瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:多度津観音院

 京都大学蔵の来田文書(天文14年1545)には、丸亀平野の熊野行者の残した次のような「道者職売券」があります。

「右の①御道者、②代々知行候と雖も、急用有るに依りて米弐百石、③堺伊勢屋四郎衛門に永代替え渡し申す処、実正明白也」

意訳変換しておくと
「右の御道者(熊野行者)は、②代々にわたって以下の知行(かすみ)を所有してきたが、急用に物入りとなったので米二百石で、堺伊勢屋四郎衛門に永代に渡って売り渡すことになった。実正明白也」

①「右の御道者」とは、熊野三山に所属する山伏で熊野道者(行者)のことです。

熊野牛王(クマノゴオウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
熊野牛王(護王ごおう)
熊野道者は熊野信仰護符の熊野牛王(護王ごおう)を配って全国を廻国していました。熊野行者の行動範囲や信者組織は「なわばり化」して、財産となり売買の対象にもなっていたことは以前にお話ししました。それは「知行」とか「かすみ」と呼ばれるようになります。熊野行者たちも、時代が下ると熊野を離れ有力者を中心に元締めのような組織が形成されるようになります。この史料で登場するのが③「堺の伊勢屋四郎衛門」です。
この売買証文は②「代々知行候と雖も、急用有るに依りて米式百石」とあるので、自分の「かすみ」を「米2百石」で「永代替え渡し(売買)したことが分かります。
それでは、売り買いの対象となった「かすみ」はどこなのでしょうか?この文書のはじめに、次のような地名が出てきます。
一、岡田里一円
一、しもとい(?)の一円
一、吉野里一円から、 池の内(満濃池跡の村)
……大麻、中村、弘田、吉原、曼茶羅寺、三井之上、碑殿と続いて
一 山しなのしよう里(山階、庄)一円。 
一、見井(三井)の里一円。……此の外、里数の附け落ち候へども我等知行の分は永々御知行有るべく候」
出てくる「かすみ(なわばり」を示しておくと、
①鵜足郡の岡田(丸亀市綾歌町)
②那珂郡の吉野・池の内(まんのう町)
③多度郡の大麻、中村、弘田、吉原、曼茶羅寺(善通寺)
④三井の上、碑殿・山階、庄、三井一円(多度津町)
  残念ながら 「しもとい(?)」は私には分かりません。教えて頂けるとありがたいです。(コメント欄で、次のようにおしえていただきました。

しもとい ですが、鵜足郡土居村ではないでしょうか。市井では「しもどい」とも言われていたと西讃府志にあるそうです(コトバンク出展)

ここからは、阿野郡土居町→ 鵜足郡岡田 → まんのう→善通寺→多度津と、この熊野行者が丸亀平野一円の信者の家を一軒一軒門付けしていたことがうかがえます。ここで気になるのが、以前にお話しした牛頭権現のお札を配っていた滝宮牛頭天王(滝宮神社)へ念仏踊りを奉納していたエリア(坂本周辺・綾北條・綾南條・那珂郡七箇と重ならないことです。熊野行者と滝宮牛頭天王の社僧たちは、テリトリーを「棲み分け」ていたのかもしれません。

 このように遊行者は、熊野道者だけではありませんでした。
A 高野山の護摩の灰を持った高野聖(弥谷寺拠点)
B 念仏札を渡す時衆(宇多津の郷照寺拠点)
C 伊勢神官の御師
D 牛頭天王のお札を配る社僧(滝宮神社(滝宮の牛頭天王拠点)拠点
E 金昆羅道者  (近世以降の金毘羅大権現)
などへと、さまざまに姿を変えながら讃岐の里に現れます。
 振り返れば古代の仏教は、鎮護国家仏教で国家や貴族を対象としたもので、庶民は対象外でした。古代の国分寺や有力者の氏寺は、庶民の現世利益や祖先供養には見向きもしませんでした。官寺や大寺の手から見棄てられた庶民達に救いの手を差し伸べたのは、廻国の遊行者だったことは以前にお話ししました。つまり、中世の庶民は、廻国遊行者によって始めて仏教と出会ったことになります。

この証文が出された天文14年(1545)という時代は、戦国時代のまっただ中です。戦乱の中で熊野詣が困難になって、熊野行者達の経済基盤が崩されていたとされます。熊野行者の丸亀平野での活動が停滞していく中で、次なる遊行者が登場してきます。彼らの活動を、多度津で見ていくことにします。テキストは「多度津町史914P 村の寺」です。
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多度津葛原の浄蓮寺の由緒を、多度津町史は次のように記します。

