瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:多度郡郡衙

前回は筑前志摩郡の郡司・肥君猪手の戸籍を見ました。

筑前国嶋郡の大領(郡司)・肥君猪手の家族構成

志摩郡の郡司の戸籍には124人もの構成員が記されていました。ここからは、当時の家は大家族制であり、多度郡の郡司とされる佐伯直氏も、このくらいの
規模であったことがうかがえます。さて、それではその居館はどうであったのでしょうか?   今回は古墳時代後期(6世紀半ば)の有力者の居館を見ていくことにします。
古墳時代の家族構造がよく分かるのは、6世紀半ばに榛名(はるな)山の噴火で埋もれてしまった群馬県黒井峯(くろいみね)遺跡 です。
黒井峯・西組遺跡復元模型4

噴出した厚さ2メートル前後の軽石層下に埋没した集落跡が出てきています。黒井峯遺跡では、村を埋めた軽石層下の調査によって、村の構成や建物の構造、さらには屋根の形の他に、次のような事が明らかにされました。

群馬県黒井峯西組遺跡の屋敷地(石井克己・梅沢垂昭『黒井峯遺跡』
        群馬県黒井峯西組遺跡の屋敷地(石井克己・梅沢垂昭『黒井峯遺跡』)

黒井峯・西組遺跡復元模型2
上記復元模型
①垣根で囲まれた屋敷地
②数棟の平地住居や納屋・作業小屋・掘立柱の高床(たかゆか)倉庫・家畜小屋
③踏み固められた中庭のような作業空間(広場)
④畦をもつ畠
⑤垣根の外の大型の竪穴住居
⑥垣根の外には水場や村の祭祀場
⑦それぞれ道でつながり、さらに村の周囲には畠、低地には水田
これを見るとひとつの「ムラ」のように見えます。しかし、前回見た戸籍に登場する「戸」の実態がこの「ムラ」だと研究者は指摘します。律令制にもとづく支配の最小単位は「戸」とよばれ、その内部に戸主の下に、親族のほか、非血縁の寄口(きこう)や奴婢(ぬひ)も含んでいました。
そのため全体の構成員数は、平均30人前後で、志摩郡の郡司の戸は124人でした。このような構成員が、この空間の「平地式建物」の中に分散して住んでいたのです。ある意味では、ここに見える「ムラ」が生産単位であり、消費単位で「郷戸」であったのです。
肥君猪手の戸籍

 7世紀の律令政府は、このムラを「戸」と名付けて課税単位としたようです。そのためにムラ単位で戸籍をつくり、この単位で課税を行いました。私はかつては「公地公民」というのは、小家族に均等に口分田を与える平等主義にもとづく「疑似社会主義的政策」と早合点していたことがありました。しかし、実態はちがいます。このような血縁関係で結ばれた生産単位を「戸」として、戸籍を作り、そこに様々な課税と、一戸に一人の「国民皆兵制」を課したと捉えることもできます。

戸籍と郷戸

整理しておきます。
口分田も「家(小家族)」毎ではなく、一戸(一族)毎にまとめて支給されました。全部で何町何段という形でやってきた土地を、自分たちで分けろということです。そして秋が来て税の取り立ての際には、戸単位に徴税します。戸主と呼ばれる戸長が税を集めました。納めることのできない人が出たら、戸主が「今回は、わしが代わりに納めておこう」という感じです。役人にしてみれば、とにかく税が納まればいいし、口分田は戸毎に支給するので仲間内(戸内)で分けてくれたらいいんだというわけです。これで入りと出とが決まります。
 もともと生活の単位、地域の人々の結び付きの単位があったのです。その戸単位に、土地を分けたり税を集めたりするシステムです。地方役所としては、一族や地域の人を束ねて決められたものを納めてくれればいいわけです。こうして、だんだん人が増えてきて五十戸ぐらいになったら郷が成立します。その郷名は、代表的な一族の名前を付けたり、その土地で昔から呼ばれている地名が付けたりしたようです。復元模型に登場する柴垣に囲まれた数軒の家屋は、一つの単位集団(複数の家族)が生活するワンセットで、律令時代には「戸」として掌握されたことを押さえておきます。
別の角度から見ておきましょう。

