
伊勢御師
以前に冠櫻神社(香南町)に残されている「さぬきの道者一円日記」を紹介しました。この史料は、永禄8年(1565)に伊勢外宮門前町の山田・岩淵の御師である岡田大夫によって作成されたものが、約300年後の安政三年(1856)に書写されたものです。その内容は、伊勢御師・岡田大夫が讃岐の中・東部(県高松市・さぬき市・坂出市・三木町)の旦那(道者)の家々を巡って、伊勢神宮ゆかりの伊勢土産や祈疇札を配り、その代価として初穂料を徴収した記録です。ここからは次のようなことが分かります。①16世紀半ばの戦国時代に、伊勢御師が野原(髙松)にやってきて、周辺の伊勢信者の檀那衆へ伊勢土産を配り、初穂料を集めて廻っていこと。
②その際に残された記録からは、御師のたどったルートや村々・お土産の種類・初穂料の種類などが分かる。
③そのエリアは現在の高松市周辺にも及び、小領主層や海運関係者・商人・有力農民などが信者となっていたこと。彼らを結ぶのが御師であったこと
④御師は旦那廻りを通じて、村々の中に入り込み、村内部の情況に精通すると同時に、村々をつなぐ存在でもあった。
⑤村々の鎮守やお堂にいた在地の修験者たちも、このネットワークを支える存在であった。
⑥こうして修験者のネットワークを通じて村々の寺社もは結びつけられていったこと。
⑦備前では児島五流の修験者ネットワークを利用して棟別銭が徴収されたこと。
⑧修験者ネットワークをうまく利用し、政治に利用しようとする戦国大名がでてくること
⑨それが土佐の長宗我部元親であり、金毘羅神保護も修験者による流行神創出を支援するという意図があったこと
その後、三重県史編纂過程で発見されたのが伊勢御師の白米家に伝わる三豊や多度・那珂郡の檀那名簿です。その文書が白米家に伝来するにいたった経緯を見ておきましょう。
寛永十六年己卯五月讃岐国旦所(檀那名簿)、福井勘右衛門より代黄金九枚二買得、取置有之證文如左永代沽渡申御道者之事在所者、讃岐国我等持分一円、村数家数ハ賦日記相添進之候、右之御道者、我等雖数代持来候、依有急用、黄金九枚二永代沽渡申候処実正明白也、右賦日記之外二他国他所二御入候衆も不依上下、一人なり共御家付次第二其方御知行可有候、則本文書相添進之候、此御道者二借物少も無御座候、若以来六ヶ敷義出来候ハ我等罷出相済可申候、縦天下大法之政徳行候共、堅申合候間、至子々孫々不可違乱者也、仍為後日沽券證文如件寬永十六己卯年五月吉日 福井勘右衛門書判互すあい(仲介人) 加兵衛仁右衛門
白米弥兵衛尉殿
超意訳変換しておくと
寛永16年(1639)5月、福井勘右衛門が、数代持ち来った讃岐国の道者一覧を「本文書」を添えて黄金9枚で白米弥兵衛尉へ売り渡した。このときの売買の対象となったのは「讃岐国我等持分一円」で、その「村数家数」を記した「賦日記」が白米弥兵衛尉に渡さた。
「賦日記」とは、伊勢御師が諸国の道者(旦那)に伊勢の大麻やそのほかを配り、初穂銭等を受け取るときの記録です。いわば「道者台帳」になります。今回は、伊勢御師白米家から発見された「讃岐国檀那一覧」の三豊分を見ていきます。テキストは、「田中健二 天文20年(1551) 相模国・讃岐国檀那帳(白米家文書」です。
この文書に、天文20年(1551)2月から10月にかけての間に讃岐・相模両国の持ち分の道者を売買した際に添付された賦日記や證文の一部です。ここには讃岐国の三豊・多度・那珂郡・鵜足郡の道「かすみ(テリトリー)」が次のように記されています。
