瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:大川念仏踊り

讃岐の雨乞念仏踊りを見ています。今回はまんのう町の大川念仏踊りを見ていくことにします。問題意識としては、この念仏踊りは滝宮念仏踊を簡素化したような感じがするのですが、滝宮への踊り込みはなかったようです。どうして滝宮から呼ばれなかったのかを中心に見ていこうと思います。

大川神社 1
大川権現(神社) 讃岐国名勝図会

 大川念仏踊りは、大川神社(権現)の氏子で組織されています。
大川神社の氏子は、造田村の内田と美合村の川東、中通の三地区にまたがっていました。
大川神社 念仏踊り
大川念仏踊り 大川神社前での奉納
大川念仏踊りは古くは毎年旧暦6月14日に奉納されていました。それ以外にも、日照が続くとすぐに雨乞の念仏踊を行っていたようで、多い年には年に3回も4回も踊った記録があります。そして不思議に踊るごとに御利生の雨が降ったと云います。現在では7月下旬に奉納されています。かつての奉納場所は、以下の通りでした。
①中通八幡神社で八庭
②西桜の龍工神社で八庭
③内田の天川神社で三十三庭
④中通八幡社へ帰って三十三庭
⑤それから中通村の庄屋堀川本家で休み、
⑥夜に大川神社へ登っておこもりをし、翌朝大川神社で二十三庭
⑦近くの山上の龍王祠で三十二庭
⑧下山して勝浦の落合神社で三十三庭
2日間でこれだけ奉納するのはハードワークです。

大川神社 神域図

現在の大川神社 本殿右奥に龍王堂
今は、次のようになっているようです。
①早朝に大川山頂上の大川神社で踊り、
②午後から中通八幡神社、西桜の龍王神社など四か所
もともとは大川神社やその傍の龍王祠に祈る雨乞踊です。その故にかつては晩のうちに大川山へ登り、雨乞の大焚火をして、そこで踊ったようです。

大川神社 龍王社
大川神社(まんのう町)の龍王堂

大川念仏踊は、滝宮系統の念仏踊ですが、滝宮牛頭天王社や天満宮に踊り込みをしていたことはありません。
 奉納していたのは大川権現(神社)です。大川山周辺は、丸亀平野から一望できる霊山で、古代から山岳寺院の中寺廃寺が建立されるなど山岳信仰の霊地でもあったところです。大川権現と呼ばれていたことからも分かるように、修験者(山伏)が社僧として管理する神仏混淆の宗教施設が大川山の頂上にはありました。そして霊山大川山は、修験者たちによって雨乞祈願の霊山とされ、里山の人々の信仰を集めるようになります。

大川神社 本殿東側面
大川神社 旧本殿
由来には、1628(寛永5)年以後の大早魅の時に、生駒藩主の高俊が雨乞のため、大川神社へ鉦鼓38箇(35の普通の鉦と、雌雄二つの親鉦と中踊の持つ鉦と、合せて38箇)を寄進し、念仏踊をはじめさせたとします。以来その日、旧6月14日・15日が奉納日と定めたとされます。

 それを裏付ける鉦が、川東の元庄屋の稲毛家に保管されています。
縦長の木製の箱に収められて、次のように墨書されています。
箱のさしこみの蓋の表に「念佛鐘鼓箱、阿野郡南、川東村」
その裏面に、「念佛鐘鼓拾三挺内、安政五年六月、阿野郡西川東村什物里正稲毛氏」
しかし、今は38箇の鐘は、全部があるわけではないようです。稲毛氏に保存されている鉦には、次のように刻まれています。

大川神社に奉納された雨乞い用の鉦
「奉寄進讃州宇多郡中戸大川権現鐘鼓数三十五、但為雨請也、惟時寛永五戊辰歳」
裏側に
「国奉行疋田右近太夫三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛  願主 尾池玄番頭」
意訳変換しておくと
讃岐宇多郡中戸(中通)の大川権現(大川神社)に鐘鼓三十五を寄進する。ただし雨乞用である。寛永五(1628)年
国奉行 三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛 
願主 尾池玄蕃

    この銘からは、次のようなことが分かります。
①寛永5年に尾池玄蕃が願主となって、雨乞いのため35ヶの鉦を大川権現に寄進したこと
②大川山は当時は権現で修験者(山伏)の管理する神仏混淆の宗教施設であったこと。
③当時の生駒藩の国奉行は、三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛の3人であった。
④願主は尾池玄蕃で、藩主による寄進ではない。
当時の生駒藩を巡る情勢を年表で見ておきましょう。
1626(寛永3)年 4月より旱魃が例年続きり,飢える者多数出で危機的状況へ
1627(寛永4)年春、浅田右京,藤堂高虎の支援を受け惣奉行に復帰
同年8月 西島八兵衛、生駒藩奉行に就任
1628(寛永5)年10月 西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手
1630(寛永7)年2月 生駒高俊が,浅田右京・西島八兵衛・三野四郎左衛門らの奉行に藩政の精励を命じる
1631(寛永8)年2月 満濃池完成.
同年4月 生駒高俊の命により,西島八兵衛・三野四郎左衛門・浅田右京ら白峯寺宝物の目録作成
ここからは次のようなことが分かります。
①1620年代後半から旱魃が続き餓死者が多数出て、逃散が起こり生駒家は存亡の危機にあった
②建直しのための責任者に選ばれたのが三野四郎左衛門・浅田右京・西島八兵衛の三奉行であった
③奉行に就任した西嶋八兵衛は、各地で灌漑事業を行い、ため池築造に取りかかった。
④大川権現に、雨乞い用の鼓鐘寄進を行ったのは、満濃池の着工の年でもあった。
⑤難局を乗り切った三奉行に対して、藩主生駒高俊の信任は厚かった。
⑥生駒藩の国奉行の3人の配下の尾池玄蕃が大川権現に、鉦35ヶを雨乞いのために寄進した。

