瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:大伴氏

7世紀後半、白村江敗北と壬申の乱後の天武朝時代になると、讃岐では大型土木工事が目白押しとなります
A 城山・屋島の朝鮮式山城
B 讃岐平野を東西に伸びる南海道の建設
C 郡衙建設と郡司達の氏寺建立
D 条里制工事
これらの工事を担当したのはかつての国造で、彼らが郡司へと移行していきます。これだけの大土木工事は大きな負担だったはずです。それを国造たちを、どうしてすんなりと受入れたのでしょうか? そんな疑問が私にはありました。それに答えてくれる論文に出会いましたので見ていくことにします。テキストは「下向井 龍彦 百済救援戦争の歴史的位置」です。 

白村江への道663年
白村江に至る道
「備中国風土記』逸文に、斉明天皇が難波から筑紫に向かう途中の備中国下道郡迩磨郷に立ち寄った時の出来事を次のように記します。

 この国の風土記には次のようにある。皇極天皇6(660)年、大唐の将軍である蘇定方(ソテイホウ)が新羅軍を率いて百済を攻めた。そこで百済は使者を遣わせて救援を乞うたので、天皇は筑紫に行幸して救援の兵を送った。その時、皇太子だった天智天皇が摂政として随行し、下道郡に身を置いた。そこで、ある郷の村を見ると戸数が大変多かったので、皇極天皇は詔を下して この郷で兵士を集った。その時に得た兵は2万人だったので、天皇は大変喜んで この村を二萬郷(にまんのさと)と名付けた。これが後に爾磨(にま)と改められた。その後、天皇が筑紫の仮宮で崩御したので、この軍勢は遣わせずに終わった。」

ここからは次のような情報が読み取れます。
① 皇極天皇6(660)年 唐に侵攻され滅亡した百済の遺臣が倭に軍事援助をもとめたこと。
②それに応じて、斉明(皇極)天皇と、皇太子の中江大兄王子が海路で筑紫に向かった
③その途中の吉備のある里でで、兵士募集をしたところ2万の兵が集まった
この2万という数字はともかく、ヤマトの大王が現地行幸することで、多くの豪族と人民を戦争に徴発できるようになったことがうかがえます。
日本書紀は3回に分けて、次のような軍事力が派遣されたと記します。数
第一派:
1万余人、船舶170余隻。指揮官 安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。
第二派:
2,7万人 主力指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫。
第三派:
1万余人 指揮官は廬原君臣(廬原国造の子孫。静岡県清水市本拠)
推古政権時代にも、新羅将軍・久米王子に神部、国造・伴造らと軍兵2,5万人が授けられたことがあります。約1世紀前に大伴金村が筑紫で行った部民制による兵士動員スタイルが、吉備でも行える体制が整っていたことがうかがえます。
 百済救援軍の派兵決定に踏み切った直後の斉明 6(660)年 12 月、政府は諸国に「諸軍器」の「備え」と軍船建造を命じています。
『日本書紀』には、「駿河国」への造船指令で完成した船が曳航中に伊勢国で転覆したという事件だけが記されています。これは「事故」であったから報告されたので、多くは命令通りに各国で輸送船や軍船が造られていたはずです。駿河国に造船指令が出されていたのなら瀬戸内海の讃岐にも造船指示があったでしょう。それを遂行する国司は、この時点ではまだいませんでした。だとすれば、これらを担当したのは国造たちや有力豪族たちだったのでしょう。

郡郷制変遷表
国郡里制の変遷

 この時点であった地方支配機構は評造(こおりのみやつこ)だけです。任命されたのは旧国造・旧地方伴造で、田地調査、人口調査、50 戸制を創設し、課税・徴兵などを担当させていました。しかし、これは整備されたものではなく、中央の命令が地方にまで法令として下りてくるものではなくAboutで大雑把なものだったようです。  
そのために置かれたのが総領です。
これは百済救援軍の準備・動員のために斉明7(661)年の初めに置かれました。総領―国宰―評造という命令系統を通して次のような事が行われました。
兵器の製造修理
指定数の船舶の造船修理
指定量の軍粮備蓄
指定数派遣軍軍士の選抜・訓練
兵站基地である筑紫博多湾までの輸送
伊予総領は、伊予・讃岐・阿波を支配し、後には朝鮮式山城の築造・運営にもあたっています。 ここでは、古代律令国家の中央集権的な行政機構が、百済救援軍動員を契機に整備され始めたことを押さえておきます。
 ちなみに6世紀に、朝鮮半島政策遂行のために動員された多度郡国造の佐伯直氏の祖先が眠るのが善通寺市有岡町の大墓山や菊塚古墳である可能性を前回お話ししました。この古墳からは百済的な馬具や王冠、鉄剣が出土します。半島での駐屯活動の中で手に入れたことが考えられます。

