瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:大川山

本日の授業

中寺と大川山に登って、上のような「授業」を行いました。その5時間目を報告します。
中寺展望台で昼食後に、大川山へ向かいます。

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大川神社前の紅葉(11月16日)
モミジとイチョウが紅葉で迎えてくれました。真っ青な秋のソラが赤や黄色を際立たせます。参加者からの歓声の声が上がります。まさに天からのプレゼントです。

大山神社1
大川山頂上の大川神社
大川神社の鳥居の前で、大川神社のお話しをします。まず、現在の大川神社が、どのように語られているのかを説明版で確認します。

大山神社2 2025 11月11日
大川神社の由来
 この説明版には大川神社の由来を次のように記します。
大川神社には木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)と大山津見命(おおやまみのみこと)が祀られています。『古事記』や『日本書記』によると、木花之佐久夜毘売命は、花が咲いたに美しい神とあり、邇邇芸命(にぎのみこと)に嫁ぎました。説話では、火が燃えさかる産屋の中で火照命(海彦)、火須勢理命、火遠理命(山彦)の三人の男の子をつぎつぎに生んだそうです。
 このことから、後世、安産の神様として信仰されてきました。また、火を噴く山の神霊を鎮めるため、かつて活火山であった富士山や、浅間山にも祀られ信仰されています。
 大山津見命は木花之佐久夜毘売命の父君といわれ、山の神様として、また農耕の神様として信仰されてきました。社伝によると聖武天皇の頃、天平四だいかんばつ年(七三二)に大旱魃があり、時の国司が大川神社に恵みの雨を祈ると、一天にわかにかき曇り大雨が降ったそうです。それ以来、祈雨の神様として歴代国主の信仰厚く、讃岐、阿波はもとより四国中からも尊崇されてきたということです。
 そして、大川神社では旧暦六月十四日、大川念仏踊りが行われています。
ここには古事記や日本書紀で出てくる神々と、その神話だけが書かれています。これでは、中世や近世の大川山については何も知ることが出来ません。古代の大川山は、霊山として人々の信仰を集めていたことは、1時間目にお話ししました。その信仰を担ったのは密教系の修験者で、霊山大川山の遙拝所として登場したのが中寺でした。つまり、明治以前には大川山は修験者(山伏)たちの管理下に置かれていたのです。それでは、江戸時代には大川山は、どのように紹介されていたのでしょうか。

讃岐国地図 大川山権現
大川山権現 讃岐国図(髙松藩が幕府に提出した絵図)
讃岐国図には、独立峰であることを強調する姿で「大川山権現」と表記されています。「権現」は、修験者たちによって開山され、そこに彼らの信仰する神や仏が祀られた霊山であったことを表します。ここからは、大川山が修験者の山として認識されていたことが分かります。ちなみに、西側の「篠田尾」は1時間目にお話しした「笹ケ田尾(タオ=鞍部)」のことです。

江戸時代後半に書かれた増補三代物語には次のように記されています。

①大山大権現社は、大川山の山頂に鎮座する。何神を祀るか分からないが、山神や龍族を祀るのであろう。昔は阿讃土予の四国の人々の崇敬を集めていたという。六月朔の祭礼や、②大干ばつの際には人々は鐘や鼓を鳴らし、降雨を祈願すると、必ず雨が降った。 ③祠の前に小池があり、雨乞い祈願し雨が降る際には、小蛇が現れて水が吹き出す。するとにわかに雲が湧き、大雨となる。
④かつては
天台宗寺奉守がいたが今は廃絶し、今は社家が祭礼を主催する。⑤大川は大山の音転で、元々は伊予の大山積神である。

大川神社に奉納された雨乞い用の鉦
尾池玄蕃が寄進した鉦鼓

 寛永年間に、⑥生駒家家臣の尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したが、年月が経ち多くが破損した。そこで⑦承応二年に(高松藩主)先君英公がこれを修繕した。その後、山火事で延焼したのを、寛文十二年に英公更が再建した。⑧元禄十二年に節公が阿讃国境の検分の際に修理した。
⑨宝永六年には、また焼け落ちたが、恵公の寄進された穀類で興復することができた。近頃、⑩雨乞いの時の曲を、一名大川曲ともいう。

ここからは次のような情報が読み取れます
①社名は「大山大権現社」で、修験者の霊山である大権現を名のっていたこと
②山神や竜神を祀る神社で、雨乞いの霊山として信仰されていたこと
③社の前に小池があり、子蛇が現れると雨が降ると「善女龍王」伝説を伝えること
④かつては天台宗の別当寺が神社を管理していたこと(中寺廃寺の伝承)
⑤大川は、もともとは大山で、伊予の大山祇神の山であること
⑥生駒時代に尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したこと
⑦髙松藩の歴代藩主によって修理・再建が行われてきたこと

これくらいの予備知識をもって、山伏たちの痕跡を探しにいくことにします。
大山神社神域
大川神社の宗教施設
まずは、拝殿の裏側の①本殿を直接に参拝させていただきます。

大山神社 本殿 2025年
大川神社の本殿
本殿は近年に改修され、覆屋ができて直接に見ることは出来なくなりました。以前の写真がこれです。

大川神社 本殿東側面

この本殿が先ほど見たように髙松藩の歴代藩主によって改修が行われたものになるようです。それでは、この本殿は、いつころ建てられたものなのでしょうか?。本殿背後に「文政十一成子年」(1828)と刻まれた燈籠があります。文化文政の「幕末バブル期」の経済的な発展期の中で、善通寺の五重塔再興や金毘羅大権現の金堂(旭社)の建立と、同時期に建立されたものと研究者は考えています。

それでは、この本殿にはどんな神様が祀られているのでしょうか。

大川神社の神々

先ほど説明版で見たように、現在祀られているのは上表下側の神々です。しかし、明治以前には大川山権現とされていました。権現と名が付く山々では、石鎚山などのように蔵王権現と役行者が祀られていました。
権現とある山は、修験者によって開かれ霊山で修験者の修行の山です。大山大権現の別当寺・新宮寺の役割を果たしたのが中寺廃寺でした。中世になって中寺廃寺が退転した後は、修験者たちは炭所の金剛院などに坊集落をひらき定住します。そして、行場としての大川山(権現)を守っていきます。そうだとすれば石鎚山と同じように、もともとここに祀られていたのは、修験者が教祖としていた役業者や蔵王権現がもっとも相応しいことになります。 

石鎚 蔵王権現
石鎚山山頂に運び上げられる蔵王権現

高越山 役行者
阿波 高越山の役行者

修験道の成立と蔵王権現の登場

 明治維新の神仏分離で金毘羅大権現のように大川山からも権現たちは追放されました。これに換わって迎え入れられたのが紀記に登場する神々です。大川神社では、修験者が信仰した権現たちが追放された後には、上記の2つの神々が迎え入れられ現在に至っていることを押さえておきます。
 次に見ておきたいのが本殿の後側の石垣と玉垣で高く築かれた神域です。

大川神社3
            緑の屋根が本殿の覆屋 その手前のふたつの燈籠が並ぶ所
高い石垣を組んだ方形の区画があります。正面に立ってみます。
大川神社 松平家御廟
髙松松平藩の霊廟
階段がないので上れません。登れない聖域なのです。先ほど見たように本殿は高松藩の支援で改修が行われます。髙松藩との結びつきを目に見える形で示すために社殿横に霊廟が作られたことが考えられます。藩主の保護を得ているというモニュメントにもなり、大川山権現のランクを高める物になったでしょう。
 次に見ておきたいのは、神域の西北隅にある小さな神社です。

大川神社 秋葉神社2
           大山神社の神域の玉垣(明治28年 日清戦争の戦勝記念?)
玉垣の北西隅に鳥居があります。

大山神社 秋葉神社3
鳥居には秋葉神社とあります。
秋葉大権現は、火防(ひよけ)・火伏せ(火伏せ)の神様として信仰される神仏習合の神です。もともと秋葉山にいた修験者「三尺坊」に由来します。神通力を得た三尺坊が天狗となり、火生三昧(かしようざんまい)を修して火災を鎮めたという伝説から、火の神として広まりました。特に静岡県浜松市の秋葉神社が総本宮として有名です。火災消除の御利益があるとされ、江戸時代には「秋葉講」が全国的に組織されました。
 秋葉大権現の三代誓願は次の通りでした。
第一我を信ずれば、失火と延焼と一切の火難を逃す。
第二我を信ずれば、病苦と災難と一切の苦患を救う。
第三我を信ずれば、生業と心願と一切の満足を与う。
真言オン ヒラヒラ ケン ヒラケンノウ ソワカ
アンティーク 秋葉山 秋葉寺 秋葉三尺坊大権現 秋葉権現 天狗 白狐 紙
秋葉大権現
 その姿は飯縄権現や愛宕権現と同じように白狐に乗り、剣と羂索を持った烏天狗姿で描かれました。飛行自在の神通力を持ち、観音菩薩の化身(本地仏)ともされます。ここからは天狗信仰の修験者に担われて秋葉大権現が大川山に勧進されたことがうかがえます。これは金毘羅大権現と金光院の天狗信仰と同じです。 しかし、この秋葉神社が鎮座する位置は微妙です。

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大川神社神域の外に鎮座する秋葉神社
横から見ると、鳥居は神域の玉垣の内側ですが、社殿は石垣の外側に鎮座しています。これをどう考えればいいのでしょうか? 大山大権現の火伏せ・火除けの守護神として招来したのなら内側にあるのが当然です。しかし、どうみても玉垣の外にあります。

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              大川神社の玉垣の外に鎮座する秋葉神社
 もともとは神域の中にあったのが明治維新に「秋葉大権現」なので「秋葉神社」と改名し、その後に神域の外に追いやられたことが考えられます。その時期は、玉垣が整備された日清戦争後のことでしょう。しかし、もともとの信者たちの抵抗で、鳥居と入口は神域内に残されたのではないかと私は推察しています。そうだとすれば大川山周辺には、秋葉大権現を信仰する人達が数多くいて、講組織を作っていたことがうかがえます。その背景として考えられるのが、ソラ(山間部)の焼畑です。焼畑では、火を使います。火をコントロールし、最後にはきちんと鎮火させることが大切です。その火伏せのために秋葉信仰が修験者たちによってもたらされたことが考えられます。ここでは火を扱う焼畑の神様として、ソラの集落の人々の信仰を集めていたとしておきます。これも山伏たちの残した痕跡です。

神輿蔵の裏側に、ふたつの石造物が残されています。

 大川神社 魔除寺蔵と不動明王
            大山神社神域の石造物 魔除地蔵と不動明王(?)
 左が魔除け寺蔵です。地蔵信仰は、足利尊氏が帰依したために室町期に盛んになったとされます。これを広めたのも廻国の修験者や高野の聖であったとされます。右は不動明王のようです。

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                大山神社の不動明王
不動明王は修験者が守護神として大切にした明王です。小さな不動明王像を持ち歩き、行場に入るときには安置して外敵や己の弱い心を打ち砕いたとされます。大山神社に残る秋葉神社や魔除地蔵・不動明王などは、ここで活動していた修験者の痕跡と私は考えています。
 
大川神社 龍王社
大川神社の龍王堂
本殿の東側に、東面して建っているのが龍王堂です。
どうしてここに龍王堂があるのでしょうか。それは龍王が雨を降らせる神様とされたからです。空海祈雨伝承では京都の神仙苑の池で、空海が小さな蛇(善女龍王)を呼び出し、雨を降らせるとされてきました。これが近世になって讃岐にも拡がるようになります。そうすると、雨乞いが行われる山には、修験者たちによって龍王神が祀られるようになります。こうして大川山も雨乞いの霊山として信仰を集めるようになります。もともとは山頂に小さな池があったというのも、そこが善女龍王の住処であったことを暗示しています。ここに龍王神が祀られているのは納得できます。それを主導したのも、芸能伝達者としての修験者たちであったと研究者は考えています。彼らが、近世後半になると風流踊りを雨乞踊りにアレンジしていきます。これは滝宮念仏踊りや、佐文綾子踊りと同じ流れです。その背後には、修験者の姿が見え隠れします。
以上見てきた大川神社の境内にある宗教施設を登場順にあげると、次のようになります。
①本殿    蔵王権現?  修験者の信仰本尊
②龍王社   善女龍王   雨乞い伝説
③松平御廟  高松藩による関連堂舎の整備建立
④松葉神社  火伏せ神としての守護神
明治維新後の神仏分離によって①は廃仏毀釈で排除されます。そして②③④と民間信仰としての安産信仰が残ったのではないでしょうか。これらの施設は、今は石垣上の石製の瑞垣で囲まれていて、聖域を構成しています。それではこの聖域が作られてのは、いつなのでしょうか。玉垣内に置かれた燈籠の銘から、明治26年から30年頃の日清戦争前後に神域は整備されたことが分かります。現在のレイアウトは、約130年前の明治になってからのものであるようです。その整備時に、小蛇の棲むとされた小池も埋め立てられたのかも知れません。
 
中寺廃寺 Bゾーン2025
中寺廃寺の遙拝殿跡から望む霊山・大川山
最後に中寺が衰退した後の大川山権現が歩んだ道程について考えておきます。
古代国家によって建立された山林寺院は、中世になって国衙の保護を失うと急速に衰退します。しかし、人々の大川山信仰が失われたわけではありません。中寺に替わる勢力が、大川山を行場として活動するようにます。それが備中児島の五流修験だと私の師匠は考えています。それを仮説として最後にお話ししておきます。
  五流修験は、紀伊の熊野神社の修験者の亡命集団と称します。それが、熊野神社の社領のあった備中児島にやってきて分社したのが五流です。そのため「新熊野」とも呼ばれます。修験者の開祖とさえる役行者の5人の弟子が開いた寺院が中心になっているので五流です。この修験者集団にとって泣き所は、近くに行場がないことでした。山林寺院は行場の近くに開かれるのが普通ですが、社領の児島に分社されたので高い山(霊山)がないのです。そこで彼らが開山したのが伯耆大山や石鎚・大三島・宮島などです。後には小豆島も行場化します。さらに熊野水軍の船に乗り込み、瀬戸内海や九州にも布教活動を展開します。そのような中で、彼らは対岸の丸亀平野にもかすみ(テリトリー)を形成するようになります。その教線ラインは土器川・金倉川沿いにまんのう町にものびてきます。そして古代末には衰退した中寺に代わって五流が大川山を影響下にいれたようです。その痕跡を地名で見たのが次の表です。

霊山大川山と五流修験

大川山の北側の麓には「吉野」、南側に勝浦の集落があります。吉野修験のコリトリ場として天川(てんかわ)が有名です。これは造田に天川神社としてあります。ここで身を清めて大川山に参拝したのでしょう。これらは熊野や吉野にある地名です。また、山伏たちが開いた坊集落が炭所の金剛院です。中寺が中世に衰退した後は、五流修験のネットワークの中に大山大権現は組み込まれていたと私は考えています。
本日の授業

 以上で、本日の授業を終わります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
大川神社の紅葉 2025 11 11
大川神社の玉垣と紅葉(2025年11月11日)
参考文献
 大山神社本殿・随身門調査報告書 京都大学工学部建築史学講座
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 11月16日(日)の勤労者山岳連盟のハイキングに招かれて、中寺と大川山でお話しすることになりました。本隊は江畑から登りますが、体力に自信のない私は笹の田尾(峠)の駐車場まで車で登ります。そこから車道を歩いて下って、中寺展望台で合流するという流れです。その模様をアップしておきます。
中寺廃寺 アクセス

中寺・大川山マップ
中寺・大川寺ハイキングマップ(まんのう町教育委員会) 各登山口に置いてあります。

 登山口の中通の野口から車で40程度で大川山への分岐を越えて、阿波大平の県境稜線尾根に出ました。ここではもう落ち葉が車道を埋めています。

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大川山西側の大平の県境尾根
このあたりのことについては、江戸時代末に高松藩主が鷹狩りと称して、大川山周辺の阿波との国境視察をおこなった時の模様が造田村庄屋の西村文書に記されています。そのルートは、次の通りです。

西村家文書 殿様の鷹狩り案内図 大川から笹が田尾

西村文書 髙松藩鷹狩りコース添付図
A『西村家文書』「殿様御鷹野被仰出候二付峯筋御往来道法方角絵図指出之控絵図」
この絵図からは次のようなことが分かります。
①大山社の西側の尾根筋には鳥居があったこと。
②この鳥居ルートが江畑・塩入や阿波の大平からの参道になっていたこと
③絵図の右端(西側)の尾根の分岐が「笹ケ多尾(タオ=峠)」と呼ばれていたこと
④「笹が多尾」から北西に伸びる尾根が中寺へのルートであったこと。
⑤大川山と笹が多尾を結ぶ県境尾根の北側は「新御林」とあって新たに藩の管理する山林に指定されたこと
この辺りの山林は髙松藩の藩有林で、それが明治維新に国有化され、一部は個人や各村に払い下げられたようです。
 大平への車道を一旦下って、分岐を笹ケ多尾へと登っていきます。高原キャベツ畑の奥の稜線上に中寺駐車場があります。

中寺廃寺 駐車場
笹ケ多尾の中寺駐車場

ここからの車道は一般車は通行できません。急勾配なコンクリート道を下って行きます。

西村家文書 柞野絵図2

中寺廃寺跡周辺の造田村杵野谷の絵図です。先ほどの絵図と同じように、殿様の国境視察時に時に、藩の求めに応じて造田村の庄屋西村市大夫が作成し提出したものです
①左下隅に天川大明神(天川神社)、そこから中央に伸びていく柞野川
②左上隅に「大川御社(神社)」、そこから真っ直ぐ西に「笹ケ田(多)尾」
③「笹ケ田尾」から江畑へ伸びる郡境尾根上に中寺・犬頭・三ツ頭
同時に次のような報告書も提出しています。
 一筆啓上仕り候、鷹狩りコース中に、名所古跡があるかについて回答いたします。この度の塩人村からの道筋上には、名所古跡はありません。ただ、笹ケ多尾周辺に、それらしきものがございます。これは那珂郡の領域になります。ただ、鵜足郡造田村には、以下のものがあります。
一 犬の墓
一 中寺堂所  但し寺号なども分かりません
この外には、何もありません。これとても大したものではありませんが、通行筋には当たります。御書の作成に当たり、記載するかどうかは賢慮の上、取り計らい下さい。
ここには、造田村の中には無いが、笹ヶ多尾の周辺に「犬の墓」と「中寺堂所」という寺跡があることが報告されています。幕末の庄屋西村市大夫の認識は「これとても指し為る事二て御座無く候」とあります。中寺跡の存在や位置は知っていたが、その内容や規模については知らなかったことがうかがえます。これに対して、藩はさらに詳しく知らせよと求めてきます。それに対しての造田村庄屋・西村市太郎の返答書です。
飛脚の速達便を拝見しました。造田村の中寺は、長曽我部の兵火で焼失した寺跡だというが、何免(村)にあるのかという問い合わせでした。これに対して、以下の通りお答えします。
一 中寺跡
 大川社坊の阿波境の笹ケ多尾の少し下に位置しますが、東西南北ともにいくつもの山が続く中なので、何免と答えることが困難です。強いて云えば、樫地免より手近の場所なので、樫地免としてもいいのではと思います。右の通リニ御座候間、宜しく御申し出で仕るべく候、以上
九月七日            西付市大夫
十河亀五郎様
以上の西村市大夫の書状からは、彼が中寺廃寺のことを次のように認識していたことが分かります。
①江戸時代末には、「寺の名前がわからない」「昔から石があったとされる」程度の認識であったこと
②名所・古跡として挙げているので、寺があったことは民衆の間に言い伝えられていたこと
③「笹ヶ多尾 → 中寺 → 江畑」の尾根ルートは、かつては那珂郡と阿野郡の郡境であったこと。
④このルートは、江戸時代末の江畑からの大川山への参道となっていて西側には鳥居もあったこと

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笹ケ田尾から急な車道を30分ほど下ると見えてくるのが休憩所です。
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中寺休憩所
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この休憩所は避難所の役割もあるようですが、バイオトイレがあるのがありがたいところです。
この休憩所のそばを通って林の中を抜けて行きます。

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中寺展望台と仏ゾーンへの分岐点
北側が明るくなると展望台はすぐそこです。休憩所からは5分弱です。
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中寺展望台
ここからの展望は「丸亀平野を見下ろす随一の展望」とありますが、そのとおりだと思います。
中寺廃寺 髙松方面展望
         髙松方面 屋島・その後ろの小豆島・峰山・その間にサンポート 

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                     髙松方面 
伊方原発など西からと、阿波の水力発電所からの高圧送電線が変電所に集まる。その向こうが屋島と小豆島。
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坂出方面 五色台・城山・飯野山 手前の尾根は長尾の城山から大高見峰

中寺廃寺展望台1
     丸亀・善通寺方面 直下に満濃池・その向こうが象頭山・その左が荘内半島
空海の生まれた善通寺と五岳も見えます。善通寺と満濃池と大川山が一直線に結べます。満濃池は、空海が改修したといわれ、工事中は護摩壇を築いて祈祷を続けたとされます。その間も空海は、この山を見上げ睨み続けていたのかもしれません。
 瀬戸に浮かぶ島々としては、小豆島・瀬戸大橋・本島・広島・高見島・荘内半島・紫雲出山・伊吹島がそれがパノラマのように一望できます。塩飽の島々や備讃瀬戸を行き交う船も見えます。瀬戸内海は古代から富と人の通る大動脈。ここを押さえることは、戦略的意味があります。中寺には髙松藩の殿様も鷹狩りと称して阿波藩との国境視察のために訪れたことはさきほど見た通りです。初めて江戸から帰国した若殿に対して、育成係はここでどんなことをレクチャーしたでしょうか。
こんな山を国見山とよびます。
国見山とは、領地が一望出来て、領内の異変などをいち早くとらえて通報することのできる場所でもあります。その意味では大川山は戦略的な意味を持つ山でした。支配者としては、監視人を置いておきたい場所です。 

