瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:大久保彦三郎

 コロナで開かれなかった文化財保護協会の総会が3年ぶりに開催されることになりました。その研修行事として、旧仲南町にある3つの銅像を「巡礼」し、郷土の偉人達のことを知るとともに、顕彰しようということになりました。以前に「増田穣三伝」を書いたことがあるので、案内人に指名されました。そこで、レジメ兼資料的なモノを、アップして事前に見てもらおうと思います。見てまわる銅像は、次の順番で3つです。
山下谷次 
戦前の衆議院議員 実業教育の魁として多くの学校設立。 仲南小学校正門前
増田穣三 
戦前の衆議員議員 県道三好丸亀線整備に尽力・華道家元 塩入駅前
③ 二宮忠八 
模型飛行機の飛行実験・飛行神社の建立 樅木峠道の駅    
山下谷次銅像
山下谷次(仲南小学校正門前)
①の 山下谷次の銅像は、仲南小学校体育館前に、登校する生徒達を見守るように立っています。台座には次のように刻まれています。
P1250143
山下谷次銅像の碑文(昭和13年9月時)
昭和11年6月先生逝去ノ後 知友相議リ其偉績ヲ後世二伝へ 英姿ヲ聯仰セントシ追善會経費ノ一部ヲ以テ遺像ヲ鋳造シ寄贈ヲ受ケタリ 依テ村会ノ議決ヲ経テ之レヲ校庭二建設ス
昭和十三年九月  十郷村
意訳変換しておくと
  ①昭和11年6月に山下谷次先生が亡くなり葬儀を終えると、友人や教え子たちが相談して、先生のお姿を後世に伝えようということになった。②そこで集まった資金で遺像を鋳造し十郷村に寄贈した。これを受けて、村会は大口の小学校の校庭に建立することを議決した。
昭和13年9月  十郷村
 裏側面には、1952(昭和27)年に追加された次のような銅板プレートが埋め込まれています。

P1250142
正五位勲四等山下谷次先生ハ我郷ノ人傑ナリ資性温粁謙和事ヲ篤スニ堅忍撓マス常二数歩ヲ時流二先ンス十八才笈ヲ洛ニ負ヒ大久保在我堂先生二師事シテ刻苦年アリ最モ算数二長ス平生幣衣短袴湾輩ノ毀誉ヲ顧ミス学成リテ京華郁文等ノ私学ヲ興シ傍ラ著述二従フ明治三十六年東京商工学校ヲ創メ大イニカヲ実業教育ノ振興二致シ措据経営三十余年早生ノ心血フ澱ク教フ受クル者萬フ超工皆悉ク国家有用ノ材タリ大正十三年以降選ハレテ衆議院議員タルコト五期文政ノ府二参典トシテ献替頗ル多ク昭和三年功ヲ以テ帝綬褒草フ賜フ
昭和十一年六月五日先生逝去ノ後知友及卒業生相諮り其偉業ヲ後世二博へ英姿フ謄仰セントシ昭和十三年九月村会ノ議決ヲ経テ此ノ地二遺像ノ建設ヲナシタリ然ルニ大戦ノ篤政府二収納セラレ遺憾二堪ヘザリシガ今日十七回忌二際シ再知友及卒業生ノ醸金フ得テ錢二英像フ建設ス
昭和二十七年六月五日   十郷村
建設委員長  五所野尾基彦
松園清太郎 門脇正助 真鍋清三郎  有志
香川県三豊郡辻村 原鋳造所謹製
原型師  織田朱越
鋳物司  原磯吉正知
「巡礼」を行う6月25日は、銅像の前で、この顕彰文を読み上げて敬意を表そうと思います。意訳変換しておくと
1952(昭和27)年に追加された碑文(現代訳)
正五位勲四等を受けた③山下谷次先生は、十郷村の出身で、性格は温和で、何かを行うときには辛抱強く諦めずに取組み、常に時代の数歩先を考えていた。④十八才で京都の大久保彦三郎(諶之丞の弟)の設立した尽誠舎で苦学し、特に算数に長じた能力を発揮した。いつもは幣衣短袴姿で、服装には無頓着であった。尽誠舎を卒業した後に、再度上京して京華郁文学校などの創建にかかわった。一方では数学関係の教科書の著述も行った。⑤明治36年には東京商工学校を設立し、実業教育の振興や経営に30校以上かかわった。谷次先生の教えを受けた生徒は、ほとんどが国家有用の人材となった。
 大正13年以降は、⑥衆議院議員を五期務め、実業教育振興のための献策を数多く出した。そのため昭和3年に、その功績を認められて、帝綬褒賞を受けている。
 昭和11年6月5日に先生が亡くなって後に、友人や卒業生が協議して、その業績を後世に伝え、英姿を残そうということになり、昭和13年に銅像を十郷村に寄進した。寄進を受けた十郷村は、昭和13年9月に村会の議決を経て、銅像を建立した。⑦ところが先の大戦に際に、政府に収納されてしまった。銅像がなくなったことを、非常に残念に思っていた教え子達は、17回忌に際して知友や卒業生から資金を募り、銅像を再建することになった。
⑧昭和27年6月5日   十郷村
建設委員長  五所野尾基彦
松園清太郎 門脇正助 真鍋清三郎  有志
⑨香川県三豊郡辻村 原鋳造所謹製
原型師  織田朱越
鋳物司  原磯吉正知
このふたつの碑文からは、次のようなことが分かります。
①1936(昭和11)年6月8日 山下谷次が東京で亡くなった後に、銅像建立計画が具体化
②1938(昭和13)年9月 寄進された銅像を十郷村が村会決議を経て旧大口小学校に建立
③山下谷次は明治5年(1872)2月22日に、十郷村帆山で誕生
④18才で大久保彦三郎(諶之丞の弟)が京都に設立した尽誠舎に入学、その後教員へ
⑤上京し、東京商工学校(現埼玉工業大学)設立など、30以上の実業学校の設立・経営に関与
⑥増田穣三引退後の地盤から衆議院に出馬し、5期務め実業教育関係の法整備などに尽力
⑦1943(昭和18)年5月29日 戦時中の金属供出のため銅像撤去。
⑧1952(昭和27)年6月5日  山下谷次像が、17回忌に旧大口小学校に再建 
⑨銅像製作所は、三豊市山本町辻の原鋳造所。増田穣三像も同じ。
  戦前に建立された銅像は、戦中の金属供出で国に持って行かれたこと、現在の銅像は17回忌に、教え子達が再建したもののようです。

台座の礎石には、下のようなプレートが埋め込まれています。

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山下谷次銅像移築記念
ここからは、1983(昭和58)年度の仲南中学校の卒業記念事業として、旧大口小学校からここへ移されたことが分かります。今年が移築40周年になるようです。

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山下谷次銅像台座の石工名

竹林正輝と読めます。地元の追上の石工によって台座は作られています。

山下谷次伝―わが国実業教育の魁 (樹林舎叢書) | 福崎 信行 |本 | 通販 | Amazon

山下谷次については、山脇出身のライターである福崎信行氏が「山下谷次伝 わが国実業教育のさきがけ」を出版していて、まんのう町の図書館にもおさめられています。詳しくは、そちらを御覧下さい。ここでは少年期のことを簡単に記しておきます。