善通寺大墓山古墳の馬具2
             大墓山古墳出土の馬具類(善通寺郷土資料館)
 6世紀に朝鮮半島に派遣された軍隊は、佐伯直氏軍団のように西国の「評造軍」を中核として編成されていました。それは国造たちの私兵集団で、高価な武具・馬具を自力で整えられる国造領内富裕層に限られていました。装備は自分持ちで、自宅管理、訓練は自己訓練です。それは当時の群集墳の副葬品の武器からうかがえます。
 例えば土器川中流部のまんのう町長尾の町代古墳群(6世紀前半~後半)からは馬具や鉄剣・鉄鏃などの武具が出土しています。

町代3号墳馬具
         まんのう町の町代3号墳の馬具

町代3号墳鉄製遺物2

武具副葬は被葬者の生前のステイタスを誇示する威信財です。ここからは被葬者が国造軍軍士であったことが分かります。6世紀には国造を指揮官とする国造軍が半島に派遣されていたのです。

郡郷制変遷表
国郡(評)里(郷)制変遷図
次に大化の軍制改革で、あらたに創設された「評造軍」を見ておきましょう。
①「兵庫」を設置して、個人装備を一括収蔵・管理
②50 戸制を踏まえた新規選抜軍士の編成(兵力数増員)
③その指揮官が「評造」
個人装備の一括収蔵や新しい軍隊編成法は、装備の点検・修理と廃棄などを効率化し、動員可能数を増やしました。そして評造指揮下の訓練の集団化も行われるようになります。そういう意味では、評造軍は国造軍に比べてはるかに革新され強化された軍隊と云えそうです。
 佐伯直氏が多度郡の「評造(後の郡司)」として果たした役割を挙げてみましょう。
①割り当てられた兵力数を支配下の評造軍軍士から選抜して訓練実施
②一般住民男女は派遣軍軍士たちの装備の製作・修理
③騎馬・駄馬の生産・育成
④軍服などの縫製
⑤軍粮の備蓄
⑥軍船の制作・水夫集団の提供
これらの活動は、綾氏や佐伯直氏にとっては負担の多い役務だったかもしれません。しかし、視点を変えて見ると、中央政府の命令に従ってこれらを行う事で、いろいろな役得がありました。それは新しい武具の供与であり、製法伝授などの先進技術の需要につながったかもしれません。また、軍港提供でそれが交易港として機能し、経済的な利益をもたらすことがあったかもしれません。また「中間搾取」などもあり、後の郡司は美味しい職であったことは以前にお話ししました。
 どちらにしても多度郡の佐伯氏は、大伴軍団の一員として早くから朝鮮半島での駐屯活動に従事し、
その活動の中で先進的な軍事技術や経済的な富を7世紀になっても手に入れていたことがうかがえます。
 例えば、讃岐の古代氏寺は一町(107m)四方の伽藍が一般的です。
ところが佐伯直氏の氏寺である善通寺は、その四倍の2町四方の伽藍を有します。ここにも他の郡司を凌駕する経済力がみえてきます。当時の寺院は、大学でもあり、病院でもあり、僧侶は最高の文化人でした。寺院の中では東アジアの国際用語である中国語が日常用語として使用してされていたと研究者は考えています。それはイスラム教が国や地域は違ってもモスクの中ではアラブ語が用いられるのと似ています。幼い空海は善通寺に出入りし、そこの僧侶達と中国語で話していたかも知れません。これが遣唐使の一員として唐に渡ったときに役立つことになったのではないかと私は考えています。そのような環境の中で空海は育ったことになります。最後は佐伯直氏の国際性と経済基盤の源がどこにあったかという話しにすり替わっていったようです。
以上をまとめておきます。
①百済救援戦争に各国の軍隊を率いたのは、評造(元国造)たちだった。
②評造たちは船や水夫の提供・戦略物資の供出・輸送など後方支援活動を担った。
③同時に評造は、一族や動員された兵士を引率し、筑紫博多湊に集結した。
④そこで伊予大領の軍団として編成され、対馬海峡を渡り半島に上陸した。
⑤しかし、軍団は評造軍の寄せ集めで、統一性がなく集団的な動きができなかった。
⑥また軍船なども遙かに劣っており、唐水軍の敵ではなく、白村江で大敗北を喫した。
⑦この時に多くの兵士が唐軍の捕虜とされ、唐で奴隷として長い歳月を送った。
⑧戦後30年近くを経て、唐との国交回復が進む中で、捕虜たちの帰国が実現した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
下向井 龍彦 百済救援戦争の歴史的位置
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大伴・佐伯=同祖兄弟氏族を裏付けるもの

