私の家の前には布帛(ふはく)神社という小さな社があります。その社の境内の中に五角の石柱があり、各面に神々の名前が掘られています。このような五角形の石柱は、三豊や丸亀平野の南部でよく見かけます。これは五角柱地神(じしん)塔と呼ばれているようです。五面に書かれている神の名前は次の通りです。

いつ、誰が何のために、これを設置したのかと不思議に思っていました。今回は私の家の氏神さまの境内にある五角柱地神について調べて見た報告書です。最初に、地神をAIで調べると次のように答えてくれました。

五角柱地神(香川県三木町蓮池)
いつ、誰が何のために、これを設置したのかと不思議に思っていました。今回は私の家の氏神さまの境内にある五角柱地神について調べて見た報告書です。最初に、地神をAIで調べると次のように答えてくれました。
この中では一番下の地神塔が最も近いようです。私の家の近くで地神塔が多くあるのは阿波のようです。「阿波の地神塔」で検索すると、AIは次のように答えます。
阿波地域には土地の守り神や農業の神を祀る地神信仰が根付いていて、境内や村の辻などに「地神社」や「地神塔」と呼ばれる小さなお社や石碑が数多く残されているようです。さらに検索を続けていると出会ったのが、「徳島県郷土研究発表会紀要第42号 北島町における地神信仰 民俗班(徳島民俗学会)庄武憲子・東田塁美・岡島隆夫」です。
https://library.bunmori.tokushima.jp/digital/webkiyou/42/4223.html
地神塔についての調査報告書で、教えられることが多かったので、今回はこれをテキストにして地神塔について見ていくことにします。
https://library.bunmori.tokushima.jp/digital/webkiyou/42/4223.html
地神塔についての調査報告書で、教えられることが多かったので、今回はこれをテキストにして地神塔について見ていくことにします。
ここからは北島町全体にほぼ均等に分布していることが分かります。集落毎に地神社が祭られていて、コミュニティーセンターの役割を果たしていたのかもしれません。そうだとすると、ソラの集落のお堂と同じような機能があったこと、修験者が運営に参加していた可能性があります。次に北島町の五角地神塔のスタイルを押さえておきます。
これを見ると、基本構成パーツが上から「心石(五角石柱) + 台座 + 基壇」の3点であること、大きさやほぼ同じで同一規格下で建立されたことがうかがえます。もう少し詳しく見るために、研究者は地神さんの素材や構成品を次のように一覧表します。(番号が上の一覧表と同一)
これを見ると、基本構成パーツが上から「心石(五角石柱) + 台座 + 基壇」の3点であること、大きさやほぼ同じで同一規格下で建立されたことがうかがえます。もう少し詳しく見るために、研究者は地神さんの素材や構成品を次のように一覧表します。(番号が上の一覧表と同一)
この表からは、次のような事が分かります
A 11の地神社のすべてが、基壇、台座、心石のパーツで構成されていることB 基壇や台座には、多少の違いはあももの、心石についてはすべて五角柱であることC 素材は砂岩。花崗岩が使用されているのは、昭和以降に建替えのため
D 天照大神の面が、すべて北向きに統一されていること
心石には、五神名が刻まれています。その神名の配列順と天照大神の対面方向をまとめたものが表3です。
最後の欄の「向き」とは、天照大神の面がどちらを向いているかと云うことです。総て北です。その他の神々の方向も総て同じです。ここにも規格・統一性が見られます。
これらの地神塔がいつ建てられたのでしょうか。地神社の紀年銘をまとめたものが下表です。最後の欄の「向き」とは、天照大神の面がどちらを向いているかと云うことです。総て北です。その他の神々の方向も総て同じです。ここにも規格・統一性が見られます。
ここからは次のようなことが分かります。
① 3の燈籠や、6・11の手水鉢などが最も年代的に古く、18世紀後半まで遡れる。② 2は、玉垣の紀年銘から安政6(1859)年以前の建立。③ 1は、台座の銘から明治32年に再建されたもので、心石の形からは藩政期の創建
地神塔建立の開始時期が18世紀後半で、それ以前のものはないこと。19世紀になって急速に拡大し、明治以後になっても建立が続けられたことが分かります。
統一スタイルの地神塔が同時期に出現し、それが普及していった背景はなんなのでしょうか。
統一スタイルの地神塔が同時期に出現し、それが普及していった背景はなんなのでしょうか。
阿波の地神さんの起源ついては、金沢治氏が次のような説を出しています。
「寛政元年(1790)に、当時勢力のあった徳島城下富田八幡宮の祠官早雲古宝(ふるとみ)が藩主治昭に説いて各村に地神祠を奉斎せしめ、庄屋に祀(まつ)らせた」(『日本の民俗 徳島』)
そして、推進者だった早雲古宝(伯耆(ほうき)の地神信仰との出合いについて、次のように推察します。
おそらく上方で手に入れた大江匡弼著『神仙霊章 春秋社日■儀』(序文に天明元年 〔1781〕には農業の守護神である地神の大切なことが説かれ、その祭り方を示していた。これを手本にした
この書は京都大学のアーカイブで見ることができます。天明元(1781)年に出されたこの本の中で大江匡弼は、次のように記します。


