瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:多田屋新右衛門

金毘羅船 4

金毘羅船々 追風に帆かけて シュラ シュ シュシュ
回れば四国は 讃州那珂の郡 象頭山金毘羅大権現
も一度回って 金毘羅船々……

この歌は金毘羅船を謡ったものとして良く知られています。今回は金毘羅船がどのような船で、どこから出港していたのかを、見ていこうと思います。
まず、金比羅船の始まりを史料で見ておきましょう。
金刀比羅宮に「参詣船渡海人割願書人」という延享元年(1744)の文書が残されています。
参詣船渡海入割願書
一 讃州金毘羅信仰之輩参詣之雖御座候 海上通路容易難成不遂願心様子及見候二付比度参詣船取立相応之運賃二而心安致渡海候様仕候事
一 右之通向後致渡海候二付相願候 二而比度御山御用向承候 上者御荷物之儀大小不限封状等至迄無滞夫々汪相違可申候 将又比儀を申立他人妨申間敷事
一 御山より奉加勧進等一切御指出不被成旨御高札之面二候 得紛敷儀無之様可仕事
一 志無之輩江従是勧メ候儀且又押而船を借候儀仕間敷事
一 講を結候儀相楽信心を格別講銭等勧心ケ間敷申間敷並代参受合申間敷事
一 万一難風破船等有之如何様之儀有之有之候へ共元来御山仰二付取立候儀二候得者少茂御六ケ舗儀掛申間敷事
  右之趣堅可相守候若向後御山御障二相成申事候は何時二而茂御山御出入御指留可被成候為後日謐人致判形候上はは猶又少茂相違無御座候働而如件
  延享元甲子年三月
     大坂江戸堀五丁目   明石屋佐次兵衛 印
     同  大川町     多田屋新右衛門 印
     同  江戸堀荷貳丁目 鍔屋  吉兵衛 印
        道修町五丁目  和泉屋太右衛門 印
金光院様御役人衆中様
意訳変換しておくと
金毘羅参詣船の渡海についての願出について
一 讃州金毘羅参詣の海上航路が不便な上に難儀して困っている人が多いので「相応え運賃」(格安運賃)で参詣船を出し、心安く渡海できるように致します。
一 同時に、金毘羅大権現の御用向を伺い、御荷物等についても大小を問わず滞りなく配送いたします。 
一 金毘羅大権現よりの奉加・勧進等の一切の御指出を受けていないことを高札で知らせ、紛らわしい行為がないようにいたします。
一 信心のない輩に金毘羅船への参加を勧めたり、また船を課したりする行為は致しません。
一 金毘羅講を結成し講銭など集めたり、代参を請け負うことも致しません。
一 万一難破などの事故があったときには、どんな場合であろうとも金毘羅大権現に迷惑をおかけするようなことはありません。
以上の趣旨について今後は堅く遵守し、もし御山に迷惑をおかけするようなことがあった場合には何時たりとも、御山への出入差し止めを命じていただければと思います。
ここからは、次のようなことが分かります。
①延享元年三月(1744)に、大坂から讃州丸亀に向けて金毘羅参詣だけを目的とした金毘羅船と呼ばれる客船の運行申請が提出されたこと
②申出人は大坂の船問屋たちが連名で、金毘羅当局へ「参拝船=金毘羅船」の運航許可を求めていること
③寄進や勧進を語り募金集める行為や、金毘羅講などを通じての代参行為を行う行者(業者)がいた。
これは金光院に認められ、金毘羅船が大坂と四国・丸亀を結ぶようになります。これが「日本最初の旅客船航路」とされます。以後、金毘羅船は、金毘羅信仰の高揚と共に、年を追う毎に繁昌します。申出人の2番目に見える「大坂大川町 船宿 多田屋新右ヱ門」は、讃岐出身で大坂で船宿を営なんでいたようです。
多田屋の動きをもう少し詳しくみていきましょう。
 多田屋は、金毘羅本社前に銅の狛犬を献納し、絵馬堂の寄進も行っています。多田屋発行の引札も残っています。金毘羅関係の書物として最も古い「金毘羅参詣海陸記」「金毘羅霊験記」などにも多田屋の名は刷り込まれています。このように金比羅舟の舵取りや水夫には、多田屋のように讃岐出身者が多かったようです。そして、その中心は丸亀の三浦出身者だったようです。19世紀初頭に福島湊が完成するまでの丸亀の湊は土器川河口の河口湊でした。そこに上陸した金毘羅詣客で、三浦は栄えていたことは以前にお話ししました。