この鐘鼓が寄進された時期というのは、生駒藩存続の危機に当たって、三奉行が就任し、藩政を担当する時期だっただったようです。大川権現に「鐘鼓数三十五」を寄進したのも、このような旱魃の中での祈雨を願ってのことだったのでしょう。ただ注意しておきたいのは、由来には鉦は生駒藩主からの寄進とされていますが、銘文を見る限りは、家臣の尾池玄蕃です。
 寄進された鉦の形も大きさも滝宮系統念仏踊のものと同じで、踊りの内容もほぼ同じです。ここからは大川念仏踊りは、古くからの大川神社の雨乞神とは別に、寛永5年に生駒藩の重臣達によって、新たにここに「移植」されたものと研究者は考えているようです。

大川念仏踊りの歌詞
 南無阿弥陀仏は、
「なむあみど―や」
「なっぼんど―や」
「な―む」
「な―むどんでんどん」
「なむあみどんでんどん」
「な―むで」
などという唱号を、それぞれ鉦を打ちながら十数回位ずつ繰り返しながら唱います。その間々に法螺員吹は、法螺員を吹き込む。こうして一庭を終わります。
その芸態は、滝宮系念仏踊と比べると、かなり簡略化されたものになっていると研究者は評します。滝宮系では中踊は大人の役で、子踊りが十人程参加しますが、それは母親に抱かれて幼児が盛装して、踊の場に参加するだけで実際には踊りません。ところが大川念仏踊は、子踊りがないかわりに、中踊りを子供が勤めます。

滝宮念仏踊と大川念仏踊りには、その由来に次のような相違点があります。
①滝宮念仏踊りは、その起源を菅原道真の雨乞祈祷成就に求める
②大川念仏踊は、生駒藩主高俊が鉦を寄進して、大川山(大川神社)に念仏踊を奉納したことに重点が置かれている
踊りそのものは滝宮系念仏踊であるのに、滝宮には踊り込まずに地元の天川神社や大川神社に奉納する形です。
どうして、大川念仏踊りは滝宮に踊り込みをしなかったのでしょうか? 
それは、滝宮牛頭天王社とその別当寺の龍燈院が認めなかったからだと私は考えています。龍燈院は牛頭天王信仰の神仏混淆の宗教センターで、滝宮を中心に5つの信仰圏(北条組、坂本組、鴨組、七箇村組、滝宮組)を持っていました。そのエリアには龍燈院に仕える修験者や聖達が活発に出入りしていました。その布教活動の結果として、これらの地域は念仏踊りを踊るようになり、それを蘇民将来の夏越し夏祭りの際には、滝宮に踊り込むようになっていたのです。踊り込みが許されたのは、滝宮牛頭天王信仰の信仰エリアである北条組、坂本組、鴨組、七箇村組、滝宮組だけです。他の信者の踊り込みまで許す必要がありません。
 そういう目で見ると、大川権現は蔵王権現系で、滝宮牛頭天王の修験者とは流派を異にする集団でした。それが生駒藩の寄進を契機に滝宮系の念仏踊りを取り入れても、その踊り込みまでも許す必要はありません。こうして新規導入された大川念仏踊りは、滝宮牛頭天王社に招かれることはなかったのだと私は考えています。

以上をまとめておきます
①大川山は丸亀平野の霊山で、信仰を集める山であった。
②古代には中寺廃寺が国府主導で建立され、讃岐の山岳寺院の拠点として機能した。
③中世には大川権現と呼ばれるようになり、山岳修験の霊地とされ多くの修験者が集まった。
④近世初頭の生駒藩時代に大旱魃が讃岐を襲ったときに、尾池玄蕃は雨乞い用の鉦を大川権現に寄進した。
⑤これは具体的には、滝宮念仏踊りを大川権現に移植させようとする試みでもあった。
⑥こうして大川権現とその周辺の村々では、大川念仏踊りが組織され奉納されるようになった。
⑦しかし、大川権現と滝宮牛頭天王社とは、修験者の宗派がことなり、大川念仏踊りが滝宮に踊り込むことはなかった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 讃岐雨乞踊調査報告書(1979年) 15P 雨乞い踊りの現状」

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DSC04686
櫛梨山(琴平町)からのぞむ大川山
丸亀平野から南を望むと、低くなだらかな讃岐山脈が東西に連なります。その山脈の中にピラミダカルな盛り上がりが見えるのが大川山です。この山頂に石垣を積んで、大川(だいせん)神社の神域はあります。今回は、大川山頂上の玉垣に囲まれた神域にある殿舎を見ていくことにします。

