櫛梨山(琴平町)からのぞむ大川山
丸亀平野から南を望むと、低くなだらかな讃岐山脈が東西に連なります。その山脈の中にピラミダカルな盛り上がりが見えるのが大川山です。この山頂に石垣を積んで、大川(だいせん)神社の神域はあります。今回は、大川山頂上の玉垣に囲まれた神域にある殿舎を見ていくことにします。大川神社
大川神社には木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)と大山津見命(おおやまみのみこと)が祀られています。『古事記』や『日本書記』によると、木花之佐久夜毘売命は、花が咲いたに美しい神とあり、邇邇芸命(にぎのみこと)に嫁ぎました。説話では、火が燃えさかる産屋の中で火照命(海彦)、火須勢理命、火遠理命(山彦)の三人の男の子をつぎつぎに生んだそうです。
このことから、後世、安産の神様として信仰されてきました。また、火を噴く山の神霊を鎮めるため、かつて活火山であった富士山や、浅間山にも祀られ信仰されています。
大山津見命は木花之佐久夜毘売命の父君といわれ、山の神様として、また農耕の神様として信仰されてきました。社伝によると聖武天皇の頃、天平四だいかんばつ年(七三二)に大旱魃があり、時の国司が大川神社に恵みの雨を祈ると、一天にわかにかき曇り大雨が降ったそうです。それ以来、祈雨の神様として歴代国主の信仰厚く、讃岐、阿波はもとより四国中からも尊崇されてきたということです。そして、大川神社では旧暦六月十四日、大川念仏踊りが行われています。
ここには古事記や日本書紀に書かれている神話だけの紹介で、中世や近世にこの神社が果たした役割や、この神社をめぐる動きについては何も触れられていません。
江戸時代後半に書かれた増補三代物語には次のように記されています。
①大山大権現社は、大川山の山頂に鎮座する。何神を祀るか分からないが、山神や龍族を祀るのであろう。昔は阿讃土予の四国の人々の崇敬を集めていたという。六月朔の祭礼や、②大干ばつの際には人々は鐘や鼓を鳴らし、降雨を祈願すると、必ず雨が降った。 ③祠の前に小池があり、雨乞い祈願し雨が降る際には、小蛇が現れて水が吹き出す。するとにわかに雲が湧き、大雨となる。④かつては天台宗寺奉守がいたが今は廃絶し、今は社家が祭礼を主催する。⑤大川は大山の音転で、元々は伊予の大山積神である。寛永年間に、⑥生駒家家臣の尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したが、年月が経ち多くが破損した。そこで⑦承応二年に(高松藩主)先君英公がこれを修繕した。その後、山火事で延焼したのを、寛文十二年に英公更が再建した。⑧元禄十二年に節公が阿讃国境の検分の際に修理した。⑨宝永六年には、また焼け落ちたが、恵公の寄進された穀類で興復することができた。近頃、⑩雨乞いの時の曲を、一名大川曲ともいう。
ここからは次のような情報が読み取れます
①社名は「大山大権現社」で、修験者の霊山である大権現を名のっていたこと②山神や竜神を祀る神社で、雨乞いの霊山として信仰されていたこと③社の前に小池があり、子蛇が現れると雨が降ると「善女龍王」伝説を伝えること④かつては天台宗の別当寺が神社を管理していたこと(中寺廃寺の伝承)⑤大川は、もともとは大山で、伊予の大山祇神の山であること⑥生駒時代に尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したこと⑦髙松藩の歴代藩主によって修理・再建が行われてきたこと
これくらいの予備知識をもってお参りすることにします。