葛原下所に一人の行者がどこからかやってきた。村外れの高園と言う少し高みに小さな家を建て、村の死人の世話をし墓守りをして、いつしか村人となった。鉢破れという地名はこれと関係があるかもしれない。その人は一代で終わった。人々はそのような者を待ち望むようになっていた。後、村の有力者の身寄りの者と称するものが、その家に寄食して、お念仏の教えを広め始めた。そしてみんなの合力を得て庵を建てた。それが葛原の浄蓮寺の起源で、その人は播州の赤松円心の子孫の田中可貞である。

ここからは次のようなことが分かります。
①行者が葛原下所に定着し、死人供養と墓守を行うようになった
②その後、有力者の家に寄宿した行人が念仏信仰を広めた
③村人が合力して建てた庵が浄蓮寺の起源である。
④葛原には念仏阿弥陀信仰の信者がいたこと。これが賀茂神社の念仏踊りにつながること。
  お墓のお堂や社に住み着き、南無阿弥陀仏をとなえ死者供養を行ったのは、諸国を廻る聖達であったようです。これが、庶民が聖を受けいれていく糸口にもなります。そのような聖たちが拠点としたのが道隆寺・弥谷寺や宇多津の郷照寺でした。ここからは、念仏聖たちの痕跡がいろいろな形で見えてきます。多度津の聖達の拠点であった道隆寺を見ておきます。 
多度津 堀江 明治22年
堀江周辺 明治22年

道隆寺のあった堀江の中世の地形復元を見ておきましょう。
「讃陽綱目」は、次のように記します。

地蔵鼻堀江村浜にあり。ここ山もなく岳もなく只平砂磯なるに海中に出張る事夥し。東は乃生(のお)岬、西は箱の岬を見通す。弘法大師作地蔵尊を安置す。芳々以って名高しと。されば砂磯の突出甚だ長かりしならんも自然の風波に浚はれて遂に其の跡を失ふに至り、地蔵尊は避して八幡神社境内南東隅にあり。牡蝋殻(かきがら)地蔵尊として現存し参詣者多し。

意訳変換しておくと
地蔵鼻の堀江村に浜がある。ここには山もなく岳もなく、砂浜が平磯となって海に突きだしている。ここからは、東の乃生(のお)岬、西の箱の岬(庄内半島)が見通せる。そして、弘法大師自作の地蔵尊が安置されていて、信仰を集めている。しかし、風波に洗われて、地蔵尊が埋まってしまうこともあった。そこで、地蔵尊を近くの(弘浜)八幡神社境内の南東隅に移した。これは、牡蝋殻(かきがら)地蔵尊として現在でも参詣者が多い。。

堀江港復元図2
          道隆寺と堀江湊の中世復元図
ここからは次のようなことが分かります。
①堀江は海に突き出した浜(砂州)の上にあった。
②砂州の戦端に、弘法大師自作の地蔵尊が立っていた
③近くには弘浜八幡神社があった。

①の砂洲は桜川河口から東に伸びていたもので、川を流れてきた土砂が、潮流の関係で堆積してできたものと研究者は考えています。どちらにしても地形復元すると、道隆寺のすぐ北側までは海が入り込んできていたことが分かります。ここでは古代の堀江の海岸は、桜川河口から東に伸びる砂丘のような岬と、そこから一文字堤防のように東に伸びる砂州の間に、切れ目があり、背後に潟湖をあったようです。
また、高野山の高僧が讃岐流刑中に著した「南海流浪記」宝治2年(1248)の記に、善通寺の「瞬目大師御影」の模写のために京都から派遣された仏師の到着を次のように記します。

「仏師四月五日出京、九日堀江津に下着す」

仏師は4月5日に京都を出発して、海路で讃岐に向かい9日に、堀江港に到着しています。ここから13世紀半ばの多度郡の港は、堀江だったことがうかがえます。古代の多度郡の湊は、弘田川河口の白方湾でした。それが堆積作用で使用できなくなった中世になると多度郡の湊として機能するようになるのが堀江です。その堀江湊の管理センターが道隆寺です。
以前に中世の道隆寺について次のようにお話ししました。
①中世の堀江湊は、地頭の堀江氏(本西氏)が管理していた。
②13世紀末に衰退していた道隆寺の院主に紀州根来寺からやってきた円信が就任した
③円信は堀江氏を帰依させ、道隆寺復興計画を進めた
④新しい道隆寺は、入江奥の堀江氏の居館のそばに整備された。
⑤居館と伽藍が並び立つようなレイアウトで、堀江氏の氏寺としての性格をよく示したいた。
⑥道隆寺は、根来寺の「瀬戸内海 + 東シナ海」の交易ネットワークの一拠点として繁栄した。
⑦道隆寺は、経典類も数多く集められ、学問所として認められ、多くの学僧が訪れるようになり、地域の有力寺院に成長していく。
⑧西讃岐守護代香川氏も菩提寺に準じる待遇を与えた。
⑨道隆寺には、廻国行者や聖達がの拠点として、塩飽から庄内半島にかけての寺社を末寺化した。
こうして道隆寺を拠点とする高野山の念仏聖達は周辺の村々への「布教活動」を行うようになります。
 堀江の墓地について、多度津町史は次のように記します。

