瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:多度郡弘田郷

空海の本籍地については、延暦24年(805)年9月11日付けの大政官符が根本史料とされます。

空海 太政官符2
空海の太政官符        
そこには、次のように記されています。

  留学僧空海 俗名讃岐国多度部方田郷、戸主正六位上佐伯直道長、戸口同姓真魚

ここからは次のようなことが分かります。
①空海の本籍地が讃岐国多度郡万田郷(かたたのごう)であること
②正六位上の佐伯直道長が戸籍の筆頭者=戸主で、道長を戸主とする戸籍の一員(戸口)であったこと
③空海の幼名が真魚であること
ここで問題となるのが本籍地の郷名・方田郷です。この郷名は、全国の郷名を集成した「和名類家抄」にないからです。
讃岐の郷名
讃岐の古代郡と郷名(和名類家抄)多度郡に方田郡は見えない

そのため従来は弘田郷については、次のように云われてきました。

「和名抄」高山寺本は郷名を欠く。東急本には「比呂多」と訓を付す。延暦二四年(八〇五)九月一一日の太政官符(梅園奇賞)に「留学僧空海、俗名讃岐国多度郡方弘田郷戸主正六位上佐伯直道長戸口同姓真魚」とあり、弘法大師は当郷の出身である。
                              平凡社「日本歴史地名大系」

太政官符に「方田郷」とあるのに「弘田郷」と読み替えているのは、次のような理由です。

方田郷は「和名類来抄」の弘田郷の誤りで、「方」は「弘」の異体字を省略した形=省文であり、方田郷=弘田郷である。方田郷=弘田郷なので、空海の生誕地は善通寺付近である。

こうして空海の誕生地は、弘田郷であるとされ疑われることはありませんでした。しかし、方田郷は弘田郷の誤りではなく、方出郷という郷が実在したことを示す木簡が平成になって発見されています。それを見ていくことにします。
讃岐古代郡郷地図 弘田郷
讃岐古代の郷分布図

善通寺寺領 良田・弘田・生野郷
中世の弘田郷

弘田町
現在の善通寺市弘田町

.1つは、平成14年に明日香村の石神遺跡の7世紀後半の木簡群のなかから発見されたもので、次のように墨書されています。

方田郷

「多土評難田」        → 多度郡かたた
裏  「海マ刀良佐匹マ足奈」    → 「海部刀良」と「佐伯部足奈」
「多土評」は多度郡の古い表記で、「難」は『万東集』で「かた」と読んでいるので「難田」は「かたた」と読めます。そうすると表は「讃岐国多度部方田郷」ということになります。裏の「マ」は「部」の略字で、「佐匹」は「佐伯」でしょう。つまり、ここには「海部刀良」と「佐伯部足奈」二人の人名が記されていることになります。そして、表の地名は二人の出身地になります。

もう一つは、平成15年度に発掘された木簡で、これも七世紀後半のものです。

表  □岐国多度評

「評」は「郡」の古い表記なので、これも「讃岐国多度郡方田郷」と記されていたようです。この二つの木簡からは、方田郷が実在したことが裏付けられます。今までの「弘田郷=方田郷」説は、大きく揺らぎます。
.1善通寺地図 古代pg
善通寺周辺の遺跡

そうすると方田郷は、いったいどこにあったのでしょうか。
ヒントになるのは、普通寺伽藍の西北の地は、現在でも「かたた」と呼ばれていることです。
方田郷2

善通寺市史第1巻には「方田横井」碑が載せられていて、「方田」という地名が存在したことを指名しています。そうだとすると、律令時代の佐伯一族は、善通寺伽藍の周辺に生活していたことになります。
 古墳時代の前方後円墳の大墓山や菊塚古墳の首長達は、旧練兵場遺跡に拠点を持ち、7世紀後半なるとに最初の氏寺として仲村廃寺(伝導寺)を建立したとされます。それが律令時代になって、南海道が善通寺を貫き、条里制が整えられると、それに合わせた方向で新しい氏寺の善通寺を建立します。その時に、住居も旧練兵場遺跡群から善通寺西方の「方田郷」に移したというシナリオになります。

古代善通寺地図
         佐伯氏の氏寺 善通寺と仲村廃寺(黄色が旧練兵場遺跡群)

 しかし、これには反論が出てくるはずです。なぜなら南海道は現在の市役所と四国学院図書館を東西に結ぶ位置に東西に真っ直ぐ伸びて建設されています。そして、多度郡の郡衙跡とされるのは生野町南遺跡(旧善通寺西高校グランド)です。佐伯氏は多度郡郡長であったとされます。南海道や郡衙・条里制工事は佐伯氏の手で進められて行ったはずです。郡長は、官道に面して郡長や自分の舘・氏寺を建てます。そういう眼からするとを郡衙や南海道と少し離れているような気がします。

生野本町遺跡 
生野本町遺跡 多度郡衙跡の候補地


 ちなみに現在の誕生院は、その名の通り空海の誕生地とされ、伝説ではここで空海は生まれたとされます。この問題を解くヒントは、空海が生まれた頃の善通寺付近には、次のふたつの佐伯直氏が住んでいたことです。
1空海系図2