中寺展望台から丸亀平野
中寺展望台からの満濃池と、その左手の象頭山
快晴の中、展望台でボケーとしながら考えていると、江畑からの本隊が登ってきました。一休みした後で「授業」開始です。
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中寺展望台での1時間目授業
本日の時間割は次の通りです。
本日の授業


与えられたテーマは 中寺廃寺と大川山についてですが、この2つに空海を搦ませてお話ししたいとおもいます。時間割は上図の通りです。昼食後の5限目に大川山にいって、大川山と中寺が神仏混淆下で、一体であった痕跡を探そうと思います。こんな時間割で進めていきたいと思います。
以下は、また次回に
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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   最後に中寺が退転した後の大川山がどうなっていくかを見ておきます。

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大川山は丸亀平野だけでなく瀬戸内海の島々からも眺められ、霊山として信仰されてきました。そして、神仏混淆下にあっては中寺の社僧たちが管理運営を担っていました。中寺には、遙拝所が設けられ、大川山との間で厳しい行道が行われていたのです。その間には、今は忘れ去られたいくつもの行場が会ったことが考えられます。こうして霊山大川山の神宮寺としての中寺の性格が定着していったと私は考えています。
 しかし、中寺は国衙や国分寺の保護によって創建され、管理運営されてきた古代の山林寺院です。平安末になり、古代国家が解体すると国衙機能も弱体化し、中寺に対する支援保護も失われたのでしょう。中寺は平安末には姿を消して、活動を停止していきます。しかし、人々の大川山信仰が失われたわけではありません。大川山には中寺に代わる宗教集団・施設が周辺部に姿を見せるようになります。それが備中児島の五流修験だと私の師匠は考えています。それを仮説としてお話ししておきます。

大川山と五流修験1
児島五州修験(新熊野修験者集団)
上の仮説を2つ出しておきます。これが現在の五流修験の拠点です。丸亀平野には五流修験者の痕跡が色濃く残っているようです。五流修験については以前にお話ししましたので、ここでは簡単に押さえておきます。
五流修験は、自らを紀伊の熊野神社の修験者の亡命集団と称します。それが、熊野神社の社領のあった備中児島にやってきて、分社したのが五流です。修験者の開祖とさえる役行者の5人の弟子が開いた寺院が中心になっているので五流です。この修験者集団にとっての課題は、近くに行場がないことでした。山林寺院は行場の近くに開かれるのが普通ですが、社領に分社されたので霊山がないのです。そこで彼らが開山したのが伯耆大山や石鎚です。後には小豆島も行場化します。さらに熊野水軍のお先棒を担いで、瀬戸内海や九州にも活発な布教活動を展開します。そのような中で、彼らは対岸の讃岐にもかすみ(テリトリー)を形成するようになります。その教線ラインは、大川山にものびてきます。そして古代末には衰退した中寺に代わって、五流が大川山を影響下にいれたようです。その痕跡が残るのが金剛院です。

「増補三代物語」にも、大川大権現(山)のことが次のように記されています。
大山大権現社 在高山上、不知奉何神、蓋山神、若龍族也、昔阿讃土予四州人皆崇敬焉、歳六月朔祀之、大早民会鳴鐘鼓祈雨、必有霊応、祠前有小池、当祈雨之時、小蛇出渉水、須央雲起,市然大雨、旧在天台宗寺奉守、今廃、今社家主祭、或日、大川当作大山、音転訛也、所奉大山積神也(在予州、載延喜式所也)、
 寛永中生駒氏臣尾池玄蕃、蔵鉦鼓三十余枚歴年久、『申祠類敗、承応二年先君英公修之、其後焚山火、寛文十二年壬子英公更経営、元禄十二年節公巡封境見其傾類而修之、宝永六年辛丑又焚実、恵公給穀若千以興復、近年有祈雨曲、一名大川曲(州之医生片岡使有者作之、散楽者流之歌也、)、


意訳変換しておくと
大山大権現社は、大川山の山頂に鎮座する。何神を祀るか分からないが、山神や龍族を祀るのであろう。昔は阿讃土予の四国の人々の崇敬を集めていたという。六月朔の祭礼や、大干ばつの際には人々は鐘や鼓を鳴らし、降雨を祈願すると、必ず雨が降った。
 祠の前に小池があり、雨乞い祈願し雨が降る際には、小蛇が現れて水が吹き出す。するとにわかに雲が湧き、大雨となる。かつては天台宗寺奉守がいたが今は廃絶し、今は社家が祭礼を主催する。大川は大山の音転で、元々は伊予の大山積神である。
 寛永年間に、生駒家家臣の尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したが、年月が経ち多くが破損した。そこで承応二年に先君英公がこれを修繕した。その後、山火事で延焼したのを、寛文十二年に英公更が再建した。元禄十二年に節公が阿讃国境の検分の際に修理した。宝永六年には、また焼け落ちたが、恵公の寄進された穀類で興復することができた。近頃、雨乞いの時の曲を、一名大川曲ともいう。
ここから得られる情報を列挙しておきます。
①社名を「大山大権現社」と「権現」しており、修験者の霊山となっていたこと
②山神や竜神を祀る神社で、雨乞いの霊山として信仰されていたこと
③社の前に小池があり子蛇が現れると雨が降ると「善女龍王」伝説を伝えること
④かつては天台宗の別当寺が神社を管理していたこと → 中寺のこと?
⑤大川は、もともとは大山で、伊予の大山祇神の山であること
⑥生駒時代に尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したこと
⑦歴代藩主によって修理・再建が行われてきたこと
①④⑤などからは、里人から信仰を集めた霊山が、山林修行の僧侶(修験者)たちによって行場となり、そこに雨乞い伝説が「接木」されていく様子が見えてきます

中世の大川山の修験活動の中心拠点が金剛院集落にある金剛寺だったとという説を見ておきましょう。

坊集落金剛院1
金剛寺(まんのう町金剛院集落)
裏山が金華山です。ここからは中世の経塚が数多く出てきました。この集落には「空海はここに大伽藍をつくろうとした」という伝承が伝えられています。近寄ってみてみましょう。

金剛院石塔
金剛寺十三重塔(まんのう町金光院)
参道の十三重の石塔は、鎌倉時代中期に天霧石で、弥谷寺の石工達によって作られたものです。
よく似たものが白峰寺の十三重塔石塔(西塔)であることは以前にお話ししました。白峯寺や弥谷寺は、中世においては讃岐最大の山林寺院で「別院」などもあり、修験者(廻国山林修行者)の拠点でもありました。それらの寺(行場)と金光院は結ばれていたようです。

また先ほど見た裏山の金華山の頂上からは、こんな石で覆われた穴がいくつも発掘されました。
金剛院経塚2018報告書
金剛院の経塚

金剛院金華山
これが経塚の構造です。

経塚 経筒

穴を掘って石組みして、そこに経典を陶器や金銅制の筒に入れて奉納します。その際に、周囲には鏡や刀などの副葬品が埋葬されていることもあります。左が金光院の経塚からでてきた経筒です。このような経塚が金光院には何十と見つかっています。これは当時の修験者が金華山が霊場と認識していたことを示します。同時に、多くの山林修行者がここにやってきていたことが分かります。彼らは、写経して経筒を奉納するだけではありません。奉納するまでに長い修行を行って、それが成就したからこれを奉納したのです。つまり、この金剛院の周辺の山々は、行場でもあったのです。当然、大川山も行道コースの一部だったことが考えられます。

坊集落金光院2
坊集落としての金剛院集落
金剛院集落には、いまも何軒かの農家があります。その多くが藤尾坊・華厳坊・中ノ坊・別当坊と云うように坊名をもっています。これは彼らの祖先が修験者であったことを示しています。つまり、この集落にやって来た修験者たちがこの地に定着し、周辺の山野を開墾・開発してできた集落だと研究者は判断します。
「金剛院部落の仏縁地名が多いこと + 金華山が経塚群 = 金剛寺を中心とした坊集落」

 北の阿弥陀越や法師越を通って部落に入った修験者の人々がそれぞれの所縁坊に杖をとどめ、金剛寺や妙見社(現在の金山神社)に籠って修行を行う。そして霊山大川寺への行道を繰り返す。さらに看経や写経に努め、埋経を終わって後から訪れる修験者にことづけを残し次の霊域を目指して旅立っていく姿が見えてきます。
 さらに視野を拡げて「霊山大川山」をとりまく状況を考えてみます。

五流修験による大川山開山

児島五流修験は、周辺に行場がなかったことは先ほど触れました。そのため早くから行場を求めて各地に修験者たちが「探索活動」を行います。そして、伯耆大山や伊予石鎚などを行場化していきます。同時に、讃岐方面にも塩飽諸島の本島を足がかりに、多度津の道隆寺・白方海岸寺などに拠点地を開きます。そして、金倉川沿いの金倉寺を経て、丸亀平野の霊山大川山を大山大権現として「開山」します。そのため大山神社の由縁には、蔵王権現や役行者が登場します。また、三代記には「大川は、伊予大三島の大山祇神社の転化」とも書かれます。大山祇神社も中世には五流修験の影響力が大きかったことは以前にお話ししました。
以上を整理しておきます。

五流修験による大川山開山説

①古代の山林寺院である中寺が鎌倉時代初期には退転した
②しかし、人々の霊山大川山にたいする信仰心はなくなることはなかった
③中世になると、児島五流修験が大川山を「権現」化し、行場化した。
④熊野行者でもある五流修験は、大川権現を熊野三山に例えた
⑤そして、その北の入口を吉野、南の入口を勝浦と呼んだ
⑥コリトリ場としては、造田に天川(てんかわ)が現れ、ここで禊ぎをおこなって大川山行道に入った。
⑦このラインは、阿波街道の要衝であり勝浦や真鈴峠・二双越えなどには、修験者が定住するようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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香川における松平家への歴史的な仕え方 - Genspark

第8代髙松藩主・頼儀の後継者に指名された水戸藩の頼恕は、文政元年(1818)年には、讃岐に入国し、参勤交代を務めていましす。しかし、正式に9代藩主となったのは文政4年5月からです。彼のことは、ウキには次のように記されています。

在職は22年。家老木村通明(亘、黙老)を通じて、藩財政の節制や改革を行った。東讃出身の久米通賢を登用し、悪化していた藩の財政を立て直すため坂出の東大浜・西大浜で国内最大級の塩田を開発した。また砂糖作りの奨励も行い、取引を円滑化するため砂糖為替法を定めた。学問面では、水戸学の影響を受けて、『一代要記』の後を継ぐものとして『歴朝要紀』を編纂させ、朝廷に献じている。

 治政開始16年後の天保5(1834)年2月9日、鵜足郡の宇足津村で百姓騒動が起こり、続いて2月15日には金昆羅領民が、那珂郡の四条村に乱入する騒動が起こります。この騒動は数日で鎮定しますが、このことを憂えた頼恕は、不穏な情勢があると伝えられていた髙松藩西郡の巡視を行う事にします。当時、高松藩は財政が窮乏し、諸事節約中でした。そこで、巡視経費を減額させようとした頼恕は、「鷹狩り」と同じ規模・スタイルで巡視を行うことにして、「お鷹野」と称したようです。この「お鷹野=阿讃国境巡視」について今回は見ていくことにします。テキストは「大林英雄 頼恕の巡視 琴南町誌221P」です。

19世紀なって造田村の庄屋を務めるようになったのが西村家です。
造田村庄屋西村家系図 琴南町誌240P
造田村庄屋西村家の系図


西村家は旧姓は森で、戦国末期に来村して帰農したようです。天正16年に、西村吉右衛門が村切りを願い出た文書(「そうだの米もり帳」)の中に、西村家系図に出てくる安左衛門が出てきます。幕末になって西村忠右衛門の代に、檜山植林経営の功労者として名字帯刀を許され、蔵組頭を務めるようになります。経営的には造田紙の元請として国産品の増産に功績を残し、御貸免経営にも成功します。彼が西村家勃興の基礎を築いた人物になるようです。忠右衛門の跡を継いだのが西村市太夫になります。藩の永引地の興し返し地調査などに従事し、傑出した庄屋として知られた人物だったようです。そのため造田村庄屋だけでなく勝浦村庄屋後見役、炭所東村庄屋後見役、中通村兼帯庄屋を務め大庄屋並の待遇を与えられるようになります。また、市太夫は、青年時代に炭所西村の桃陽宗匠に師事し、「桃郷」と号して俳句を学び、俳句集や神社の俳諾献額などにその名が残っています。市太夫の文才は庄屋文書の上にもあらわれ、目次欄を設けて整理された庄屋日帳や、郡の引纏方として担当した、天保9(1838)年の幕府巡見使の関係記録などの記録にも、その学識の豊かさがうかがえます。

造田村の庄屋西村市太夫が、郷会所の元〆から飛脚と同道して出頭するよう命ぜられるのが天保6(1835)年正月14日のことでした。
「殿様の大川宮(神社)御参詣、御鷹野を遊され、御境見(国境視察)をなさること」についての打合せでした。高松へ出頭して、詳細な命令を受けた市大夫は、翌15日、鵜足郡上法村の大庄屋十河亀太郎宅で開かれた郡寄合に出席し、大庄屋などと協議を行って帰宅します。この「鷹狩り巡視」の期日は2月末と知らされます。これから約二か月間、市太夫は準備のための多忙な日々を送ることになります。準備のスタートは予定順路の決定と距離確認から始められます。国境巡視について、絵図を添えて造田村分のコースは次の通りと報告しています。

「那珂郡境笹ヶ多尾から、犬の塚を通り、炭所西境三つ頭まで、長さ千弐百問」

西村家文書 柞野絵図2
西村市太夫が提出した造田村柞野谷周辺 (中寺が記入されている)

これが造田村の領域エリア分でした。
この年は雪の多い年で、大川寺周辺は三尺(約1m)超す雪に覆われていて、事前調査に手間取ります。阿讃の国境の道を、馬を牽き、数々の道具を持った多人数が通行できるかどうか、現地調査が繰り返されます。各村から集められた人足が、山方役所の手代の指図を受けて、大川神社から笹ケ多尾まで、御林の木を伐り枝を払い、長さ約700間の新道を開きます。笹ヶ多尾から三つ頭までの古道約1100間の修繕も行われています。
 一方で、塩入村からの通路についても調査が進められます。最初は、人足の引継場所になるのは、塩入村(那珂郡)と造田村(阿野郡)の郡境尾根にある「中寺」が予定されていました。しかし、尾根上は土地が狭く、殿様の近くで継ぎ立てを行って混雑することを恐れた市太夫は、笹ケ多尾に適地のあるのを見つけ、大庄屋を通じて塩入村に了解を求め了承を次のように得ています。

西村市太夫の大庄屋への返答(意訳)
一 ルートは塩入村の脇野馬場を出発点として、那珂郡の「社人の尾」を通過し、鵜足郡の中寺堂所で稜線に取り付きます。そこからは鵜足郡造田村を通行して、大川山に到着するという手はずになります。この間の距離は、50丁(5,5㎞)ほどです。なお、郡境の中寺附近は足場が悪く、継ぎ更えは難しいと思われます。
  昔からこのルートを年寄・郡奉行や山奉公が通る際には、塩人村の御林守伊平が案内しました。その際は笹ヶ多尾で継ぎ替えし、そこから大川までは造田村がお送りしています。昨日申し出た樹木が生い茂った古道でもあります。新道に出れば乗馬にて通行が可能であり、少々荷物を積んでも通行できます。以上をお伝えしますが、詳細は現地調査の上、お達しの通り絵図を添えて報告いたします。まずは簡略にお伝えします。
二月三日              西村市大夫
宮井清上様
十河亀五郎様

 大庄屋からは殿様にお話申し上げる資料として、巡回コース上の名所・古跡を調査して、地図を添えて差し出すように命ぜられています。市大夫は、犬の墓と中寺堂所について次のように報告しています。
一筆啓上仕り候、然らハ御通行筋二これ有り候犬の墓并寺地えの道法出来等も、申し出で候様二達々仰せ開かされの趣承知仕り候、左二申し上げ候
一末寺ノ岡犬の基
御通行筋より道法凡そ五丁位、尤も御立ち帰リニ相成り候得ハ、拾丁位二相成り申すべく候、且つ籠末の稟印往古よりこれ有り候所、子孫の者とこれ有り、天明年中内田免人道筋へ別紙碑銘の通リニて、引墓二仕り御座候、併しながら格別子細も伝承仕らざる義二御座候
一 中寺堂所
御通行筋より凡そ弐丁位、尤も立ち帰リニ相成り候時ハ四丁位、往古は石の□等相尋ね居り申し候、併しながら寺号等も相知れ申さず候義二御座候
右の通リニ御座候、以上
                   庄屋 西村市大夫
宮井清七様
十河亀五郎様
意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候、鷹狩りコース上にある犬の墓と寺地(中寺)への距離や由緒について以下のように報告します。
一 末寺ノ岡犬の基
 鷹狩りコースから約五丁(550m)ほどで、往復1,1㎞になります。ここには古くから墓があり、子孫の者もいます。天明年中に内田免の道筋に別紙のような碑銘です。詳しいも伝承はないようです。
一 中寺堂所
コース上から約2丁ほどで、往復四丁になります。昔から「石の□等」と伝わりますが、寺号等は分かりません。右の通リニ御座候、以上
ここに出てくる中寺が中寺廃寺のあった所です。ということは、西村市太夫は中寺がどこにあったかも知っていたことになります。中寺廃寺Aゾーンの塔と仏堂までは、稜線分岐から約300mほどです。この記述と合致します。「石の□等」については、よく分かりません。
以下の文書のやりとりについては、前々回に見ましたので今回は省略します。
一方、里の村方でも、道普請が必要になります。
次の四つの端が掛け替えられます。
入尾川橋(長さ七間、道幅二間)、
西川井手橋(長さ二間半、道幅一間)
同所下谷橋(長さ六間、 道幅一間半)
佐次郎前橋(長さ三間半、道幅一間)
同時に、この四つの橋を結ぶ道もまた修繕されます。

御巡視の日が近づくにつれて、郷会所や山方役所の手代はもちろん、郡奉行・代官・郷普請奉行・寺社方の下見が続いて、庄屋や組頭は、その応接にも忙殺されます。
当日、笹ヶ多尾へ荷物などを運び上げる人足が、次のように村々へ割りあてられます。
人足数 263人
造田村 112人 (西村 69人 東村 46人)
長尾村  45人
炭所西村 38人
岡田上村 125人
岡田西村  25人
岡田東村   8人
人足には草軽と草履約300足が配布しています。

  頼恕の一行は、七か村で二班に分かれ、
本隊は木の崎から炭所西村、造田村、中通村を経て勝浦村へ
頼恕の班は、塩入村へ
そのため造田の天川が昼所とされます。一行約180人の昼所となったのは天川の大道筋で、菩左衛門、九郎右衛門、弥九次郎の三軒でした。
 行程の中で西村市太夫が最も気をつかったのは、笹ヶ多尾の御芦立所(休憩所)の設営でした。

西村家文書 殿様の鷹狩り案内図 大川から笹が田尾
大川山から笹ケ多尾の阿讃主稜線につけられた新道
塩入村の最後の休憩所である御林守の伊平の家から、笹ケ多尾までは中寺経由で雪中一里の行程です。
多葉粉盆、縁取り、筵、火鉢等の御道具立てはもちろん、湯茶わかし、仮雪隠の準備までしています。そして興炭10俵を運び上げて、釜三本を炭火でわかします。
 阿波からも、人足を出して道普請を手伝いたい、当日は村役人が百姓を引き連れて御挨拶申し上げたい旨の申し出がありました。しかし、代官の旨を受けた市太夫は、お鷹野であるからと、丁寧に書状で辞退しています。

頼恕の動きを見ていくことにします。
2月
26日 高松出駕、阿野郡北坂出町の宮崎次兵衛方で宿泊
27日 鵜足郡川原村宮井伝左衛門宅にて小休、岡田村木村甚三郎宅にて御昼所
    那珂郡吉野上付又蔵宅にて小休、七か村鈴木柳悦宅にて宿泊。

中寺廃寺 アクセス

こうして2月28日に、小隊編成で塩入からの「御境目見分」が行われています 
好天気に恵まれた頼恕は、一部の藩士を従えて柳悦宅を出発し塩入村に入ります。元庄屋小亀弥三郎宅にて小休、御林守の伊平宅にて足下を整えた後に、現在の鉄塔尾根沿いに残雪の残る東谷尾根をたどって「中寺」経由で笹ヶ多尾へ九ツ時分(正午)に到着します。笹ヶ多尾には、畳二枚が西村市太夫によって用意され、藩士が持参した毛所を広げられます。殿様は、弁当を食べ、遠鑑(とおかがみ:望遠鏡)で四方を遠望して時を過ごします。西村市太夫は「御機嫌よく御立にて、有り難き仕合にて御座候」と書き残しています。
 笹ヶ多尾から阿讃国境の峯伝いに進み、その途中で阿州の庄屋などの挨拶を受けます。これに対応しているのも西村市大夫です。