中国では古代より年二度、春と秋の社日に五穀豊穣、天下泰平、子孫繁栄などを祈願して五穀の祖神の祭祀をおこなう祭礼を行ってきた。それは清浄な土地に石または土で社壇を作り、五角に切った石のそれぞれの面に以下の五神名を刻んだ碑を立てるというものである。それを我国でも広めるべきである。
そして清朝で行われている地神の祭儀について、次のような挿絵が挿入されています。

清国の地神祭の祭壇(春秋社日樵儀)
中国の祭儀に基づいて、我が国で行う際に造立すべき宗教施設を施設を、次のように示しています。
中国の祭儀に基づいて、我が国で行う際に造立すべき宗教施設を施設を、次のように示しています。

五神名石柱には、北面に天照大神が記されている
これは先ほど見た阿波の五神名地神塔と非常によく似ています。この本を見た富田八幡宮の早雲古宝が藩主治昭に進言し、藩が主導して造塔と祭祀が行われるようになったと先ほど紹介しました。寺社奉行の役人がこの挿絵を庄屋たちに指し示しながら「これをモデルに、おのれらのムラに造立せよ」と云う姿まで浮かんできます。そして、それが周辺の村々に拡がって行くという話になります。説得力のある挿絵です。


地神社の社壇配置図((春秋社日樵儀)
約半世紀後の天保3年(1832年)に、渡辺月石は『堅磐草』の中で次のように述べています。「近世 江匡弼社日?儀ヲ編撰シタルニ従リ、国命有リテ各村之ヲ祭ル。彼ノ書本邦神代之五神ヲ以テ之ニ配シ大ニ当レリ」
意訳変換しておくと
「50年ほど前に、大江匡弼は春秋社日樵儀を編纂した。それが藩主の国命で地神を阿波の各村々に祀ることにつながった。彼の書は、神代の五神の普及に大きな役割を果たした
以上を整理しておきます。
つまり、個人の献策を受けて藩主の肝いりで、地神塔建設は始まったようです。それを受けて庄屋を中心に周辺の集落に拡がって行く様子が見えてきます。つまり、お上の音頭取りで始まった徳島藩の宗教政策の一環だったことになります。同じような例が、阿波ではお堂建設がありました。集落毎にお堂を建設して、宗教的コミュニティーセンターとして活用するというものでした。その推進役は、修験者(山伏)でした。ここでも、地神神の祭礼を行ったのは山伏だったようです。それは後で見ることにします。
地神社の前で行われる社日祭(徳島県北島町)
北島町の地神社では、今も春秋の社日祭が執り行われています。
社日は、春分・秋分の日に最も近い戊の日が地神を祭る日とされています。昔、中国で天神を「神」と呼んだのに対し、地神を「社」と称しました。暦法や五行説とともに、地神を祭る社日祭も中国に学んだことは先ほど見たとおりです。この日を阿波では“地神さん”と呼びます。そして、村人たちが地神社に供物を祭り、春は豊作を祈り、秋には収穫を感謝します。
飯田義資氏は「地神碑と社日祭」について、次のように記します。
