讃岐の雨乞念仏踊りを見ています。今回はまんのう町の大川念仏踊りを見ていくことにします。問題意識としては、この念仏踊りは滝宮念仏踊を簡素化したような感じがするのですが、滝宮への踊り込みはなかったようです。どうして滝宮から呼ばれなかったのかを中心に見ていこうと思います。
大川権現(神社) 讃岐国名勝図会
大川念仏踊りは、大川神社(権現)の氏子で組織されています。
大川神社の氏子は、造田村の内田と美合村の川東、中通の三地区にまたがっていました。
大川念仏踊り 大川神社前での奉納
大川念仏踊りは古くは毎年旧暦6月14日に奉納されていました。それ以外にも、日照が続くとすぐに雨乞の念仏踊を行っていたようで、多い年には年に3回も4回も踊った記録があります。そして不思議に踊るごとに御利生の雨が降ったと云います。現在では7月下旬に奉納されています。かつての奉納場所は、以下の通りでした。
①中通八幡神社で八庭②西桜の龍工神社で八庭③内田の天川神社で三十三庭④中通八幡社へ帰って三十三庭⑤それから中通村の庄屋堀川本家で休み、⑥夜に大川神社へ登っておこもりをし、翌朝大川神社で二十三庭⑦近くの山上の龍王祠で三十二庭⑧下山して勝浦の落合神社で三十三庭
2日間でこれだけ奉納するのはハードワークです。
①早朝に大川山頂上の大川神社で踊り、②午後から中通八幡神社、西桜の龍王神社など四か所
大川神社(まんのう町)の龍王堂
大川念仏踊は、滝宮系統の念仏踊ですが、滝宮牛頭天王社や天満宮に踊り込みをしていたことはありません。
奉納していたのは大川権現(神社)です。大川山周辺は、丸亀平野から一望できる霊山で、古代から山岳寺院の中寺廃寺が建立されるなど山岳信仰の霊地でもあったところです。大川権現と呼ばれていたことからも分かるように、修験者(山伏)が社僧として管理する神仏混淆の宗教施設が大川山の頂上にはありました。そして霊山大川山は、修験者たちによって雨乞祈願の霊山とされ、里山の人々の信仰を集めるようになります。
大川神社 旧本殿
由来には、1628(寛永5)年以後の大早魅の時に、生駒藩主の高俊が雨乞のため、大川神社へ鉦鼓38箇(35の普通の鉦と、雌雄二つの親鉦と中踊の持つ鉦と、合せて38箇)を寄進し、念仏踊をはじめさせたとします。以来その日、旧6月14日・15日が奉納日と定めたとされます。それを裏付ける鉦が、川東の元庄屋の稲毛家に保管されています。
縦長の木製の箱に収められて、次のように墨書されています。
箱のさしこみの蓋の表に「念佛鐘鼓箱、阿野郡南、川東村」その裏面に、「念佛鐘鼓拾三挺内、安政五年六月、阿野郡西川東村什物里正稲毛氏」
「奉寄進讃州宇多郡中戸大川権現鐘鼓数三十五、但為雨請也、惟時寛永五戊辰歳」裏側に
「国奉行疋田右近太夫三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛 願主 尾池玄番頭」
意訳変換しておくと
讃岐宇多郡中戸(中通)の大川権現(大川神社)に鐘鼓三十五を寄進する。ただし雨乞用である。寛永五(1628)年国奉行 三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛
願主 尾池玄蕃
この銘からは、次のようなことが分かります。
①寛永5年に尾池玄蕃が願主となって、雨乞いのため35ヶの鉦を大川権現に寄進したこと②大川山は当時は権現で修験者(山伏)の管理する神仏混淆の宗教施設であったこと。③当時の生駒藩の国奉行は、三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛の3人であった。④願主は尾池玄蕃で、藩主による寄進ではない。
当時の生駒藩を巡る情勢を年表で見ておきましょう。
1626(寛永3)年 4月より旱魃が例年続きり,飢える者多数出で危機的状況へ1627(寛永4)年春、浅田右京,藤堂高虎の支援を受け惣奉行に復帰同年8月 西島八兵衛、生駒藩奉行に就任1628(寛永5)年10月 西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手1630(寛永7)年2月 生駒高俊が,浅田右京・西島八兵衛・三野四郎左衛門らの奉行に藩政の精励を命じる1631(寛永8)年2月 満濃池完成.同年4月 生駒高俊の命により,西島八兵衛・三野四郎左衛門・浅田右京ら白峯寺宝物の目録作成
ここからは次のようなことが分かります。
①1620年代後半から旱魃が続き餓死者が多数出て、逃散が起こり生駒家は存亡の危機にあった
②建直しのための責任者に選ばれたのが三野四郎左衛門・浅田右京・西島八兵衛の三奉行であった
③奉行に就任した西嶋八兵衛は、各地で灌漑事業を行い、ため池築造に取りかかった。
