瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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京都の養蚕(こかい)神社は、太秦の木島坐天照御魂神社の中にある境内社です。しかし、今では本社よりも有名になっているような気もします。この地は山城秦氏の本拠地で、秦氏は「ウズマサ」とも呼ばれました。古代の秦氏と太秦(うずまさ)関係を、まず見ておきましょう。
『日本書紀』雄略天皇十五年条には、秦酒公について次のように記されています。

秦酒公
秦酒公

詔して秦の民を聚りて、秦酒公に賜ふ。公乃りて百八十種勝を領率ゐて、庸調(ちからつき)の絹練を奉献りて、朝庭(みかど)充積む。因りて姓を賜ひて㝢豆麻佐(うずまさ)と曰く。一に云はく、㝢豆母利麻佐(うつもりまさ)といへるは、皆満て積める貌なり。

意訳変換しておくと
朝廷は詔して秦の民を集めて、秦酒公に授けた。以後秦酒公は百八十種勝(ももあまりやそのすぐり)を率いて、庸調(ちからつき)の絹を奉献して、朝庭(みかど)に奉納した。そこで㝢豆麻佐(うずまさ)という姓を賜った。一説には、㝢豆母利麻佐(うつもりまさ)といへるは、絹が積み重ねられた様を伝えるとも云う。

ここからは、秦酒公が絹を貢納して「㝢豆麻佐(うずまさ)=太秦」とい姓を賜ったことが記されています。
その翌年の『日本書紀』の雄略紀16年7月条には、次のように記されています。

詔して、桑に宜き国県にして桑を殖えしむ。又秦の民を散ち遷して、庸調を献らしむ。

  ここには葛野に桑を植え、秦の民を入植させて、庸調として絹を貢納させたとあります。肥沃な深草エリアに比べると、葛野の地は標高も高く水利も悪い所です。当然、葛野の開発は深草よりも遅れたはずです。秦氏の各集団を動員して開拓させても、水田となしうる地は少なく、多くは畦地(陸田)だったことが予想できます。そこで秦氏が養蚕にとりくんだとしておきます。
『新撰姓氏録』(左京諸蕃上)は、太秦公宿爾のことが次のように記されています。

太秦公宿爾(うずまさのきすくね) 秦始皇帝の三世孫、孝武王自り出づ。男、功満王、帯仲彦(たらしねひこ)天皇の八年に来朝く。男、融通王(一説は弓月王)、誉田天皇の十四年に、廿七県の百姓を来け率ゐて帰化り、金・銀・玉・畠等の物を献りき。大鷺鵜天皇の御世に、百廿七県の秦氏を以て、諸郡に分ち置きて、即ち蚕を養ひ、絹を織りて貢り使めたまひき。天皇、詔して曰く。秦王の献れる糸・綿・絹品(きぬ)朕服用るに、柔軟にして、温暖きこと肌膚の如しとのたまふ。仍りて姓を波多(はた)と賜ひき。次に登呂志公。秦公酒、大泊瀬幼武(はつせわかため)天皇の御世に、糸・綿・絹吊を委積(うちつ)みて岳如(やまな)せり。天皇、嘉(め)でたまひ、号を賜ひて㝢都万佐(うずまさ)と曰ふ。
 
意訳変換しておくと
太秦公宿爾(うずまさのきすくね)は、中国の秦始皇帝の三世孫で、孝武王の系譜につながる。功満王は、帯仲彦(たらしねひこ)天皇の八年に来朝した。融通王(一説は弓月王)は、誉田天皇の十四年に、廿七県の百姓を引いて帰化した。その際に、金・銀・玉・絹等の物を貢納した。大鷺鵜天皇の御世に、127県の秦氏を、諸郡に分ち置いて、蚕を養い、絹を織る体制を作った。その貢納品について天皇は「秦王の納める糸・綿・絹品(きぬ)を服用してみると、柔軟で、暖いことは肌のようだ」と誉めた。そこで波多(はた)の姓を授けた。次に登呂志公や秦公酒は、大泊瀬幼武(はつせわかため)天皇の御世に、糸・綿・絹吊を朝廷に山のように積んで奉納した。天皇はこれを歓んで、㝢都万佐(うずまさ:太秦)という号を与えた。

ここには次のようなことが読み取れます
①秦氏は、秦の始皇帝の子孫とされていたこと
②一時にやって来たのではなく、集団を引き連れて何波にも分かれて渡来してきたこと
③引率者は○○王と称され、金・銀・玉・絹等をヤマト政権の大王にプレゼントしていること
④ヤマト政権下の管理下に入り、糸・綿・絹品(きぬ)を貢納したこと
⑤それに対して㝢都万佐(うずまさ:太秦)の姓が与えられたこと

秦氏の渡来と活動

『新撰姓氏録』(山城国諸蕃)には、秦忌寸について次のように記されています。
秦忌寸 太秦公宿祓と同じき祖、秦始皇帝の後なり。(中略)普洞王の男、秦公酒(秦酒公)、大泊瀬稚武天皇臨囃の御世に、奏して称す。普洞上の時に、秦の民、惣て却略められて、今見在る者は、十に一つも在らず。請ふらくは、勅使を遣して、検括招集めたまはむことをとまをす。天皇、使、小子、部雷を遣し、大隅、阿多の隼人等を率て、捜括鳩集めじめたまひ、秦の民九十二部、 一万八千六百七十人を得て、遂に酒に賜ひき。
  意訳変換しておくと
秦忌寸(いみき)は、太秦公宿祓と同じき祖先で、秦始皇帝の末裔である。(中略)
普洞王の息子の秦公酒は、秦の民が分散して諸氏のもとに置かれ、おのおのの一族のほしいままに駈使されている情況を嘆いていた。そこで、大泊瀬稚武(おおはつせわかため)天皇に、次のように申し立てた。普洞王の時に、秦の民は総て分散させられて、今ではかつての十に一にも過ぎない数となってしまった。つきては、勅使を派遣して、検索して招集していただきたい。天皇はこれに応えて、使(つかい)、小子(ちいさこ)、部雷(べいかづち)を全国に派遣して、大隅や阿多の隼人等にも命じて、探索活動を行った。その結果、秦の民九十二部1867。人を見つけ出し、秦公酒に引き渡した。
 酒公はこの百八十種勝(ももあまりやそ の すぐり)を率いて庸、調の絹や縑(かとり)を献上し、その絹が朝廷にうず高く積まれたので、「禹豆麻佐」(うつまさ)の姓を賜った
ここでは太秦公宿禰と同祖で、秦公酒の後裔、また摂津・河内国諸番に秦忌寸と同祖で弓月王の後裔であり、養蚕・絹織に秦氏が関係していたことが記されています。

さらに時代を下った『二代実録』仁和三年(887)7月17日条には、従五位下時原宿爾春風が朝臣姓を賜わった記事に、春風が次のように語ったことが次のように記されています。

自分は秦始皇帝の11世孫功満王の子孫で、功満王が帰化入朝のとき「珍宝蚕種等」を献じ奉った。

祖先が「蚕種」に関係したことを挙げています。子孫からしても秦氏と養蚕は切り離せないと思っていたことがうかがえます。

技術集団としての秦氏

『三国史記』新羅本紀には、始祖赫居世や五代婆沙尼師今が養蚕を奨めたと記します。
養蚕神社の祭祀者である秦氏は、新羅国に併合された加羅の地からの渡来人ですから新羅系とされます。『三国史記』の知証麻立14年(503)十月条には、古くは斯麿・新羅と称していた国号を、この年に「新羅」に定めたと記します。そして「新」は「徳業が日々に新たになる」、「羅」は「四方を網羅する」の意とします。しかし、その前から国号を、「シロ・シラ」といっていたので、新羅国は「白国」でした。
 6世紀になると秦氏の族長的な人物として活躍するのが、秦河勝(はたかわかつ)です。