正面に長い拝殿が東西に建ちます。ここで礼拝すると本殿はまったく見えないままです。本殿は、拝殿に接続してすぐ背後に並んで建ちます。拝殿の東には南北棟の参籠堂が拝殿にT字に接続しています。
拝殿正面
かつて、大昔に正月に雪道をご来光を見るために登って来たときには、ここに上げていただいて、餅や御神酒をいただいたことを思い出します。集団登山の時には、この板間にシュラフで寐たこともありました。 報告書に書かれた専門家の本殿の説明を聞いてみましょう
構造形式桁行正面一間 背面二間 流造 鋼板葺身舎円柱 切日長押 内法長押 頭貫 木鼻 台輪 留め出組 実肘木 拳鼻 側・背面中備雲紋彫刻板 妻飾二重虹梁大瓶東 庇角柱 虹梁形頭貫 象鼻 三斗枠肘木組 実肘木繋海老虹梁 中備不明 二軒繁垂木 身舎三方切目縁 勿高欄脇障子 正面木階五級 浜縁建立年代 19世紀前期
大川神社本殿は、その構造形式を簡略に記せば、一間社流造と表記できる。ただし背面の桁行は二間になっているので、二間社流造と呼ぶこともできる。基壇本殿は高さ1,2mほどの高い切石積基壇の上に立つ。その上に本製土台を組んで柱を立てる。土台の上には大きな石を大量に載せて、山上の強い風にも飛ばされないように押さえられている。
身舎軸部・組物・軒・妻飾 身舎は円柱を切日長押・内法長押・頭貫・台輪で繋ぐ。頭貫に木鼻を付ける。その木鼻は九彫りの獅子頭を用い、すべての柱頂部に置かれている。台輪は木鼻を付けず、留めとしている。
円柱は見え掛かり部分では床下も円形断面に仕上げるが、見え隠れでは人角形に仕上げている。組物は出組で、実肘木・拳鼻を付ける。この組物の肘本は下端の繰り上げの曲線部分がなく、単純な角材で造られていて、意匠的には相当新しさを感じさせる。
さらに拳鼻も角材のままで繰形などを施さない。中備は雲紋を浮彫とした板を組物間に置く。この雲紋はこの建物では多用されていて、内法長押と頭貫の間の小壁の板にも浮彫の雲紋を施している。雨乞いの神様であるから、このような意匠を多用したのであろう。妻飾は、出組で一手持ち出した位置に下段の虹梁を架け、その上に二組の平三斗を置いて、上段の虹梁を受け、その上に大瓶束を立てて棟木を受ける。平三斗は実肘本は用いないが、拳鼻は柱上の組物同様の角材を置く。下段虹梁上の中備も雲紋の浮彫彫刻である。身舎の正面は蝶番で吊った板扉が設けられている。他の三方は板壁で閉じられている。身舎内部は一室で、間仕切りはない。軒は一軒の繁垂木である。
この社殿は、いつ建てられたものなのでしょうか?
元禄十五年(1702)延享二年(1745)宝暦三年(1753)天明三年(1783)
これ以前には、社殿はなく、石造物だけがあったことも考えられます。
先ほど見たように、現在の本殿の虹梁絵様は19世紀前期頃のデザインでした。様式的には18世紀後期より遡ることはないと研究者は指摘します。つまり、5枚の棟札はどれもこの本殿の建立を示すものではないようです。
それでは、この本殿建立は、いつなのでしょうか?
それは本殿背後に「文政十一成子年」(1828)と刻まれた燈籠があります。文化文政の「幕末バブル期」
の経済的な発展期の中で、善通寺の五重塔再興や金毘羅大権現の金堂(旭社)の建立が行われていた時期になるようです。
先ほど見たように、現在の本殿の虹梁絵様は19世紀前期頃のデザインでした。様式的には18世紀後期より遡ることはないと研究者は指摘します。つまり、5枚の棟札はどれもこの本殿の建立を示すものではないようです。
それでは、この本殿建立は、いつなのでしょうか?