多田屋に少し遅れて、金毘羅船の運航に次のような業者が参入してきます
①道頓堀川岸(大阪市南区大和町)の 大和屋弥三郎
②堺筋長堀橋南詰(大阪市南区長堀橋筋一丁目) 平野屋佐吉
日本橋筋北詰(大阪市南区長堀橋筋二丁目) 岸沢屋弥吉
なども、多田屋に続いて金昆羅船を就航させています。強力なライバルが現れたようです。これらの業者は、それぞれの場所から金毘羅船を出港させていました。金毘羅船の出港地は一つだけではなかったことを押さえっておきます。
後発組の追い上げに対して、多田屋はどのような対応を取ったのでしょうか
『金毘羅庶民信仰資料集年表篇』90pには、多田屋新右衛門の対応策が次のように記されています。
宝暦四年 冥加として御用物運送の独占的引き受けを願い出る
同九年  狗犬一対寄進
天明七年 江戸浅草蔵前大口屋平兵衛の絵馬堂寄進建立を取り次ぎ
寛政十二年再度、金毘羅大権現の御用を独占を願い出。
享和三年 防州周防三輪善兵衛外よりの銅製水溜寄進を取り次ぎ
文化十三年大阪の金昆羅屋敷番人の追放に代わり、御用達を申し付け
天保三年 桑名城主松平越中守から高百石但し四ツ物成、大阪相場で代金納め永代寄進
天保五年 その代金六十両を納入
これ例外にも金毘羅山内での事あるごとに悦びや悔みの品を届けています。本人も母親も参詣してお目見えを許された記事もあります。ここからは多田屋新右衛門が、金毘羅大権現と密接な関連を維持しながら、金毘羅大権現への物資の運送を独占しようとしていたことがうかがえます。
『金毘羅山名所図会』には、次のように記されています。
  御山より大阪諸用向きにつきて海上往来便船の事は、大阪よどや橋南詰多田屋新右衛門これをあづかりつとむ。
ここからは多田屋新右衛門の船宿は、大阪淀屋橋南詰(大阪市東区大川町)にあったことがわかります。  
金毘羅船 淀屋橋
多田屋のあった、大阪淀屋橋南詰(大阪市東区大川町)
多田屋新右衛門には、大和屋弥三郎という強力なライバルが出現します。
大和屋弥三郎も金毘羅船を就航させ、金毘羅への輸送業に割り込もうと寄進や奉献を頻繁に行っています。そのため多田屋新右衛門が物資運送を独占することはできなかったようです。
『金毘羅庶民信仰資料集―年表篇』90Pには、大和屋弥三郎のことがが次のように記されています。
寛政九年 新しい接待所を丸亀の木屋清太夫とともに寄進
享和二年 瀬川菊之丞が青銅製角形水溜を奉納するのを取り次ぎ
文政九年 大阪順慶町で繁栄講が結成された時講元となり
文政十一年丸亀街道途中の与北村茶堂に繁栄講からとして、街道沿いでは最大の石燈籠を奉納
このように大坂の船宿は、参詣客の斡旋、寄進物の取り次ぎ、飛脚、為替の業務などを競い合うように果たしています。これが金毘羅の繁栄にもつながります
『金毘羅庶民信仰資料集―年表篇』の17頁の宝暦四年(1754)条には、
大阪の明石屋佐治兵衛。多田屋新右衛門、冥加として当山より大阪ヘの御用物運送仰せ付けられたく願い出る。

とあって、多田屋新右衛門が明石屋佐治兵衛と一緒に、物資運送を独占を願いでています。これに対して金毘羅大権現の金光院はどんな対応をしたのか見てみましょう。
『金毘羅庶民信仰資料集―年表篇』の24Pの寛政十二年(1800)春条には、
大阪多田屋新右衛門よりお山の御用を一手に申し付けられたき旨願い出る。多田屋の願いを丸亀藩へも相談した所、丸亀浜方の稼ぎにも影響するので、年三度のお撫物登りの時のみ多田屋の寄進にさせてはどうかという返事あり