大川神社 1
大川宮(神社)に到着すると、神官の宮川美素登の案内で、入谷主水が代拝し、終わって頼恕も拝殿に上がって拝礼します。
大川神社 本殿東側面
大川神社本殿(改築以前)
「増補三代物語」には大川山のことが次のように記されています。
大山大権現社 在高山上、不知奉何神、蓋山神、若龍族也、昔阿讃土予四州人皆崇敬焉、歳六月朔祀之、大早民会鳴鐘鼓祈雨、必有霊応、祠前有小池、当祈雨之時、小蛇出渉水、須央雲起,市然大雨、旧在天台宗寺奉守、今廃、今社家主祭、或日、大川当作大山、音転訛也、所奉大山積神也(在予州、載延喜式所也)、
 寛永中生駒氏臣尾池玄蕃、蔵鉦鼓三十余枚歴年久、『申祠類敗、承応二年先君英公修之、其後焚山火、寛文十二年壬子英公更経営、元禄十二年節公巡封境見其傾類而修之、宝永六年辛丑又焚実、恵公給穀若千以興復、近年有祈雨曲、一名大川曲(州之医生片岡使有者作之、散楽者流之歌也
意訳変換しておくと
大山大権現社は、大川山の山頂に鎮座する。何神を祀るか分からないが、山神や龍族を祀るのであろう。昔は阿讃土予の四国の人々の崇敬を集めていたという。六月朔の祭礼や、大干ばつの際には人々は鐘や鼓を鳴らし、降雨を祈願すると、必ず雨が降った。 祠の前に小池があり、雨乞い祈願し雨が降る際には、小蛇が現れて水が吹き出す。するとにわかに雲が湧き、大雨となる。かつては天台宗寺奉守がいたが今は廃絶し、今は社家が祭礼を主催する。大川は大山の音転で、元々は伊予の大山積神である。
 寛永年間に、生駒家家臣の尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したが、年月が経ち多くが破損した。そこで承応二年に先君英公がこれを修繕した。その後、山火事で延焼したのを、寛文十二年に英公更が再建した。元禄十二年に節公が阿讃国境の検分の際に修理した。宝永六年には、また焼け落ちたが、恵公の寄進された穀類で興復することができた。近頃、雨乞いの時の曲を、一名大川曲ともいう。
参拝を終えた頼恕の一行は、大川宮から峯通りを進み、白ぇ峯(?)で軽い食事をとり、勝浦村本村の庄屋佐野佐平宅に向かいます。

2月28日の勝浦村庄屋佐野宅での宿泊については、記録が残っていないのでよく分かりません。ここでは、村役人などを含めると約200人の宿泊だったので、庄屋宅だけでなく、近くの長善寺や村役人宅なども宿舎とし使われたのでしょう。布団などの夜具は、造田や中通などから運び上げられたようです。「西村文書」に中に、次のような領収書と書付けが残っています。
領収書 「四布(よの)布団一枚五分、三布(みの)布団一枚三分」
2月25日付の書付け
「御人数増につき、 畳拾五枚、風呂一本を送った」
29日は勝浦の庄屋佐野家を出発した頼恕の一行は、川東村渕野の円勝寺を昼所としています。
勝浦村の佐野宅から円勝寺までは、難所であったので、中通村一疋、造田村四疋、炭所東村二疋、炭
所西村三疋、長尾村四疋、計十四疋の馬と馬方が加勢に出ています。

円勝寺 琴南淵野 殿様の昼食場
明治初年の円勝寺
円勝寺は、当時は浄土真宗興正寺派の寺院で、部屋割図を見ると、広い立派な客殿と庫裡があり、本堂も広く、設備がよく整っていたことが分かります。それでも藩主一行を迎えるには不十分だったようです。そのために境内に仮小屋を建て、近くの組頭庄左衛門宅など六軒を利用して、 一行の昼所に充てています。
 この準備を、取り仕切ったのが状継弥右衛門(稲毛家)で、彼もその記録を美濃紙44枚に及ぶ「殿様御鷹野合御小昼所円勝寺記録」として残しています(稲毛家文書)。そこには、一行のメンバーが次のように記されています。
一、御本亭(客殿)
御用達入谷主水。御用人古川市左衛門。同高崎清兵衛。御小姓斎藤尽左衛門外八名。御櫛番弐人。奥医師二人。奥横目二人。御庖丁人六人。賄人三人。末の者二人。小間使十四人。御肴量一人。八百屋一人。計四十五名。
一、円勝寺本堂
贅日山下新兵衛組十七人。御医師と足軽十一人。御茶道北村慶順組十三人。御内所方市原太郎組八人。御駕籠頭一人 .計五十人。
一、円勝寺仮小屋
御駕籠の者十人。小道具の者三人。御野合小使三人。助小使五人。御手回り御中間十一人。御荷物才領中間五人。計三十七名。
一、組頭庄左衛門宅
奥医師杉原養軒。同安達良長。外六名。計八名。
一、百姓伊四郎宅
惣領組中と御中間計十七人。
一、百姓伝次郎宅
御鷹方吉原男也外二十七人。計二十八名。
一、百姓次郎蔵宅
小歩行中間計十四人。
一、百姓佐十郎宅
御家来衆計二十人。
一、百姓伝次郎宅
郡奉行外七名。計八名。
(総計二百二十七名)
これを見ると一行の総数は227名であったことが分かります。当時は、高松藩の財政が最も窮乏していた時で、経費節約のために領内巡視を「御鷹野」と称して行う事になったと最初に記しました。しかし、参加メンバー数を見る限りでは、「少数による巡視」にはほど遠いものであったことがうかがえます。ある意味では「動く御殿」でもあったのです。
 円勝寺で軽い昼食をとった後の行動については、次のように記されています。
焼尾笠松 御芦立所で小休し、永覚寺にて御昼所、羽床上村逢坂庫大方にて御泊り。
翌日、畑田村富野佐右衛門宅にて小休し、香川郡円座村遠藤和左衛門宅にて御小休、御帰城遊され候

西村市太夫は、二月朔日に御鷹野記録の筆をおいています。
同年三月八日、川東村の状継弥右衛門は、兼帯庄屋川西勇蔵の名で、阿野郡南の大庄屋宛に、郷普請人足遣済の届書を次のように提出しています。
川東村
一人足五百二十一人 御小昼所一件遣済辻
一馬 四疋(此人足十二人)右同断
〆 五百三十三人
一人足百六人 指掛三ケ所川東村分遣済辻
一人足七百六十五人五分 御通行筋道作人足遣済辻三口
〆千四百四人五歩
右の通に御座候以上
未三月八日            兼帯庄屋 川西勇蔵
奥村宇右衛門様
水原先三郎様
これを見ると川東村もまた多くの人足を出動させて、大きい負担を蒙ったことが分かります。私は、この「御境目見分」は殿様の鷹狩りで、春になってから少人数で行われたと思っていました。しかし、それは違っていました。
厳寒2月の1mもの大雪の中、どうして「御境目見分」を行わなければならなかったのでしょうか?
考えられる説を挙げておきます
A 阿波藩に対する警戒・示威行動であった
B 遊惰に流れた藩士の士気を鼓舞するためであった
以上をまとめておくと
①第9代髙松藩主は、領内西部の不穏な空気を押さえるために「藩主巡回」を行う事にした。
②しかし、財政難のためにそれまでの正規なものではなく「鷹狩り」と称した簡略版で実施予定した
③巡視コースのハイライトは、大川山周辺の阿讃国境の巡視であった。
④そのための準備のために巡視コースの村々は、さまざまな準備と負担を担わされた。
⑤造田村庄屋であった西村家の文書から「鷹狩巡見」の様子を知ることが出来る。
⑥雪の残る2月末に、国境尾根の巡視活動を行った意図はなんであったのかよく分からない。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「大林英雄 頼恕の巡視 琴南町誌221P」
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中寺廃寺 大川山からの眺望・丸亀平野
大川山から望む中寺廃寺と、その向こうの丸亀平野

江戸時代末に高松藩主が鷹狩のために中寺廃寺跡付近を訪れたことが造田村庄屋の西村文書に記されています。ここからは鷹狩り準備のために、地元の庄屋が藩の役人と、どんなやりとりをしながら進めたのかが分かります。鷹狩りルートは、次の通りです。

①まんのう町塩入 → 中寺 → 笹ケ田尾 → 大川山

このルートには、大川山や中寺廃寺の周辺も含まれていています。今回は、造田村(旧琴南町)の庄屋文書『西村家文書』の鷹狩り記事に出てくる中寺廃寺を見ていくことにします。テキストは「まんのう町内遺跡発掘調査報告書第3集 中寺廃寺跡 第6章文献調査(80P) 2007年」です。
 鷹狩り記事が出てくるのは、天保6(1835)2月の冬のことです。2月末に行われることになった鷹狩りのために造田村庄屋と鵜足郡の大庄屋・髙松藩の間でやりとりされた文書の控えが西村家に残されています。この中に次のようなルート図が添えられています。

西村家文書 殿様の鷹狩り案内図 大川から笹が田尾
A『西村家文書』「殿様御鷹野被仰出候二付峯筋御往来道法方角絵図指出之控絵図」

造田村庄屋の西村市大夫が大庄屋に提出した鷹狩の際の道筋を示した絵図(控)です。
左(東)に、大川山に鎮座する大川社が描かれ、そこから西(右)に向かって阿讃山脈の主稜線が伸びています。右端が「笹ケ多尾(たお)」です。「タオ」は「垰」で「田尾・多尾」とも表記されます。
 「新御林・御林守下林・塩入御林」と書き込まれています。「御林」とは、藩の管理する山林のことです。国境附近には版の管理する御林が配置されていました。ここには、一般の人々は立ち入りも出来ず、御林管理者が指名されていました。「御林守下林」というのは、下林氏の管理する御林ということになります。「塩入御林」は、塩入分の御林です。
 もう少し詳しく、何が書かれているのか見ておきましょう。

西村文書 髙松藩鷹狩りコース添付図
付箋には「笹ヶ多尾から大川社への道2丁(218m)は阿波、そこから1町(約109m)は松平藩領、そこから11町(約1,200mは阿波。道は狭い道であったが今回新道を願い申し出た」とあります。 絵図中には古道と新道が平行して描かれています。現在の地図と比較して見ます。

中寺廃寺 周辺の地名2
塩入から中寺を経て大川山まで
①右下隅が大川山です。
②大川山から讃岐山脈(阿讃国境)の主稜線を西に進むと「笹の田尾」
③笹の田尾から北に伸びる稜線を下ると中寺、
④この稜線は、行政的にはかつての那珂郡と阿野郡の郡境
⑤中寺から鉄塔沿いの東谷尾根を下ると塩入へ
殿様の鷹狩りコースは、この逆で塩入から出発して大川山まででした。

B『西村家文書』文化2(1805)年丑2月「絵図(まんのう町造田杵野谷付近)」

西村家文書 柞野絵図2

中寺廃寺跡周辺の造田村杵野谷の絵図です。
①左下隅に天川大明神(天川神社)、そこから中央に伸びていく柞野川
②左上隅に「大川御社(神社)」、そこから真っ直ぐ西に「笹ケ多尾」
③「笹ケ多尾」から江畑へ伸びる郡堺尾根上に中寺・犬頭・三ツ頭
中寺廃寺 アクセス


次に『西村家文書』天保6年「日帳」を見ていくことにします。
 文章A~Dは、造田村庄屋が大庄屋らに古道の詳細について書き送ったものです。    
A 一筆啓上仕り候、然らハ御通筋麓の道筋は樹木生茂り、御道具障リハ御座無く候
峯筋御通行二相成り候得ハ、杵野新御林の内二、右の障り木御座有るべくと存じ奉り候二付、跡より委く申し上ぐべく候、先ず右の趣申し上げ度、斯くの如く二御座候、以上
二月三日     西村市大夫
宮井清上様
  意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候、連絡いただいた殿様の鷹狩ルートについては、樹木が覆い茂っていますが、道具等を運ぶことに問題はありません。稜線上を通行する場合、杵野の新御林の中に、通行に障害となる木がありますが問題はありません。後ほど詳しく申し上げます。先ずは、通行可能であることをお伝えします。以上
二月三日        西村市大夫
宮井清上様
まずは、真冬の2月3日に藩からの問い合わせが、大庄屋を通じて西村市大夫のもとにとどいたようです。それに対して、とりあえず「通行可能」との返答がされています。
B 日付は上と同日です。内容が詳細になっていて、宛先が藩の役人になっています。 (意訳のみ)

一 ルートは塩入村の脇野馬場を出発点として、那珂郡の「社人の尾」を通過し、鵜足郡の中寺堂所で稜線に取り付きます。そこからは鵜足郡造田村を通行して、大川山に到着するという手はずになります。この間の距離は、50丁(5,5㎞)ほどです。なお、郡境の中寺附近は足場が悪く、継ぎ更えは難しいと思われます。
  昔からこのルートを年寄・郡奉行や山奉公が通る際には、塩人村の御林守伊平が案内しました。その際は笹ヶ多尾で継ぎ替えし、そこから大川までは造田村がお送りしています。昨日申し出た樹木が生い茂った古道でもあります。新道に出れば乗馬にて通行が可能であり、少々荷物を積んでも通行できます。以上をお伝えしますが、詳細は現地調査の上、お達しの通り絵図を添えて報告いたします。まずは簡略にお伝えします。
二月三日              西村市大夫
宮井清上様
十河亀五郎様

C 翌日2月4日のものです
一筆啓上仕り候、殿様御通筋二相成る二ても、麓の道筋二は樹木生茂り、御道具障リハ御座無く候
一 峯筋阿州御堺目御通行二相成り候得は、杵野新御林の内、諸木伐り払い申さず候ハてハ、新道付き申さざる義二御座候、尤も未だ雪三尺位も積もり居り申し候二付、様子も委く相別り難き義二御座候、先ず有の段申上げ度、斯くの如く二御座候、以上
二月四日      西村市大夫
杉上加左衛門様
徳永二郎八郎様
  意訳変換しておくと  
C 一筆啓上仕り候、殿様がお通りになることについては、道筋二は樹木が覆い茂っていますが、道具類を運び上げることはできます。
一 なお阿波との国境尾根を通行するためには、杵野の新御林の木を伐り払って新道をつける必要があります。ただ、今は雪が1m近くも積もっていて、現地の状態を調査することができません。とりあえず、以上のことを連絡します。
二月四日     西村市大夫
杉上加左衛門様
徳永二郎八郎様
この時代には、大川山頂上附近には1m近くの雪が積もっていたことが分かります。

D 今までに送った情報の修正です
一 部方へ右役所へ申し出での通り、同日申し出で仕り候、尤も追啓左ノ通り
       宮井清上様
       十河亀五郎様
尚々、本文の通り役所へ今日申し出で仕り候、併しながら御境松本の松木もこれ有り、何様六ケ敷き新道二て、大二心配仕り居り申し候、仔細ハ右役所へ罷り出で候組頭指し出し申し候間、御聞き成られ下さるべく候、山方役所へも申し出で仕り候、且つ又、昨日塩人村より大川迄、道法五拾丁位と申す義申し上げ候得共、山道の事故七拾丁二も積もりこれ有る様相聞へ申し候、何様雪深き事二て、委細相別り申さざる義二御座候、并び二馬少々の荷物ハ苦しからざる様申し上げ候得共、此の義も阿州馬ハ随分六十位付口候得共、讃州の馬二てハ覚束無き様二相聞へ申し候間、右様両段二御聞き置き成られ下さるべく候、右念のん申し上げ度、斯くの如く二御座候、以上
二月四日
意訳変換(簡略版)しておくと

D 先日は塩入村から大川までの距離は50町(約5。5km)と伝えたが、山道のため(約7、6km)になります。また馬には少々荷物を積んでも問題なく通行できると伝えましたが、これは阿波の馬の場合で、讃岐の馬は、あまり荷物は積めません。

E 殿様の通行のために、柞野の新御林の中に道を敷設したいとの要望書です。その際、支障となる木の伐採が必要な場所が多くあるとしています。
一筆啓上仕り候、然らハ殿様御順在、峯筋御通行遊ばせられ候御様子二付き、御道筋収り繕ろい候様の見債もリニ罷り□候所、杵野新御林の内へ新道付け申さず候てハ、阿州の分へ相懸り、甚だ心配仕り居り申し候、又新道二付き申し候時ハ、御林諸木伐り払い候場所多くこれ有り、是れ又心配仕り居り申し候間、何様早々御見分の上、宜しく御取り計らい成され下さるべく候、尤も雪三尺位も積もり居り申し候二付き、様子も相別り難き義二御座候、先ず右の段申し出で度、斯くの如く二御座候、以上
´二月四日    庄屋 西村市大夫
安富弥右衛円様
森 人右術円様
尚々、御堺松等段々伐り払い候様二相見へ申し候間、何様御見分二指し出し下さるべく候
 
F 今回の鷹狩りルート中に名所・旧跡は無いか? 笹が田尾の絵図とともに報告せよ。
笹ケ多尾の絵図御指し出し成され相達し申し候
一 此の度御山分御通筋名所古跡等はこれ無き哉、吟味の上否委細明後七日早朝迄二御申し出で成なさるべし 以上
 二月五日     十河亀五郎
       宮井清七
西村市太夫様
意訳変換しておくと
笹ケ多尾周辺の絵図を提出すること。この度の鷹狩りコース上で名所・古跡があれば、明後日中に報告すること指示があった。
 この絵図提出指示で、作成されたのが最初に笹ケ多尾周辺の絵図なのでしょう。また、ルート上の名所のリストアップも指示されています。鷹狩りだけでなく、様々な気配りがされていることがうかがえます。
G 申請した柞野の御林に新道をつけるための聞き取り調査についての連絡です。
飛脚ヲ以て申し進め候、然はハ殿様御順二付き、御通筋御林の諸木障り木の義二付き、□□致す御間、能相心得居り申し候組頭壱人、此の飛脚着き次第、御役所へ御指し出し成らるべく候、其の為申し進め候、以上
二月五日       森 太右衛円
       安富弥右衛門
西村市大夫 様
意訳変換しておくと
飛脚で直接連絡する。殿様の鷹狩りのために、新道設置のために御林の木を伐採するについて、現地の状況を熟知する組頭を一人、この飛脚が着き次第、役所へ出頭させること。
御林の伐採については、各部局と事前連絡をとって置かなければなりません。そのために現地の状況を熟知した者を出頭させよとの通知です。これに基づいて、御林が伐採され、新道が設置されたのでしょう。
Hは、藩の名所問い合わせに対する返答です
一筆啓上仕り候、然らハ御鷹野御通行筋名所古跡等これ有り候得ハ、申し出で仕り候様二と、達々仰せ聞かされ候様承知仕り候、此の度塩人村より御通行筋、当村の内二名所古跡ハ御座無く候、尤も笹ケ多尾近辺二少々申し出で仕るべき様成る土地御座候得共、是は那珂郡の内二て御座候、鵜足郡造田I村の内二は、
一 犬の墓
一 中寺堂所 但し寺号も相知れ申さず候
右二ケ所より外二は何も御座無く候、是辿(これとて)も指し為る事二て御座無く候へ共、御通行筋二付き申し出で仕り候間、御書き出し候義ハ御賢慮の上御見合わせ二、御取り計らい成され下さるべく候、右の段申し上げ度斯くの如くに御座候 以上
二月六日        西村市大夫
宮井清七様
十河亀五郎様
意訳変換しておくと
 一筆啓上仕り候、鷹狩りコース中に、名所古跡があるかについて回答いたします。この度の塩人村からの道筋上には、名所古跡はありません。ただ、笹ケ多尾周辺に、それらしきものがございます。これは那珂郡の領域になります。ただ、鵜足郡造田村には、以下のものがあります。
一 犬の墓
一 中寺堂所  但し寺号なども分かりません
この外には、何もありません。これとても大したものではありませんが、通行筋には当たります。御書の作成に当たり、記載するかどうかは賢慮の上、取り計らい下さい。
ここには、造田村の中には無いが、笹ヶ多尾の周辺に「犬の墓」と「中寺堂所」という寺跡があることが報告されています。幕末の庄屋西村市大夫の認識は「これとても指し為る事二て御座無く候」とあります。中寺跡の存在や位置は知っていたが、その内容や規模については知らなかったことがうかがえます。
I 上の報告に対する大庄屋の返書です
殿様此の度御鷹野御通行筋、共の村方の古跡二ケ所御書き出し相達し申し候、然ル所右の分御道筋とハ申すものヽ、たとい壱弐丁の御廻リニても、矢張り道法ハ入用二これ有り、近日御申し出で成らるべく候、并古跡と申す古可又ハ何そ以前の形二ても、少々ハ相残リ居り申し候と申す欺、何れ由来御詳き出し成らるべく候、甚だ指し急キ申し四郎候、何分明朝御書き出し成らるべく候、以上
二月六日       十河亀五郎
       宮井清七
西村市大夫様
意訳変換しておくと

殿様の鷹狩りコース上の古跡についての報告について、(中寺)への分岐道筋については、例え一丁でも、その距離は明記しておく必要がある。よって、近日中に報告すること。また、古跡は少しでも残っているのであれば、その由来を詳しく記して報告すること。急がせるようだが、明朝までには届けるように。以上

大庄屋は造田村庄屋に、名所・古跡に関しての詳しい説明を求めています。仕事がていねいです。

J 上記に対する西村市大夫の返書です。
一筆啓上仕り候、然らハ御通行筋二これ有り候犬の墓并寺地えの道法出来等も、申し出で候様二達々仰せ開かされの趣承知仕り候、左二申し上げ候
一末寺ノ岡犬の基
御通行筋より道法凡そ五丁位、尤も御立ち帰リニ相成り候得ハ、拾丁位二相成り申すべく候、且つ籠末の稟印往古よりこれ有り候所、子孫の者とこれ有り、天明年中内田免人道筋へ別紙碑銘の通リニて、引墓二仕り御座候、併しながら格別子細も伝承仕らざる義二御座候
一 中寺堂所
御通行筋より凡そ弐丁位、尤も立ち帰リニ相成り候時ハ四丁位、往古は石の□等相尋ね居り申し候、併しながら寺号等も相知れ申さず候義二御座候
右の通リニ御座候、以上
                   庄屋 西村市大夫
宮井清七様
十河亀五郎様
意訳変換しておくと

一筆啓上仕り候、鷹狩りコース上にある犬の墓と寺地(中寺)への距離や由緒について以下のように報告します。
一 末寺ノ岡犬の基
 鷹狩りコースから約五丁(550m)ほどで、往復1,1㎞になります。ここには古くから墓があり、子孫の者もいます。天明年中に内田免の道筋に別紙のような碑銘です。格別子細も伝承していないようです。
一 中寺堂所
コース上から約2丁ほどで、往復四丁になります。昔から「石の□等」と伝わりますが、寺号等は分かりません。右の通リニ御座候、以上

