふにみゆ」と、多度津街道の街道の町場と比較して、金毘羅の門前町の方が豊かであると指摘します。
 充真院一行は、内藤家が定宿としている桜屋に向います。
桜屋は表参道沿いの内町にある大名達御用達の宿屋でした。先行した女中たちが充真院一行が立ち寄ること伝えていたので、桜屋の玄関には「延岡定宿」と札が掛けてあります。一階の座敷で障子を開けて、少し休憩して暑さで疲れた体を休めようとします。ところが参道をいく庶民がのぞき込みます。そこで、二階に上って風の通る広間で息つきます。そして、いよいよ金昆羅宮へ参詣です。
今回はここまでにします。続きはまた次回に 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     神崎直美「日向国延岡藩内藤充真院の金毘羅参り」

神社の鳥居は、神域と俗界の境目に建ち、ここからは神聖で、邪悪のものは入るを禁ずといった一種の関所でもあったようです。金毘羅さんも参拝客が増えるにつれて、金毘羅門前町だけでなく、街道沿いにも建てられるようになります。
金毘羅街道鳥居一覧表2
金毘羅街道鳥居一覧表
それを一覧にしたのが上表になります。この表からは、次のようなことが分かります。
①金毘羅参拝客が増加する18世紀末から各街道沿いのスタート地点と金毘羅のゴール地点に燈籠が建立されたこと
②奉納者は地元よりも、讃岐以外の他国の人たちによって建立されたものが多いこと
③その後の道路交通事情などによって、移転された7基あること
そんな中で多度津街道の②永井鳥居は「崩壊」とあります。どうなったのでしょうか。今回は、永井鳥居の崩壊をめぐる事件を追いかけてみます。テキストは「真鍋新七  多度津・金毘羅街道の3つの鳥居  ことひら1988年」です。

多度津街道には、3つの金毘羅鳥居が建っていたことが分かります。
多度津街道ルート上 jpg
           金毘羅参拝道Ⅰ 多度津街道 調査報告書 香川県教育委員会 1992年より

永井の鳥居は、三井八幡から条里制に沿って伸びる多度津街道を五岳山や象頭山を見ながら歩いていくと国道11号を越えて暫く行った所にある十字路にあります。ここは東西に伸びる伊予街道との交差点で、行き交う人が多かった所です。近代になっても、この街道が旧国道11号として整備され、基幹道路として現在の11号線が整備されるまでは使用されていました。そのため街道沿いには、病院があったりしていまでも家並みが続いています。拡大図を見てみましょう。
多度津街道ルート4三井から永井までjpg
多度津街道と永井周辺の丁石と燈籠分布 
多度津街道道標一覧2
多度津丁石一覧
 道標番号11と12が永井の鳥居と同じ所にあることが分かります。またそこに何が彫られているかも分かります。
DSC06060
永井の多度津街道と伊予街道の交差点

  多度津街道を原付バイクでツーリングしていて、永井集落の交差点にやってきました。道の両側に円柱状のものが立っています。変わった石造物だなと思って近づいてみると・・・

DSC06061
永井鳥居の石柱(東側南面)
「天下泰平」とありますが・・・鳥居がポキンと根元から折れているのです。
   DSC06069
多度津街道 永井鳥居の石柱(西側)
西側の柱には、丸い柱に多くの人たちの名前が次のように刻まれています。
発起施工
松嶋屋惣兵衛  米屋喜三右衛門  福山屋平右衛門  湊屋儀助
 一段、
草薙伝蔵(仲之町) 草薙甚蔵 松嶋屋弥兵衛 大和屋亀助 
阿波屋浅次郎 
海老屋輿助(仲之町) 三谷簡能 松本屋辨蔵 
油屋平蔵 岡山僅巾― 油屋調 麦堀爽兵衛 
 二段
嶋屋弥兵衛(浜町) 増金屋友吉 高見屋平次郎(浜町) 綿屋林蔵 木屋清兵衛  竹屋平兵衛槌屋幸吉 
 三段
中村屋源右衛門(浜町)  米屋清蔵 柏屋惣右衛門 備前屋左兵衛  土屋嘉兵衛  米屋七右衛門(若宮町)蔦屋幸吉 油屋佐右衛門
・徳次(角屋町) 吉田屋藤吉
 升屋彦兵衛・仙吉(若宮町)   唐津屋長兵衛 
ここからは、安政四年(1857)に、多度津町有志によって、建立された鳥居の柱基部であったことが分かります。
いつ折れたのでしょう? どうしてこんな形で残されているのでしょうか?
東西の柱の根元を見ると、彫られた字が地面の下に隠れされてた状態になっていることが分かります。柱が途中から折れた状態のままで維持されているのではないようです。倒壊し残された柱の一部だけをもとの位置に建て直したのだろうと最初は推測しました。

