瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:多聞院

11月の連休は快晴続きで、9月末のような夏日の日が続きました。体力も回復してきたので、久しぶりに稜線を歩きたくなり、あっちこっちの山々に出没しました。前回紹介した石堂山にも行ってきたので、その報告記を残しておきます。この山は明治の神仏分離までは「石堂大権現」と呼ばれ、修験者たちの修行の場で、霊山・聖地でした。
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石堂山直下の 「お塔石」
頂上直下の 「お塔石」がご神体です。また、山名の由来ともなった石室(大工小屋石:石堂)もあります。「美馬郡郷土誌」には、大正時代まで祭日(旧6月27日)には多くの白衣の行者たちが、この霊山をめざしたことが記されています。彼らが最初に目指したのが、つるぎ町半田と木屋平の稜線上に鎮座する石堂神社です。グーグルに「石堂神社」と入れると、半田町経由の県道304号でのアプローチルートが提示されます。指示されるとおり、国道192号から県道257号に入り、半田川沿いに南下します。このエリアは、かつて端山88ヶ所巡礼のお堂巡りに通った道です。見慣れたお堂に挨拶しながら高清で県道258号へ右折して半田川上流部へと入っていきます。

半田町上喜来 多聞院.2

上喜来・葛城線案内図(昭和55年5月5日作成)
以前に端山巡礼中に見つけた43年前の住宅地図です。
①は白滝山を詠んだ歌です。
八千代の在の人々は 
   仰げば高き白滝の映える緑のその中に 
小浜長兵衛 埋けたる金が 
   年に一度は枝々に 黄金の色の花咲かす
このエリアの人々が見上げる山が白滝山で、信仰の山でもあり、「黄金伝説」も語り継がれていたようです。実際の白滝山は③の方向になります。石堂山は、白滝山の向こうになるので里からは見えないようです。
②は石堂神社です。上喜来集落の岩稜の上に建っていたようです
⑥の井浦堂の奥のに当たるようですが、位置は私には分かりません。この神社は、稜線上にある石堂神社の霊を分霊して勧進した分社であることは推察できます。里の人達が白滝山や石堂山を信仰の山としていたことが、この地図からもうかがえます。
⑦には「まゆ集荷場」とあります。
現在の公民館になっている建物です。ここからは1980年頃までは、各家々で養蚕が行われ、それが集められる集荷場があったということです。蚕が飼われていたと云うことは、周辺の畑には桑の木が植えられていたことになります。また、各家々を見ると「養鶏場」とかかれた所が目立ちます。そして、いまも谷をつめたソラの集落の家には鶏舎が建ち並ぶ姿が見えます。煙草・ミツマタ・養蚕などさまざまな方法で生活を支えてきたことがうかがえます。

多門寺3
多門寺とサルスベリ
この地図を見て不思議に思うのは、多門寺が見えないことです。
多門寺には室町時代と伝えられる庭と、本尊の毘沙門天が祀られています。古くからの山岳信仰の拠点で、この地域の宗教センターで会ったことがうかがえます。

多門寺
多門寺の本堂と庭
前回もお話ししたように、石堂大権現信仰の中核を占めていた寺院が多門寺だと私は思っています。その寺がどうしてここに書き込まれていないのかが私には分かりません。県道258号を先を急ぎます。

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風呂塔・土々瀧への分岐点
多門寺の奥の院である土々瀧の灌頂院への分岐手前の橋の上までやってきました。ここで道標を確認して、左側を見ると目に見えてきたのが次の建物でした。
半田川沿いの旅籠
          土々瀧への分岐点の旅館?
普通の民家の佇まいとはちがいます。拡大して見ると・・

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謎の旅館
旅館の窓のような印象を受けます。旅館だとすると、どうしてこんなところに旅館が建っていたのでしょうか。
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謎の旅館(?)の正面側

私の持っている少ない情報で推察すると、次の二点が浮かんできました。
①石堂大権現(神社)への信者達の参拝登攀のための宿
②多門寺の奥の院灌頂院への信者達の宿
謎の旅館としておきます。ご存じの方がいらっしゃったらお教え下さい。さらに県道258号を登っていきます。

四眠堂
四眠堂(つるぎ町半田紙屋)
 紙屋集落の四眠堂が道の下に見えてきます。
ここも端山巡礼で御世話になったソラのお堂です。これらのお堂を整備し、庚申信仰を拡げ、庚申講を組織していったのも修験者たちでした。
 霊山と呼ばれる寺社には、多くの高野聖や修験者(山伏)などの念仏聖が庵を構えて住み着き、そこを拠点にお札配布などの布教活動をおこなうようになります。阿波の高越山や石堂山周辺が、その代表です。修験者たちが庚申信仰をソラの集落に持込み、庚申講を組織し、その信仰拠点としてお堂を整備していきます。それを阿波では蜂須賀藩が支援した節があります。つまり、ソラの集落に今に残るお堂と、庚申塔は修験者たちの活動痕跡であり、そのテリトリーを示すものではないかと私は考えています。

端山四国霊場 四眠堂
端山四国霊場68番 四眠堂
四眠堂の前を「導き給え 教え給え 授けたまえ」と唱えながら通過して行きます。半田川から離れて上りが急になってくると県道304号に変わります。しかし、県道表示の標識は私は一本も見ませんでした。意識しなければ何号線を走っているのかを、気にすることはありません。鶏舎を越えた急登の上に現れたのがこのお堂。

庚申堂 半田町県道304号
半田小谷の庚申堂
グーグルには「庚申堂」で出てきます。

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           半田小谷の庚申堂

   高野聖が修験道を学び修験者となり、村々の神社の別当職を兼ねる社僧になっている例は、数多く報告されています。近世の庶民信仰の担当者は、寺院の僧侶よりも高野聖や山伏だったと考える研究者もいます。ソラの集落の信仰には、里山伏(修験者)たちが大きな役割を果たしていたのです。その核となったのがこのようなお堂だったのです。
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最後の民家
 上に登っていくほどに県道304号は整備され、走りやすくなります。植林された暗い杉林から出ると開けた空間に出ました。ススキが秋の風に揺らぐ中にあったのがこの民家です。周囲は畑だったようです。人は住んでいませんが、周辺は草刈りがされて管理されています。「古民家マニア」でもあるので拝見させていただきます。

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民家へのアプローチ道とススキP1260095
庭先から眺める白滝山
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庭先からの吉野川方面
この庭先を借りて、お茶を沸かして一服させていただきました。西に白滝山が、北に吉野川から讃岐の龍王・大川、東に友納山や高越山が望めます。素晴らしいロケーションです。そしてここで生活してきた人達の歴史について、いろいろと想像しました。そんな時に思い出したのが、穴吹でも一番山深い内田集落を訪れた時のことです。一宇峠から下りて、集落入口にある樫平神社でお参りをして内田集落に上がっていきました。めざす民家は、屋号は「ナカ」で、集落の中央という意味でしょう。この民家を訪ねたのは、屋敷神に南光院という山伏を祀(まつ)っていることです。先祖は剣周辺で行を積んでいた修験道でなかったのかと思えます。
 村里に住み着いた修験者のことを里山伏と呼ぶことは先ほど述べました。彼らは村々の鎮守社や勧請社などの司祭者となり、拝み屋となって妻子を養い、田畑を耕し、あるいは細工師となり、鉱山の開発に携わる者もいました。そのため、江戸時代に建立された石塔には導師として、その土地の修験院の名が刻まれたものがソラの集落には残ります。
 この家の先祖をそんな山伏とすれば、ひとつの物語になりそうな気もしてきます。稜線に鎮座する石堂大権現を護りながら、奥の院である矢筈山から御神体である石堂山のお塔岩、そして断崖の白滝山の行場、護摩炊きが山頂で行われた火揚げ山を行場として活動する修験者の姿が描けそうな気もします。

石堂山から風呂塔
     矢筈山から風呂塔までの石堂大権現の行場エリア
ないのは私の才能だけかもしれません。次回はテントを持ってきて、酒を飲みながら「沈思黙考」しようと考えています。「現場」に自分を置いて、考えるのが一番なのです。
 この民家を後にすると最後のヘアピンを越えると、道は一直線に稜線に駆け上っていきます。その北側斜面は大規模な伐採中で視界が開け、大パノラマが楽しめる高山ドライブロードです。

石堂山
県道304号をたどって石堂神社へ
稜線手前に石堂神社への入口がありました。

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県道304号の石堂神社入口
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石堂神社への看板
ここからは1㎞少々アップダウンのきついダートが続きます。

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石堂神社参のカラマツ林
迎えてくれたのは、私が大好きな唐松の紅葉。これだけでも、やってきた甲斐があります。なかなか緊張感のあるダートも時間にすればわずかです。

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標高1200mの稜線上の石堂神社
たどりついた石堂神社。背後の木々は、紅葉を落としている最中でした。
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拝殿から鳥居方向
半田からは寄り道をしながらも1時間あまりでやってきました。私にとっては、快適な山岳ドライブでした。これから紅葉の中の稜線プロムナードの始まりです。それはまた次回に。