ここからは、中寺の所在地までの距離を把握しています。ということは、どこにあったかも知っていたことになります。中寺廃寺Aゾーンの塔と仏堂までは、稜線分岐から約300mほどです。この記述と合致します。「石の□等」については、よく分かりません。

K 再度、中寺に対する大庄屋からの問い合わせです(意訳のみ)
急ぎ問い合わせるが、先日報告のあった長曽我部時代に兵火で退転した中寺という寺は、何造田村の何免にあったのか。中寺について、この書状を受け取り次第、至急連絡いただきたい以上
九月六日       十河亀五郎
西村市大夫様
尚々、飛脚二て御意を得度二て御申し出で成らるべく候、以上
L 上記に対する返答書です。(意訳変換しておくと
⑭飛脚の速達便を拝見しました。造田村の中寺は、長曽我部の兵火で焼失した寺跡だといううが、何免にあるのかという問い合わせでした。これに対して、以下の通りお答えします。
一 中寺跡
 大川社坊の阿波境の笹ケ多尾の少し下に位置しますが、東西南北ともにいくつもの山が続く中なので、何免と答えることが困難です。強いて云えば、樫地免より手近の場所なので、樫地免としてもいいのではと思います。右の通リニ御座候間、宜しく御申し出で仕るべく候、以上
九月七日            西付市大夫
十河亀五郎様

  笹ケ多尾は、先ほどの絵図で見たとおり、旧琴南町・旧仲南町・徳島県旧三野町の3町が接する付近になります。また、中寺が那珂郡と阿野郡の境界線上近くにあり、強いて言うなれば阿野郡の造田村に属すと返答しています。これは、発掘後に姿を現した中寺廃寺の伽藍レイアウトに矛盾しません。

以上の西村市大夫の書状からは、彼が中寺廃寺のことを次のように認識していたことが分かります。
①中寺は江戸時代末には、「寺の名前がわからない」「昔から石があったとされる」程度の認識であったこと
②しかし、名所・古跡として挙げているので、寺があったことは民衆の間に言い伝えとられていたこと
③「笹ヶ多尾 → 中寺 → 江畑」尾根ルートは、かつての那珂郡と阿野郡の郡境であったこと。
④またこのルートは、江戸時代末の江畑からの大川山への参道となっていたこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
まんのう町内遺跡発掘調査報告書第3集 中寺廃寺跡 第6章文献調査(80P) 2007年
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中寺廃寺 3つのゾーン2


中寺廃寺は、次の3つのゾーンから構成されています。
Aゾーン(仏)  仏堂と塔のある宗教的な中核エリア
Bゾーン(祈り) 霊山大川山への祈りを捧げる割拝殿と僧坊
Cゾーン(願い) 祈りのための石塔が人々によって捧げられた谷間の空間
3つのゾーンの前後関係を年表で押さえておきます。

HPTIMAGE

この年表からはABCの3つのゾーンに、いつ頃、どんな建物が現れたかが分かります。
最初に建物が建造されるのはBゾーンで、そこに仏堂(割拝殿)・僧坊が姿を現します。その時期は8世紀末のことです。これは、前回お話ししたように空海が大学をドロップアウトして、虚空蔵求聞持法修得のために山林修行を始める頃と重なります。今回はB(祈り)ゾーンについて見ていくことにします。テキストは「上原真人 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)」です。
中寺廃寺 Bゾーン割拝殿跡からの大川山
Bゾーンの割拝殿の発掘現場 大川山が正面に望める

Bゾーンからは、次のような建築物跡が出てきました
割拝殿(仏堂跡?)   尾根上
僧房跡数棟           下の2つのテラス
中寺廃寺B祈りゾーン 平面図 
中寺廃寺Bゾーンの割拝殿跡と僧坊
尾根先端を造成して造られた割拝殿から見ておきましょう。
①割拝殿(仏堂跡?)は、桁行五間(20、3m)、梁間三間(6m)
②建物中央に通路の基礎となる礎石がある大型の建物
③出土遺物より造成年代は、10世紀後半以降
④テラス中央の溝を挟み同方向の建物が同時に建っていた
     
 盛土中から10世紀後半の遺物が出土しているので、それ以降に建てられたことになります。最初はこの建物は「仏像を安置した修弥壇の基礎の石を確認したので仏堂」とされていたようです。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿3(仏堂説)
中寺廃寺Bゾーン 仏堂説にもとづく復元図(南側に広場)

しかし、堂内の須弥壇礎石は側柱礎石と大きさがあまり変わりません。そのため3間×2間の同じ大きさの東西棟が並んで建つ双堂建物ではないかという意見が出されます。双堂建築は、東大寺法華堂など雑密的な仏像を本尊とする古代建築に多く使われています。山林寺院の施設として、ふさわしい建築構造です。
 しかし、次のような点を考慮して、現在では双堂建築ではなく、5間×3間の南北棟説(割拝殿)とされています。 
①双堂なら、一方は正堂、一方は礼堂で、北北東もしくは南南西を向くことになる。  
②北北東向きとすると、谷を囲んで施設が対面する中寺廃寺の遺構配置に相反する。
③南南西向きとすると、掘立柱建物群が分布する平場が、その正面をふさぐことになる。
⑤礎石建物の広場が、建物の正面ではなく側面にくる
⑥尾根端を利用した建物は、尾根の先端を正面とするのが普通
⑦双堂とすると正堂・礼堂は近接し、十分な軒の出を取りにくい。          
「平安時代のたたずまい」 割拝殿と僧房
中寺廃寺Bゾーンの割拝殿
中寺廃寺 Bゾーン割拝殿跡

 以上から、この建物は5間×3間で、その前の広場を通して、真っ正面に大川山を臨んでいたとします。この広場で、朝夕に霊峰大川山への祈りが捧げられていたことが考えられます。このことからB地区は山岳信仰と関係が深いので、「祈り」のエリアと名付けられました。

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 山林寺院を考える際に、避けて通れないのが「山岳信仰」との関係です。
仏教伝来以前から、列島では山を神とあがめていたとされます。山は信仰対象だったのです。 山林修行や山林斗藪の拠点となった山林寺院は、インド起源です。しかし、一方で列島固有の山岳信仰が仏教と融合しながら変形されてきました。以前にお話ししたように、高野山金剛と狩場明神・丹生津姫神社の関係や、比叡山延暦寺と日吉大社の関係など、山林寺院が土地の神(地主神)や山自体を御神体とする神社が祀られ、寺と神社が深い関係にありました。ここでは大川山と中寺廃寺がどんな関係だったのかが問われます。
 霊山の山頂には、いろいろな神々が祀られ、祭礼施設があります。しかし、山頂に山林寺院が造られることはありません。霊峰・霊山信仰を持つ寺院も、その中腹や麓近く、あるいは霊峰を望む景勝地に造られるのが普通です。それは、石鎚山と前神寺や横峰寺の関係を見れば分かります。霊山の峰々が修行の舞台となったとしても、山林寺院はその拠点なので、生活困難な山頂に建てる必要はないのです。ここでは、中寺廃寺は霊峰大川山信仰の拠点として造られた、そのためBゾーンの割拝殿は、大川山を向いて建てられ、その前の広場で祈りが捧げられたことを押さえておきます。

 それを裏付けるのが、流土の中から8世紀後半~12世紀までの長期の土師器・黒色土器・須恵器類が出土していることです。割拝殿の造営年代は、基壇築成土中の遺物から10世紀後半のものとされます。しかし、尾根端の地盤は不安定で、いくつかの礎石も滑べり落ちていました。ここからは割拝殿は、それ以前から何度も建て替えて、発掘されたものが10世紀後半のものになると研究者は考えています。
  
 次に、割拝殿下のテラスの掘立柱住居跡5棟を見ておきましょう。

祈ゾーン 僧房跡 保存整備後の様子
中寺廃寺Bゾーンの僧坊跡
①三間(6,2)m×二間(3m)
②柱穴から西播磨産の須恵器多口瓶
③建物の西北隅をめぐる雨落溝から中国の越州窯系青磁碗破片が出土
④第3テラスは、掘立柱建物跡、三間(4m)×二間3,2m)
⑤第2・第3テラスの建物は数回の建替えが行われている
⑥建物内部から9世紀末~10世紀前半の調理具・日常食器類が出土
以上からこれらの掘立柱建物跡は、僧房跡と研究者は判断します。
僧坊は掘立柱建物で数回建て替えています。また埋土からは須恵器・土師器・黒色土器の日常食器類(8世紀後半~12世紀)が多量に出土しているので、僧侶が生活していた僧坊跡と推測できます。ちなみに、Aゾーンからは僧坊跡は発見されていません。Bゾーンから僧坊が出てくることについて、山岳信仰に基づく場として、B地区がまず開発されたからと研究者は考えています。以上からB地区は、割拝殿と僧房がある生活と修行の場であり、中寺廃寺の出現の先駆けとなったエリアであったことを押さえておきます。

この中で研究者が注目するのは、僧房跡から出土した西播磨産の須恵器多口瓶です。

中寺廃寺Bゾーン 僧坊の多口瓶出土状況
須恵器多口瓶の出土状況(Bゾーン 僧坊跡)

発掘当時のことを担当者は次のように記しています。

「普通の須恵器の甕か」と思いきや、取り上げてみると、なで肩の肩部に突帯が巡る広口壷であることが判明しました。突帯が巡る壷は特殊なもので、県内では出土例に乏しい資料になります。もしかすると多口瓶(たこうへい)かもしれません。多口瓶とは、広口壺の肩部に四方向の注ぎ口がある不思議な形の壷です。出土した広口壺の製作された時期は正確には分かりませんが、10世紀前後のものと考えています。多口瓶は仏具と言われているため、開法寺跡との関連も想定できます。その一方、多口瓶ではなく、肩部に突帯が巡る特殊な貯蔵具である可能性もあり、国府で使用された可能性も否定できません。とても小さな破片ですが、興味深い遺物です。(11月8日)

その後、復元すると次のような姿になりました。

中寺廃寺跡の多口瓶

中寺廃寺 多口瓶

 多口瓶は奈良・平安時代の寺院遺跡から多く出土しています。中には平城京薬師寺跡例のような奈良三彩の製品もある仏具です。ちなみに、香川県では高松市千間堂跡の礎石建物跡から、須恵器多口瓶が体出土していますが、こちらは地元の綾川町の陶(十瓶山)甕窯跡群で造られた物です。


屋島寺千間堂跡 多口瓶

讃岐周辺で出土している多口瓶 屋島寺前身の千間堂からも出土

これに対して中寺廃寺のものは、研究者の調査活動の結果、西播磨の窯で造られたことが分かりました。中寺廃寺は、わざわざ仏具である多口瓶を、西播磨から取り寄せたことがうかがえます。
 もうひとつ注目される土器破片が越州窯系青磁碗です。
 僧房跡を取り巻く溝から出土した中国浙江省越州窯産の青磁碗は、艮質の土を用いた精製品と研究者は評します。形状から9世紀後半から11世紀中葉までのもののようです。これは非常に高価なもので、国府・郡衙などの国の関係施設や、大規模な港などの遺跡から出てくるもののようです。非常に貴重な中国製青磁を所有していた中寺廃寺の財政基盤がうかがえます。ここでは、②③の遺物は海を越えて持ち込まれたもので、大変貴重な品です。中寺は、このような品を取り寄せることのできる力を持っていたことを押さえておきます。
 最後に、前回お話ししたように雑密の古式三鈷杵・錫杖頭の破片です。 

中寺廃寺 三鈷杵破片2

Bゾーンの僧房跡付近から出土した三鈷杵と錫杖頭は、空海らが伝えた密教より古い特徴を持ちます。古密教(雑密)の修法に使われていたものが、荒行の中で壊れ捨てられたことが考えられます。これも初現期の中寺廃寺が、古密教の拠点であったことを裏付ける材料になります。

以上をまとめておきます。
①霊山大川山への山岳信仰の拠点として、中寺廃寺のBゾーンは現れた。
②そこには、他に先駆けて8世紀末に割拝殿や僧坊が姿を見せる。
③割拝殿は、正面(東)を大川山に向け、その前の広場が祈りの空間となっていた。
④割拝殿の下には、僧坊が並び、長期間にわたって建て替えられ、活動拠点となっていた。
⑤僧坊跡からは、仏具として西播磨産の多口瓶や、中国の越州窯系青磁碗が出土している。
⑥これらは当時としては貴重品で、それを手に入れるだけの財力やネットワークを中寺廃寺がもっていたことがうかがえる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
上原真人 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)
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大川山は、たおやかに連なる阿讃山脈の中にポツンと抜け出たピラミダカルな姿が印象的です。古くから霊山として人々の信仰対象になっていたことがうかがえます。その前衛峰P753mの直下に、古代の山林寺院がありました。

中寺廃寺地図10

中村廃寺の展望台から望む景色は絶景です。足下には、満濃池が横たわり、輝く湖面を見せています。

中寺廃寺展望台
中寺廃寺の展望台 満濃池が足下に見える
丸亀平野には飯野山・五岳・象頭山など、おむすび山の甘南備山がいくつも顔を見せ、箱庭のようです。遙かには塩飽諸島や庄内半島も望めます。

中寺廃寺 大川からの遠望

修験者にとて展望がある霊山というのは魅力であったようです。空海の若い頃に行った阿波の大滝山や土佐の室戸での修行を見てみると、座禅と行道が中心です。行道は行場と行場を早駆けすることです。この中寺廃寺と霊山である大川山でも、何度も往復する行道が行われていたはずです。それが中世には中寺廃寺を別当寺(神宮寺)、大川山山頂の神社を信仰する神仏混淆の山岳信仰のスタイルが出来上がっていきます。今回は、中寺廃寺が現れる以前の信仰を見ていくことにします。テキストは「上原真人(京都大学) 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)」です。 

中寺廃寺 エリア分類
中寺廃寺の4つのゾーン
中寺廃寺は、次の4つのゾーンから構成されています。
Aゾーン(仏ゾーン)  仏堂と塔のある宗教的な中核エリア
Bゾーン(祈りゾーン) 霊山大川山への祈りを捧げる割拝殿と僧坊
Cゾーン 祈りのための石塔が人々によって捧げられた谷間の空間
Dゾーン 古代中世の中寺廃寺が退転した後の宗教空間
この中で最も早く登場するのがBゾーンです。初期の山林修行の活動痕跡が残っているBゾーンから見ていくことにします。

中寺廃寺  全景


Bゾーンは大川山に向かって張り出した尾根上に位置します。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿跡からの大川山
発掘中のBゾーン 割拝殿

Bゾーンからはm上中下三段の平場において、割拝殿(仏堂跡?)と僧房跡数棟が出てきました。
その発掘の過程で出てきたのが、次の銅製の破片です。

中寺廃寺 錫杖


IMG_0054
これを何だと思いますか? ヒント 空海も使っていたものです。

中寺廃寺 三鈷杵・錫杖破片

これは、三鈷杵と錫杖の破片だそうです。しかし、空海がもたらしたとされる三鈷杵とは、少し形がちがいます。空海伝説で語られる「飛行三鈷杵」を見ておきましょう。
飛行三鈷杵 弘法大師行状絵詞
飛行三鈷杵 明州から三鈷法を投げる空海(高野空海行状図画)
空海が唐からの帰国の際に明州(寧波)の港から「密教寺院の建立に相応しい地を教え給え」と念じて三鈷杵を投げるシーンです。この三鈷杵が高野山の樹上で見つかり、高野山こそが相応しい地だというオチになります。この時の「飛行三鈷杵」とされているものが高野山にはあります。

飛行三鈷杵2

飛行三鈷杵3

この「飛行三鈷杵」は御影堂宝庫に秘蔵され、50年ごとの御遠忌のときに、参詣者に披露されてきたとされます。現在は重文になっています。この三鈷杵とさきほどの中寺廃寺跡からでてきたものを比べると、形が少し違います。研究者は中寺廃寺跡出土のものの方が古く、空海以前の雑密(雑多な密教修験者)修行者が使っていたスタイルだと指摘します。そうすると中寺廃寺では、空海が現れる前から山林修行者が活動していたことになります。

中寺廃寺 三鈷杵破片2


この時期の山林修行では、どんなことが行われていたのでしょうか。
それを考える手がかりは出土品です。鋼製の三鈷杵や錫杖頭が出ているので、密教的修法が行われていたことは間違いないようです。例えば空海が室戸で行った求問持法などを、周辺の行場で行われていたかも知れません。また、霊峰大川山が見渡せる割拝殿からは、昼夜祈りが捧げられていたことでしょう。さらには、大川山の山上では大きな火が焚かれて、里人を驚かせると同時に、霊山として信仰対象となっていたことも考えられます。
 奈良時代末期には密教系の十一面観音や千手観音が山林寺院を中心に登場します。髙松周辺の四国霊場は、観音霊場巡りで結ばれていたことは以前にお話ししました。これら新たに招来された観音さまのへの修法も行われていたはずです。新しい仏には、今までにない新しいお参りの仕方や接し方があったでしょう。
延暦16(797)年、空海が24歳の時に著した『三教指帰』には、次のように記されています。
「①阿国大滝嶽に捩り攀じ、②土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す。」
「或るときは③金巌に登って次凛たり、或るときは④石峯に跨がって根を絶って憾軒たり」
ここからは、次のような所で修行を行ったことが分かります。
①阿波大滝嶽(太龍寺)
②土佐室戸岬(金剛頂寺)
③金巌(かねのだけ)
④伊予の石峰(石鎚)
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中寺廃寺のB地区の割拝殿や僧坊は、8世紀末まで遡るとされる。

中寺廃寺が8世紀末期には、すでにあったとすれば、それはまさに四国で空海が山林修行に励んでいた時期と重なります。善通寺に近い中寺を、若き日の空海が修行を行ったと考えることもできそうです。平城京の大学をドロップアウトした後の空海の足取りは謎とされています。しかし、雑密の山林修行者の集団の中に身を投じたことに間違いはないようです。そのひとつが故郷の讃岐で最も著名であった山林寺院の中寺廃寺であったという説です。

空海入唐 太政官符
  延暦24年(805)9月11日付太政官符(平安末期の写し)

ここには「延暦22年4月7日 出家」と見えます。補足して意訳変換するとすると次のような意になります。
「空海が出家し入唐することになったので税を免除するように手続きを行え」

ここから分かるように、古代律令国家では、出家得度認可権は国家が握っていました。得度が認められた僧尼は国家公務員として、徴税免除となり鎮護国家を祈願しました。国家公務員としての高級僧侶たちに「庶民救済」という視点は薄かったのです。鎮護国家の祈願達成のために、多くの僧が国家直営寺院で同じ法会を行いました。一方で、僧は清浄を保ちながらも、かつ山林修行を通じて個々の法力を強化することが求められました。高い法力を示すためには、厳しい修行が必要とされたのです。ゲームの世界に例えると、ボスキャラを倒すためには、ダンジョンで修行してパワーポイントを貯めることが攻略法の第一歩なのと似ているかもしれません。そのような視点で、中寺廃寺のBゾーンを見てみると、8世紀後半の土器類や、古式の三鈷杵や錫杖が出土していることに研究者は注目します。
 養老「僧尼令」禅行条は、禅行修道のために籍のある寺を離れて山居を求める場合の手続きについて、以下のように規定します。

在京の僧尼の場合は、三綱の連署をもらい、僧綱・玄蕃寮を経て、太政官に申し、可否をきいて公文を下す。地方の僧尼の場合は、三綱と国郡司を経て、太政官に申し、可否をきいて公文を下す。その山居の場となる国郡は、僧尼の居る山を把握しておかねばならず、勝手に他所に移動してはならない

ここからは律令国家が国家公務員としての僧侶が山林行を行う事を法的に認めていたことが分かります。また、「山居の場となる僧尼の居る山を把握し、山林修行の場を、国衙や郡衙は把握せねばならない」という規定は、修行拠点となる山林寺院を国衙や郡衙は把握しておかなければならなかったことになります。最澄や空海も、こうした法的規制下にあったはずだと研究者は考えています。。 
 山林寺院にかかわる養老「僧尼令」の非寺院条を見ておきましょう。
ここには僧尼が所属する寺院以外に道場を建てて、衆を集めて教化し、みだりに罪福を説くことを禁じています。この道場を山林寺院とみなし、天平宝字8年(764)の詔勅で、逆党の徒が山林寺おいて僧を集めて読経悔過するのを禁じたとする説があります。つまり、当時の山林寺院が律令国家の仏教政策に背いたためだと云うのです。しかし、この法令は道鏡政権が、勝手な布教活動や反国家政治集会を禁止したもので、山林寺院の存在そのものを否定したものではないと研究者は考えています。
 『続日本紀』宝亀(770)10月丙辰には、次のように記します。
天平宝字8年の禁制の結果、

「山林樹下、長く禅差を絶ち、伽藍院中、永く梵響を息む」

山林修行が行われなくなり、修行を行う僧侶がいなくなり弊害が生じたことを嘆き、山林修行の復活を願い出ています。これに応えて、光仁・桓武政権は浄行禅師による山林修行を奨励するようになります。山林寺院を拠点とした山林修行は、国家とって必要な存在とされていたことを押さえておきます。
 
 中寺廃寺は、讃岐・阿波国境近くにあります。古代山林寺院が律令制下の国境近くに立地する意味について、次のようなことが指摘されています。
①兵庫県の山林寺院の分布を総合的に検討した浅両氏は、その間に摂津・播磨・丹波三国の国境線をむすぶ情報網があったこと
②加賀地域の山林寺院を検討した堀大介は、8・9世紀の山林寺院が国境・郡境沿いに展開すること
国境管理と山林寺院が密接な関係にあったことを押さえておきます。

