瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:大川神社本殿

本日の授業

中寺と大川山に登って、上のような「授業」を行いました。その5時間目を報告します。
中寺展望台で昼食後に、大川山へ向かいます。

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大川神社前の紅葉(11月16日)
モミジとイチョウが紅葉で迎えてくれました。真っ青な秋のソラが赤や黄色を際立たせます。参加者からの歓声の声が上がります。まさに天からのプレゼントです。

大山神社1
大川山頂上の大川神社
大川神社の鳥居の前で、大川神社のお話しをします。まず、現在の大川神社が、どのように語られているのかを説明版で確認します。

大山神社2 2025 11月11日
大川神社の由来
 この説明版には大川神社の由来を次のように記します。
大川神社には木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)と大山津見命(おおやまみのみこと)が祀られています。『古事記』や『日本書記』によると、木花之佐久夜毘売命は、花が咲いたに美しい神とあり、邇邇芸命(にぎのみこと)に嫁ぎました。説話では、火が燃えさかる産屋の中で火照命(海彦)、火須勢理命、火遠理命(山彦)の三人の男の子をつぎつぎに生んだそうです。
 このことから、後世、安産の神様として信仰されてきました。また、火を噴く山の神霊を鎮めるため、かつて活火山であった富士山や、浅間山にも祀られ信仰されています。
 大山津見命は木花之佐久夜毘売命の父君といわれ、山の神様として、また農耕の神様として信仰されてきました。社伝によると聖武天皇の頃、天平四だいかんばつ年(七三二)に大旱魃があり、時の国司が大川神社に恵みの雨を祈ると、一天にわかにかき曇り大雨が降ったそうです。それ以来、祈雨の神様として歴代国主の信仰厚く、讃岐、阿波はもとより四国中からも尊崇されてきたということです。
 そして、大川神社では旧暦六月十四日、大川念仏踊りが行われています。
ここには古事記や日本書紀で出てくる神々と、その神話だけが書かれています。これでは、中世や近世の大川山については何も知ることが出来ません。古代の大川山は、霊山として人々の信仰を集めていたことは、1時間目にお話ししました。その信仰を担ったのは密教系の修験者で、霊山大川山の遙拝所として登場したのが中寺でした。つまり、明治以前には大川山は修験者(山伏)たちの管理下に置かれていたのです。それでは、江戸時代には大川山は、どのように紹介されていたのでしょうか。

讃岐国地図 大川山権現
大川山権現 讃岐国図(髙松藩が幕府に提出した絵図)
讃岐国図には、独立峰であることを強調する姿で「大川山権現」と表記されています。「権現」は、修験者たちによって開山され、そこに彼らの信仰する神や仏が祀られた霊山であったことを表します。ここからは、大川山が修験者の山として認識されていたことが分かります。ちなみに、西側の「篠田尾」は1時間目にお話しした「笹ケ田尾(タオ=鞍部)」のことです。

江戸時代後半に書かれた増補三代物語には次のように記されています。

①大山大権現社は、大川山の山頂に鎮座する。何神を祀るか分からないが、山神や龍族を祀るのであろう。昔は阿讃土予の四国の人々の崇敬を集めていたという。六月朔の祭礼や、②大干ばつの際には人々は鐘や鼓を鳴らし、降雨を祈願すると、必ず雨が降った。 ③祠の前に小池があり、雨乞い祈願し雨が降る際には、小蛇が現れて水が吹き出す。するとにわかに雲が湧き、大雨となる。
④かつては
天台宗寺奉守がいたが今は廃絶し、今は社家が祭礼を主催する。⑤大川は大山の音転で、元々は伊予の大山積神である。

大川神社に奉納された雨乞い用の鉦
尾池玄蕃が寄進した鉦鼓

 寛永年間に、⑥生駒家家臣の尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したが、年月が経ち多くが破損した。そこで⑦承応二年に(高松藩主)先君英公がこれを修繕した。その後、山火事で延焼したのを、寛文十二年に英公更が再建した。⑧元禄十二年に節公が阿讃国境の検分の際に修理した。
⑨宝永六年には、また焼け落ちたが、恵公の寄進された穀類で興復することができた。近頃、⑩雨乞いの時の曲を、一名大川曲ともいう。

ここからは次のような情報が読み取れます
①社名は「大山大権現社」で、修験者の霊山である大権現を名のっていたこと
②山神や竜神を祀る神社で、雨乞いの霊山として信仰されていたこと
③社の前に小池があり、子蛇が現れると雨が降ると「善女龍王」伝説を伝えること
④かつては天台宗の別当寺が神社を管理していたこと(中寺廃寺の伝承)
⑤大川は、もともとは大山で、伊予の大山祇神の山であること
⑥生駒時代に尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したこと
⑦髙松藩の歴代藩主によって修理・再建が行われてきたこと