秦川勝
            秦川勝 聖徳太子のブレーンとして活躍
彼は、聖徳太子の側近として活躍する人物で、新羅使の導者を3回動めています。『日本書紀』には、推古11年・24年・31年に新羅王から仏像を贈られたと記します。21年の記事には、仏像を「葛野秦寺」に収めたとあります。これが広隆寺になるようです。24年の記事には新羅仏とあって寺は記されていませんが、『聖徳太子伝暦』『扶桑略記』には蜂岡寺(これも広隆寺のこと)に置いたとあります。また、11年の仏像については『聖徳太子伝補閥記』や『聖徳太子伝暦』に「新羅国所献仏像」とあります。『扶桑略記』は広隆寺縁起を引き、国宝第一号となった「弥勒仏」のことだとします。
3つの半跏首位像 広隆寺・ソウル

大和飛鳥に公伝した仏教は百済系の仏教です。しかし、秦氏はそれ以前から弥勤信仰を重視する新羅の仏教を受けいれていた節が見られます。秦河勝が京都の太秦に広隆寺を建立するが、その本尊は新羅伝来の弥勤半伽思惟像です。平安仏教の改革者となった最澄も渡来系で、留学僧として唐に出向く前には香春神社で航海の安全を祈り、帰国後にも寺院を建立しています。
『広隆寺来由記』には、白髪の天神が広隆寺守護のため新羅から飛来たと記します。こうしてみると「養蚕 ー 新羅 ー 秦氏」は一本の糸で結ばれています。「天日矛の説話を有する地域と秦氏の居住区は、ほぼ完全に重複している」と研究者は考えています。天之日矛は新羅国の皇子です。

古墳時代の養蚕地域

この遺跡分布図は弥生から古墳時代前期の秦氏渡来前の養蚕・絹織地の分布を示しています。
 この遺跡分布図と天之日矛伝承地は、ほぼ重なります。これをどう考えればいいのでしょうか?
秦氏の渡来時期のスタートは五世紀前後とされます。天之日矛伝承は垂仁紀のこととして記されています。そこから天之日矛伝承は秦氏渡来以前の新羅・加羅の渡来伝承とされます。そうすると、秦氏も先住渡来人エリアで、養蚕・絹織に従事したことが考えられます。そういう視点からすると分布図からは次のような事が読み取れます。
①北九州や日本海側の出雲・越前に多く、瀬戸内海側にはない。
②新羅系渡来人によって、日本海を通じて古代の養蚕は列島にもたらされた。
③その主役は新羅・秦氏で、それが新羅神社の白神信仰、白山神社の白山信仰につながる

どうして養蚕神社は木島坐天照御魂神社の境内社なのでしょうか?
それは、木島坐天照御魂神社の白日神(天照御魂神)と桑・蚕がかかわるからだと研究者は考えています。
『三国遺事』が伝える新羅の延鳥郎・細鳥女伝説は、つぎのようなものです。
 この地に延烏(ヨノ)という夫と細烏(セオ)という妻の夫婦が暮らしていました。ある日、延烏が海岸で海草を取っていたら、不思議な岩(亀?)に載せられてそのまま日本まで渡って行き、その地の人々が彼を崇めて王に迎えた(出雲・越前?)というのです。一人残された細烏は夫を探すうちに、海岸に脱ぎ捨てられた夫の履物を発見し、同じく岩に載ることで日本に渡り、夫と再会して王妃となりました。
 しかし、韓国では日と月の精であった二人がいなくなると、日と月の光が消えてしまった。それで王が使者を日本に送って戻ってきてくれるようにいうのですが、延烏は「天の導きで日本に来たのだから帰ることはできない」と断ります。代わりに王妃が織った絹を送り、それで天に祭祀を捧げるようにいいます。実際にそのようにすると、光は戻ってきたので、新羅王はその絹を国宝とし、祭祀をした場所を「迎日県」としたというのです。そこは現在の浦項市南区烏川邑にある日月池であるといいます。

養蚕には桑の木が欠かせません。中国では、太陽は東海の島にある神木の桑から天に昇るとされ、日の出の地を「扶桑」と呼びました。『礼記』にも「后妃は斎戒し、親ら東に向き桑をつむ」と記します。桑をつむのに特に「東に向く」のは、扶桑のこの由来からくるようです。
太陽の中に三本足の鳥がいるという伝承は、古くから中国にあり、新羅の延鳥郎・細鳥女も、日神祭祀にかかわる名のようです。このように、桑は太陽信仰と結びついているから、日の出の地を「扶桑」と書きます。

以上をまとめておきます。
①渡来系の秦氏は深草にまず定着し、その後に太秦周辺の開発を進めた。
②水利の悪い太秦地区には、桑が植えられ先端テクノの養蚕地帯が秦氏によって形成された
③秦氏は多くの絹を朝廷に提供することで、官位を得た。
④また、そこに新羅系の白日信仰(日読み)の木島坐天照御魂神社や養蚕神社を建立した。
⑤養蚕や白日神信仰については「新羅 → 日本海 → 出雲 → 越前」という流れがうかがえる。
⑥仏教伝来期には、天皇家や蘇我氏に先行して氏寺を建立していた痕跡もうかがる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大和岩雄 綾氏の研究325P 養蚕(こかい)神社 秦氏と養蚕と白神信仰

木島坐天照御魂神社さんへ行ってきました | 京都市工務店 京町家工房
                   木島坐天照御魂神社

京都の木島坐天照御魂神社は、明治の神仏分離前までは秦氏の氏寺・広隆寺境内の最東端に鎮座してました。広隆寺と引き離されてからは、境内社の蚕養神社の方が有名になってしまって「蚕の社」と呼ばれることの方が多いようです。『延喜式』神名帳には、山城国葛野郡の条に「木島坐天照御魂神社」と記されています。天照御魂神社と称する寺院は、『延喜式』神名帳には、この神社以外には次の3つがあります。
大和国城上郡の他田坐天照御魂神社
大和国城下郡の鏡作坐天照御魂神社
摂津国島下郡の新屋坐天照御魂神社
この三社は、尾張氏と物部氏系氏族が祭祀していました。尾張氏は火明命、物部氏は饒速日命を祖としますが、『旧事本紀』(天孫本紀)は、両氏の始祖を一緒にして、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」
と記します。両氏の始祖を「天照国照彦」といっているのは、「天火明」「櫛玉饒速日」の両神を、「天照御魂神」とみていたからと研究者は考えています。それでは尾張氏・物部氏がという有力氏族が祭祀氏族だった天照御魂神を、渡来系の秦氏がどうして祀っていたのでしょうか? 
その謎を解くのが、わが国唯一とされる「三柱鳥居」だと研究者は考えています。

木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)

「三柱鳥居」は「三面鳥居」「三角鳥居」とも呼ばれますが、現在のものは享保年間(1716~36)に修復されたもののようです。この鳥居については、明治末に景教(キリスト教の異端ネストリウス派)の遺跡で、これを祀る秦氏はユダヤの末裔という説が出されて、世間の話題となったようです。

西安碑林博物馆
          大秦(ローマ帝国)景教流行中国碑(長安碑林博物館)
この説を出したのは東京高等師範学校の教授佐伯好郎で、「太秦(萬豆麻佐)を論ず」という論文で次のように記します。

①唐の建中2年(782)に建てられた「大秦景教流行中国碑」が長安の太秦寺にあること
②三柱鳥居が太秦の地にあること
③三角を二つ重ねた印がユダヤのシンボルマーク、ダビデの星であること
④太秦にある大酒神社は元は「大辟神社」だが、「辟」は「聞」で、ダビデは「大開」と書かれること
以上から、木島坐天照御魂神社や大酒神社を祭祀する秦氏(太秦忌寸)は、遠くユダヤの地から東海の島国に流れ来たイスラエルの遺民だとしました。そして、秦氏に関する雄略紀の記事から、景教がわが国に入った時期を5世紀後半としました。しかし、景教が中国に入ったのは随唐帝国成立後のことで、正式に認められたのが638年のこですから佐伯説は成立しません。また「太秦」表記は、『続日本紀』の天平14年(742)8月5日条の、秦下島麻呂が「太秦公」姓を賜わったというのが初見です。したがって、「太秦」表記を根拠に景教説を立てるのも無理です。三柱鳥居についてこうした突飛もないような説が出るのは、他に類例のない鳥居だからでしょう。
この三柱鳥居は、何を遥拝するために建てられたのでしょうか?
それは冬至と夏至の朝日・夕日を遥拝するためで、その方位を示すための鳥居であると研究者は考えています。三柱鳥居と秦氏と関係の深い山の方位を図で見てみましょう。ここからは次のような事が読み取れます。