社日は、春分・秋分の日に最も近い戊の日が地神を祭る日とされています。昔、中国で天神を「神」と呼んだのに対し、地神を「社」と称しました。暦法や五行説とともに、地神を祭る社日祭も中国に学んだことは先ほど見たとおりです。この日を阿波では“地神さん”と呼びます。そして、村人たちが地神社に供物を祭り、春は豊作を祈り、秋には収穫を感謝します。
飯田義資氏は「地神碑と社日祭」について、次のように記します。
①県下に約2千社あるが、阿波ではともに“地神(じしん)さん”といっている。②北島町でもそれを“オジジンサン”又は“ジジンサン”と呼んでいる。
そこでどんな祭りが行われているのかを見ておきましょう。まず祭礼準備です。
①社日祭の準備は、各社とも当家(オトウヤ)が受け持つ。②氏子が神社(氏神)の氏子と重なるので、神社の当家組が兼ねるところが多い③そのため4・11 のように地神当家を別にくじで決めるところもある。④輪番制で、任期は1年か半年、当家数も氏子地域の広狭によって1~10戸とまちまちである。
次に神事(御祈祷(ごきとう)です。
神職が到着すると、参列者(総代・当屋・氏子の有志ら、各地神社とも15人前後)一同が神前に居並び、御祈祷が始まります。神職の所作に倣って拝礼し、かしわ手を打つ。
①「修祓(しゅうばつ)」で、神前や参列者を祓(はら)い清め(図9)②お供えを「献饌」し、神楽太鼓を打ちながら「中臣祓(なかとみはらい)」を上げる。③続いて「祝詞」が厳かに奏上され、参列者一同「玉串」を捧げて拝礼④最後に「撤饌(てっせん)」で終わる。

地神さんへの供物(春秋社日樵儀)
北島町の地神社祭礼の御供え (上図との共通点が見られる)
この間約20分、神前にロウソクをともすところや、松明(たいまつ)をたくところもあるようです。以上からは、今は神主が進行役を勤めていますが、神事が「ご祈祷」と呼ばれていることや、蝋燭やたいまつをともすところから神仏分離以前には修験者がつとめていたことがうかがえます。藩による地神信仰の普及にも、里山伏たちがかかわっていたと私は考えています。
直会(オナオライ・ナオライ)
神事が終わると、お下がりのお神酒・焼き魚、当家の準備した煮しめ・赤飯・巻きずしなどで直会をします。直会は、神からのお下がりを戴くことで神の霊力を授かるとされています。そのため鏡餅などの供え物は参列者が分けて持ち帰ります。以前は鏡餅を小さく切って全氏子に配っていたそうです。
昔は、この日は農民の休日で、御祈祷の後で農事の相談をした。そして「田畑に入らない、土をいじってはいけない」と言われていた。ふだんは忙しい農家の嫁も、餅を土産に里帰りをした。今はその餅をつく家も少なくなり、ほとんどの人が休まず農作業をしている。そんな中で老門(中村字本須)の三木家のように、床の間に地神さんの神号軸を掛け、灯明をあげ、お神酒、赤飯などを供えるなど、古くから伝わる家の祭りを大切にしている家もある(図12)。