ここには多田屋の願い出を丸亀藩に相談したところ、これを聞き留けると丸亀港での収入が減ることになるので、年三度の撫物だけを多田屋に運送させたら良いとの返事を得ています。この返事を多田屋に知らせ、多田屋はこれを受け入れたようです。ここに出てくる「撫物」と云うのは、身なでて穢れを移し、これを川に流し去ることで災厄を避ける呪物で、白紙を人形に切ったものだそうです。
  つまり金光院は、ひとつの船宿に独占させるのではなく、互いに競争させる方がより多くの利益につながると考え、特定業者に独占権を与えることは最後まで行わなかったようです。そのため多田屋が繁栄を独占することは出来ませんでした。

十返舎一九の『金毘羅参詣続膝栗毛』(1810年刊)で、弥次喜多コンビが乗った金毘羅船は、大和屋の船だったようです。
 道中膝栗毛シリーズは、旅行案内的な要素もあったので当時の最も一般的な旅行ルートが使われたようです。十返舎一九は『金毘羅参詣続膝栗毛』の中で、弥次・北を道頓堀から船出させています。しかし、その冒頭には次のような但書を書き加えています。
「此書には旅宿長町の最寄なるゆへ道頓堀より乗船のことを記すといへども金毘羅船の出所は爰のみに非ず大川筋西横堀長堀両川口等所々に見へたり」
意訳変換しておくと
「ここには旅宿長町から最も近いので道頓堀から乗船したと記すが、金毘羅船の出発地点は大川筋西横堀や長堀両川口などにもある」

ここからは、もともとの船場は多田屋のある大川筋の淀屋橋付近だったのが、弥次・喜多の時代には、金毘羅舟の乗船場は大川筋から道頓堀・長堀の方へ移動していたことがうかがえます。つまり、多田屋に代わって大和屋が繁盛するようになっていたのです。その後の記録を見ても「讃州金毘羅出船所」や「金ひらふね毎日出し申候」等と書かれた金毘羅舟の出船所をアピールする旅館や船宿は、大川筋よりもはるかに道頓堀の方が多くなっています。
 金毘羅船に乗る前や、船から下りた際には「航海無事」の祈願やお礼をするために、道頓堀の法善寺に金比羅堂が建立されていた研究者は推測します。法善寺は讃岐へ向かう旅人達たちにとって航海安全の祈願所の役割を果たしていたことになります。「海の神様」という金毘羅さんのキャッチフレーズもこの辺りから生まれたのではないかと私は考えています。

弥次喜多が乗りこんだ金毘羅船の発着場は、どこだったのでしょうか
金毘羅船 苫船

「大阪道頓堀丸亀出船の図」(金毘羅参詣続膝栗毛の挿入絵)
上図は「大阪道頓堀丸亀出船の図」とされた挿図です。本文には次のように記されます
   讃州船のことかれこれと聞き合わせ、やがて三人打ち連れ、長町を立ち出で、丸亀の船宿、道頓堀の大黒屋といえる、掛行燈(かけあんどん)を見つけて、野州の人、五太平「ハァ、ちくと、ものサ問いますべい。金毘羅様へ行ぐ船はここかなのし。」

意訳変換しておくと
讃州船のことをあれこれと聞き合わせ、やがて三人そろって、丸亀の船宿である道頓堀の大黒屋を訪ねた。掛行燈(かけあんどん)を見つけて、五太平が次のように聞いた「ハァ、ちょとおたずねしますが、金毘羅様へ行く船はここからでていますか」

ここからは道頓堀川の川岸の船宿・大黒屋を訪ねたこと、大黒屋も讃岐出身者であったことが分かります。道頓堀を発着する金毘羅船には、日本橋筋北詰の岸沢屋弥吉のものと、道頓堀川岸の大和屋弥三郎のものの二つがありました。岸沢屋の金毘羅船は道頓堀川に架かる日本橋の袂を発着場としていて引札には日本橋が描かれています。橋が描かれず川岸を発着場とするこの図の金毘羅船は「道頓堀の大黒屋=大和屋」の金毘羅船と研究者は考えているようです。

当時の金比羅舟は、どんな形だったのでしょうか?
上の絵には川岸から板一枚を渡した金毘羅船に弥次北が乗船していく姿が描かれています。手前が船首で、奥に梶取りがいるようです。船は苫(とま)屋根の粗末な渡海船だったことが分かります。苫屋根は菅(すげ)・茅(ちがや)などで編んだこものようなもので舟を覆って雨露をしのぐものでした。
金毘羅船 苫船2