大川神社 神域図
大川神社
キャンプ場から遊歩道を登っていくと、この神域南側の改段下の広場に着きます。

大川神社 正面

ここが大川念仏踊りが踊られる舞台ともなります。

大川神社 念仏踊り
大川神社の鳥居の前で舞われる念仏踊り 
ここには空海の祈雨祈願伝承の「善女龍王」伝説が伝えられ、小さな池が社前にはあったとされます。 

大山神社2 2025 11月11日

この説明版には大川神社の由来を次のように記します。
大川神社には木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)と大山津見命(おおやまみのみこと)が祀られています。『古事記』や『日本書記』によると、木花之佐久夜毘売命は、花が咲いたに美しい神とあり、邇邇芸命(にぎのみこと)に嫁ぎました。説話では、火が燃えさかる産屋の中で火照命(海彦)、火須勢理命、火遠理命(山彦)の三人の男の子をつぎつぎに生んだそうです。
 このことから、後世、安産の神様として信仰されてきました。また、火を噴く山の神霊を鎮めるため、かつて活火山であった富士山や、浅間山にも祀られ信仰されています。
 大山津見命は木花之佐久夜毘売命の父君といわれ、山の神様として、また農耕の神様として信仰されてきました。社伝によると聖武天皇の頃、天平四だいかんばつ年(七三二)に大旱魃があり、時の国司が大川神社に恵みの雨を祈ると、一天にわかにかき曇り大雨が降ったそうです。それ以来、祈雨の神様として歴代国主の信仰厚く、讃岐、阿波はもとより四国中からも尊崇されてきたということです。
 そして、大川神社では旧暦六月十四日、大川念仏踊りが行われています。
ここには古事記や日本書紀に書かれている神話だけの紹介で、中世や近世にこの神社が果たした役割や、この神社をめぐる動きについては何も触れられていません。

江戸時代後半に書かれた増補三代物語には次のように記されています。
①大山大権現社は、大川山の山頂に鎮座する。何神を祀るか分からないが、山神や龍族を祀るのであろう。昔は阿讃土予の四国の人々の崇敬を集めていたという。六月朔の祭礼や、②大干ばつの際には人々は鐘や鼓を鳴らし、降雨を祈願すると、必ず雨が降った。 ③祠の前に小池があり、雨乞い祈願し雨が降る際には、小蛇が現れて水が吹き出す。するとにわかに雲が湧き、大雨となる。④かつては天台宗寺奉守がいたが今は廃絶し、今は社家が祭礼を主催する。⑤大川は大山の音転で、元々は伊予の大山積神である。
 寛永年間に、⑥生駒家家臣の尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したが、年月が経ち多くが破損した。そこで⑦承応二年に(高松藩主)先君英公がこれを修繕した。その後、山火事で延焼したのを、寛文十二年に英公更が再建した。⑧元禄十二年に節公が阿讃国境の検分の際に修理した。⑨宝永六年には、また焼け落ちたが、恵公の寄進された穀類で興復することができた。近頃、⑩雨乞いの時の曲を、一名大川曲ともいう。
ここからは次のような情報が読み取れます
①社名は「大山大権現社」で、修験者の霊山である大権現を名のっていたこと
②山神や竜神を祀る神社で、雨乞いの霊山として信仰されていたこと
③社の前に小池があり、子蛇が現れると雨が降ると「善女龍王」伝説を伝えること
④かつては天台宗の別当寺が神社を管理していたこと(中寺廃寺の伝承)
⑤大川は、もともとは大山で、伊予の大山祇神の山であること
⑥生駒時代に尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したこと
⑦髙松藩の歴代藩主によって修理・再建が行われてきたこと
これくらいの予備知識をもってお参りすることにします。
鳥居をくぐって改段を上がって行きましょう。

大山神社1
大川神社正面鳥居と階段の上の拝殿

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南面して建つ拝殿
正面に長い拝殿が東西に建ちます。ここで礼拝すると本殿はまったく見えないままです。本殿は、拝殿に接続してすぐ背後に並んで建ちます。拝殿の東には南北棟の参籠堂が拝殿にT字に接続しています。
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拝殿正面
かつて、大昔に正月に雪道をご来光を見るために登って来たときには、ここに上げていただいて、餅や御神酒をいただいたことを思い出します。集団登山の時には、この板間にシュラフで寐たこともありました。
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頂上に建つので水場はありません。かつては屋根からの雨水を集めて使っていました。その貯水槽です。 この拝殿の背後にある本殿は直接につながっていまが、拝殿の南側からは見えません。裏に回らないと見えないのです。裏に回って、本殿を直接礼拝させていただきます。

大川神社 本殿東側面
大川神社 本殿1
大川神社 本殿東側面図
  報告書に書かれた専門家の本殿の説明を聞いてみましょう
構造形式 
桁行正面一間 背面二間 流造 鋼板葺
身舎円柱 切日長押 内法長押 頭貫 木鼻 台輪 留め
出組 実肘木 拳鼻 側・背面中備雲紋彫刻板 妻飾二重虹
梁大瓶東 庇角柱 虹梁形頭貫 象鼻 三斗枠肘木組 実肘木
繋海老虹梁 中備不明 二軒繁垂木 身舎三方切目縁 勿高欄
脇障子 正面木階五級 浜縁
建立年代 19世紀前期

大川神社本殿は、その構造形式を簡略に記せば、一間社流造と表記できる。ただし背面の桁行は二間になっているので、二間社流造と呼ぶこともできる。
基壇 
本殿は高さ1,2mほどの高い切石積基壇の上に立つ。その上に本製土台を組んで柱を立てる。土台の上には大きな石を大量に載せて、山上の強い風にも飛ばされないように押さえられている。
大川神社 本殿西妻飾

身舎軸部・組物・軒・妻飾 身舎は円柱を切日長押・内法長押・頭貫・台輪で繋ぐ。頭貫に木鼻を付ける。その木鼻は九彫りの獅子頭を用い、すべての柱頂部に置かれている。台輪は木鼻を付けず、留めとしている。
円柱は見え掛かり部分では床下も円形断面に仕上げるが、見え隠れでは人角形に仕上げている。組物は出組で、実肘木・拳鼻を付ける。この組物の肘本は下端の繰り上げの曲線部分がなく、単純な角材で造られていて、意匠的には相当新しさを感じさせる。