山下谷次の少年時代   「成功は (清香)貧しきにあり 梅の花」
 谷次の立身出世の道を開いた3人の人物に焦点を絞りながら少年時代を見ていくことにします。谷次は帆山の山下重五郎の4男で、6歳の時父を失います。そのため生活に追われ、兄たちは高等小学校にも進めていません。そのような中で、谷次は母の理解で高等小学校に行き、そしてさらに上級学校への進学の道が開けます。
当時、仏教の金毘羅大権現から神道へと様変わりを果たした金毘羅宮は、神道の指導者養成のために明道学校を設立します。旧制中学校に代わるもので、全国から優秀な教師を招いて、鳴り物入りで開学でした。しかも授業料は無料。母が兄たちを説得して、谷次はここに通うことが出来るようになります。もし、この母がいなければ谷次の勉学の道はふさがれ、その後の道は開かれなかったはずです。
 入学することを許された谷次は、帆山から琴平まで毎日歩いて通学します。しかし、設立当初は授業料無料であった授業料が有料化されると、退学を余儀なくされます。そのような中で、明治21年8月に十郷大口の宮西簡易小学校で代用教員として、月給2円で務めることになります。帆山から大口までの通勤の道すがらも本を読み、休日は田んぼの中の藁小屋に入って終日不飲不食で勉強を続けたと自伝には書かれています。しかし、沸き上がる向学心を抑えきれずに蓄えた5ヶ月分の給料10円を懐に入れて、その年の12月31日の朝、家を脱け出します。そして東京で学ぼうと多度津港から神戸を経て上京。しかし、あても伝手もなく支援者もなく、資金はまたたくまに底を突きます。しかし、郷里にも帰れない。神戸まで帰ってきて丁稚として働くことになります。

1大久保諶之丞
大久保彦三郎(左)と大久保諶之丞(右)の兄弟

 行き詰り状態の中にあった谷次を救うのが、財田出身の大久保彦三郎(諶之丞の弟)でした。
彦三郎は京都に尽誠舎を開いたばかりで、それを聞いた谷次が、その門を叩きます。彦三郎は、谷次の能力を見抜いて、生徒として編入させ1年で卒業させます。そして、翌年には教員として迎えます。こうして、学校経営のノウハウを彦三郎から学んで再度上京。私立学校の教員として東京で働くようになります。そのような中で恩師の大久保彦二郎危篤の電報を受けると、職を辞して京都に帰り尽誠舎の幹事兼教師として尽力。彦三郎の讃岐に帰って静養するために尽誠舎が閉じられると、三度目の上京度目の上京を果たします。大久保彦三郎との出会いがなければ、谷次は神戸で丁稚奉公を続け、商売人になっていたかもしれません。そこから脱出の手を差し伸べたのが大久保彦三郎ということになります。
 教員として実力も経歴もつけた谷次は、郁文館中学校の数学担任教師兼庶務係として採用されます。それでも向学心は止まず、夜は東京理科大夜間部に通って勉学につとめ、実力をつけます。そして明治31年には江東学院を創設。以後、30校を越える学校の設立や運営に関与するようになるのです。
学園創立110周年の歩み | 学校法人 智香寺学園 | 埼玉工業大学
山下谷次の設立した東京商工学校(現埼玉工業大学)
  実業教育に関わる内に、国家の手による法整備などの必要性を痛感した谷次は、妻の実家のある千葉県から衆議員に出馬しますが落選。その後、郷里香川県から再出馬し、当選します。その際には、衆議院議員を引いた増田穣三や、その従兄弟で増田本家の総領で県会議員でもあった増田一良の支援があったようです。地元では当選の経緯から「増田穣三の後継者」と目されていたようです。

イメージ 2
増田一良
 増田一良は、大久保彦三郎に師事し、その崇拝者で京都に尽誠舎を設立した際には、それに付いていって京都で学んでいます。その時に、山下谷次が編入してきて、翌年には教員として教えを受けたようです。つまり、山下谷次と増田一良は、先輩後輩の関係でもあり、師弟の関係でもあったことになります。それが増田一良をして、山下谷次の支援をさせることにつながります。もし、増田一良がいなければ、郷里讃岐からの出馬という機会はなかったかもしれません。

山下谷次
山下谷次
それでは山下谷次Q&A
①豊かでない山下家の4男谷次が、どうして上級の学校に進めたのか?(兄三人は尋常小学校卒) 母の理解と金毘羅宮が設立した明倫学校が授業料無料だったこと。
②勉学のために上京した谷次を支えた郷土の先輩とは?
 大久保彦三郎(諶之丞の弟)が京都に設立した尽誠舎が、谷次を迎え入れた。
③妻方の地盤から出馬し落選した衆議院議員。それを支援した郷土の後輩とは?
 京都の尽誠舎のときの後輩にあたる増田一良(いちろ:増田穣三の従兄弟)が選挙地盤を斡旋。

P1250161
山下谷次銅像

これで、仲南小学校にある山下谷次像の「巡礼」は終了。次は、彼の生家を見に行きます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

大久保諶之丞 大久保家年表1

大久保諶之丞の年譜を見ていると、1873年や77年に戸長辞任を願いでています。これを私は「三顧の礼」のような「謙譲の美徳」と思っていたのですが、どうもそうではないようです。なぜ、戸長を辞めさせてくれと大久保諶之丞が言っていたのか、当時の情勢や背景を見ておきたいと思います。
テキストは「馬見州一 双陽の道 大久保諶之丞と大久保彦三郎 言視社2013年」です
大久保諶之丞の家族 明治10年
大久保家の家族写真明治10年 
後列左から諶之丞・父森冶・母リセ
前列左から妻タメ・娘キクエ・サダ(妹)

大久保諶之丞の祖父と父の話から始めます。
 大久保諶之丞の祖父與三治は、讃岐三白といわれた砂糖の原料となる甘庶の栽培をすすんで取り入れて小作農家を育成したり、山道改修をおこなっています。跡継ぎは男子がなかったので、隣村十郷村(旧仲南町)田中源左衛門の長男森治(文政八年。1825生)を、その利発さを見込んで頼み込んで養子に迎えます。これが諶之丞の父になります。森治は、與三郎が見込んで養子に迎えた人物で、文武に秀でているばかりでなく、人柄は温厚篤実で近隣の住民からも親しく信頼されていました。
 父森治は、與三郎を尊敬し、その意志を継いで池を作り新田開発をしたり、同村戸川(御用地)で藩御用の菜種油製造をして、藩から二人扶持を与えられています。父祖は、実業に熱心だったことがうかがえます。                        
 森治は、大久保家の養子になる前は、十郷村田中家の長男として、若いころの香川甚平の塾に出入りしていました。甚平の語る陽明学とは、次のようなものです。

「知行合一」で「心が得心しているのかを問うて人間性の本質に迫ることができ、道理を正しく判別でき、事業においては成果を生み出す。しかし、私欲にかられた心で行為に走ると道理の判断を誤ることが多い。よって先人達の教訓や古典から真摯に学び、努力することが求められる。」

陽明学は行動主義で、本の中に閉じこもる学問ではありません。幕末の志士たちのイデオロギーともなった思想です。 後には、諶之丞や弟の彦三郎も香川甚平の塾で学び、陽明学を身につけていきます。
 大久保家では曽祖父権左衛門から「直」の字を字に取り入れています。人が生きるのに最も大切なものであるのは「直」であるという考えが家の中に一本通っていたと云えるかも知れません。
  「直」には、ただしい心、ただしい行の意味があるようです。
 森冶は、自らを「直次」と称し、長男菊治は「直道」、三男諶之丞は「直男」、五男彦三郎は「直之」と称させています。そして折に触れて「直」のもつ意味と、生きる方向を伝えたのでしょう。
 後に尽誠学園を開く彦三郎は、父森治61歳の還暦祝のときに、「家厳行述」と題して父の伝える家訓「直」を讃える漢詩を作っています。
大久保諶之丞3