それは本殿背後に「文政十一成子年」(1828)と刻まれた燈籠があります。文化文政の「幕末バブル期」
の経済的な発展期の中で、善通寺の五重塔再興や金毘羅大権現の金堂(旭社)の建立が行われていた時期になるようです。
以上から専門家は大川神社の本殿を次のように評価します。
本殿は比較的実例の少ない二間社であることに第一の特徴がある。とはいえ庇と身舎正面の柱間は一間としているので、規模としては標準的な一間社と大差はない。小壁や中備に雲紋を施した板をはめているのは、先にも述べたように雨乞いの社としての信仰と関わるものであろう。縁束の間も竪連子を浮き彫りにした格狭間をはめており、珍しい意匠である。組物の肘木が角材であるのは個性的である。拳鼻まで同様に角材で造るから、かなり加工の手間を省いたか、建立年代が新しいか、いずれかと想定させる。しかし一方で、頭貫木鼻は全ての柱上に獅子頭を据えるから、さして省力化したとは言い難い。比較的華やかな装飾、肘本や縁廻りの独特の形式など、独自性が強い大川山山頂という特異な場にあって、社伝によれば奈良時代からの、確実なところでは近世以来の庶民の祈雨信仰と結びつき、本殿の意匠にまでそうした背景が意匠に反映した興味深い建物と言える。つまり神社の歴史的特質が近世末期の社殿の造形に結びついた建物と言えよう。
今から200年前に建立された本堂も、大川山頂上で長年の風雨にされされて痛みがひどくなり建て修復されるようになったようです。近世になって、山伏たちによって祈雨信仰が接ぎ木されると、それにともなって「本殿の意匠にまでそうした背景が意匠に反映」と研究者は指摘します。この本殿も修復を終えて、最近行ってみるこんなふうになっていました。
それでは、この本殿にはどんな神様が祀られているのでしょうか。
先ほど見た説明版には「大川神社には木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)と大山津見命(おおやまみのみこと)が祀られています。」とありました。しかし、江戸時代の「増補三代物語」には、次のように記します。
「大山大権現社 在高山上、不知奉何神」
意訳変換しておくと
「大山大権現社」と権現を祀る山で高い山の上にあるが、何を祀っているかは分からない」
と云うのです。江戸時代に後半までは、祭神がなんであるのかは人々には知られていなかったことが分かります。近世後半に西讃府史などで村の神社を調査するまでは、村社などに何が祭ってるのかを人々は気にとめていなかったことは以前にお話ししました。それが重要なこととされるのは、神仏分離後に神道が国家神道となってからのことです。
ただ、「大山(川)大権現」とあります。権現とある山は、修験者によって開かれ霊山で修験者の修行の山です。大川大権現の周辺には、多くの修験者たちが行場で修行を行い、そして定着していたことがうかがえます。その拠点となったのが古代においては中寺廃寺で、大山大権現の神宮寺の役割を果たしていたこと以前にお話ししました。中世になって国家支援を受けれなくなった中寺廃寺が退転した後は、修験者たちは里の炭所の金剛院などに坊集落をひらき定住します。そして、行場としての大川山(権現)を守っていきます。そうだとすれば石鎚山と同じように、もともとここに祀られていたのは、修験者が教祖として役業者や蔵王権現に類するものが祀られていたことが考えられます。
明治維新の神仏分離で金毘羅大権現のように権現たちは追放されました。これに換わって迎え入れられたのが紀記に登場する神々です。大川神社では、修験者が信仰した権現たちが追放された後には、上記の2つの神々が迎え入れられ現在に至っています。
本殿以外の施設について見ておきましょう。
本殿の東側に東面して建っているのが龍王堂です。
空海祈雨伝承では京都の神仙苑で、空海が小さな蛇(善女龍王)を呼び出し、雨を降らせるとされることは以前にお話ししました。そのため雨乞いが行われる山には、龍王神が祀られるようになります。大川山も近世後半になると雨乞いの霊山として信仰を集めるようになりましたから、ここに龍王神が祀られているのは納得できます。しかし、中を覗いてみると祭礼に使う御神輿が置いてあり、龍王神らしきものは何もありません。大膳神社での雨乞の役割は終わったようです。神社や寺にも流行や廃れがあることは以前にお話ししました。その波を越えた寺社が生き残ってきたのです。