これくらいの予備知識をもって、山伏たちの痕跡を探しにいくことにします。
大山神社神域
大川神社の宗教施設
まずは、拝殿の裏側の①本殿を直接に参拝させていただきます。

大山神社 本殿 2025年
大川神社の本殿
本殿は近年に改修され、覆屋ができて直接に見ることは出来なくなりました。以前の写真がこれです。

大川神社 本殿東側面

この本殿が先ほど見たように髙松藩の歴代藩主によって改修が行われたものになるようです。それでは、この本殿は、いつころ建てられたものなのでしょうか?。本殿背後に「文政十一成子年」(1828)と刻まれた燈籠があります。文化文政の「幕末バブル期」の経済的な発展期の中で、善通寺の五重塔再興や金毘羅大権現の金堂(旭社)の建立と、同時期に建立されたものと研究者は考えています。

それでは、この本殿にはどんな神様が祀られているのでしょうか。

大川神社の神々

先ほど説明版で見たように、現在祀られているのは上表下側の神々です。しかし、明治以前には大川山権現とされていました。権現と名が付く山々では、石鎚山などのように蔵王権現と役行者が祀られていました。
権現とある山は、修験者によって開かれ霊山で修験者の修行の山です。大山大権現の別当寺・新宮寺の役割を果たしたのが中寺廃寺でした。中世になって中寺廃寺が退転した後は、修験者たちは炭所の金剛院などに坊集落をひらき定住します。そして、行場としての大川山(権現)を守っていきます。そうだとすれば石鎚山と同じように、もともとここに祀られていたのは、修験者が教祖としていた役業者や蔵王権現がもっとも相応しいことになります。 

石鎚 蔵王権現
石鎚山山頂に運び上げられる蔵王権現

高越山 役行者
阿波 高越山の役行者

修験道の成立と蔵王権現の登場

 明治維新の神仏分離で金毘羅大権現のように大川山からも権現たちは追放されました。これに換わって迎え入れられたのが紀記に登場する神々です。大川神社では、修験者が信仰した権現たちが追放された後には、上記の2つの神々が迎え入れられ現在に至っていることを押さえておきます。
 次に見ておきたいのが本殿の後側の石垣と玉垣で高く築かれた神域です。

大川神社3
            緑の屋根が本殿の覆屋 その手前のふたつの燈籠が並ぶ所
高い石垣を組んだ方形の区画があります。正面に立ってみます。
大川神社 松平家御廟
髙松松平藩の霊廟
階段がないので上れません。登れない聖域なのです。先ほど見たように本殿は高松藩の支援で改修が行われます。髙松藩との結びつきを目に見える形で示すために社殿横に霊廟が作られたことが考えられます。藩主の保護を得ているというモニュメントにもなり、大川山権現のランクを高める物になったでしょう。
 次に見ておきたいのは、神域の西北隅にある小さな神社です。

大川神社 秋葉神社2
           大山神社の神域の玉垣(明治28年 日清戦争の戦勝記念?)
玉垣の北西隅に鳥居があります。

大山神社 秋葉神社3
鳥居には秋葉神社とあります。
秋葉大権現は、火防(ひよけ)・火伏せ(火伏せ)の神様として信仰される神仏習合の神です。もともと秋葉山にいた修験者「三尺坊」に由来します。神通力を得た三尺坊が天狗となり、火生三昧(かしようざんまい)を修して火災を鎮めたという伝説から、火の神として広まりました。特に静岡県浜松市の秋葉神社が総本宮として有名です。火災消除の御利益があるとされ、江戸時代には「秋葉講」が全国的に組織されました。
 秋葉大権現の三代誓願は次の通りでした。
第一我を信ずれば、失火と延焼と一切の火難を逃す。
第二我を信ずれば、病苦と災難と一切の苦患を救う。
第三我を信ずれば、生業と心願と一切の満足を与う。
真言オン ヒラヒラ ケン ヒラケンノウ ソワカ
アンティーク 秋葉山 秋葉寺 秋葉三尺坊大権現 秋葉権現 天狗 白狐 紙
秋葉大権現
 その姿は飯縄権現や愛宕権現と同じように白狐に乗り、剣と羂索を持った烏天狗姿で描かれました。飛行自在の神通力を持ち、観音菩薩の化身(本地仏)ともされます。ここからは天狗信仰の修験者に担われて秋葉大権現が大川山に勧進されたことがうかがえます。これは金毘羅大権現と金光院の天狗信仰と同じです。 しかし、この秋葉神社が鎮座する位置は微妙です。