律令時代の国境は、次のように国街が直接管理すべき場所でした。
A 大化「改新之詔」では、京師・畿内について、「関塞設置」の規定があります。
B 『日本書紀・出雲国風土記』は、隣接する伯香・備後・石見国との国境に、常設・臨時設置の関があったことを記します。
C 関を通過するための通行手形(過所木簡)などの史料から、7世紀後半以降、9世紀に至るまで、国境施設が具体的に機能していたことが分かります。
   中寺廃寺が讃岐と阿波の国境近くに建てられたのも、国衙が直接管理する施設が国境近くにあったことと無関係ではないようです。つまり、国境パトロールの役割が中寺廃寺にはあったという説です。行場から行場への厳しい行道を繰り返す山林修行者に、その役割が担わされていたのかもしれません
以上を整理しておくと
①大川山は丸亀平野から仰ぎ見る霊山として古代から信仰を集めていた
②8世紀後半になると、山林修行者が大川山周辺で山林修行を行っていたことが分かる。
③それは山林修行者の拠点となった中寺廃寺跡から8世紀後半の土器や、雑密時代の古式法具が出てきていることが裏付けとなる
④8世紀末は空海が大学をドロップアウトして、山林修行者の群れの中に身を投じる時期と重なる。
⑤四国の大滝さんや室戸・石鎚の行場で、修行した空海は、讃岐国衙管理下にあった中寺廃寺で修行したことが考えられる。
⑥真言・天台の密教勢力が強くなると、護摩祈祷のためには強い法力が必要で、そのためには修行を行い験を高めることが必要とされるようになった。
⑦そのため国家公務員のエリート僧侶の中にも、空海に習って山岳修行を行うものが増えた。
⑧それに対応するために、讃岐国衙主導で中寺廃寺は建立された。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
上原真人(京都大学) 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)
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讃岐の雨乞念仏踊りを見ています。今回はまんのう町の大川念仏踊りを見ていくことにします。問題意識としては、この念仏踊りは滝宮念仏踊を簡素化したような感じがするのですが、滝宮への踊り込みはなかったようです。どうして滝宮から呼ばれなかったのかを中心に見ていこうと思います。

大川神社 1
大川権現(神社) 讃岐国名勝図会

 大川念仏踊りは、大川神社(権現)の氏子で組織されています。
大川神社の氏子は、造田村の内田と美合村の川東、中通の三地区にまたがっていました。
大川神社 念仏踊り
大川念仏踊り 大川神社前での奉納
大川念仏踊りは古くは毎年旧暦6月14日に奉納されていました。それ以外にも、日照が続くとすぐに雨乞の念仏踊を行っていたようで、多い年には年に3回も4回も踊った記録があります。そして不思議に踊るごとに御利生の雨が降ったと云います。現在では7月下旬に奉納されています。かつての奉納場所は、以下の通りでした。
①中通八幡神社で八庭
②西桜の龍工神社で八庭
③内田の天川神社で三十三庭
④中通八幡社へ帰って三十三庭
⑤それから中通村の庄屋堀川本家で休み、
⑥夜に大川神社へ登っておこもりをし、翌朝大川神社で二十三庭
⑦近くの山上の龍王祠で三十二庭
⑧下山して勝浦の落合神社で三十三庭
2日間でこれだけ奉納するのはハードワークです。

大川神社 神域図

現在の大川神社 本殿右奥に龍王堂
今は、次のようになっているようです。
①早朝に大川山頂上の大川神社で踊り、
②午後から中通八幡神社、西桜の龍王神社など四か所
もともとは大川神社やその傍の龍王祠に祈る雨乞踊です。その故にかつては晩のうちに大川山へ登り、雨乞の大焚火をして、そこで踊ったようです。

大川神社 龍王社
大川神社(まんのう町)の龍王堂

大川念仏踊は、滝宮系統の念仏踊ですが、滝宮牛頭天王社や天満宮に踊り込みをしていたことはありません。
 奉納していたのは大川権現(神社)です。大川山周辺は、丸亀平野から一望できる霊山で、古代から山岳寺院の中寺廃寺が建立されるなど山岳信仰の霊地でもあったところです。大川権現と呼ばれていたことからも分かるように、修験者(山伏)が社僧として管理する神仏混淆の宗教施設が大川山の頂上にはありました。そして霊山大川山は、修験者たちによって雨乞祈願の霊山とされ、里山の人々の信仰を集めるようになります。

大川神社 本殿東側面
大川神社 旧本殿
由来には、1628(寛永5)年以後の大早魅の時に、生駒藩主の高俊が雨乞のため、大川神社へ鉦鼓38箇(35の普通の鉦と、雌雄二つの親鉦と中踊の持つ鉦と、合せて38箇)を寄進し、念仏踊をはじめさせたとします。以来その日、旧6月14日・15日が奉納日と定めたとされます。

 それを裏付ける鉦が、川東の元庄屋の稲毛家に保管されています。
縦長の木製の箱に収められて、次のように墨書されています。
箱のさしこみの蓋の表に「念佛鐘鼓箱、阿野郡南、川東村」
その裏面に、「念佛鐘鼓拾三挺内、安政五年六月、阿野郡西川東村什物里正稲毛氏」
しかし、今は38箇の鐘は、全部があるわけではないようです。稲毛氏に保存されている鉦には、次のように刻まれています。

大川神社に奉納された雨乞い用の鉦
「奉寄進讃州宇多郡中戸大川権現鐘鼓数三十五、但為雨請也、惟時寛永五戊辰歳」
裏側に
「国奉行疋田右近太夫三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛  願主 尾池玄番頭」
意訳変換しておくと
讃岐宇多郡中戸(中通)の大川権現(大川神社)に鐘鼓三十五を寄進する。ただし雨乞用である。寛永五(1628)年
国奉行 三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛 
願主 尾池玄蕃

    この銘からは、次のようなことが分かります。
①寛永5年に尾池玄蕃が願主となって、雨乞いのため35ヶの鉦を大川権現に寄進したこと
②大川山は当時は権現で修験者(山伏)の管理する神仏混淆の宗教施設であったこと。
③当時の生駒藩の国奉行は、三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛の3人であった。
④願主は尾池玄蕃で、藩主による寄進ではない。
当時の生駒藩を巡る情勢を年表で見ておきましょう。
1626(寛永3)年 4月より旱魃が例年続きり,飢える者多数出で危機的状況へ
1627(寛永4)年春、浅田右京,藤堂高虎の支援を受け惣奉行に復帰
同年8月 西島八兵衛、生駒藩奉行に就任
1628(寛永5)年10月 西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手
1630(寛永7)年2月 生駒高俊が,浅田右京・西島八兵衛・三野四郎左衛門らの奉行に藩政の精励を命じる
1631(寛永8)年2月 満濃池完成.
同年4月 生駒高俊の命により,西島八兵衛・三野四郎左衛門・浅田右京ら白峯寺宝物の目録作成
ここからは次のようなことが分かります。
①1620年代後半から旱魃が続き餓死者が多数出て、逃散が起こり生駒家は存亡の危機にあった
②建直しのための責任者に選ばれたのが三野四郎左衛門・浅田右京・西島八兵衛の三奉行であった
③奉行に就任した西嶋八兵衛は、各地で灌漑事業を行い、ため池築造に取りかかった。
④大川権現に、雨乞い用の鼓鐘寄進を行ったのは、満濃池の着工の年でもあった。
⑤難局を乗り切った三奉行に対して、藩主生駒高俊の信任は厚かった。
⑥生駒藩の国奉行の3人の配下の尾池玄蕃が大川権現に、鉦35ヶを雨乞いのために寄進した。

この鐘鼓が寄進された時期というのは、生駒藩存続の危機に当たって、三奉行が就任し、藩政を担当する時期だっただったようです。大川権現に「鐘鼓数三十五」を寄進したのも、このような旱魃の中での祈雨を願ってのことだったのでしょう。ただ注意しておきたいのは、由来には鉦は生駒藩主からの寄進とされていますが、銘文を見る限りは、家臣の尾池玄蕃です。
 寄進された鉦の形も大きさも滝宮系統念仏踊のものと同じで、踊りの内容もほぼ同じです。ここからは大川念仏踊りは、古くからの大川神社の雨乞神とは別に、寛永5年に生駒藩の重臣達によって、新たにここに「移植」されたものと研究者は考えているようです。

大川念仏踊りの歌詞
 南無阿弥陀仏は、
「なむあみど―や」
「なっぼんど―や」
「な―む」
「な―むどんでんどん」
「なむあみどんでんどん」
「な―むで」
などという唱号を、それぞれ鉦を打ちながら十数回位ずつ繰り返しながら唱います。その間々に法螺員吹は、法螺員を吹き込む。こうして一庭を終わります。
その芸態は、滝宮系念仏踊と比べると、かなり簡略化されたものになっていると研究者は評します。滝宮系では中踊は大人の役で、子踊りが十人程参加しますが、それは母親に抱かれて幼児が盛装して、踊の場に参加するだけで実際には踊りません。ところが大川念仏踊は、子踊りがないかわりに、中踊りを子供が勤めます。

滝宮念仏踊と大川念仏踊りには、その由来に次のような相違点があります。
①滝宮念仏踊りは、その起源を菅原道真の雨乞祈祷成就に求める
②大川念仏踊は、生駒藩主高俊が鉦を寄進して、大川山(大川神社)に念仏踊を奉納したことに重点が置かれている
踊りそのものは滝宮系念仏踊であるのに、滝宮には踊り込まずに地元の天川神社や大川神社に奉納する形です。
どうして、大川念仏踊りは滝宮に踊り込みをしなかったのでしょうか? 
それは、滝宮牛頭天王社とその別当寺の龍燈院が認めなかったからだと私は考えています。龍燈院は牛頭天王信仰の神仏混淆の宗教センターで、滝宮を中心に5つの信仰圏(北条組、坂本組、鴨組、七箇村組、滝宮組)を持っていました。そのエリアには龍燈院に仕える修験者や聖達が活発に出入りしていました。その布教活動の結果として、これらの地域は念仏踊りを踊るようになり、それを蘇民将来の夏越し夏祭りの際には、滝宮に踊り込むようになっていたのです。踊り込みが許されたのは、滝宮牛頭天王信仰の信仰エリアである北条組、坂本組、鴨組、七箇村組、滝宮組だけです。他の信者の踊り込みまで許す必要がありません。
 そういう目で見ると、大川権現は蔵王権現系で、滝宮牛頭天王の修験者とは流派を異にする集団でした。それが生駒藩の寄進を契機に滝宮系の念仏踊りを取り入れても、その踊り込みまでも許す必要はありません。こうして新規導入された大川念仏踊りは、滝宮牛頭天王社に招かれることはなかったのだと私は考えています。

以上をまとめておきます
①大川山は丸亀平野の霊山で、信仰を集める山であった。
②古代には中寺廃寺が国府主導で建立され、讃岐の山岳寺院の拠点として機能した。
③中世には大川権現と呼ばれるようになり、山岳修験の霊地とされ多くの修験者が集まった。
④近世初頭の生駒藩時代に大旱魃が讃岐を襲ったときに、尾池玄蕃は雨乞い用の鉦を大川権現に寄進した。
⑤これは具体的には、滝宮念仏踊りを大川権現に移植させようとする試みでもあった。
⑥こうして大川権現とその周辺の村々では、大川念仏踊りが組織され奉納されるようになった。
⑦しかし、大川権現と滝宮牛頭天王社とは、修験者の宗派がことなり、大川念仏踊りが滝宮に踊り込むことはなかった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 讃岐雨乞踊調査報告書(1979年) 15P 雨乞い踊りの現状」

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 大川山 割拝殿から
中寺廃寺割拝殿跡から見上げる大川山

大川山を仰ぎ見る中寺廃寺の礎石に座って考えたことが今回のお題です。中寺廃寺からは銅製の密教法具である錫(しやく)杖(じよう)や三鈷杵(さんこしよう)の破片が出土しています。そこから修験者が、寺院が建てられる前から小屋掛け生活して、周辺の行場を回りながら「修行」をしていたことがうかがえます。また、出土した法具は、空海が唐から持ち帰る以前の古い様式のものです。つまり「空海以前」に中寺廃寺は存在し、行者達の修行が行われていたようです。

大川山 中寺廃寺

 空海が密教を志した8世紀後半は、呪法「虚空蔵求聞持法(ごくぞうぐもんじほう)」の修得のため、山林・懸崖を遍歴する僧侶が現れた時期でした。中寺廃寺は、これにうってつけの場所で壊れた法具の破片は厳しい自然環境の中、呪力修得にむけ厳しく激しい修行を繰り広げていた僧侶の格闘の日々を、物語っているようにも思えます。そして、その中に若き空海の姿もあったかもしれません。

まんのう町中寺廃寺仏塔
中寺廃寺の仏塔復元図
 大川山信仰に始まるこの聖地に、仏堂・割(わり)拝(はい)殿(でん)や僧房などが建てられ、讃岐国の中で重要な山岳寺院に発展していくのが十世紀頃とされます。ところで山岳修行は、寺院というハコモノがなくともできます。
ではなぜ、この時期に、この山奥に寺院が建立されたのでしょうか。
 まず、その立地条件です。今は「山奥」ですが、かつては讃岐と阿波をつなぐ「街道」がいくつも近くを通っていました。また周辺山間部は、炭・漆・粉板(屋根葺き材)などの産地として有名で、豊富な山の資源が得られる場所でもありました。平安時代には、地方豪族や大寺院による山野の囲い込みと開発が進んだと云われます。こうした動きと山岳寺院の建立とは深い関わりがあるようです。同時期の金倉寺や道隆寺など、平野部での新たな寺院建設も、平野や海浜部での開発と関係します。これらが十世紀前後からの「第二の寺院建設ブーム」を生みだし、学問寺や修行道場(山岳寺院)といった今までにないスタイルの「思索の場としての寺院」が生まれる背景があります。その整備が後の空海をはじめとする讃岐出身の高僧輩出を、もたらすことにつながります。

大川山 中寺廃寺割拝殿
中寺廃寺割拝殿復元図

 中寺廃寺が、修行の場から山岳寺院へと変貌し、建物が建設されはじめるのが十世紀前後です。
それは、山岳寺院のネットワーク形成のスタートでもありました。この寺の西には野口ダムの谷を挟んで尾野背寺、さらに讃岐山脈の稜線をたどれば中蓮寺から雲辺寺と山岳寺院が山上に続きます。それは遠く石鎚まで伸びています。そして目を里に向ければ、種子には宗教荘園が開かれ金剛院が、その宗教センターとして機能するようになります。これらの山岳密教寺院は孤立していたのでなく、行(ぎよう)場(ば)ネットワークとして結ばれていたのです。各地に開かれた行場を「辺路修行」することが「四国遍路」につながります。つまり、ここは四国霊場の原初的な姿が見える所でもあるのです。
参考文献

DSC04686
櫛梨山(琴平町)からのぞむ大川山
丸亀平野から南を望むと、低くなだらかな讃岐山脈が東西に連なります。その山脈の中にピラミダカルな盛り上がりが見えるのが大川山です。この山頂に石垣を積んで、大川(だいせん)神社の神域はあります。今回は、大川山頂上の玉垣に囲まれた神域にある殿舎を見ていくことにします。

大川神社 神域図
大川神社
キャンプ場から遊歩道を登っていくと、この神域南側の改段下の広場に着きます。

大川神社 正面

ここが大川念仏踊りが踊られる舞台ともなります。

大川神社 念仏踊り
大川神社の鳥居の前で舞われる念仏踊り 
ここには空海の祈雨祈願伝承の「善女龍王」伝説が伝えられ、小さな池が社前にはあったとされます。 

大山神社2 2025 11月11日

この説明版には大川神社の由来を次のように記します。
大川神社には木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)と大山津見命(おおやまみのみこと)が祀られています。『古事記』や『日本書記』によると、木花之佐久夜毘売命は、花が咲いたに美しい神とあり、邇邇芸命(にぎのみこと)に嫁ぎました。説話では、火が燃えさかる産屋の中で火照命(海彦)、火須勢理命、火遠理命(山彦)の三人の男の子をつぎつぎに生んだそうです。
 このことから、後世、安産の神様として信仰されてきました。また、火を噴く山の神霊を鎮めるため、かつて活火山であった富士山や、浅間山にも祀られ信仰されています。
 大山津見命は木花之佐久夜毘売命の父君といわれ、山の神様として、また農耕の神様として信仰されてきました。社伝によると聖武天皇の頃、天平四だいかんばつ年(七三二)に大旱魃があり、時の国司が大川神社に恵みの雨を祈ると、一天にわかにかき曇り大雨が降ったそうです。それ以来、祈雨の神様として歴代国主の信仰厚く、讃岐、阿波はもとより四国中からも尊崇されてきたということです。
 そして、大川神社では旧暦六月十四日、大川念仏踊りが行われています。
ここには古事記や日本書紀に書かれている神話だけの紹介で、中世や近世にこの神社が果たした役割や、この神社をめぐる動きについては何も触れられていません。

江戸時代後半に書かれた増補三代物語には次のように記されています。
①大山大権現社は、大川山の山頂に鎮座する。何神を祀るか分からないが、山神や龍族を祀るのであろう。昔は阿讃土予の四国の人々の崇敬を集めていたという。六月朔の祭礼や、②大干ばつの際には人々は鐘や鼓を鳴らし、降雨を祈願すると、必ず雨が降った。 ③祠の前に小池があり、雨乞い祈願し雨が降る際には、小蛇が現れて水が吹き出す。するとにわかに雲が湧き、大雨となる。④かつては天台宗寺奉守がいたが今は廃絶し、今は社家が祭礼を主催する。⑤大川は大山の音転で、元々は伊予の大山積神である。
 寛永年間に、⑥生駒家家臣の尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したが、年月が経ち多くが破損した。そこで⑦承応二年に(高松藩主)先君英公がこれを修繕した。その後、山火事で延焼したのを、寛文十二年に英公更が再建した。⑧元禄十二年に節公が阿讃国境の検分の際に修理した。⑨宝永六年には、また焼け落ちたが、恵公の寄進された穀類で興復することができた。近頃、⑩雨乞いの時の曲を、一名大川曲ともいう。
ここからは次のような情報が読み取れます
①社名は「大山大権現社」で、修験者の霊山である大権現を名のっていたこと
②山神や竜神を祀る神社で、雨乞いの霊山として信仰されていたこと
③社の前に小池があり、子蛇が現れると雨が降ると「善女龍王」伝説を伝えること
④かつては天台宗の別当寺が神社を管理していたこと(中寺廃寺の伝承)
⑤大川は、もともとは大山で、伊予の大山祇神の山であること
⑥生駒時代に尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したこと
⑦髙松藩の歴代藩主によって修理・再建が行われてきたこと
これくらいの予備知識をもってお参りすることにします。
鳥居をくぐって改段を上がって行きましょう。

大山神社1
大川神社正面鳥居と階段の上の拝殿

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南面して建つ拝殿
正面に長い拝殿が東西に建ちます。ここで礼拝すると本殿はまったく見えないままです。本殿は、拝殿に接続してすぐ背後に並んで建ちます。拝殿の東には南北棟の参籠堂が拝殿にT字に接続しています。
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拝殿正面
かつて、大昔に正月に雪道をご来光を見るために登って来たときには、ここに上げていただいて、餅や御神酒をいただいたことを思い出します。集団登山の時には、この板間にシュラフで寐たこともありました。
DSC08515

頂上に建つので水場はありません。かつては屋根からの雨水を集めて使っていました。その貯水槽です。 この拝殿の背後にある本殿は直接につながっていまが、拝殿の南側からは見えません。裏に回らないと見えないのです。裏に回って、本殿を直接礼拝させていただきます。

大川神社 本殿東側面
大川神社 本殿1
大川神社 本殿東側面図
  報告書に書かれた専門家の本殿の説明を聞いてみましょう
構造形式 
桁行正面一間 背面二間 流造 鋼板葺
身舎円柱 切日長押 内法長押 頭貫 木鼻 台輪 留め
出組 実肘木 拳鼻 側・背面中備雲紋彫刻板 妻飾二重虹
梁大瓶東 庇角柱 虹梁形頭貫 象鼻 三斗枠肘木組 実肘木
繋海老虹梁 中備不明 二軒繁垂木 身舎三方切目縁 勿高欄
脇障子 正面木階五級 浜縁
建立年代 19世紀前期

大川神社本殿は、その構造形式を簡略に記せば、一間社流造と表記できる。ただし背面の桁行は二間になっているので、二間社流造と呼ぶこともできる。
基壇 
本殿は高さ1,2mほどの高い切石積基壇の上に立つ。その上に本製土台を組んで柱を立てる。土台の上には大きな石を大量に載せて、山上の強い風にも飛ばされないように押さえられている。
大川神社 本殿西妻飾

身舎軸部・組物・軒・妻飾 身舎は円柱を切日長押・内法長押・頭貫・台輪で繋ぐ。頭貫に木鼻を付ける。その木鼻は九彫りの獅子頭を用い、すべての柱頂部に置かれている。台輪は木鼻を付けず、留めとしている。
円柱は見え掛かり部分では床下も円形断面に仕上げるが、見え隠れでは人角形に仕上げている。組物は出組で、実肘木・拳鼻を付ける。この組物の肘本は下端の繰り上げの曲線部分がなく、単純な角材で造られていて、意匠的には相当新しさを感じさせる。