この疑問に答えてくれたのが「真鍋新七  多度津・金毘羅街道の3つの鳥居  ことひら1988年」です。
ここには1988年9月に行った現地聞き取り調査の結果を次のように報告しています。
①戦後直後の1946年の南海大地震で永井鳥居は、東の柱が上から1/3あたりで折れて北側に倒れ、笠石や貫石も額束も倒れてくだけた。西柱は、そのまま立っていた。
②部落の世話人が金刀比羅宮に報告したところ、再建のめどもつかないので、額束石は金刀比羅宮へ納め、その他は処分してもよろしいとの通知があった。
③そこで近くの石屋に、残っていた西の柱も取りくずして処分を依頼した。
④鳥居の台座の石は2メートル平方の見事なもので、東の分は、土地改良工事の際、川底へ埋め、西の分は鳥居の石材を処分した石屋が持ち帰った。
⑤その後、付近の人たちによって、折れた柱を立て鳥居の遺蹟をつくることになった。
⑥その時、交通の便を考えて鳥居の柱の間を、今までよりも広くあけて立てた。
DSC06057
多度津街道 永井の交差点 手前が伊予街道
三井の金崎宅の庭には、このときの鳥居柱の一部が保存されているようです。「右た」とあり、これは「右たどつ」の事で、反対の面には「安政四年丁」の文字がみえます。これは安政四年丁己五月とあった柱の上の部分石になります。この柱の下の部分が、永井の西側にある柱です。この柱石は、一度三井の石屋に払下げられますが、「もったいない」と金崎氏が引き取り、自宅の裏庭に立てて、保存してきたようです。 
 DSC06054

永井鳥居の額束は、南北両面に掲げてあったようです。
南面は行書、北面はてん書の字体であったと云います。南海地震の時、鳥居は北に向って倒れたようです。そのため北の額束は砕け散りました。かろうじて南側のものは、姿をとどめます。それを永井の人たちが鳥居の石材の一部と、額束を金刀比羅宮へ運びます。永井鳥居の額束は今でも、金刀比羅宮に保管されているようです。
 聞取り調査による永井の鳥居の姿は次の通りのようです。
 西の柱 北面 左こんぴらみち
     南面 安政四年五月
     天下泰平国家安全
     当村世話人  乾 善五郎
            乾 呉 市
 乾善五郎、乾輿市氏は鳥居の立っている土地を提供した人。
 東の柱 東面 右たどつみち

 下部に発起人や献納者の名がある。
 毎年、秋祭りには、鳥居の下で金毘羅さんを拝し、獅子舞を奉納されてきたそうです。

以上をまとめておくと
①多度津街道も18世紀後半から金毘羅参拝客が増え始め、19世紀後半には起点の多度津鶴橋と、ゴールの琴平高藪口に鳥居が建立される。これらは松江や粟島の人たちの寄進によるものであった。
②多度津湛甫完成によって、多度津の町は大いに潤うようになる。そのような好況を背景に19世紀半ばに多度津の人たちによって、永井に鳥居が建立された。
③永井は多度津街道と伊予街道が交差する地点で、人通りも多く建立に相応しい場所とされた。
④ところが戦後直後の南海地震で鳥居は倒壊し、残った石柱でモニュメントが道の両側に建てられた。これが現在の永井鳥居跡になっている。
倒壊した鳥居を後世に残そうとする地元の人々の熱意で、ここに鳥居があったことが伝えられていくモニュメントとなっている。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「真鍋新七  多度津・金毘羅街道の3つの鳥居  ことひら1988年」

 丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋
金毘羅案内図 「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」明治初年

 町史ことひら5絵図・写真篇には、金毘羅信仰をめぐるいろいろな絵図や写真が収められています。前回まで見てきた金毘羅案内絵図も、この中に載せられている絵図類です。これらのパターンは丸亀港に上陸して、金比羅から善通寺+四国霊場七ヶ寺巡礼」をおこなって丸亀に帰ってくるというパターンでした。そんな中にあって、毛色のかわったものがひとつ収められています。
それが、下の多度津を起点とする絵図です。
多度津街道を歩く(4)金刀比羅神社表参道まで
金毘羅案内絵図 天保二(1831)年春日 工屋長治写

丸亀城が右下の端で、存在感が小さいようです。そして丸亀福島湛甫や新堀を探すと・・・・ありません。丸亀城の上(西)を流れる金倉川の向こうに道隆寺、その向こうに大きく広がる市街地は多度津のようです。多度津の街並みを桜川が堀のよう囲っています。この絵図の主役は、多度津のようです。多度津から金毘羅への街道が真ん中に描かれます。多度津には、大きな港が見えます。私は、これが多度津湛甫かなと最初は思いました。しかし、右上の枠の中には「天保二(1831)年春日 工屋長治写」とあります。当時の年表を見ておきましょう。
天保4年 1833 丸亀新掘湛甫竣工。
天保5年 1834 多度津港新湛甫起工。
天保6年 1835 金毘羅芝居定小屋(金丸座)上棟。
天保9年 1838 多度津港新湛甫完成。多度津鶴橋鳥居元に石燈籠建立。
天保11年1840 多度津須賀に石鳥居建立。 善通寺五重塔落雷を受けて焼失。
弘化2年 1845 金毘羅金堂、全て成就。観音堂開帳。
安政4年 1857 多度津永井に石鳥居建立。
万延元年 1860 高燈籠竣成。
 多度津湛甫が完成するのは、1838年のことですから、この絵図が書かれた時には湛甫はまだなかったことになります。ここに書かれている港は、それ以前の桜川河口の港のようです。丸亀港の繁栄ぶりを横目で見ながら、多度津の人々が次の飛躍をうかがっていた時期です。天保年間の多度津の港と町を描いた貴重な史料になります。
 ちなみに「天保二(1831)年春日 工屋長治写」とある工屋長治は、金毘羅神事の潮川神事の時に使われる祭器を作る家でもある格式のある家柄だったようです。

  全体絵図のモニュメントの完成期を見ておきましょう。
①善通寺の五重塔 天保11(1840)年落雷を受けて焼失するまで存続
②金毘羅の高灯籠 万延元(1860)年に完成なので、まだ見えず
③金比羅金堂   弘化2(1845)年完工。
③の金毘羅金堂は描かれているようです。これは、着工から30年近くかかって完成していて、瓦葺きから銅板葺への設計変更などもあり、それ以前から姿をみせていたということにしておきます。
 
 多度津町内部分を拡大して見てみましょう。
多度津絵図 桜川河口港

陣屋と市街地を結ぶ極楽橋が見えます。陣屋はかつての砂州の上に立地しています。中世は、ここが埋墓で、その管理や供養を行っていた
のが多聞院や摩尼院であることは、以前にお話ししました。ここには、高野の念仏聖などが住み着いて、阿弥陀信仰布教の拠点となっていたようです。墓地と寺院を結ぶ橋なので「極楽橋」と名付けられたのでしょう。そこに近世も終わりになって陣屋が建てられたことになります。
この絵図から読み取れることを挙げておきます。
①桜川に囲まれたエリアが「市街地」化している。
②桜川の東側は田んぼが広がっている
③桜川には、極楽橋・豊津橋・鶴橋の3本の橋しかなく、桜川が防備ラインとされていたことがうかがえる。
④豊津橋から西へ伸びる道と河口から南に伸びる金毘羅街道が戦略的な要路なっている。


