瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:大井八幡神社

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春日神社(琴平町)の本殿横の湧水 
 丸亀平野の扇状地上にある古い神社を訪れると、境内に湧水が湧き出しているところがいくつもあります。古代人にとって、大地からこんこんと湧き出し、耕地に注ぐ湧水は土地のエネルギーそのもので、信仰対象でもあったのでしょう。その湧水や人工的に作られた導水路に対して豊穣を祈願することは、ある意味では首長の権利であり役割であって、これをきちんと行うことが、地域支配の根拠(正当性)でもあったと研究者は考えています。
 これは古くから中国で「黄河を制する者が天下を制する」とされ、治水灌漑事業を行う者が、天下の覇者となることを正当化することと通じるものがあります。治水灌漑の土木事業の進展と共に、水に関する祭礼儀式が生み出されたとしておきましょう。湧水点は、聖地だったのです。
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            春日神社の湧水

 湧水地(水神)になんらかの宗教施設が加えられ、後に神社になっていったという仮説が湧いてきます。

琴平大井・春日神社

 例えば琴平周辺では、旧金倉川跡に南北に並んで鎮座する大井八幡・春日神社・石井八幡は、それぞれ境内に湧水地があります。そこから導水路が下流へと流れ出し、今でも水田の灌漑に使われています。この原初の姿を想像すると、弥生時代に稲作農耕が始まった時に、この湧水は下流の農耕集団の水源とされ、同時に信仰対象となったのではないかという気がしてきます。そして、時代が下ると宗教施設が設けられ、神社が姿を現すようになったというのが私の仮説です。今回は、湧水から神社はどのように生まれたを知るための読んだ文章の読書メモになります。テキストは「北条勝貴 古代日本の神仏信仰    国立歴史民俗博物館研究報告 第148集 2008年12月」です。
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大井八幡神社境内の湧水
古代の神社に祀られるようになった「神」は、古墳時代に生まれていると研究者は考えているようです。
前方後円墳での儀式は、喪葬と首長霊継承の関連で語られていました。しかし、墳墓の造出し部分の発掘成果によって、それだけではなく古墳は、首長が行ういろいろな宗教行為のパフォーマンスの場が古墳であったとされるようになってきました。古墳では、中央や地域の王権を支えるさまざまな祭祀が行われていたこと、それが、次第に古墳から離れて豪族居館や、神霊スポットへと移り、独自の祭祀空間を獲得していくようになります。その時期が5世紀後半~6世紀前半で、この時期が「神の成立」期だと研究者は考えているようです。  
 その原型は古墳時代には、登場していたと云うことです。

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大井八幡神社(琴平町)境内の北大井湧水
  井戸や川を祭祀遺跡として見るようになったのは、戦後のことになるようです。
少し、研究史らしきものを記しておきます。
1976年に、奈良盆地の纏向遺跡の報告書「纏向」が出されます。その中の「三輪山麓の祭祀の系譜」で、湧水に達するまで掘られた土墳から 容器・農具・ 機織 具 ・焼米・水鳥形木製品・ 舟形木製品・稲籾などが出土し、その湧水の隣には建物を伴う祭祀が行われていたことが分かってきました。これを「火と水のまつり」として「纏向型祭祀」と記されています。
 また文献史学の立場からも 風土記や日本書紀などに描かれた「 井 」や「井水」の祭儀の重要性が指摘されるようになり、古代日本の水神信仰の例が「延喜式」などからも説かれるようになります。さらに「風土記』に記されてた井泉とかかわる地名起源伝承から、地域首長が井水に対する祭祀を行う風習が各地にあったことも明らかにされます。
  そして「水の祭祀」については、次のように理解されるようになります。
常に湧きあ ふれ出る井泉の水の生命力・ 永遠性は、首長権の象徴にもなり、井水は首長権 の継承儀礼にも欠かせないものであるとともに、 地域首長にとって国の物代ともいえる聖水を大王に体敵する行為は大王への服属の証として 重要な儀礼となっていった

  水辺の祭祀は 、現在では次のふたつに分類されるようです。
①河川等の水の流れる所で行われた「流水祭祀」
②水の湧き出る所で行われたであ ろう「湧水点祭祀」
  その代表的な三重県の城の越遺跡を見ておきましょう。
湧水点祭礼 城の越遺跡1

  城之越遺跡は、新聞報道では「日本最古の庭園」と紹介されています。しかし、これは湧水を祭場に「加工」した湧水点祭祀跡です。それが、「庭(園)」にもなっていきます。この泉水遺構は,人工的に敷き詰められた石積みとともに約30年前に発掘されています。
湧水点施設1