18歳で結婚し、諶之丞は、明治5(1872)年24歳の時に、財田上の村役場吏員となります。その間には、長谷川佐太郎が指揮して、約20年前に崩壊していた満濃池再築工事(1870年)に参加して土木技術と「済世利民」の理念を身をもって学んでいます。ここには父や祖父の意思を継いで、地域に貢献しようとする意思が見えます。

讃州竹槍騒動 明治六年血税一揆(佐々栄三郎) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

このような中で明治6(1873)年6月西讃竹槍(農民)騒動(血税一揆)が起きます。
 明治維新の「文明開化」の名の下に、徴兵制や学制などの近代化政策が推し進められます。地元の女達からすれば徴兵制は、兵士として夫や子どもを国に取られることです。義務教育制は、学校建設や授業料負担を地元に強制するモノです。新たな義務負担と見えます。それを通達する地元の役人たちも、江戸時代の村役人のように村の常会で協議での上で決定というそれまでの流儀を無視するものでした。しかも、それを行う村の役人は庄屋に代わって、あらたにそのポストに成り上がって、威張ったものもいました。全国の農村で、現場無視の近代化政策への不満と、現場役人たちへの不満が高まっていたようです。
明治時代(1)⑤ ちょっと怖い「徴兵令」… : ボケプリ 涙と笑いの日本の歴史
発端は、三野郡下高野村で起きた娘の誘拐事件で、次のように伝えられます。
下高野村の夕方のこと。ひとり蓬髪の女が女の子を抱え、連れ去ります。「子ぅ取り婆あ」に娘がさらわれたという騒ぎに、住民が手に手に竹槍をもって集まり、さらった女を取り押さえなぶり殺しにしようとします。それを阻止しようとした村役人や戸長に対して、日頃の不満が爆発し暴動に発展します。これがあっという間に、周辺に広がります。26日豊田郡萩原村(現観音寺市大野原町萩原)へ向かって進んだ後、翌27日には、群集の蜂起は2万人にも膨れあがり、三野、豊田、多度郡全域に広がり、さらに丸亀へと進んで行きます。
 その背景には、「徴兵検査は恐ろしものよ。若い児をとる、生血とる」という「徴兵=血税=血が採られる」いうフェイク情報がありました。また、一揆の掲げたスローガンを見ると「徴兵令反対、学制反対、牛肉食による牛価騰貴、貧民困却」などが挙げられています。ここからは、徴兵制や学制など明治政府の進める政策への民衆の不満に自然発火的に火が付いたことがうかがえます。暴動の襲撃目標は、近代化の象徴である小学校、戸長事務所、戸長宅、邏卒出張所などに向けられます。約600の家屋が焼打ちにされたと報告書は記します。この内の48が小学校とありますので、義務教育の強制に対しても住民は不満を持っていたことが分かります。その背景には学校経費として丸亀・多度津では一年につき最下層でも25銭の負担が住民に課せられるようになったことがあるようです。

西讃竹槍騒動 進行図
西讃竹槍騒動の一揆軍と鎮圧部隊の進行図
財田上の村では、戸長、副戸長宅、品福寺、宝光寺など家屋十軒が火災被害にあっています。
森治が村の副戸長、諶之丞が村吏をしていたために大久保家も焼打ちにあいます。ちなみに後に出された大久保家の被災届には、次のように記されています
「居宅、座敷、竃場、湯殿、作男部屋、雪隠、釣屋、懇屋、牛屋、薪屋、油絞屋、勝手門、土蔵三棟など三百坪に及ぶ屋敷」

森治の屋敷は、長屋門を構え300坪のる大きなものであったことが分かります。
このあとすぐに、父森治は副戸長を、諶之丞は役場吏員を辞しています。翌年の明治七(1874)年には、大久保家は財田上の村戸川に自宅を再築します。村の政治から手を引いた大久保家ですが、村民の大久保森治家、とくに諶之丞に対する信望は厚かったようです。固持しても、とうとう担ぎ出されて諶之丞は、明治八(1875)年に、副戸長(副村長)となり、4カ月後には27歳の若さで戸長(村長)になっています。兄菊治は村の小区会議員に担がれています。
  諶之丞は一揆のことを、教訓として次のように日記に書き残しています。
「どのような事業であれ、民衆を十分に納得させて、その合意を得なければ、あらゆる目論見は成り難い。」

 「合意と実行」が政策を進める上での教訓となったようです。
この事件は、大久保家にとっては大きなトラウマとして残ります。。
 諶之丞が戸長になることについて、父森治は別として義母リセ、妻タメをはじめとする家族の心配や小言が絶えなかったことが諶之丞の日記からはうかがえます。この時期は、明治9年熊本神風連の変、前原一誠萩の乱、明治10年の西南の役と続いた世情不安定な時代です。戸川に再建した自宅も、あの西讃竹槍騒動のときのように再び焼打ちに遭うのではないか、諶之丞の身に危険が及ぶのではないかという心配が家族にはあったのです。諶之丞が戸長を辞めたいと再三のように嘆願しているのは、家族の声を聞いてのことのようです。しかし、それもかなわないまま明治12年まで戸長を続けます。
財田上の村荒戸組三十二名連判の明治十年六月「村民条約書」が残っています。意訳すると次のようになります。
戸長の大久保甚之丞殿より何度も辞職願が提出されているが、村民一同より辞めないで続けてくれるように、何度もお願してきた。同氏は資性才敏にして、村内の利益を第一に考え、村民を保護安堵させてくれていりので、我々一同お蔭で助かっています。元来同氏は、役員(人)となることは不本意で好まないところですが、村内が選ぶので命用されます。そのたびに上司に辞任届を出しますが承諾されず、村民もひたすらこれを推戴して、ついに今日に至った次第です。
 先年農民の暴動(讃岐血税一揆)は、役員(人)と見れば問答無用で居宅を放火し、その人物の如何を論じない。同氏もその災害に罹った。一揆が突然だったために、焼き討ちを止めるいとまがなく遺憾極まりない。
 大久保家の家族は、先年の暴動に懲りて吏職を嫌うようになりました。奉職している諶之丞氏は、不本意だが村民の情実を汲みとつて勉励してくれています。村民において、同氏に報いる義務なくしては、実に相済まない。そのため以下の条件を約し連判するものである。万一、条約に背いた者は、村内一同より罰責する。
第一条
村民大久保氏を推戴して戸長となつている以上はその指揮に間違いなく従います。いやしくも意見があれば直ちに忠告をし、親睦補佐して、利害を共にし憂楽を同じくすること。
第二条
    万一、先年のごとき奸民暴挙、官吏を傷害することがあって、大久保氏をも禍いしようとすれば、村民一同相率いて居宅家族を囲統守護して、乱暴の者は即刻排除すること。
第三条
万一、乱民暴動を防ぎ切れず居宅が毀わされ焼かれたときには、村民一同その居宅の新築費用を助成すること。
右三条硬く守り決して違背しません。
「荒戸組」というのは、藩政時代の行政組織として財田上の村にあった集落のことです。東から山分組、荒戸組、石野組、朝早田組、さらに財田川北川の北地組と五つの組がありました。大久保家が属していた石野組とは別の隣り組です。荒戸組だけでなく、五つの組すべての村民が、組それぞれにこのような連判状を作って諶之丞に差し出したことがうかがえます。それほど村民の信望は厚かったようです。