空海祈雨伝承では京都の神仙苑で、空海が小さな蛇(善女龍王)を呼び出し、雨を降らせるとされることは以前にお話ししました。そのため雨乞いが行われる山には、龍王神が祀られるようになります。大川山も近世後半になると雨乞いの霊山として信仰を集めるようになりましたから、ここに龍王神が祀られているのは納得できます。しかし、中を覗いてみると祭礼に使う御神輿が置いてあり、龍王神らしきものは何もありません。大膳神社での雨乞の役割は終わったようです。神社や寺にも流行や廃れがあることは以前にお話ししました。その波を越えた寺社が生き残ってきたのです。
緑の屋根が社殿の覆屋 その前のふたつの燈籠が並ぶ所
本殿(緑の覆屋)の背後には、高い石垣を組んだ方形の区画があります。これがなんであるのかは、私は知りませんでした。
髙松藩松平家の御廟 階段がないので上れない
今回はじめて松平家の御廟であることを知りました。先ほど棟札で見たように大川神社の本殿は高松藩の支援で改修が行われます。髙松藩との結びつきを目に見える形で示すために社殿横に霊廟が作られたのかもしれません。藩主の保護を得ているというモニュメントにもなり、大山権現ののランクを高める物になったでしょう。
この神域には、もうひとつ宗教施設が北西隅にあります。
この神域には、もうひとつ宗教施設が北西隅にあります。
大山神社境内 北西隅の秋葉神社
北西隅の秋葉神社
秋葉神社の祠です。秋葉神社についてウキには次のように記されています。
秋葉三尺坊大権現は、火防(ひよけ)・火伏せ(火伏せ)の神様として信仰される神仏習合の神で、もともと秋葉山にいた修験者「三尺坊」に由来します。神通力を得た三尺坊が天狗となり、火生三昧(かしようざんまい)を修して火災を鎮めたという伝説から、火の神として広まりました。特に静岡県浜松市の秋葉神社が総本宮として有名です。火災消除の御利益があるとされ、江戸時代には「秋葉講」が全国的に組織されました。
「遠州秋葉山本地聖観世音三尺坊略縁起」(享保2年(1717)成立)には次のように記します。(要約)
①秋葉三尺坊大権現と称し、秋葉権現は三尺坊である②観音菩薩を本地仏とし、その姿は飯縄権現と同じく白狐に乗り、剣と羂索を持った烏天狗姿③三尺坊は、不動三昧の修行をし「烏形両翼にして左右に剣索を持ちたる霊相」が現れ、飛行自在の神通力を得、観音菩薩の化身とされた。


ここからは次の要素が混淆して生まれたのが「秋葉三尺坊大権現=秋葉大明神信仰」であることが分かります。
A 修験道の霊場としての秋葉山に伝わる山岳信仰B 信州出身の修験者である三尺坊への信仰C 本尊の聖観音に対する信仰
その三大誓願は
第一我を信ずれば、失火と延焼と一切の火難を逃す。第二我を信ずれば、病苦と災難と一切の苦患を救う。第三我を信ずれば、生業と心願と一切の満足を与う。真言オン ヒラヒラ ケン ヒラケンノウ ソワカ
大山神社の石造物 魔除地蔵と不動明王(?)
別の視点で大川山と修験者の関係を示してくれるのが龍王堂の裏側(西側)のふたつの石造物です。。
左が魔除地蔵と掘られた台座の上に立っている地蔵様です。地蔵信仰は、修験者により流布されたと研究者は考えています。右側が修験者の守護神である不動明王のようです。
大川神社境内の不動明王
地蔵信仰は鎌倉末期の14世紀前半に成立し、足利尊氏が帰依したために室町期に盛んになったとされます。霊山であった大山大権現の周辺では、古くから焼畑農業が行われていたことが考えられます。焼畑を行った集団は、木地師達でもあり、鉱山師達でもありました。彼らは修験者とも繋がり、南北朝までは、南朝とも繋がって阿波の山間部では一大勢力に成長していったとされます。熊野行者たちは、熊野参拝道として山岳地帯を結ぶ独自の通路を持ち、併せて鉱山師のような活動もしていたようです。阿波や伊予の中央構造線上に彼らの痕跡が残っていることは以前にお話ししました。また山間部の焼畑では、火の鎮火などが大切で、火除け火伏せのために秋葉信仰が修験者たちによってもたらされたことが考えられます。大山神社境内に残る秋葉神社や魔除地蔵・不動明王などは、ここで活動していた修験者の痕跡と私は考えています。以上、大川神社(大権現)の境内にある宗教施設を登場順にあげると、次のようになります。