淀川を行き来する三〇石船とよく似ているように思えます。
淀川30石舟 安藤広重


弥次喜多が道頓堀で乗船して、大坂河口から瀬戸内海に出港していくまでを意訳変換してみましょう
讃岐出身の船頭は、弥次喜多に次のように声をかける。
船頭「浜へ下りな。幟(のぼり)のある船じゃ。今(いんま)、出るきんな。サアサア、皆連(つ)れになって、乗ってくだせえ、くだせえ。」
 浜に下りると船では、揖(かじ)を降ろし、艪(ろ)をこしらえて、苫(とま)の屋根を葺いていた。
金毘羅船 屋根の苫
苫の屋根

水子(かこ)たちは布団、敷物などを運び入れ終わると、船宿の店先から勝手口まで並んでいた旅人を案内して、船に乗船させていく。
そこへいろいろな物売りがやってくる。
商人「サアサア、琉球芋(りゅうきゅういも)のほかしたてじゃ、ほっこり、ほっこり」
菓子売り「菓子いらんかいな、みづからまんじゅう、みづからまんじゅう。」
上かん屋「鯡昆布巻(にしんこぶまき)、あんばいよし、あんばいよし。」
船頭「皆さん、船賃は支払いましたかな、コレ、そこの親方衆、もう少しそっちゃの方へ移ってもらえませんか、」
五太平「コリャハァ、許さっしゃりまし。あごみますべい」と、人を跨いで向こう側へ座る。弥次郎・喜多八も同じように座ると、遠州の人が「エレハイ、どなたさんも胡座組んで座りなさい。乗り合い船なので、お互いにに心安くして参りましょう。ところで、船頭さん、船はいつ頃出ますか。」
船頭「いん(今)ますぐに、あただ(急)に出るわいの」
船宿の亭主「サアサアえいかいな、えいなら船を出さんせ。もう初夜(戌刻)過ぎじゃ。長い間お待たせして、ご退屈でござりました。さよなら、ご機嫌よう、行っておい出でなされませ。」
 と、もやい綱を解いて、船へ放り込むと、船頭たちは竿さして船を廻します。そうすると川岸通りには、時の太鼓、「どんどん、どどん」と響きます。
按摩(あんま)「あんまァ、けんびき、針の療治。」
 夜回りの割竹が「がらがら、がらがら」と鳴る中、船はだんだん河口へと下っていきます。
 木津川口に着いた頃には、夜も白み始める子(ね)刻(午前4時)頃になっていた。ここで風待ちしながら順風を待ち、その間は船頭・水子もしばらく休息していて、船中も静かで、それぞれがもたれ合って眠る者もいる、中には、肘枕や荷物包に頭をもたせて熟睡する者もいる。

難波天保山

 やがて、寅の刻(午前4時)過ぎになったと思う頃に、船頭・水子たちがにわかに騒ぎ立ちて、帆柱押し立て、帆綱を引き上げるなど出港準備をはじめ、沖に乗り出す様子が出てきた。船中の皆々も目を覚まして、船端に顔を出して、塩水をすくって手水使って浄めて象頭山の方に向かって、航海の安全を伏し拝む。
弥次郎・喜多八も遙拝して、一句詠む
    腹鼓うつ浪の音ゆたかにて 走るたぬきのこんぴらの船
 船出の安全を、語る内に早くも沖に走り出しす。船頭の「ヨウソロ、ヨウソロ」の声も勇ましく、追風(おいて)に帆かけて、矢を射るように走り抜け、日出の頃には、兵庫沖にまでやってきた。大坂より兵庫までは十里である。

ここからいろいろな情報を得ることが出来ます。
①弥次・喜多の乗った金毘羅船が小形の苫舟で、乗り換えなしで丸亀に直行したこと
②船頭が讃岐出身者だったこと。讃岐弁を使っているらしい。
③夜中(午後8時頃)に道頓堀や淀屋橋の船宿を出て、早朝(午前4時頃)に大坂河口に到着
④風待ち潮待ちしながら順風追い風を受けて出港していく
⑤この間に船の乗り換えはない。
金毘羅船 3

19世紀の中頃には、金毘羅船にとって大きな変化が起きていました。それまでの小形の苫舟に代わって、大型船が就航したことです。
金毘羅船 垣立


この頃には、垣立(上図の赤い部分)が高く、屋形がある大型の金毘羅船が登場します。これは樽廻船を金毘羅船用に仕立てたものと研究者は考えているようです。江戸時代に大阪と江戸の間の物資の運送で競争したのが、菱垣廻船と樽廻船です。

