瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:大井神社

   決壊中の満濃池   
満濃池と池御料三村(白色)と金毘羅寺領(黄土色)
1640年に生駒騒動で生駒藩が転封すると、その後の讃岐は髙松藩(草色)と丸亀藩(茶色)の東西に分割されます。その時に満濃池の管理費の捻出のために設置されたのが池御領という天領(白色)でした。こうして金毘羅寺領に接した①榎井②五条③苗田の三村は、幕府の直轄地となり倉敷代官所などの支配下に置かれることになります。金毘羅寺領と池御領の位置関係は上の絵図の通りです。

1648年 幕府の金光院への朱印状
金毘羅寺領と天領三村の石高
倉敷代官役所管下の天領・窪屋郡倉敷村の庄屋を勤めた小野家には、「讃岐国那珂郡七箇村五条村榎井村苗田村絵図」という大きな一枚の絵図があります。これを初めて紹介したのは、琴平町の三水会の横関智也氏です。
金毘羅天領の古地図 倉敷市歴史資料館

横関氏は、次のように報告しています。
①提出先が倉敷代官「万年七郎右衛門 様 御役所」 となっている。
②この代官の任期は、一回目が明和7年~安永4年(1770年~1775年) 、二回目の任期が天明4年~天明7年没(1784年~1787年没)なので、制作されたのは18世紀後半
④提出者が苗田村・東庄屋新左衛門と同村西庄屋五郎衛門 
⑤いままでの紹介されたことのない新史料の絵地図であること
以上から、この絵図が18世紀後半に池御料で制作されて、倉敷代官所に提出されたものであることが分かります。今回は、この絵地図の中の五条村について見ていくことにします。
五条村の部分からは、次のような事が読み取れます。

五条村絵地図 18世紀後半
五条村の部分
①川は青色で描かれていて、金倉川と買田川が石淵の手前で合流している。
②石淵の対岸には神事場は描かれていない。神事場が整備されるのは神仏分離の明治維新後。
③街道は茶色で描かれていて、阿波町から阿波街道が五条村の中央を東西に貫通している。
④阿波街道沿いに札場と所蔵(郷倉)がセットであり、ここが行政的中心であったこと。
⑤札場から阿波街道はくねくねと曲がっているが、これは出水①の用水路沿いに作られたため。
⑥出水①が中世以来の五条の水源で、その水の供給範囲が中世の荘園領であった。
⑦出水④の水が湧き出す霊域に祀られたのが「大井神社」で、その背後は四条村になる。

高札場とはどんなものだったのかを見ておきましょう。

高札場とは何?復元された名古屋市緑区東海道鳴海宿の高札場に行った感想

名古屋市の東海道鳴海宿の高札場

高札場のことを。AIに訊ねると次のように答えます。
高札場とは幕府や領主が、法度(法律)や禁制(禁止事項)を記した木の板(高札)を掲げた施設のこと。設置場所は、村の中心部や、橋のたもと、十字路など、人の往来が多い所。構造は、権威を示すために一段高く作られ、雨風から札を守るための屋根や、保護のための柵が設けらた。
次に郷倉を見ておきます。

吉野上村郷倉平面図
まんのう町吉野上村の郷倉平面図です。明治になって小学校や交番として利用されるようになります。

幕府は、1788(天明8)年2月に「郷倉設置令」を出して、飢饉に備えて村ごとに非常救米の備蓄を命じています。

 
これを受けて高松藩・丸亀藩や天領でも一斉に、郷倉(所蔵:ところくら)が設置されます。そして、年貢米の一時的集積地となります。池御料の年貢米は、ここから那珂郡と鵜足郡の人夫と馬の夫役で、宇多津まで運ばれ、そこから倉敷へ送られました。 
 郷倉は明治になって、戸長役場や小学校・交番に転用されます。ちなみに各村の郷倉は、年貢の一時保管庫以外にも、犯罪者や問題を起こした人間を入れておく留置場の役割も果たしていたことは以前にお話ししました。ここでは、札所と郷倉はセットで、村の中心に作られたことを押さえておきます。五条村では、現在の琴平高校の南側の旧阿波街道沿いに建てられていたようです。この辺りに、本村や本条という地名も残っています。
 私が注目したいのは、出水①④のある大井神社と五条村の関係です。
  角川の地名大辞典には、次のように記します。