大川神社 本殿絵様
大川神社本殿
さらに拳鼻も角材のままで繰形などを施さない。中備は雲紋を浮彫とした板を組物間に置く。この雲紋はこの建物では多用されていて、内法長押と頭貫の間の小壁の板にも浮彫の雲紋を施している。雨乞いの神様であるから、このような意匠を多用したのであろう。
妻飾は、出組で一手持ち出した位置に下段の虹梁を架け、その上に二組の平三斗を置いて、上段の虹梁を受け、その上に大瓶束を立てて棟木を受ける。平三斗は実肘本は用いないが、拳鼻は柱上の組物同様の角材を置く。下段虹梁上の中備も雲紋の浮彫彫刻である。
身舎の正面は蝶番で吊った板扉が設けられている。
他の三方は板壁で閉じられている。身舎内部は一室で、間仕切りはない。軒は一軒の繁垂木である。
この社殿は、いつ建てられたものなのでしょうか? 
今は実物はないようですが、かつての棟札の写しが5枚残っています。
大川神社 棟札
大川神社棟札一覧
かつてあったとされる5枚の棟札には、次の年紀があります。
元禄十五年(1702)
延享二年(1745)
宝暦三年(1753)
天明三年(1783)
これ以前には、社殿はなく、石造物だけがあったことも考えられます。
先ほど見たように、現在の本殿の虹梁絵様は19世紀前期頃のデザインでした。様式的には18世紀後期より遡ることはないと研究者は指摘します。つまり、5枚の棟札はどれもこの本殿の建立を示すものではないようです。
それでは、この本殿建立は、いつなのでしょうか? 
それは本殿背後に「文政十一成子年」(1828)と刻まれた燈籠があります。文化文政の「幕末バブル期」
の経済的な発展期の中で、善通寺の五重塔再興や金毘羅大権現の金堂(旭社)の建立が行われていた時期になるようです。
以上から専門家は大川神社の本殿を次のように評価します。
本殿は比較的実例の少ない二間社であることに第一の特徴がある。とはいえ庇と身舎正面の柱間は一間としているので、規模としては標準的な一間社と大差はない。小壁や中備に雲紋を施した板をはめているのは、先にも述べたように雨乞いの社としての信仰と関わるものであろう。縁束の間も竪連子を浮き彫りにした格狭間をはめており、珍しい意匠である。
 組物の肘木が角材であるのは個性的である。拳鼻まで同様に角材で造るから、かなり加工の手間を省いたか、建立年代が新しいか、いずれかと想定させる。しかし一方で、頭貫木鼻は全ての柱上に獅子頭を据えるから、さして省力化したとは言い難い。
 比較的華やかな装飾、肘本や縁廻りの独特の形式など、独自性が強い大川山山頂という特異な場にあって、社伝によれば奈良時代からの、確実なところでは近世以来の庶民の祈雨信仰と結びつき、本殿の意匠にまでそうした背景が意匠に反映した興味深い建物と言える。つまり神社の歴史的特質が近世末期の社殿の造形に結びついた建物と言えよう。
 今から200年前に建立された本堂も、大川山頂上で長年の風雨にされされて痛みがひどくなり建て修復されるようになったようです。近世になって、山伏たちによって祈雨信仰が接ぎ木されると、それにともなって「本殿の意匠にまでそうした背景が意匠に反映」と研究者は指摘します。この本殿も修復を終えて、最近行ってみるこんなふうになっていました。

大山神社 本殿 2025年
修復され覆屋に覆われた大川神社の本殿

それでは、この本殿にはどんな神様が祀られているのでしょうか。

大川神社の神々

先ほど見た説明版には「大川神社には木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)と大山津見命(おおやまみのみこと)が祀られています。」とありました。しかし、江戸時代の「増補三代物語」には、次のように記します。
「大山大権現社 在高山上、不知奉何神」
意訳変換しておくと
「大山大権現社」と権現を祀る山で高い山の上にあるが、何を祀っているかは分からない」

と云うのです。江戸時代に後半までは、祭神がなんであるのかは人々には知られていなかったことが分かります。近世後半に西讃府史などで村の神社を調査するまでは、村社などに何が祭ってるのかを人々は気にとめていなかったことは以前にお話ししました。それが重要なこととされるのは、神仏分離後に神道が国家神道となってからのことです。
 ただ、「大山(川)大権現」とあります。権現とある山は、修験者によって開かれ霊山で修験者の修行の山です。大川大権現の周辺には、多くの修験者たちが行場で修行を行い、そして定着していたことがうかがえます。その拠点となったのが古代においては中寺廃寺で、大山大権現の神宮寺の役割を果たしていたこと以前にお話ししました。中世になって国家支援を受けれなくなった中寺廃寺が退転した後は、修験者たちは里の炭所の金剛院などに坊集落をひらき定住します。そして、行場としての大川山(権現)を守っていきます。そうだとすれば石鎚山と同じように、もともとここに祀られていたのは、修験者が教祖として役業者や蔵王権現に類するものが祀られていたことが考えられます。

明治維新の神仏分離で金毘羅大権現のように権現たちは追放されました。これに換わって迎え入れられたのが紀記に登場する神々です。大川神社では、修験者が信仰した権現たちが追放された後には、上記の2つの神々が迎え入れられ現在に至っています。

本殿以外の施設について見ておきましょう。

大川神社 龍王社
 本殿の背後の龍王堂
本殿の東側に東面して建っているのが龍王堂です。
空海祈雨伝承では京都の神仙苑で、空海が小さな蛇(善女龍王)を呼び出し、雨を降らせるとされることは以前にお話ししました。そのため雨乞いが行われる山には、龍王神が祀られるようになります。大川山も近世後半になると雨乞いの霊山として信仰を集めるようになりましたから、ここに龍王神が祀られているのは納得できます。しかし、中を覗いてみると祭礼に使う御神輿が置いてあり、龍王神らしきものは何もありません。大膳神社での雨乞の役割は終わったようです。神社や寺にも流行や廃れがあることは以前にお話ししました。その波を越えた寺社が生き残ってきたのです。