戸長については、明治四(1871)年四月に戸籍法が定められ、戸籍吏として戸長・副戸長が置かれます。
戸長は、この戸籍吏に土地人民一般の事務を取扱わせたものです。大区には区長、小区には戸長が置かれました。この時の戸長は、民選したものを郡長が指名しまします。戸長の職務は、県・郡からの通達徹底、戸籍整備、租税徴収、小学校設置、徴兵調査などで、政府の中央集権政策の末端遂行機関でした。ここには、衛生福祉などサービス的な要素は一切ありません。小さな政府の小さな役所で、戸長の家が役所として使われていた所も多かったのです。そのために、農民騒擾が起ると、その攻撃対象に戸長宅がなることが多かったようです。
 また江戸時代の村役人とは異なり、権威主義的な統治手段がとれません。村民と権力側の板挟みになる立場のために旧庄屋層は戸長就任を嫌うことも多かったようです。例えば、明治になって満濃池再築を行う榎井村の大庄屋の長谷川佐太郎も戸長に選ばれますが、すぐに辞退しています。

   諶之丞が、財田上の村戸長をしていたときのことです。
財田上の村では、品福寺内に学校を置いていましたが、一揆以後に新たに小学校を建てることになります。当時の義務教育は、全額が地方負担です。国は何の補助も出さずに、地方に義務教育の普及を命じます。村の予算の1/3が学校建築や教員給与となっていた時代です。受益者負担で、そのため村民は授業料も負担しなければなりませんでした。この義務教育の強制は徴兵制施行とともに、村人の怨嗟の的になります。「讃州血税一揆」の原因となったは先ほど触れた通りです。
 このような中で、戸長を勤めていた大久保諶之丞がどのようにして学校建設を行ったのかを見てみましょう。
 彼は、少しでも村の財政負担を少なくするために近隣の山林を多く所有する神社寺院や村民などから木材を寄進してもらおうと、村内を駆け回つています。校舎建築のための材木確保のためです。
  その頃の村のわらべ歌に次のようにうたわれていたと云います。
大久保諶之丞は  大久保諶之丞は
日暮のカラス
森をめがけて飛んで行く
公務を終えて夕方になると小学校建築のため奔走していた当時の諶之丞の姿が、村民の親から子に言いはやされていたようです。その姿が目に浮かぶようです。

明治9年12月、財田上の村は、「学校新築を勧むる諭言」を出しています。
学問の必要性と学校新築の重要性を論じ、金のある者は多額の寄金を、そうでない者は竹木縄薪夫力を提供することを求めたものです。おそらく当時の戸長であった諶之丞が起案した文書でしょう。明治8年4月に戸長になった諶之丞は、すぐに校舎新築のために動き出したようですが、資金力に乏しい村では完成までの資金が不足します。校合完成のために村民全体の世論を高め協力を求めた書面のようです。建築資金の支払は、明治12年までかかっていますが、校合はそれ以前には出来上がっていたようです。財田上の村の春魁小学校、雉峡小学校の校舎は、このようにして建築された。ここには、血税一揆から学んだ次の教訓が活かされています。
「どのような事業であれ、民衆を十分に納得させて、その合意を得なければ、あらゆる目論見は成り難い。」 

 学校建設においても、強制的に資金を割り当てて徴収するのではなく、その必要性を手間暇掛けて村民に膝つき合わせて説いて、財力に相応した資金提供を求めています。それが新たに出来だ学校を「自分たちが創った学校」と村民に意識づけることになったようです。この手法が、大久保諶之丞への信頼につながり、彼のファンを増やしたのかもしれません。これは新道造りにも反映されていきます
以上をまとめておくと
①大久保諶之丞の父森冶は、陽明学を学び、それを経営の柱に位置づけようとした。
②そのためため池や道路工事などに積極的に関わり、信望の厚い人物で、それが諶之丞にも受け継がれていくことになる
③明治維新後、父は森治副戸長、諶之丞は役場吏員を務めていたが、西讃血税一揆の際に家が焼き討ち対象とされた。
④このため大久保家では諶之丞が戸長などの公的なポストに就くことに反対する雰囲気が強くなった
⑤その意を受けて、諶之丞は何度も戸長辞任願いを提出しているが、受けいれられることはなかった
⑥このような大久保家の心配を受けて、財田上ノ村の5つの地区は、それぞれが留任嘆願書を出している。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「馬見州一 双陽の道 大久保諶之丞と大久保彦三郎 言視社2013年」
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大久保諶之丞4
大久保諶之丞 瀬戸大橋公園
大久保諶之丞の関係資料が香川県立ミュージアムに寄託されたようです。木箱何箱にもなる膨大なものです。この中には、四国新道建設に尽力し、瀬戸大橋構想を唱えた先駆者としても知られる大久保諶之丞に関する資料が多く残されています。諶之丞のことを知る根本史料になります。この資料に関わった研究者の調査報告書を見て行きたいと思います。テキストは「松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)」です。
大久保諶之丞 財田上ノ村
財田上ノ村
大久保諶之丞以前の大久保家について
大久保家は、三野郡財田①上ノ村(現三豊市財田町)の豪農だったと伝えられます。生家は、財田町の道の駅をさらに国道32号沿い登っていった左側にありました。今は、小さな公園となっていて碑文が立っています。
大久保諶之丞生家記念碑
大久保諶之丞生家に立つ記念碑

大久保家の系譜としては、墓碑や位牌から寛政五年(1793)没の権左衛門、甚平、与三治、森治、諶之丞と継承されていった所までは辿れるようです。これに対して、大久保家資料で年号が分かるものを古い順に並べると、次のようになります。
①享保2年(1717)の「永代売渡シ申田地書物之事」で、宛名は市右衛門
②享保14年(1729)の「覚」で、宛名は権助
③延享四年(1747)の「永代売渡シ申田地書物之事」で、宛名は「大久保 権左衛門殿」
③の権左衛門が寛政五(1793)年の墓石に名前のある権左衛門と同一人物のようです。そして、①②の市右衛門や権助は権左衛門の先代に当るようです。彼らが大久保諶之丞の祖先ということになるとしておきましょう。
 以後の大久保家資料には、田畑の売買証文などが多く残っています。ここからは、江戸時代中期以降に大久保家が、土地集積を進めていった様子がうかがえます。