金毘羅船 大坂安治川の川口
大坂安治川の川口
 大坂安治川の川口の南には樽廻船の蔵が建ち並び、北には菱垣廻船の蔵が建ち並んでいる絵図があります。大型の金昆羅船は二日半で丸亀港に着いているので、船足の早い樽廻船と研究者は考えているようです。
ここで大きく成長するのが平野屋左吉です。
彼は、もともとは安治川の川口の樽廻船問屋でした。樽廻船を金毘羅船に改造して、堺筋長堀橋南詰に発着場を設けて、金毘羅船を経営するようになったと研究者は考えているようです。空に向かって大きくせり出した太鼓橋の下なら大きな船も通れます。しかし、長堀橋のように川面と水平に架けられた平橋の下を大きな船は通れません。そこで平野屋左吉が考えたのが、堺筋長堀橋南詰の発着場と安治川港の間を小型の船で結び、安治川港で大型の金毘羅船に乗り換えて丸亀港を目指すプランです。
金毘羅船 平野屋引き札
この平野屋の引き札からは次のようなことが分かります。
①平野屋が大型の金毘羅船を導入していたこと
②船の左には、平野屋本家として「金毘羅内町 虎屋」と書かれていて、虎屋=平野グループを形成していたこと。

  文政十年(1827)に歌人の板倉塞馬は、京・大阪から讃岐から安芸まで旅をして、『洋蛾日記』という紀行文を著しています。
その中の京都から丸亀までの道中についての部分を見てみましょう。
五月十二日、曇‥(中略)昼頃より京を立つ‥(中略)京橋池六より、乗船、浪花に下る。
十三日、晴。八つ(午後二時)頃より曇る。日の出るころ大阪肥後橋へ着く。(中略)
蟻兄(大阪の銭屋十左衛門)を訪れ、銭屋九兵衛という家(宿屋と思われる)にとまる。(以下略)
十五日、晴。(中略)日暮れて銭九を立つ。長堀橋平野屋佐吉より小舟に乗る。四つ橋より安治川口にて本船に移り、夜明け方出船。天徳丸弥兵衛という。
ここからは次のようなことが分かります。
①5月12日の昼頃に伏見京橋池六で川船に乗って淀川をくだり、13日早朝に大阪の肥後橋到着
②永堀橋の長堀橋の船宿平野屋佐吉の小舟で河口に下り
③15日、四つ橋より安治川口で大型の天徳丸(船頭弥兵衛)に乗り換え、夜明け方に出港した。

つまり平野屋左吉は、二種類の船を持っていたようです
①大阪市内と安治川港を結ぶ小型船
②安治川港と丸亀港を結ぶ大型船
淀川船八軒屋船の船場
川船の行き来する八軒家船着場 安治川湊までの小型船

平野屋は、二種類の船を使い分けて、金毘羅船経営を行う大規模経営者であったようです。普通の船宿経営者は、小型の船で大阪市内と丸亀港を直接結ぶ小規模の経営者が多かったようです。平野屋の売りは、金毘羅の宿は最高グレードの虎屋だったことです。富裕層は、大型船で最上級旅館にも泊まれる平野グループの金毘羅詣でプランを選んだのでしょう。このころには金毘羅船運行の主導権は、多田屋や大和屋から平野屋に移っていたようです。
平野屋佐吉・まつや卯兵衛ちらし」平野屋の札は「蒸気金毘羅出船所

  以上をまとめておくと
①18世紀半ばに金毘羅船の営業が認められ、讃岐出身の多田屋が中心となり運行が始まった。
②多田屋は金毘羅の運送業務の独占化を図ったが、これを金光院は認めず競争関係状態が続いた
③後発の船宿も参入し、金毘羅への忠誠心の証として数々の寄進を行った。これが金毘羅繁栄の要因のひとつでもあった。
④19世紀初頭の弥次喜多の金毘羅詣でには、道頓堀の船宿大和屋の船が使われている。
⑤金毘羅船の拠点が淀屋橋周辺から道頓堀に移ってきて、同時に多田屋に代わって大和屋の台頭がうかがえる
⑥道頓堀の法善寺は、金毘羅船に乗る人々にとっての航海安全を祈る場ともなっていた
⑦19世紀中頃には、平野屋によって樽廻船を改造した大型船が金比羅船に投入された。
⑧これによって、輸送人数や安全性などは飛躍的に向上し、金毘羅参拝者の増加をもたらすことになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
羽床正明 金昆羅大権現に関する三つの疑問     ことひら68 H25
北川央  近世金比羅信仰の展開
町史こんぴら