同時に、儀式用の土器(高杯など)や刀剣型の木製品なども多数見つかっっています。これらの出土品から4世紀後半ごろに、ここで水に関する何らかの祭祀が行われていたようです。
湧水点祭礼1

祭祀遺構のすぐそばには、大型建造物の跡も見つかっていています。

湧水点祭礼 城の越遺跡4
城之越遺跡 湧水近くに建てられた建築物

この建物の分析から、次のような点が分かってきました。
①湧水に隣接してあった大型建物は、首長居館・居宅遺構であったこと
②湧水点祭祀の主宰者が地域首長層であったこと
③湧水点祭祀が古墳時代首長の実施する祭祀の中でも最も重要度の高いものであったこと
 さらに、この遺跡だけでなく井泉と大型建物がセットで出土している遺跡は各地にあり、その建物形式も共通していることが指摘されます。この背景には、首長層の間に湧水点祭祀について、なんらかの全国統一マニュアルがあったことが想定できます。

湧水点祭礼 城の越遺跡3
庭園の石組みのようにも見える城の越遺跡の湧水施設

 また、湧水点では、誓約儀礼も行われた可能性があるようです。「記紀神話」のアマテラスとスサノフの誓約とよく似ているとされます。とすると、古墳時代の水に関する儀礼が、記紀神話にも取り込まれていることになります
湧水点祭礼 飛鳥
飛鳥の水の祭礼遺跡

飛鳥の水の祭礼遺跡です。先ほど見た城の越遺跡との間には、約200年の隔たりがあります。しかし、飛鳥の施設が城の越遺跡の発展系であることは想像ができます。湧水の下に導水施設が組まれています。これはより奇麗な水を濾過する装置と研究者は考えています。
湧水点祭礼 飛鳥京跡苑池
飛鳥京跡苑池
  橿考研の岡林孝作調査部長は、次のように云います。
「飛鳥京跡苑池は宮殿の付属施設であり、流水施設も王権に関わる水のまつりの場だったと考えられる」

 飛鳥には、大王に関わる水祀りの施設が、酒船石遺跡などを含めて、いろいろな所に作られ、それは「庭」とも考えられてきたのです。そのため「庭園遺跡」という見出しを付ける記者も出てきます。これは、さきほど見た古墳時代の城之越遺跡の湧水点遺跡と導水遺跡の複合系遺跡と研究者は考えています。
 
以上をまとめておくと
①出水、湧水は弥生維持代から神聖なものとして信仰対象とされ水神が祀られた。
②古墳時代になると豪族によって、湧水周辺の開発と治水灌漑工事は行われ、湧水周辺には附属施設や豪族居館が建設されるようになった。
③さまざな儀礼が湧水周辺では、豪族主催の下に行われるようになり、湧水点遺跡や導水遺跡が整備されるようになる。
④周辺は石畳で聖域化されるなど、整備が更に進む。
⑤このような水の祭礼施設は、大和の大王のもとでも整備され、それが飛鳥の湧水点施設や流水施設である。

とすると、このような施設は讃岐の古墳時代の豪族も作っていたことが考えられます。佐伯氏支配下の善通寺周辺にも、このような水の祭礼に関わる施設があったのかもしれません。しかし、善通寺一円保絵図に描かれた壱岐の湧水や二頭湧水には、神社は描かれていません。ふたつの湧水に今も神社はありません。なぜ、壱岐や二頭湧水に神社が建立されなかったのかが私にとっては疑問なのです。
 それにたいして、最初に紹介した琴平の旧金倉川の伏流水の上に鎮座する大井神社・春日神社・石井神社には、後に神社が姿を見せます。さらに、荘園化されると春日神社のように荘園領主の九条家(藤原氏)の氏神である奈良の春日大社が勧進され、合祀されます。さらに後世には、八幡神までも合祀されていきます。そのもとは湧水に宿る水神信仰が出発点だったのかもしれません。
今日もまとまりのない内容になってしまいました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「北条勝貴 古代日本の神仏信仰    国立歴史民俗博物館研究報告 第148集 2008年12月」
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金毘羅大権限神事奉物惣帳
金毘羅大権限神事奉物惣帳
金刀比羅宮に「金毘羅大権限神事奉物惣帳」と名付けられた文書が残されています。その表には、次のような目録が付けられています。
 一 諸貴所宿願状  一 八講両頭人入目
 一 御基儀識    一 熊野山道中事
 一 熊野服忌量   一 八幡服忌量
この目録のあとに、次のように記されています。
 右件惣張者、観応元年十月日 於讃州仲郡子松庄松尾寺宥範写之畢(おわんぬ)とあります。