大川神社3
緑の屋根が社殿の覆屋 その前のふたつの燈籠が並ぶ所
本殿(緑の覆屋)の背後には、高い石垣を組んだ方形の区画があります。これがなんであるのかは、私は知りませんでした。
大川神社 松平家御廟
髙松藩松平家の御廟 階段がないので上れない
今回はじめて松平家の御廟であることを知りました。
先ほど棟札で見たように大川神社の本殿は高松藩の支援で改修が行われます。髙松藩との結びつきを目に見える形で示すために社殿横に霊廟が作られたのかもしれません。藩主の保護を得ているというモニュメントにもなり、大山権現ののランクを高める物になったでしょう。
この神域には、もうひとつ宗教施設が北西隅にあります。

大川神社 秋葉神社2
大山神社境内 北西隅の秋葉神社

大山神社 秋葉神社3
北西隅の秋葉神社
秋葉神社の祠です。秋葉神社についてウキには次のように記されています。

秋葉三尺坊大権現は、火防(ひよけ)・火伏せ(火伏せ)の神様として信仰される神仏習合の神で、もともと秋葉山にいた修験者「三尺坊」に由来します。神通力を得た三尺坊が天狗となり、火生三昧(かしようざんまい)を修して火災を鎮めたという伝説から、火の神として広まりました。特に静岡県浜松市の秋葉神社が総本宮として有名です。火災消除の御利益があるとされ、江戸時代には「秋葉講」が全国的に組織されました。 

 「遠州秋葉山本地聖観世音三尺坊略縁起」(享保2年(1717)成立)には次のように記します。(要約)
①秋葉三尺坊大権現と称し、秋葉権現は三尺坊である
②観音菩薩を本地仏とし、その姿は飯縄権現と同じく白狐に乗り、剣と羂索を持った烏天狗姿
③三尺坊は、不動三昧の修行をし「烏形両翼にして左右に剣索を持ちたる霊相」が現れ、飛行自在の神通力を得、観音菩薩の化身とされた。

アンティーク 秋葉山 秋葉寺 秋葉三尺坊大権現 秋葉権現 天狗 白狐 紙
         秋葉大明神 白狐に乗り、剣と羂索を持った烏天狗

象頭山天狗 飯綱
      象頭山金毘羅大権現金光院の飯綱大明神 秋葉大明神と同じように描かれている
ここからは次の要素が混淆して生まれたのが「秋葉三尺坊大権現=秋葉大明神信仰」であることが分かります。
A 修験道の霊場としての秋葉山に伝わる山岳信仰
B 信州出身の修験者である三尺坊への信仰
C 本尊の聖観音に対する信仰
その三大誓願は
第一我を信ずれば、失火と延焼と一切の火難を逃す。
第二我を信ずれば、病苦と災難と一切の苦患を救う。
第三我を信ずれば、生業と心願と一切の満足を与う。
真言オン ヒラヒラ ケン ヒラケンノウ ソワカ
どちらにしても秋葉信仰が、天狗信仰の修験者に担われていたことは間違いないようです。これは金毘羅大権現と金光院の天狗信仰と同じです。修験道の霊山であった大川山に、秋葉神信仰が近世になって勧進されたことが推測できます。しかし、大山神社の境内にある秋葉神社の性格は微妙です。神域の内側だとすると、大山大権現の火伏せ・火除けの守護神として招来したことが考えられます。しかし、玉垣の外にあるようにも見えます。そうだとすれば、秋葉信仰の講組織によって建立されたことになります。当然、里には講組織の信者たちがいたことになります。このあたりのことは、今の私にはよく分かりません。

大川神社 魔除寺蔵と不動明王
 大山神社の石造物 魔除地蔵と不動明王(?)

別の視点で大川山と修験者の関係を示してくれるのが龍王堂の裏側(西側)のふたつの石造物です。。

左が魔除地蔵と掘られた台座の上に立っている地蔵様です。地蔵信仰は、修験者により流布されたと研究者は考えています。右側が修験者の守護神である不動明王のようです。

大山神社 不動明王
大川神社境内の不動明王
 地蔵信仰は鎌倉末期の14世紀前半に成立し、足利尊氏が帰依したために室町期に盛んになったとされます。霊山であった大山大権現の周辺では、古くから焼畑農業が行われていたことが考えられます。焼畑を行った集団は、木地師達でもあり、鉱山師達でもありました。彼らは修験者とも繋がり、南北朝までは、南朝とも繋がって阿波の山間部では一大勢力に成長していったとされます。熊野行者たちは、熊野参拝道として山岳地帯を結ぶ独自の通路を持ち、併せて鉱山師のような活動もしていたようです。阿波や伊予の中央構造線上に彼らの痕跡が残っていることは以前にお話ししました。また山間部の焼畑では、火の鎮火などが大切で、火除け火伏せのために秋葉信仰が修験者たちによってもたらされたことが考えられます。大山神社境内に残る秋葉神社や魔除地蔵・不動明王などは、ここで活動していた修験者の痕跡と私は考えています。