黒井峯・西組遺跡復元模型
群馬県黒井峯西組遺跡の屋敷地

①隣接する地域に畑や小屋があり、他の一角には祭祀場とみられる区域がある。
②住民の家屋は竪穴住居と平地住居とがあり、両者ともカマドが付設されている
③竪穴住居は、地表に屋根が密着し煙突がみえる。家屋本体はすっぽりと地下に納っている。
④外周の畑地に接して、物置、食糧庫などの小屋がある。
⑤馬の足跡や家畜小屋もみつかっている。
こうしてみると、母屋の竪穴住居、〝離れ〟の平地住居、穀物倉庫、天屋の作業場や器材置場、家畜小屋、野菜畑、祀祠など、米づくりためのの屋敷原形が古墳時代にはできあがっていたことが分かります。また、馬+カマド+半地下住居=渡来系住人の家屋であったことがうかがえます。

群馬県黒井峯西組遺跡の屋敷地5

群馬県黒井峯西組遺跡の屋敷地4

このムラ=屋敷=戸をベースに、讃岐の空海の実家佐伯直氏の家を想像しておきます。

①百人を超える大家族構成でも大邸宅であったわけではなく「母家+いくつもの離れ」で構成されていたこと
②高床式の穀物倉庫が何棟もあったこと
③水が湧き出す湧水があり、水の儀式の祭場があったこと
④周囲に畑や水田が拡がっていたこと

それではどこに佐伯直氏の屋敷はあったのでしょうか?

旧練兵場遺跡 詳細図
善通寺周辺遺跡図
①病院地区が平形銅剣をシンボルとする「善通寺王国」の拠点エリア
②古墳時代になると東側の試験場地区に遺跡が多くなる
③この勢力が6世紀末に、横穴石室を持つ前方後円墳・大墓山古墳と菊塚古墳を造営
④続いて7世紀後半に仲村廃寺を造営(この時点では、南海道・条里制未着工)
⑥南海道が伸びてきた以後に、その近くに2町四方の善通寺建立
⑦四国学院の南側に、多度津郡衙建設
これらの事業を進めたのが佐伯直氏と研究者は考えています。そして、佐伯直氏が国造から多度郡郡司へと成長していきます。そうすると、③の時点での佐伯直氏の舘は、仲村廃寺周辺にあった。そして、⑥⑦の白鳳時代には、郡衙周辺に舘は移ったと私は考えています。
以上を整理しておきます。
①群馬の黒井峯遺跡からは、垣根で囲まれたムラが出てくる
②このムラが当時の最小の生産単位であり、消費単位でもあった。
③首長を中心に血縁関係で結ばれたいくつかの家族が、各家屋に分散して生活していた。
④7世紀の律令国家は、このムラを課税・均田制支給、徴兵の最小単位としてとらえようとした。
⑤そのためムラの首長を戸主とし、責任者とした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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  ユネスコ登録に向けて四国霊場の調査が進んでいます。その19冊目として、金倉寺の調査報告書が図書館に並んでいたので読書メモ代わりにアップしておきます。調査報告書の一番最初の「立地と歴史」の部分を読むのは、私にとっては楽しみです。それは近年の周辺の発掘調査で分かったことが簡略、かつ的確に専門家の目で記されているからです。調査書を読んだときには気づかなかったことが、その後に出された調査報告書の「立地と歴史」で気づいたり、理解できたりすることがあります。金蔵寺周辺は、高速道路や国道11号バイパスなどで線上に大規模な発掘調査が進められ、多くの遺跡が発掘され新しい発見が続いた所です。その知見が、どのように整理されているのか楽しみです。テキストは「四国八十八ケ所霊場七十六番札所金倉寺調査報告書 第一分冊 2022年 香川県教育委員会」です。
 研究者は、まず金倉寺周辺の条里型地割に注目します。
周辺の稲木北遺跡や永井北遺跡などでは条里制溝などが確認されています。そこからはこの地域で条里制工事が始まったのは7世紀末~8世紀初頭と研究者は考えています。丸亀平野に南海道が伸びてくるのもこの時期です。この南海道を基準に条里制工事が始められ、南海道沿いに郡衙や古代寺院が姿を見せるようになります。
丸亀平野条里制5
丸亀平野の条里制 金倉川沿いには空白地帯が拡がる
ところが上図のように善通寺から金倉寺、さらに多度津にかけての金倉川の周囲には、条里地割に大きな乱れが見られます。拡大して「土地条件図」で見てみると