 空海は、天長五年(828)2月、陸奥国に赴任する(大)伴国道に詩文を贈り、次のように記しています。
貧道と君と淡交にして玄度遠公なり。絹素区に別れたれども、伴佐昆季なり。

ここには、「(大)伴と佐(佐伯)は昆季(兄弟)なり」とあり、空海が大伴と佐伯を、同祖兄弟氏族と思っていたことが分かります。空海が佐伯氏の同祖を思っていた大伴氏とは、どんな氏族だったのかを今回は見ていくことにします。テキストは「菅野雅雄 大伴氏の系図」です。
   大伴氏について語るときに、引き合いに出されるのが「万葉集巻第十八4094」の 大伴宿祢家持の歌です。
海行かば水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば草生(くさむ)す屍
大君の辺(へ)にこそ死なめかへり見はせじ

意訳変換しておくと
海に戦いに行ってわたしの屍が水に漬かろうとも
山に戦いに行ってわたしの屍に草が生えようとも
大君のおそばでこそ死のう迷うことはするまい

この歌は戦前には「忠君愛国」の歌として国定教科書に取り上げられていて知らない人はいませんでした。大伴氏というとこの歌が思い浮かべられたようです。

海ゆかば - Wikipedia


この歌は、大伴家持の長歌の一部ですが、家持のオリジナルではないようです。大伴氏の祖先が戦いに臨んで唱い舞ってきたフレーズの一部とされてきました。
 『続日本紀』には、聖武天皇が大伴氏に向けた詔書に、つぎのようにこの歌が引用されています。

おまえたちの祖先はこのように歌って歴代の天皇に忠誠を尽くしてきてくれた。今後もその心がけを忘れてくれるなと。

これに対しての家持の『万葉集』の長歌は、その返答なのです。家持は、さらにこう詠んでいます。
大伴と佐伯の氏は 人の祖(おや)の立つる言立て
人の子は親の名絶たず 大君にまつろふものと言ひ継げる
意訳変換しておくと
大伴氏と佐伯氏は祖先の立てた誓い「子孫は親の名(=代々の家名)を絶えさせず大君に従うものだ」を言い伝えてきたのです

ここに大伴氏と並んで佐伯氏が登場してきます。出陣の際には、この歌を大伴氏の長が詠い、佐伯の長が舞ったとされます。最初に見たように、このことを空海は知っていたから「(大)伴と佐(佐伯)は昆季(兄弟)なり」と記したのでしょう。ここでは空海の頃には、大伴氏と佐伯直氏は同祖で、大王のそばに仕え、行動を共にしてきた軍事(護衛)集団であるという誇りが出来上がっていたことを押さえておきます。
この歌は「久米歌(くめうた)」と呼ばれていて、 ウィキペディアは次のように記します。

 記紀の 神武天皇のヤマト征討したとき久米部がうたった歌で、大和国平定記事に組まれた宮廷歌曲群であり、『日本書紀』に8首、このうち6首が『古事記』にも書かれている。大和王権に服した久米氏が、近衛軍団の伴造、あるいは膳夫(かしわで、調理人)となり、戦闘後の酒宴の合唱と舞いとで、宮廷儀礼の場で大王(天皇)に忠誠を誓って奏したものである。」((https://ja.wikipedia.org/wiki/久米歌 参照 2026年1月11日))
 
ここで注意しておきたいのは、この歌がもともとは大伴氏のものではなかったということです。久米歌は、久米部(くめべ)という部民が歌った軍歌・戦闘歌であったと記します。それでは久米氏(部)とは、どのような氏族だったのでしょうか? 