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大川神社神域の外に鎮座する秋葉神社
横から見ると、鳥居は神域の玉垣の内側ですが、社殿は石垣の外側に鎮座しています。これをどう考えればいいのでしょうか? 大山大権現の火伏せ・火除けの守護神として招来したのなら内側にあるのが当然です。しかし、どうみても玉垣の外にあります。

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              大川神社の玉垣の外に鎮座する秋葉神社
 もともとは神域の中にあったのが明治維新に「秋葉大権現」なので「秋葉神社」と改名し、その後に神域の外に追いやられたことが考えられます。その時期は、玉垣が整備された日清戦争後のことでしょう。しかし、もともとの信者たちの抵抗で、鳥居と入口は神域内に残されたのではないかと私は推察しています。そうだとすれば大川山周辺には、秋葉大権現を信仰する人達が数多くいて、講組織を作っていたことがうかがえます。その背景として考えられるのが、ソラ(山間部)の焼畑です。焼畑では、火を使います。火をコントロールし、最後にはきちんと鎮火させることが大切です。その火伏せのために秋葉信仰が修験者たちによってもたらされたことが考えられます。ここでは火を扱う焼畑の神様として、ソラの集落の人々の信仰を集めていたとしておきます。これも山伏たちの残した痕跡です。

神輿蔵の裏側に、ふたつの石造物が残されています。

 大川神社 魔除寺蔵と不動明王
            大山神社神域の石造物 魔除地蔵と不動明王(?)
 左が魔除け寺蔵です。地蔵信仰は、足利尊氏が帰依したために室町期に盛んになったとされます。これを広めたのも廻国の修験者や高野の聖であったとされます。右は不動明王のようです。

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                大山神社の不動明王
不動明王は修験者が守護神として大切にした明王です。小さな不動明王像を持ち歩き、行場に入るときには安置して外敵や己の弱い心を打ち砕いたとされます。大山神社に残る秋葉神社や魔除地蔵・不動明王などは、ここで活動していた修験者の痕跡と私は考えています。
 
大川神社 龍王社
大川神社の龍王堂
本殿の東側に、東面して建っているのが龍王堂です。
どうしてここに龍王堂があるのでしょうか。それは龍王が雨を降らせる神様とされたからです。空海祈雨伝承では京都の神仙苑の池で、空海が小さな蛇(善女龍王)を呼び出し、雨を降らせるとされてきました。これが近世になって讃岐にも拡がるようになります。そうすると、雨乞いが行われる山には、修験者たちによって龍王神が祀られるようになります。こうして大川山も雨乞いの霊山として信仰を集めるようになります。もともとは山頂に小さな池があったというのも、そこが善女龍王の住処であったことを暗示しています。ここに龍王神が祀られているのは納得できます。それを主導したのも、芸能伝達者としての修験者たちであったと研究者は考えています。彼らが、近世後半になると風流踊りを雨乞踊りにアレンジしていきます。これは滝宮念仏踊りや、佐文綾子踊りと同じ流れです。その背後には、修験者の姿が見え隠れします。
以上見てきた大川神社の境内にある宗教施設を登場順にあげると、次のようになります。
①本殿    蔵王権現?  修験者の信仰本尊
②龍王社   善女龍王   雨乞い伝説
③松平御廟  高松藩による関連堂舎の整備建立
④松葉神社  火伏せ神としての守護神
明治維新後の神仏分離によって①は廃仏毀釈で排除されます。そして②③④と民間信仰としての安産信仰が残ったのではないでしょうか。これらの施設は、今は石垣上の石製の瑞垣で囲まれていて、聖域を構成しています。それではこの聖域が作られてのは、いつなのでしょうか。玉垣内に置かれた燈籠の銘から、明治26年から30年頃の日清戦争前後に神域は整備されたことが分かります。現在のレイアウトは、約130年前の明治になってからのものであるようです。その整備時に、小蛇の棲むとされた小池も埋め立てられたのかも知れません。
 
中寺廃寺 Bゾーン2025
中寺廃寺の遙拝殿跡から望む霊山・大川山
最後に中寺が衰退した後の大川山権現が歩んだ道程について考えておきます。
古代国家によって建立された山林寺院は、中世になって国衙の保護を失うと急速に衰退します。しかし、人々の大川山信仰が失われたわけではありません。中寺に替わる勢力が、大川山を行場として活動するようにます。それが備中児島の五流修験だと私の師匠は考えています。それを仮説として最後にお話ししておきます。
  五流修験は、紀伊の熊野神社の修験者の亡命集団と称します。それが、熊野神社の社領のあった備中児島にやってきて分社したのが五流です。そのため「新熊野」とも呼ばれます。修験者の開祖とさえる役行者の5人の弟子が開いた寺院が中心になっているので五流です。この修験者集団にとって泣き所は、近くに行場がないことでした。山林寺院は行場の近くに開かれるのが普通ですが、社領の児島に分社されたので高い山(霊山)がないのです。そこで彼らが開山したのが伯耆大山や石鎚・大三島・宮島などです。後には小豆島も行場化します。さらに熊野水軍の船に乗り込み、瀬戸内海や九州にも布教活動を展開します。そのような中で、彼らは対岸の丸亀平野にもかすみ(テリトリー)を形成するようになります。その教線ラインは土器川・金倉川沿いにまんのう町にものびてきます。そして古代末には衰退した中寺に代わって五流が大川山を影響下にいれたようです。その痕跡を地名で見たのが次の表です。