金倉寺周辺の土地復元
金倉寺周辺の金倉川の旧河道跡
ここからは次のような情報が読み取れます。
①東側から北側一帯にかけて、旧金倉川の氾濫原であったことを示す地割の乱れが広がっている
②金倉寺西側の土讃線沿いには、旧河道を利用した上池、中池、千代池が連なる。
③これらの池沿いに北流する旧河道の地割の乱れは幅200~300mほどと大きい。
④金倉寺の南約800m付近にある金蔵寺下所遺跡では、弥生時代や奈良時代の旧河道が検出されている。
丸亀平野の条里制3

以上から「地形復元」してみると、金倉寺は東側の金倉川と西側の旧河道に挟まれた細長く紡錘状に伸びる微高地上に立地していたことが分かります。そして中世には西側の旧河道は埋没し、近世には金倉川の固定化が図られ、周辺の氾濫原は耕地化が進んだと研究者は考えています。多度津の葛原に小早川氏に仕えていた小谷氏がやってきて入植し、開拓したのもこの西側の旧金倉川跡だったようです。そして、水田開発が終わると、小谷家は水不足備えて千代池などを築造していきます。そういう意味では、古代の金倉寺は、金倉川の氾濫原の中の遊水地と化した大湿原地の中に位置していたと云えそうです。

善通寺遺跡分布図
善通寺市遺跡分布図(高速道路やバイパス沿いに発掘調査が進んだ)
次に金倉寺の古代の歴史的環境について見ていくことにします。
金倉寺の東方面には、弥生時代には中の池遺跡、龍川五条遺跡、五条遺跡などの環濠集落がありました。
丸亀平野の環濠集落
丸亀平野の環濠集落(想像図)
なかでも龍川五条遺跡は二重に環濠をめぐらした集落で、内側に竪穴建物と掘立柱建物の居住域があり、環濠の外に周溝墓や木棺墓の墓域や水田が拡がります。五条遺跡は龍川五条遺跡の北方300mに隣接し、ここにも二条の大溝跡がありました。この遺跡は龍川五条遺跡からの集落移転で成立したと研究者は考えています。それが中期なると、なぜか環濠集落は姿を消してしまいます。そして丸亀平野の中央部を避けて善通寺周辺の丘陵裾部に小規模な集落が点在するようになります。その核となるのが旧練兵場遺跡群です。ここには前期から始まって、古墳時代初頭まで長期間に渡って安定的な集落が続きます。
旧練兵場遺跡 吉野ヶ里との比較
旧練兵場遺跡は、「オトナと子どもの病院 + 農事試験場」で45万㎡と広大です。

旧練兵場遺跡 平形銅剣文化圏2

さらに弥生時代後期前半になると平形銅剣の中心として瀬戸内沿岸地域から多くの土器が搬入されています。終末期には大陸との交易を示す青銅鏡が出てきますし、集落内で鉄製品や朱の生産も行われていたことが分かっています。
旧練兵場遺跡群周辺の弥生時代遺跡
善通寺の旧練兵場遺跡群と周辺の弥生時代の遺跡分布
まさに讃岐最大の拠点集落であり、中国史書の「分かれて百余国をなす」のひとつである「善通寺王国」とも考えられます。丸亀平野だけでなく、備讃瀬戸における人とモノの集まる拠点として大きな引力を持っていたと云えます。そしてこの王国は、古墳時代から律令時代へと安定的に継続していきます。この子孫が後に氏寺としての善通寺を建立し、空海を輩出する佐伯直氏につながる可能性が高いと研究者は考えています。
次に善通寺周辺の古墳について見ておきましょう。
青龍古墳 編年表
丸亀平野の古墳変遷図
善通寺エリアの古墳が集中するのは、五岳や大麻山周辺で、弘田川流域勢力によって築造されたもののようです。中でも大麻山の山頂直下に前期前半に築かれた野田院古墳(後円部が積石塚)から、後期の王墓山古墳や菊塚古墳、終末期の大塚池古墳など、首長墓クラスの古墳が継続的かつ安定的に築かれます。これは、讃岐の他エリアの不安定さと対照的です。善通寺エリアの首長がヤマト政権との良好な関係を維持しつづけたことがうかがえますが、その要因がどこにあったのかはよく分かりません。一方、金倉寺周辺の勢力が築いた古墳というのは、見当たりません。
古墳時代中期になると旧練兵場遺跡では竪穴建物が少数ですが現れ、後期には飛躍的に増加し、大規模な集落が営まれるようになります。
旧練兵場遺跡 詳細図
旧練兵場遺跡群 古墳時代末期から古代へ 南海道が伸びてきて郡衙や古代寺院が姿を見せる。
中心は農事試験場跡の東部ですが、サテライトとして南東約l㎞の四国学院大学構内遺跡でも多数の竪穴建物が並ぶ集落が現れます。このような集落の成長の上に、佐伯直氏の氏寺とされる仲村廃寺跡(伝導寺跡)が居住区のすぐ南に白鳳時代には姿を見せます。しかし、この寺は条里制に沿っていません。条里制施行よりも前に建立されたことがうかがえます。
善通寺エリアでは、南海道に沿う位置に「官衛的建物」が見つかっています。
生野本町遺跡 
生野本町遺跡(旧善通寺西高校グランド) 整然と並ぶ郡衙的な建物配置
それが四国学院大学の南側の生野本町遺跡です。稲木北遺跡と同じような建物配置が見つかっています。この遺跡に近接した生野南口遺跡からは8世紀前葉~中葉の床面積が40㎡を超える庇付大型建物跡が確認されています。これも郡衙の付属建物のようです。あと高床式の倉庫が出れば郡衙に間違いないということになります。ちなみに、同時期の飯野山南の岸の上遺跡からは、高床式倉庫が何棟も出てきて、鵜足郡の郡衙と研究者は考えています。東から伸びてくる南海道沿いに郡衙や居館、氏寺を建てることが、ヤマト政権に認められる「政治的行為」であると当時に、住民への威信をしめすステイタスシンボルでもあったようです。そのために、いままでの旧練兵場遺跡から南海道沿いの四国学院方面に、その居館を移動させ、多度津郡衙を建設したとも考えられます。
 一方、金倉寺周辺はどうでしょうか? 
金倉寺の西約1 kmの稲木北遺跡からも郡衙的な建物群が見つかっています。8世紀前葉の大型掘立柱建物跡8棟と、それらを区画、囲続する柵列跡です。