大久保諶之丞の墓
大久保諶之丞の墓 

大久保家が江戸時代に村役人を務めていたかどうかは分かりません。
しかし、明治初年には大久保森治が「調子役」を務めているので、それ以前から村内の有力者の一人であったことはうかがえます。また大久保家は、安政6年(1859)に多度津藩から財田上ノ村にあった御用水車請負を命じられています。明治になってからも、諶之丞の兄の菊治が分家として水車を利用して油店を経営し、御用地と呼ばれています。
  以上から私の気になる点を見ておきます。
①上ノ村が多度津藩に所属していたこと。
以前にお話したように、幕末の多度津藩は小藩ながら四国では珍しく藩を挙げての「富国強兵」策に取り組んだ藩です。「陣屋建設 + 多度津湛甫(港)」=軍事力近代化へと、藩内の富裕層を巻き込んだ体制改革が行われ、新規事業なども起こされていきます。そんな中で、新たな産業として注目されたのが水車です。財田川から水を引き入れた水車が有力者によって作られ、投資先となっていたようです。その権利を大久保家は入手していたことが分かります。
 大久保家を庄屋としている文献もありますが、私はそうは思いません。江戸後期になって水車請負などの新規事業に参入することにして、台頭してきた家ではないかと考えています。父の森冶が「調子役」を務めていたので「庄屋」出身とする本もあります。しかし、明治初頭の村の役人には、なり手がいなかったともいわれます。江戸時代の村役人のように、権威で村衆を押さえ込むことができなくなった地域では、村役人は新政府と村人の板挟みになり、苦労したようです。そのため旧庄屋層は役人になるのを避けるようになります。例えば、榎井村の庄屋であった長谷川佐太郎も戸長に任命されていますが、これをすぐに辞退しています。
 庄屋層にかわって村の指導者となったのが、その次の有力者層でした。大久保森治もこのような新興勢力の有力者で面倒見のいい人物だったことが想像できます。村のために活動する父を太助ながら諶之丞は、若き日をおくったのではないでしょうか。

 江戸時代の大久保家で研究者が注目するのは、諶之丞の曾祖父・大久保長松(直信)と祖父大久保与三治です。
ふたりはともに、二十四輩巡拝の旅をしています。二十四輩巡拝とは、浄土真宗の開祖親鸞の高弟二十四人の旧跡を巡拝することです。大久保長松の巡拝について、明治22年(1889)12月、東京滞在中の大久保諶之丞へ宛てて兄菊治が送った手紙の別紙に、次のように記します。
「文化十三子年六月十八日卒
帰真釈西流信士霊 此人仏法深重思、高祖聖人二十四輩巡拝出立メ、哀哉何国ノ土ヤ我ヲ待ラン、奥州先台田尻村ニテ死去ス、俗名大久保長松 直信コト明治廿二年迄七拾四年ニナル」
意訳変換しておくと
「文化十三(1816)子年六月十八日死亡
帰真釈西流信士霊 この人は仏法に深く帰依し、高祖聖人二十四輩の巡拝の旅に出立したが、哀しきかな奥州の仙台田尻村で亡くなった。俗名大久保長松(直信) 明治廿二年の74年前のことである。 

ここからは大久保長松が文化13年(1816)に、二十四輩巡拝の旅の途中、奥州仙台田尻村で死亡したことが分かります。その4年後の文政三年(1820)に、与三治が二十四輩巡拝を行っていることが残された寺院の宝印や縁起の摺物などを綴った冊子から分かります。与三治は、この時に仙台田尻村も訪れているので、長松を弔う旅であったのでしょう。
 ここからは大久保家には、親鸞を祖とする浄土真宗に対する厚い信仰心が根付いていたことがうかがえます。尽誠学園創業者である諶之丞の弟の彦三郎が、若い頃に浄土真宗の信心を持ち教宣活動を行うのも、この辺りに源がありそうです。この旅からもうひとつうかがえるとすれば、大久保家が19世紀初頭には長期旅行を行えるだけの経済力のある家であったことです。
大久保諶之丞 3
琴平公園の大久保諶之丞

大久保護之丞の経歴 について、見ておきましょう。
大久保諶之丞 大久保家年表1
大久保諶之丞 大久保家年表2

大久保諶之丞は嘉永二年(1849)、大久保森治とソノの三男として生まれています。明治維新を19歳で迎えたことになります。彼は、山脇の塾に通い陽明学を学び「学問・思想と行動の結合」という行動主義を身につけたようです。
 明治5年(1872)に父親が里長を退いた後に、村吏を拝命していますが、それ以前の諶之丞については、詳しいことは分かりません。資料からは、父・森治の下で、使いや名代として仕事を手伝っていたらしいことうかがえます。
明治三年には、長谷川佐太郎の満濃池再築に参加し、最新の土木建築技術に接したようです。この時に、身近に長谷川佐太郎が姿をみて、土木工事の差配ぶりや、その姿に影響を受けたと私は考えています。

 その後、明治5年5月に、香川県第七十区(財田上ノ村。財田中ノ村。神田村)の村役人に任命されます。明治6年の職務分課では「学校・土木・費用」を担当していたことが分かります。新政府のもとで、文明開化のために働いていると思っていた矢先に、民衆が彼の家を焼き討ちする事件が起きます。この年、新政府の方針に不満を抱く民衆たちが学校や役場・指導者の家などを打ち壊した讃州竹槍騒動です。村役人を務めていた諶之丞宅も焼き討ちに遭い、焼失しています。焼かれた家跡を見て諶之丞は、何を考えたのでしょうか。彼は八月ごろに辞職を願い出て、受理されています。民衆の怒りが新政府や自分に向けられた経験を、彼はこの時にしたのです。
その後の役職を一覧にしておきましよう。
明治8年4月、名東県第二十三大区六図  小区二等副戸長
同年 11月 香川県第十一大区六小区戸長を拝命
明治10年五月戸長解職を願い出てるが、村民から慰留され、翌年の11月まで戸長留任
明治12年7月学区世話掛
   同年8月三野豊田郡勧業掛
明治13年6月学務委員
明治15年9月勧業世話係
明治17年  愛媛県農談会員に選出。四国新道構想実現へ向けて活動開始
明治19年 四国新道起工 12月には、財田上ノ村外一ヶ村戸長を
命ぜられ、辞退したものの、結局戸長を引き受ける
明治20年3月 三橋政之率いる移民団が北海道へ向けて出発。以後、北海道移住奨励に取り組む
     6月 讃岐鉄道会社にヨる鉄道建設着工のために東京へ請願上京
明治20年8月、四国新道讃岐分の工事悉皆請負を知事より命じられ、同時に戸長を辞職
以後、諶之丞は私財をなげうち、借財までして四国新道開通に尽力。
明治21年3月 愛媛県会議員に当選
明治22年1月 分県を果たした香川県会議員に選ばれ、
明治24四年12月に高松の議場で死去

諶之丞の家族についても、報告書は触れています。
大久保諶之丞の家族 明治10年
大久保家の家族写真明治10年 
後列左から諶之丞・父森冶・母リセ
前列左から妻タメ・娘キクエ・サダ(妹)

諶之丞の兄弟には、長男菊治、次男実之助、長女コトミ、四男与三七、二女キヌ、三女サダ、五男彦三郎がいます。母ソノは五男彦三郎出生の翌年に亡くなって、森治は後妻リセを迎えています。
諶之丞の兄弟たちを簡単に見ておきましょう。
①長男菊治は分家して財田上ノ村戸川に油店を営み、明治15年には戸川郵便局も開設します。
②次男実之助は元治元年(1864)に20歳で死去。
③四男与三七は、仁尾の吉田家へ養子となっています。
④五男彦三郎は、東京の三島中洲の二松学舎に学び、明治20年京都で尽誠舎を開塾します。
後に彦三郎は病気ために京都から引き上げ、讃岐で尽誠学園を開きます。大久保家の兄弟たちは筆まめで、互いに音信のやりとりを頻繁に行っています。特に末の弟彦三郎と諶之丞は、離れた生活を送っていたこともあってか音信のやりとりが多く、そこには兄弟愛が感じられます。
 諶之丞は慶応二(1866)年に17歳で、大久保利吉の娘タメと結婚し、同年に長女キクヱが生まれています。
その後の明治16年には、同村の伊藤家から柚太郎(後に柚太郎、衡平と改名)を婿養子に迎え、キクヱと結婚させ、翌年には孫の豪が生まれます。大久保家資料には、孫の豪の代までの資料が含まれているようです。
大久保諶之丞 彦三郎
真ん中が諶之丞 右が弟彦三郎 左が養子柚太郎