霊山大川山と五流修験

大川山の北側の麓には「吉野」、南側に勝浦の集落があります。吉野修験のコリトリ場として天川(てんかわ)が有名です。これは造田に天川神社としてあります。ここで身を清めて大川山に参拝したのでしょう。これらは熊野や吉野にある地名です。また、山伏たちが開いた坊集落が炭所の金剛院です。中寺が中世に衰退した後は、五流修験のネットワークの中に大山大権現は組み込まれていたと私は考えています。
本日の授業

 以上で、本日の授業を終わります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
大川神社の紅葉 2025 11 11
大川神社の玉垣と紅葉(2025年11月11日)
参考文献
 大山神社本殿・随身門調査報告書 京都大学工学部建築史学講座
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櫛梨山(琴平町)からのぞむ大川山
丸亀平野から南を望むと、低くなだらかな讃岐山脈が東西に連なります。その山脈の中にピラミダカルな盛り上がりが見えるのが大川山です。この山頂に石垣を積んで、大川(だいせん)神社の神域はあります。今回は、大川山頂上の玉垣に囲まれた神域にある殿舎を見ていくことにします。

大川神社 神域図
大川神社
キャンプ場から遊歩道を登っていくと、この神域南側の改段下の広場に着きます。

大川神社 正面

ここが大川念仏踊りが踊られる舞台ともなります。

大川神社 念仏踊り
大川神社の鳥居の前で舞われる念仏踊り 
ここには空海の祈雨祈願伝承の「善女龍王」伝説が伝えられ、小さな池が社前にはあったとされます。 

大山神社2 2025 11月11日

この説明版には大川神社の由来を次のように記します。
大川神社には木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)と大山津見命(おおやまみのみこと)が祀られています。『古事記』や『日本書記』によると、木花之佐久夜毘売命は、花が咲いたに美しい神とあり、邇邇芸命(にぎのみこと)に嫁ぎました。説話では、火が燃えさかる産屋の中で火照命(海彦)、火須勢理命、火遠理命(山彦)の三人の男の子をつぎつぎに生んだそうです。
 このことから、後世、安産の神様として信仰されてきました。また、火を噴く山の神霊を鎮めるため、かつて活火山であった富士山や、浅間山にも祀られ信仰されています。
 大山津見命は木花之佐久夜毘売命の父君といわれ、山の神様として、また農耕の神様として信仰されてきました。社伝によると聖武天皇の頃、天平四だいかんばつ年(七三二)に大旱魃があり、時の国司が大川神社に恵みの雨を祈ると、一天にわかにかき曇り大雨が降ったそうです。それ以来、祈雨の神様として歴代国主の信仰厚く、讃岐、阿波はもとより四国中からも尊崇されてきたということです。
 そして、大川神社では旧暦六月十四日、大川念仏踊りが行われています。
ここには古事記や日本書紀に書かれている神話だけの紹介で、中世や近世にこの神社が果たした役割や、この神社をめぐる動きについては何も触れられていません。

江戸時代後半に書かれた増補三代物語には次のように記されています。
①大山大権現社は、大川山の山頂に鎮座する。何神を祀るか分からないが、山神や龍族を祀るのであろう。昔は阿讃土予の四国の人々の崇敬を集めていたという。六月朔の祭礼や、②大干ばつの際には人々は鐘や鼓を鳴らし、降雨を祈願すると、必ず雨が降った。 ③祠の前に小池があり、雨乞い祈願し雨が降る際には、小蛇が現れて水が吹き出す。するとにわかに雲が湧き、大雨となる。④かつては天台宗寺奉守がいたが今は廃絶し、今は社家が祭礼を主催する。⑤大川は大山の音転で、元々は伊予の大山積神である。
 寛永年間に、⑥生駒家家臣の尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したが、年月が経ち多くが破損した。そこで⑦承応二年に(高松藩主)先君英公がこれを修繕した。その後、山火事で延焼したのを、寛文十二年に英公更が再建した。⑧元禄十二年に節公が阿讃国境の検分の際に修理した。⑨宝永六年には、また焼け落ちたが、恵公の寄進された穀類で興復することができた。近頃、⑩雨乞いの時の曲を、一名大川曲ともいう。
ここからは次のような情報が読み取れます
①社名は「大山大権現社」で、修験者の霊山である大権現を名のっていたこと
②山神や竜神を祀る神社で、雨乞いの霊山として信仰されていたこと
③社の前に小池があり、子蛇が現れると雨が降ると「善女龍王」伝説を伝えること
④かつては天台宗の別当寺が神社を管理していたこと(中寺廃寺の伝承)
⑤大川は、もともとは大山で、伊予の大山祇神の山であること
⑥生駒時代に尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したこと
⑦髙松藩の歴代藩主によって修理・再建が行われてきたこと
これくらいの予備知識をもってお参りすることにします。
鳥居をくぐって改段を上がって行きましょう。