以上、大川神社(大権現)の境内にある宗教施設を登場順にあげると、次のようになります。
①本殿    蔵王権現?  修験者の信仰本尊
②龍王社   善女龍王   雨乞い伝説
③松平御廟  高松藩による関連堂舎の整備建立
④松葉神社  火伏せ神としての守護神
明治維新後の神仏分離によって①は廃仏毀釈で排除されます。そして②③④と民間信仰としての安産信仰が残ったのではないでしょうか。これらの殿舎は、今は石垣上の石製の瑞垣で囲まれていて、聖域を構成しています。
それではこの聖域が作られてのはいつなのでしょうか。
玉垣内に置かれた燈籠の銘から、明治26年から30年頃の日清戦争前後に神域は整備された作られたものと研究者は考えているようです。つまり、現在のレイアウトは、約130年前の明治になってからのものであるようです。その整備時に、小蛇の棲むとされた小池も埋め立てられたのかも知れません。それ以前の社殿のレイアウトなどは分かりません。社殿の整備が進み、国境を越えて阿波の人たちなど、より多くの人たちの信仰を集めるようになったのは、この頃からなのではないでしょうか。
最後に、本殿棟札として一番古い元禄十五年(1702)棟札を見ておきましょう。
聖主天中天  迦陵頻伽声
哀慇衆生者  我等今敬礼
神官      宮川和泉橡重安
時郡司     渡部専右衛門尉重治
当部大政所  久米善右衛門貞明
      内海治左衛門政富
五箇村政所
中通村  新名助九郎高次
勝浦村  佐野忠左衛門守国
造田村  岡田勘左衛門元次
炭所西村 新名平八郎村重
川東村  高尾金十郎盛富
大工金比羅    藤原五兵衛金信
讃岐国鵜足郡中通村大仙権現神祠 合一宇 恭惟我昆慮遮那仏 取日寓名円照編索詞 界現徴塵刹日域 宗度社稜苗裔之神崇山峻嶺 海浜湖無所人権同塵不饒益有情実 邦君左近衛少将源頼常卿 抱極民硫徳懐国邑巡遊日親霊祠傾類 辱降賜興隆命因循経六曰 今ガ特郡司渡部氏篤志槙福故両郡黎蒸贔,造功成郎手輪奥共美下懐鎮祈邦淋福寿同而国家安穏万民豊饒 里人遇早魃必舞曇育摩弗霊験 長河有次帯之期泰山有如挙之月徳参天地洪然而犯独存神祠平維時 
元禄十五青龍集壬午四月上院高松城龍松小法泉寺住持嗣祖此丘畝宗格誌

社伝には奈良時代の天平年間には、神社が建立されていたとしますが、そこまでは遡れないと研究者は考えています。
 平安時代には、中寺廃寺が建立され山林修行を行う僧侶の拠点となっています。彼らは、この山を霊山として信仰していたことは以前にお話ししました。ここに社殿が建てられたのでは?と思いたくなります。しかし、当時は山自体が神体とされていた時代です。山頂に神社が建てられる時代ではないのです。例えば、伊予の石鎚権現信仰でも、頂上には権現像があるだけです。そしてそれは、いつもは下の遙拝所から拝むものでした。土佐の霊山の山々も、祭礼の際に人々が山に登って来てて、いろいろな行事を行いますが建築物しての神殿や拝殿などが姿を現すのは、近世後半になってからです。大川山も古くから信仰の山として、丸亀平野の里人の信仰の山であったようですが、頂上に神社が建てられるのは近世になってからのことだと私は考えています。

中寺廃寺 Bゾーン2025
中寺廃寺 遙拝所から望む大川山

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大川寺境内の中にある一等三角点
 大川神社に残された棟札5枚からは、18世紀になって歴代高松藩の藩主の支援を受けて堂舎が「再興」されたことが分かります。
 再興とありますが、これが創建ではないのか私は考えています。これよりも古い棟札はないのです。雨乞い用の鉦鼓などの寄進は、生駒藩の時代から行われていたかも知れませんが、山頂に堂舎を立てるというのは、もう少し後の時代になってのことのような気がします。(改稿 2025年11月12日)

大川神社の紅葉 2025 11 11
大川神社からの紅葉
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  大山神社本殿・随身門調査報告書 京都大学工学部建築史学講座
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 大川神社の本殿が改修されることになり、壊す前に本殿の調査が京都大学工学部建築史学講座によって行われたようです。その調査報告書を図書館で見つけましたので、読書メモ代わりにアップしておきます。
  テキストは 大川神社本殿・随身門調査報告書 京都大学工学部建築史学講座です。この題を見て、大川神社に随身門なんてあったかいな? というのが第一印象でした。
大川神社の随身門は、どこにあるのでしょうか? 
大川神社 1

幕末の「讃岐国名勝図会」には、大川山の頂上に大川神社が鎮座しているのが描かれています。しかし、山頂付近には随身門は見当たりません。随身門があるのは、麓の中通(なかと)村から野口川沿いの参道を登った中腹です。
まずは、今まで見逃していた随身門から見ていきましょう

大川神社随身門1
大川神社 随身門 車道の上に鎮座 
随身門があるのは、野口からの登山道コースの途中です。この門は、中通から野口川を遡って大川神社へ至る参道にあり、幕末期に高松藩主が鷹狩の際に登った記録があります。近世には、野口ルートが大川神社参拝の正式ルートであったようです。

大川神社 随身門3
大川神社 随身門 登山道下から

 かつて集団登山で、このコースを歩いていたことを思い出しました。その時に、この門を通過し、車道を横切って山頂へと歩んだはずなのですが、記憶にないのです。その頃はこの門に気を配るだけの心のゆとりはなかったのかもしれません。

大川神社 随身門正面図
随身門について報告書は、次のように記します
構造形式
桁行正面三間 梁間二間 
入母屋造 セメント瓦葺
角柱 床枢 内法貫 中央間のみ虹梁形内法貫 
組物なし
中備正背而中央間のみ慕股 
一軒疎垂木 妻飾縦板壁
建立年代 19世紀中期
大川神社 随身門全景図