稲木北遺跡 復元想像図2
稲木北遺跡 郡衙的な建物配置が見られる
真ん中に広場的空間を中心に品字形の建物配置がとられています。加えて大型建物を中心に対称的に建物が配置され、しかも柱筋や棟通りなどがきちんと一致しています。研究者はこれを「官衛的建物配置」と考えています。
稲木北遺跡 多度郡条里制
多度郡の2つの郡衙的建物 
A 稲木北遺跡(金蔵寺エリア)B 生野本町遺跡(善通寺エリア)

稲木北遺跡2

金蔵寺の南の下所遺跡では7世紀末~8世紀初頭、 8世紀前葉~中葉の掘立柱建物群が出てきています。
その配列は 8棟前後の建物が緩やかに直列、並列、直交する建物配置をとります。その上に、この遺跡の特徴は、金倉川の河道跡から人形、馬形、船形、刀形、斎串などの木製祭祀具が多量に出土したことです。
金倉寺下所遺跡 木製品
金倉寺下所遺跡 木製品2

金倉寺下所遺跡出土の木製祭祀具(金蔵寺下所遺跡調査報告書より)
ここからは、公的な河川祭祀がこの場所で執り行われことが分かります。今見てきた稲木北遺跡、稲木遺跡、金蔵寺下所遺跡は、約1㎞四方の範囲に収まります。そうすると多度郡衛や公的な河川祭祀を執り行う官衛や地元豪族の地域支配の拠点となる郷家といった公的性格を持つ官衛が集中するエリアだったことになります。これも郡衙など官衛的施設の一部でしょう。こうしてみると、奈良時代には、官衛的な施設が善通寺と金蔵寺の2つのエリアにあったことになります。そして、金蔵寺エリアに金倉寺は現れます。
金倉寺の創建について見ておきましょう。
『日本三大実録』には、多度郡人因支首純雄らが貞観8年(866)に改姓要求を願い出て、和気公が下賜姓されたとあります。「鶏足山金倉寺縁起」には、仁寿元年(851)に円珍の父和気宅成が、その父が建立した自在王堂を官寺とすることを奏上しています。ここからは金倉寺の創建に、和気公が深く関与したことがうかがえます。また現地名の「稲木(いなぎ)」は、「因岐(いなぎ)首」の改称のようで、和気公(因岐首氏)が金倉寺周辺にいたことが裏付けられます。このことを強調して従来は、善通寺の佐伯直氏と金倉寺の因岐首氏(和気公氏)の本拠地という視点で説明されてきました。しかし、多度津郡司(大領)である佐伯直氏と、官位を持たない地元の中小豪族の因岐首氏では階級差も、勢力も大きく違っていたと研究者は指摘します。
1空海系図2
空海の弟や甥たち(佐伯直氏)は、地方豪族としては非常に高い官位を持つ。
円珍系図 那珂郡
円珍の因支首氏の那珂郡の系図 円珍の因支首氏には官位を持つ者はいない。
古墳時代の首長クラスの古墳分布を見ると、善通寺と金倉寺では大差があったことは見てきた通りです。金倉寺周辺では、首長墓らしきものは見つかっていません。
 両者の氏寺とされる善通寺と金倉寺を見ていくことにします。
 佐伯直氏が最初に建立したとされる仲村廃寺からは、原型に近い川原寺系軒丸瓦が出土します。その後に建立した善通寺は、方二町で白鳳期から平安期にかけての時代を超えた多彩な軒瓦が出土しています。ここからは佐伯氏が中央との良好な関係を保ちつつ、白鳳期に氏寺を創建し、それを奈良時代、平安時代にかけて継続的に維持していたことがうかがえます。それに比べて、古代の金倉寺のことはよく分かりません。採集されている瓦片は、次のとおりです。
A 奈良時代まで遡る可能性がある八葉複弁蓮華文軒丸瓦
B 平安時代前期に属する軒平瓦
C 平安時代後期から鎌倉時代に属する軒平瓦。