三柱鳥居 木島坐天照御魂神社
白日神信仰 木島坐天照御魂神社

①冬至の朝日は稲荷大社のある稲荷山から昇るが、この山は秦氏の聖地。
②夏至の朝日は比叡山系の主峯四明岳から昇るが、比叡(日枝)山の神も秦氏の信仰する山
③冬至に夕日が落ちる愛宕山は、白山開山の秦泰澄が開山したといわれている秦氏の山岳信仰の山
④夏至には夕陽が落ちる松尾山の日埼峯は秦氏が祀る松尾大社の聖地。
こうしてみると、冬至の朝日、夏至の夕日が、昇り落ちる山の麓にそれぞれ秦氏が奉斎する稲荷神社・松尾大社があり、その方向に、三柱を結ぶ正三角形の頂点が向いています。三柱を結ぶ正三角形の頂点のうち二点は、稲荷と松尾の三社を指し示します。もう一点は双ヶ丘です。

白日神は日読み神

研究者が注目するのは、双ヶ丘の三つの丘の古墳群です。
一番高い北側の一ノ丘(標高116m)からニノ丘・三ノ丘と低くなっていきます。一ノ丘の頂上には古墳が1基、 一ノ丘とニノ丘の鞍部に5基、三ノ丘周辺に13基あります。この内の一ノ丘頂上古墳は、秦氏の首長墓である太秦の蛇塚古墳の石室に次ぐ大規模石室を持ちます。

京都双ケ岡1号墳 秦氏の首長墓

日本歴史地名大系『京都市の地名』の「双ヶ丘古墳群」の項で1号墳について次のように記します。

「他の古墳に比べて墳丘や石室の規模が圧倒的に大きくしかも丘頂部に築造されているところからみて、嵯峨野一帯に点在する首長墓の系譜に連なるものであろう。築造の年代は、蛇塚古墳に続いて七世紀前半頃と推定される」

「一ノ丘とニノ丘の間に点在する古墳及び三ノ丘一帯の古墳は、いずれも径10mないし20mの円墳で、いわゆる古墳後期の群集墳である。(中略) 双ヶ丘古墳群は、その所在地からみて秦氏との関連が考えられ、墓域は若千離れているが、嵯峨野丘陵一帯の群集墳とも深いかかわりをもっているとみてよいだろう」

ここからは、双ヶ丘は嵯峨野一帯の秦氏の祖霊の眠る聖地で、三柱鳥居の正三角形の頂点は、それぞれ秦氏の聖地を指し示している記します。太陽が昇る方位だけでなく、沈む方位や祖霊の眠る墓所の方位を示していることは、この地も死と再生の祈りの地だったと云えそうです。その再生祈願の神が天照御魂神と研究者は考えています。

尾張氏や物部氏が祭祀する天照御魂神を、なぜ、渡来氏族の秦氏が祀るのでしょうか?
それは朝鮮でも同じ信仰があったからと研究者は推測します。白日神の信仰が朝鮮にあることは、『三国遺事』(1206~89)の日・月祭祀の延鳥郎・細鳥女伝承から推測できます。

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三国遺事には祭天儀礼をおこなった場所を「迎日県」と記します。迎日県は現在の慶尚北道迎日郡と浦項市に比定されているようです。向日と迎日の違いはありますが、迎日郡には白日峯があります。向日神社の冬至日の出方位に朝日山があるように、白日峯の冬至日の出方位(迎日県九竜浦邑長吉里)には迎日祭祀の山石があります。
白日神 韓国
                    九竜浦邑(慶州の真東)

この岩は「わかめ岩」と呼ばれ、 この地方の名産の海藻の採れるところだったようです。
『三国遺事』は、この地の延鳥郎・細鳥女伝説を次のように伝えます。
 この地に延烏(ヨノ)という夫と細烏(セオ)という妻の夫婦が暮らしていました。ある日、延烏が海岸で海草を取っていたら、不思議な岩(亀?)に載せられてそのまま日本まで渡って行き、その地の人々が彼を崇めて王に迎えた(出雲・越前?)というのです。一人残された細烏は夫を探すうちに、海岸に脱ぎ捨てられた夫の履物を発見し、同じく岩に載ることで日本に渡り、夫と再会して王妃となりました。
 しかし、韓国では日と月の精であった二人がいなくなると、日と月の光が消えてしまった。それで王が使者を日本に送って戻ってきてくれるようにいうのですが、延烏は「天の導きで日本に来たのだから帰ることはできない」と断ります。代わりに王妃が織った絹を送り、それで天に祭祀を捧げるようにいいます。実際にそのようにすると、光は戻ってきたので、新羅王はその絹を国宝とし、祭祀をした場所を「迎日県」としたというのです。そこは現在の浦項市南区烏川邑にある日月池であるといいます。
□「虎のしっぽの先」から海の向こうの日本を望みました! | 韓国・ソウルの中心で愛を叫ぶ!
     「虎尾串(ホミゴッ)」の海を臨む公園にある「延烏郎(ヨノラン)と細烏女(セオニョ)」の像
延鳥郎は海藻を採りに行き、岩に乗って日本へ渡ったと『三国遺事』は記します。岩に乗る延鳥郎とは、海上の岩から昇る朝日の説話化でしょう。白日峯の冬至日の出方位にある雹岩は、太陽の岩なのでしょう。この岩礁地帯は現在も聖域になっているようです。以上からは、迎日祭祀が朝鮮でおこなわれていたことが分かります。
以上をまとめておくと
新羅の迎日県の白日峯にあたるのは、三柱鳥居の地からの迎日の稲荷山、比叡山系の四明岳
木島坐天照御魂神社の鎮座地は、白日神祭祀の聖地、祭場で、そこに三柱鳥居が建つ
ここでは秦氏が祀る天照御魂神社の三柱鳥居は、朝鮮の迎日祭祀の白日神の信仰と、稲荷大社にみられる祖霊信仰がミックスした信仰のシンボルとされていたことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大和岩雄 秦氏の研究312P 木島坐天照御魂神社 ~三柱鳥居の謎と秦氏~


福井県立歴史博物館│泰澄展

白山開山者とされる泰澄については、信頼できる基本的な史料が少なく架空の人物であるという説もあるようです。そのような中で白山神社のHPには、泰澄のことが次のように記されています。
長い間、人が足を踏み入れることを許さなかった白山に、はじめて登拝(とはい)したのが僧泰澄です。泰澄は、天武天皇11年(682)に、越前(現在の福井県)麻生津(あそうず)に生まれました。幼いころより神童の誉れ高く、14歳のとき、夢で十一面観音のお告げを受け、故郷の越知山(おちざん)にこもって修行にあけくれるようになりました。
霊亀2年(716)、泰澄は夢で虚空から現われた女神に「白山に来たれ」と呼びかけられます。お告げを信じた泰澄は、それまで誰も成し遂げられなかった白山登拝を決意し、弟子とともに白山を目指して旅立ちました。そして幾多の困難の末、ついに山頂に到達。養老元年(717)、泰澄36歳のときでした。
白山の開山以来、泰澄の名声はとみに高まり、都に赴き元正天皇の病を祈祷で治したり、大流行した天然痘を鎮めるなど、華々しい活躍をします。開山から8年後の神亀2年(725)には、白山山頂で奈良時代を代表する名僧行基と出会い、極楽での再会を約束したとも伝えられています。数々の伝説を残し、「越の大徳」と讃えられた泰澄は、神護景雲元年(767)に越知山で遷化。享年86歳でした。
ここには泰澄が秦氏出身であることは、何も触れられいません。『泰澄和尚伝記』には、泰澄は俗姓が三神氏で、越前国麻生津の三神安角の2男とあります。母は伊野氏で白玉の水精を取って懐中に入る夢を見て懐妊し、天武天皇11年(682)6月11日に誕生したと記します。

