南光坊ー大山祗神社の別宮

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南光坊は大通智勝如来という非常に珍しい仏様を本尊にしています。
法華経にはある上子様が非常に仏教に帰依していて、難行苦行の末に過去七仏というお釈迦様の前の仏様のひとつである大通智勝仏になったと書かれています。これが大三島の大山祗神社の本地仏であったために、大山祗神社の別宮の南光坊にまつられたのだとおもいます。
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明治に神仏分離以前は、納経受付は神社がしていました。
別宮そのものがやっていたので境内に神社と坊が共存していたことになります。
しかし、神仏分離以降、大山祗神社の別別宮と南光院の間には道路が通されて分けられてしまいました。かつて光明寺と太子堂は、それぞれ独立の建物だったようです。大山祗神社にお参りすることが札を打つことだったので、光明寺は札所として関与しなかったのが最初の姿です。今は光明寺と太子堂がいっしょになって南光坊を称しています。
大山祗神社は武蔵坊弁慶の頚鎧や義経の鎧があったりして、武具の美術品の所蔵で有名です。ここも遍上人にとっては先祖の地ですから、晩年になって、ここを訪ねて大念仏をしています。  

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大山祗神について『四国偏礼霊場記』は次のように書いています。 

聖武天皇の御平天平五年に顕はれ玉ふ。
伊豆の国賀茂郡摂津国嶋下郡及び当郡、おのおの社あり。
三所は共に一神なり。当社より愕豆のくにへ移り給はらん。
神道史の研究者は、大山祗神は本花開耶姫のお父さんで、山の神様だ、その親子関係で最初は九州にあったのだろうと説明しておりました。が、最近の民俗学の立場では、山の神はすべて大山祗神だと考えています。どこの山にも山の神がいるので、特定の神様ではなくて、山の神の総称が大山祗神です。「やまつみ」の「つ」は「の」、「み」は神様です。それに美称として大を付けているのです。 

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大山祗神は山の神であるけれども、同時に海洋安全の神様でもあるのです。
島にある山の神は海を守ります。山の神も海洋神です。
したがって、別宮の札所であるということは、もとは大三島まで渡って札を打っていたと考えられます。『四国偏礼霊場記』は別宮は非常に古いように書いていますが、おそらく河野氏が非常に盛んになる鎌倉時代だとかもいます。
 それ以前は辺路修行ですから、島に渡る一つの辺路修行を示していると考えられます。大三島にあった二十四坊のうち八坊だけが別宮に移ります。そのころは宮司も別宮に近いところに屋敷をもっていて、大三島で行事があるときに渡っていったといわれています。
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