多度津陣屋10
多度津陣屋
多度津港は陣屋が出来る前から、桜川の河口にあって活発な交易活動を展開していたようです。 18世紀後半安永年間の多度津港の様子を、船番所報告史料は次のように記します。
「安永四(1775)年、四月四日の報告には、一月八日より二十五日までの金比羅船の入港数が「多度津川口入津 参詣船数五百十一艘・人数三千二百十四人」

 正月の17日間で「金比羅船511隻、乗船客3214人」が多度津の桜川河口の港を利用していたことが分かります。一日平均にすると30隻、190人の金比羅詣客になります。ちなみに一隻の乗船人数は平均6,3人です。以前にお話したように、18世紀後半当時は金毘羅船は小型船であったようです。
 金毘羅山名勝図会
金毘羅山名勝図会
  文政年間(1818年~31)年に、大原東野が関わって出された「金毘羅山名勝図会」には、次のように記されています。
 (上巻)又年毎の大祭は、十月十日、十一日、又、三月、六月の十日を会式という。丸亀よりも多度津よりも参詣の道中は畳を布ける如く馬、升輿の繁昌はいうもさらなり。
 (下巻)多度津湊上只極壱岐守の御陣屋有此津も亦諸国よりの参詣の舟入津して、丸亀におなじく大都会の地にして、舟よりあがる人昼夜のわかちなし。
丸亀と同じく金毘羅詣で客で賑わう港町であることが記されて、次のような絵図も載せられています。

多度津港 桜川河口港
桜川河口の多度津港 金毘羅山名勝図会

この絵図にも桜川沿いに多くの船が係留され河口一帯が港の機能を持っていたことがうかがえます。また川沿いには蔵米館や倉庫が林立している様が見えます。桜川沿いに平行に街並みは形成されていたこともうかがえます。

19世紀に入ると、十返舎一九の弥次喜多コンビも丸亀港経由で金毘羅さんにお参りするように、金毘羅詣客が激増します。

丸亀港2 福島湛甫・新堀湛甫
丸亀の福島湛甫と新堀湛甫

そのため丸亀藩は新たに福島湛甫を建設し、受入体制を整えます。しかし、それも30年もしないうちにオーバーユースとなり、新堀湛甫を建設します。それほど、この時期の参拝客の増加ぶりは激しかったようです。そのような繁盛ぶりを背景に金毘羅さんは三万両の資金を集めて金堂新築を行うのです。
 一方、多度津に陣屋を構えたばかりの多度津藩も、大きな投資を行います。それが多度津湛甫の建設です。建設資金は、一万両を超えるもので、この額は多度津藩の1年の予算額に相当するものでした。親藩の丸亀藩からは「不相応なことはやめとけ」と、云われますが強行します。
天保9年 1838 多度津港新湛甫完成。
天保11年1840 多度津須賀に石鳥居建立。
弘化2年 1845 金毘羅金堂、全て成就。
安政4年 1857 多度津永井に石鳥居建立。 
  天保九(1838)年に完成した成したのが多度津湛甫です。9年後の弘化四(1847)年刊の「金毘羅参詣名所図絵」には、多度津湛甫がきれいに描かれています。

多度津湛甫 33
多度津湛甫 弘化四(1847)年刊の「金毘羅参詣名所図絵」

ここからは①の桜川河口の西側に堤防を伸ばし、一文字堤防などで港を囲んだ多度津湛甫の姿がよく分かります。桜川と隔てる堤防の上に船番所が設けられています。船番所は現在の多度津商工会議所付近になるようで、ここで入遊行船や上陸者を管理していたようです。新しく作られた港についてはよく分かるのですが、この絵図は多度津の街並みや、桜川河口の旧港は範囲外で知ることが出来ません。多度津の街並みについては、先ほどの絵図に頼るほかないようです。
  話が横道に逸れて今しました。もとに返って多度津港と金毘羅街道をみていくことにします。
多度津金毘羅案内図 多度津拡大