ここからは、金倉寺が奈良時代まで遡り、寺域の大きな移動はなかったことはうかがえます。しかし、問題なのは、奈良時代の瓦の出土量は極めて少なく、平安時代になって出土量が増加することです。ここからは奈良時代には、お堂程度の小規模な施設が設けられ、平安時代になって寺院整備がすすんだことがうかがえます。なお、軒平瓦には仲村廃寺や善通寺との同氾関係のものがあるので、佐伯直氏の援助を受けながら、因支首氏が金倉寺を建立したということは考えられます。ここでは、奈良時代に因支首氏の氏寺として建立された時の金倉寺は、善通寺に比べると遙かに規模が小さかったこと、それは当時の佐伯直氏と因支首氏の力関係によることを押さえておきます。
以上を整理して起きます。
①金倉寺周辺は、金倉川の旧河道が幾筋にもわかれて北流し、広い氾濫原で遊水地化した湿原地帯が拡がっていた。
②律令時代になると東から南海道が伸びてきて、それに直行する形で条里制工事が始まる。
③金倉寺周辺は、金倉川の氾濫原であったために対象外となり、空白地帯となっている。
④しかし、金倉寺周辺の氾濫原の微高地には、郡衙・官衛・豪族居館らしき建築物が集中する
⑤一方、善通寺エリアにも、郡衙や古代寺院が佐伯直氏によって建設される。
⑥そういう意味では、善通寺と金倉寺エリアは多度郡のふたつの政治的な中心地だったとも云える。
⑦しかし、古代寺院の規模などからすると、善通寺の佐伯直氏と金倉寺の因支首氏の間には、政治的・財政的に大きな開きがあったことが見えてくる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
四国八十八ケ所霊場七十六番札所金倉寺調査報告書 第一分冊 2022年 香川県教育委員会
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     一円保絵図 テキスト
 善通寺一円保絵図
善通寺には、明治40年(1907)に、本寺の京都随心院から持ち帰ったという墨で描かれた絵図があります。「讃岐国善通寺近傍絵図」で一般的には「一円保絵図」と呼ばれています。この絵図のテキストクリニック(史料批判)を行った論文を探していたのですが、なかなか出会えませんでした。

一円保絵図 テキスト2

 先日、何気なくアマゾンで検索すると、郵送代込みで352円なのを見つけてすぐにクリックしました。この本の中に載せられている高橋昌明「地方寺院の中世的展開」をテキストにして善通寺一円保絵図を見ていくことにします。
まず筆者は、この絵図はなぜ、京都の随心院にあったのかを探ります。  絵図裏書に次のように記されているようです。
善通寺□□絵図
徳治二年丁未十一月 日
当寺百姓等烈参の時これを進らす
一円保差図(別筆)
□は虫損
「当寺」とは文脈からいって随心院でしょう。「烈参」は「何事かを請願するとか申し出るとかするために、多くの人が一緒に行くこと」という意味だそうです。善通寺の百姓らが徳治二年(1307)本所の随心院に、なにかを要求するため上洛して、その際にこの絵図を提出したようです。何を要求したのかが、今後の問題となります。 
一円保絵図 原図
善通寺 一円保絵図
絵図は善通寺で作成されたようです。
幅約160㎝、縦約80、横6枚×縦2枚=計12枚の紙を貼りあわせた大きな絵図です。見れば分かるとおり、描かれている内容は左右で二つに区分できそうです。真ん中の太い黒帯が弘田川です。その西側(右)が五岳、東側(左)が条里制で区切られた土地と、その中に善通寺の伽藍と誕生院が見えます。これだけの絵図を書ける「職人」が善通寺にはいたようです。三豊にある中世の仏像には、善通寺の絵師がかかわったことが史料から分かります。絵師や仏師集団が善通寺周辺には存在したようです。
  上の絵図をトレスしたものがつぎの下の図です。