諶之丞の名前の表記については、明治12年以前の資料には、自筆も含めて、いずれも「甚之丞(丈)」と記されています。明治13年4月頃から、「諶之丞」の表記が使われ始めます。この頃に「甚」の字を「諶」に改めたヨうです。また諶之丞は「直男」という別称も使っています。「直」は大久保家の通字で、父森治は「直次」、兄菊治は「直道」、弟彦三郎は「直之」を称していました。
大久保諶之丞2
北海道洞爺湖町の大久保諶之丞像
諶之丞没後の大久保家について
 大久保諶之丞は明治24年(1891)県庁議会場で討議中、倒れ込み高松病院へ運び込まれ、2月14日に尿毒症を併発し死亡します。それを追うかのように、2年後には養子の衡平も亡くなります。兄菊治の援助を受けながら、キクヱが大久保家を切り盛りしてしたようです。大久保家には、諶之丞の多額の負債が残されていました。大久保家の資産高を記した資料を見ると、明治25年4月には15町9畝2歩あった小作地が、明治26年には、6町1反4畝19歩の半分以下に激減しています。ここからは、土地を売って借金の返済に充てたことがうかがえます。また、借金返済のために頼母子講も実施していたと伝えられます。
また、大久保菊治の経営する油店も多額の負債をかかえていました。
そのため明治32年には親族会議を開き、負債の返済計画を立てるとともに、親族の共同経営とすることにします。最終的には油店の経営を大久保本家が引き取っています。そのため、大久保菊治や油店、戸川郵便局に関する資料も一部、大久保家資料に含まれているようです。
大久保諶之丞の金銭出納帳
大久保諶之丞の残した金銭出納帳

このほか、諶之丞亡き後の妻キクヱは、財田村処女会長などを務め、日露戦争時には、救性のための募金活動を行うなど、社会事業に取り組んでいます。また、孫の大久保豪は、財田村会議員を務め、大久保彦三郎が創設した尽誠舎の経営にも携わました。そのため尽誠舎の経営に関する書簡類も残されています。
大久保諶之丞への書簡
大久保諶之丞に宛てられた書簡
大久保家に残された資料は、点数934件、 13190点で、県立ミュージアムに寄託された時には14の木箱に分けて収められていたようです。この中には、大久保諶之丞が取り組んだ四国新道関係の資料がまとまっているほか、諶之丞宛の書簡類も残されています。特に明治19年以降、数が多くなっているようです。この背景には四国新道事業に取り組む中で人間関係が広がり、手紙のやりとりが多くなったことが考えられます。手紙の中には、三野豊田郡長豊田元良や多度津戸長大久保正史、多度津の豪商であった景山甚右衛門からの手紙も多く残されていて、諶之丞と親しく交際し、協力し合っていた様子がうかがえます。
 また香川県土木課の監督官や諶之丞のもとで工事を担当していた人物、愛媛・高知・徳島の新道工事関係者などからの手紙も多く含まれており、四国新道工事の具体的な状況がうかがえます。また、以前にお話しした北海道移民関係の資料なども数多く含まれています。
  次回は、この史料を見ながら大久保諶之丞が四国新道の建設に向けて動き出す様子を見ていきたいと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
  テキストは「松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)」です。
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山下谷次銅像
山下谷次像(仲南小学校正門)
まんのう町は戦前に、二人の国会議員を輩出している。その一人の像が仲南小学校の正門に立っている。山下谷次である。彼は、まんのう町帆山出身で「実業教育の魁け」として、東京で実業学校の開設にいくつも関わり、その後に代議士となってからは実業学校の法整備等に貢献した人物だ。
小学校卒業後の谷次は、琴平神宮が設立した明道学校へ堀切峠を抜けて通った。裕福でなかった谷次が上級学校へ進学できたのはここが授業料無償であったことが大きい。その後、さらに上京し勉学を志すが経済的に恵まれず、同郷出身者を訪ね、勉学の熱意を訴え支援を仰ぐがかなわず、貧困の中にあった。

1大久保諶之丞
大久保彦三郎(左)と大久保諶之丞(右)  
これを援助したのが財田出身の大久保彦三郎である。
彦三郎は当時、京都に尽誠舎を創設したばかりであった。そこへ転がり込んできた谷次の入学を認めると共に、舎内への寄宿を許す。そして、谷次に学力が充分備わっているのを確かめると半年で卒業させ、さらに大抜擢して学舎の幹事兼講師として採用している。彦三郎は「四国新道」を開いた大久保幕之丞の実弟である。ちなみに、彦三郎に従って京都に設立されたばかりの尽誠舎に入学していたのが七箇村春日出身の増田一良である。彼は、春日の富農増田家の当主で、増田穣三代議士の従兄弟にもあたり、後には七箇村長や県会議員として活躍する。 一良は、この時に山下谷次の教えを受け、短い期間ではあるが師弟関係を結んでいた。

山下谷次
山下谷次
谷次は、彦三郎の支援を受けて京都で実力を蓄えた後、上京し苦労しながら栄達への道を歩み始めていく。そして、妻の実家のある千葉県から衆議院に出馬するが落選。その後、春日出身の増田穣三代議士引退後の郷里香川県から選挙地盤を引継ぎ再出馬し当選する。その際には、京都で師弟関係にあった増田一良の支援があったようである。地元では当選の経緯から「増田穣三の後継者」と目されていたという。仲南小学校の山下谷次像は、登下校の児童を見守るおじいさんのような風情で絵になる。

参考資料 福崎信行「わが国実業教育の魁 山下谷次伝
まんのう町誌ふるさと探訪2017年8月分

 増田穣三の従兄弟・増田一良について  

 増田穣三と深く関わる人物として挙げたい人物がもうひとりいる。増田一良(いちろ)である。
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一良は譲三より14歳年下で、増田家の本家と分家で隣同士という地縁血縁的に非常に近い関係になる。一良は、譲三の後ろ姿を見ながら育ち、成長につれて「兄と弟」のような強い絆で結ばれていく。
 例えば、若き時代の二人が熱中したものに浄瑠璃がある。当時、塩入の山戸神社大祭には阿波から人形浄瑠璃がやって来て、「鎌倉三代記」とか、「義経千本桜」などを上演していた。阿波は人形浄瑠璃が盛んで、塩入には三好郡昼間の「上村芳太夫座」と「本家阿波源之蒸座」がやって来ていた。
 その影響を受けて、春日を中心に浄瑠璃が「寄せ芝居」として流行していく。素人が集まって、農閑期に稽古をして、衣裳などは借りてきて、祭の晩や秋の取入れの終わった頃に上演する。そして見物人からの「花」(祝儀)をもらって費用にあてる。ちなみに大正15年ごろの花代は、50銭程度だったという。この寄せ芝居で若き時代の譲三や一良は、浄瑠璃を詠って好評を博していた。県会議員時代には、この時の「成果」が酒の席などでは披露され「玄人はだし」と評されている。
 仲南町誌には、次のような記述が載せられている。
明治中頃、春日地区で、増田和吉を中心に、和泉和三郎・山内民次・林浪次・大西真一・森藤茂次・近石直太(愛明と改名)・森藤金平・太保の太窪類市・西森律次たち、夜間増田和吉方に集合して歌舞伎芝居の練習に励んだ。ひとわたり習熟した後は、増田穣三・増田和吉・和泉広次・近石清平・大西又四郎たちの浄瑠璃に合わせて、地区内や近在で寄せ芝居を上演披露し、好評を得ていた。
 明治43年ごろには、淡路島から太楽の師匠を招いて本格的練習にはいり、和泉兼一・西岡藤吉・平井栄一・大西・近石段一・大西修三・楠原伊惣太・山内熊本・太山一・近藤和三郎・宇野清一・森藤太次・和泉重一・増田和三郎たちが、劇団「菊月団」を組織。増田一良・大西真一・近石直太(愛明)・本目の山下楳太たちの浄瑠璃と本目近石周次の三味線に合わせて、歌舞伎芝居を上演した。当地はもちろん、財田黒川・財田の宝光寺・財田中・吉野・長炭・岡田村から、遠く徳島県下へも招かれていた。
 その出し物は、「太閤記十役目」「傾城阿波の鳴門」「忠臣蔵七役目」「幡州肌屋敷」「仙台萩・政岡忠義の役」「伊賀越道中沼津屋形の役」などを上演して好評を博していた。                                                              (仲南町誌617P)
  若き時代の二人が浄瑠璃を共に詠い、村の人々共に演じ、娯楽を提供していた姿が伝わってくる。これ以外にも、未生流の活花や書道も一良は、譲三を師としている。