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最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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 近世の金毘羅では、封建的領主でもある松尾寺別当の金光院に5つの子院が奉仕するという体制がとられていました。
その中で多聞院は、金毘羅山内で特別の存在になっていきます。ときにはそれが、金光院に対して批判的な態度となってあらわれることあったことが史料からは見えてきます。また、多聞院に残された史料は、金光院の「公式記録」とは、食い違うことが書かれているものがいくつもあります。そして比べて見ると、金光院の史料の方が形式的であるのに対して、多聞院の史料の方が具体的で、リアルで実際の姿を伝えていると研究者は考えているようです。どちらにしても、別の視点から見た金毘羅山内の様子を伝えてくれる貴重な史料です。

金毘羅神 箸蔵寺
箸蔵寺の金毘羅大権現

 近世初期の金毘羅は、修験者の聖地で天狗道で世に知られるようになっていました。
 公的文書で初代金光院院主とされる宥盛は「死後は天狗となって金毘羅を守らん」と云って亡くなったとも伝えられます。彼は天狗道=修験道」の指導者としても有名で、数多くの有能な修験者を育てています。その一人が初代の多聞院院主となる片岡熊野助です。宥盛を頼って、土佐から金毘羅にやってきた熊野助は、その下で修験者として育てられます。

天狗達
金毘羅大権現と大天狗と烏天狗(拡大)
 修験(天狗道)の面では、宥盛の後継者を自認する多聞院は、後になると「もともとは当山派修験を兼帯していた金光院のその方面を代行している」と主張するようになります。しかし、金光院の史料に、それをしめすものはないようです。

1金毘羅天狗信仰 天狗面G4
天狗信者が金毘羅大権現に納めた天狗面
 
金光院の初期の院主たちは「天狗道のメッカ」の指導者に相応しく、峰入りを行っていて、帯剣もしています。そういう意味でも真言僧侶であり、修験者であったことが分かります。しかし、時代を経るにつれて自ら峰入りする院主はいなくなります。それに対して歴代の多聞院院主は、修験者として入峯を実際に行っています。

松尾寺の金毘羅大権現像
松尾寺の金毘羅大権現

宝暦九(1760)年の「金光院日帳」の「日帳枝折」には、次のように記されています。

「六月廿二日、多聞院、民部召連入峯之事」

天保4(1833)年に隠居した多聞院章範の日記には、大峰入峯を終えた後に、近郷の大庄屋に頼み配札したことが書かれています。
多聞院が嫡男民部を連れて入峯することは、天保四年の「規則書」の記事とも符合します。
 次に多聞院の院主の継承手続きや儀式が当山派の醍醐寺・三宝院の指導によって行われていたことを見ておきましょう。
(前略)多聞院儀者先師宥盛弟子筋二而 同人代より登山為致多聞院代々嫡子之内民部与名附親多聞院召連致入峯 三宝院御門主江罷出利生院与相改兼而役用等茂為見習同院相続人二相定可申段三宝院御門主江申出させ置多聞院継目之節者 拙院手元二而申達同院相続仕候日より則多聞院与相名乗役儀等も申渡侯尤此元二而相続相済院上又々入峯仕三宝院 御門主江罷出相続仕候段相届任官等仕罷帰候節於当山奥書院致目見万々無滞相済満足之段申渡来院(後略)
意訳変換しておくと
(前略)多聞院については、金光院初代の先師宥盛弟子筋であり、その時代から大峰入峯を行ってきた。その際に、多聞院の代々嫡子は民部と名告り、多聞院が召連れて入峯してきた。そして三宝院御門主に拝謁後に利生院と改めて、役用などの見習を行いながら同院相続人に定められた。このことは、三宝院御門主へもご存じの通りである。
 多聞院継目を相続する者は、拙院の手元に置いて指導を行い、多聞院を相続した日から多聞院を名告ることもしきたりも申渡している。相続の手続きや儀式が終了後に、又入峯して三宝院御門主へその旨を報告し、任官手続きなどを当山奥書院で行った後に来院する(後略)

ここには多聞院の相続が、醍醐寺の三宝院門主の承認の下に進めらる格式あるものであることが強調されています。金光院に仕えるその他の子院とは、ランクが違うと胸を張って自慢しているようにも思えてきます。
 このように多聞院に残る「古老伝」には、修験の記事が詳しく具体的に記されています。現実味があって最も信憑性があると研究者は考えているようです。そのため当時の金毘羅の状況を知る際の根本史料ともされるべきだと云います。 
新編香川叢書 史料篇 2(香川県教育委員会 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

それでは、古老伝旧記 ( 香川叢書史料編226p)を見ておきましょう。

    古老伝旧記 
〔古老伝旧記〕○香川県綾歌郡国分寺町新名片岡清氏蔵
(表紙) 証記 「当院代々外他見無用」
極秘書
古老之物語聞伝、春雨之徒然なる儘、取集子々孫々のためと、延享四(1748)年 七十余歳老翁書記置事、かならす子孫之外他見無用之物也。

「古老伝旧記」は多聞院四代慶範が延享4年(1744)に記述、九代文範が補筆、十代章範が更に補筆、補修を加えたもので、文政5年(1822)の日付があります。古老日記の表紙には、「当院代々外他見無用」で「極秘書」と記されています。そして1748年に当時の多聞院院主が、子孫のために書き残すもので、「部外秘」であると重ねて記しています。ここからは、この書が公開されないことを前提に、子孫のために伝え聞いていたことをありのままに書き残した「私記」であることが分かります。それだけに信憑性が高いと研究者は考えています。
天狗面を背負う行者
天狗行者
例えば金毘羅については、次のように記されています。
一、当国那珂郡小松庄金毘羅山之麓に、西山村と云村有之、今金毘羅社領之内也、松尾寺と云故に今は松尾村と云、西山村之事也、
讃岐国中之絵図生駒氏より当山へ御寄附有之、右絵図に西山村記有之也、
一、金昆羅と申すは、権現之名号也、
一、山号は、象頭山   
一、寺号は、松尾寺
一、院号は、金光院    
一、坊号は、中の坊
社領三百三拾石は、国主代々御領主代々数百年已前、度々に寄附有之由申伝、都合三百三拾石也、
当山往古火災有之焼失、宝物・縁記等無之由、高松大守 松平讃岐守頼重公、縁記御寄附有之、
意訳変換しておくと
一、讃岐国那珂郡小松庄金毘羅山の麓に、西山村という村がある。今は金毘羅の社領となっていて、松尾寺があるために、松尾村とよばれているが、もともとは西山村のことである。
讃岐国中の絵図(正保の国絵図?)が、生駒氏より当山へ寄附されているが、その絵図には西山村と記されている。
一、金昆羅というのは、権現の名号である。
一、山号は、象頭山   
一、寺号は、松尾寺
一、院号は、金光院    
一、坊号は、中の坊
社領330石は、国主や御領主から代々数百年前から度々に寄附されてきたものと言い伝えられていて、それが、都合全部で330石になる。当山は往古の火災で宝物・縁記等を焼失し、いまはないので、高松大守 松平讃岐守頼重公が縁記を寄附していただいたものがある。
①生駒家から寄贈された国絵図がある
②坊号が中の坊
③松平頼重より寄贈された金毘羅大権現の縁起はある。
天狗面2カラー
金毘羅に奉納された天狗面
歴代の金光院院主については、次のように記されています。
金光院主之事   227p
一、宥範上人 観応三千辰年七月朔日、遷化と云、
観応三年より元亀元年迄弐百十九年、此間院主代々不相知、
一、有珂(雅) 年号不知、此院主西長尾城主合戦之時分加勢有之、鵜足津細川へ討負出院之山、其時当山の宝物・縁記等取持、和泉国へ立退被申山、又堺へ被越候様にも申伝、
一、宥遍 一死亀元度午年十月十二日、遷化と云、
元亀元年より慶長五年迄三十一年、此院主権現之御廟を開拝見有之山、死骸箸洗に有之由申伝、
意訳変換しておくと   
一、宥範上人 観応三(1353)年7月朔日、遷化という。その後の観応三年より元亀元年までの219年の間の院主については分からない。