宥範は、櫛無保出身で、善通寺中興の名僧です。その宥範が、観応元年(1350)十月に、この文書を小松荘松尾寺で写したというのです。そのまま読むと、松尾寺と宥範が関係があったと捉えられる史料です。かつては、これを根拠に金光院は、松尾寺の創建を宥範だとしていた時期がありました。しかし、観応元年の干支は己未ではなく庚寅です。宥範がこのような間違いをするはずはありません。ここからも、この記事は信用できない「作為のある文書」と研究者は考えているようです。そして、冊子の各項目は別々の時期に成立したもので、新設された金毘羅大権現のランクアップを図るために、宥範の名を借りて宥睨が「作為」したものと今では考えられています。

法華八講 ほっけはっこう | 輪王寺
輪王寺の法華八講
 この文書は「金毘羅大権現神事奉物惣帳」と呼ばれています。
中世小松荘史料
町誌ことひらNO1より
「金毘羅大権現」の名前がつけられていますが、研究者は「必ずしも適当ではなく『松尾寺鎮守社神事記』とでも言うべきもの」と指摘します。内容的には中世に松尾寺で行わていた法華八講の法会の記録のようです。これを宥範が写したことの真偽については、さて置おくとして、書かれた内容は実際に小松庄で行われていた祭礼記録だと研究者は考えているようです。つまり、実態のある文書のようです。
中世小松荘史料

ここに登場してくる人たちは、実際に存在したと考えられるのです。このような認識の上で、町誌ことひらをテキストに「諸貴所宿願状」に登場してくる人たちを探っていきます。
です。まず「宿願状」の記載例を見てみましょう。
 (第一丁表)
  八講大頭人ヨリ
奇(寄)進(朱筆)一指入御福酒弐斗五升 コレハ四ツノタルニ可入候        一折敷餅十五マイ クンモツトノトモニ
地頭同公方指合壱石弐斗五升
         一夏米壱斗 コレモ公方ヨリ可出候
         一加宝経米一斗
同立(朱筆)願所是二注也
         (中略)
(第三丁裏)
 八講大頭人ヨリ指入
 奇進      一奉物道具  一酒五升
         紙二条可出候 一モチ五マイ
         新庄石川方同公方指合弐斗五升
         立願所コレニ注   一夏米
      (下略)

ここには料紙半切の中央に、祭祀の宿(頭屋)を願い出た者の名前が書かれ、その脇にそれらの頭人からの寄進(指し入れの奉納物)が記入されています。この家々は、小松荘の地頭方や「領家分」「四分口」などという領家方の荘官(荘司)らの名跡が見えます。ここからは、彼らが小松庄を支配する国人・土豪クラスの領主などであることがうかがえます。家名の順序は、次のようになっています。
地頭方の地頭 → 地頭代官 →領家方の面々

まりこの記録には「実態」があるのです。

記された名前は祭祀の宿を願い出たもので、メンバーの名前の部分だけ列挙すると次のようになります。
  恩地頭同公家指合壱石弐斗五升
  御代官御引物
  御領家
  本庄大庭方同公方指合弐斗五升
  本荘伊賀方同公方指合弐斗五升
  新庄石川方同公方指合弐斗五升
  新荘香川方同公方弐斗五升
  能勢方同公方指合壱斗御家分
  岡部方同公方指合五升
  荒井方同公方指合五升
  滝山方同公方指合五升
  御寺石川方同公方指合弐斗五升
  金武同公方指合弐斗五升
  三井方
  守屋方
  四分一同公方指合壱斗
  石井方
 これは祭祀の興行を担う構成員で、いわゆる宮座の組織を示しているようです。諸貴所の右脇には、最初に「八講大頭人ヨリ指入」の奉物が書かれています。
小松の荘八講頭人