大山神社1
大川神社正面鳥居と階段の上の拝殿

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南面して建つ拝殿
正面に長い拝殿が東西に建ちます。ここで礼拝すると本殿はまったく見えないままです。本殿は、拝殿に接続してすぐ背後に並んで建ちます。拝殿の東には南北棟の参籠堂が拝殿にT字に接続しています。
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拝殿正面
かつて、大昔に正月に雪道をご来光を見るために登って来たときには、ここに上げていただいて、餅や御神酒をいただいたことを思い出します。集団登山の時には、この板間にシュラフで寐たこともありました。
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頂上に建つので水場はありません。かつては屋根からの雨水を集めて使っていました。その貯水槽です。 この拝殿の背後にある本殿は直接につながっていまが、拝殿の南側からは見えません。裏に回らないと見えないのです。裏に回って、本殿を直接礼拝させていただきます。

大川神社 本殿東側面
大川神社 本殿1
大川神社 本殿東側面図
  報告書に書かれた専門家の本殿の説明を聞いてみましょう
構造形式 
桁行正面一間 背面二間 流造 鋼板葺
身舎円柱 切日長押 内法長押 頭貫 木鼻 台輪 留め
出組 実肘木 拳鼻 側・背面中備雲紋彫刻板 妻飾二重虹
梁大瓶東 庇角柱 虹梁形頭貫 象鼻 三斗枠肘木組 実肘木
繋海老虹梁 中備不明 二軒繁垂木 身舎三方切目縁 勿高欄
脇障子 正面木階五級 浜縁
建立年代 19世紀前期

大川神社本殿は、その構造形式を簡略に記せば、一間社流造と表記できる。ただし背面の桁行は二間になっているので、二間社流造と呼ぶこともできる。
基壇 
本殿は高さ1,2mほどの高い切石積基壇の上に立つ。その上に本製土台を組んで柱を立てる。土台の上には大きな石を大量に載せて、山上の強い風にも飛ばされないように押さえられている。
大川神社 本殿西妻飾

身舎軸部・組物・軒・妻飾 身舎は円柱を切日長押・内法長押・頭貫・台輪で繋ぐ。頭貫に木鼻を付ける。その木鼻は九彫りの獅子頭を用い、すべての柱頂部に置かれている。台輪は木鼻を付けず、留めとしている。
円柱は見え掛かり部分では床下も円形断面に仕上げるが、見え隠れでは人角形に仕上げている。組物は出組で、実肘木・拳鼻を付ける。この組物の肘本は下端の繰り上げの曲線部分がなく、単純な角材で造られていて、意匠的には相当新しさを感じさせる。