宥範は善通寺中興の名僧とされて、中讃地区では最も名声を得ていた高篠出身の僧侶です。長尾氏出身の宥雅が新たに松尾寺を創建する際に、その箔をつけるために宥範を創始者と「偽作」したと研究者は考えています。こうして金毘羅の創建を14世紀半ばまで遡らせようとします。しかし、その間の院主がいないので「(その後の)219年の間の院主については、分からない」ということになるようです。
  一、有珂(雅)  没年は年号は分からない。
この院主は西長尾城の合戦時のときに長尾氏を加勢し、敗北して鵜足津の細川氏を頼って当山を出た。その時に当山の宝物・縁記は全て持ち去り、その後、和泉国へ立退き、堺で亡命生活を送った。
宥雅が金毘羅神を作り出し、金比羅堂を創建したことは以前にお話ししました。つまり、金毘羅の創始者は宥雅です。しかし、宥雅は「当山の宝物・縁記は全て持ち去り、堺に亡命」したこと、そして、金光院院主と金比羅の相続権をめぐって控訴したことから金光院の歴代院主からは抹消された存在になっています。多聞院の残した古老伝が、宥雅の手がかりを与えてくれます。
  一、宥遍  元亀元年十月十二日、遷化と云、
元亀元(1570)年より慶長五(1600)年まで31年間に渡って院主を務めた。金毘羅大権現の御廟を開けてその姿を拝見しようとし、死骸が箸洗で見つかったと言い伝えられている院主である。
宥遍が云うには、我は住職として金毘維権現の尊体を拝見しておく必要があると云って、、御廟を開けて拝見したところ、御尊体は打あをのいて、斜眼(にらみ)つけてきた。それを見た宥遍は身毛も立ち、恐れおののいて寺に帰ってきた。そのことを弟子たちにも語り、兎角今夜中に、我体は無事ではありえないかもしれない、覚悟をしておくようにと申渡して、護摩壇を設営して修法に勤めた。そのまわりを囲んで塞ぎ、勤番の弟子たちが大勢詰めた。しかし、夜中に何方ともなくいなくなった。翌日になって山中を探していると、南の山箸洗という所に、その体が引き裂かれて松にかけられていた。いつも身につけている剣もその脇に落ちていた。この剣は今は院内宝蔵に収められている。
  ここには金毘羅大権現の尊体を垣間見た宥遍が引き裂かれて松に吊されたという奇話が書かれています。もともと宥遍と云う院主は金毘羅にはいません。宥雅の存在を抹消したために、宥盛以前の金比羅の存在を説くために、何らかの院主を挿入する必要があり、創作されたようです。そこで語られる物語も奇譚的で、いかにも修験者たちが語りそうなものです。

7 金刀比羅宮 愛宕天狗
愛宕天狗

 なお、この中で注目しておきたいのは、次の2点です。
①宥遍には多くの弟子がいて、護摩壇祈祷の際には宥遍を、勤番の弟子たちが大勢詰めたとあること。
②「いつも身につけている剣もその脇に落ちていた。」とあり、常に帯刀していたこと。
ここからも当時の金光院院主をとりまく世界が「修験者=天狗」集団であったことがうかがえます。これは金毘羅大権現の絵図に描かれている世界です。

金毘羅と天狗
金毘羅大権現と天狗たち(修験者)
以上見てきたように多聞院に残された古老伝は、正式文書にはないリアルな話に満ちていて、私にとっては興味深い内容で一杯です。

最後に 金光院宥典が多聞院宥醒(片岡熊野助)を頼りとしていたことがうかがえる史料を見ておきましょう。古老伝旧記の多開院元祖宥醒法印(香川叢書史料編Ⅰ 240P)には次のように記されています。
万治年中病死已後、宥典法印御懇意之余り、法事等之義は、晩之法事は多聞院範清宅にて仕侯得は、朝之御法事は御寺にて有之、出家中其外座頭迄之布施等は、御寺より被造候事、

意訳変換しておくと
万治年中(1658~60)に多開院元祖宥醒の病死後、宥典法印は懇意であったので、宥醒の晩の法事は多聞院範清宅にて行い、朝の御法事は御寺(松尾寺?)にて行うようになった。僧侶やその他の座頭衆などの布施も、金光院が支払っていた。



 金毘羅神は近世始めに、西長尾城主の長尾氏出身の宥雅によって、生み出された流行神です。
土佐の長宗我部元親の侵攻の際に宥雅は堺に亡命します。無住となった松尾寺伽藍を元親は、土佐の有力修験者であった南光院(宥厳)に与えて、讃岐支配のための拠点宗教施設にしようとします。元親撤退後も宥厳とその弟子であった宥盛は、金比羅を「修験道=天狗道」の拠点にしていきます。その信仰の中心に据えたのが「金毘羅神」です。中心施設も松尾寺の本堂から「金毘羅堂」へ移っていきます。それまでの本堂観音堂の場所に、金比羅堂が移築拡張されます。それが現在の本殿になります。そして、金比羅神を祀る神社としての金毘羅大権現、その別当寺としての松尾寺という関係が生まれます。この時期には、多くの有力修験者がいて、子院を形成していたようです。その中で最も有力になっていくのが金光院です。宥盛の時代に金光院は、生駒家の力を背景に、その他の子院や三十番社などの宗教勢力と抗争を繰り返しながら、金毘羅における支配権を握っていくことは以前にお話ししました。

天狗達
金毘羅大権現と大天狗・烏天狗 

このように近世初めの金毘羅は、権力者(長宗我部元親や生駒親正)の保護を受けた有力修験者によって「天狗道の聖地」として形成されたようです。「海の神様」というのは、近世末になって云われ出したことです。金毘羅は、崇徳上皇が天狗となって棲む白峰寺と同じような天狗たちの住処と世間では思われていたことを押さえておきます。
 こうして、「天狗道のメッカ」である金比羅には全国から数多くの天狗(修験者)たちが修行にやってきます。それを育成保護し、組織化したのが金光院宥盛です。彼の下からは有力な修験道の指導者が沢山生まれています。


佐川盆地周辺の城跡
仁淀川と佐川・越知周辺の中世古城跡
 その中に、後に多聞院を開く片岡熊野助がいました。
今回は、この片岡熊野助(初代多聞院)を見ていきたいと思います。
彼の出自については前回見たように、土佐の仁淀川中流域の片岡や黒川を拠点に活動していた国人武将の片岡氏の一族です。

片岡氏 片岡
仁淀川中流の片岡周辺

 『佐川郷史』は、片岡光綱が長宗我部元親に対してとった戦略について次のように記します。
①長宗我部元親の佐川盆地攻略にまっ先に恭順の意を表して軍門に下ったこと
②近郷諸族降伏の勧誘をも行ない、元親の信第一の将として「親」の一字を賜って親光と改名したこと
③家老職に補されて高岡郡の支配と周辺国人の監督連携の要の役を託されたこと
以上から、片岡光綱(親光)が佐川盆地周辺の実質的な支配を長宗我部元親から託されたと研究者は考えています。 片岡氏は長宗我部元親に帰順することで、佐川盆地の支配権を手に入れ勢力を拡大していきます。
この時期が片岡家にとっての「全盛期」になるようで、片岡一族も長宗我部元親に従って四国平定戦に活躍しています。 そんな中で熊野助は、片岡氏の分家一族である片岡直親の子として、天正14(1586)年に父徳光城で生まれています。
  「南路志」南片岡村の片岡氏系図には、当時の片岡家の棟梁は、熊野助の父の伯父である親光と記します。そして親光の父直光は、長宗我部元親の叔母を妻に迎えています。婚姻関係から見ても、片岡家は長曾我部氏と深いつながりがあったようです。
 ところが四国平定戦の最終局面になって、片岡家には不幸が重なります。
片岡家の棟梁・親光が伊予遠征中に秀吉軍と戦い戦死します。さらに翌年には熊野助の父が、秀吉の九州平定に動員された長宗我部軍として豊後に遠征します。この時の島津軍と戸次川の戦いは、「四国武将の墓場」と言われた戦いで、島津軍の巧妙な戦術で多くの讃岐武将たちも命を落としています。熊野助の父も戦死します。熊野助は、生まれてすぐに一族の棟梁と父を亡くしたようです。その後、片岡家がどのように運営されたのかはよく分かりません。
 転機はそれから14年後の1600年の関ヶ原の戦いです。
長宗我部氏が領地没収となった後に入国するのが、山内氏です。これに対して、旧長宗我部の家臣団や国人武将達は、激しい抵抗を見せます。しかし、これも山内氏によって押さえ込まれていきます。このような中で14歳になっていた熊野助は、どんな道を選んだのでしょうか。
『吾川村史』は、次のように記します。
「熊野助は慶長5(1600)年の山内氏入国後 (中略)
松山へ逃れ、更に仏門に入って、讃岐金比羅別当寺(宥盛)に弟子入りする。大坂夏の陣の際に還俗して片岡民部と名乗り豊臣方へ参戦。生き永らえた彼は、上八川(現伊野町)へ逃げ帰った。その後(略)下八川深瀬で、祈祷師として身をかくし、17年の歳月を隠忍した」
ここには記されていることを補足・要約しておきます。
①関ヶ原の戦い後に、14歳の熊野助は仏門に入り、金毘羅の金光院宥盛に弟子入りしたこと
②そこで宥盛のもとで修験者として「天狗道」や武術を身につけたこと
③1615年に大坂夏の陣が起きると、長宗我部一統と連絡を取り合っていた多聞院は、還俗して片岡民部と名乗り大阪城に入り豊臣方として参戦
④戦後は土佐八川深瀬に祈祷師(修験者)として、17年間潜伏。
⑤1632年に、土佐藩主二代・山内忠義の許可を得て、ふたたび金光院に復帰。
⑤の経緯を『讃州多聞院流片岡家由緒』は、次のように記します。
「宥盛の後を嗣いだ宥睨より、金光院の門外である小坂の地に宏大な宅地を賜わり、なお宥盛より竜樹作の多聞天像を与えられていたほどの愛弟子であったため多聞院と号することとなった。万治二年(1659)4月2日、74歳で逝去した。」