最初に「讃岐国山本郷一円」とでてきます。山本郷にお札配布の拠点があったのかもしれませんが、よく分かりません。範囲は、山本郷周辺だけでなく、ほぼ三豊全域に及んでいます。記されている里名を見ていくことにします。①山本郷一円の最初に記されるのは、上河内(山本町河内)、常本・中村・辻・原などです。
讃岐国山本郷一円の伊勢道者(檀那)とその分布エリア
続いて、中田井・池の尻、小松尾・西光寺、仁尾、などが続きます。財田や三野など、空白地帯もあります。ここには讃岐国豊田郡山本郷とその周辺、一部は山本郷を出身地とする人々で旦那となっている人々の名前が記されています。彼らは御師と、毎年音信する国人たちであったこと、国人らが、周辺の里や村のとりまとめ役をしていたと研究者は考えています。研究者は注目するのは、その中に混じって「寺家 こまつを(小松尾)」が出てくることです。これは、四国霊場の小松尾山不動光院大興寺のことです。後にその子坊が出てきます。これは後に触れることにして、先を急ぎます
2 「いんた(隠田 → 一ノ谷)」は、「香西氏の紀伊・続木殿の知行」3 あわい(粟井)の里は、四良兵衛殿子孫の知行。その在所は曽根越州殿ここから多度郡に飛びます。4 あまぎり(天霧)城のふもとの中村は、九郎右衛門殿の子孫の知行で、在所は余所。
奈良氏の部分を意訳変換しておくと
讃岐のなら(奈良)殿は、檀那であるが近年は音信がない。奈良氏の先祖(本家)は、昔からの檀那で、田宅の奈良殿とは今も音信がとれて檀那であるが、京の奈良殿(摂津守護代系統の一族)とは音信不通になっている。
この「なら殿(奈良殿)」の第一候補が、坂出の聖通寺山城の奈良氏です。奈良氏は武蔵国の鎌倉御家人で、南北朝期に細川氏の被官となり、讃岐にやって来ます。管領細川氏の摂津守護代を務めるなど有力家臣でした。讃岐では鵜足郡宇多津に所領を得て、応仁の乱の時期には、元安が細川勝元の元で、香川元明・香西元資・安富盛長とともに細川京兆家の四天王と称されます。「南海通記』では宇多津聖通寺山に居城を築き、那珂・鶏足二郡を領し、長尾・新目・本目・山脇氏などを配下に置いたと記されています。そうだとすれば、ここに出てくる奈良殿は元安の子元信かその子元政に当たると研究者は考えています。奈良氏は、守護代香川氏の勢力が戦国大名への道を歩むようになると、次第にその勢力を弱めていきます。この日記が書かれた1551年段階では、畿内の奈良氏とは音信不通になっていたようです。どちらにしても、奈良氏は長く伊勢御師の檀那であったことが分かります。
続いて登場するのが高井入道殿です
讃岐国人で豊後入道と称する出家武人であったようです。「西讃府志」には、山本町辻に高井下総守信昌が高井城主としていたことが記されています。下総守信昌は天正年中長宗我部元親の讃岐攻めにより戦死し、高井城は落城します。墓は大辻にあったと記しますが、この下総守の一族のようです。下総守の父親の可能性もあると研究者は考えています。
以下続きますが、この檀那一覧表は別の機会に追いかけるとして、ここからは、この檀那名簿が
以下続きますが、この檀那一覧表は別の機会に追いかけるとして、ここからは、この檀那名簿が
その下に「にほ(仁尾)の 進上細河(川)土佐守殿」とあります。
「全讃史』の仁保城の項目に次のように記されています。
「仁尾浦にあり。今の覚院の地これなり。細河(川)土佐守頼弘、これに居りき」
この仁尾城主の細川頼弘が第一候補ですが、彼はその後は文献には現れません。頼弘は天正六年(1578)長宗我部元親の讃岐侵攻の際、仁尾城に立て籠もって抗戦、ついに落城したとされます。時は3月3日、これ以後落城の日を忘れないように、仁尾では桃の節句をしない風習がありました。ここで見る土佐守が天正年間の頼弘であるかどうかは、はっきりとしません。現在、仁尾の金光寺に細川土佐守頼弘と称す人物の墓がありますが、「西讃府志」には次のように記します。