泰澄和尚伝記』大谷寺本(越知山大谷寺所蔵)
泰澄和尚伝記

次に「泰澄=秦氏出身」説を、別の史料で追いかけます。『白山大鏡』(鎌倉時代成立?)は、泰澄について次のように記します。
越前国足羽南郡阿佐宇津渡守 為泰角於父生古志路行者秦泰澄大徳

意訳変換しておくと

泰澄の父は越前国足羽南郡阿佐宇津の渡守で泰角於である。 古志路行者の秦泰澄大徳

ここからは泰澄の父が阿佐宇津(麻生津)の渡守(津守)で、泰澄にも秦の姓が付けられています。
麻生津とは福井市浅水町付近とされ、その南に泰澄寺(福井市三十八社町)が現存し、生誕の地とされているようです。

泰澄寺
                      
麻生津が文献に登場するのは『和名類聚抄』で、「丹生郡朝津郷訓阿佐布豆」、『延喜式』巻第28の兵部省では「朝津 駅馬 伝馬各五疋」と記します。津という表記と周囲に浅水川があるので河川交通の要所で、北陸道の朝津駅の付近から陸上交通の拠点であったことが分かります。日本海交易の受口として、朝鮮半島などからもさまざまな人とモノが行き交う所であったことがうかがえます。天台宗僧の光宗の著した『渓嵐拾葉集』(正和3年(1314)成立)にも「越州浅津船渡子」と記します。泰澄の父が船守であったという伝承も、麻生津という地域性から来るものなのでしょう。同時に、秦氏は瀬戸内海でも海運業に携わるものが多かったことは以前にお話ししました。日本海交易を通じて、広いネットワークをもっていたことが考えられます。

技術集団としての秦氏

泰澄の生誕地とされる麻生津の地には、今市岩畑遺跡(福井市今市町)があります。
発掘調査により奈良時代の遺構・遺物が数多く発見され、仏教色の強い遺物も含まれていました。研究者が注目するのは「大徳」と記された墨書土器です。これは8世紀のもので、越前町の佐々生窯跡の丹生窯産とされています。大いなる「徳」とすれば、泰澄は「越の大徳」とも称されていました。泰澄の生まれた伝承地で、この土器が出てきたことに意味があります。

『元亨釈書』(巻十五、方応の部)には、泰澄の母伊野は「白玉」が懐に入るのを夢に見て泰澄を身ごもったと記します。
これは朝鮮半島の神話にもよく出てくるパターンだと研究者は指摘します。加羅の皇子・角鹿阿羅斯等(つぬがあらしひと)の妻はもともと白石で、新羅の王子天日矛の妻は赤玉でした。白玉を懐中にして妊娠した伊野は、白石・赤玉から美女になったヒメコソ神と共通します。加羅・新羅の始祖王の卵生伝承の卵が、白玉になったとあります。「白玉伝説」を持つ泰澄が秦氏出身であることがますます深まります。
継体天皇の考察④(越前の豪族)|古代史勉強家(小嶋浩毅)

それでは、当時の足羽郡に秦氏はいたのでしょうか? 
天平神護1年(766)10月の『越前日司解』に、次の氏名が見えます。
足羽郷 秦文鷹秦荒海・秦文、
家郷 秦前田麿、前多鷹(前田麿の子)・秦安倍、
利刈郷 秦井出月魔
伊濃郷 秦八千麻呂
こうしてみると、足羽郡には秦氏一族がいたことが分かります。泰澄が秦角於の子であってもおかしくないようです。
渡来集団 秦氏とは?

泰澄は丹生郡の越知峯に籠って修行したとされます。今度は丹生郡を見ておきましょう。
『越前国司解』には、丹生郡人として泰嶋圭、丹生郡弥太郷に秦得麿の名があります。泰澄の父といわれる茶角於は、阿佐宇津の渡守(津守)ですが、敦賀郡の津守郷には秦下子公麿がいます。『日本古代人名辞典』(第5巻)は、8世紀の越前の秦氏として、秦16人、秦人部2人をあげています。この地域には秦氏の一族が勢力を持っていたことが分かります。

越前の八坂神社
八坂神社
越前の八坂神社・泰澄の道

越知山の麓に鎮座するのが八坂神社です。ここには泰澄伝承はありませんが、越知山信仰圏への入口としてその歴史は古いとされます。牛頭天王を祀る応神宮や境内にはその神宮寺である応神寺があります。また、多数の諸仏群があり、国の重要文化財である。木造十一面女神坐像も末社の御塔神社から発見された像のようです。

越知神社|おすすめの観光スポット|【公式】福井県 観光/旅行サイト | ふくいドットコム
 
 泰澄の最初の修行地とされる越知山の山頂からは近年、奈良時代の須恵器が採取されているようです。丹生窯跡で生産された奈良時代(8世紀中頃)のものなので、誰かが奈良時代に持ってあがったのでしょう。それを残した人物が泰澄かどうかはわかりませんが、奈良時代には越知山周辺では山林修行者が活動していたことが分かります。

最初に見たHPには「白山の開山以来、泰澄の名声はとみに高まり、都に赴き元正天皇の病を祈祷で治した」とありました。京都での活躍ぶりを見ておきましょう。

木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)

京都の木島坐天照御魂神社
(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)は木嶋神社(このしまじんじゃ)」や「蚕の社(かいこのやしろ)」とも呼ばれ、古くから祈雨の神として信仰された神社です。境内には珍しい三柱鳥居があることで知られています。この神社の愛宕山は、秦氏の山岳信仰の聖山です。愛宕神社の神宮寺白雲寺の縁起は、大宝年中に役小角と雲遍上人(泰澄)が愛宕山に登り、山嶺を開き、朝日峯に神社を造立したのにはじまると記します。ここに出てくる「予云遍上人」は泰澄のことで、愛宕山も「白山」とも呼ばれます。ここからは山城国の泰氏の本拠地の「白山(愛宕山)」の開山も泰澄とされています。「泰澄=秦氏出身」はますます強まります。
今度は、白山の三つの山(御前峰。大己貴岳・別山)を見ておきましょう。
御前峰に白山妙理大菩薩が鎮座したために、それまでの御前峰の地主神は別山に移ったという伝承があります。これについて、水谷慶一は次のように記します。

「『白山』を現今の朝鮮語の発音でよめば「ペッサン」の声になるが、これが案外、『別山』の名称の起りではなかろうか。朝鮮語では濁音と半濁音の区別がないので、ペッサンはベツサンでもいい。

ここからは次のようなストーリーが考えられます。
①古墳時代に、白山は「ペッサン」と呼ばれた
②奈良時代に仏教が入るとベッサン(白山)神が最高峰の御前峰を仏教系の白山妙理大菩薩に明け渡して鎮座の場所を移した。
③その際に、名称も共に移動して、『別山』と称するようになった
④『泰澄和尚伝』が別山を「小白山」と書いていることがそれを裏付けらる。

朝鮮には、儒教式祭祀以外に、巫女が主催する別神クッ・都堂クッといわれる部落祭があります。
クッは、儒教の祭に対してシャーマニズム、巫式の祭で、古い型とされます。このクッを、江原道・慶尚道などの日本海側の地域で、特に「別神クッ」「別神祭」と呼んでいるようです。この地域は「狛」とされた地で、日本海を通じて、加賀白山につながります。「別山=白山」とすれば、「別神=白神」となります。
別神祭は、3年か5年ないし10年など周年ごとに営まれる盛大な祭で、この祭には仮面劇がおこなわれます。別神祭の仮面劇には、「死と再生」の場面が含まれていると研究者は指摘します。こうしてみてくると、白山信仰も死と再生の信仰なので、両者がつながります。
 白山の別山を小白山と呼ぶのは、大(太)白山に対しての表現です。
朝鮮の太白山祠について、『東国興地勝覧』(巻四十四。三防祠廟)は、次のように記します。