五条は金倉川の上流域に位置する。地名の由来は、条里制那珂郡五条にあたることにちなむ。南部の買田峠の三坂山一体には古墳群があり、仲多度農業普及事務所(琴平マルナカ東)の構内からは弥生式土器が出土している。

琴平町五条
現在の琴平町五条 中央水色が金倉川

グーグル地図で現在の琴平町五条を押さえておきます。
①五条の真ん中を、東西に金倉川が貫通する。
②大井八幡が氏神で、この周辺の出水から導水されたJR土讃線の北側の範囲に集落が形成された。
③R32号が金倉川を渡る橋の東側下に、いまも豊かな出水があり、古代の重要な水源地となっていた。
④その水源を霊地として「大井神社」が建立された。これは榎井の春日神社よりも古い。
⑤五条集落の形成は、榎井よりも早い。五条が本村で、榎井は新村(分村)

琴平大井・春日神社
五条附近の金倉川痕跡 
上記の土地利用図からは次のような情報が読み取れます。
A 金倉川は三坂山の所で流路を大きく変えていたこと
B かつての河道は大井神社から春日神社方面や、買田峠のすぐ下を流れていたことあったこと。
C 五条方面では、JR土讃線に沿うように流れていたこともあった。
こうしてみるとBの大井神社や春日神社にいくつも出水があり、それが聖域化し、そこに神社が建立されたことや、」C沿いに伏流水が流れて、それに沿って阿波街道も開けたようです。

まんのう町条里制と遺跡
三坂山の群集墳と準郡衙的な買田岡下遺跡と四条の弘安寺
⑥買田の三坂山には、古墳時代後期の群集墳があったとされ、岸上には、横穴石室の古墳もある。
⑧買田のJOYの南側からは、8世紀の官衛的遺跡も発掘されている。
⑨五条の東側の四条には、白鳳時代の瓦が出土している弘安寺が建立されている。
以上からは五条・買田附近では、弥生時代に大井神社付近の出水を水源にして稲作が始まり、古墳時代には群集墳の渡来人による開発が進み、律令時代には官衛的な建物や古代寺院が姿を現すようになったと云えそうです。古代から順調に力を伸ばし続けた勢力の拠点地であったことがうかがえます。これをまとめると次のようになります。

五条・買田の歴史

つまり、那珂郡の最南端の条里制や、四条の弘安寺・買田の郡衙的建物は、五条近辺に勢力を持っていた古代豪族によって作られたと私は考えています。それは佐伯氏ではありません。ここは多度郡ではなく那珂郡です。佐伯氏の勢力の及ぶ範囲ではありません。また、和気氏(因支首氏)でもありません。ましてや神櫛王(綾氏)でもありません。それについては、以前にお話ししたのでここでは触れません。
丸亀平野条里制 琴平の五条・四条
丸亀平野の条里制 琴平町の五条は那珂郡条里制の最南端に位置する

次に中世の五条周辺を見ておきましょう。

まんのう町の郷
五条は小松郷に属した

延慶二年(1309)の九条家の「九条忠教注給条々」には、次のような記載があります。
  小松荘 御馬飼赳晶公器談
此の如く仰せらると雖も、其足に及ばずと称し、行宣御預を辞し了ぬ、其以後各別の沙汰と為て、馬飼に於ては小豆嶋に宛てる所也 
意訳変換しておくと
 小松荘には、峯殿と呼ばれた九条道家の建立した寺のために、馬の飼育が充てられていた。行宣という者がその負担が困難だと辞退してきたので、馬飼の役を同じ九条家領の小豆島に替えた。