大川神社 本殿絵様
大川神社本殿
さらに拳鼻も角材のままで繰形などを施さない。中備は雲紋を浮彫とした板を組物間に置く。この雲紋はこの建物では多用されていて、内法長押と頭貫の間の小壁の板にも浮彫の雲紋を施している。雨乞いの神様であるから、このような意匠を多用したのであろう。
妻飾は、出組で一手持ち出した位置に下段の虹梁を架け、その上に二組の平三斗を置いて、上段の虹梁を受け、その上に大瓶束を立てて棟木を受ける。平三斗は実肘本は用いないが、拳鼻は柱上の組物同様の角材を置く。下段虹梁上の中備も雲紋の浮彫彫刻である。
身舎の正面は蝶番で吊った板扉が設けられている。
他の三方は板壁で閉じられている。身舎内部は一室で、間仕切りはない。軒は一軒の繁垂木である。
この社殿は、いつ建てられたものなのでしょうか? 
今は実物はないようですが、かつての棟札の写しが5枚残っています。
大川神社 棟札
大川神社棟札一覧
かつてあったとされる5枚の棟札には、次の年紀があります。
元禄十五年(1702)
延享二年(1745)
宝暦三年(1753)
天明三年(1783)
これ以前には、社殿はなく、石造物だけがあったことも考えられます。
先ほど見たように、現在の本殿の虹梁絵様は19世紀前期頃のデザインでした。様式的には18世紀後期より遡ることはないと研究者は指摘します。つまり、5枚の棟札はどれもこの本殿の建立を示すものではないようです。
それでは、この本殿建立は、いつなのでしょうか? 
それは本殿背後に「文政十一成子年」(1828)と刻まれた燈籠があります。文化文政の「幕末バブル期」
の経済的な発展期の中で、善通寺の五重塔再興や金毘羅大権現の金堂(旭社)の建立が行われていた時期になるようです。
以上から専門家は大川神社の本殿を次のように評価します。
本殿は比較的実例の少ない二間社であることに第一の特徴がある。とはいえ庇と身舎正面の柱間は一間としているので、規模としては標準的な一間社と大差はない。小壁や中備に雲紋を施した板をはめているのは、先にも述べたように雨乞いの社としての信仰と関わるものであろう。縁束の間も竪連子を浮き彫りにした格狭間をはめており、珍しい意匠である。
 組物の肘木が角材であるのは個性的である。拳鼻まで同様に角材で造るから、かなり加工の手間を省いたか、建立年代が新しいか、いずれかと想定させる。しかし一方で、頭貫木鼻は全ての柱上に獅子頭を据えるから、さして省力化したとは言い難い。
 比較的華やかな装飾、肘本や縁廻りの独特の形式など、独自性が強い大川山山頂という特異な場にあって、社伝によれば奈良時代からの、確実なところでは近世以来の庶民の祈雨信仰と結びつき、本殿の意匠にまでそうした背景が意匠に反映した興味深い建物と言える。つまり神社の歴史的特質が近世末期の社殿の造形に結びついた建物と言えよう。
 今から200年前に建立された本堂も、大川山頂上で長年の風雨にされされて痛みがひどくなり建て修復されるようになったようです。近世になって、山伏たちによって祈雨信仰が接ぎ木されると、それにともなって「本殿の意匠にまでそうした背景が意匠に反映」と研究者は指摘します。この本殿も修復を終えて、最近行ってみるこんなふうになっていました。

大山神社 本殿 2025年
修復され覆屋に覆われた大川神社の本殿

それでは、この本殿にはどんな神様が祀られているのでしょうか。

大川神社の神々

先ほど見た説明版には「大川神社には木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)と大山津見命(おおやまみのみこと)が祀られています。」とありました。しかし、江戸時代の「増補三代物語」には、次のように記します。
「大山大権現社 在高山上、不知奉何神」
意訳変換しておくと
「大山大権現社」と権現を祀る山で高い山の上にあるが、何を祀っているかは分からない」

と云うのです。江戸時代に後半までは、祭神がなんであるのかは人々には知られていなかったことが分かります。近世後半に西讃府史などで村の神社を調査するまでは、村社などに何が祭ってるのかを人々は気にとめていなかったことは以前にお話ししました。それが重要なこととされるのは、神仏分離後に神道が国家神道となってからのことです。
 ただ、「大山(川)大権現」とあります。権現とある山は、修験者によって開かれ霊山で修験者の修行の山です。大川大権現の周辺には、多くの修験者たちが行場で修行を行い、そして定着していたことがうかがえます。その拠点となったのが古代においては中寺廃寺で、大山大権現の神宮寺の役割を果たしていたこと以前にお話ししました。中世になって国家支援を受けれなくなった中寺廃寺が退転した後は、修験者たちは里の炭所の金剛院などに坊集落をひらき定住します。そして、行場としての大川山(権現)を守っていきます。そうだとすれば石鎚山と同じように、もともとここに祀られていたのは、修験者が教祖として役業者や蔵王権現に類するものが祀られていたことが考えられます。

明治維新の神仏分離で金毘羅大権現のように権現たちは追放されました。これに換わって迎え入れられたのが紀記に登場する神々です。大川神社では、修験者が信仰した権現たちが追放された後には、上記の2つの神々が迎え入れられ現在に至っています。

本殿以外の施設について見ておきましょう。

大川神社 龍王社
 本殿の背後の龍王堂
本殿の東側に東面して建っているのが龍王堂です。
空海祈雨伝承では京都の神仙苑で、空海が小さな蛇(善女龍王)を呼び出し、雨を降らせるとされることは以前にお話ししました。そのため雨乞いが行われる山には、龍王神が祀られるようになります。大川山も近世後半になると雨乞いの霊山として信仰を集めるようになりましたから、ここに龍王神が祀られているのは納得できます。しかし、中を覗いてみると祭礼に使う御神輿が置いてあり、龍王神らしきものは何もありません。大膳神社での雨乞の役割は終わったようです。神社や寺にも流行や廃れがあることは以前にお話ししました。その波を越えた寺社が生き残ってきたのです。

大川神社3
緑の屋根が社殿の覆屋 その前のふたつの燈籠が並ぶ所
本殿(緑の覆屋)の背後には、高い石垣を組んだ方形の区画があります。これがなんであるのかは、私は知りませんでした。
大川神社 松平家御廟
髙松藩松平家の御廟 階段がないので上れない
今回はじめて松平家の御廟であることを知りました。
先ほど棟札で見たように大川神社の本殿は高松藩の支援で改修が行われます。髙松藩との結びつきを目に見える形で示すために社殿横に霊廟が作られたのかもしれません。藩主の保護を得ているというモニュメントにもなり、大山権現ののランクを高める物になったでしょう。
この神域には、もうひとつ宗教施設が北西隅にあります。

大川神社 秋葉神社2
大山神社境内 北西隅の秋葉神社

大山神社 秋葉神社3
北西隅の秋葉神社
秋葉神社の祠です。秋葉神社についてウキには次のように記されています。

秋葉三尺坊大権現は、火防(ひよけ)・火伏せ(火伏せ)の神様として信仰される神仏習合の神で、もともと秋葉山にいた修験者「三尺坊」に由来します。神通力を得た三尺坊が天狗となり、火生三昧(かしようざんまい)を修して火災を鎮めたという伝説から、火の神として広まりました。特に静岡県浜松市の秋葉神社が総本宮として有名です。火災消除の御利益があるとされ、江戸時代には「秋葉講」が全国的に組織されました。 

 「遠州秋葉山本地聖観世音三尺坊略縁起」(享保2年(1717)成立)には次のように記します。(要約)
①秋葉三尺坊大権現と称し、秋葉権現は三尺坊である
②観音菩薩を本地仏とし、その姿は飯縄権現と同じく白狐に乗り、剣と羂索を持った烏天狗姿
③三尺坊は、不動三昧の修行をし「烏形両翼にして左右に剣索を持ちたる霊相」が現れ、飛行自在の神通力を得、観音菩薩の化身とされた。

アンティーク 秋葉山 秋葉寺 秋葉三尺坊大権現 秋葉権現 天狗 白狐 紙
         秋葉大明神 白狐に乗り、剣と羂索を持った烏天狗

象頭山天狗 飯綱
      象頭山金毘羅大権現金光院の飯綱大明神 秋葉大明神と同じように描かれている
ここからは次の要素が混淆して生まれたのが「秋葉三尺坊大権現=秋葉大明神信仰」であることが分かります。
A 修験道の霊場としての秋葉山に伝わる山岳信仰
B 信州出身の修験者である三尺坊への信仰
C 本尊の聖観音に対する信仰
その三大誓願は
第一我を信ずれば、失火と延焼と一切の火難を逃す。
第二我を信ずれば、病苦と災難と一切の苦患を救う。
第三我を信ずれば、生業と心願と一切の満足を与う。
真言オン ヒラヒラ ケン ヒラケンノウ ソワカ
どちらにしても秋葉信仰が、天狗信仰の修験者に担われていたことは間違いないようです。これは金毘羅大権現と金光院の天狗信仰と同じです。修験道の霊山であった大川山に、秋葉神信仰が近世になって勧進されたことが推測できます。しかし、大山神社の境内にある秋葉神社の性格は微妙です。神域の内側だとすると、大山大権現の火伏せ・火除けの守護神として招来したことが考えられます。しかし、玉垣の外にあるようにも見えます。そうだとすれば、秋葉信仰の講組織によって建立されたことになります。当然、里には講組織の信者たちがいたことになります。このあたりのことは、今の私にはよく分かりません。

大川神社 魔除寺蔵と不動明王
 大山神社の石造物 魔除地蔵と不動明王(?)

別の視点で大川山と修験者の関係を示してくれるのが龍王堂の裏側(西側)のふたつの石造物です。。

左が魔除地蔵と掘られた台座の上に立っている地蔵様です。地蔵信仰は、修験者により流布されたと研究者は考えています。右側が修験者の守護神である不動明王のようです。

大山神社 不動明王
大川神社境内の不動明王
 地蔵信仰は鎌倉末期の14世紀前半に成立し、足利尊氏が帰依したために室町期に盛んになったとされます。霊山であった大山大権現の周辺では、古くから焼畑農業が行われていたことが考えられます。焼畑を行った集団は、木地師達でもあり、鉱山師達でもありました。彼らは修験者とも繋がり、南北朝までは、南朝とも繋がって阿波の山間部では一大勢力に成長していったとされます。熊野行者たちは、熊野参拝道として山岳地帯を結ぶ独自の通路を持ち、併せて鉱山師のような活動もしていたようです。阿波や伊予の中央構造線上に彼らの痕跡が残っていることは以前にお話ししました。また山間部の焼畑では、火の鎮火などが大切で、火除け火伏せのために秋葉信仰が修験者たちによってもたらされたことが考えられます。大山神社境内に残る秋葉神社や魔除地蔵・不動明王などは、ここで活動していた修験者の痕跡と私は考えています。

以上、大川神社(大権現)の境内にある宗教施設を登場順にあげると、次のようになります。
①本殿    蔵王権現?  修験者の信仰本尊
②龍王社   善女龍王   雨乞い伝説
③松平御廟  高松藩による関連堂舎の整備建立
④松葉神社  火伏せ神としての守護神
明治維新後の神仏分離によって①は廃仏毀釈で排除されます。そして②③④と民間信仰としての安産信仰が残ったのではないでしょうか。これらの殿舎は、今は石垣上の石製の瑞垣で囲まれていて、聖域を構成しています。
それではこの聖域が作られてのはいつなのでしょうか。
玉垣内に置かれた燈籠の銘から、明治26年から30年頃の日清戦争前後に神域は整備された作られたものと研究者は考えているようです。つまり、現在のレイアウトは、約130年前の明治になってからのものであるようです。その整備時に、小蛇の棲むとされた小池も埋め立てられたのかも知れません。それ以前の社殿のレイアウトなどは分かりません。社殿の整備が進み、国境を越えて阿波の人たちなど、より多くの人たちの信仰を集めるようになったのは、この頃からなのではないでしょうか。
最後に、本殿棟札として一番古い元禄十五年(1702)棟札を見ておきましょう。
聖主天中天  迦陵頻伽声
哀慇衆生者  我等今敬礼
神官      宮川和泉橡重安
時郡司     渡部専右衛門尉重治
当部大政所  久米善右衛門貞明
      内海治左衛門政富
五箇村政所
中通村  新名助九郎高次
勝浦村  佐野忠左衛門守国
造田村  岡田勘左衛門元次
炭所西村 新名平八郎村重
川東村  高尾金十郎盛富
大工金比羅    藤原五兵衛金信
讃岐国鵜足郡中通村大仙権現神祠 合一宇 恭惟我昆慮遮那仏 取日寓名円照編索詞 界現徴塵刹日域 宗度社稜苗裔之神崇山峻嶺 海浜湖無所人権同塵不饒益有情実 邦君左近衛少将源頼常卿 抱極民硫徳懐国邑巡遊日親霊祠傾類 辱降賜興隆命因循経六曰 今ガ特郡司渡部氏篤志槙福故両郡黎蒸贔,造功成郎手輪奥共美下懐鎮祈邦淋福寿同而国家安穏万民豊饒 里人遇早魃必舞曇育摩弗霊験 長河有次帯之期泰山有如挙之月徳参天地洪然而犯独存神祠平維時 
元禄十五青龍集壬午四月上院高松城龍松小法泉寺住持嗣祖此丘畝宗格誌

社伝には奈良時代の天平年間には、神社が建立されていたとしますが、そこまでは遡れないと研究者は考えています。
 平安時代には、中寺廃寺が建立され山林修行を行う僧侶の拠点となっています。彼らは、この山を霊山として信仰していたことは以前にお話ししました。ここに社殿が建てられたのでは?と思いたくなります。しかし、当時は山自体が神体とされていた時代です。山頂に神社が建てられる時代ではないのです。例えば、伊予の石鎚権現信仰でも、頂上には権現像があるだけです。そしてそれは、いつもは下の遙拝所から拝むものでした。土佐の霊山の山々も、祭礼の際に人々が山に登って来てて、いろいろな行事を行いますが建築物しての神殿や拝殿などが姿を現すのは、近世後半になってからです。大川山も古くから信仰の山として、丸亀平野の里人の信仰の山であったようですが、頂上に神社が建てられるのは近世になってからのことだと私は考えています。

中寺廃寺 Bゾーン2025
中寺廃寺 遙拝所から望む大川山

DSC08524
大川寺境内の中にある一等三角点
 大川神社に残された棟札5枚からは、18世紀になって歴代高松藩の藩主の支援を受けて堂舎が「再興」されたことが分かります。
 再興とありますが、これが創建ではないのか私は考えています。これよりも古い棟札はないのです。雨乞い用の鉦鼓などの寄進は、生駒藩の時代から行われていたかも知れませんが、山頂に堂舎を立てるというのは、もう少し後の時代になってのことのような気がします。(改稿 2025年11月12日)

大川神社の紅葉 2025 11 11
大川神社からの紅葉
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  大山神社本殿・随身門調査報告書 京都大学工学部建築史学講座
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大山山から金毘羅地図
大川山と麓の村々
まんのう町の大川神社は雨乞いの神として、また安産の神として、広く信仰を集めてきました。特に、大山神社に奉納される念仏踊りは国の文化財にも指定されています。今回は、大川山がどのようにして雨乞いの霊山になっていたのかを見ていくことにします。
造田村の庄屋西村市太夫が残した文書(西村家文書)の中には、旱魃について次のように記されています。(意訳変換)
①文化14(1817)年の大千ばつ
4月から8月まで日照り。大社から小宮にまで雨乞い祈願。鵜足郡で一番やけた(被害を受けた)のは岡田上村、二番は造田村・内田下所免は一帯に稲が枯れ無収穫状態、秋から飢人が出て、お上へ救援の願いを差し出す。郡内の難渋民に、古米120石お貸付になる。用水掛りは余儀なく見合わされたが、昔から用水掛りのない内田免・造田免へは都合掘井戸が78箇所分として、深さ一間につき人夫四人二分五厘を御殿様から下さる。
ここからは髙松藩が「離農・逃散」が出ないように米の貸付や井戸掘費用補助などの救済策をとったことが分かります。

③文政6(1823)年の干ばつ
②2月初めから照り出し、雨降らず。5月15日に田の植付五分通り終わり、あとは降雨待ち。5月18日辰の刻から、大川神社で郡の雨乞い祈願を行う。天川神社でも宮田宮司が雨乞い祈願をはじめる。お上では、代官を差し遣わし、5月26日から各所で雨乞い祈願を行う。
一、石清尾八幡官、 一、大川宮(大川神社)、 一、聖通寺、 一、鶴林寺、 一、天満宮、
一、可納院(?)、 一、滝宮龍灯院(滝宮牛頭天王社)、 一、水主村大乗寺、 一、香川郡童洞渕など)
8月9日やっと雨が降る。5月から100日ぶりの降雨で、前代未聞のことであります。
④昭和9(1924)年5月13日~9月1日まで大干ばつ。干天60日間、被害甚大
ここからは、藩がそれまでの藩指定の雨乞寺社である白峰寺以外にも雨乞を命じていたことが分かります。それを受けて、各村々でも雨乞が行われていあmした。以前にお話したように近世前半までは、雨乞は空海のような験の高い修行者が行って初めて成就するもので、農民が踊って雨が降るとは思われていませんでした。例えば滝宮念仏踊りも、もともとは菅原道真の雨乞成就に感謝して踊られたもの、自分たちの躍りで雨を降らせようとするものではありませんでした。それを押さえた上で、まんのう町で修験者たちが行っていた雨乞を見ていくことにします。

旧琴南町美合の美霞洞渕では、雨乞祈願のために流れの中の岩や石に小さい棚を設けて龍王(オリヨウハン)を祀り、そこで神主や村人が3日3晩祈願をしたことは、以前にお話ししました
同じような雨乞いがまんのう町塩入の釜ケ淵にも残されています。
 ここは財田川の源流になり、丸亀平野の丸亀藩の農民達の雨乞いの最後の祈祷場所だったようです。どんな雨乞いがおこなわれたか民話を読んでみましょう。
  里人がやって来た後から、山伏もやって来ました。
 山伏が雨降らせたまえと祈願をします。
すると、里人たちは持って来た堆肥を、釜が淵のなかへ振り込みはじめました。十二荷半の堆肥を、残らず淵へ放りこんだからたまりません。
おかしな臭いが、あたりへただよいます。
清らかな淵水は、茶色く濁って流れもよどみがち。
そして、この上から、ゴボウの種を蒔きます。
ゴボウの種は、ぎざぎざでとても気味の悪い形をしています。指でつまむと、ゴボウの種が指を刺すように感じます。
堆肥十三荷半、ゴボウ種を投げ込んで終わったのではありません。今度は、長い棒で淵のなかを、かきまぜます。
何度も、何度も、棒でかきまぜます。もう、無茶苦茶です。
釜が淵の水は、濁ってしまいました。
この、釜が淵の清らかな水のなかには、龍神さまがいらっしゃるというのに、水は濁ってしまいました。きっと龍神さまは、お腹立ちのことでしょう。
そうなのです、それが目的なのです。
龍神さまを、しっかり怒らすのです。
怒ると、雨が降るというのです。
お気に入りの釜が淵の清水が、べとべとに濁ってしまいました。これはたまらないと、龍神さま雨を降らせて不愉快なものを、すべて流します。でも、いいかげんな雨では流れないと、激しい大雨を降らせてさっぱりと洗い流します。
ああ、きれいになったと龍神さまも大よろこび。
里人も、念願の雨が降ったと大満足。
 ここからは、次のような事が分かります。
①川の流域の村々(同一灌漑エリア)の人々が、地域を流れる川の源に近い深い淵を雨乞場所としていた。
②そこで大騒ぎするとか、石を淵に投げ込むとか神聖な場所を汚すことによって、龍王の怒りで雷雲を招き雨を降らせるという雨乞いが行われてたこと
③これは全国的にみられる話で、修験道者(山伏)のネットワークがひろめたこと
④雨乞行事の音頭をとっているのは山伏であること

 寺院で行われる雨乞いは善女龍王に対する祈祷でした。
これは丸亀藩主が直接に善通寺門主に命じて行わせていた公式なものであることは以前にお話ししました。それに対して、村々で農民達が行っていた雨乞祈願は、山伏たちが主導権を握っていたようです。そう言えば、この淵の上には尾ノ背寺がありました。ここは中世の山岳寺院の拠点で、善通寺の奥の院ともされ修験者の拠点として栄えた寺です。流域の人々を信者として組織し、尾ノ背寺参拝への手段としていたとも考えられます。丸亀平野南部の丸亀藩の櫛梨神社には、尾ノ背山信仰を伝える話が伝えられています。

それでは大川山周辺では、どんな雨乞いが行われていたのでしょうか。 大川山周辺に残る雨乞い伝説を見てみましょう。
2020年 美霞洞渓谷 - 行く前に!見どころをチェック - トリップアドバイザー

まず登場するのは三角(みかど)淵です。ここは、崖山がそそりたり、三つの角を持った岩石があることから三角(門)と呼ばれるようになったと伝えられます。三角の地名は、かって「御門」とも「御帝」とも呼ばれていました。そして、「三霞洞」となり、現在の道の駅や温泉は「美霞洞(みかど)」と呼ばれ親しまれています。
 道の駅の下流の渓谷を流れる冷たい清らかな流れは、龍神さまもお好きと見え、龍神社がお祀りされています。ここでも、大干魃の年は流域の人々がやって来て龍神様にお祈りをして、雨乞い神事が行われていました。

大川山 美霞洞龍神神社
美霞洞渓谷の龍王神社
「三角(みかど)の淵と大蛇」の民話は、大蛇を退治した後のことを次のように語ります。
  日照り続きの早魃の年には三角の淵の雄淵に筏を浮かべて雨乞いのお祈りをすると、必ず雨を降らせてくれます。また、遠くの人たちは三角の淵へ、水をもらいにやってきます。淵の水を汲んで帰り祈願をこめると、必ず雨が降りだします。三角の淵は、雨乞いの淵としても有名になりました。