一円保絵図 全体

まず、この絵図で描かれている範囲を確定しておきましょう。
北側(下)からを見ていきましょう。
お寺の南の茶色のエリアが現在の「子どもと大人の医療センター」になります。ここは、弥生時代から古墳時代にかけて善通寺王国のコア的な存在であった所です。しかし、この絵図では、百姓の家が散在するのみです。お寺の周辺に形成された「門前町」に人々は「集住」し、この地区の「重要拠点性」は失われているようです。
 その西、弘田川を越えた所に「ひろ田かしら」という地名が書き込まれています。ここの東西の条里が北側の境界となるようです。ここから北の条里は描かれていません。
  西端を見てみましょう。右下角に「よしわらかしら」が見えます。
現在の吉原のようです。ここにも条里制跡は見られますが、その方位は善通寺周辺の条里制とは、異なっているように見えます。

  善通寺の東側の条里制のラインを見てみましょう。
ここで手がかりになるのは東の端に書かれた「よした」という地名です。現在の吉田でしょうが、ここには条里制跡は描き込まれていません。もちろん、丸亀平野全体に条里制は施行されていますので、敢えて書き込んでないということになります。
 南側は東に「おきのと」と西に「ありを□」から流れ出した水路が境となっています。これより南の条里制は、やはり描かれていません。考えられるのは描かれた部分が、善通寺の一円保に関係するエリアであったということです。それでは、条里制が描かれているのは、現在のどの辺りになるのでしょうか?
  現在の地図に落とすと、下図のようになるようです。
一円保地図1
一円保絵図東部分の現在の範囲
この範囲が善通寺の一円保のエリアだったと考えられます。もう少し拡大して見ましょう。
一円保絵図 現地比定拡大2
一円保絵図の現在のエリア
絵図で描かれている条里制エリアを確認しておきましょう
A 南側①~④のラインは、四国学院図書館から護国神社・中央小学校を西に抜けて行くもので、多度郡条里の6里と7里の境界線になる。
B 東側①~⑥(グランドホテル)のラインは旧多度津街道にあたり、古代においては何らかの境界線だったことがうかがえる。
C 北側ラインは⑤の瓢箪池→仙遊寺(大師遊墓)→宮川うどん→善通寺病院北側へと続く
D 西側は香色山と誕生院の間から、弘田川を越えて五岳の麓まで

   Aの①~④については、四国学院内での発掘調査から道路の側溝跡が見つかり、さらにそれを東に一直線にまっすぐ伸ばした飯山町の岸の上遺跡から出てきた側溝跡とつながることから、このラインが旧南海道だと研究者は考えているようです。つまり、一円保の南側は南海道で区切られていたことになります。
Bの旧多度津・金毘羅街道は、現在も大通りの東側を聖母幼稚園から片原通りまでは残っています。またB・Cは、中谷川の流路とも重なります。この川は、弥生時代から古墳時代に栄えた旧練兵場遺跡の北限でもあった川で、善通寺王国の成立に大きな役割を果たしたことが考えられます。
 ちなみに、佐伯氏が氏寺として最初に建てた仲村廃寺(伝導寺)は、⑥グランドホテルの西側のホームセンターダイキ周辺です。氏寺は、この川に隣接する地点に建立されています。古墳時代から7世紀前半の佐伯氏の拠点は、この付近にあったことを考古学的発掘の成果は教えてくれます。

金倉川 善通寺条里制
那珂郡・多度郡の条里制と南海道(推定)
  また、南海道の南側隣接する⑦からは多度郡の郡衙と推定できる建物群が見つかっています。
ここに建物群が姿を現すのは、7世紀末から8世紀初頭にかけのことで、南海道が東から伸びてきた時期と重なります。南海道を基準として条里制は引かれていきます。佐伯氏が先ほどの仲村廃寺周辺から⑦のエリアに拠点を移したのは、この時期なのでしょう。これに伴い氏寺も仲村廃寺から現在地に移し、条里制に沿う形で移築したことが考えられます。補足説明はこれくらいにして、先に進みましょう。
 