「金光寺に細川土佐守の墓あり、此のいかなる人か詳ならず、・・・武家平林に源頼義の一族に讃岐守賴弘言う人見ゆなれど永禄十年丁卯十月三日薨ずとあれば此の人にはあらず」
西讃府志は、死亡日時からこの墓が土佐守頼弘とするのはおかしいと判断しています。しかし、仁尾に細川土佐守がいたことは確かなようです。長宗我部元親侵攻時の仁尾城の主人は細川土佐守の可能性が高くなります。
この人物は「西讃府志』の大平氏系図の国祐の三代前に国匡(参(三)河守)と記されています。

その後国敏・国雅・国祐と続きます。国祐は和田村の獅子ヶ鼻城(和田城)の城主で、香川氏の家臣として活躍しています。「大平氏系図」によれば、大平氏は藤原秀郷の五男千常の子孫と言われ、千常の子は近藤氏を名乗るようになります。七代目の国平は正治元年(1199)讃岐守護に任じられ、国平の子国から大平姓を名乗り、頼朝より土佐にて所領を給付されたとします。その後、国有の時に三野郡大野村を拝領し讃岐に土着したようです。その四代後がこの国匡になります。

麻の近藤氏の系譜(近藤氏と大平氏は一族)
その後国敏・国雅・国祐と続きます。国祐は和田村の獅子ヶ鼻城(和田城)の城主で、香川氏の家臣として活躍しています。「大平氏系図」によれば、大平氏は藤原秀郷の五男千常の子孫と言われ、千常の子は近藤氏を名乗るようになります。七代目の国平は正治元年(1199)讃岐守護に任じられ、国平の子国から大平姓を名乗り、頼朝より土佐にて所領を給付されたとします。その後、国有の時に三野郡大野村を拝領し讃岐に土着したようです。その四代後がこの国匡になります。
一方、別の史料では、永禄5年(1562)に国祐は、長宗我部元親に攻められ香川氏を頼って讃岐へ来て、多度郡中村に居住し、のち和田村を領したとも伝えます。しかしこの内容よりも前記のほうが妥当性があると研究者は考えています。ここでは「西讃府志」に見える国匡としておきます。しかし、一族の麻や神田の近藤氏は出てきません。
たくま将監殿とあります
監天文九年(1540)の「浪打八幡宮遷宮奉加」に「詫間将監三貫文」と出てきます。他に詫間姓の者が多数出てきますが、五百文から二貫文の奉納です。それに対して、詫間新次郎の五貫文に次いで多く奉納している人物です。詫間一族の中でも有力者であったことがうかがえます。
詫間氏は、藤原氏三井家を祖とし、14世紀に讃岐へ配流されます。三井信行は詫間城主の海崎大隅守元高から三野郡に所領を賜って、海崎氏が西長尾城(まんのう町)に本拠を移すと、詫間城番となり、詫間氏を称するようになります。以後、詫間地域を領有していました。「西讃府志」では詫間城主は詫間弾正とあります。その後、山地氏が入り、荒神城へ移り城主となりますが、天正6年(1578)長宗我部元親の攻撃を受け、敗北して滅亡したとされます。「奉加帳」に弾正の名はないので、弾正の父がそれに準ずる人物と研究者は考えています。
詫間氏は、藤原氏三井家を祖とし、14世紀に讃岐へ配流されます。三井信行は詫間城主の海崎大隅守元高から三野郡に所領を賜って、海崎氏が西長尾城(まんのう町)に本拠を移すと、詫間城番となり、詫間氏を称するようになります。以後、詫間地域を領有していました。「西讃府志」では詫間城主は詫間弾正とあります。その後、山地氏が入り、荒神城へ移り城主となりますが、天正6年(1578)長宗我部元親の攻撃を受け、敗北して滅亡したとされます。「奉加帳」に弾正の名はないので、弾正の父がそれに準ずる人物と研究者は考えています。