「太白山祠 在山頂 俗称天王堂」、「春秋祀之」

『虚白堂集』(巻11)には、太白山祠の神は4月8日に村の城陛(部落の聖域)に降臨し、村に留まって村人から旗施鼓笛の盛大な迎接を受け、5月5日に山祠に戻ると記します。4月8日に山の神が里に降りる例は、日本各地にも見られます。ただ、日本の山の神が山へ戻るのは秋です。その点が朝鮮半島とは異なるようです。ただ、太白山神は、普通の山の神ではなく、恐ろしい神のようです。「鬼涯」(『成宗実録』巻236)には次のように記します。

「吉凶立応 前有太守死者数人 皆曰 白頭翁為祟 人心尤畏忌 或曰 夢見白頭者 皆死」(『林下筆記』巻十六)

意訳変換しておくと

「この山の祟りで太守が数人亡くなった。そこで皆が云うには白頭山の祟りであると。人々はこれを非常に怖れた。また、白頭山の夢を見た者は皆死すると」

ここからは太白山神が鬼神・白頭翁と化して崇る神であったことが分かります。これは白山神が陰神、崇神といわれるのと共通しています。このような朝鮮半島の祭祀・信仰は、日本列島と無関係ではありません。

朝鮮半島から日本に入って来た信仰のひとつに韓神(カラカミ)信仰があります。
浅香年木は「韓神からのかみ)信仰」の越前への広がりについて、次のように述べています。
韓神信仰と申しますのは『日本書紀』の皇極天皇元年(642)条に、「村々の祝(ほふり)の教えのままに、或いは牛馬を殺して、諸々の社の神を祭る」という表現で登場する信仰です。(中略)
 この韓神信仰で、注目したいのは分布の特異性にあります。厳しい抑圧の対象とされておりました韓神信仰は、もとより広い範囲に定着していたはずでありますが、延暦十年(791)の禁令が出されている地域は、伊勢・尾張・近江・美濃・紀伊若狭・越前の七カ国、だいたいお分かりと思いますが、紀伊半島から、中部地方の西側を廻って、越前までです。いまの石川県の辺りまでの範囲に相当しますが、この七カ国を対象に特に禁制が強化されております。さらに10年後の延暦20年(801)には、 この七カ国のなかでも、特に北陸道のみに限定して、国家権力が厳しい弾圧令を試みております。ここからは北陸道の、特にこの越前国やその周辺地域において、韓神信仰が広く信仰されていたというふうに理解されるのであります」
ここからは、次のような事が読み取れます。
①韓神信仰は祭礼で、牛馬を殺して神に捧げるものがあり、日本ではたびたび禁止とされていたこと
②延暦十年(791年)の禁令では、伊勢、尾張、近江、美濃、紀伊、若狭、越前の7か国を対象に、特に禁制が強化されていること
③その10年後の延暦二十年(801年)には北陸道のみに限定して厳しい禁制が行われていること
④以上から北陸には根強い韓神信仰があったこと

「日本霊異記」にも、8世紀の中頃、摂津国の金持が、年ごとに一頭の牛を殺して韓神の祭に用いたとことが記されています。このような「殺牛用祭韓神」に対する禁令に、越前の人々が応じなかったことも、白山信仰と韓神信仰が無関係でないことがうかがえます。
どうして、牛を殺していたのでしょうか?
『東国興地勝覧』の太白山祠の春と秋の祭の「繋牛於神坐前、狼狽不顧而走」を、『林下筆記』(巻16)は、「山下人殺食 無災謂之退牛」と記します。ここからは、もともとは牛を殺して食べていたのが禁じられたため、「繋牛於神坐前、……而走」となったようです。これは「山下人殺食……」に続いて次のように記されていることからもうかがえます。

「官荷聞之 定監考曰納於官邑人厭牛会 有山僧沖学 焚其祠 妖祠乃亡 因無献牛之事 監考亦廃」

これを金烈圭は「殺食無災」について、「食べても災がない」と読み下し、これは「たんなる食肉ではない。呪術的食肉である」として、次のように推察します。
生の牛肉を食べることによって、神に接することができると信じた事例があることから、呪術的食肉の傍証が成り立つ。牛を食べるということは、牛が象徴する生成力を所有するようになることを意味する。虎肉を食べて山にはいれば、獣や鬼神を防ぐことができるという俗信も、呪術的食肉から由来したものである。食牛は、2つの意味をもっている。
 第一は、祠神に捧げられたために、祠神の力が加わった牛であるという考えである。この意味からすると、その牛は祠神と同一である。その牛肉を食べるのは、少なくともその祠神の力を分与してもらうことを意味する。
 第二にこの祠神は、白頭翁として象徴される恐ろしい山神である。その山神の患は、虎患であると思われる。山神に捧げられても無事な牛は、その山神に勝った牛である。したがって、その牛肉を食べることは、山神に勝つ力を所有するという意味になる。どちらの食牛の意味をとっても、呪術的食肉は、 マナ(Mana)の所有を意味している。

「牛を殺して韓神を祭るのに用いる」という『日本霊異記』の記事を、牛を生け贄とし捧げたとみる説があります。しかし、もともとは「殺食(食牛)」のためで、越前の「殺牛」も「殺食」だった研究者は判断します。この「殺食」が行われる場所は、「鬼涯」と呼ばれる太白山祠の「山下」でした。「祠神」とは、「鬼涯」の白山神のことです。こうして見ると、「殺食」が越前で盛んにおこなわれたのは、そこが白山の山下であったことが考えられます。金烈圭は「牛食」を死と再生の「生成力象徴」の儀礼とみます。白山信仰の儀礼も死と再生の儀礼ですから、両者の信仰の本質は同じです。韓神信仰と白山信仰はつながります。
もうひとつ秦氏の神々を見ておきましょう。
伊怒比売(いのひめ)は神活須毘神(かむいくすびのかみ)の娘で、大年神(おおとしのかみ)と結婚して
次の5神を生みます。

伊怒比売(いのひめ)は神活須毘神(かむいくすびのかみ)の娘
大年神と伊怒比売(いのひめ)との間に生まれた兄弟五神

大国御魂神(おおくにみたまのかみ)
韓神(からのかみ)
曾富理神(そほりのかみ)
白日神(しらひのかみ)
聖神(ひじりのかみ)
この兄弟五神については、その神名から渡来系の神とされ、秦氏らによって信仰された神とされます。大年神の系譜中の神々については、農耕や土地にまつわる神が多いのが特徴です。これは民間信仰に基づく神々とする説や、大国主神の支配する時間・空間の神格化とする説があるようです。さらに日本書紀のこの系譜の須佐之男命・大国主神から接続される本文上の位置に不自然さがあり、その成立や構造については、秦氏の関与や編纂者の政治的意図があったことが指摘されています。
 「韓神」の名を持つ神としては、『延喜式』神名帳の「宮内省に坐す神三座」に「薗神社」と共に「韓神社二座」が記されています。
園韓神社 - 園韓神社の概要 - わかりやすく解説 Weblio辞書
平安京の韓神社二座
この神社は『江家次第』『古事談』『塵袋』『年中行事秘抄』などに、平安京以前から鎮座していたことが記されています。この神社を内裏建設の際に、別の場所に遷座させようとしたところ託宣があって、帝王の守護として留まって宮内省に鎮座したと伝わります。そして、その鎮座する大内裏は、もと秦河勝の邸宅跡の地であるというのです。ここからも、これらの神は秦氏の地主神としての性格を持つと考えられます。
秦氏の渡来と活動

秦氏は、渡来系の技術者集団として何波にも分かれて列島にやってきました。それをヤマト政権や各地の勢力は、迎え入れて勢力下に入植させていきます。そこには、人とモノだけでなく信仰ももたらされました。それが八幡・稲荷・白山信仰として定着していきます。そのような延長線上に、秦氏出身の泰澄も登場します。それが白山開山につながると私は考えています。
 もうひとつ私が気になるのが、泰澄と空海の活動がよく似ていることです。どちらも秦氏の支援を受けて布教活動を展開している点など類似点が数多く見られます。それがどうしてなのかは、今の私には分かりません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「大和岩雄 秦氏の研究356P 白山神社~朝鮮の白山信仰と秦氏~」

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稲荷大社と秦氏
前々回に、全国の古墳の上に稲荷神社が数多く鎮座することの背景を、次のように見てきました。

全国の古墳に稲荷神社が数多く鎮座する背景は?