①本殿 蔵王権現? 修験者の信仰本尊②龍王社 善女龍王 雨乞い伝説③松平御廟 高松藩による関連堂舎の整備建立
④松葉神社 火伏せ神としての守護神
明治維新後の神仏分離によって①は廃仏毀釈で排除されます。そして②③④と民間信仰としての安産信仰が残ったのではないでしょうか。これらの殿舎は、今は石垣上の石製の瑞垣で囲まれていて、聖域を構成しています。
それではこの聖域が作られてのはいつなのでしょうか。
玉垣内に置かれた燈籠の銘から、明治26年から30年頃の日清戦争前後に神域は整備された作られたものと研究者は考えているようです。つまり、現在のレイアウトは、約130年前の明治になってからのものであるようです。その整備時に、小蛇の棲むとされた小池も埋め立てられたのかも知れません。それ以前の社殿のレイアウトなどは分かりません。社殿の整備が進み、国境を越えて阿波の人たちなど、より多くの人たちの信仰を集めるようになったのは、この頃からなのではないでしょうか。
それではこの聖域が作られてのはいつなのでしょうか。
玉垣内に置かれた燈籠の銘から、明治26年から30年頃の日清戦争前後に神域は整備された作られたものと研究者は考えているようです。つまり、現在のレイアウトは、約130年前の明治になってからのものであるようです。その整備時に、小蛇の棲むとされた小池も埋め立てられたのかも知れません。それ以前の社殿のレイアウトなどは分かりません。社殿の整備が進み、国境を越えて阿波の人たちなど、より多くの人たちの信仰を集めるようになったのは、この頃からなのではないでしょうか。
最後に、本殿棟札として一番古い元禄十五年(1702)棟札を見ておきましょう。
表
聖主天中天 迦陵頻伽声哀慇衆生者 我等今敬礼神官 宮川和泉橡重安時郡司 渡部専右衛門尉重治当部大政所 久米善右衛門貞明内海治左衛門政富五箇村政所中通村 新名助九郎高次勝浦村 佐野忠左衛門守国造田村 岡田勘左衛門元次炭所西村 新名平八郎村重川東村 高尾金十郎盛富大工金比羅 藤原五兵衛金信
裏
讃岐国鵜足郡中通村大仙権現神祠 合一宇 恭惟我昆慮遮那仏 取日寓名円照編索詞 界現徴塵刹日域 宗度社稜苗裔之神崇山峻嶺 海浜湖無所人権同塵不饒益有情実 邦君左近衛少将源頼常卿 抱極民硫徳懐国邑巡遊日親霊祠傾類 辱降賜興隆命因循経六曰 今ガ特郡司渡部氏篤志槙福故両郡黎蒸贔,造功成郎手輪奥共美下懐鎮祈邦淋福寿同而国家安穏万民豊饒 里人遇早魃必舞曇育摩弗霊験 長河有次帯之期泰山有如挙之月徳参天地洪然而犯独存神祠平維時元禄十五青龍集壬午四月上院高松城龍松小法泉寺住持嗣祖此丘畝宗格誌
社伝には奈良時代の天平年間には、神社が建立されていたとしますが、そこまでは遡れないと研究者は考えています。
平安時代には、中寺廃寺が建立され山林修行を行う僧侶の拠点となっています。彼らは、この山を霊山として信仰していたことは以前にお話ししました。ここに社殿が建てられたのでは?と思いたくなります。しかし、当時は山自体が神体とされていた時代です。山頂に神社が建てられる時代ではないのです。例えば、伊予の石鎚権現信仰でも、頂上には権現像があるだけです。そしてそれは、いつもは下の遙拝所から拝むものでした。土佐の霊山の山々も、祭礼の際に人々が山に登って来てて、いろいろな行事を行いますが建築物しての神殿や拝殿などが姿を現すのは、近世後半になってからです。大川山も古くから信仰の山として、丸亀平野の里人の信仰の山であったようですが、頂上に神社が建てられるのは近世になってからのことだと私は考えています。

大川寺境内の中にある一等三角点
中寺廃寺 遙拝所から望む大川山

大川寺境内の中にある一等三角点
大川神社に残された棟札5枚からは、18世紀になって歴代高松藩の藩主の支援を受けて堂舎が「再興」されたことが分かります。
再興とありますが、これが創建ではないのか私は考えています。これよりも古い棟札はないのです。雨乞い用の鉦鼓などの寄進は、生駒藩の時代から行われていたかも知れませんが、山頂に堂舎を立てるというのは、もう少し後の時代になってのことのような気がします。(改稿 2025年11月12日)
参考文献
大山神社本殿・随身門調査報告書 京都大学工学部建築史学講座
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