「秋のジジンサンは少々遅くなってもよいが、春は早いうちにお参りするように」との言い伝えは、種まきの時期を失しないようにとの教えで、いまも生きている。
「彼岸の中日と社日が重なった年は、東向きの鳥居を五つ(または七つ)くぐると、無病息災で過ごせる」
山伏たちの活動について最後に触れておきます。
山伏たちは村々の鎮守社や勧請社などの司祭者となり、拝み屋となって妻子を養い、田畑を耕し、あるいは細工師となり、鉱山の開発に携わる者もいました。そのため、江戸時代に建立された石塔には導師として、その土地の修験院の名が刻まれたものがあります。山伏は、雨乞や虫送り、非業の死者や疫病の死者の供養大念仏があれば、その世話役や本願となって法会を主催し、踊念仏を振り付けることもおこなっていたことは以前にお話ししました。つまり、集落のお堂で行われた庚申信仰から、死者供養の盆踊りまで地域の人たちの生活に根付いた信仰行事を、彼らは担う存在だったのです。そういう意味では、準公務員化した僧侶や神主よりも、庶民に近い位置にいて頼れる存在でした。そして、前回お話ししたように阿波藩では藩の保護を得て、住民からもリスペクトされる存在でした。新たに導入された地神信仰も、庶民救済を優先させて普及のための先頭に立ったはずです。
山伏と庶民をむすぶのは庶民信仰です。庶民信仰は、教理や哲学などの難しい話なしに、庶民の願望である現世幸福と来世安楽をかなえてくれます。庶民信仰を背負って、民衆の間を遊行したのが山伏でした。ソラの集落の庚申信仰も、このような文脈の中で私は捉えています。
江戸期後半から幕末にかけて、阿波では地神信仰が広がり、村々に五神名地神塔が立てられるよ
うになります。
それが明治になると、阿讃山脈を越えて讃岐側でも造立されるようになります。最初にお話しした我家の氏神さまの祠の横にある地神塔も明治以後のものです。その背後には、その建立を進めた阿波の修験者の布教活動があったのではないかというのが私の仮説です。つまり、明治以後の阿波修験者の讃岐進出です。そうだとすると、近代になって建立された讃岐の地神塔は、阿波修験者の活動の痕跡といえることになります。この跡を追いかけるのが、今後の課題です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「徳島県郷土研究発表会紀要第42号 北島町における地神信仰 民俗班(徳島民俗学会)庄武憲子・東田塁美・岡島隆夫」です。
https://library.bunmori.tokushima.jp/digital/webkiyou/42/4223.html
関連記事
阿波の山伏は、蜂須賀藩から賦役免除の特権を受けて保護されていた。
山伏たちの活動について最後に触れておきます。
山伏たちは村々の鎮守社や勧請社などの司祭者となり、拝み屋となって妻子を養い、田畑を耕し、あるいは細工師となり、鉱山の開発に携わる者もいました。そのため、江戸時代に建立された石塔には導師として、その土地の修験院の名が刻まれたものがあります。山伏は、雨乞や虫送り、非業の死者や疫病の死者の供養大念仏があれば、その世話役や本願となって法会を主催し、踊念仏を振り付けることもおこなっていたことは以前にお話ししました。つまり、集落のお堂で行われた庚申信仰から、死者供養の盆踊りまで地域の人たちの生活に根付いた信仰行事を、彼らは担う存在だったのです。そういう意味では、準公務員化した僧侶や神主よりも、庶民に近い位置にいて頼れる存在でした。そして、前回お話ししたように阿波藩では藩の保護を得て、住民からもリスペクトされる存在でした。新たに導入された地神信仰も、庶民救済を優先させて普及のための先頭に立ったはずです。
山伏と庶民をむすぶのは庶民信仰です。庶民信仰は、教理や哲学などの難しい話なしに、庶民の願望である現世幸福と来世安楽をかなえてくれます。庶民信仰を背負って、民衆の間を遊行したのが山伏でした。ソラの集落の庚申信仰も、このような文脈の中で私は捉えています。
江戸期後半から幕末にかけて、阿波では地神信仰が広がり、村々に五神名地神塔が立てられるよ
うになります。
それが明治になると、阿讃山脈を越えて讃岐側でも造立されるようになります。最初にお話しした我家の氏神さまの祠の横にある地神塔も明治以後のものです。その背後には、その建立を進めた阿波の修験者の布教活動があったのではないかというのが私の仮説です。つまり、明治以後の阿波修験者の讃岐進出です。そうだとすると、近代になって建立された讃岐の地神塔は、阿波修験者の活動の痕跡といえることになります。この跡を追いかけるのが、今後の課題です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「徳島県郷土研究発表会紀要第42号 北島町における地神信仰 民俗班(徳島民俗学会)庄武憲子・東田塁美・岡島隆夫」です。
https://library.bunmori.tokushima.jp/digital/webkiyou/42/4223.html
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