上段には、中田井→宗安→池の尻に続いて、西光寺が出てきます。「西光寺」は、今は辻地区の字名となっていますが、もともとは三豊中学校運動場北の畑が「西光寺屋敷」と呼ばれていたと『新修山本町誌』は記します。財田川の左岸に建立された寺院だったようです。
下段後半には、國(柞)田、鋳物師原、原野、しうらく(十楽寺)と続いて、小松尾の坊名が並びます。「新坊」「せしやう(殺生?)坊」「同中ノ坊」「同さいりん(西林)坊」「同とうりん(東輪)坊」です。これらは先ほど見た大興寺(小松尾寺)の坊だったようです。
大興寺蔵「寺格昇格進之序』には次のように記します。
「下坊三六坊ありし霊剰にして猶寺名伝え有り、東林坊・蓮花坊・三味坊・大円坊等之れなり」
この外、新坊、中之坊があり、これらは大興寺山内に近接してあったようです。太興寺の坊の数は、九坊が確認できることになります。 さらに「寺格昇格進之序」や大興寺蔵「小松尾山不動光院大興寺遺跡略記」(寛文11年以降成立)などには、大興寺には真言系24坊、天台系12計の計36坊があったと記されています。大興寺周辺に地名伝承として残るものと大野の須賀神社に伝来した「大埜村両社記』(貞享五(1688年成立)は、次のような宗教施設があったと記します。
大興寺付近に、 東連坊・普門院、辻東側の十輪寺大野には 八幡下の円坊、天皇下の円結び知坊・廻向坊・安楽坊・地蔵坊と西之村の智蔵坊
これらが「三十六坊」とされていた宗教施設と研究者は考えています。


四国霊場大興寺周辺の坊跡
さらに、「いん田」が「隠田」で、それが訛って「一の谷」になったとすれば、大興寺に接続したエリアになります。そうすると、そこにあった行識坊も三十六坊のひとつに数えられます。以前に見た「太興寺調査報告書」にも触れていましたが、この周辺には坊が集中していたようです。ここからも、大興寺が修験者などの山林修行者の拠点であったことが裏付けられます。
髙松周辺の御師のお札配布活動でも、無量寿寺の各坊の僧侶達が檀那として名前が挙がっていました。彼ら伊勢信仰のお札配布の拠点になっていました。三豊でも大興寺(小松尾寺)の各坊の修験者(聖)の中には、伊勢講の先達となっていた者達がいたのかもしれません。
末尾に「此衆へ毎年御状を以て音信申し候」とあります。
毎年、ここに出てくる三豊の檀那と伊勢御師が連絡を取り合って、伊勢お札の配布を行っていたことが分かります。また冒頭に「四国の日記讃岐の分」とあります。ここからもこれらの文書が「賦日記」であることが裏付けられます。ません。なお、證文に見える「すあい」とは口入と同じ、仲介者のことだそうです。
毎年、ここに出てくる三豊の檀那と伊勢御師が連絡を取り合って、伊勢お札の配布を行っていたことが分かります。また冒頭に「四国の日記讃岐の分」とあります。ここからもこれらの文書が「賦日記」であることが裏付けられます。ません。なお、證文に見える「すあい」とは口入と同じ、仲介者のことだそうです。
以上をまとめておくと
①16世紀半ばに伊勢御師が三豊郡の有力者を檀那に得て、伊勢のお札を配布していたこと
②そのテリトリーは、財田や三野・詫間などには及ばないこと
③四国霊場の大興寺は多くの坊を抱え、院主たちが伊勢お札の配布に関わっていたこと。
④奈良氏や高井氏・大平氏など有力国人層含まれているが、近藤氏・三野氏・秋山氏などは出てこないこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「田中健二 天文20年(1551) 相模国・讃岐国檀那帳(白米家文書」