さきほどのトレス図と比べて、研究者は次の点を指摘します。
①絵図の東部と西部では「縮尺」が異なる。西の五岳山側は、東の3倍の縮尺になっている。
  絵図では東部と西部は半分・半分の割合だが、実際には西部の山側の方がその3倍以上の面積 がある。
②「おきのと」と「ありを□」は現在の壱岐湧と柿股湧になる。絵図では、ふたつの出水は一円保のすぐそばにあるように描かれているが距離的なデフォルメがある。実際にはかなりの距離がある。
全体像はこれくらいにして、もう少し詳しく各部分を見ていきましょう。
まず、一円保の範囲と周辺の郷との関係を地図で確認しておきましょう
一円保絵図 周辺との境界
善通寺一円保絵図の範囲
 東側の良田郷と隣接する条里制の部分から見ていきます。

金倉川 10壱岐湧水
善通寺東院と西院
 中央に善通寺伽藍とその東に誕生院があります。よく見ると、伽藍の周辺やその北方(下方)には多くの家屋が描かれています。
 
 集落を見ておきましょう
  建築物は、善通寺の東院や誕生院等を見ると、壁が書かれています。壁が書かれているのが寺院関係で、壁がない屋根だけの建物が民家だと研究者は考えているようです。絵図に描かれた民家を全部数えると132棟になるようです。それをまとまりのよって研究者は次のような7グループに分けています
第1グルーフ 善通寺伽藍を中心としたまとまり 71棟
第2グルーフ 左下隅(北東)のまとまり  5棟
第3グルーフ 善通寺の伽藍の真下(北)で弘田川東岸のまとまり                   11棟
第4グルーフ 中央やや右寄りの上下に連なる大きい山塊の右側のまとまり                   15棟
第5グルーフ 第4グループの右側のまとまり 17棟
第6グルーブ 第5グルーブと山塊をを挟んだ右側のまとまり                   6棟
第7グループ 右下隅(北西)のまとまり     7棟

 家屋が集中しているのは、善通寺伽藍周辺で71あるようです。
半分以上がお寺の周りに集まっていることになります。中世における「善通寺門前町」とも言えそうで、一種の「都市化現象」が進んでいたようです。
 善通寺市立郷土館に展示された「善通寺村絵図」(明治6年頃)には、伽藍の東南に17戸、東に79戸、北東に38戸、北西に53戸、西南に83戸、計270戸があったと記されます。江戸時代は、善通寺周辺に門前町が形成され、それ以外は水田が広がる光景が続いていたようです。
 お寺周辺の家屋は、七里八里の界線を境に上下に分けることができそうです。上は平安後期に、「寺辺に居住するところの三味所司等」(「平安遺文』3290号)とあるので、寺院関係者の住居と「くらのまち(倉の町)」など寺院の関連施設と研究者は考えているようです。
 これに対して、下側(北側)は百姓の家々ということになります。
善通寺の関係者は、僧侶たちと荘官層にわけられます。
荘官では田所の注記だけが見えますが、曼奈羅寺方面には惣追捕使の領所という注記もあります。「随心院文書」からは、善通寺には公文・案主・収納使・田所がいたことが分かります。また別の史料からは、次のような僧侶達がいたことが記されています。
①二人の学頭
②御影堂の六人の三味僧
③金堂・法華堂に所属する18人の供僧
④三堂の預僧3人・承仕1人
このうち②の三味僧や③の供僧は寺僧で、評議とよばれる寺院の内意志決定機関の構成メンバー(衆中)でした。その下には、堂預や承仕などの下級僧侶もいたようです。善通寺の構成メンバーは約30名前後になります。
一円保絵図 中央部

 絵図に記されている僧侶名を階層的に区分してみましょう。
寺僧以上が
「さんまい(三味)」 (7)
「そうしゃう(僧正)」    (8)
「そうつ(僧都)」        (11)
「くないあじゃり(宮内阿闇梨)」  (12)
「三いのりし(三位の律師)」      (14)
「いんしう(院主)」              (15)
「しき□あさ□(式部阿閣梨か)」  (10)
 下級僧が
「あわちとの(淡路殿)」          (1)
「ししう(侍従)」                (9)
「せうに(少弐)」                (16)
「あわのほけう(阿波法橋)」      (17)
(数字は、絵図上の場所)
 これらの僧侶の房の位置から分かることは、寺僧たちの房は伽藍の近くにあり、下級僧の房はその外側に建ち並んでいます。絵図は僧侶間の身分・階層を、空間的にも表現しているようです。

