大川神社の本殿が新しく建て替えられることになり、壊す前に本殿の調査が京都大学工学部建築史学講座によって行われたようです。その調査報告書を図書館で見つけましたので、読書メモ代わりにアップしておきます。
  テキストは 大川神社本殿・随身門調査報告書 京都大学工学部建築史学講座です。この題を見て、大川神社に随身門なんてあったかいな? というのが第一印象でした。
大川神社の随身門は、どこにあるのでしょうか? 
大川神社 1

幕末の「讃岐国名勝図会」には、大川山の頂上に大川神社が鎮座しているのが描かれています。しかし、山頂付近には随身門は見当たりません。随身門があるのは、麓の中通(なかと)村から野口川沿いの参道を登った中腹です。
まずは、今まで見逃していた随身門から見ていきましょう
大川神社 随身門2
 
随身門があるのは、野口からの登山道コースの途中です。この門は、中通から野口川を遡って大川神社へ至る参道にあり、幕末期に高松藩主が鷹狩の際に登った記録があります。近世には、野口ルートが大川神社参拝の正式ルートであったようです。

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 かつて集団登山で、このコースを歩いていたことを思い出しました。その時に、この門を通過し、車道を横切って山頂へと歩んだはずなのですが、記憶にないのです。その頃はこの門に気を配るだけの心のゆとりはなかったのかもしれません。

大川神社 随身門正面図
随身門について報告書は、次のように記します
構造形式
桁行正面三間 梁間二間 
入母屋造 セメント瓦葺
角柱 床枢 内法貫 中央間のみ虹梁形内法貫 
組物なし
中備正背而中央間のみ慕股 
一軒疎垂木 妻飾縦板壁
建立年代 19世紀中期
大川神社 随身門全景図

研究者の説明は次の通りです
随身門は比較的小規模な八脚門である。
桁行三間の中央間を九尺強、両脇間を五尺強と、中央間を相当広くとっている。その中央間を通路とし、両脇間には床を張って、後方一間四方に随身を祀る。随身の周りは側・背面を板壁、正面を両開きの格子戸とする。随身の前の一間四方は床張りで、現状では妻側に板壁がある以外、残る二面の柱間は開放である。

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正面・棟通り,背面の中央間は内法貫を虹梁形としており、正面両端間は直材であるが、絵様を彫って虹梁風に仕上げている。正面や通路部分を飾ろうという意識で造られていると考えられる。正背面の虹梁形内法貫には中備の募股を置く。
  しかし組物は組まず、妻飾も板張りで、装飾的な要素は極めて少ない。
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内部は天丼を張らず、東組の小屋組が見えている。
松材を用いており、通常とは異なる位置で継いでいる部材もあって、上質とは言えない。また正面両脇間には格子を填めていた痕跡があるが、格子そのものは一本も残していない。建立後の傷みは少なくない。
  今は随身さまもいらっしゃいません。痛みも進み、組み物もないようです。いたってシンプルな随身門です。いつ頃の者なのでしょうか?
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棟札など建立年代が分かるものはないようです。ただ、門の前には「天保六未歳六月古日」|(1835)の刻銘のある燈籠が建っています。この燈籠の造られた頃に、随身門も同時に建立されたと研究者は考えているようです。そうすると19世紀半ばあたりで、幕末の頃になります。
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  この門から向こうが「神の山」、つまり神域と当時の人たちは思っていたのでしょう。ここで一息入れて、足下、身なりを整え、同時に心も参拝バージョンに入れ替えたのでしょう。門の向こうには鳥居が見えます。