ここからは次のようなことが分かります。
①14世紀初頭の小松荘には、九条家から馬が預けられ飼育されていたこと
②飼育を行っていた行宣も預所であったこと
③九条家には小豆島にも馬の飼育を行う牧場があったこと
①②からは小松荘には九条家の馬を飼育する牧場があったことが分かります。つまり、九条家の荘園になっていたことが裏付けられます。
九条道教は貞和4年(1348)に亡くなり、経教があとを継ぎます
南北朝動乱後の応永3年(1396)4月の「九条経教遺誠」を見ると、道教の時40か所あった所領が16か所に激減しています。そして、讃岐国小松荘の名は、そのなかから消えています。一方、応永十二年(1405)に、室町幕府三代将軍足利義満は、備中守護職の細川頼重に次のような所領安堵の御教書を与えています。
    御判  (足州義満)  
備中国武蔵入道(細川頼之)常久知行分閥所等 讃岐国子松荘、同金武名(中首領跡)、同国高篠郷壱分地頭職、同公文職、伊予国新居郡ならびに西条荘嶋山郷の事、細河九郎頼重領掌、相違有るべからずの状件の如し、
応永十二年十月廿九日
意訳変換しておくと
備中国の武蔵入道(細川頼之)が知行していた領地と、併せて讃岐国の小松荘、金武名、高篠郷一分地頭職、同じく高篠郷の公文職、伊予国新居郡ならびに西条荘嶋山郷について、細河(細川)九郎頼重が相続したことを認める。

ここからは、九条家領であった小松荘が備中守護細川氏の所領になっていることが分かります。小松荘については、九条家領からその名が消えて、細川氏家領として記されています。九条家が持っていた荘園領主権が細川氏の手に移ったことが分かります。その時期は、頼之が讃岐守護となった貞治元年(1326)以後のことと研究者は考えているようです。
 以後、小松荘は、義満以下代々の将軍の安堵を受けて、備中守護細川家に伝領されていきます。讃岐守護は細川氏の惣領家です。分家である備中細川氏の所領の保護は怠りなかったでしょう。
しかし、応仁の乱が起きると、それも安泰ではなくなったようです。
讃岐の細川家の所領も、このころには細川氏の手を離れたようです。以後の備中細川家の安堵状には、小松荘の名は見えなくなります。小松荘は誰の手に置かれたのでしょうか。
 16世紀初頭の永世の錯乱後、阿波勢力の讃岐侵攻を受けて讃岐は各国に先駆けて戦国時代に突入します。そのような中で丸亀平野をめぐっては、阿波三好氏に属した長尾城主と、反三好の天霧城香川氏の勢力争いが展開されます。そのような中で小松庄の国衆は、長尾氏の参加に編入されていったことは以前にお話ししました。その拠点とされるの五条の古城です。