  今回は「金毘羅大権現信仰資料集NO2(以下略:資料集)」を片手に、境内の狛犬たちを見て回ろうと思います。文化財指定をうけた狛犬は全部で13対です。
出かける前に狛犬についての「予習」をしておきましょう
 邪悪なものが神域を入らないように、社殿の前や参道の入口に据えられたのが狛犬です。狛犬は獅子とも呼ばれ、いまでは「混同」して「同一視」されています。しかし、違いを確認しておくと同じく守護獣ではありますが、次の違いがあります。
①狛犬は頭上に角をはやし、
②獅子は角を生やさない
 神社の狛犬を見ると、頭上に角を生やした狛犬と、角を生やさない獅子を一対として据えてあることが多いようです。そのため、今では狛犬と呼んでも獅子と呼んでもあやまりとはいえなくなっています。
寺院は仁王様、神社は狛犬が守護神
 狛犬は、平安時代に神像がつくられるようになり、神像の守護獣として作られるようになります。仏教では、獅子は釈尊の足もとにいて守護獣のライオンを形どったもので、日本でも奈良時代に寺院の門に安置されるようになります。やがて、獅子のなかで角を生したものが狛犬といわれるようになりペアで宮中の御帳の前に守護獣としておかれるようになります。これが神社では、神像の前に据えられるようになります。そして「狛犬は神社、仁王は寺院の守護神」といわれるようになったとされます。しかし、神仏混淆の時代には、狛犬と仁王様が一緒に祀られることが多かったようです。金毘羅さんもそうでした。
1 金毘羅 伽藍図2

 金毘羅さんでも明治以前には、別当の金光院、その配下の五ヶ院(寺中)があり、数多くの仏教伽藍が立ち並んでいました。境内の入口には二王門(現在の大門)が建ち、仁王像が祀られていました。しかし、神仏分離で二王門は大門と名をあらため、仁王像は明治五年境内の裏谷で焼かれます。そして守護獣としての狛犬だけが残ったのです。
  金毘羅さんにの狛犬を、奉納年代の古い順に表にしたものです。
  
1 金毘羅 狛犬表
       「金毘羅大権現信仰資料集NO2」
この表にしたがって、古い順に金毘羅の狛犬を見ていきましょう
1 四段坂の狛犬
1 金毘羅 狛犬13表

四段坂というのは本堂へに続く、最後の階段で、4段に分かれていますのでこの名が付けられています。御本宮を仰ぐ石段道の左右に狛犬がいます。「資料集」は、この狛犬について次のように記します

1 金毘羅 狛犬11
四隅に隅入の装飾をほどこした花圈岩製の基壇(石工は丸亀の中村屋利左工門)があり、その上に青銅製の狛犬(鋳物師は大坂の長谷川久左衛門)がのっている。右側は口を開いた阿の獅子、左側は頭上に角を生やし口を閉じた吽の狛犬で、共に体は参道に対して直角に向くが、顔は下から登る参拝者の方にむけられている。邪心のある者を威嚇しているのかもしれません。たてがみや尾の毛束をのぞけば、むしろ動きのない狛犬である。しかし、しっかりと踏みしめられた前肢やひきしまった体からは、邪悪をはね返そうとする強い意志のようなものが感じられ、洗練された優品である。