研究者の説明は次の通りです
随身門は比較的小規模な八脚門である。
桁行三間の中央間を九尺強、両脇間を五尺強と、中央間を相当広くとっている。その中央間を通路とし、両脇間には床を張って、後方一間四方に随身を祀る。随身の周りは側・背面を板壁、正面を両開きの格子戸とする。随身の前の一間四方は床張りで、現状では妻側に板壁がある以外、残る二面の柱間は開放である。

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正面・棟通り,背面の中央間は内法貫を虹梁形としており、正面両端間は直材であるが、絵様を彫って虹梁風に仕上げている。正面や通路部分を飾ろうという意識で造られていると考えられる。正背面の虹梁形内法貫には中備の募股を置く。
  しかし組物は組まず、妻飾も板張りで、装飾的な要素は極めて少ない。

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内部は天丼を張らず、東組の小屋組が見えている。
松材を用いており、通常とは異なる位置で継いでいる部材もあって、上質とは言えない。また正面両脇間には格子を填めていた痕跡があるが、格子そのものは一本も残していない。建立後の傷みは少なくない。
  痛みも進み、組み物もないようです。いたってシンプルな随身門です。どんな随身様がいらっしゃるのでしょうか?
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お参りをした後で覗かせていただきました。

大川神社 随身門15
大川神社 随身門の格子
赤い格子には「悦子 安産祈願」と黒く書き込まれています。近世の大川神社は安産祈願所と信者を集めていたなごりでしょう。

大川神社 随身門4
              大川神社 随身門の随身さん

棟札など建立年代が分かるものはないようです。ただ、門の前には「天保六未歳六月古日」|(1835)の刻銘のある燈籠が建っています。この燈籠の造られた頃に、随身門も同時に建立されたと研究者は考えているようです。そうすると19世紀半ばあたりで、幕末の頃になります。

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  この門から向こうが「神の山」、つまり神域と当時の人たちは思っていたのでしょう。ここで一息入れて、足下、身なりを整え、同時に心も参拝バージョンに入れ替えたのでしょう。門の向こうには鳥居が見えます。
大川神社 随身門2
大川神社の随身門横の大山祇神社
 大山祇神社が祀られています。三代記には、「大川は大山の音転で、元々は伊予の大山積神である。」と記されています。大川山がもともとは「大山」と表記されていたことを押さえておきます。ここにも手を合わせて「だいせんみち」を頂上に向かって歩み出していきます。

大川山 割拝殿から
中寺廃寺跡から望む大川山
次に大川神社の由来について見ていきます
大川神社については、確実な史料はありません。近世の地誌や縁起が残るだけです。
「讃岐国名勝図会」には、次のように記されています。

大川神社(略)社記曰く、当社は天平四年、天下大早して五穀登らず、六月朔日国務国司、神社を建立せり、社は南に向ふ、社前に小池あり、往古天台宗の寺あり、大早には土人集まり、鐘をならして雨を乞ふに霊応あり、寺は今廃せり、その後応安年中長尾某社殿を造営す、永禄年中生駒一正朝臣、元和・寛永年間高俊朝臣も造営あり、承応二年国祖君修造なしたまふ、その後焼失せしを、寛文十二年経営あり、今に至るまで世々の国君度々造営あり、一々挙ぐるに違あらず、往古より雨乞の時必ずここに祈るなり、寛保元年、国君より念仏踊の幣料として、毎歳米八斗をたまへり。
意訳変換しておくと
大川神社(略)の社記には次のように記されている。
 当社は天平四(732)年、大干ばつが全国を襲い、五穀が実らなかったので、六月朔日に国司が、大川山に神社を建立したのが始まりである。社は南面し、社前に小池があった。古くから天台宗の寺があったが今は廃絶した。旱魃の時には、地元の人たちが集まり、鐘をならして雨乞いを行うと霊験があり雨が降った。その後、
応安年中(1368年から1375年)に(西長尾城城主?)・長尾某氏が社殿を造営し
永禄年中(1558年から1570年)生駒一正朝臣(生駒親正の子で、生駒藩2代)
元和・寛永年間には、高俊朝臣も造営し、生駒藩の時代には代々に渡って保護を受け、改修が行われた。
承応二年(1653)には、高松藩国祖の松平頼重も修造を行った。
その後に焼失したが寛文十二年に再建された。このように今に至るまで、その時代の藩主によって繰り返し造営されてきており、一々挙げることができないほどである。いにしえより雨乞いの時には、当社で必ず祈った。寛保元年には、国君より念仏踊の幣料として、毎歳米八斗をいただいている。
ここには次のような事が主張されています
①奈良時代に国司が祈雨のために建てた神社であること
②天台宗寺院が近隣にあって、大川神社の祭祀を執り行っていたが、近世には廃絶したこと
③中世には地元の有力者長尾氏の庇護も受けたこと
④生駒藩3代の藩主によって保護され、改修や修理などが行われたこと
⑤高松藩初代松平頼重も改修を行い、その後は歴代高松藩主の保護を受けていること。