しかし、この史料に対して③④⑤については何も触れていない史料もあります。
多聞院の後世の院主が残した「古老伝旧記」には、次のように記されています。
多聞院元祖片岡熊之助、当地罷越金剛坊宥盛法印之御弟子に罷成、神護院一代之住職も相勤候、其後宥盛法印之御袈裟筋修験相続之事、慶長年中訳有伊予罷越、本国に付土佐国へ帰参、寛永八年宥現法印より使僧を以、土州僧録常通寺と申へ国暇之義被申入候て、則首尾能埓明、当地へ引越、元祖多聞院宥醒法印、寛永八年間十月、土州役人中連判之手形迂今所持候也、当地へ着、新ん坊と申に当分住居、追て唯今之屋敷宥睨法印より御普請有之被下、数代住居不相更代々当地之仕置役相勤候事、具成義別紙に記有之也、
(朱)多聞院居宅柱は古の鳥居の柱つが木梁引物等、今石の鳥居挽しゅら等取合普請給候也」
意訳変換しておくと
 多聞院元祖の片岡熊之助が当地金比羅にやってきて金剛坊宥盛法印の弟子になった。そして、神護院の一代住職として相勤め、その後は宥盛法印の袈裟筋の修験を相続した。そのような中で、慶長年間に訳あって伊予へ行き、その後本国の土佐国へ帰参した。これに対して宥盛の跡を継いだ宥睨は、寛永8(1631)に使僧を派遣して、土州僧録常通寺へ申し出て、讃岐金毘羅への帰山を申し入れた所、首尾よく受けいれられた。そこで、熊野助は金比羅へ再度やって来ることになった。こうして、熊野助は元祖多聞院宥醒法印と称し、寛永八年間10月、土州の役人から連判手形の発行を受けた上で当地へやってきて、しばらくは新ん坊と呼ばれて生活した。その後、今の屋敷を宥睨法印より新たに普請し与えられた。この屋敷は、数代に渡って代わることなく多聞院が代々に渡って当地の仕置役を相勤ていることは、別紙にも記した通りである。
(朱)多聞院居宅柱は古の鳥居の柱つが木梁引物等、今石の鳥居挽しゅら等取合普請給候也」
古老伝旧記には、次のことは何も触れられていません
①大阪夏の陣に参戦したこと
②敗戦後に土佐八川で潜伏生活を17年送ったこと
③土佐藩主と親密な関係があったこと
29歳の熊野助が大坂夏の陣に参戦したのかどうかは、分からなくなります。多聞院の子孫にとって、先祖が徳川方と戦ったということを秘めておいた方が無難だと判断したので「訳あって」とぼかしているのかも知れません。しかし、土佐からの帰讃手順については具体的でリアルです。どうとも云えないようです。これについては、置いておくことにして、その他について見ていくことにします。
まず①の熊野助が金毘羅にやって来たのは、どうしてなのでしょうか?
仁淀川上・中流域は、橫倉山を中心に修験者の活動が活発なエリアであったことは以前にお話ししました。そのため有力武将の一族からは、修験者となって指導的な地位についていた者がいたことが史料からもうかがえます。長宗我部元親は、そのブレーンや右筆に修験者たちを組織して使っていたと云われます。彼らは修験者として、四国の聖地や行場を「行道」し修行を積んでいて、四国各地の交通路やさまざまな情報にも通じていました。これは「隠密」としては最適な条件を備えています。
 片岡家の一族の中にも修験者がいたはずです。そんな中で熊野助の今後を考えると、義経が鞍馬寺に預けられ、鞍馬天狗に鍛えられたように、どこかの修験者に預けて一族の再興を願ったことが考えられます。また、金毘羅の松尾寺は土佐出身の南光院(宥厳)が金光院院主として支配していました。宥厳は、幡多郡の修験者を束ねるほどの存在でもあったことは、以前にお話ししました。また、その弟子である宥盛も修験者としては、名声を得るようになっていました。そこで、片岡家の熊野助は、金毘羅金光院にの宥盛に弟子入りすることになったと私は考えています。

②については、金毘羅にやってきた熊野助が、宥盛から何を学んだのかということです。
 師の宥盛は、指導力や育成力もあったようで、全国から彼の下に修験者が集まってきています。そして有能と認めれば「採用・雇用」し、様々なポストも与えています。そのような中でも、熊野助は有能であったようです。そのために、土佐に身を置いていた熊野助は、後に呼び戻されたとしておきましょう。
  
 片岡氏 八川
仁淀川支流の八川深瀬

④大阪籠城戦後に、土佐の八川深瀬に祈祷師(祈祷師)として潜伏したとあります。
前回に見たように片岡氏の拠点は、仁淀川中流域の片岡や黑嶋でした。八川は、その周辺エリアになります。つまり、熊野助は幼年期を過ごした仁淀川中流流域エリアに帰ってきて、山伏として隠れ住んでいたことになります。もしそうなら、それを周囲の山伏たちや住民も知りながら、山内藩に密告することなく守り続けたことになります。

江戸時代後期にまとめられた『南路志』の吾川郡下八川村の条に、片岡家が篤く信仰していた正八幡社には、次のように記されています。
「金幣一振 讃州金毘羅多聞院寄進」
「十二社東宮大明神 右八幡同座弊一振 多聞院寄進」
ここからは、金毘羅の多聞院が下八川村の正八幡社に奉納品を送り続けたいたことが分かります。その背景には、片岡家の出身地であり、金毘羅から帰国した熊野助の活動拠点でもあったのではないかとも考えられます。
それを裏付けるのが、多聞院由緒書の次の記述です
「(範清は)寛永六年四月一日、土佐吾川郡下八川深瀬に誕生」

範清とは、熊野助の実子です。ここからは、潜伏中の熊野助は、下八川深瀬に潜伏し、妻子がいたことが分かります。多聞院の子孫は、先祖の霊に祈るために金幣を寄付していたようです。ちなみに、下八川の氏子達は、今でも「片岡さま」と呼び、なにかと話題が語り継がれていると報告されています。また、片岡家の墓参りをする人もいるようです。
⑤については、山内藩の2代藩主・山内忠義から厚い信頼を熊野助は受けるようになっていたようです。
 藩主や家臣のために祈祷を行うと共に、藩内での配札も許されていたと云います。17年間の潜伏布教活動で、周辺の有力者の信仰を集めると共に、藩主からも信頼を得る存在になっていたことがうかがえます。それを裏付けるのが次の史料だとされます。
①山内家二代忠義公から熊野助宛の二通の手紙が、片岡家の宝として保存されていること
②寛文頃の桂井素庵の日記には、土佐で滞在する多聞院が、土地の名士と交わっている様子が記録されていること
③「南路志」には、元禄七年の「口上之覚」には、土佐の修験で山内公にお目通りができるのは、金毘羅の多聞院だけとかかれていること
   ここからは、多聞院が金毘羅で要職を務めながらも、土佐山内藩においても藩主の保護を受けて、修験者として大きな力を持っていたことがうかがえます。しかし、その背景に何があったのかはよく分からないようです。どちらにしても、土佐の金毘羅信仰は、多聞院によってこの時期に土佐に持ち込まれたという仮説は立てられそうです。ところが実際にそれを史料裏付けようとすると、なかなかうまくマッチングしません。
片岡家のかつての拠点である仁淀川中流域に、全毘羅信仰が定着したがいつころなのかを追ってみます。
16世紀末の「長宗我部地検帳』には、金毘羅信仰を示す堂社は一つもありません。また江戸時代中期の『土佐州郡志』には、吾川村と高岡郡東分をあわせても、山奥の「用居村」(現・仁淀川町)の条に、「金毘羅堂 在船方村」がひとつあるだけです。さらに、江戸時代後期になっても『南路志』の用居村に、「金毘羅 舟形 木仏 祭礼三月十日」とあって、この時期になっても吾川郡では、ここしか金毘羅はありません。
 ところが昭和6年刊行の竹崎五郎著『高知県神社誌』には、用居集落を含めた池川町には琴平神社が五つあります。周辺で、これほどまとまって琴平神社があるところはありません。池川町は、多聞院ゆかりの下八川方面からは、西へ峠を一つ越えた所になります。
 以上からは、多聞院が江戸時代から自分の出里に金毘羅信仰を広げようとした形跡をみつけることはできません。これは今後の課題としておきましょう。