小松の荘八講頭人4

指入=差し入れ(奉納)」の内容は、道具・紙・福酒・折敷き餅などです。  以上から、この史料からは16世紀前半ころに小松庄には三十番神社が存在し、それを信仰する信者集団が組織され、法華八講の祭事が行われていたことが証明できます。
  この史料だけでは、分からないので補足史料として、江戸時代にの五条村の庄屋であった石井家の由緒書を見てみましょう。(意訳)
鎌倉時代には、新庄、本庄、安主、田所、田所、公文の5家が神事を執行していた。この五家は小松荘の領主であった九条関白家の侍であった。この五家が退転したあと、観応元(1350)年から、大庭、伊賀、石川、香川、能勢、荒井、滝山、金武、四分一同、石井、三井、守屋、岡部の13軒が五家の法式をもって御頭支配を勤めた。
 その後、能勢は和泉(泉田)に、滝井は山下となり、七家が絶家となって、石井、石川、守屋、岡部、和泉、山下の六家が今も上頭荘官として、先規の通りに上下頭家支配を勤めている
 ふたつの史料からは、次のようなことが分かります。
①「諸貴所宿願状」に登場してくる大庭以下13の家は、法華八講の法会において神霊の宿となり、祭礼奉仕の主役を勤める頭家に当たる家であった
②これが後に上頭と下頭に分かれた時には、上頭となる家筋の源流になる。
③「宿願状」には、何度かの加筆がされている永正十二(1515)から大永八年(1528)に作成された。その時期の小松荘の祭礼実態を伝える史料である
④この時期にはまだ上頭・下頭に分かれていないが、「岡部方同公方指合五升」とあるので、この公方が頭屋の負担を分担する助頭の役で、後に下頭となったことがうかがえる。
⑤「八講両頭人人目」には「上頭ヨリ」、「下頭ヨリ」とあるので、慶長八年(1603)ごろには、各村々に上頭人、下頭人が置かれていた
⑥「指合五升」などとあるのは、十月六日に行われる指合(さしあわせ)神事で、頭屋が負担する米の量である。

また、初期の投役には、「本荘大庭方」・「本荘伊賀方」・「新荘石川方」・「新荘香川方」と記載されています。ここからは小松荘に「本荘」と「新荘」のふたつの荘があり、そこにいた有力家が2つ投役に就いていたことがうかがえます。

 それでは本荘・新荘は、現在のどの辺りになるのでしょうか。
「本庄」という地名が琴平五条の金倉川右岸に残っています。このエリアが小松荘の中核で、もともとの立荘地とされています。しかし、新庄の地名は残っていません。町誌ことひらは、新荘を大井八幡神社の湧水を源とする用水を隔てた北側で、現在の榎井中之町から北の地域、つまり榎井から苗田にかけての地域と推測します。

小松庄 本荘と新荘
山本祐三 琴平町の山城より

 荘園の開発が進んで荘園エリアが広がったり、新しく寄進が行われたりした時に、もとからのエリアを本荘、新しく加わったエリアを新荘と呼ぶことが多いようです。ただ小松荘では、新しく開発や寄進が行われたことを示す史料はありません。
 それに対して、「松尾寺奉物日記之事」(慶長二十年(1615)という文書には「本荘殿」、「新荘殿」とあって、本荘と新荘それぞれに領主がいたことがうかがえます。これを領主による荘園支配の過程で、本・新荘が分かれたのではないかと「町誌ことひら」は推測しています。そして小松荘が本荘・新荘に分かれたのは鎌倉末期か、南北朝時代のことではないかとします。
戦国時代のヒエラルキー