大川神社 大山祇神社 随身門1
 
大山祇神社が祀られています。ここにも手を合わせて「だいせんみち」を頂上に向かって歩み出していきます。

大川山 割拝殿から
中寺廃寺跡から望む大川山

次に大川神社の由来について見ていきます

大川神社については、確実な史料はありません。近世の地誌や縁起が残るだけです。
「讃岐国名勝図会」には、次のように記されています。
大川神社(略)社記曰く、当社は天平四年、天下大早して五穀登らず、六月朔日国務国司、神社を建立せり、社は南に向ふ、社前に小池あり、往古天台宗の寺あり、大早には土人集まり、鐘をならして雨を乞ふに霊応あり、寺は今廃せり、その後応安年中長尾某社殿を造営す、永禄年中生駒一正朝臣、元和・寛永年間高俊朝臣も造営あり、承応二年国祖君修造なしたまふ、その後焼失せしを、寛文十二年経営あり、今に至るまで世々の国君度々造営あり、一々挙ぐるに違あらず、往古より雨乞の時必ずここに祈るなり、寛保元年、国君より念仏踊の幣料として、毎歳米八斗をたまへり。
意訳変換しておくと
大川神社(略)の社記には次のように記されている。
 当社は天平四(732)年、大干ばつが全国を襲い、五穀が実らなかったので、六月朔日に国司が、大川山に神社を建立したのが始まりである。社は南面し、社前に小池があった。古くから天台宗の寺があったが今は廃絶した。旱魃の時には、地元の人たちが集まり、鐘をならして雨乞いを行うと霊験があり雨が降った。その後、
応安年中(1368年から1375年)に(西長尾城城主?)・長尾某氏が社殿を造営し
永禄年中(1558年から1570年)生駒一正朝臣(生駒親正の子で、生駒藩2代)
元和・寛永年間には、高俊朝臣も造営し、生駒藩の時代には代々に渡って保護を受け、改修が行われた。
承応二年(1653)には、高松藩国祖の松平頼重も修造を行った。
その後に焼失したが寛文十二年に再建された。このように今に至るまで、その時代の藩主によって繰り返し造営されてきており、一々挙げることができないほどである。いにしえより雨乞いの時には、当社で必ず祈った。寛保元年には、国君より念仏踊の幣料として、毎歳米八斗をいただいている。
ここには次のような事が主張されています
①奈良時代に国司が祈雨のために建てた神社であること
②天台宗寺院が近隣にあって、大川神社の祭祀を執り行っていたが、近世には廃絶したこと
③中世には地元の有力者長尾氏の庇護も受けたこと
④生駒藩3代の藩主によって保護され、改修や修理などが行われたこと
⑤高松藩初代松平頼重も改修を行い、その後は歴代高松藩主の保護を受けていること。

大川山 中寺廃寺割拝殿
中寺廃寺の大川山を拝む遙拝殿
①②からは、以前にお話しした中寺廃寺のことが思い浮かびます。
8世紀後半の空海の時代には、大川山の北の尾根上には国衙によって、官営的な山岳寺院が活動を行っていたことが発掘から分かっています。彼らは大川山を霊山として崇めながら山林修行をおこなっていたようです。神仏混淆の時代には、中寺廃寺の修験者たちが別当として、大川神社を管理していたのでしょう。注目しておきたいのは、ここではその寺院を天台寺院としていることです。どうして、そのような由来が語られるようになったのが気になるところです。
  雨乞いには伝統と霊験があり、古くから雨乞いの神社として歴代の藩主等の保護を受けていたことが語られています。
「増補三代物語」にも、ほぼ同様のことが次のように記されています。
大山大権現社 在高山上、不知奉何神、蓋山神、若龍族也、昔阿讃土予四州人皆崇敬焉、歳六月朔祀之、大早民会鳴鐘鼓祈雨、必有霊応、祠前有小池、当祈雨之時、小蛇出渉水、須央雲起,市然大雨、旧在天台宗寺奉守、今廃、今社家主祭、或日、大川当作大山、音転訛也、所奉大山積神也(在予州、載延喜式所也)、
 寛永中生駒氏臣尾池玄蕃、蔵鉦鼓三十余枚歴年久、『申祠類敗、承応二年先君英公修之、其後焚山火、寛文十二年壬子英公更経営、元禄十二年節公巡封境見其傾類而修之、宝永六年辛丑又焚実、恵公給穀若千以興復、近年有祈雨曲、一名大川曲(州之医生片岡使有者作之、散楽者流之歌也、)、


長いですがこれも一応、意訳しておきます
大山大権現社は、大川山の山頂に鎮座する。何神を祀るか分からないが、山神や龍族を祀るのであろう。昔は阿讃土予の四国の人々の崇敬を集めていたという。六月朔の祭礼や、大干ばつの際には人々は鐘や鼓を鳴らし、降雨を祈願すると、必ず雨が降った。
 祠の前に小池があり、雨乞い祈願し雨が降る際には、小蛇が現れて水が吹き出す。するとにわかに雲が湧き、大雨となる。かつては天台宗寺奉守がいたが今は廃絶し、今は社家が祭礼を主催する。大川は大山の音転で、元々は伊予の大山積神である。
 寛永年間に、生駒家家臣の尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したが、年月が経ち多くが破損した。そこで承応二年に先君英公がこれを修繕した。その後、山火事で延焼したのを、寛文十二年に英公更が再建した。元禄十二年に節公が阿讃国境の検分の際に修理した。宝永六年には、また焼け落ちたが、恵公の寄進された穀類で興復することができた。近頃、雨乞いの時の曲を、一名大川曲ともいう。