琴平 本庄・新庄
琴平高校北側の本庄城は能勢氏の居館((山本祐三 琴平町の山城より)
 一枚の絵地図を見ながら、私の考えている五条の歴史を振り返ってみました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
横関智也氏提供 「讃岐国那珂郡七箇村五条村榎井村苗田村絵図」
参考文献
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以前に空海が誰から虚空蔵求聞持法を学んだのかについて、探ったことがあります。それは、若き日の空海の師は誰であったのかにもつながる問題になります。この問題に積極的に答えようとしているが大岩岩雄の「秦氏の研究」でした。その続編を、図書館で見つけましたので、これをテキストに空海と秦氏の関係を再度追ってみたいと思います。
秦氏と空海の間には、どんな関係があったのでしょうか。
本城清一氏は「密教山相」で、次のように述べています。(要約)
①空海は宝亀五年(774年)讃岐で出生し、母の阿刀氏(阿刀は安都、安刀とも書く)は新羅から渡来の安刀奈末(あとなま)の流れをくむ氏族で、学者や僧侶、書紀などを数多く輩出した。
②空海は、母の兄の阿刀大足より少青年期に論書考経詩文を学んだ
③空海の時代は、渡来系の秦氏が各地で大きな影響力を持っていた時代で、その足跡は各地に及んでいる
④泰氏の政治、経済、開発殖産、宗教等の実力基盤は、治水灌漑等の土木技術や鉱山開発、冶金技術等にあった。この先進技術を支えるために、秦氏は数多くの専門技術を持った各職種の部民を配下に持っていた。
⑤その中には多くの鉱業部民もいたが、その秦氏の技術を空海は評価していた。
⑥空海の生涯の宗教指導理念は一般民衆の精神的な救済とともに、物質的充足感の両面の具現にあった。そのためには、高い技術力をもち独自の共同体を構成する秦氏への依存意識も空海の中にはあった。
⑦空海は、秦氏族の利用、活用を考えていた。
⑧空海の建立した東寺、仁和寺、大覚寺等も秦氏勢力範囲内に存在し、(中略)空海の平安京での真吾密教の根本道場である東寺には、稲荷神社を奉祀している(伏見稲荷神社は泰氏が祀祭する氏神である)。これも秦氏を意識している。
⑨空海は讃岐満濃池等も改修しているが、これも秦氏の土木技術が関与していることが考えられる。
⑩空海の讃岐の仏教人関係は、秦氏と密接な関係がある。秦氏族の僧として空海の弟子道昌(京都雌峨法輪寺、別名大堰寺の開祖)があり、観賢(文徳、清和天皇時、仁和寺より醍醐寺座主)、仁峻(醍醐成党寺を開山)がいる。
⑪平安時代初期、讃岐出身で泰氏とつながる明法家が八名もある。
⑫讃岐一宮の田村神社は、秦氏の奉祀した氏寺である。
⑬金倉寺には泰氏一族が建立した神羅神社があり、この大師堂には天台宗の智証(円珍)と空海が祀られている。円珍と秦氏の関係は深い。

秦氏と空海

ここからは、空海の生きた時代に讃岐においては、高松市一宮を中心に秦氏の勢力分布が広がっていたこと。それは、秦氏ネットワークで全国各地ににつながっていたことが分かります。讃岐の秦氏の背後には、全国の秦氏の存在があったことを、まずは確認しておきます。

秦氏の氏神とされる田村神社について以前にも紹介しましたが、もう一度別の視点で見ておきましょう。
渡辺寛氏は『式内社調査報告。第二十三巻』所収の「田村神社」で、歴代の神職について次のように記します。

近世~明治維新まで『田村氏』が社家として神主職にあったことは諸史料にみえる。……田村氏は、古代以来当地、讃岐国香川郡に勢力を持った『秦氏』の流れであると意識していたことは、近世期の史料で認めることができる。当地の秦氏は、平安時代において、『秦公直宗』とその弟の『直本』が、讃岐国から左京六条に本居を改め(『日本三代実録」元曜元年〈八七七〉十二月廿五日条)、さらにその六年後、直宗・直本をはじめ同族十九人に『惟宗朝臣』を賜った(同、元慶七年十二月廿五日条)。
 彼らは明法博士として当代を代表する明法道の権威であったことは史上著名であり他言を要しない。……当社の社家がこれら惟宗氏のもとの本貫地の同族であるらしいことはまことに興味深い。当社が、讃岐一宮となるのも、かかる由緒によるものであろうか」