つまり、稲荷山の「お塚(古墳)信仰=穀物信仰」が修験者や聖によって、全国の古墳に勧進されたという説になります。
 子どもの頃にはいなり寿司が大好きでした。お稲荷さんと云えば狐です。今回は、稲荷神社と白狐のつながりを追いかけてみようと思います。テキストは「大和岩雄 秦氏の研究289P 伏見稲荷大社」です。
霊狐塚】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
豊川稲荷
「狐塚」の古墳と狐塚の関係について、柳田国男は次のように記します。
「村の大字又は小字の地名となって残って居るもので、今日は其名の塚があるかないか未定なものまで合すれば、北は奥州の端から南は九州の末までに少くも三四百の狐塚といふ地名がある」
「塚の上に稲荷の小祠があるから狐塚だといひ、又はその祠の背後には狐の穴のあるのも幾つかある。古墳には狐はよく穴居するから、それから出た名とも考へられ、又現実に狐塚を発掘して、古墳遺物を得た例が二三は報告せられてある」
 また、稲荷と狐塚の関係については、次のように記します。

「多くの他の塚と同じ様に、狐神といふ一種の神を祭る為に設けたる祭壇である。狐神は恐らくは今日の稲荷の前身である」

歌川広重の狐
                歌川広重 大晦日の狐火

 このように柳田国男は、「狐神=田の神」で、狐塚は「もともとは田の神の祭場だった」とします。その理由として、山の神が早春に里に降りて田の神となり、秋の収穫後に山に入るのと、山の狐が里に現れることとの共通性を挙げます。その際に、狐が山(田)の神の神使となった理由については次のように記します。
「以前は狐が今よりもずっと多か々 つたこと、彼の挙動にはやや他獣と変つたところがあり、人に見られたと思ふとすぐに逃富せず、却って立上って一ぺんは眼を見合せようとすること、それから又食性や子育ての関係から、季節によって頻りに人里に去来することなどを例挙してもよい」

稲荷の神が山(田)の神だから、狐が稲荷社の神使になったとします。以上のように、柳田は、山の神が田の神となって里に現れるのと、狐が里に現れることの共通性を指摘します。

  柳田國男説
  「狐神=田の神の使者」 → 「狐塚=田の神の祭場」 → 「狐が稲荷神社の神使」説

稲荷大社 狐神

しかし、これに研究者は異論を唱えます。この二つは時期がちがうと云うのです。

古代人の種へのイメージ

山の神が里に現れるのは種まきから収穫まです。その間は里にいて田の神になります。ところが、狐が里に現れるのは、田の神が山に帰った後です。だから、狐が山から里に現れるからと云って、単純に田の神と重ねることはできないと云うのです。里人が狐を見るのは、草木の枯れ伏した後で、白鳥が飛来してくる時期です。とすれば、里人は白鳥と同じイメージで狐を見ていたことになります。

常滑郷土文化会つちのこ, 写真集 つたえたい常滑

狐塚の「狐」に冬、「塚」に死のイメージがあることと、稲荷山の「山の峯」に塚(古墳)と白鳥伝説が重なることは前回お話しました。また、穀霊として登場する鳥が「白」鳥であるように、稲荷神の化身は「白」狐です。「白」には、古代人は死と再生のふたつのイメージを持っていました。そして白狐は「白=再生」「狐=塚・死」のイメージです。そんなことが背景にあって、白狐が稲荷大社の神の化身になったと研究者は考えています。白狐は白鳥と共に、生命の源泉である「種」として、豊饒(福)を約束するものであったことを押さえておきます。

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寒施行(狐施行・野施行・穴施行)シーボルト、文政九年に大阪訪問。
狐の餌が無い寒中、狐が棲む神社・森・藪などに赤飯・餅・油揚げ・野菜天婦羅などを置いて歩く。  稲荷の狐への感謝と・豊作祈願を祈った。

京阪地方の行事に、狐の「寒施行(狐施行)」があります。
旧正月前後の夜、小豆飯とか油揚を、狐のいそうな所に置いてくるのです。また、京都・兵庫から福井・鳥取にかけての農村には、旧正月の年越しの晩に「狐狩り」の行事があります。「狩り」という言葉から、狐の害を防ぐために狩り立てるのだという説もありますが、「寒施行」と同じで「もともとはは年のはじめに、狐からめでたい祝言を聴こうとした一つの儀式」で「福をもたらす狐を招き入れようとする行事」と研究者は考えています。この行事は小正月の行事で、時期的には「寒施行」と同じ時期です。白鳥が豊饒(福)をもたらす冬の鳥であったように、狐も福をもたらす冬の動物として登場しているのです。それが稲荷信仰と、どこかで結びついったようです。ちなみに、秦氏を祀るその他の神社には狐神信仰がありません。狐神信仰があるのは、伏見稲荷大社だけです。これをどう考えればいいのでしょうか?
秦氏には、狐だけでなく狼伝承もあります。
『日本書紀』の欽明天皇即位前紀は次のように記します。
天皇幼くましましし時に、夢に人有りて云さく。「天皇、秦大津父(はたのおおつち)といふ者を寵愛みたまはば、壮大に及りて、必ず天下を有らさむ」とまうす。寝驚(みゆめさ)めて使を遣して普く求むれば、山背国の紀郡の深草里より得つ。姓字、果して所夢ししが如し。是に、析喜びたまふこと身に遍ちて、未曾しき夢なりと歎めたまふ。乃ら告げて日はく、「汝、何事か有りし」とのたまふ。答へて云さく、一無し。
但し臣、伊勢に向りて、商償して来還るとき、山に二つの狼の相同ひて血に汗れたるに逢へき。乃ち馬より下りて口手を洗ひ漱ぎて、祈請みて曰く、『汝は是貴き神にして、麁き行を楽む。もし猟士に逢はば、禽られむこと尤く速けむ』といふ。乃ち相闘ふことを抑止めて、血にぬれたる毛を拭ひ洗ひて、遂に遣放して、倶に命全けてき」とまうす。天皇曰く、「必ず此の報ならむ」とのたまふ。乃ち近く侍へじめて、優く寵みたまふこと日に新なり。大きに饒富を致す。
意訳変換しておくと
天皇が幼いときに、夢にある人が出てきて次のように云った。「天皇が、秦大津父(はたのおおつち)という者を寵愛すれば大きな益をもたらし、必ず天下を治めるようになるでしょう」と告げた。夢から覚めて、使者を各地に派遣して、秦大津父を探させたたところ、山背国の紀郡の深草里にいた。姓字も、夢に出てきたとおりであった。天皇はまさに正夢であったと喜んだ。そこで「汝、何事か吉兆があったか」と問うた。それに秦大津父は、次のように答えた。「臣が伊勢で、商償して帰って来るときに、山の中にで二匹の狼が血まみれになって争っている場面に遭遇しました。そこで、馬から下りて口手を洗ひ浄めて、『汝は貴い神にして、荒行を楽しんでるよようだが、もし猟士がやってきたら速やかに捕らえられてられてしまうだろう。」と告げた。2匹の狼は、それを聞いて闘うことを止めて、血にぬれたる毛を拭ひ洗った。そして、去って行く際に、私たち2匹は命をかけてあなたに尽くす」と云った。これを聞いた天皇は、「必ずその報の通りになるであろう」と云って、近習の一人に招き入れた。その結果、大きな饒富を天皇にもたらした。

ここに登場する2匹の狼について西田長男は、次のように解釈します。
「汝は是貴き神」と云っているので、狼は「神そのものとして考へられていた」とし、秦大津父が「馬より下りて」、狼の「口手を洗ひ漱ぎ」、狼に「祈請みて」言っていることは、「神に就いての作法を語るものに外ならない」と指摘します。そして、「オオカミ」は「大神」だとも云います。
千葉徳爾は、次のように記します。