 多度津港に上陸した参詣客達は、金毘羅大権現の潮川神事が行われる須賀金毘羅宮を左手に見ながら金毘羅山への道を進みはじめます。須賀金毘羅宮には、多度津旧港周辺に寄進されていた常夜燈がすべて集まられているようです。門前町(本通り一丁目)を、まっすぐ南進すると桜川の川端に出ます。

DSC06360
多度津本町橋
ここが現在の本町橋です。ここにはかつては、多度津街道最古の燈籠(明和六年(1796)や丁石八丁跡などが立っていたようです。
ここを右に折れ川端道を進むとすぐに鶴橋に出ます。
DSC06385
多度津鶴橋
ここに弥谷道と金毘羅道に分かれる道標がありますので、ここが金毘羅道の起点と研究者は考えているようです。
DSC06382
鶴橋の道標 右いやだに寺 左 こんぴら
  
鶴橋から金毘羅街道を100m程行くと次のようなモニュメントが建っていました。
①寛政六年(1794)に、雲州松江の金毘羅信者講が寄進した明神造大鳥居
②天保十一年(1840)に、芸州広島廻船方の鶴亀講寄進)の一対の燈寵
この絵図の中にも①の鶴橋の鳥居は描かれています。この鳥居は、寄進者のなかに「雷電為右衛門」等力士の名があるので雷電鳥居とも呼ばれていたようです。
DSC06308
雷電鳥居 現在は桃陵公園の登坂に移転
現在は、鳥居・燈寵とも西の桃陵公園の登坂の途中に移転されています。
DSC06310
雷電鳥居の東柱

東柱の寄進者氏名 松江世話人
    一 段 目
左官文三良 奥屋伝十 渡屋勘助  内崎屋六左衛門 中條正蔵  魚屋利兵衛 野自村久七 同村興三右衛門 内田屋新吉 畳屋茂助 木挽新蔵
    二 段 目
 廃屋茂吉 同 久五良 木村屋仙次郎  肥後屋喜右衛門 
自潟魚町 講 
同町石井戸講  古潭屋嘉兵衛  末次屋新三良 
田中屋次平  
高河屋彦三郎講 大芦屋次兵衛  船大工喜三八講 
坂井七良太 市川善次 川津屋善七講 津田海道講 高見亦吉 高見清二良 
    三 段 目
 乃木村甚蔵 隠部村嘉右衛門 福富村祖七 大谷村定右衛門 木挽覚三郎  筆屋祐兵衛 櫛屋平四郎 弦師屋忠右衛門 鍛治文三良講 荒嶋屋太五良 東海屋友八 木挽惣兵衛 吉田屋久兵衛  山根屋勘兵衛 張武浅吉講 久家太十 持田屋十左衛門  同 十五良 間村舞申 肝坂嘉左衛門
    四 段 目
 白潟上灘町講 寄進某 同町講中 南天神町講 湯町屋松之助講
 木挽惣兵衛講
 乃木屋伝兵衛講  古浦屋喜助講 伊予屋丁中 上灘町講中 寺町講中 
 筆屋文吉講
 灘町中組講 同町新講中 左官文吉講 名和野屋善兵衛 三
 吉屋覚兵衛 灘町講中
 福田善九郎 門脇七良左衛門
   五 段 目
 水浦屋五兵衛講  棟物屋兵吉講 三代屋伝之助講  坂井屋又右衛門講 本湯屋勝太良講  田中屋庄兵衛講 古浦屋定七講 西尾屋久助講 山本屋文吉講 和田見講中 川津屋善助 森脇屋伝 加茂屋次右衛門  木村屋藤右衛門 野波屋嘉左衛門 木挽政之助 八百屋七兵衛 八軒屋丁講 岩倉祖吉 布屋嘉兵衛
寛政の名力士「雷電為右衛門」は、鳥居の足下辺りに刻まれています。
  多度津の鶴橋から金毘羅までは、善通寺を抜けて約3里(12㎞)の距離でした。これを多度津街道と呼んでいました。この街道については、また別の機会に紹介します。
  
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
  香川県歴史の道調査報告書第5集 金毘羅参拝道Ⅰ 多度津街道 調査報告書 香川県教育委員会 1992年
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