③奉行に就任した西嶋八兵衛は、各地で灌漑事業を行い、ため池築造に取りかかった。
④大川権現に、雨乞い用の鼓鐘寄進を行ったのは、満濃池の着工の年でもあった。
⑤難局を乗り切った三奉行に対して、藩主生駒高俊の信任は厚かった。
⑥生駒藩の国奉行の3人の配下の尾池玄蕃が大川権現に、鉦35ヶを雨乞いのために寄進した。
この鐘鼓が寄進された時期というのは、生駒藩存続の危機に当たって、三奉行が就任し、藩政を担当する時期だっただったようです。大川権現に「鐘鼓数三十五」を寄進したのも、このような旱魃の中での祈雨を願ってのことだったのでしょう。ただ注意しておきたいのは、由来には鉦は生駒藩主からの寄進とされていますが、銘文を見る限りは、家臣の尾池玄蕃です。
寄進された鉦の形も大きさも滝宮系統念仏踊のものと同じで、踊りの内容もほぼ同じです。ここからは大川念仏踊りは、古くからの大川神社の雨乞神とは別に、寛永5年に生駒藩の重臣達によって、新たにここに「移植」されたものと研究者は考えているようです。
南無阿弥陀仏は、「なむあみど―や」
「なっぼんど―や」
「な―む」
「な―むどんでんどん」
「なむあみどんでんどん」
「な―むで」
などという唱号を、それぞれ鉦を打ちながら十数回位ずつ繰り返しながら唱います。その間々に法螺員吹は、法螺員を吹き込む。こうして一庭を終わります。
その芸態は、滝宮系念仏踊と比べると、かなり簡略化されたものになっていると研究者は評します。滝宮系では中踊は大人の役で、子踊りが十人程参加しますが、それは母親に抱かれて幼児が盛装して、踊の場に参加するだけで実際には踊りません。ところが大川念仏踊は、子踊りがないかわりに、中踊りを子供が勤めます。
滝宮念仏踊と大川念仏踊りには、その由来に次のような相違点があります。
①滝宮念仏踊りは、その起源を菅原道真の雨乞祈祷成就に求める②大川念仏踊は、生駒藩主高俊が鉦を寄進して、大川山(大川神社)に念仏踊を奉納したことに重点が置かれている
踊りそのものは滝宮系念仏踊であるのに、滝宮には踊り込まずに地元の天川神社や大川神社に奉納する形です。
どうして、大川念仏踊りは滝宮に踊り込みをしなかったのでしょうか?
それは、滝宮牛頭天王社とその別当寺の龍燈院が認めなかったからだと私は考えています。龍燈院は牛頭天王信仰の神仏混淆の宗教センターで、滝宮を中心に5つの信仰圏(北条組、坂本組、鴨組、七箇村組、滝宮組)を持っていました。そのエリアには龍燈院に仕える修験者や聖達が活発に出入りしていました。その布教活動の結果として、これらの地域は念仏踊りを踊るようになり、それを蘇民将来の夏越し夏祭りの際には、滝宮に踊り込むようになっていたのです。踊り込みが許されたのは、滝宮牛頭天王信仰の信仰エリアである北条組、坂本組、鴨組、七箇村組、滝宮組だけです。他の信者の踊り込みまで許す必要がありません。
どうして、大川念仏踊りは滝宮に踊り込みをしなかったのでしょうか?
それは、滝宮牛頭天王社とその別当寺の龍燈院が認めなかったからだと私は考えています。龍燈院は牛頭天王信仰の神仏混淆の宗教センターで、滝宮を中心に5つの信仰圏(北条組、坂本組、鴨組、七箇村組、滝宮組)を持っていました。そのエリアには龍燈院に仕える修験者や聖達が活発に出入りしていました。その布教活動の結果として、これらの地域は念仏踊りを踊るようになり、それを蘇民将来の夏越し夏祭りの際には、滝宮に踊り込むようになっていたのです。踊り込みが許されたのは、滝宮牛頭天王信仰の信仰エリアである北条組、坂本組、鴨組、七箇村組、滝宮組だけです。他の信者の踊り込みまで許す必要がありません。
そういう目で見ると、大川権現は蔵王権現系で、滝宮牛頭天王の修験者とは流派を異にする集団でした。それが生駒藩の寄進を契機に滝宮系の念仏踊りを取り入れても、その踊り込みまでも許す必要はありません。こうして新規導入された大川念仏踊りは、滝宮牛頭天王社に招かれることはなかったのだと私は考えています。
以上をまとめておきます
①大川山は丸亀平野の霊山で、信仰を集める山であった。
②古代には中寺廃寺が国府主導で建立され、讃岐の山岳寺院の拠点として機能した。
③中世には大川権現と呼ばれるようになり、山岳修験の霊地とされ多くの修験者が集まった。
④近世初頭の生駒藩時代に大旱魃が讃岐を襲ったときに、尾池玄蕃は雨乞い用の鉦を大川権現に寄進した。
⑤これは具体的には、滝宮念仏踊りを大川権現に移植させようとする試みでもあった。
⑥こうして大川権現とその周辺の村々では、大川念仏踊りが組織され奉納されるようになった。
⑦しかし、大川権現と滝宮牛頭天王社とは、修験者の宗派がことなり、大川念仏踊りが滝宮に踊り込むことはなかった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。