 ここからは、雄淵に筏を浮かべて雨乞い祈祷が行われていたことが分かります。この筏の上で祈祷を行ったのは、大川山の山伏たちだったのでしょう。また、この地が下流の丸亀平野の人々にとっても雨乞聖地であり、ここの聖水を持ち帰り、地元で行う祈祷に用いられていたようです。持ち帰った聖水を用いて祈祷を行ったのは、地元の山伏であったはずです。大川山をめぐる山伏ネットワークがうかがえます。
大川山周辺の八峯龍神での事件を、民話は次のように伝えています。
 21日間、昼夜の別なく、神楽火をたき神に祈ったが一粒の雨も降らなかった。当時の神職(山伏)は悪気はなかったが
「これ程みながお願いしているのに、今だに雨の降る様子がない、龍神の正体はあるのか、あるなれば見せてみよ」
と言ったところ、言い終ると一匹の小蛇が池の廻りを泳いでいた。
「それが正体か、それでは神通力はないのか」と言った。
すると急にあたりがさわがしくなり、黒い雲が一面に空を覆い、東の空から「ピカピカゴロゴロ」という音がしたかと思うと、池の中程に白い泡が立ち、その中から大きな口を開き、赤い炎のような舌を出した大蛇が、今にも神職をひと飲みにしようと池の中から出て来た
これを見た神職は顔色は真青になり、一目散に逃げ帰った。
然し大蛇は彼の後を追いかけて来たものの疲れたのか、その場にあった一本の松の木の枝に首をかけてひと休みしたと伝えられる。
 今もその松を首架松といわれている。池からその松の所までは150mもあるが、大蛇の尾が池に残っていたというのだから大きさに驚かされる。

  ここからは次のような事が分かります。
①雨が降るまで雨乞いは続けられるといいますが、この時は21日間昼夜休むことなく祈祷が続けられていたこと
②小蛇が龍になるという「善女龍王」伝説が採用されていること
③祈祷を行ったのは神職とあるが、江戸時代は修験者(山伏)であったこと
④そして、雨乞い祈祷でも雨が降らないことがあったこと
⑤失敗した場合には、主催した山伏の信望は墜ちること
 雨乞いで雨が降ればいいのですが、雨が降らなかったときには主催者は責任を問われることになります。ある意味、山伏たちにとっても命懸けの祈祷であったようです。
 江戸時代には、ことのよう大川山周辺の源流や池は、雨乞いの聖地となっていたことが分かります。
これが明治になると、システムが変化していくようです。
何が起こるかというと、雨乞い場所を自分たちの住む地域の周辺に下ろしてきて、そこに拠点を構えるようになるのです。
 大川神社の勧請分社の動きを、琴南町誌(789P)で見ていきましょう。
飯山の大川神社(丸亀市飯山町東小川日の口)
  ここは現在は「水辺の楽校公園」として整備されています。その上の土手に大きな碑や灯籠がいくつか建っています。3つ並んだ一番左の石碑に「大川神社」と大きく記されています。その由来を琴南町誌は、明治25(1892)年6月の大早魃の時、松明をたいて雨乞いをした。この時大雨が降ったので、飯野山から大きな石を引いて来て大川神社を祀ったと云います。ここは昔から地神さんが祀られていて、地域の雨乞所だったようです。大旱魃の時には「第2段階」として、大川神社の神を祀り雨乞いを行ったようです。すると必ず雨が降ったと伝えられます。
 いつの時代かに大川講のようなものができて、大川神社に代参して大川の神を迎えてここに祀って、雨乞いも行うようになります。三角(みかど)の聖水をもらってきて祀ったりもしたようです。ここからはもともとあった地主神があった所に、雨乞いの神として大川神社が後から勧進されたようです。そこには、やはり里の山伏たちの活動があったようです。



高篠の大川神社(まんのう町東高篠中分)

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まんのう町高篠の土器川堤防上の大川神社石碑
 土器川の左岸の見晴らしのいい土手の上に大川神社という大きな石碑が建っています。横に常夜灯もあります。祠などはありません。ここからは、象頭山がよく見えます。この石碑には、戦後の大早魃の際に、大川神社を勧請して、雨乞い祈祷したところ大雨を降らたので、ここに大石をたてて大川神社をお祀りしたと記されています。この地点は、東高篠への土器川からの導水地点でもあるようです。

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 以後、祭りは旧6月14日に神官を呼んでお祓いをして、講中のものがお参りしていたようです。講中は東高篠中分で50軒くらいで、家まわりに当屋のもの何軒かが世話をしていたと云います。。祭りの日は土器川の川原で市がたち、川原市といって大勢の人々が集まったようです。三日間くらい農具市を中心に市が開かれ、芝居、浪花節などの興行もあったと云います。 高篠の人たちが講を組織して勧進した大川山の分社なのです。ここにも山伏の影が見えます。
長尾の大川神社(まんのう町長尾札辻)
 長尾の辻にも大川神社という大きな自然石が立っています。これも大川山の大川神社を勧請して祀ったようです。いつ頃から祀られるようになったのかは分かりませんが、大正7(1918)年の大水にそれまでの碑が流されたので、再建したものだと伝えられます。この地点は、土器川の水を旧長尾村、岡田村などに引く札辻堰のあるところで重要ポイントです。早魃の時には、ここに大川神社を祀って雨乞いの祈願が行われたようです。
 長尾地区も江戸時代には、大川山に代参して御幣を請けてきたと伝えられます。しかし、勧進分社後には、ここの大川神社で雨乞い祈願が行われるようになったようです。ここにも講組織があり、旧長尾村一円の約200戸余りが講員となっていました。田植え後の旧6月14日には毎年お祭りをし、夜市が催され、余興などがにぎやかに行われていたと云います。
岡田の大川神社(綾歌町岡田字打越)
旧岡田村は、その地名通りに丘陵地帯で水田化が遅れた地域でした。そのために土器川の水を打越池を通じて導水し、各所に分水するという灌漑システムを作り上げました。その導水池である打越池の堤に、大川神社が勧進されています。それは昭和初年の大干ばつの際に、池総代の尽力で、大川神社の分神がお祀りされたものです。ここにも水利組合と大山講が重なるようです。

 飯山の東小川、まんのう町の高篠東・長尾・打越とみてきましたが、次のような共通があることが分かります。
①土器川からの導水地点に、大山神社が勧進された
②勧進したのは導水地点から下流の水掛かりの農民達で講を組織していた。それは水利組合と重なる。
③勧進時期は、近代になってからである
④勧進後は、そこで雨乞神事や祭りも行われていた

宇多津の大川講
宇多津にも大川講らしいものがあったようです。宇多津の山下長五郎は、昭和30年ごろまでは毎年大川山ににお参りしていたと語っています。この家では、大川神社の祭神木花咲屋姫命(安産の神)の掛軸が残っています。数人の講員が集まってお祀りしていたようなので大川講があったのでしょう。なぜ宇多津に大山講があったのでしょうか。それはこの講は、尾池玄蕃が大川神社を信仰していたことから来ているというのです。尾池玄蕃は生駒藩の西嶋八兵衛の下で、丸亀平野の統治を行い、大山念仏踊りのために鉦を寄進したり、滝宮念仏踊りの開催のためにいろいろと動いていることは以前にお話ししました。
多度津の大川神社(多度津町元町九)
 権現さんとも呼ばれますが、大正末期まで大川講があったようです。西讃府志に「大川祠堀之町ニアリ」、神社考に「大川大権現里社」とあります
富熊の大川神社 綾歌町富熊字奥河内
この神社は奥河内の山の上に勧進されていて、雨乞いよりも安産の神として地元の信仰を集めてきたようです。大山神社は、祀神として大山祗神と、その娘の木花咲耶姫命が祀られ、祀られた神社が、大川大権現と呼ばれていました。近世になると、修験者たちは木花咲耶姫命を「安産の神」として流行神化します。
 雨乞いとは関係のない地域では、山伏を通じて大川山の大川神社に参り安産のお札が配布されるようになります。そして、いつのころからか代表の者が参拝して、お札をまとめて受けてきて妊婦に分けるようになったと云います。それが後に、ここに大川神社を勧請してお祀りするようになったと伝えられます。
以上を、整理して起きます。

五流修験と金剛院

①霊山とされた大川山は、山林修行者の行場で8世紀末には、国衙によって中寺廃寺が建立される。
②中寺廃寺が平安時代末期に衰退すると、五流修験(熊野行者)たちが大山権現として開山した。
③彼らは修験者が開いた坊集落である金剛院集落を拠点に、大川山を霊山とする行場エリアを形成した。
④中世末になると、土器川上流の美霞洞などが雨乞の聖地とされ、大川山は雨乞信仰の霊山ともなる。
⑤雨乞い祈願を主導したのは、修験者たちで、土器川沿いの各村に大山講を組織し、大川山への参拝を誘引した。
⑥近代になって神仏分離で修験道組織が解体していくと、里の村々は地元に大山神社を勧進するようになる。
⑦それが土器川沿いに立つ大山神社関係の石造物である。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。(2025/08/24改訂版)
参考文献 
丸尾寛  日照りに対する村の対応
琴南町誌747P 宗教と文化財 大川神社 

柿茶ファンの地域ガイドがおすすめする 四国のここにも行ってみて!【大川山】 | 「柿茶」柿茶本舗ブログ 美容と健康に

満濃池から南を望むと低阿讃の山々が低く連なります。
その東奥の方に、周りから少し高くなったピラミダカルな山が目に付きます。これが大川山です。讃岐では2番目に高く、丸亀平野から見える山としては一番高い山になります。そして、土器川の源流にもなります。
①ピラミダカルな山容
②丸亀平野で一番高い山
③土器川の源流 
という3点からしても、この山が古代から霊山として丸亀平野の人たちから崇められてきたことが頷けます。

大山山から金毘羅地図
大川山と阿讃山脈の山々

大川神社の社伝には、この山を最初に祀ったのは、修験者が祖とする
役小角とされています。
彼が諸国を巡歴してこの大川山頂に達した時に、 一人の老翁が忽然と現れて
「われこそは大山祗神なり、常にこの山を逍遥し、普く国内の諸山を視てこれを守る。子わがために祠を建てよ」

と言ったと伝えられます。この神の御告げを受けて、小角は祠を建ててこの神を祀ります。ついで木花咲耶姫命をあわせ祀り、大川大権現と称し奉ったとされているようです。
 ここからは次のようなことが分かります。
①開祖が修験者の役小角であること
②山頂に祀られてのが大山祗神と、その娘の木花咲耶姫命であること
③祀られた神社は、大川大権現と呼ばれたこと
開祖を役小角とするということは、修験者たちの聖地や行場とされていたということでしょう。③の「大川大権現」と呼び名についても、中世に霊山が開かれるという事(=開山)は、権現が勧進されるということです。その勧進の主役は、修験者達だったことは以前にお話ししました。


大川神社 秋葉神2社
大川神社の中の秋葉神社

大川山信仰にも、石鎚信仰と同じようなスタイルが見えるようです
共通点を見ると、「役小角と権現勧進」でです。
さらに②からは、芸予諸島・大三島の大山祗神神社周辺で活躍した修験者達の影が見えてきます。彼らは熊野系で吉備児島・五流修験の流れとされています。五流修験は、修験道開祖の役行者が国家からの弾圧を受けた際に、弟子達が熊野を亡命し、新コロニーを児島に打ち立ててたと称する修験集団です。「新熊野」を名乗り、本島を始め瀬戸内海周辺に影響力を伸ばしました。
南無金毘羅大権現(-人-) | 【天禄永昌】大美和彌榮・天敬会 今泉聖天<圓密宗量剛寺>

 中世は修験者たちが活躍した時代です。
 現在の金毘羅山(大麻山)も修験者の修行ゲレンデで、多くの修験者たちが集まる「天狗の山」でした。彼らの中には、高野山で修行を積んだエリートもいました。その中から流行神としての金比羅神も生み出され、大権現として勧進され、金毘羅大権現として祀られるようになります。そして、大麻山の南半分は金比羅神の住処として象頭山と呼ばれるようになります。当時の修験者(山伏・時には密教僧侶)たちにとっては、金毘羅さんも大川山も権現で、自分たちの修行場であり聖地であったのでしょう。
 ここからは大川山が霊山として崇められていたことがうかがえます。しかし、中世に活躍した山伏や修験者たちは、大川山に古代の山岳寺院があったことは知らなかったようです。彼らの作った社伝には、一切でてきません。

 大川信仰の拠点となっていた古代の山岳寺院が発掘されて、その姿を現しています。中寺廃寺跡です。
大川山 中寺廃寺
中寺廃寺

大川山から北に伸びる尾根上に周辺の東西400m、南北600mの範囲に、仏堂、僧坊、塔などの遺構が見つかっています。創建時期は山岳仏教の草創期である9世紀にまでさかのぼるとされています。だとすると若き日の空海が、この山に登ってきて修行を重ねた可能性もあります。
中寺廃寺跡地図1

 割拝殿跡とされる空間からは、5×3間(10.3×6.0m)の礎石建物跡が出てきました。面白いのは、その中央方1間にも礎石があるのです。このため仏堂ではなく、割拝殿と研究者は考えているようです。割拝殿とは何なのでしょうか???
大川山 中寺廃寺割拝殿

上のイラストのように建物の真ん中に通路がある拝殿のことを割拝殿と呼ぶようです。この建物の東西には平場があります。一方の平場は本殿の跡で、一方の平場が大川山への遙拝場所と研究者は考えています。その下にある掘立柱建物跡2棟は小規模で、僧の住居跡だったようです。
中寺廃寺跡5jpg
中寺廃寺 遺跡配置

僧侶達は、ここに寝起きして周辺の行場で修行を重ねながら大川山を仰ぎ見て、朝な夕なに祈りを捧げていたようです。空海がもたらした密教は、祈祷や霊力を認めました。その霊力パワーのアップのためには、聖地での修行でポイントをため込む必要がありました。霊験・霊力の高い密教系僧侶(=修験者)は、天皇の近くで重用されることになります。この時代の密教系僧侶は、出世のためには聖地での修行が欠かせなかったのです。そのために国家や、国衙も官営の山岳寺院の建立を行うようになるのが10世紀後半です。この仲村廃寺は、規模や出てくる遺物などから地元の有力者などが建立したものではなく、讃岐国の官営山岳寺院として建立されたものと研究者は考えているようです。ここは多くの密教僧侶や修験者たちが修行を積んだ拠点でもあったのです。
大川山 割拝殿から
割拝殿から望む霊山 大川山

  なぜお寺は、大川山の山頂に建立されなかったのでしょうか?
 大川山は神が宿る霊山で、信仰の山でした。そして中寺廃寺は、遙拝所でした。霊山の山頂には、神社や奥院、祭祀遺跡や経塚が建てられますが、寺院が建立されることはありません。石鎚信仰の横峰寺や前神寺を見ても分かるように、頂上は聖域で、そこに登れる期間も限られた期間でした。人々は成就社や横峰寺から石鎚山を遙拝しました。つまり、頂上には神社、遙拝所には寺院が建てられたのです。

中寺廃寺跡 仏塔5jpg
中寺廃寺 仏塔

 また、生活レベルで考えると山頂は、水の確保や暴風・防寒などに生活に困難な所です。峰々は修行の舞台で、山林寺院はその拠点であって、あえて生活不能な山頂に建てる必要はなかったようです。

大川山 中寺廃寺

 B地区が大川山の遙拝所として利用され始めるのが8世紀
割拝(わりはい)殿や僧房などが建てられるのは10世紀頃になってからのようです。そして、律令体制が崩壊し、国衙の援助が受けられなくなった12世紀には衰退し、13世紀には活動痕跡がなくなるようです。ちなみに、中寺廃寺から讃岐山脈を、
東に向かえば、
大瀧寺 → 大窪寺 → 水主神社(東かがわ市)
西に向かえば、
尾野瀬寺(まんのう町春日 → 中蓮寺(三豊市財田町) → 雲辺寺(観音寺市大野原町)へ
と続き、さらに伊予の山岳寺院につながってました。このようなネットワークを利用して、熊野修験者や高野聖たちが「四国辺路」をめぐっていたようです。そのようなネットワークの一つが大川山であり、その拠点が中寺廃寺であったようです。
   中寺廃寺は中世には廃絶しています。しかし、寺院はなくなっても人々にとって聖地であり、霊山であり続けたようです。
それが分かるのがCゾーンに残された「石組遺構」です。調査報告書は、これを「石塔」としています。仏舎利やその教えを納めるという仏教の象徴としての「塔」です。「塔」を建てる行為は、功徳であり「作善行為」とという教えがあったようです。それは、野に土を積んで仏廟としたり、童子が戯れに砂や石を集めて仏塔とする行為まで含みます。つまり、「小石を積み上げただけでも塔」で「作善行為」だったというのです。

大川山 中寺廃寺石組遺構
石組遺構は作善の「塔」

童子が戯れに小石を積んで仏塔とする説話は、『日本霊異記』下巻に
村童、戯れに木の仏像を刻み、愚夫きり破りて、現に悪死の報を得る

と見えます。平安時代中頃には、石を積んで石塔とする行為が、年中行事化していたようです。「三宝絵」下巻(僧宝)は、二月の行事として、次のように記します。
  石塔はよろづの人の春のつつしみなり。
諸司・諸衛は官人・舎大とり行ふ。殿ばら・宮ばらは召次・雑色廻し催す。日をえらびて川原に出でて、石をかさねて塔のかたちになす。(中略)
 仏のの玉はく、『なげくことなかれ。慈悲の心をおし、物ころさぬいむ事をうけ、塔をつくるすぐれたる福を行はば、命をのべ、さいはひをましてむ。ことに勝れたる事は、塔をつくるにすぎたるはなし。
石を積むことは「塔」をつくることで「作善」行為として、階層を越えた人々に広がっていたようです。この中寺廃寺について言えば、石塔を積み上げたのは、讃岐国衙の下級官人や檀越となった有力豪族というよりも、大川山を霊山と仰ぐ村人・里人が「石塔」を行なったのではないかと研究者は考えているようです。
 中寺廃寺のAゾーンの本堂や塔などは、僧侶主体で「公的空間」であるのに対して、このCゾーン「石塔」は、大川山や中寺廃寺に参詣する里人達の祈りの場であり交流の場であったのかもしれません。ここで、大川権現に対しての祈りの後には、宴会が行われていたとしておきましょう。
 こうして、中世に中寺廃寺が姿を消しても、大川山が霊山であることに変わりはなかったようです。そして、この山を修行ゲレンデする修験者たちの姿が消えることもなかったのです。 
 ちなみに、この中寺廃寺周辺の山々は春は山桜が見事です。
「讃岐の吉野山」とある人は私に教えてくれました。是非、その頃に大川山詣でをして、この谷の河原で石積みを行いたいと思います。
大川山 中寺廃寺石組遺構2

 中世に霊山が開かれるという事(=開山)は、権現が勧進されるということでした。
その勧進の主役は修験者達でした。そして、権現を管理することになるのは里の別当寺でした。石鎚山を見てみると、役小角伝説が広がり、その門弟を祖とする「修行伝説」を生み出されます。その結果、どこの霊山も開祖は役小角となっていきます。そして、里には横峰寺や前神寺などの別当寺が姿を現すようになります。
 それでは、大川山信仰の別当寺はどこにあったのでしょうか?
残念ながらこれに答えられるような史料はありません。状況証拠を集め、候補のお寺を挙げてみましょう。
尾ノ背寺跡発掘調査概要 (I)
① 尾ノ背寺(まんのう町本目)
 大川山の西北の財田川を見下ろす尾根の上にある尾野瀬神社の境内にあった山岳寺院です。
尾瀬神社 - 仲多度郡まんのう町/香川県 | Omairi(おまいり)
尾野瀬神社(尾背廃寺跡)
この寺については、高野山の学僧道範が讃岐に追放されていた宝治二年(1248)11月に、ここを訪れ『南海流浪記』に次のように記しています
「此ノ寺ハ大師善通寺建立之時ノ杣山云々、本堂三間四面、本仏御作ノ薬師也、三間ノ御影堂・御影井二七祖又天台大師ノ影有之」
とに書いている。ここからは、尾ノ背寺が善通寺建立の際には、木材を提供するなど森林管理と同時に、奥の院的な役割を果たしていたことがうかがえます。
江戸時代に、金毘羅金光院に仕えた多聞院が編集した〔古老伝旧記〕に
「尾ノ背寺之事 讃州那珂郡七ケ村之内 本目村上之山 如意山金勝院尾野瀬寺右寺領
新目村 本目村  本堂 七間四面 諸堂数々、仁王門 鐘楼堂 寺跡数々、南之尾立に墓所数々有 呑水之由名水二ヶ所有(後略)」
とあります。
また大正七年(1918)の『仲多度郡史』には「廃寺 尾背寺」として
「今の尾瀬神社は、元尾ノ背蔵王大権現と称し、この寺の鎮守なりしを再興せるなり、今も大門、鐘突堂、金ノ音川、地蔵堂、墓野丸などの小地名の残れるを見れば大寺たりしを知るべし」
「古くは尾脊蔵王大権現と称えられ、雨部習合七堂伽藍にて甚だ荘厳なりしが、天正七年兵火に罹り悉く焼失。慶長十四年三月、その跡に小祠を建てて再興
(中略)
明治元年 尾ノ背に改め尾の瀬神社と奉称」
ここからは「尾脊蔵王大権現」と呼ばれ、山伏たちの活動拠点となっていたことがうかがえます。尾ノ背寺は、中寺廃寺が活動を停止した後も、中世を通じて活発な書写活動が行われていたことが萩原寺の経典などからも分かります。中寺廃寺に代わって、大山エリアまでテリトリーにおさめていたのではないかという仮説です。しかし、尾野瀬山からは、大川山を仰ぎ見ることはできません。遙拝所としては、弱いようです。
大川山 金剛院
炭所東の金剛院 裏山は全体が経塚