堀江と観音院
堀江の弘浜八幡宮と観音院の間にある墓地(観音堂)
堀江集落の中央に観音堂があり、えんま像が祀られてる。(中略)
在郷風土記 多度津
堀江の観音堂
堀江の古くからの家は、観音堂に祖先の古い墓を持っている。墓地の裏は(かつては)すぐ海である。表側では少し離れて西に弘浜八幡宮があるが、海側から見るとすぐ近くである。墓地に観音さんを祭って堂を建て、それが寺になったのが観音院で、今は少し離れて東に大きな寺となっている。観音院の本尊は観音の本仏である阿弥陀仏である。寺号の伊福寺のイフクという言葉も、土地から霊魂が出入りするという信仰に基づくものと思われる。(弘浜八幡)宮と墓と寺(観音院)と一直線に結んで町通(まつとう)筋という、広い道があり、堀江集落の中心をなしている。両墓制から生まれた寺は心のよりどころとして、仏を祀るところともなる。この種の寺は民衆の寺である。 
ここからは次のようなことが分かります。
①堀江集落の墓地が海際の砂州に作られ、そこに観音堂が建てられたこと
②それが後には、現在の観音院に発展していったこと
③神仏混淆時代には、神社も鎮霊施設として墓地周辺にあったこと
ここでは先祖供養の墓地に、観音堂が建てられ、それがお寺に成長していくプロセスを押さえておきます。

堀江の墓域と観音院の関係と同じような形が見えるのが、多度津の摩尼院や多聞院です。多度津町史は次のように指摘します(要約)。
①桜川の川口近くの両側は須賀(洲家)という昔の洲で、中世の死体の捨て場であった。
②念仏信仰の普及と共に、そこが「埋め墓」や「拝み墓」が続くエリアになった。
③桜川の北側(現JR多度津工場)あたりにには、光巌寺という小庵があり、そこへの参り道に架かるのが「極楽橋」。
④極楽橋の南の袂に観音堂、その観音堂から発展したのが摩尼院や多門院。
明治の多度津地図
多度津陣屋は、墓地の上に築かれた
 ちなみに摩尼院の本尊は、地蔵の石仏のようです。石仏が本尊と云うこと自体が、先祖供養の民間信仰から生まれた「庶民の寺」から発展したお寺だと多度津町史は指摘します。
  ここでは、桜川河口の砂州上に広がる両墓制の墓の鎮魂寺として生まれ、発展してきたのが摩尼院や多門院であることを押さえておきます。
摩尼院
摩尼院(多度津)
 最後に、道隆寺を拠点とした念仏聖達の活動をまとめておきます。
⑩高野山系の念仏聖達は、道隆寺を拠点に周辺の村々に阿弥陀信仰を拡げ信者を獲得するようになった。
⑪念仏聖の中には、村々の埋葬や祖先供養を行いながら庵を開き定着するものも表れた。
⑫その活動拠点が、多度津の観音院・摩尼院・多門院、そして葛原の浄蓮寺である。
⑬念仏聖は、高野山では時宗化しており、讃岐でも踊り念仏を通じて阿弥陀信仰を拡げるという手法を用いた。
⑭そのため多度津周辺では、踊り念仏が盆踊りなどで踊られるようになった。
⑮それが伝わっているのが賀茂神社の念仏踊りである。

多度津で南鴨念仏踊り/子どもたちが恵みの雨祈る | BUSINESS LIVE
加茂念仏踊り

高野聖は宗教者としてだけでなく、芸能プロデュースや説話運搬者
  の役割を果たしていたと、五来重氏は次のように指摘します。

(高野聖は)門付の願人となったばかりでなく、村々の踊念仏の世話役や教師となって、踊念仏を伝播したのである。これが太鼓踊や花笠踊、あるいは棒振踊などの風流踊念仏のコンダクターで道化役をする新発意(しんほち)、なまってシンボウになる。これが道心坊とも道念坊ともよばれたのは、高野聖が高野道心とよばれたこととも一致する。

地域に定着した高野聖は、村祭りのプロデュースやコーデイネイター役を果たしていたというのです。風流系念仏踊りは、高野聖たちの手によって各地に根付いていったと研究者は考えています。

以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「多度津町史914P 村の寺」
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