「日本書紀では狼を大口の真神と呼んだ。(中略) わが国の肉食の猛獣としては人里に現れることの多いものだったから、人間の側からは畏怖すべき存在であった。大口は姿を形容したもの、真神とはその威力をたたえた言葉で、これが縮まって大神、オオカミとなったとみられる」

そうだとするとこの話は、秦大津父が狼を助けて「大きに饒富」したのは、神(オオカミ)を助けたため、神から福と富をさずかった話ということになります。柳田国男も、「秦の大津父の出世諄以来、狼が人の恩に報いた話は算へ切れぬほどある」と述べています。「狼=大神」とすれば、秦大津父に福をもたらした狼は、伏見稲荷大社にとっては「貴き神」の代表で、祀るべき神にだったはずです。
それがどこかで狼から狐に変ったようです。どうしてなのでしょうか?
西田長男は、秦大津父が助けた狼について次のように記します。

「稲荷社の替属たる狐神で、古くはこの狐は狼であったのではあるまいか。若しくは狐と狼とは同類に考えられていたのではあるまいか」

柳田国男は、狐塚で狼を供養する例をあげていますが、古代には狐と狼は同類とみられていたようです。
塚(墓)で狐や狼を供養するのも、死と再生の儀礼です。これについて柳田國男は、狼や狐に小豆飯などを供える「初衣祝」は、「産育の際に食物を求めて里を荒らしにくることをおそれて、人間の誕生と同じ祝いをし、狼や狐の害を防ごうとしたのだろう」と推測しています。しかし、これには次のような反論があります。
伴信友は『験の杉』で、秦大津父の狼の話について次のように書いています。

名神大社:大川神社(舞鶴市大川)
丹後の大川神社 オオカミを使者としてまつる

今丹後国加佐郡に大川大明神の社あり、此神社式に載られたり。狼を使者としたまふと云ひ伝へては縦淵..其わたりの山々に狼多く棲り。さらに人の害をなす事なし。諸国の山かたづきたる処にて、猪鹿の多く出て用穀を害ふ時、かの神に申て日数を限りて、狼を貸したまはらむ事を祈請ば、狼すみやかに其郷の山に来入り居りて、猪鹿を逐ひ治むとぞ。又武蔵国秩父郡三峯神社あり。其山に狼いと多し。これも其神に祈請ば、狼来りて猪鹿を治め、又其護符を賜はりてある人は、其身狭害に遭ふ事なく、又盗賊の難なしといへり。

  意訳変換しておくと
丹後国の加佐郡に大川大明神の社がある。この神社は延喜式に載せられている古社である。狼を神の使者としていたと云ひ伝へていて、周辺の山々に狼多く棲んでいる。しかも、人の害をなす事はない。諸国の山で、猪鹿が出没して被害をもたらすときには、この神社の神に依頼して日数を限って、狼のレンタルと願えば、狼はすみやかに依頼のあった山に入って、猪鹿を退治するという。
また武蔵国秩父郡に三峯神社がある。この山にも狼が多く棲んでいる。ここでも神に祈請すれば、狼がやってきて猪鹿を対峙する。またその護符を賜わった人は、災害が遭う事がなく、盗賊の難もないとされる。
ここでは、狼が神の使者として害獣退治の役割を担っていたことが書かれています。秩父の三峯神社では、狼に小豆飯(赤飯)をあげるのを、「御犬様(山犬、狼のこと)の産養ひ」と表現するそうです。武蔵の狼信仰は、三峯神社を拠点として各地にひろがっています。

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三峯神社のオオカミ

「初衣祝」も「御犬様(山犬、狼のこと)の産養ひ」と同じ行事と研究者は考えています。
これは「寒(狐)施行」「狐狩り」が、狐の害を防ぐことでなく、狐から福をさずかる行事であるように、狼や狐の出産(多産)にあやかった豊饒予祝の行事と云うのです。狼や狐は、山に住む冬の動物というだけでなく、巣穴で子を沢山生みます。そのことも、死(穴こもり)と再生(多産)のイメージにつながります。塚や墓を狐塚といい、そこで狼を供養するのと、狼や狐に小豆飯を供える「初衣祝」「産見舞」の儀礼は一連の死と再生儀礼と研究者は考えています。
 多産な動物は狼・狐以外にもいますが、特に狼・狐が選ばれているのは、山の神の化身とみられていたからでしょう。山の神は、秋の終わりに山へ戻り、春の始めに再び山から里に降りて田の神になるといわれています。狼や狐の寒施行や産見舞は、山の神が里に降りる前の時期におこなわれることからみて、春の予祝行事としての冬(殖ゆ)祭と研究者は考えています。
 白鳥が冬の鳥であるように、狼も狐も冬の動物です。
その点では、狼を助けて「大きに饒富を致」した秦大津父の話は、秦伊侶具が「梢梁を積みて富み裕ひき」の白鳥伝説と同じ、秦氏にとっては大切な話であったはずです。だから、「オオカミ=狐」と姿を変えて伝わったとしておきます。稲荷の狐は「白狐」です。中国では、白狐は吉、黒狐は凶とされました。
『土佐郷土民俗諄』や『南路志』の土佐民話に「白毛の古狼」があります。
狼が鍛冶屋の姥に化けて出てきますが、この民話は「産の杉」という古木のそばで旅の女が子供を生んだ話から始まっています。「白」には死と再生(誕生)のイメージがあります。稲荷大社の創始伝承に登場する白鳥の「白」も、白狼・白狐の「白」と関係がありそうです。冬の鳥である白鳥や白鶴に穂落し伝承があるのも、「白」に死と再生のイメージがあるからだと研究者は考えています。「稲の産屋」を「シラ」と呼ぶのも、「白」のイメージにつながるようです。

三峰神社オオカミ
三峯神社の山犬(オオカミ)
三峰神社の狛犬でなくオオカミ
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大嶽神社(西多摩郡檜原村白倉)の社伝には、日本武尊と山犬伝承があります。
『日本書紀』の景行天皇四十年条に載る日本武尊の東征伝承に、次のように記します。

山の神、王を苦びしめむとして、白き鹿と化りて王の前に立つ。王異(あやし)びたまひて、 一筒蒜を以て白き鹿に弾けつ。則ち眼に中りて殺しつ。爰に王、忽に道を失ひて、出づる所を知らず。時に白き狗、自づからに来て、王を導きまつる状有り。

意訳変換しておくと
(信濃に入った日本武尊が、信濃坂を越して美濃に出るときのこと)山の神が、王を苦しめようとして、白き鹿に化身して王の前に立った。日本武尊は怪しんで、 一筒蒜(ひる)を白き鹿に放った。それは鹿の眼に当たり殺した。ところが王は、道を失って、山からの出口が分からなくなってしまった。そこへ白き狼がやってきて、王を導き助けた。

ここに登場する「白き狗」は山犬(狼)のことです。この話が秩父と奥多摩の神社の社伝になっています。        
1987年9月23日の朝日新聞には、西多摩郡檜原村の旧家に「魔よけ」にしていた狼の頭骨があったと報じています。景行紀の日本武尊伝承の「鹿」や「狗」も「白き」鹿・狗です。『古事記』では、この伝承は相模国の足柄山での話になっていますが、やはり「白き鹿」が登場します。山村・農村の人々にとって狼が、畑を荒らす鹿や猪を退治してくれることと共通します。白鹿・白狗・白猪が登場する記・紀のヤマトタケル物語では、墓に葬られたヤマトタケルは白鳥になって墓からぬけ出し、墓(白鳥陵)に入り、更に墓から天に飛び去っています。これは白鳥の死と再生の循環を示す物語テーマです。  
 伏見大社と白狐(イナリさま)の関係にも、こんなテーマが背後にあるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大和岩雄 秦氏の研究289P 伏見稲荷大社
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空海の出身地の讃岐の西隣は伊予です。ここにも、秦氏が多く住んでいたと大和岩雄氏は「続秦氏の研究」に記します。伊予の秦氏の存在を、どのように「実証」していくのか見ていくことにします。