大川神社 本殿絵様
大川神社本殿
さらに拳鼻も角材のままで繰形などを施さない。中備は雲紋を浮彫とした板を組物間に置く。この雲紋はこの建物では多用されていて、内法長押と頭貫の間の小壁の板にも浮彫の雲紋を施している。雨乞いの神様であるから、このような意匠を多用したのであろう。
妻飾は、出組で一手持ち出した位置に下段の虹梁を架け、その上に二組の平三斗を置いて、上段の虹梁を受け、その上に大瓶束を立てて棟木を受ける。平三斗は実肘本は用いないが、拳鼻は柱上の組物同様の角材を置く。下段虹梁上の中備も雲紋の浮彫彫刻である。
身舎の正面は蝶番で吊った板扉が設けられている。
他の三方は板壁で閉じられている。身舎内部は一室で、間仕切りはない。軒は一軒の繁垂木である。
この社殿は、いつ建てられたものなのでしょうか? 
今は実物はないようですが、かつての棟札の写しが5枚残っています。
大川神社 棟札
大川神社棟札一覧
かつてあったとされる5枚の棟札には、次の年紀があります。
元禄十五年(1702)
延享二年(1745)
宝暦三年(1753)
天明三年(1783)
これ以前には、社殿はなく、石造物だけがあったことも考えられます。
先ほど見たように、現在の本殿の虹梁絵様は19世紀前期頃のデザインでした。様式的には18世紀後期より遡ることはないと研究者は指摘します。つまり、5枚の棟札はどれもこの本殿の建立を示すものではないようです。
それでは、この本殿建立は、いつなのでしょうか? 
それは本殿背後に「文政十一成子年」(1828)と刻まれた燈籠があります。文化文政の「幕末バブル期」
の経済的な発展期の中で、善通寺の五重塔再興や金毘羅大権現の金堂(旭社)の建立が行われていた時期になるようです。
以上から専門家は大川神社の本殿を次のように評価します。
本殿は比較的実例の少ない二間社であることに第一の特徴がある。とはいえ庇と身舎正面の柱間は一間としているので、規模としては標準的な一間社と大差はない。小壁や中備に雲紋を施した板をはめているのは、先にも述べたように雨乞いの社としての信仰と関わるものであろう。縁束の間も竪連子を浮き彫りにした格狭間をはめており、珍しい意匠である。
 組物の肘木が角材であるのは個性的である。拳鼻まで同様に角材で造るから、かなり加工の手間を省いたか、建立年代が新しいか、いずれかと想定させる。しかし一方で、頭貫木鼻は全ての柱上に獅子頭を据えるから、さして省力化したとは言い難い。
 比較的華やかな装飾、肘本や縁廻りの独特の形式など、独自性が強い大川山山頂という特異な場にあって、社伝によれば奈良時代からの、確実なところでは近世以来の庶民の祈雨信仰と結びつき、本殿の意匠にまでそうした背景が意匠に反映した興味深い建物と言える。つまり神社の歴史的特質が近世末期の社殿の造形に結びついた建物と言えよう。
 今から200年前に建立された本堂も、大川山頂上で長年の風雨にされされて痛みがひどくなり建て修復されるようになったようです。近世になって、山伏たちによって祈雨信仰が接ぎ木されると、それにともなって「本殿の意匠にまでそうした背景が意匠に反映」と研究者は指摘します。この本殿も修復を終えて、最近行ってみるこんなふうになっていました。

大山神社 本殿 2025年
修復され覆屋に覆われた大川神社の本殿

それでは、この本殿にはどんな神様が祀られているのでしょうか。

大川神社の神々

先ほど見た説明版には「大川神社には木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)と大山津見命(おおやまみのみこと)が祀られています。」とありました。しかし、江戸時代の「増補三代物語」には、次のように記します。
「大山大権現社 在高山上、不知奉何神」
意訳変換しておくと
「大山大権現社」と権現を祀る山で高い山の上にあるが、何を祀っているかは分からない」

と云うのです。江戸時代に後半までは、祭神がなんであるのかは人々には知られていなかったことが分かります。近世後半に西讃府史などで村の神社を調査するまでは、村社などに何が祭ってるのかを人々は気にとめていなかったことは以前にお話ししました。それが重要なこととされるのは、神仏分離後に神道が国家神道となってからのことです。
 ただ、「大山(川)大権現」とあります。権現とある山は、修験者によって開かれ霊山で修験者の修行の山です。大川大権現の周辺には、多くの修験者たちが行場で修行を行い、そして定着していたことがうかがえます。その拠点となったのが古代においては中寺廃寺で、大山大権現の神宮寺の役割を果たしていたこと以前にお話ししました。中世になって国家支援を受けれなくなった中寺廃寺が退転した後は、修験者たちは里の炭所の金剛院などに坊集落をひらき定住します。そして、行場としての大川山(権現)を守っていきます。そうだとすれば石鎚山と同じように、もともとここに祀られていたのは、修験者が教祖として役業者や蔵王権現に類するものが祀られていたことが考えられます。

明治維新の神仏分離で金毘羅大権現のように権現たちは追放されました。これに換わって迎え入れられたのが紀記に登場する神々です。大川神社では、修験者が信仰した権現たちが追放された後には、上記の2つの神々が迎え入れられ現在に至っています。

本殿以外の施設について見ておきましょう。

大川神社 龍王社
 本殿の背後の龍王堂
本殿の東側に東面して建っているのが龍王堂です。
空海祈雨伝承では京都の神仙苑で、空海が小さな蛇(善女龍王)を呼び出し、雨を降らせるとされることは以前にお話ししました。そのため雨乞いが行われる山には、龍王神が祀られるようになります。大川山も近世後半になると雨乞いの霊山として信仰を集めるようになりましたから、ここに龍王神が祀られているのは納得できます。しかし、中を覗いてみると祭礼に使う御神輿が置いてあり、龍王神らしきものは何もありません。大膳神社での雨乞の役割は終わったようです。神社や寺にも流行や廃れがあることは以前にお話ししました。その波を越えた寺社が生き残ってきたのです。