最後に見ておきたいのが仁淀川流域の修験者を廻る宗教情勢の変化です。
江戸時代に入ると、幕府は修験道法度を定め、修験者を次のどちらかに所属登録させます。
①聖護院の統轄する本山派(熊野)
②醍醐の三宝院が統轄する当山派(吉野)
そして、両者を競合させる政策をとります。この結果、諸藩でこの両派の勢力争いが起きるようになります。土佐では山内藩の保護を受けたのは本山派でした。そして、当山派は衰退の道を歩み幕末には土佐から姿を消す事になります。熊野助が属したのは、師宥盛から伝えられた醍醐寺の当山派でした。
 また幕府は、修験者が各地を遊行することを禁じ、彼らを地域社会に定住させようとします。全国の行場を渡り歩く事が出来なくなった修験者は、各派の寺院に所属登録されます。村や街につながれた修験者は、それぞれの地域の人々によって崇拝されている山岳で修行したり、神社の別当となってその祭を主催するようになっていきます。そして、村々の加持祈祷や符呪など、いろいろな呪術宗教的な活動を行うようになります。そのような中で、八川深瀬に潜伏していたのが熊野助だったといえるのかもしれません。

橫倉山
 仁淀川から見る橫倉山

仁淀川中流の修験者の聖地は横倉山です。
安徳天皇伝説が伝える「阿波祖谷の剣山 →  物部の高板山 → 土佐横倉山  」というのは、いざなぎ流修験道の活動ルートでした。行政的には、「物部村→香北町→土佐町→本川村→仁淀村→越知町」になるこのルートは、いざなぎ流の太夫たちの活動領域ではないのかと私は考えています。そして彼らは醍醐寺に属する「当山派」で、山内藩においては冷遇・圧迫される立場でした。そのため横倉山は、江戸時代には、山内家・家老深尾家の祈願所として、その命脈は保ちます。しかし、この山から修験者の姿は消え、後にはこの山が修験の山であったことまで忘れられていきます。熊野助も当山派に身を置く修験者でした。そのような中で、宥盛の後を継いだ院主から「金比羅の修験道について、お前にはまかせるのでやって来ないか」という誘いを受けて応じたと私は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
連記事
 

 「町史こんぴら」の金毘羅宮の歴史を見ていると、多聞院のことがよく出でてきます。近世の金比羅は、金光院が宗教的領主として支配する幕府の朱印地でした。その意味では金光院院主は、僧侶であると同時に、お殿様でもあったことになります。そして、NO2の地位にあったのが多聞院のようです。
多聞院については、次のようなことが云われています。
①初代金光院院主の宥盛の弟子として、信頼を得ていた片岡熊野助が多聞院初代である。
②片岡熊野助は、長宗我部元親に仕えた土佐の国人武将・片岡家出身である。
③片岡熊野助は、大坂夏の陣の際には還俗して大阪城に入り豊臣方について戦った。
④戦後に土佐に隠れ住み、修験者や祈祷などで生活していた。
⑤隠密生活から17年後に、土佐藩主から赦され、金毘羅に復帰し、多聞院初代となった。

このように片岡熊野助(多聞院)は、若くして宥盛に弟子入りして、修行に励み、その信頼を得て多聞院を宥盛から名告ることを許されます。この多聞院は、金光院に仕える子院の中でも特別な存在で、金毘羅の行政にも大きな影響力を行使しています。そして、江戸期を通じて全国からやってくる天狗道信者の統括・保護や、金毘羅信仰の流布などに関わっています。今回は、この多聞院初代の片岡熊野助の出身地と、片岡氏について見ていくことにします。
テキストは、「小林健太郎  戦国末期土佐国における地方的中心集落  高岡郡黒岩新町の事例研究 人文地理』15の4 1963年

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仁淀川から見た片岡(越知町)

片岡氏の最初の拠点は、仁淀川中流の越知町片岡にあったようです。
仁淀川は、今では「仁淀ブルー」で、有名になりラフテングや川下りのツアーも行われるようになりました。「永遠のカヌー初心者」である私が川下りを楽しんでいた頃は、ほとんど人に会うことがない静かな川でした。1年に一度は、越知中学校前の沈下橋からスタートして、V字に切れ込む谷を浅野沈下橋・片岡沈下橋を経てあいの里まで、のんびりと下っていました。

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上流から見た片岡と沈下橋
その中でも片岡は、沈下橋とともに絵になる光景が拡がり、上陸して集落をよく散策していました。なになく雰囲気のある集落だという印象を持っています。後でもお話ししますが、仁淀川は中世から越知や支流の柳瀬川を通じて川船が遡り、河川交通が盛んに行われた川だったようです。今では、時代の中に置き去りにされたような片岡集落も、かつては川船の寄港する川港として賑わいを見せていたようです。
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片岡沈下橋
 この地が片岡氏のスタート地点だったようです。
『片岡物語』には、片岡氏の由来を次のように記します。(現代語要約)

片岡氏 片岡
片岡周辺と法厳城跡

①平家の減亡後に別府氏のもとに身をよせていた坂東大郎経繁が、この地域の土豪矢野和泉守俊武を討って吾川山庄を手中におさめ、出身地上野国の荘片岡の地名をつけた。
②その後、南北朝時代には経繁の子孫である経義・直嗣の兄弟が北朝方として活動した。
③室町前期には片岡直之が黒岩郷代官を務め、その跡を嗣いだ直綱は柴尾城に拠って勢力を拡大した。
④文明16年(1484)に、直光が継ぐと柴尾城を廃して、その上流に黒岩城を築いて拠点とした。
④永正17年(1520)に直光の後をついだ茂光は、翌年の大永元(1531)年に徳光城下にあった台住寺を黒岩城西方の山麓に移して累代の蓄提をとむらう一方、越知に支城清水城を設けて以北の守りとした。
 ここからは、片岡氏が片岡を拠点に勢力を蓄えて、「片岡(宝厳城 → 柴尾城 → 黒岩城」と仁井淀川を遡り、その支流である柳瀬川流域の黒岩方面に勢力をのばそうとしていたことがうかがえます。さらに柳瀬川を遡り南方に進むと豊かな佐川盆地です。ここを片岡氏は目指します。
佐川盆地周辺の城跡
佐川盆地周辺の城跡


しかし、この頃の佐川城(のちに松尾城と改称)には、三野氏(のち中村氏を称す)が拠点を置いていました。さらに
佐川盆地一帯を見渡してみると
①南部の斗賀野城には米森氏
②西部の尾川城には近沢氏
③黒岩城との中間庄田には中山氏
が割拠して、蓮池城主大平氏のもとに属しています。
このような中で天文15年(1546)に、中村の一条氏が大平氏を滅して高岡郡に進出してきます。すると、佐川盆地の国人たちの多くは、一条氏の勢力圏下に組み込まれていきます。これに対して、永隷6年(1562)になると、長宗我部氏が仁淀川東岸の吉良域を奪取して、西進してきます。この結果、仁淀川西岸以西を勢力圏とする一条氏と長宗我部元親は、佐川盆地をめぐって対峙するようになます。

 元亀元年(1570)になると、長宗我部元親は一気に佐川盆地の攻略を進め、片岡氏を初めとする佐川盆地の国人たちはその軍門に下ります。佐川盆地平定後、元親は佐川盆地に重臣の久武内蔵助親直を入れています。久武氏は石ノ尾城(佐川城)を修築して、ここを佐川盆地支配の拠点とします。この際に、黒岩城主の片岡光綱は、それまでの本領を安堵されます。
 元親は、佐川盆地制圧4年後の天正3年(1574)に、公家大名一条氏を征服し、翌年には甲浦城を攻略して土佐一国を統一します。そして四国制覇にのりだしていきます。元親傘下に入った片岡氏以下の佐川盆地の国人たちも、これに従って四国各地に出陣することになります。そして、天正13(1584)年に片岡光綱は、遠征中の伊予国金子陣で戦死します。この年に長宗我部元親は秀吉に降って、土佐一国のみを安堵され、翌年1585年には秀吉の九州征伐に従軍させられます。この時に薩摩島津氏と戦った豊後戸次川の戦いは「四国武将の墓墓」とも云われ、多くの四国の武将が戦死します。片岡光網の子光政(一説甥)も、ここで亡くなっています。片岡氏は連続して、当主を失ったことになります。
 この前後に生まれたのが後の金毘羅の多聞院(幼名片岡熊野助)です。熊野助が生まれたときには、片岡氏は、佐川盆地周辺の有力国人であったことを押さえておきます。

片岡氏がこの地域で大きな勢力を持っていたことを見ておきましょう。
 その所領を示す「片岡分」が高岡・吾川両郡の北部山地から中部丘陵地帯にかけて千町歩余りが『地検帳』に登録されています。その本拠である黒岩城そのものは、検地の対象外とされたようで『地検帳』に記されていませんが、黒岩古城については、次のように記されています。
黒岩古城詰門外タン共二           同(黒岩村)次良大夫居
一 (所)壱反拾七代一分   下屋敷   同じ(片岡分)
ここからは天正18(1590)年に検地が行われた時には、このエリアが古城と呼ばれる廃城になっていたことが分かります。