①田公 真魚(空海)・真雅系
②空海の弟子・実恵・道雄系
①の空海とその弟の真雅系については、貞観3(861)年11月11日に、空海の甥にあたる鈴伎麻呂以下11人に宿禰の姓が与えられて、本籍地を京都に遷すことが認められています。しかし、この一族については、それ以後の記録がありません。歴史の中に消えていきます。
これに対して、②の実恵・道雄系の佐伯直氏については、その後の正史の中にも登場します。
それによると、空海・真雅系の人たちよりも早く宿禰の姓を得て、本籍地を讃岐から京に移していたことが分かります。ここからは、佐伯直氏の本家筋に当たるのは、記録の残り方からも実忠・道雄系であったと研究者は考えています。どちらにしても空海の時代には、佐伯直氏には、2つの流れがあったことになります。そうすれば、それぞれが善通寺周辺に拠点を持っていたとしても問題はありません。次回は、ふたつの佐伯氏を見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
 武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く56P 二つの佐伯直氏

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国衙によって集められた随心院の善通寺領一円保は、善通寺と曼荼羅寺の2ヶ所に分かれていました。これは郷でいうと、多度郡の弘田、仲村・良(吉)原の三郷にまたがっていたことになります。そのうち弘田郷から一円保を除いた残りの部分は、藤原定家の所領だったようです。
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藤原定家といえば、「新古今和歌集」の撰者で、当代随一の歌人として知られている人物です。

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明月記
定家の日記「明月記」には、寛喜二年(1230)閣正月12日に次のように記されています。
讃州弘田郷の事、彼郷公文男左衛門尉信綱請く可き由申す。何事在る哉の由相門の命有り。左右只厳旨に随うの由答え申しおはん了ぬ。

意訳変換しておくと
讃岐弘田郷の公文の息子左衛門尉信綱が弘田郷の請所を希望しています。どう思うかと相門からきかれたので、相円の意向に随う由を答えた

ここでの登場人物は、「讃岐の信綱・藤原定家・相門」の3人です。「信綱」は弘田郷の請所を希望しています。請所というのは荘園の役人などが領主に対して一定の年貢納入を請負う代りに、領地の管理を任される制度です。信綱は弘田郷の在地武士であることが分かります。
  それでは、定家に相談してきた「相門」とは誰なのでしょうか」

相門とは、貞応2年(1323)まで太政大臣だった西園寺公経のことのようです。公経は、源頼朝の姪を妻にもち、鎌倉幕府と緊密な関係にありました。承久の乱後に幕府の勢力が朝廷でも強まるようになると、太政大臣に任ぜられ権勢をふるうようになります。定家は、公経と姻戚関係にあった上に、短歌を通じたサロン仲間でもあり、その庇護をうけていたことがこの史料からは分かります。

花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり - たけじいの気まぐれブログ
           西園寺公経=相門

 定家は信綱の請負を任命する立場で、弘田郷の年貢を受け取る立場で、弘田郷の領主であるようです。が、ここでは相談を受ける立場で、最終決定権は相門(西園寺公経)にあったようです。定家の上には、さらに上級領主として西園寺公経がいたのです。請所選定で、西園寺公経に「信綱でよいか」と相談され「御随意に」と応えたということなのでしょう。
地頭請所

 当時は、請所になると次第に請負った年貢を納めなくなり、実質的に領地を奪ってしまう「悪党」が増えてきた時代です。
ところが信綱は、約束に忠実だったようです。翌年の寛喜三(1231)年正月19日の「明月記」に次のように記されています。

此男相門自り命ぜらるる後、弘田事虚言末済無し。田舎に於ては存外の事歎。                  

意訳変換しておくと
(弘田郷公文の息子信綱)は、相門から請所を命ぜられた後、弘田郷の事に関して虚言なく行っている。田舎においては近頃珍しい人物だ。                  

定家は他の所領で在地武士の押領に手をやいていたようです。讃岐の信綱が約束を守ることに驚いているようにも思えます。弘田郷公文の信綱は、もう一度明月記に登場してきます。

明月記」の寛喜二(1230)年10月14日に、次のように記されています。
  讃岐佛田一村國検を免ぜらる可きの由信綱懇望すと云々。昨今相門に申す。行兼を仰せ遣わし許し了ぬ由御返事有り。

意訳変換しておくと

  讃岐の弘田郷の佛田一村での国衙による検注を免除していただきたいとの願いが請所の信綱からあったので、相門(西園寺公経)に伝えた。行兼を派遣して免除することになったという返事を後ほど頂いた。

 この年の10月に請所となった信綱からの「検注免除」依頼を、西園寺公経に取り次いだところ、早速に免除完了の報告を得ています。「鶴の一声」というやつでしょうか、こういう口利きが支持者を増やすのは、この国の国会議員がよくご存じのことです。
 ここからは弘田郷は、この時点では国衛領であったことが分かります。その国検を免じることができる立場にあった公経は、当時讃岐国の知行国主だったと研究者は推測します。そうすると定家は、知行国主の公経(あるいは道家)から弘田郷を俸禄的に給与されていたことになります。つまり彼の弘田郷領主としての支配権は強いものではなく、現地の信綱から送ってくる郷年貢の一部を受取るだけの立場だったことになります。そのため讃岐の信綱の公文職や請所の任命も、実際は公経が行っていたのです。藤原定家が世襲できるものではなかったのです。定家の弘田郷領主の地位も一時的なもので、長続きするものではなかったと研究者は考えています。

弘田町
善通寺弘田町
以上をまとめておくと
①定家の日記「明月記」の1230年正月の記録には、弘田郷領下職領の請所の任命の記事がある。
②そこからは定家が弘田郷の領下職を持っていたことが分かる。
③しかし、その権利は永続的なものではなく当寺の讃岐国主の西園寺公経から定家が俸給的に一時的に与えられたもので、永続的なものではなかった。
④請所に任じられた弘田郷信綱は信綱は、年貢をきちんと納める一方、国衙の検注免除も願いでて実現させている
承久の乱後に地頭による押領が進む中で、都の貴族たちが年貢徴収に苦労していたことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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