技能集団としての秦氏

最初に、大岩氏が注目するのは大洲市の出石山です。

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この山は地図で見ると分かるように、九州に向けて突きだしたの付け根の位置に当たる所にあります。頂上からは瀬戸内海を行き交う船が見える眺望を持ちます。古代以来、九州と豊後灘を経ての海上交通の要衝の地であったことがうかがえる山です。豊後を基盤とした秦氏も、この山を目指して豊後水道を渡ってきたのかも知れません。この山の頂上には出石寺があります。

愛媛 南予にきさいや! 長浜の出石寺に行ってきました。

 大和氏は「日本歴史地名大系39」『愛媛県の地名』の出石寺(しゅっせきじ)に関する記述を次のように引用します。

「喜多郡と八幡浜市との境、標高812mの出石山頂上にある。金山と号し、(中略)・・大同2年(807)に空海が護摩を修し、当時の山号雲峰山を金山に改めたと伝えられている。「続日本後紀」によれは、空海か四国で修行したのは阿波国の大滝之岳と土佐国の室戸岬であるが、空海自らが記した「三教指帰』には『或登金巌而或跨石峰』とあって、金巌(かねのだけ)に加爾乃太気、石峰に伊志都知能人気と訓じてあるので、金巌は金山出石寺をさすものと解され、空海は金山出石寺と石鎚山に登ったとされている」

 ここには、現在の出石山が石鎚と同様に空海修行の地であったと記されます。空海は、大滝山と足摺で修行したことは確実視されますが、その他はよく分かりません。後世の空海伝説の中で、修行地がどんどん増えて、今ではほとんどの札所が空海建立になっています。その中で、出石山も空海修行地だと考える人たちはいるようです。

金山 出石寺 四国別格二十霊場 四国八十八箇所 お遍路ポータル

 佐藤任氏はその一人で、次のように述べます。

「金巌(かねのだけ)は、この出石山(金山出石寺)か、吉野の金峯山のどちらかと考えられている。近年では、大和の金峯山とみる説が多いというが、同じ文脈に伊予の石鎚山とみなされている石峯が出ているから、伊予の出石山とみることも決して不可能ではない。しかも、どちらも金・銀・銅を産する山である」

 もちろん『三教指帰』の「金巌」は大和国の金峯山とするのが定説です。しかし、伊予の石鎚山に空海が登ったという伝承が作られたのは、伊予が丹生(水銀)産地で、秦の民の居住地だったからというのです。佐藤任氏は、伊予の「金巌」といわれている出石山付近には水銀鉱跡があると指摘します。

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堀井順次氏は、伊予の秦氏のことを「山村秘史」に次のように記します。
「伊予の秦氏についての詳しい記述があり、伊予の畑・畠のつく地と想定される。(中略)
  まず東予からたずねると、旧宇摩郡(現川之江市)の県境に「新畑」がある。そこは鉱物資源帯で、秦氏ゆかりの菊理媛祭祀神社が周辺地区に残っているが、秦氏伝承はない。同郡内の土居町には 畑野」があり、秦氏開発の伝承があった。越智郡には今治市に「登畑」があり、近くの朝倉村の多伎神社には秦氏伝承があると言う。玉川町の「畑寺」の地名と、光林寺(畑寺)の由緒にも秦氏の名が残っている。
中予地方では旧温泉郡に畑寺・畠田。新畑等に秦氏を想い、立花郷には「秦勝庭」の名が史書記され、この地方も秦氏ゆかりの地と考えられる。伊予市大平地区に「梶畑」(鍛冶畑)があり、「秦是延」の氏名を刻んだ経筒がそこから出土しているから、やはり秦氏ゆかりの地だろう。

南伊には大洲市に「畑・八多浪(畑並)八多喜(秦城)」等があり、南宇和郡には畑地があって高知県の幡多郡に続いている。
秦氏一族が伊予各地に分散していたことは、 一族が関係する産業の分散を示すものである 古代産業の分布状況は古代創祀神社の跡で推定できるだろう。愛媛県を東西に走る山岳地帯は、すべて鉱業地帯である。南予では石鎚山系のいたるところに銅採出跡がある。
(中略)
他に荷駄馬産業を見落してはならない。駄馬は山塊地帯の鉱業には欠かせない資材・鉱石等の搬送機関だった。律令制以後も近代に至るまで物資運送機関として秦氏の独占下にあった。荷駄馬の飼育地を駄場と言う。駄場地名は全国的に見て四国西南部に集中し、四国では南予地方に集中している。そこには必ず秦氏ゆかりの白山比売祭祀神社があった。
 
 以上のような推論を重ねた上で、伊予の秦氏は、南予地方の工業開発にかかわったとします。
そして次に示されるのが「南予地方秦氏関係神社表」です。
1南予地方秦氏関係神社表

この表から堀井氏は、次のように論を進めます。
「南予地方の古代朱の跡を、考古学領域で考えて、弥生時代まで遡上できるだろう。幡多郡五十崎町の弥生遺跡で採収した上器破片には、鮮やかな朱の跡が残っていた。史書で伊予に関る朱砂の歴史を考えると大化年間に阿倍小殿小鎌が朱砂を求めて伊予に下向して以後、天平神護二年の秦氏賜姓の恩典までの百余年間は、朱砂の線で繋がれていると見てまちがいなかろう。
 これを民俗学の領域で見ると、八幡浜市の丹生神社に始まり、城川町から日吉村まで続いている。その分布状況を迪ると、南予地方全域を山北から東南に貫く鉱床線の長さにはおどろかされる。その中で最近まで稼働していたのは日吉村の双葉鉱山だけだが、その朱砂の線上に多くの歴史が埋もれているにちがいない」
ここでは「南予地方全域を山北から東南に貫く鉱床線の長さ」の存在と秦氏の信仰する神社との重なりが説かれます。これは中世の山岳寺院とも重なり合うことが下の図からはうかがえます。
2密教山相ライン

 佐田岬半島の付け根に位置する出石山の頂上には「金山出石寺」があります。この寺の縁起は次のような内容です。
開創は元正天皇の養老二年(718)6月17日で、数日間山が震動して「光明赫灼とした」。そのため鹿を追っていた猟師作右衛門が鹿を見失ったが、「金色燦然たる光」を放って、千手観音と地蔵尊の像が地中から湧出した。作右衛門はこの奇瑞に感じて殺生業を悔い、仏門に入って「道教」と改名し、仏像の傍に庵をつくり、「雲峰山出石寺」と号した。
 その後、大同二年(807)に空海がこの山に登り、護摩ケ石に熊野確現を勧進して護摩供を修し、この山を「菩薩応現の勝地、三国無双の金山なり」と讃嘆した。
 空海がやって来たかどうかは別にして、この地域からは金・銀・銅・硫化鉄が採掘されていたようで、出石山(金山)には水銀鉱の跡があると云います。
また『続日本紀』文武天阜二年(698)9月条に、伊予国から朱砂を献上させたとあります。
これには秦氏・秦の民がかかわっていたようです。この地に弘法大師信仰が盛んなのは、高野山に丹生神社があり、弘法大師信仰には丹生がかかわるからだと研究者は指摘します。 丹生は泰氏集団と空海に深くかかわり、両者を結びつける役割を果たしていたのかも知れません。ちなみに丹生(にゅう)とは「丹(に)」と呼ばれていた水銀が含まれた鉱石鉱物が採取される土地を指す言葉です。

丹生の研究 : 歴史地理学から見た日本の水銀(松田寿男 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
 
松田壽男氏は『丹生の研究』で、次のように記します。
「要するに天平以前の日本人が“丹”字で表示したものは鉛系統の赤ではなくて、古代シナ人の用法どおり必ず水銀系の赤であったとしなければならない。この水銀系のアカ、つまり紅色の土壌を遠い先祖は“に”と呼んだ。そして後代にシナから漢字を学び取ったとき、このコトバに対して丹字を当てたのである。…中略…ベンガラ“そほ”には“赭”の字を当てた。丹生=朱ではないが、丹=朱砂とは言えよう
それでは、丹生と空海にはどんなつながりがあったのでしょうか。
それは、また次回に・・・
渡来集団秦氏の特徴

参考文献
大和岩雄 秦氏・秦の民と空海との深い関係(二) 続秦氏の研究


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