片岡氏 黒岩城周辺
黒岩城周辺 南を流れるのが仁淀川支流の柳瀬川

この黒岩は現在では黒岩小学校敷地となって、わずかに土塁の一部を残しているだけです。

片岡氏 黒岩居館跡
黒岩城周辺の土地割

 明治前期の地籍図からは、小字「黒岩」の北部にその居館遺構があったことが分かります。その規模は東西南北の最大幅約70mです。これが片岡氏の居館跡と研究者は考えています。
これを裏付けるのが『地検帳』で、黒岩古城(居館跡)について次のように記します。
片岡氏 黒岩地検帳1

ここからは、このエリアが片岡分の「御土居=居館跡」であると記されています。その背後には給主片岡右近が居住する総面積一反四一代一分の屋敷が、またその南には片岡右近に給された総面積四三代一分の屋敷があったことが記されています。この「御土居」が、検地の時点での片岡氏の本拠である居館と研究者は指摘します。
 
『地検帳』は、その他にも片岡氏が多くの土地や要衝の地を手にしていたことを示します。佐川盆地から高知平野に向う出入口にあたる日下川上流河谷の加茂永竹村にの大谷土居ヤシキ(片岡治部給、主居)を片岡分としています。
片岡氏 三野古城跡
三野古城(居館跡)
また、三野古市については次のように記されています。
片岡氏 地検帳2


ここからは、佐川盆地中央部の西佐川にあった三野氏の居城が片岡氏のものになったことが分かります。また、長宗我部氏に亡ぼされた米森氏の居城があった斗賀野も、片岡分に編入されていたことが記されています。
以上を整理して、研究者は次のように指摘します。
「元亀元年に長宗我部氏の軍門に下った片岡氏が、その居城である黒岩城は廃城化されたものの、その東方に「御土居」を構えて本領を安堵されたうえ、さらに佐川盆地中央部や日下川上流河谷にも所領を拡大して、かつてそれぞれの地区を基盤に成長してきた小領主の上居をも支配するようになった。換言すれば、片岡氏は長宗我部氏に降ることによって、かつては片岡氏と措抗する小領主の支配下にあった佐川盆地中央部などへも進出して、この地域最大の地域的領主にまで成長し、長宗我部氏による領国支配の一環を構成するようになった。
『佐川郷史』は、片岡光綱が長宗我部元親に対してとった戦略について次のように記します。
①長宗我部元親の佐川盆地攻略にまっ先に恭順の意を表して軍門に下ったこと
②近郷諸族降伏の勧誘をも行ない、元親の信第一の将として「親」の一字を賜って親光と改名したこと
③家老職に補されて高岡郡の支配と周辺国人の監督連携の要の役を託されたこと
以上から、片岡光綱が佐川盆地実質的な支配を長宗我部元親から託されたと研究者は考えています。
それでは、佐川エリアに配された久武氏との関係はどうなるのでしょうか。
久武氏は元親の厚い信任を受けていた重臣で、伊予攻略では軍総代に任じられている有力武将です。しかし、『佐川郷地検帳』には、その所領は約4町歩しかありません、ここから研究者は、久武氏の佐川城は片岡氏に対する目付的な機能をもっていたにすぎないと推測します。
長宗我部氏の地域的領主としての地位を片岡氏が握るようになって、発展するのが「黒岩新町」だと研究者は推測します。
片岡氏は長宗我部氏に下ることによって、その居城である黒岩城は廃城になり、封建領主としての独立性は失われます。しかし、その代償として、佐川盆地とその隣接地域の多くを片岡氏は所領に組み込んでいきます。そして、地域的領主としての地位とそれを支える経済基盤を拡大します。こうして片岡氏は、それまで佐川盆地中央部の永野や沖野で開かれていた市場機能を、自らの居館「御土居」のある黒岩新町に吸収統合して、地域の経済的な中心にしようとしたと研究者は推測します。これを裏付ける直接的な史料はないようです。

 片岡氏盛期の黒岩城下が賑わっていたことは、『片岡盛衰記』に次のように記されています。
「今の本村は帯屋町とて南北一筋の町あり、中にも和泉屋勘兵衛とて茶屋あり、其時代は他国入込にて、大坂より遊女杯数多下り、新居浜(仁淀川河口)迄舟通いければ、夜毎にうたいさかもり殊の外賑々しく今に茶園堂と申伝候」
 
意訳変換しておくと
「今の本村は帯屋町と呼ばれて南北一筋の町で、その中には和泉屋勘兵衛の茶屋があった。ここに他国から多くの人々がやって来た。大坂から遊女も数多く下ってきて、新居浜(仁淀川河口)まで川舟が通行していたので、夜毎に宴会が開かれ、謡いや酒盛り開かれ賑々しかった。これが今の茶園堂と伝えられている。

ここからは、佐川までは川船が運航していて「本村」は、その川港として大いに賑わっていたことがうかがえます。
それでは、ここに出てくる「本村」とは、どこのことなのでしょうか
『佐川郷史』は、最初に見た仁井淀川北岸の片岡本村の宝厳城下のこととしています。しかし、先ほど見たように仁淀川が深いV字谷を刻んで東流していて、その北岸には河道に沿った狭い場所があるだけです。「南北一筋の町」が立地するスペースはありません。
そこで研究者は、本村とは黒岩城下について記したものと推察します。
この黒着新町(本町)も、片岡氏の最盛期を築き上げた光網・光政が相次いで戦死した後に作成された『地検帳』検地段階にはやや衰退に向っていたようです。地検帳には町並の南端で、六筆の屋敷地が耕地化され、一筆は空屋敷になっていたことを伝えます。片岡氏の最盛期には、黒岩新町は仁淀川水運を通して、大阪からの遊女たちも多数やって来て賑わいを見せる広域的な川港でした。それが片岡氏の衰退とともにその地位を失い、「大道」をつなぐ周辺の領域内だけの流通エリアをもつ「地方的中心集落」に転化していきます。黒岩新町の衰退は、広い意味では、当時進行しつつあった長宗我部氏の新城下町大高坂建設と密接に結びついていたと研究者は指摘します。
 市場集落の近世化と新設域下町の登場は、地域経済に大きな影響を与えます。小商圏の中心である各地域の市が、大高坂城下町の建設で、その一部分を吸収されていきます。それは、現在の市町の商店街がスロート現象で、県庁所在地などの都市圏に吸い上げられ、衰退化していったのと似ているようにも思えます。
 このように黒岩新町も、江戸時代に入ると急速に衰退し、一面の水田と化してしまいます。
その時期や経過については、よく分かりません。しかし、山内氏入国後の佐川と越知の発達が、黒岩新町の衰退要因のと研究者は考えています。長宗我部氏によって佐川城主に任じられた久武氏がその城下に新市を開設したことは、『佐川郷地検帳』に、次のようになることから裏付けられます。
新市                    本田村
一 (所)弐反弐拾代 出弐反拾四代三歩才下   久武内蔵助給
ここには、「新市」が本田村に作られたことが記されています。この佐川の「新市」は、片岡氏が大きな力を持っていた時には、黒岩新町には適いませんでした。ところが、慶長5年(1600)年の関ケ原合戦後に、長宗我部氏が領国を没収されてその後に山内一豊が入国します。その翌年には一豊の国老格をもって呼ばれた深尾重良が佐川郷一万石の領主として佐川城に入ります。このとき、黒岩村は藩主山内氏の直轄地として深尾氏の領地でした。深尾氏がその城下に現在の佐川町中心市街の前身となる町場を建設した際に、黒岩新町はこの町場に吸収されます。それ以後は佐川が佐川盆地唯一の町場として発達するようになります。
 なお、越知の発達は佐川よりもやや遅れます。
17世紀中葉に推進された土佐藩の殖産興業政策の一環として、仁淀川流域の林産物開発が進められます。その輸送のために仁淀川水運の整備が行なわれた際に、その拠点として町立てが行なわれたのが越知のようです。

以上、戦国時代の片岡氏についてまとめておきます。
①片岡氏は、仁淀川中流の片岡を拠点に、上流に向かって勢力を伸ばし、居城を移して行った。
②戦国時代には、上流の黑嶋に居館を構え、佐川につながる河川交易ルートを押さえて勢力を拡大した。
③片岡氏は長宗我部元親と一条氏の抗争では、長宗我部方の付いて佐川盆地における勢力拡大に成功した。
④その後、片岡氏は長宗我部元親の四国平定戦に従軍し活躍したが、当主を伊予の戦いで亡くした。
⑤また、秀吉の九州平定にも長宗我部軍の一隊として参加し、戸次川の戦いで当主を亡くした。
⑤片岡熊野助が生まれたのは、このような時期で片岡家が長宗我部支配下の国人武将として活動し、その居館のある黑嶋が大いに賑わっていた時期でもあった。