第二候補は、まんのう町炭所東の金剛院です。
  金剛寺は平安末期から鎌倉時代にかけて繁栄した寺院で、楼門前の石造十三重塔は、鎌倉時代中期に建立されたものです。寺の後ろの小山は金華山と呼ばれ、山全体が経塚だったことが発掘調査で分かっています。部落の仏縁地名や経塚の状態から見て、当寺は修験道に関係の深い聖地であったと研究者は考えているようです。
 想像を膨らませると、全国から阿弥陀越を通り、法師越を通ってこの地区に入った修験者の人々が、それぞれの所縁坊に杖をとどめます。そして、金剛寺や妙見社(現在の金山神社)に参籠し、看経や写経に努め、埋経を終わって後から訪れる修験者に言伝(伝言山)を残し、次の霊域を目指して旅立って行きます。それが「辺路修行」だったのです。これが、空海伝説と結びついていくと「四国遍路」になっていくと研究者は考えているようです。

大川山 金剛院2

 修験者たちは写経などのデスクワークだけをやっていたのではありません。霊山行場で修行も求められました。大川山は、最適の修行ゲレンデです。山での荒行と、写経がミックスされた修行を、この地で行い、写経が終わると、次の行場に向かって「辺路修行」に旅立って行ったのでしょう。 大川山の里の別当寺としては、こちらの方が可能性が高いようです。金剛院は、大川山信仰の別当寺だったという仮説を出しておきましょう。
中寺廃寺跡 塔跡jpg
中寺廃寺跡 仏塔跡
全国からやってきた修験者(山伏)たちの中には、里の寺院を拠点に周辺の村々に布教活動を行う者も現れます。
 高野聖の念仏聖たちは里の人々と交流を続けながら自分たちの聖地に、信者達を参拝に連れてくるという方法を採用します。それは熊野詣に始まり、立山詣や、富士詣につながっていく先達が信者達を聖地に誘引するというやり方です。これは、今の四国霊場巡りにもつながるスタイルです。
 死者の霊の集まるといわれた三野町の弥谷寺に住み着いた高野聖は、先祖詣りを勧め、そしてその延長に高野山への先祖納骨活動を展開します。それが三豊では弥谷寺でした。
 また、近世になると石鎚信仰や剣信仰のように先達が里の信者を誘引して、霊山への集団登山という活動を展開する別当寺も現れるようになります。
  それでは、大川山周辺の修験者や山伏たちは、大川山をどのように売り出そうとしたのでしょうか。
  それは、また次回に
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献  琴南町誌747P 宗教と文化財 大川神社
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中寺廃寺の石組遺構は、なんのために積まれたの  

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中寺廃寺遊歩道
中寺廃寺はA・B・Cの3つのゾーンに分けられています。
ここまで来たらCゾーンにも行かねばならぬと足を伸ばすことにします。Cゾーンは、塔のあるAゾーンから谷をはさんだ南の谷間にあります。
 お手洗いの付属した休憩所の上から谷間に下りていく急な散策路を下っていきます。人が通ることが少ないようで、これでいいのかなあと思う細い道を下っていくと・・・猪除けの柵が現れ、進むのを妨げます。「石組遺構」らしきものはその向こうの平場にあるようです。柵を越えて入っていきます。

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中寺廃寺Cゾーン

あちらこちらに石組跡らしきものはありますが、崩れ落ちていて石を積んだだけに見えます。その配列や大きさにも規則性はないようです。私が最初の推察は「墓地」説でした。この寺院の僧侶の墓域ではないかと思いました

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中寺廃寺石組遺構
後日に手に入れた報告書を読むとこう書かれていました。
「当初、「墓地」の可能性を考え下部に蔵骨器や火葬骨などの埋葬痕跡の有無に注意を払った。しかし、外面を揃えて大型の自然石を積み、内部に小振りの自然石を不規則に詰め込むという手法に、墓地との共通性はあっても、埋葬痕跡はまったくなく、墓の可能性はほぼ消滅した。」
 山林寺院に墓地を伴う例はありますが、墓地が形成されるのは中世(平安後期)以降のことのようです。この中寺廃寺は中世には廃絶しています。

それでは何のために作られたものなのだろう?

報告書にはそれも書かれていました。読んでいて面白かったので紹介します。
報告書の推論は「石塔」説です。仏舎利やその教えを納めるという仏教の=象徴としての「塔」、あるいは象徴としての「塔」を建てる行為は功徳であり「作善行為」とという教えがあったようです。
  『法華経』巻2「方便品」には次のように記します。
在家者が悟りを得る(小善成仏)のために、布施・持戒などの道徳的行為、舎利供養のための仏塔造営と荘厳、仏像仏画の作成、華・香・音楽などによる供養、礼拝念仏などを奨励する。
その仏塔造営には、万億種の塔を起し=て金・銀・ガラス・宝石で荘厳するものから、野に土を積んで仏廟としたり、童子が戯れに砂や石を集めて仏塔とする行為まで、ランクを付けて具体例を挙げる。つまり、「小石を積み上げただけでも塔」なのである。
 童子が戯れに小石を積んで仏塔とする説話は、『日本霊異記』下巻に次のように見えます。
村童、戯れに木の仏像を刻み、愚夫きり破りて、現に悪死の報を得る
 平安時代前期には民間布教に際に語られていたようです。また、平安時代中頃までに、石を積んで石塔とする行為が年中行事化していた例もあります。 「三宝絵」下巻(僧宝)は、「正月よりはじめて十二月まで月ごとにしける、所々のわざをしるせる」巻です。その二月の行事として「石塔」のことが次のように記されています。
石塔はよろづの人の春のつつしみなり。諸司・諸衛は官人・舎人とり行ふ。殿ばら・宮ばらは召次・雑色廻し催す。日をえらびて川原に出でて、石をかさねて塔のかたちになす。『心経』を書きあつめ、導師をよびすへて、年の中のまつりごとのかみをかざり、家の中の諸の人をいのる。道心はすすむるにおこりければ、おきな・わらはみななびく。功徳はつくるよりたのしかりけば、飯・酒多くあつまれり。その中に信ふかきものは息災とたのむ。心おろかなるものは逍邁とおもへり。年のあづかりを定めて、つくゑのうへをほめそしり、夕の酔ひにのぞみて、道のなかにたふれ丸ぶ。 しかれどもなを功徳の庭に来りぬれば、おのづから善根をうへつ。『造塔延命功徳経』に云はく、「波斯匿王の仏に申さく、「相師我をみて、『七日ありてかならずをはりぬべし」といひつ。願はくは仏すくひたすけ賜へ』と。仏のの玉はく、『なげくことなかれ。慈悲の心をおし、物ころさぬいむ事をうけ、塔をつくるすぐれたる福を行はば、命をのべ、さいはひをましてむ。ことに勝れたる事は、塔をつくるにすぎたるはなし。
意訳変換しておくと
石を積んで石塔を作ることは、すべての人達の春のたしなみである。諸司・諸衛はもとより、官人・舎人までが行う。殿ばら・宮ばらなどの貴人は、召次・雑色に石を積ませる。吉日を選んで川原に出でて、石を積んで塔のかたちにする。『心経』(経典)集めて、導師(僧侶)を呼んで、年中行事で祈願したお札を飾って、家内安全を祈る。大人たちが信心するので、翁や童もみんな従う。御供えなどを作るのも功徳なので、飯・酒が多く集まってくる。その中の信心深いものは、息災を祈る。心愚かな者は、好機到来と思う。年のあづかりを定めて、並べられた食事をほめそしり、夕の酔ひにふけり、道に倒れ込んでしまう者も現れる。
 しかし、功徳の庭がやってくれば、おのづから善根が心に宿る。『造塔延命功徳経』は次のように諭す。「波斯匿王の仏が申すには、「我を見て、『七日ありてかならずをはりぬべし」といひつ。願はくは仏救い助けたまへ』と。
 仏のおっしゃるには『嘆くことなかれ。慈悲の心を起こして、殺生せずに、
塔をつくる福(積善)を行えば、長生きし、幸福が増す。、そのためには、塔をつくることだ。」と

ここからは石を積むことは「塔」をつくることで「作善」行為とされていたことが分かります。
山に登って、ケルンを積むのも「作善」とも言えるようです。わたしも色々なところで石を積み無意識に「作善」してきたことになるのかもしれません。さて、この『三宝絵詞』が描く年中行事としての「石塔」の記録から分かることがいろいろあります。 報告書は次のように続けます。

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中寺廃寺石組遺構
 まず、重要なのは、「石塔」を積む場が「川原」であることです。
 川原は葬送の地、無縁・無主の地で、彼岸と此岸の境界でもあります。そして「駆込寺」が示すように、寺院はアジールであり、時には無縁の地ともなります。中寺廃寺C地区は、仏堂・塔・僧房などの施設があるA地区やB地区とは、谷を隔てた別空間を構成しています。C地区は葬地でなくても「川原」だと考えられます。石組遺構が、谷地形に集まっているのも、それを裏づけるとします。これは後世の「餐の河原」に通じる空間とも言えます。
このC地区に37残る石組遺構は、年中行事である[石塔]として毎年春に作られて続けたものだと研究者は推測します。。   
次に報告書が注目するのは「石塔」が「よろずの人の春のつつしみ」とあることです。


『三宝絵詞』は、石塔を積んだ人たちを「諸司・諸衛の官人・舎人」や「殿ばら・宮ばら」配下の「召次・雑色」が、「石を重ねに塔の形にする」した人々とします。しかし、この中寺廃寺について言えば、石塔を積み上げたのは、讃岐国衙の下級官人や檀越となった有力豪族だけでなく、大川山を霊山と仰ぐ村人・里人も、「石塔」を行なったはずです。Aゾーンの本堂や塔などの法会は僧侶主体で「公的空間」であるのに対して、このCゾーン「石塔」は、大川山や中寺廃寺に参詣する俗人達の祈りの場であり交流の場であったのではないでしょうか。

卯月八日の「山遊び」は山の神を迎えるため

民俗学では「山遊び」は、「山の神を迎えるための儀式」ともとらえているようです。花を依代(よりしろ)に山の神を連れ戻り、田の神として迎える。これは盆花に先祖の霊がついてくるという考えと似ているからでしょうか。

ここでは、祈りと宴会が行われていた? 
そうすると「春」という季節や、単に石を積むだけでなく「飯・酒多くあつまれ」という饗宴行為もぴったりと理解できます。春にその年の豊饒を願う「春山入り仰山遊び仰国見」「花見」や「磯遊び仰川遊び」などの中に「石塔」もあったようです。讃岐山脈の雪が消え、春の芽吹きの頃、山桜の咲く頃に、豊作祈願や大川|山からの国見を兼ねて中寺廃寺に参詣します。その時に、C地区で石を積む姿が見えてくるようです。
 ちなみに、この中寺廃寺周辺の山々は春は山桜が見事です。「讃岐の吉野山」とある人は私に教えてくれました。その頃に大川山詣でをする人たちがこの谷に立ち寄って、石を積み上げていたのかもしれません。その石組みが今にそのまま伝わっていることになります。
 大川山を霊峰と仰ぐ里の住民は、官人・豪族・村人の階層を問わず、中寺廃寺に参詣したはずです。中寺廃寺C地区の石組遺構群は、そうした地元民衆と寺家との交流の場だったのかもしれません。

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 報告書は更にこう続けます。  
「石塔」行事の場である「川原」が、平安京に隣接する鴨川などの川なら、官人や雑色が積み上げた「石塔」が遺構として残る可能性は限りなくゼロに近い。平安代後期まで存続せず、炭焼が訪れる以外は、人跡まれな山中に放置された中寺廃寺の方形石組構であるからこそ残ったのである。もし、中寺廃寺が中世まで存続したら、付近で墓地が展開した可能性は高く、埋葬をともなわない「石塔」空間を認識することは困難になったかもしれない。
つまり「平安時代のまま凍結した山寺院関係の遺跡=中寺廃寺」だからこそ残った遺構なのです。そして「石塔」とすれば、はじめての「発掘=発見」となるようです。

追補 中寺廃寺の石組遺構については、次のように集団墓地説もあります。
  集団墓地の成立を考える上で非常に示唆的な遺構が、まんのう町の中寺廃寺跡に所在する。
この遺跡では平面方形状の集石遺構を合計37基検出した。四方の側壁はほぼ垂直に人頭大の角傑を積み、内部には拳大の角傑を充填する。この集石遺構は、集団墓地中隻石墓と群構造・規模・形状・構築方法などが類似している。
 遺構の密集している景観は、普遍的な集団墓地景観そのものと言えよう。中寺廃寺跡集石遺構については、類似遺構がある山岳寺院との比較などから、塔の可能性が指摘されている。塔は本来釈迦の遺骨である仏舎利を祀る施設なので、たとえ遺体や遺骨が埋納されてなくても墓と認識されていた。また同様の集石遺構としては、経塚の上部遺構に集石を伴う事例がある。 この時期には塔や経塚、墳墓の機能が完全に分化しておらず、いずれも聖地・霊地における象徴的な装置の役割を担っていた。このように塔あるいは塔に伴う信仰や、聖地・霊場の重要な装置という位置付けから派生して、中世段階の集団墓地中に塔を模倣した集石墓や集団墓地の景観が形成されたという解釈も可能ではないだろうか。
 海港 博史 讃岐の中世屋敷墓・集団墓 中寺廃寺        香川歴史紀行52P
 参考文献 
上原 真人 中寺廃寺跡の史的意義 調査報告書第3集


まんのう町中寺廃寺跡を江畑道より歩く

教育委員会のTさんに「この季節の中寺廃寺は紅葉がいいですよ。江畑道からがお勧めです」と言われて、翌日、天候も良かったので原付バイクで江畑道の登山口を目指す。

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春日と内田を結ぶ中讃南部大規模農道を走って行くと江畑に「中寺廃寺」の道標が上がっている。この道を金倉川源流に沿って登っていく。 すると塩入から伸びてきている林道と合流する。これを左に曲がり砂防ダムに架かる橋を越えて奥へ入って行く。

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しばらくすると20台は駐車できそうな駐車場が左手に見えてくる。そこから尾根にとりついていく。
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しばらくは急勾配が続くが、もともとは江畑からの大山参拝道であり、南斜面の大平集落を経て阿波との交易路であった道で、旧満濃町と仲南町の町境でもあったためしっかりとした道で歩きやすい。迷い込み易いところには標識がある。
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 高度が上がると大きな松の木が多くなるが、この辺りはかつては松茸の本場であった所。この時期にこの付近の山に入って、「誰何」されたことがある。苦い思い出だ。
しかし、今は下草が刈られない松林に松茸は生えない。松茸狩りの地元の人にも出会わない。出会う確率が高いのは猪かもしれない。
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 傾きが緩やかになると標高700㍍付近。
展望はきかないが気持ちのいい稜線を歩いて行くと鉄塔が現れる。私の使っている地形図は何十年も前のものだから高圧線が書き込まれていて、現在地確認の際のランドマークタワーの役割を果たしてくれる。しかし、最近の地形図には「安全保障」上のため政府からの要請で記入されなくなったと聞く。何か釈然としない。
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そんなことを考えながら歩いていると柞野から道の合流点と出会う。
柞野にも立派な広い駐車場が作られ、ここまでの道も整備された。流石「国指定史跡」になっただけはある。
そして、すぐに分岐点。まずは、展望台を目指す。
最後の急登の階段を登ると・・
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 ここからの展望は素晴らしい。

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燧灘の伊吹島から象頭山の向こうの荘内半島、
そして眼下に横たわる満濃池、讃岐平野の神なびく山である飯野山

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さらに、東は屋島から高松空港。
「讃岐山脈随一の展望を誇る」と説明板に書かれていたが、そうかもしれない。展望台も新築されたばかりで気持ちいい。ここにシュラフとコッフェルを持ってきて「野宿」したら気持ちいいだろうなと思ってしまう。
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展望を楽しんだ後は、中寺廃寺の遺構めぐり。
その前に準備してきたペーパーと説明板で復習。
 この辺りは、「中寺」「信が原」「鐘が窪」「松地(=末寺)谷」という寺院関係の地名が残るなど、大川七坊といわれる寺院が山中にあったと地元では言い伝えられてきた。しかし、寺院のことが書かれた文書はなく、中寺廃寺跡は長らく幻の寺院であった。
昭和56年以後の調査で、その存在が明らかとなってきた。
  中寺廃寺跡とは、展望台の周辺の東西400m、南北600mの範囲に、仏堂、僧坊、塔などの遺構が見つかっている平場群の総称で、東南東に開いた谷を囲む「仏」「祈り」「願」の3つのゾーンからなる。
創建時期は山岳仏教草創期である9世紀にまでさかのぼるとされている。
まずは遺跡の中で一番最初に開かれたとされる「祈り」ゾーンへと向かう。
やって来たのは展望台から東に張り出した尾根の平坦部。土盛り部分が見えてきた。

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ここから出てきた礎石建物跡は5×3間(10.3×6.0m)で、その中央方1間にも礎石がある点が珍しい。このため、仏堂ではなく、礎石配列から割拝殿と考えられる。ここから見上げる大川山の姿は美しい。
割拝殿とは???
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こんな風に真ん中に通路がある拝殿のことを割拝殿と呼ぶようだ。
この建物の東西には平場があるが、一方の平場は本殿の跡であり、一方の平場は参詣場所と考えられる。
 その下にある掘立柱建物跡2棟は小規模で、僧の住居跡とされている。
僧侶達は、ここに寝起きして大川山を仰ぎ見て、朝な夕なに祈りを捧げられたのだろうか。昔訪れた四国霊場横峰寺の石鎚山への礼拝所の光景が、私の中には重なってきた。
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僧の住居跡とされる掘立柱建物跡2棟部分だ。
遺構跡は、埋め戻されて保護されている。松林の間を抜けて、今度は「仏ゾーン」へ向かう。
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ここには南面して、仏堂と塔があった。
標高高723m地点で、3間(5.4m)×3間(5.4m)の礎石建物跡で、強固に盛土された上に礎石が置かれていた。心礎の真下からは、長胴甕が置かれ、周囲が赤く焼かれた壺5個が出土している。この塔を建てる際に行われた地鎮・鎮檀具鎮のためのものであろうとされている。塔跡礎石は和泉砂岩製で、成形されていない不定形なままの自然石である。同じような石が付近の谷にごろごろしているため山中の自然石を礎石として用いられたようだ。遺構保護のため、遺構には盛土を行い礎石建物については元の礎石によく似た石で礎石の位置を表す方法で保存されているという。
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礎石に腰掛けて、想像力を最大限に羽ばたかせてみるが、千年前のこの山中にこんな塔が立っていたとは、なかなか想像できない。
どんな勢力が背景にいたのか。
僧侶はどんな生活を送っていたのか。
地元勢力との関係は? 
金剛院や尾瀬寺との関係は?
分からないことが多く、????が頭の中を飛び交う。
ヒントは、この塔跡と仏堂跡の配置が讃岐国分寺と相似関係にあり、国分寺勢力との関係が考えられているようだ。西国の国分寺を再興した大和西大寺の律宗の影の影響下にあったのだろうか。出土品も西播磨産の須恵器多口瓶や中国の越州青磁椀などの高級品も出土しており、平安期においてはこの地域では有力な山岳寺院であったようだ。
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そしてやって来たのがお手洗い。
なんとバイオトイレです。高い山の山小屋ではよく見るが、まんのう町で経験するのは初めて。一時的な避難所の役割も兼ねているようだ。
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ここまでは稜線上の中寺駐車場からコンクリート道が続いており、非常時には車両も入って来れる。
しかし、落葉の今は、この通り。
落葉の絨毯だ。
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手洗い場から中寺道を南へ少し歩くと「願いゾーン」への道標と看板がある。ここから急な斜面をジクザクに5分ほど下りていくと・・
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落葉の積もった説明板が見えてきた。
石積遺構は、この猪柵の向こう側のようだが・・・
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なんとか柵を乗り越えて入れた平坦地には、至る所に石積遺構が見える。古代山岳寺院では、寺域内に祭祀的な場所があったそうです。
当時は、ここから谷を隔てて、谷向かいの拝殿や塔を見渡せた。そのため寺院の一部である石塔でだとされる。
平安時代中期からは、石を積んで石塔として御参りすることが民衆の中にも広がっていた。民衆が大川山への参拝の折に訪れ、ここに石を積んで石塔を作り、祈った場所ということになるのだろうか。
どちらにしても、後の時代の人たちが立ち入ることなく時代を経た場所で、平安時代の人々の息づかいを感じることが出来る所なのかもしれない。霊力のない私には難しいが・・
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近隣の尾瀬寺廃寺の遺構よりも、山岳寺院の姿がより鮮やかにイメージできる場所だった。
なお、中寺廃寺を起源とする寺院として『琴南町誌』198には、次の寺院が紹介されている。
 浄楽寺:丸亀市垂水町
藤田山城守頼雄、天台宗に属し塩入に開く。その子西園が永禄年中(1559-)に浄土真宗に改宗。9代日正円の時に現位置に移転。塩入地区の伝承によると浄楽寺は元々中寺にあったとのこと。現在でも塩入には浄楽寺の門徒が二十数件ある。
 願誓寺:丸亀市垂水町
天文年間(1532-)沙門連海が江畑に浄土真宗の庵をむすぶ。江畑 地区の伝承によると願成寺は元々中寺にあったとのこと。現在でも江 畑には願成寺の門徒が十数件ある。
 永覚寺:綾歌郡綾川町東分甲
「永覚寺縁起」によると永覚寺の開基空円(大和の法蔵寺)が天禄2年(971)に大川宮の別当職をしたと伝えている。まんのう町中通に 所在したが、天正年間に火災にあい現在の土地に移る。現在でも琴南地区には永覚寺の門徒が多い。
 称名寺:まんのう町内田
大川中寺の一坊で杵野の松地にあったが造田に移ったとされる。長禄年間(1457-)に浄土真宗に改宗し 内田に移転する。琴南地区の伝 承によると 浄楽寺は元々中寺にあったとのこと。
 教法寺:徳島県三好郡東みよし市足代
大平地区の伝承によると、もともと中寺にあったが、大平の庵に移り、その後現在の場所に移ったとされる。
紅葉のいい季節に登れたことに感謝しつつ山を下りた。


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