 『古事記』では天孫降臨の場面に、久米氏は次のように登場します。

故に天津日子番能邇邇芸命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多く雲を押し分けて、伊都能知和岐知りたたして和岐豆、天の浮橋に宇岐士摩理、蘇理多多斯豆、竺紫のはゆぎ日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき。故天忍日命、天津久米命の二人、天の石を取り負ひ、頭椎の大刀を取りき、天の波士弓を取り持ち、天の眞矢を手挟み、御前に立ちて仕へ奉りき。故、其の天北中天津久米命等の此は久米直等のなり。

 ここでは久米氏の祖先は、忍日命と記載されて、久米氏天津久米命は大伴氏祖天忍日命と共天孫を先導する役割を務めています。ところが日本書紀では、大伴氏が久米氏を率いる立場として描かれます。
 天孫降臨についての書紀と古事記のちがいを挙げると
A 古事記 大伴・久米の併立状況
B 書紀  久米部を帥いる大伴氏の姿を描いている
 日本武尊の東征については、古事記には大伴氏の出番はありません。ところが「書紀』景行天皇四十年七月条の文末には「天皇、則ち吉備武彦と大伴武日連とに命せたまひて、日本武尊に従はしむ。七脛を以て夫とす。」
  こうして見ると、久米氏はもともとは天皇の直属軍事氏族として活躍していたのが、どこかで勢力を失い、後発の大伴氏にその地位を取って代わられたことがうかがえます。
紀記の中で、大伴氏の活躍する伝承は次の項目です。
①天孫降臨先導伝承
②神武東征従軍伝承
③日本武尊東征従駕伝承
④継体天皇擁立伝承
⑤壬申乱参戦伝承
紀記では①②③の場面は、久米氏のみの登場か並立関係だったのが、次第に久米氏が大伴氏に従属していく関係になっていきます。これについては、④の継体天皇擁立と⑤壬申の乱参戦という大伴氏の戦功を背景に、①②③の神話伝承が紀記に組み込まれたと研究者は考えています。そして、④⑤の中には、久米氏の姿は見えなくなります。別の視点から大伴氏=新興勢力説を見ておきましょう。

大和政権の豪族分布図

上の大和盆地の前方後円墳分布図からは、次のような情報が読み取れます。
①大和盆地東部に位置する大王家・物部氏が前方後円墳の密集地帯であること 物部氏の勢力の大きさ
②大王家を挟むように北に物部、南に大伴氏の勢力があること
③大伴氏の勢力内の初瀬川左岸(西南部)流域には前方後円墳がないこと
③からは大伴氏について、次のようなことが推察できます。
A 大伴氏は首長墓である前方後円墳を築くだけの力を持つ氏族ではなかったこと
B 大伴氏は前方後円墳造営終了後に、台頭した新興勢力であったこと
C 大伴氏が、奈良盆地のヤマト王権メンバーの中では、軽量級であったこと
D 大伴氏は物部氏とともに大王家を挟む位置にあり、強いライバル関係にあったこと

Bの大伴氏=新興勢力説をもう少し見ておきましょう。
新興の軍事氏族である大伴氏は、継体天皇を擁立してヤマト政権の中で確実な地歩を占めるようになります。  大伴氏の台頭背景には、大伴氏が渡来した新しい武器 + 鉄を手に入れるルートを持っていたことが考えられます。
百済の騎馬軍団と戦うために