 その一良に大きな影響を与えた師が大久保彦三郎である。

 大久保彦三郎は、安政6年(1859年)生で、増田穣三より1歳年下になる。讃岐国三野郡財田上村戸川に富農階層の次男として生まれた。現在の尽誠学園の創設者でもある。兄は「四国新道」を作った大久保諶之丞になる。
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まず大久保彦三郎が歩んだ「学びの道」をたどってみたい。
 明治初年期は、尋常小学校が整備されていない。そのため江戸時代と同じように寺小屋で読み書きを学んだ後、富裕層クラスの師弟は周辺の知識人の塾の門を叩く。この辺りは、増田穣三が琴平の日柳三舟のもとに通ったのと同じだ。
 大久保彦三郎は、十郷村山脇の香川甚平の塾まで歩いて通った。
香川甚平は、藩政改革に大きな実績を上げて著名になっていた備中の儒者山田方谷の徳業を称えていたという。さらに、明治9年(1876)9月からは、高松の黒本茂矩の下で漢学及び国学を学ぶ。黒本茂矩は、古野村(現まんのう町)大宮神社の社家に生れ、明治2年33歳で高松藩校講道館皇学寮教授になり、田村神社の禰宜をしながら高松で私塾を開いていた。 明治初期の讃岐における著名人である。ちなみに増田穣三と幼なじみで初代七箇村長を務めた田岡泰も、ここの門下生であった。田岡泰は、この時期に整備されていく師範学校に進んだが、彦三郎は、儒学・国学・仏教方面をより深く学ぶため京都へ上り、さらに東京で終生の師三島中洲出会い漢学等を修める。しかし、学半ばにして病にかかり保養のため郷里財田村に帰郷する。当時、兄の諶之丞は戸長として、財田村のために尽力していた最中だ。その姿を見ながら彼はかたわら塾を開く。 
 病が一服した明治17(1884)年3月1日には、正式に「忠誠塾」を開設する。
設立目的を述べた「教旨」によると、「国家有用の真士」を作ることであり、そのための手段は主として「儒教・漢学を通じての忠誠心涵養」に求めるとある。対象は小学校を卒業上級志向者で、中学校の代用学校の役割をもったものであったようだ。 
開塾されたばかりの「忠誠舎」の門を、叩いたのが増田一良である。
 彦三郎25歳、一良11歳の師弟の出会いとなる。
忠誠舎は、漢文だけではなく、新聞体、西洋訳書、新著書その他「有益書」を選択して教えたり、体操、詩歌吟舞、学術演説、討論等も教授する新しいタイプの教育機関を目指した。
 明治20年には彦三郎は「忠誠塾」の発展を願い、拠点を京都に移し「尽誠舎」と改名する。忠誠塾の一期生である一良も、これを追いかけて京都に上り、尽誠舎に入学する。師である彦三郎を慕い仰ぐ気持ちが伝わってくる。こうして、一良は忠誠塾の一期生、尽誠舎でも第一期生としての誇りを持つと同時に、大久保彦三郎の薫陶を深く受ける。母校に対する愛情は深く、終生変わらぬものがあったようだ。
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尽誠の同窓会にて 中央に座るのが増田一良 
 一良に遅れて2年後(M22年)に入学してくるのが山下谷次である。
 山下谷次は、まんのう町帆山出身で、後に「実業教育の魁」として衆議院議員に当選し活躍する。この時期、彼は同郷出身者を訪ね、勉学の熱意を訴え支援を仰いだがかなわず、貧困の中にあった。谷次を援助したのが彦三郎である。彦三郎は、尽誠舎への入学を認めると共に、舎内への寄宿を許した。そして、谷次に学力が充分備わっているのを確かめると、半年で卒業させ、さらに大抜擢し学舎の幹事兼講師として採用している。 
この時期は、一良の京都遊学時代と重なるようである。
ふたりは京都尽誠舎で、「師弟の関係」にあった可能性がある。
後に谷次は、香川選挙区から衆議院議員に立候補し当選する。
その原動力の一つに、現職の県会議員増田一良や、元衆議院議員の増田穣三など「増田家」に連なる人々の支援があったのではないだろうか。       参考資料 福崎信行「わが国実業教育の魁 山下谷次伝」
 
 尽誠舎卒業後の一良の足取りは、上京し駒場農林学校に進学するまではたどれるが、そこから先が今のところ分からない。資料がそろっていないのだ。今後の課題としたい。 

一良の政治家としてのスタート

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一良は明治35年に29歳で七筒村会議員に当選する。これが政治家としてのスタートになる。当時、七箇村長は増田穣三である。譲三は県会副議長も兼務しており、明治34年からは多度津に設立されていた「讃岐電気株式会社」の社長も務めていた。そのため多忙で高松に家を借り、春日の本宅を空けることが多くなっていた。そのような中で、譲三が帰宅すると一良は隣の譲三宅を訪ね、いろいろな情報のやりとりを行う一方、二人で浄瑠璃や活花を楽しむ姿がよく見られたという。
 譲三が衆議院議員になり上京することが多くなると、その「国家老」的役割を果たしていたのは一良であったと思われる。例えば、土讃線誘致合戦の一コマについて一良は、次のような回顧を行っている。 
1917(大正6年) 12月に「塩入線鉄道期成同盟会」をつくり貴衆両院へ請願書提出した。仲多度多度郡に於ては郡会議員を実業会員として発足し、徳島県関係方面との連絡を取る必要ありとして会長堀家嘉造、副会長三谷九八、松浦英治、重田熊次郎、増田一良(本人)と出発の際、加治寿衛吉氏加わり一行六名塩入越を為し徳島県昼間村に至り村長に面談。共に足代村長を訪い相携えて箸蔵寺に至る。住職大いに悦び昼食の饗応を受け小憩、此の寺を辞し吉野川を渡り、池田町に至り嶋田町長と会談を為し、徳島県諸氏と別れ猪の鼻峠を越え琴平町に帰着、夕食を共にし別れる。
 此の旨、在京増田代議士に之通告す。
  土讃線の琴平ー池田ルート誘致のために徳島への誘致工作を、郡議会議員が行った際のことである。わずか一日で、塩入から東山峠を越え昼間ー箸蔵寺ー池田と訪問し、夕方には琴平に帰っている。百年前の人たちの健脚ぶりに驚かされる。
 同時に「此の旨、在京、増田(譲三)代議士に之通告する」とし、頻繁な連絡が取られていたことが推察される。
 また情報を分析して有利と思われる新規事業には二人で共に投資を度々行っている。その幾つかをあげてみると
1903(M36)年 八重山銀行設立(黒川橋東詰)社長に一郎就任。
1911年 讃岐電気軌道株式会社のが設立発起人に、増田一良・増田穣三・長谷川忠恕・景山甚右衛門・掘家虎造の名前がる。
1921年 七箇・十郷村に初めて電力を供給した塩入水力電気株式会設立社設立も、一良・譲三が中心となって行っている。 
このようにふたりは、政治的にも経済的にも緊密な関係を維持しつつ諸事に対応していたことが窺える。