この時代の秦氏関係の事項を年表から抜き出してみると
877 12・25 香川郡人公直宗・直本兄弟の本貫を左京へ移す
882 2・- 藤原保則,讃岐守に任命され,赴任する
883 12・25 左京人公直宗・直本兄弟ら,秦公・秦忌寸一族19人,惟宗朝臣の姓を与えられる
 泰直本から姓を変えた惟宗(これむね)直本は、後に主計頭・明法博士となり、『令集解』三十巻を著します。当時の地方豪族は、官位を挙げて中央に本願を移し、中央貴族化していくのが夢でした。それは空海の佐伯直氏や、円珍の稲城氏の目指した道でもあったことは以前にお話ししました。その中で、讃岐秦氏はその出世頭の筆頭にあったようです。
古代讃岐の豪族3 讃岐秦氏と田村神社について : 瀬戸の島から
讃岐国香川郡に居住の秦の民と治水工事             
『三代実録』貞観八年(866)十月二十五日条には、讃岐国香川郡の百姓の妻、秦浄子が国司の判決に服せず太政官に上訴し、国司の判決が覆されたとあります。その8年後に同じ香川郡の秦公直宗・直本は讃岐から上京し、7年後に「惟宗」の姓を賜り、後に一人は明法博士になっています。秦浄子が国司の判決を不服とし、朝廷に訴えて勝ったのは、秦直宗・直本らの助力があったと研究者は考えているようです。
 この後に元慶6(886年)に讃岐国司としてやってきた藤原保則は讃岐のことを次のように記しています。
  「讃岐国は倫紙と能書の者が多い」
  「この国の庶民はみな法律を学んで、それぞれがみな論理的である。村の畔をきっちりと定めて、ともすれば訴訟を起こす」
 讃岐については、比較的法律に詳しい人が多く、かえってやりづらい。こちらがやり込められるといった地域性が「保則伝」から見えてきます。讃岐国では法律に明るい人が多く、法律を武器に争うことが多いというのですが、その中心には讃岐秦氏の存在がうかがえます。
 このような讃岐の秦氏のひとつの象徴が、都で活躍した秦氏出身の明法博士だったとしておきましょう。

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渡辺氏は、田村神社について次のようにも述べます。

 当社の鎮座地は、もともと香東川の川淵で、近辺には豊富な湧き水を得る出水が多い。当社の社殿は、その淵の上に建てられている。(中略)
 このことは、当社の由緒を考える上できわめて重要である。現在、田村神社の建物配置は、本殿の奥にさらに『奥殿』と称せられる殿舎が続き、御神座はこの奥殿内部の一段低いところにある。そしてその床下に深淵があり、厚い板をもってこれを蔽っている。奥殿内部は盛夏といえども冷気が満ちており、宮司といえども、決してその淵の内部を窺い見ることはしないという
(池田武夫宮司談)」

この神社は、創祀のときから秦氏や泰の民が祭祀してきたようです。
『続日本紀』神護景雲三年(769)十月十日条に、讃岐国香川郡の秦勝倉下ら五十二人が「秦原公」を賜ったとあります。現在の宮司田村家に伝わる系譜は、この秦勝倉下を始祖として、その子孫の晴道が田村姓を名乗ったと記すようです。秦勝倉下を祖とするのは公式文書にその名前があるからで、それ以前から秦の民は出水の周辺の新田開発を行ってきたのでしょう。その水源が田村神社となったと研究者は考えているようです。
2 讃岐秦氏1