大川神社3
緑の屋根が社殿の覆屋 その前のふたつの燈籠が並ぶ所
本殿(緑の覆屋)の背後には、高い石垣を組んだ方形の区画があります。これがなんであるのかは、私は知りませんでした。
大川神社 松平家御廟
髙松藩松平家の御廟 階段がないので上れない
今回はじめて松平家の御廟であることを知りました。
先ほど棟札で見たように大川神社の本殿は高松藩の支援で改修が行われます。髙松藩との結びつきを目に見える形で示すために社殿横に霊廟が作られたのかもしれません。藩主の保護を得ているというモニュメントにもなり、大山権現ののランクを高める物になったでしょう。
この神域には、もうひとつ宗教施設が北西隅にあります。

大川神社 秋葉神社2
大山神社境内 北西隅の秋葉神社

大山神社 秋葉神社3
北西隅の秋葉神社
秋葉神社の祠です。秋葉神社についてウキには次のように記されています。

秋葉三尺坊大権現は、火防(ひよけ)・火伏せ(火伏せ)の神様として信仰される神仏習合の神で、もともと秋葉山にいた修験者「三尺坊」に由来します。神通力を得た三尺坊が天狗となり、火生三昧(かしようざんまい)を修して火災を鎮めたという伝説から、火の神として広まりました。特に静岡県浜松市の秋葉神社が総本宮として有名です。火災消除の御利益があるとされ、江戸時代には「秋葉講」が全国的に組織されました。 

 「遠州秋葉山本地聖観世音三尺坊略縁起」(享保2年(1717)成立)には次のように記します。(要約)
①秋葉三尺坊大権現と称し、秋葉権現は三尺坊である
②観音菩薩を本地仏とし、その姿は飯縄権現と同じく白狐に乗り、剣と羂索を持った烏天狗姿
③三尺坊は、不動三昧の修行をし「烏形両翼にして左右に剣索を持ちたる霊相」が現れ、飛行自在の神通力を得、観音菩薩の化身とされた。

アンティーク 秋葉山 秋葉寺 秋葉三尺坊大権現 秋葉権現 天狗 白狐 紙
         秋葉大明神 白狐に乗り、剣と羂索を持った烏天狗

象頭山天狗 飯綱
      象頭山金毘羅大権現金光院の飯綱大明神 秋葉大明神と同じように描かれている
ここからは次の要素が混淆して生まれたのが「秋葉三尺坊大権現=秋葉大明神信仰」であることが分かります。
A 修験道の霊場としての秋葉山に伝わる山岳信仰
B 信州出身の修験者である三尺坊への信仰
C 本尊の聖観音に対する信仰
その三大誓願は
第一我を信ずれば、失火と延焼と一切の火難を逃す。
第二我を信ずれば、病苦と災難と一切の苦患を救う。
第三我を信ずれば、生業と心願と一切の満足を与う。
真言オン ヒラヒラ ケン ヒラケンノウ ソワカ
どちらにしても秋葉信仰が、天狗信仰の修験者に担われていたことは間違いないようです。これは金毘羅大権現と金光院の天狗信仰と同じです。修験道の霊山であった大川山に、秋葉神信仰が近世になって勧進されたことが推測できます。しかし、大山神社の境内にある秋葉神社の性格は微妙です。神域の内側だとすると、大山大権現の火伏せ・火除けの守護神として招来したことが考えられます。しかし、玉垣の外にあるようにも見えます。そうだとすれば、秋葉信仰の講組織によって建立されたことになります。当然、里には講組織の信者たちがいたことになります。このあたりのことは、今の私にはよく分かりません。

大川神社 魔除寺蔵と不動明王
 大山神社の石造物 魔除地蔵と不動明王(?)

別の視点で大川山と修験者の関係を示してくれるのが龍王堂の裏側(西側)のふたつの石造物です。。

左が魔除地蔵と掘られた台座の上に立っている地蔵様です。地蔵信仰は、修験者により流布されたと研究者は考えています。右側が修験者の守護神である不動明王のようです。

大山神社 不動明王
大川神社境内の不動明王
 地蔵信仰は鎌倉末期の14世紀前半に成立し、足利尊氏が帰依したために室町期に盛んになったとされます。霊山であった大山大権現の周辺では、古くから焼畑農業が行われていたことが考えられます。焼畑を行った集団は、木地師達でもあり、鉱山師達でもありました。彼らは修験者とも繋がり、南北朝までは、南朝とも繋がって阿波の山間部では一大勢力に成長していったとされます。熊野行者たちは、熊野参拝道として山岳地帯を結ぶ独自の通路を持ち、併せて鉱山師のような活動もしていたようです。阿波や伊予の中央構造線上に彼らの痕跡が残っていることは以前にお話ししました。また山間部の焼畑では、火の鎮火などが大切で、火除け火伏せのために秋葉信仰が修験者たちによってもたらされたことが考えられます。大山神社境内に残る秋葉神社や魔除地蔵・不動明王などは、ここで活動していた修験者の痕跡と私は考えています。