この後、関ヶ原の戦いで豊臣方に付いた長宗我部氏は土佐を没収され、家臣団は離散します。代わって山内氏が新たな領主としてやってきて、長宗我部に仕えていた旧勢力と各地で衝突を繰り返します。このような中で、14歳になっていた片岡熊野助は、土佐を離れ出家し金毘羅にやってきます。そして、金光院宥盛に弟子入りして、修験者としての道を歩み始めるのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「小林健太郎  戦国末期土佐国における地方的中心集落  高岡郡黒岩新町の事例研究 人文地理』15の4 1963年

戦国末期の天正時代の讃岐琴平のお山は、カオス状態でした。
松尾寺とそれを守護する三十番社という関係に対して、長尾氏出身の宥雅が新たな守護神金比羅神が創りだし、金毘羅堂を建立します。ところが、そこへ土佐の長宗我部元親が侵入し讃岐を平定、琴平のお山の大将になります。金比羅神を創りだした院主の宥雅は、これを嫌って泉州堺に亡命。そこで、元親は従軍ブレーンで陣中にいた南光という修験者(山伏)を宥厳と改名させ、この山の院主に据えます。こうして元親支配下において土佐修験道グループによるお山の経営が始まります。
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讃岐平定を成就した返礼に、元親は三十番社を修復し、松尾寺に仁王堂(現在の賢木門)を寄進建立します。これが1583(天正11)年10月9日のことです。当時の象頭山のお山には、三十番神、松尾寺、金比羅大権現の社やお堂が並立状態だったのです。つまり「お山はカオス」状態だったともいえます。
 元親は、四国平定を成し遂げて、この山を「四国の総鎮守」として保護していくつもりだったのではないかとも思えてきます。征服者としてやってきた自らの支配の正当性を創りだしていく宗教センターとして機能させていくという意図も見え隠れします。
 しかし、元親の支配はわずか数年で終わりを告げます。秀吉という巨大な存在が、元親の野望を吹き飛ばしてしまします。元親は土佐一国の主として、讃岐を去ります。お山の院主であった宥厳は、元親という保護者を失います。そして、お山を発展させるために、新たな統治者との良好な関係を結ぶという難しい舵取りを担うことになります。
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  第2代別当の「宥巌」について見ておくことにしましょう
 宥厳はもともは南光院と呼ばれ、補陀落渡海の行場として有名な足摺岬で修行を積んだ土佐の当山派修験のリーダーでした。長宗我部元親の讃岐遠征に従軍ブレーンとして参加し、無住となった琴平山の院主に任命され、創生期の金比羅堂の発展に大きな役割を果たしていくことになります。彼の業績として挙げられるのは2つあります。
 ひとつは、修験の山へと大きく舵をきったことです。
彼は先ほど見てきたように、土佐の足摺周辺で修行を積んだ修験者でした。そして、松尾山(現象頭山)も善通寺の奥の院であり、修験者の行場でした。長宗我部元親から与えられて松尾寺の使命が「四国鎮撫の総本山」であったとするなら、宥厳は四国の行場の新たな中心地としていくことを目指したのかも知れません。これは、次の院主となる宥盛にも引き継がれていきます。こうして近世初頭の金毘羅さんは修験道の山になり、天狗信仰の中心地として知られるようになってきます。その契機は宥厳の登場にあったと私は考えています。
 もう一つの業績は、松尾寺の宗教施設の中心を「金比羅堂」にシフトしたことです。
 以前にも紹介したように羽床雅彦氏は、松尾寺の宗教施設は西長尾城主の甥である宥雅が、長尾一族の支援を受けて新たに建立したものであるとして、つぎのような建立年代を提示しています。
1570年 宥雅が松尾山麓の称名院院主となる
1571年 現本社の上に三十番社と観音堂(松尾寺本堂)建立
1573年  四段坂の下に金比羅堂建立
金比羅堂は、松尾寺本堂の守護神として宥雅が建立したものです。
神仏混淆信仰のもとでは、「神が仏を守る」のが当たり前とされていました。そこで、宥雅は力強いインド伝来の蛮神を創造してます。それは、神櫛王の悪魚退治伝説の「悪魚 + 大魚マカラ + ワニ神クンピーラ」を一つに融合させ、これに「金昆羅王赤如神」という名前を付けて、金昆羅堂を建てて祀ったのです。この神は宥雅が創ったのですからそれまでいなかった神です。まさに特色ある神です。また、得体が知れないので「神仏混淆」が行われやすい神でした。それが後には、修験者や天狗信仰者からは役業者の化身とされたり、権現の化身ともされるようになります。
 これは「布教」の際にも有利に働きます。「松尾山にしかいない金比羅神」というのは、大きな「特徴」です。これは、讃岐にやって来る藩主への売り込みの際のセールスポイントになります。しかも、宥厳は長宗我部元親から「四国鎮撫の総本山」の使命を、松尾寺にもたすように使命づけられていた節があります。そうだとすれば、そのために培っていた手法を、新たに讃岐の藩主としてやって来た仙石氏や生駒氏・松平氏に使っていけばいいことになります。ある意味、藩主としてやってくる支配者が求めるものを宥厳は知っていたことになります。そのためにも、松尾寺という一般的な宗教施設ではなく、金毘羅大権現を祀る金比羅堂を前面に押し出した方が得策と判断したのではないかと私は考えています。松尾寺から金比羅堂へのシフト変更は宥厳の時代に行われたようです。そして、松尾寺住職ではなく、金毘羅大権現の別当金光院として、一山を管理していくという道を選んだとしておきましょう。

 しかし、長宗我部に支配され、その家来の修験道者に治められていたことは後の金比羅大権現にとっては、公にはしたくないことだったようです。
後の記録は宥巌の在職を長宗我部が撤退した1585(天正一三)年までとして、以後は隠居としています。しかし、実際は1600(慶長5)年まで在職していたことが史料からは分かります。そして、江戸期になると宥巌の名前は忘れ去られてしまいます。元親寄進の仁王門も「逆木門」伝承として、元親を貶める話として流布されるようになるのとおなじ扱いかも知れません。
 さて、親方であった元親が去った後、新しい支配者に宥厳は、どのように向き合ったのでしょうか。しかし、このテーマに応えるのは資料的に難しいようです。
先ほども述べたように「宥厳は元親敗退後は隠居」というのが正史の立場ですので、宥厳は表には登場しないのです。残っているのは寄進状ばかりです。しかし、寄進状が増えていくと言うことは、新領主とのいい関係が結べているということなのでしょう。

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  宥厳の時代に金毘羅山にもたらされた寄進状を見ていきましょう。
讃岐の新たな領主として秀吉が送り込んできたのは仙石秀久でした。彼は、秀吉が羽柴隊(木下隊)と呼ばれた頃からの馬廻衆で、最古参の家臣として寵愛を受けてきた武将です。秀久は天正13年(1585年)7月、四国攻めの論功行賞により讃岐1国を与えられ、聖通寺城(聖通寺山城、宇多津城)に入城します。
この直後の八月に秀久が松尾寺へ出した禁制が金毘羅宮に残っています。
  小松内松王寺(松尾寺)
 一当手軍勢甲乙人、乱妨狼籍の事。
 一山林竹木を伐採の事。
 一百姓に対し謂れざる儀、申し懸ける族の事。
  右条々、堅く停止せしめ吃んぬ。
若し違背の輩これ在るに於いては、成敗を加うべき者なり。価って件の如し。
    天正十三(1585)年八月十日  秀久(花押)
 まず、宛先が金比羅堂でも金光院でもありません。
「小松内松王寺」となっています。小松庄の松尾寺とです。ここからは、当時のお山の代表権が松尾寺にあったことを示します。ちなみに、長宗我部元親の仁王門も松尾寺への寄進でした。内容的には、松尾寺境内での不法行為の禁止を命じたもので、新領主が領内安堵のために出す一般的な内容です。続いて、仙石秀久は、
①1585年十月 10石を「金毘羅」へ寄進、
②1586年二月 「金比羅」に社領として三〇石、
 「金ひら 下之坊」に寺領として六条(榎井村の内)で三〇石」を寄進しています。
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寄進先名が「松尾寺」から「金毘羅」へ変化しています。
寄進先の「金毘羅」・「金比羅」は金毘羅大権現です。
「下之坊」は金毘羅神殿の別当、つまり金光院のようです。
ここでは、松尾寺・三十番社・金毘羅堂の並立状態から金毘羅が大権現として、抜け出してきたことをうかがわせます。その渦中にいたのが金光院の宥厳だったのではないでしょうか。

仙石秀久との信頼を得たかのように思えたのもつかの間でした。
翌年天正14年(1586年)、九州征伐が始まると、仙石秀久は先陣役として派遣される事になった四国勢の軍監に任命され、長宗我部元親・信親父子らの軍勢と共に九州に渡海して豊後国の府内で島津軍と対峙します。この時の四国勢は、前年までは激しく敵対しあったもの同士の「呉越同舟」の混成軍で、さらに長宗我部氏は四国攻めの降伏直後という状態で、結束に乏しかったようです。
 さらに冬季の渡河作戦という無謀な戦術の結果、戸次川の戦いで大敗北を帰し、無断で讃岐へ退却してしまいます。これに対して秀吉は大激怒。讃岐国を召し上げ、秀久に対しては高野山追放の処分を下したのです。 こうして仙石秀久の讃岐支配は一年も経たないうちに幕を閉じたのです。