その他にも、堂舎・本尊・仏具の修理・管理のための職人(俗人姿の下部)が、寺の周辺に住んでいた可能性が考えられます。
例えば、鎌倉初期の近江石山寺辺では、大工、工、檜皮(屋根葺き職人)、鍛冶、続松(松明を供給する職人)、壁(壁塗り職人)らがいたことが分かっています(『鎌倉遺文』九〇三号)。絵師や仏師が善通寺周辺にいたことは、仏像の銘文などからも史料的にも分かっているようです。しかし、絵図からはうかがい知れません。

 絵図の下方(北側)の家を見てみましょう。
金倉川 10壱岐湧水

右下の茶色で着色したゾーンは、善通寺病院のエリアになります。そこから東にかけてが現在の農事試験場の敷地にあたります。この地域は、
①善通寺病院周辺が、弥生時代の中核地域
②(20)(21)周辺が、仲村廃寺跡で古墳時代以後の中心地
であることが発掘調査から分かっています。そして、②を中心とするエリアに、名田が密集しているようです。名田らしき注記を挙げると
「光貞」が六ヵ所
「利友」が六ヵ所
「宗光」が五ヵ所
 これを名主だと考えることもできそうです。
名は徴税の単位で、荘内の各耕地(作人の各経営)はいずれかの名に所属させられていたとされます。年貢や課役も作人が直接領主に上納するのではなく、名の責任者である名主がとりまとめて納入させたようです。「光貞」「利友」「宗光」は、その徴税責任者名かもしれません。つまり、名主であったことになります。ちなみに「寺作」は9ヵ所で合計2町9反以上と注記されています。これが善通寺の直轄寺領なのでしょうか。
一円保絵図 北東部

  最後に東部エリアの用水路を見ておきましょう。
 条里制地割上に描かれた真っ直ぐな太線が水路になります。水路を東に遡っていくと「をきどの」「□?のい」と記された部分に至ります。これは出水で、水源を示しているようです。
この湧水は、現在のどこにあたるのでしょうか。
これは、以前にも見たように生野町の壱岐湧と柿股湧になります。
そこからの水路が西に伸びて一番東の条沿いに北上していきます。この条が先ほど見たように、旧多度津街道になります。
条里内の(2)の家屋は、護国神社 (1)は中央小学校あたりになるのでしょう。湧水からの水路は、次の条まで延びています。ここからは、地割の界線にそって灌漑用水路が作られ農業用水を供給していたことが分かります。よく見ると、坪内ヘミミズがはっているような引水を示す描き込みもあります。
 用水路がどこまで伸びているのかを見てみましょう。
それは、農業用水がどこまで供給されていたかです。用水路が伸びているのは、(20)(21)のある坪あたりまでです。それより北(下)には、用水路は描かれていません。
弥生・古墳時代には、多度津街道沿いに旧中谷川が流れていたことが発掘からも分かっています。
旧練兵場遺跡 変遷図1
弥生時代の旧練兵場跡 右側が中谷川


ところが、一円保絵図には中谷川が途中で涸れたように描かれています。これは旧練兵場(現農業試験場や善通寺病院のエリア)に灌漑用水は、届いていなかったということになります。ほんまかいな? というのが正直な感想です。 この絵図をもう一度見ると、用水路は2つの湧水のみに頼っているようです。
 金倉川からの導水水系が描かれてはいません。
 現在は、中谷川は金倉川からの導水が行われています。
一円保絵図 金倉川からの導水
現在の金倉川からの導水路

しかし、中世のこの時点ではそれが出来なかったのかもしれません。中世の権力分立の政治情勢では、荘園を越える大規模な用水はなかなか建設や維持が難しかったようです。建設のための「労働力の組織化」もできなかったのでしょう。例えば、この時期の満濃池は崩壊したまま放置され「池内村」が旧池底に「開拓」されていた状態でした。金倉川の導水路を確保することは難しく、善通寺一円保の用水源は、出水と有岡の池に頼る以外になかったようです。
 こうしてみると善通寺の百姓達が京都の本寺へ「烈参」したのも水に関係することだったのではないかと思えてきます。
今回は、この辺りにしておきましょう。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献


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