1 金毘羅 狛犬1
四段坂御本宮前の狛犬 宝暦七年大坂の萬人講の奉納した青銅狛犬(阿)
狛犬―青銅製
右側(阿)
〈狛犬の〉 鋳物師 大坂住 長谷川久左衛門作

〈基壇二段〉
正面 萬人講
右面 講元大坂大川町 多田屋新右衛門
   丸亀石工    中村屋判左ヱ門
  金毘羅船の創始者多田屋が奉納した狛犬
基壇に「萬人講」と大きく刻まれています。この狛犬は宝暦七年(1757)に、人講によって奉納されたことが分かります。これは「この指止まれ」方式で「心願」ある人たちが社寺に奉納するため、不特定多数の人たちにひろく寄附者つのるためにつくられた講です。村や町を単位とした地縁、あるいは問屋中、魚買中といった商人仲間がつくったような特定の地縁や社縁の人たちがつくった講ではありません。
この萬人講の講元の名前が「大坂大川町の多田屋新右衛門」と見えます。 多田屋新右衛明は延享元年(1744)ころ、金毘羅さんの許しを得て、金毘羅参拝専用船を最初に運航した大坂の船宿の主人です。波隠やかな瀬戸内海の船旅は比較的安全で、早ければ3日ほどで丸亀に着くことが出来きました。これは山陽道を歩くよりも速いし、歩かなくても船が丸亀まで運んでくれます。船に乗るという経験が少なかった当時の人たちにとって、「瀬戸内海クルージング船」でもあったのではないかと私は考えています。「速くて安くて、便利でクルージング気分も楽しめる」と云うことで、金毘羅船の人気は急速に高まり、多田屋は繁盛したようです。
 この狛犬が建立されたのは金毘羅船が許可されて10年余り経って
多田屋が繁盛し始めた頃です。商売の増々の繁盛と、商売を許されていることへの御礼の意味も込めて、自分が講元となって萬人講をつくり、乗客や泊客などを含めひろく同志をつのって奉納したのでしょう。
 しかし残念ながら、名前が刻まれているのは講元だけで、萬人講のメンバーの名前はありません。どれだけの人数が、この狛犬奉納に加わったかは分かりません。
 多田屋はこの他にも、多度津街道の狛犬や境内の石燈箭に取次として名が残ります。金毘羅大権現とは馴染みの関係であったので、奉納者と金毘羅さんの間にたって仲介の労もとっていたようです。
 この狛犬を最初に見たときに基壇に「丸亀石工 中村屋判左ヱ門」とあるので、大坂から丸亀の石工に発注して作られたものだと早合点していました。しかし、よく見ると本体は青銅製です。どういうことなんだろうと不思議に思っていました。その不思議を解決してくれたのが「金毘羅大権現信仰資料集」です。力強い「工具」です。制作者の名前は狛犬の尻尾に刻まれていることも、この本から教わりました。

②睦魂神社前 明和二年江戸の駿河屋奉納の狛犬(阿)
 狛犬・台座-青銅製 基壇-花崗岩製

 睦魂神社の前に建つ石鳥居の背後に、いる頭を下げ尾を高く上げた狛犬です。
金刀比羅宮(ことひらぐう)の睦魂神社をご参拝 | 今日どんな本をよみ ...

「資料集」には次のように記されています
1 金毘羅1 狛犬11

 狛犬の乗る台は、下の二段の基壇が花南岩製、上端の台座が青銅製である。上端の二面は枠どりされて、なかに牡丹の花と蕾の彫りものがる。この狛犬は右が阿、左が吽だがが、吽の頭上には角がなく、左右とも獅子である。共に前肢を折って低くかまえ、今にも飛びかかろうとする一瞬の姿をとらえ動きのある像である。しかし、たてがみや尾の毛束などにも見られるように装飾性が強過ぎ、それだけに力強さを欠くものとなっている。

台座に刻まれた文字から、
  奉納者は江戸本八丁堀四丁目(現中央区八丁堀)の駿河屋川口勝五郎で、明和(1765)に奉納されていることが分かります。江戸から奉納された最初のものになるようです。鋳物師も江戸神田住の西村政時で、飾装性が強いのは華やかさを好む江戸でつくられたからかもしれません。
金刀比羅宮(琴平町) | たんぽぽろぐ

 この狛犬は睦魂神社の前に座っています。
ここには明治以前には三十番神社が祀られていました。金毘羅堂が建設される前の松尾寺の守護神とも云われます。金毘羅金光院は、この神社と権力闘争を繰り返しながら象頭山のお山の大将に成長していきます。三十番神は法華経守護の神として祀られるようになった神で、天台仏教との関りが強かったようです。しかし、三十番社は仏教色の強さ故に、明治の神仏分離の際に、廃されます。代わって、修験者で金光院初代宥盛が祀られ、その後に大国魂神・大国主神を合祀した睦魂神社(境内末社)が、ここには建立されました。祀る神は代わっても、その前の狛犬はそのまま残ったようです。