村議から県会議員、そして村長へ

一良は明治35年(1902)に29歳で七筒村会議員となり、翌年には、仲多度郡会議員も兼務する。しかし、村長職には年上の従兄弟増田正一が就任しており、一良が村長に就くのはずっと後になる。
 そのためか、譲三が衆議院議員に転出した後の県議会への出馬の機会を伺う。最初の挑戦は、大正4年9月であった。この時は、5月の衆議院選挙で増田穣三が再選されるも、その直後に大浦事件が発覚し、譲三が刑事訴追されるという逆境の中での選挙となり、結果は次点であった。
 2回目は、4年後の大正8年(1919)9月である。この時は「譲三の後継者」と、土讃線誘致運動の中心人物としての実績を前面に出し、初当選を果たす。

 一良は、雅号を春峰と称し、琴古流尺八は悟竹と号して、譲三と共に浄瑠璃は玄人の域に達していた。「春と秋」の二人で浄瑠璃を楽しむ姿が、譲三の晩年にもよく見られたという。
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春日の一良の家の客間には「老木の木」と題された文書と写真が掲げられている。

昭和39年一良が91歳の時に書き残したものである。
全文を紹介する。 
 老木の木       昭和39年6月増田一良撰
吾が邸内の北隅に数百年を経たると思われる榎木の老木あり。周囲2丈余。其根東西に張り出すこと四間余。緑濃く繁茂空を掩い樹勢旺盛にして其枝広く四方に延び、特に北方の枝先地に垂れ、吾幼少の頃、枝先より登り遊びたることあり。
 6年前その枝が倒れ折れ垣塀二間を破壊し、裏の畑地に横たわる。その木にて基盤3面を取り、余りは木を挽いて板と為す。其後南方に出たる枝折れ、続いて北の方、東の方の枝も折れ、西向の枝のみ生残り居りしが。昭和38年風も無きに東方の折れ株が朽ち落ちると間もなく生き残りの西方の枝(周囲1丈一寸)の付け根より6丈ほどの處にて西北と西南とに分岐し居りしが大音響と共に付け根の處より裂け折れ、西南の枝は向こうの部屋の屋根の棟木と母屋を折り枝先向庭の地に付き、西方の枝は垣塀の屋根を壊し藪際の畑地にその枝先を付け茲に長く家の目標となりし老木も遂に其終わりとなる。
付記
  往年増田穣三氏若かりし時、呉服商を営み居りしを以てわが妹の婚衣買い求め為、呉服仕込みの京都行に同行。帰途穣三氏が曾て師事したる大阪の日柳三船先生訪問にも同行。三船先生は元那珂郡榎井村の出身にして維新の際勤王家として素名を知られたる日柳燕石先生の男にして大阪府参事官をつとめ大阪に住せり。種々談を重ねるうち先生曾て吾家に来りしことあり。巨木榎に及び其時古翠軒という家の号を書き与えらる。今吾居室に掲げある大きな額が夫れである。
 一良は戦後、村長職を退いた後も春日の地に留まり、晩年は県下最年長者として悠々自適の老後を送り104歳の長寿を全うした。

 
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前川知事が県下最長寿者・増田一良を訪問

 増田一良の年譜

1858 安政5年    増田譲三と田岡泰が七箇村春日に生る。
1873 明治6年  7月22日 増田一良(いちろ)生  
1884 明治17年3月 大久保彦三郎により財田上ノ村に開設されたばかりの忠誠塾入塾。
1887 明治20年大久保彦三郎が京都に開設した尽誠舎入学     
   その後、駒場農林学校に進学。(卒業後の経歴が不明)
1890 明治23年6月 七箇村役場(旧東小学校)開庁
1897 明治30年 春日地区で、増田穣三等の浄瑠璃に合わせて寄せ芝居を上演披露し好評。
1899 明治32年3月 第5回県会議員 増田穣三が初当選(41歳)
        4月 増田穣三第二代七箇村長に就任(41歳)
1902 明治35年3月 増田一良(29歳)が七筒村会議員となる。
           以後20年間村議を務める。
1903 明治36年9月 増田一良、仲多度郡会議員に当選。
           以後大正8年まで連続四期当選
1903 明治36年 黒川橋の東に八重山銀行設立。社長に増田一郎就任。副社長:大西豊照(帆山)ほか七名の重役格と業務執行者森川直太郎によって営業
1906 明治39年3月 増田穣三 七箇村村長退任 
          9月 第3回県会議員選挙に増田穣三出馬せず
1911 明治44年9月 讃岐電気軌道株式会社が設立。
    発起人に、仲多度郡の増田一良・増田穣三・長谷川忠恕・景山甚右衛門・掘家虎造の名前あり。
                3月 増田正一が七箇村村議に選出され、助役に就任。
1912 明治45年5月 第11回衆議院議員選挙で増田穣三初当選。
1914 大正3年 7月 七箇村長に増田正一就任(譲三・一良の従兄弟)
1915 大正4年 3月衆議院議員総選挙で白川友一と共に増田穣三再選。
   5月 白川友一代議員と大浦内相が収賄で高松高裁へ告訴され「大浦事件」へ
   9月 第9回県会議員選挙に増田一良初出馬するも428票で次点。1917 大正6年12月 塩入線鉄道速成会総会で土讃線の速成を貴衆両院へ請願書提出。
1919 大正8年 9月 県会議員選挙で増田一良初当選(46歳)
1920 大正9年 4月 土讃鉄道工事起工祝賀会開催(琴平)
1921 大正10年 増田一良 穣三らと共に塩入水力電気株式会社設立。
1923 大正12年5月 土讃線琴平-讃岐財田間が開通 琴平駅が移転。
1924 大正13年5月 山下谷次 香川選挙区より衆議院議員初当選
1926 大正15年   七箇村会議員選挙実施 増田一良は2位当選
1934 昭和9年 9月 増田一良 第6代七箇村長就任
1935 昭和10年11月 土讃線全面開通(三縄~豊永間が開業)
1937 昭和12年増田一良村長の呼びかけで生前に増田穣三の銅像建立
1938 昭和13年   山下谷次の銅像建立(十郷村会の決議で大口に)
1939 昭和14年2月 増田穣三 高松で死去(82) 七箇村村葬。
1943 昭和18年2月 増田一良が第9代目村長に再度就任。
1963 昭和38年3月 増田穣三の銅像が塩入駅前に再建される。
1977 昭和52年9月12日 増田一良104歳で永眠。


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