「日本歴史地名大系38」の『香川県の地名』は、「香川郡」と秦氏を次のように記します
奈良時代の当郡について注目されることは、漢人と並ぶ有力な渡来系氏族である秦人の存在であろう。平城宮跡や長岡京跡から出土した木簡に、『中満里秦広島』『原里秦公□身』『尺田秦山道』などの名がみえ、また前掲知識優婆塞貢進文にも幡羅里の戸主『秦人部長円』の名がみえる。しかも「続日本紀』神護景雲三年(七六九)一〇月一〇日条によれば、香川郡人の秦勝倉下など五二人が秦原公の姓を賜っている。この氏族集団の中心地は泰勝倉下らが秦原公の姓を賜つていることかるみて、秦里が原里になったと考えられる。
 「三代実録』貞観一七年(875)11月9日条にみえる弘法大師十大弟子の一人と称される当郡出身の道昌(俗姓秦氏)や、元慶元年(877)12月25日条にみえる、香川郡人で左京に移貫された左少史秦公直宗・弾正少忠直本兄弟などは、これら秦人の子孫であろう」
ここからは次のような事が分かります。
①香川郡は渡来系秦人によって開かれた所で「秦里 → 原里」に転じている
②秦氏出身の僧侶が弘法大師十大弟子の一人となっている。
③香川郡から左京に本願を移動した秦の民たちもいた。
2 讃岐秦氏3
「和名抄」の讃岐国三木郡(現在の三木郡)にも、香川郡の秦人の本拠地と同じ、「幡羅(はら)郷」があり、木田部牟礼町原がその遺称地です。近くに池辺(いけのへ)郷があります。『香川県の地名』は「平城宮跡出土木簡に「池辺秦□口」とあり、郷内に渡来系氏族の秦氏が居住していたことを推測させる」と記します。
 以上の記述からも香川郡の幡羅郷と同じ秦の民の本拠地であつたことは、「幡(はた)」表記が「秦(はた)」を意味することからすれば納得がいきます。
白羽神社 | kagawa1000seeのブログ
牟礼町の白羽八幡神社

そして気がつくのは、この地域には「八幡神社」が多いことです。

八幡神社は、豊前宇佐八幡神社がルーツで、秦氏・秦の民の氏寺です。牟礼町には幡羅八幡神社・白羽八幡神社があり、隣町の庵治町には桜八幡神社があります。平安時代に白羽八幡神社周辺が、石清水八幡宮領になつたからのようですが、八幡宮領になつたのは八幡宮が秦の民の氏寺だったからだと研究者は考えているようです。現在は白羽神社と呼ばれていますが、この神社の若宮は松尾神社です。松尾神社は、山城国の太秦周辺の秦の民の氏寺です。松尾神社が若宮として祀られているのは、白羽神社が秦の民の祀る神社であったことを示していると研究者は考えているようです。ちなみに地元では若宮松尾大明神と呼ばれているようです。

讃岐秦氏出身の空海の弟子道昌(どうしょう)  
空海の高弟で讃岐出身の道昌は、秦氏出自らしい伝承を伝えています。「国史大辞典10」には、次のように記されています。
道昌 七九八~八七五
平安時代前期の僧侶。讃岐国香河郡の人。俗姓は秦氏。延暦十七年(七九八)生まれる。元興寺の明澄に師事して三輪を学ぶ。弘仁七年(八一六)年分試に及第、得度。同九年東大寺戒壇院にて受戒。諸宗を兼学し、天長五年(八三八)空海に従って灌頂を受け、嵯峨葛井寺で求聞持法を修した。天長七年以降、宮中での仏名会の導師をつとめ、貞観元年(八五九)には大極殿での最勝会の講師をつとめ、貞観元年(859)には大極殿での最勝会の講師をつとめ、興福寺維摩会の講師、大極殿御斉会、薬師寺最勝会などの講師にもなつている。貞観六年に権律師、同十六年に少僧都。生涯に「法華経」を講じること570座、承和年中(834~48)には、大井河の堰を修復し、行基の再来と称された。貞観17年2月9日、隆城寺別院にて遷化。
年七十八。

 ここで注目したいのは「大井河の堰を修復し、行基の再来と称された」という部分です。「讃岐香川郡志』も、次のように記します。

葛野の大堰は秦氏に関係があるが(秦氏本系帳)道昌が秦氏出身である所から、此の治水の指揮に与ったのであろう」

さらに『秦氏本系帳』は、詳しくこの治水工事は泰氏の功績であると記します。
葛野大井 No6
葛野の大堰

大井河は大堰川とも書かれ、京都の保津川の下流、北岸の嵯峨。南岸の松尾の間を流れる川です。嵐山の麓の渡月橋の付近と云った方が分かりやすいようです。今はこの川は桂川と呼ばれていますが、かつては、桂あたりから下流を桂川と呼んだようです。
なぜ、ここに大きな堰を作ったのかというと、葛野川の水を洛西の方に流す用水路を作って、田畑を開拓したのです。古代の堰は貯水ダムとして働きました。堰で水をせき止めて貯水し、流れとは別の水路を設けることによって水量を調節し、たびたび起こった洪水を防ぐとともに農業用水を確保することができたようです。これにより嵯峨野や桂川右岸が開拓されることになります。