                         ③ 桜馬場入口の狛犬
1 金毘羅 狛犬22表

 大門を入って五人百姓の傘を抜けると、桜馬場の長い玉垣がはじまります。そのスタート地点にいるのがこの狛犬です。上の写真では、傘の上に止まっているように見えます。参道をなかに向かいあい、顔だけが少し大門に向いている
1 金毘羅 狛犬222表
ようです。
資料集には次のように書かれています。
「台座基壇は計四段で下二段の基壇は花圈岩製、上二段の台座は青銅製である。最上段・の台座は、正面一区、側面二区に分けられていて、各々中央に龍の彫り物がある。狛犬も青銅製で右(阿)が頭上に角を生やし、左(吽)は珍しく頭上に宝珠をのせている。顔はもちろんのこと像の全体に誇張した表現が見られるが、太目につくられていることで、かえって各部が誇張され、守護獣としての風格が感じられる。」
 奉納は神田日本橋の江戸講中で、日本橋を中心とした総数210人の人たちです。よく見ると「長州家中」「雲座神門郡」(島根県出雲地方)の村々の人の名前もあります。こうした多方面の数多い人々の協力があって境内最大の高さの狛犬奉納となったのでしょう。奉納は明和三年(1766)で、睦魂神社前の狛犬が江戸八丁堀の駿河屋川口勝五郎によって奉納された翌年になります。この頃から灯籠・玉垣が競い合うように寄進され始めます。

鋳物師をみると、右側の狛犬は「江戸神田住、太田近江大橡藤原正次作」となっています。ところが左側のものは「鈴木播磨大禄作」です。左右が別の人の作のようです。別々の石工に発注し、基壇は、左右ともに当地丸亀の石工大坂屋文七です。ここからは青銅製の台座と狛犬は江戸から運ばれ、当所の石工の作った基壇にすえられたことが分かります。それから250年を越える年月が流れた事になります。

④遥拝所の狛犬
1 金毘羅 狛犬遙拝所3表
◆天明元年出雲の松江惣講中の奉納した狛犬  
 1 金毘羅 狛犬遙拝所33表
円型台座
 右面  雲陽松江
    奉願主 佐々木重兵衛
 左面 雲州松江
    石工門兵衛
 〈基壇一段〉
 正面 雲州松江
    奉 献
    惣講中
 右面 願主 山口口口口
        大口口口口
    頭取 口口口口
        石口口口口
 左面 天明元口口六
     松江寺町  石工口右衛門

 賢木門をくぐった遥拝所の玉垣の内に、一対の狛犬が奉納されています。台座・基壇から狛犬まで総て凝灰岩製です。この石は風化しやすい石材なので、台座・基壇の銘文の一部が剥離し、狛犬の口の辺が欠けています。二段の切り石造りの基壇上に、円形の台座を据え、円形の台座には正面と背面に、ここにも牡丹が薄肉彫りにされています。牡丹は中国から江戸時代に渡来し、豊麗な花として大流行したようです。「牡丹に唐獅子」のイメージもあって、狛犬の台座装飾に使われたのでしょう。当時の流行の一端が見えます。
 ここの狛犬は右側が口を閉じた吽、左側が口を開いた阿です。
これは普通見るポジションと例と左右が逆になっています。どうして?
 遥拝所は、神仏分離以前は仏教伽藍の鐘楼があった所です。それが撤去されて「崇徳上皇の白峰」との関係を示すために「遙拝所」とされました。その時に、ここに移動してきたようです。その際に左右を間違えて据え付けてしまったようです。150年前のことです。居心地が悪そうにも見えますが、そんなことも受けいれているような気もしてきます。

 願主は雲州松江惣講中で、講元は佐々木重兵衛と刻まれています。
天明元年(1781)奉納で、石工も同じ松江の門兵衛で、松江近辺で採れる凝灰岩(来待石か)をつかい、狛犬から台座・基壇まで同地方で作り、完成したものが金毘羅さんに運ばれ、奉納されたのでしょう。石造狛犬は細工するのにむつかしいので、技術が求められます。最初は、この狛犬のように軟質の凝灰岩や砂岩が多く利用されたようです。ここでも奉納元の大工に発注し、それが金毘羅まで運ばれています。地元讃岐の石工に直接に注文した方が便利なように思えますが、作られるのは地元です。
以上 金毘羅さんに残る狛犬を古い順に4つ見てきました。残りはまた次回に・・
参考文献 印南敏秀 狛犬 「金毘羅庶民信仰資料集NO2」

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