5世紀は高句麗の騎馬戦術に対応するために、軍事兵器の革新が最重要政策となった世紀です。蘇我氏と同じように、そのルートや方策を大伴氏が握ったことが考えられます。それが久米氏に代わって、大伴氏が新興軍事集団として政権内で台頭した背景にあると研究者は推測します。そして、8世紀初頭の紀記編集時代になると、久米氏と大伴氏は同祖で兄弟氏族だという論法を展開したようです。
同祖氏族化の手法には、「A 地縁に基づく擬制」と「B血縁に依る擬制」がありました。
  Aについて、久米氏と大伴氏の本貫を見ておきましょう。
  久米直氏は大和国久米(橿原市久米町)の地を本貫
  大伴連氏は、別業は「竹田」「跡見庄」(橿原市東竹田=竹田庄、桜井市外山跡見庄)
久米と竹田とは近接していて、地縁関係があったようです。
 Bの血縁的擬制については先ほど見たように、大伴氏が久米氏と姻戚関係にあったことが何カ所かで主張されています。こうして、久米氏と隣接し、地縁をもとに同祖氏族であることを唱え、更に同族関係を固めるため、血縁=婚姻を重ね「大伴氏+久米氏=同祖兄弟氏族」伝承を作り上げたと研究者は考えています。
最後に、大伴氏が渡来人と密接な関係にあったことを見ておきましょう。
『万葉集』に八十四首の歌を残している大伴坂上郎女は、大納言安麻呂の娘で旅人の異母妹、家持の叔母に当たります。その経歴は、穂積皇子に嫁しますが皇子の死後に、藤原麻呂の寵を受けます。やがて麻呂と別れ、異母兄宿奈麻呂の妻となり坂上大嬢・二嬢を生む。さらに安倍虫麻呂とも親密な関係を結ぶなど恋多き女性のようです。神亀年間に大宰府に下り、天平二年十一月に帰京、坂上の里に居住したので坂上郎女と呼ばれたようです。
坂上の地(奈良市法華寺町西北辺り)は、渡来人の居住地でした。
ここを本貫としたのが坂上直氏です。坂上氏は、壬申の乱で次のような活躍をしています。

是の日(天武元年六月二十九日)に、大伴連吹負、密に留守司坂上直熊毛と漢直等に謂りて曰はく、「我詐りて高市皇子と称りて、数十騎を率て、飛鳥寺の北の路より、出でて営に臨まむ。乃ち汝内応せよ」といふ。既にして兵を百済の家にひて、南の門より出づ。

ここからは壬申の乱の際に、大伴氏が坂上氏・漢直と供に挙兵したことが記されています。三者の親密な関係が見えて来ます。それもそのはずで、坂上直氏は、東漢氏のリーダー的な存在で、次のように改姓を重ねた渡来系氏族なのです。
天武十一年五月 
同十四年六月 忌寸
天平宝字八年九月 大忌寸
延暦四年六月 大宿禰
「新撰姓氏録」右京諸蕃上には「坂上大宿禰出自後漢霊帝男延王」
「坂上系図」の「姓氏録」逸文には「阿智王(阿知使主)の孫の志努直は坂上大宿禰らの祖」
と記されています。坂上氏(東漢氏)と大伴氏との強いつながりが見えて来ます

大伴坂上郎女は『万葉集』巻三に、尼理願の死去を悲嘆して歌(460)を残しています。
これに注して、次のように記します。
右、新羅国の名は理願といふ。遠く王徳に感けて、聖朝に帰化ぬ。時に大納言大将軍大伴卿の家に寄生しすでに数紀を経たり。ここに、天平七年乙亥をもち忽ちに運病に沈み、すでに泉界に趣く。ここに、大家石川命婦、餌薬の事によりて有間の温泉に行きて、この喪に会はず。ただ郎女ひとり留まりて、屍を葬り送るとすでにりぬ。よりてこの歌を作りて、温泉に贈入る。
 新羅の人が大伴の家の「寄生」していたと記します。
これ以外の史料からも大伴氏は渡来人との関わりが非常に強かったことがうかがえます。従来は、八神代以来の名族といわれる大伴氏ですが、その台頭の背後には渡来系氏族の影を見えて来ます。
以上を整理して起きます
①大伴氏は、大王直属の軍事集団とされるが、大伴氏以前には久米氏がいた。
②大伴氏は、百済との強いパイプを持つことで馬飼育方法や馬具制作・鉄製品の供給などの先端ハイテク技術の供給体制を握ることによって、政権内部での地位を急速に高めた。
③そして久米氏にとって代わり、佐伯氏と共に大王直属の軍事氏族という立場を築いた。
④そのため大伴氏の周りには渡来系氏族との関係がうかがえるものが多数ある。
⑤大伴・佐伯=同祖兄弟説も、このような中で6世紀に生まれてきたものである。

こうして見ると空海の実家の佐伯直氏も、大伴氏に従軍し、瀬戸内海航路を行き来し、九州や朝鮮半島で活発に活動していたことが考えられます。そのような環境の家に空海は生まれたことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 菅野雅雄 大伴氏の系図
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