大井神社 - 京都市/京都府 | Omairi(おまいり)
大井神社(嵯峨天龍寺北造路町)
この近くに大井神社があり、別名堰(い)神社ともいわれています。
 秦氏らが大堰をつくって、この地域を開拓した時に、治水の神として祀ったとされます。秦氏の指導で行われた治水工事の技術は、洪水防御と水田灌漑に利用されたのでしょう。それを指導した道昌は「行基の再来」と云われていますので、単なる僧侶ではなかったようです。彼は泰氏出身で治水土木工事の指導監督のできる僧であったことがうかがえます。ここからも秦氏の先進技術保持集団の一端が見えてきます。
讃岐に泰氏・秦の民が数多く居住していたのはどうしてでしょうか。
それは、讃岐の地が雨不足で農業用の水が不足する土地で、そのための水確保め治水工事や、河川の水利用のため、他国以上に治水の土木工事が必要だったからと研究者は考えているようです。そのため秦の民がもつ土木技術が求められ、結果として多くの秦の民が讃岐に多く見られるとしておきましょう。
 道昌の師の空海は、讃岐の秦氏や師の秦氏出身の勤操らの影響で土木工事の指導が出来たのかもしれません。
満濃池 古代築造想定復元図2

 空海は満濃池改築に関わっていることが『今昔物語集』(巻第二十一)、『日本紀略』、『弘法大師行状記』などには記されます。『日本紀略』(弘仁十二年〈八三一〉五月二十七日条)には、官許を得た空海は金倉川を堰止めて大池を作るため、池の堤防を扇形に築いて水圧を減じ、岩盤を掘下げて打樋を設けるよう指示したと記します。この工事には讃岐の秦氏・秦の民の土木技術・労働力があったと研究者は考えているようです。

技能集団としての秦氏

山尾十久は「古代豪族秦氏の足跡」の中で、次のように述べます。
・各地の秦氏に共通する特徴として、卓越した土木技術による大規模な治水灌漑施設の工事、それによる水田の開拓がある。
・『葛野大堰』・『大辟(おおさけ)』(大溝)と呼ばれる嵯峨野・梅津・太秦地域の大開拓をおこなった。この大工事はその後何回も修理されており、承和三年(836)頃の秦氏の道昌の事蹟もその一環である
最澄と空海 弥勒信仰を中心にして | 硯水亭歳時記 Ⅱ

 空海が身につけていた土木技術や組織力について、空海伝説は「唐で学んだ」とします。しかしそれは、讃岐の秦氏から技術指導を受けたと考える方が現実味があるような気がします。さらに空海の母は阿刀氏です。空海の外戚・阿刀氏は、新羅からの渡来氏族だとされますが秦氏も新羅出身とされます。それは、伽耶が新羅に合併されたからです。阿刀氏も秦氏も同じ伽耶系渡来人で、近い関係にあったと研究者は考えているようです。

  以上をまとめておきます。
①現在の高松市一宮周辺は、渡来系の秦の民によって開かれ、その水源に田村神社は創始された。②讃岐秦氏は土木技術だけでなく、僧侶や法律家などにもすぐれた人物を輩出した。
③空海の十代弟子にあたる道昌も讃岐秦氏の出身で、山城の大井河の堰を修復にも関与した
④空海の満濃池修復などの土木事業は、秦氏との交流の中から学んだものではないか。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   大和岩雄 秦氏・秦の民と空海との深い関係(二) 続秦氏の研究
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