大川山 中寺廃寺割拝殿
中寺廃寺の大川山を拝む遙拝殿
①②からは、以前にお話しした中寺廃寺のことが思い浮かびます。
8世紀後半の空海の時代には、大川山の北の尾根上には国衙によって、官営的な山岳寺院が活動を行っていたことが発掘から分かっています。彼らは大川山を霊山として崇めながら山林修行をおこなっていたようです。神仏混淆の時代には、中寺廃寺の修験者たちが別当として、大川神社を管理していたのでしょう。注目しておきたいのは、ここではその寺院を天台寺院としていることです。どうして、そのような由来が語られるようになったのが気になるところです。
  雨乞いには伝統と霊験があり、古くから雨乞いの神社として歴代の藩主等の保護を受けていたことが語られています。
「増補三代物語」にも、ほぼ同様のことが次のように記されています。
大山大権現社 在高山上、不知奉何神、蓋山神、若龍族也、昔阿讃土予四州人皆崇敬焉、歳六月朔祀之、大早民会鳴鐘鼓祈雨、必有霊応、祠前有小池、当祈雨之時、小蛇出渉水、須央雲起,市然大雨、旧在天台宗寺奉守、今廃、今社家主祭、或日、大川当作大山、音転訛也、所奉大山積神也(在予州、載延喜式所也)、
 寛永中生駒氏臣尾池玄蕃、蔵鉦鼓三十余枚歴年久、『申祠類敗、承応二年先君英公修之、其後焚山火、寛文十二年壬子英公更経営、元禄十二年節公巡封境見其傾類而修之、宝永六年辛丑又焚実、恵公給穀若千以興復、近年有祈雨曲、一名大川曲(州之医生片岡使有者作之、散楽者流之歌也)
長いですがこれも一応、意訳しておきます
大山大権現社は、大川山の山頂に鎮座する。何神を祀るか分からないが、山神や龍族を祀るのであろう。昔は阿讃土予の四国の人々の崇敬を集めていたという。六月朔の祭礼や、大干ばつの際には人々は鐘や鼓を鳴らし、降雨を祈願すると、必ず雨が降った。
 祠の前に小池があり、雨乞い祈願し雨が降る際には、小蛇が現れて水が吹き出す。するとにわかに雲が湧き、大雨となる。かつては天台宗寺奉守がいたが今は廃絶し、今は社家が祭礼を主催する。大川は大山の音転で、元々は伊予の大山積神である。
 寛永年間に、生駒家家臣の尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したが、年月が経ち多くが破損した。そこで承応二年に先君英公がこれを修繕した。その後、山火事で延焼したのを、寛文十二年に英公更が再建した。元禄十二年に節公が阿讃国境の検分の際に修理した。宝永六年には、また焼け落ちたが、恵公の寄進された穀類で興復することができた。近頃、雨乞いの時の曲を、一名大川曲ともいう。

ここから得られる情報ポイントを挙げていきましょう。
①社名を「大山大権現社」と「権現」しており、修験者の霊山となっていたこと
②山神や竜神を祀る神社で、雨乞いの霊山として信仰されていたこと
③社の前に小池があり子蛇が現れると雨が降ると「善女龍王」伝説を伝えること
④かつては天台宗の別当寺が神社を管理していたこと
⑤大川は、もともとは大山で、伊予の大山祇神の山であること
⑥生駒時代に尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したこと
⑦歴代藩主によって修理・再建が行われてきたこと
①④⑤などからは、里人から信仰を集めた霊山が、山林修行の僧侶(修験者)たちによって行場となり、そこに雨乞い伝説が「接木」されていく様子が見えてきます。
すこし寄り道、道草をします。⑤の大川山の由来について、すこし考えて見ます。
 仏教以前は、神が現れるのは自然のふところに抱かれた依り代と呼ばれる岩であり、岩窟であり、瀧であり、泉などでした。神は山川に周く満ちていました。仏教の伝来後は、人は神社や寺院などの建物の中に神仏を安置し、閉じ込めようとします。そのような中で人為的な社寺に対して、自然崇拝の霊場として「名山大川」という言葉が用いられるようになります。そこでは、土俗と習合したいろいろな雨乞いの方法が行われていたようです。律令政府の宗教政策で、自然崇拝は社寺に取り込まれていきますが、すべて消え去ることはありません。それらは民衆の信仰であり続けたし、官においても正式の社寺の祈雨で効果がないときは最後の頼みの綱ともなったのです。

大川山 中寺廃寺
平安時代の中寺廃寺のたたずまい

『続日本紀』などには「名山大川」という言葉が、雨乞い祈祷とともに出てきます。
そのひとつが室生龍穴で、古来から水神の霊地でした。ここは後に、室生寺が建立されて脚光を浴びるようになります。『日本紀略』延喜十年(910) 7月条「日来炎旱。詔諸國神社山川奉幣投牲。」のように、牲牛を龍穴に投じて犠牲として雨乞いを行ったようです。生け贄をともなう雨乞いは中国の道教系の雨乞いとされます。このように雨乞いが行われていた霊山が「名山大川」なのです。
「名山大川」の表現は延喜10年(910)が最後に、正史からは姿を消します。しかし、祈雨祭祀がおこなわれなくなったのではありません。自然の中での雨乞いは、それ以後も続きます。「名山大川」は元々中国の表現で、日本の実情とはちがったので「名山大川」という表現も使われなくなったと研究者は考えているようです。
 ここからは、もしかすると「大川山」という地名は「名山大川」に由来するのではないかという思いが湧いてきます。中寺廃寺から毎日、この山を崇拝する山林修行者が「名山大川」にちなんで、この山を「大川山」と呼ぶようになり、それがいつしか雨乞いの霊山とされるようになっていたとしておきましょう。

大川神社の由来に話をもどします。
⑥の歴代藩主の保護についてです
大川神社 棟札

『讃岐社寺の棟札』・『琴南町神社棟札』には、大川神社に残された棟札5枚が掲載されています。ここからは18世紀になって歴代高松藩の藩主の支援を受けて堂舎が「再興」されたことが分かります。
また、寛永五年(1628)には、讃岐藩生駒高俊の命によって雨乞い祈願のための鉦鼓三十数枚が寄進されたことが、残された寛永五年刻銘の鉦鼓から分かります。これらは大川神社や念仏踊を伝承する川東・中通・造田の各村に伝えられていて、記録を裏付けます。

 14世紀後期の長尾氏の社殿造営はともかくとしても、16世紀末以降、歴代藩主の庇護を受けて、社殿の造営がくり返されてきたことは事実のようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

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