ここから得られる情報ポイントを挙げていきましょう。
①社名を「大山大権現社」と「権現」しており、修験者の霊山となっていたこと
②山神や竜神を祀る神社で、雨乞いの霊山として信仰されていたこと
③社の前に小池があり子蛇が現れると雨が降ると「善女龍王」伝説を伝えること
④かつては天台宗の別当寺が神社を管理していたこと
⑤大川は、もともとは大山で、伊予の大山祇神の山であること
⑥生駒時代に尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したこと
⑦歴代藩主によって修理・再建が行われてきたこと
①④⑤などからは、里人から信仰を集めた霊山が、山林修行の僧侶(修験者)たちによって行場となり、そこに雨乞い伝説が「接木」されていく様子が見えてきます。
すこし寄り道、道草をします。⑤の大川山の由来について、すこし考えて見ます。
 仏教以前は、神が現れるのは自然のふところに抱かれた依り代と呼ばれる岩であり、岩窟であり、瀧であり、泉などでした。神は山川に周く満ちていました。仏教の伝来後は、人は神社や寺院などの建物の中に神仏を安置し、閉じ込めようとします。
 そのような中で人為的な社寺に対して、自然崇拝の霊場として「名山大川」という言葉が用いられるようになります。そこでは、土俗と習合したいろいろな雨乞いの方法が行われていたようです。律令政府の宗教政策で、自然崇拝は社寺に取り込まれていきますが、すべて消え去ることはありません。それらは民衆の信仰であり続けたし、官においても正式の社寺の祈雨で効果がないときは最後の頼みの綱ともなったのです。

大川山 中寺廃寺
平安時代の中寺廃寺のたたずまい

『続日本紀』などには「名山大川」という言葉が、雨乞い祈祷とともに出てきます。
そのひとつが室生龍穴で、古来から水神の霊地でした。ここは後に、室生寺が建立されて脚光を浴びるようになります。『日本紀略』延喜十年(910) 7月条「日来炎旱。詔諸國神社山川奉幣投牲。」のように、牲牛を龍穴に投じて犠牲として雨乞いを行ったようです。生け贄をともなう雨乞いは中国の道教系の雨乞いとされます。このように雨乞いが行われていた霊山が「名山大川」なのです。
「名山大川」の表現は延喜10年(910)が最後に、正史からは姿を消します。しかし、祈雨祭祀がおこなわれなくなったのではありません。自然の中での雨乞いは、それ以後も続きます。「名山大川」は元々中国の表現で、日本の実情とはちがったので「名山大川」という表現も使われなくなったと研究者は考えているようです。
 ここからは、もしかすると「大川山」という地名は「名山大川」に由来するのではないかという思いが湧いてきます。中寺廃寺から毎日、この山を崇拝する山林修行者が「名山大川」にちなんで、この山を「大川山」と呼ぶようになり、それがいつしか雨乞いの霊山とされるようになっていたとしておきましょう。

大川神社の由来に話をもどします。
⑥の歴代藩主の保護についてです
大川神社 棟札

『讃岐社寺の棟札』・『琴南町神社棟札』には、大川神社に残された棟札5枚が掲載されています。ここからは18世紀になって歴代高松藩の藩主の支援を受けて堂舎が「再興」されたことが分かります。
また、寛永五年(1628)には、讃岐藩生駒高俊の命によって雨乞い祈願のための鉦鼓三十数枚が寄進されたことが、残された寛永五年刻銘の鉦鼓から分かります。これらは大川神社や念仏踊を伝承する川東・中通・造田の各村に伝えられていて、記録を裏付けます。

 14世紀後期の長尾氏の社殿造営はともかくとしても、16世紀末以降、歴代藩主の庇護を受けて、社殿の造営がくり返されてきたことは事実のようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献