以上、大川神社(大権現)の境内にある宗教施設を登場順にあげると、次のようになります。
①本殿    蔵王権現?  修験者の信仰本尊
②龍王社   善女龍王   雨乞い伝説
③松平御廟  高松藩による関連堂舎の整備建立
④松葉神社  火伏せ神としての守護神
明治維新後の神仏分離によって①は廃仏毀釈で排除されます。そして②③④と民間信仰としての安産信仰が残ったのではないでしょうか。これらの殿舎は、今は石垣上の石製の瑞垣で囲まれていて、聖域を構成しています。
それではこの聖域が作られてのはいつなのでしょうか。
玉垣内に置かれた燈籠の銘から、明治26年から30年頃の日清戦争前後に神域は整備された作られたものと研究者は考えているようです。つまり、現在のレイアウトは、約130年前の明治になってからのものであるようです。その整備時に、小蛇の棲むとされた小池も埋め立てられたのかも知れません。それ以前の社殿のレイアウトなどは分かりません。社殿の整備が進み、国境を越えて阿波の人たちなど、より多くの人たちの信仰を集めるようになったのは、この頃からなのではないでしょうか。
最後に、本殿棟札として一番古い元禄十五年(1702)棟札を見ておきましょう。
聖主天中天  迦陵頻伽声
哀慇衆生者  我等今敬礼
神官      宮川和泉橡重安
時郡司     渡部専右衛門尉重治
当部大政所  久米善右衛門貞明
      内海治左衛門政富
五箇村政所
中通村  新名助九郎高次
勝浦村  佐野忠左衛門守国
造田村  岡田勘左衛門元次
炭所西村 新名平八郎村重
川東村  高尾金十郎盛富
大工金比羅    藤原五兵衛金信
讃岐国鵜足郡中通村大仙権現神祠 合一宇 恭惟我昆慮遮那仏 取日寓名円照編索詞 界現徴塵刹日域 宗度社稜苗裔之神崇山峻嶺 海浜湖無所人権同塵不饒益有情実 邦君左近衛少将源頼常卿 抱極民硫徳懐国邑巡遊日親霊祠傾類 辱降賜興隆命因循経六曰 今ガ特郡司渡部氏篤志槙福故両郡黎蒸贔,造功成郎手輪奥共美下懐鎮祈邦淋福寿同而国家安穏万民豊饒 里人遇早魃必舞曇育摩弗霊験 長河有次帯之期泰山有如挙之月徳参天地洪然而犯独存神祠平維時 
元禄十五青龍集壬午四月上院高松城龍松小法泉寺住持嗣祖此丘畝宗格誌

社伝には奈良時代の天平年間には、神社が建立されていたとしますが、そこまでは遡れないと研究者は考えています。
 平安時代には、中寺廃寺が建立され山林修行を行う僧侶の拠点となっています。彼らは、この山を霊山として信仰していたことは以前にお話ししました。ここに社殿が建てられたのでは?と思いたくなります。しかし、当時は山自体が神体とされていた時代です。山頂に神社が建てられる時代ではないのです。例えば、伊予の石鎚権現信仰でも、頂上には権現像があるだけです。そしてそれは、いつもは下の遙拝所から拝むものでした。土佐の霊山の山々も、祭礼の際に人々が山に登って来てて、いろいろな行事を行いますが建築物しての神殿や拝殿などが姿を現すのは、近世後半になってからです。大川山も古くから信仰の山として、丸亀平野の里人の信仰の山であったようですが、頂上に神社が建てられるのは近世になってからのことだと私は考えています。

中寺廃寺 Bゾーン2025
中寺廃寺 遙拝所から望む大川山

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大川寺境内の中にある一等三角点
 大川神社に残された棟札5枚からは、18世紀になって歴代高松藩の藩主の支援を受けて堂舎が「再興」されたことが分かります。
 再興とありますが、これが創建ではないのか私は考えています。これよりも古い棟札はないのです。雨乞い用の鉦鼓などの寄進は、生駒藩の時代から行われていたかも知れませんが、山頂に堂舎を立てるというのは、もう少し後の時代になってのことのような気がします。(改稿 2025年11月12日)

大川神社の紅葉 2025 11 11
大川神社からの紅葉
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  大山神社本殿・随身門調査報告書 京都大学工学部建築史学講座
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