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次に讃岐の領主として入封してきたのは生駒親正です。
親正も、先の支配者の元親や秀久に習ってこの山を保護します。入封翌年の天正16年(1588)正月に、
「中群小松郷内松尾村に於いて、高弐拾石末代寄進申し候上は、全く御寺納有るべき者なり」

と、まず二〇石を寄進しています。その、宛先は松尾寺でなく金光院です。以後生駒家からの寄進状等はすべて金光院宛です。金光院は元々は松尾寺の別当でした。それが、宥厳の下で金毘羅大権現の別当に「転進」して、その地位を確立しつつあったようです。
以後の寄進を見てみると、生駒家からの信頼を
天正16(1587)年 榎井村で五石が寄進されて計25二五石、
天正17(1589)年 小松村の興田(新田開発地)五石が寄進。
慶長 5(1600)年 関ケ原合戦後に「松尾御神領」として、22石を「院内」において寄進している。
慶長 6(1601)年 社領四二石五斗が「寺内」で与えられた。
  宥厳は、長宗我部元親の配下の土佐出身の真言密教修験者でした。
そのため元親後も、琴平の山に院主として留まることについては、山内の各勢力から強い批判の目が向けられたようです。それを裏付けるように「正史」においては、「宥厳は元親退去後は引退」したと記されています。そのような中で宥厳の右腕として活躍するのが宥盛です。
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  金毘羅大権現の基礎を固めたと宥盛とは?     
金剛坊宥盛(金剛坊が修験の号)は、高松川辺村の400石の生駒家家臣・井上家の嫡男で、高野山で13年間修業を経ている真言僧です。その実績を認められ、高野山南谷浄菩提院の院主を勤めていました。弟・助兵衛は後に生駒藩に仕え、大坂夏の陣で落命します。また、長宗我部元親の侵入に際して、堺に「亡命」した金光院院主の宥雅の法弟にあたるようです。
 天正十四年に、長宗我部元親が土佐に退いて、後見人を失った金光院別当宥厳の勢威が衰えかけたころに讃岐に帰り、金光院に仕えるようになります。そして苦境にあった宥厳の右腕として、仙石秀久や生駒一正との関係を取り結んでいくために活躍します。慶長5年に宥厳死後の跡を受けて別当となり、同18年に死去するまでの13年間は、金毘羅大権現の基礎が確立した時代です。

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宥盛が直面した課題とは何だったのでしょうか?
  第1に金毘羅神の神格をはっきりとしなければなりませんでした。
簡単に言うと、寄進者や参拝者にから「金比羅神」とは何者?と聞かれた場合に、きちんと経典を根拠を据えて説明できるSTORYを用意するということでしょうか。これが後に、幕府や諸大名から「金毘羅神とは如何なるものか」と尋ねられた時に答える由緒書きになっていきます。
 ちなみに宥盛と同時代の林羅山は「本朝神社考」の中で、金毘羅神の神格論次のように展開しています。
最澄が比叡山に建立した日古山王明神、空海が醍醐山に建立した清滝明神、
丹仁が三井寺に建てた新羅神は、金毘羅神であり、素戔嗚尊父子である。
  前略 以上の諸文によってこれを見る時は、即ち金比羅神は、王舎城の毘冨羅山の神主にして、薬師十二神の中には第一なり、十六神の中には第二たり
と、その最後を結んでいます。この本は「金毘羅龍王、鰐龍王」について「水神」との関係も示しています。後に盛んになる金毘羅神を海上安全の神とする信仰は、教義的にはこのあたりから生まれてきたのかもしれません。
 宥盛の時代に定着したと思われる金毘羅大権現の由来書は、次のように云います。
 金毘羅大権現は三国応化の神にて、往古より当山に鎮座したまい、日本一社の神として、他に奥の院又別宮有ること曽てなし、釈尊説法の時に及て、竺上に往現し、
仏法を守護し給い、其後当山に帰り給い、則ち神廟の岩窟に鎮座し給うこと、
一社の神秘にして他に知ることなし、権現自ら木像を刻み給ひそ、内陣の神秘是れ也、代々の伝説によりて開扉すること曽てなし、且師伝の本地は不動明王にて、別当の密伝なり。
余に霊験数多くありといえども人の知るところゆえに略す。云々
 
 このような神格化の作業が出来るのも、宥盛が高野山で深い知識を身につけた学僧だからできることなのでしょう。宥盛は、その点では「知識人」でした。

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  第2に、三十番社との関係の調整です。
 松尾寺の守護神はもともとは三十番神でした。そこに宥雅によって新たなインドからの金比羅神が守護神として迎えられたのです。しかし、新しい神には信者集団はいませんし、祭りを執り行うことも出来ません。そこで、従来からある三十番社の祭りを、アレンジして金比羅神の神事に組み立てて運用する必要がありました。
 その「接ぎ木」作業を行ったのが宥盛だと考えられます。
①上頭人の侍者であったと思われる下頭に、上頭人とほぼ同格の地位を与えている点、
②神前にお供え物を運ぶ女を、女頭人に格上げしている点、
③神事関係の記録である「頭人勤人物帳」が、宥盛の時代から書き始められている点
 などから、神事の規式を宥盛が定めたことがうかがえます
定めただけでは、祭りは変わりません。運営する指導者達を説得・同意させなければなりません。そういう点では宥盛は、人々を動かす力を持っていたのでしょう
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  第3に、新興勢力の金毘羅神が発展していくための旧勢力との戦い
  金比羅堂を創建した宥雅は、長宗我部元親の讃岐侵攻の際に堺に亡命しました。
その後、元親が院主に据えた宥厳が亡くなると、金光院院主の正統な後継者は自分だと、後を継いだ宥盛を訴えるのです。その際に宥雅が集めた「控訴資料」が発見されて、いろいろ新しいことが分かってきました。その訴状では宥雅は、弟弟子の宥盛を次のように非難しています
①約束のできた合力の金も送らない
称明寺という坊主を伊予国へ追いやり、
③寺内にあった南之坊を無理難題を言いかけて追い出して財宝をかすめ取った。
④その上、才大夫という三十番社を管理する者も追い出して、跡を奪った
 宥雅の一方的な非難ですが、ここには善通寺・尾の瀬寺・称明寺・三十番神などの旧勢力と激しくやりあい、辣腕を発揮している宥盛の姿が見えてきます。
④の「才大夫という三十番社を管理する者も追い出して、跡を奪った」というのも、先ほどの三十番社の祭事を、金毘羅神の祭事に付け替えるという「大手術」に反対した「才大夫」を追い出したとも考えられます。
このような「闘争」の結果、金毘羅大権現別当寺としての金光院の地位が確立して行ったのでしょう。ここには、宥盛の自分の属する金光院を発展させるために闘争心を感じます。
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第4に宥盛は、修験僧(山伏)として優れていました。
金剛坊と呼ばれて多くの弟子を育てました。その結果、地域に多くの修験の道場が出来て、その大部分は幕末まで活躍を続けます。彼自身も現在の奥社の断崖や葵の滝、五岳山などをホームゲレンデの行場で、厳しい行を行っています。同時に「修験道=天狗信仰」を広め、象頭山を一大聖地にしようとした節も見られます。つまり、修験道の先達として、指導力も教育力も持った山伏でもあったのです。
  彼は、自らの姿を木像に刻みました。
それは「長さ3尺5寸 山伏の姿 岩に腰を掛け給う所を作る」とあり、山伏の姿で、岩に腰掛けた木像でした。
そして自らを「入天狗道沙門」と呼んだのです。

  彼の弟子には、多聞院初代の宥惺・神護院初代宥泉・万福院初代覚盛房・普門院初代寛快房などがいました。これを見ると、当時の琴平のお山は山伏が実権を握っていたことがよく分かります。
 特に、土佐の片岡家出身の熊之助を教育して宥哩の名を与え、新たに多聞院を開かせ院主としたことは、後世に大きな影響を残します。多門院は、金光院の政教両面を補佐する一方、琴平の町衆の支配を担うよう機能を果たすようになって行きます。
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見てきたように宥盛は、真言密教の学問僧というばかりでなく、山伏の先達としてカリスマ性や闘争心、教育力を併せ持ち、生まれたばかりの金毘羅大権現が成長していける道筋をつけた人物と言えるでしょう。
 そして、彼は金毘羅神の創建者として、神として祀られています。明治になって彼に送られた神号は厳魂彦命(いずたまひこのみこと)です。そして、かれが修行した岩場に「厳魂神社」が造営され、ここに神として祀られたのです。それが現在の奥社です。

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