 小松荘の地侍の台頭
この八講会には、地頭、代官、領家などの領主層が加わっているから、村人の祭とはいえない、それよりも領主主催の祭礼運営スタイルだと町誌ことひらは指摘します。
「石井家由諸書」によれば、この法会は嵯峨(後嵯峨の誤り)上皇によって定められたとあります。それはともかく、この三十番社の祭礼は小松荘領主九条家の意図によって始められたと研究者は考えています。荘園領主が庄内の信仰を集める寺社の祭礼を主催して、荘園支配を円滑に行おうとするのは一般的に行われたことです。その祭礼を行うために「頭役(とうやく)」が設けられたことは、以前にお話ししました。頭役(屋)になると非常に重い負担がかかってきますから、小松荘内の有力者を選んでその役に就けたとのでしょう。
 「石井家由諸書」には、九条家領のころは、預所のもとで案主、田所、公文などの荘官が中心になって法会を行っていたと記します。
それが南北朝時代以後になると、荘内の有力者が頭屋に定められて、法会に奉仕することになったというのです。彼らは領主側に立つ荘官とは違って、荘民です。南北朝のころになると、民が結合し、惣が作られるようになったとされます。小松荘にの惣については、よくわかりませんが、「金毘羅山神事頭人名簿」を見ると、慶長年間には次のような家が上頭人になっています
香川家が五条村
岡部家が榎井村
石川家が榎井村
金武家が苗田村
泉田家が江内(榎井)村、
守屋家が苗田村、
荒井家が江内(榎井)村
彼らは、それぞれの村の中心になった有力者だったようです。このような人たちを「地侍」と呼びました。侍という語からうかがえるように、彼らは有力農民であるとともに、また武士でもありました。
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石井家に伝わる古文には、次のように記されています。
 同名(石井)右兵衛尉跡職名田等の事、毘沙右御扶持の由、仰せ出され候、所詮御下知の旨に任せ、全く知行有るべき由に候也、恐々謹言
    享禄四            武部因幡守
      六月一日         重満(花押)
   石井毘沙右殿          
ここには、(石井)右兵衛尉の持っていた所領の名田を石井毘沙右に扶持として与えるという御下知があったから、そのように知行するようにと記された書状です。所領を安堵した武部因幡守については不明です。しかし、彼は上位の人の命令を取り次いでいるようで、有力者の奉行職にある人物のようです。
  石井毘沙右に所領名田を宛行ったのは誰なのでしょうか?
享禄4年(1531)という年は、阿波の細川晴元・三好元長が、京都で政権を握っていた細川高国と戦って、これを敗死させた年になります。この戦に讃岐の武士も動員されています。西讃の武将香川中務丞も、晴元に従って参戦し、閏五月には摂津柴島に布陣しています。小松荘の住人石井右兵衛尉、石井毘沙右も晴元軍の一員として出陣したのかもしれません。その戦闘で右兵衛尉が戦死したので、その所領が子息か一族であった毘沙右に、細川晴元によって宛行われたのではないかと町誌ことひらは推測します。
中世の惣村構造

このように地侍は、次のようなふたつの性格を持つ存在でした。
①村内の有力農民という性格
②守護大名や戦国大名の被官となって戦場にのぞむ武士
彼らは一族や姻戚関係などによって、地域の地侍と結び、小松庄に勢力を張っていたのでしょう。
Vol.440-2/3 人を変える-3。<ことでん駅周辺-45(最終):[琴平線]琴電琴平駅> | akijii(あきジイ)Walking &  Potteringフォト日記

興泉寺というお寺が琴平町内にあります。この寺の系図には次のように記されています。
泉田家の祖先である和田小二郎(兵衛尉)は、もと和泉国の住人であった。文明十五年(1483)、小松荘に下り、荒井信近の娘を妻とした。しかし、男子が生まれなかったので能勢則季の長子則国を養子とした。その後、能勢家の後継ぎがいなかったので、則国は和田、能勢両家を継いで名字を泉田と改めた。また和田、能勢家は、法華八講の法会の頭屋のメンバーであった。

ここからは、法華八講の法会の頭屋のメンバーによって宮座が作られ、宮座による祭礼運営が行われるようになっていたことがうかがえます。前回お話ししたように、南北朝時代から小松荘の領主は、それまでの九条家から備中守護細川氏に代わっていました。しかし、応仁の乱後には、細川氏の支配力は衰退します。代わって台頭してくるのが地侍たちです。戦国時代に小松荘を実質的に支配していたのは、このように宮座などを通じて相互に結び付きを強めた荘内の地侍たちであったと研究者は考えているようです。

地侍の魂 : 日本史を動かした独立自尊の精神(柏文彦 著) / みなみ書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 その後、豊臣秀吉によって兵農分離政策が進められると、地侍たちは、近世大名の家臣になるか、農村にとどまって農民の道を歩むかの選択を迫られます。小松荘の地侍たちの多くは、後者を選んだようです。江戸時代になると次の村の庄屋として、記録に出てきます。
石井家は五条村
石川家・泉田家は榎井村
守屋家は苗田

地侍(有力百姓) | mixiコミュニティ
地侍(有力農民)
  彼らによって担われていた祭りは、金毘羅大権現の登場とともに様変わりします。
生駒藩のもとで、金光院が金毘羅山のお山の支配権を握ると、それまでお山で並立・共存していた宗教施設は、金光院に従属させられる形で再編されていきます。それを進めたのが金光院初代院主とされる宥盛です。彼は金光院の支配体制を固めていきますが、その際に行ったひとつが三十番社に伝わる法華八講の法会の祭礼行事を切り取って、金毘羅大権現の大祭に「接木」することでした。修験者として強引な手法が伝えられる宥盛です。頭人達とも、いろいろなやりとりがあった末に、金毘羅大権現のお祭りにすげ替えていったのでしょう。宥盛のこれについては何度もお話ししましたので、省略します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 町誌ことひらNO1 鎌倉・南北朝時代の小松・櫛梨」
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