瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:大窪寺

   四国88ヶ所霊場の内の半数以上が、空海によって建立されたという縁起や寺伝を持っているようです。しかし、それは後世の「弘法大師伝説」で語られていることで、研究者達はそれをそのままは信じていないようです。
それでは「空海修行地」と同時代史料で云えるのは、どこなのでしょうか。
YP2○『三教指帰』一冊 上中下巻 空海 森江佐七○宗教/仏教/仏書/真言宗/弘法大師/江戸/明治/和本の落札情報詳細 - ヤフオク落札価格検索  オークフリー

延暦16(797)、空海が24歳の時に著した『三教指帰』には、次のように記されています。
「①阿国大滝嶽に捩り攀じ、②土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す。」
「或るときは③金巌に登って次凛たり、或るときは④石峯に跨がって根を絶って憾軒たり」
ここからは、次のような所で修行を行ったことが分かります。
①阿波大滝嶽
②土佐室戸岬
③金巌(かねのだけ)
④伊予の石峰(石鎚)
そこには、今は次のような四国霊場の札所があります。
①大滝嶽には、21番札所の大龍寺、
②室戸崎には24番最御崎寺
④石峯(石鎚山)には、横峰寺・前神寺
この3ケ所については『三教指帰』の記述からしても、間違いなくと研究者は考えているようです。

金山 出石寺 四国別格二十霊場 四国八十八箇所 お遍路ポータル
金山出石寺(愛媛県)

ちなみに③の「金巌」については、吉野の金峯山か、伊予の金山出石寺の二つの説があるようです。金山出石寺については、以前にお話したように、三崎半島の付け根の見晴らしのいい山の上にあるお寺で、伊予と豊後を結び航路の管理センターとしても機能していた節があります。また平安時代に遡る仏像・熊野神社の存在などから、この寺が「金巌」だと考える地元研究者は多いようです。どうして、この寺が札所でないのか、私も不思議に思います。さて、これ以外に空海の修行地として考えられるのはどこがあるのでしょうか? 今回は讃岐人として、讃岐の空海の修行地と考えられる候補地を見ていくことにします。テキストは「武田和昭 弘法大師空海の修行値 四国へんろの歴史3P」です。
武田 和昭

 仏教説話集『日本霊異記』には、空海が大学に通っていた奈良時代後期には山林修行僧が各地に数多くいたことが記されています。その背景には、奈良時代になると体系化されない断片的な密教(古密教=雑密)が中国唐から伝えられます。それが山岳宗教とも結び付き、各地の霊山や霊地で優婆塞や禅師といわれる宗教者が修行に励むようになったことがあるようです。空海が大学をドロップアウトして、山林修行者の道に入るのも、そのような先達との出会いからだったようです。
 人々が山林修行者に求めたのは現世利益(病気治癒など)の霊力(呪術・祈祷)でした。
その霊力を身につけるためには、様々の修行が必要とされました。ゲームに例えて言うなれば、ボス・キャラを倒すためには修行ダンジョンでポイントやアイテム獲得が必須だったのです。そのために、若き日の空海も、先達に導かれて阿波・大滝嶽や室戸崎で虚空蔵求聞持法を修したということになります。つまり、高い超能力(霊力=験)を得るために、山林修行を行ったとしておきます。
虚空蔵求聞持法の梵字真言 | 2万6千人を鑑定!9割以上が納得の ...

 以前にお話ししたように、求聞持法とは虚空蔵吉薩の真言

「ノウボウアキャシャキャラバヤオンアリキャマリボリソワカ」

を、一日に一万遍唱える修行です。それを百日間、つまり百万遍を誦す難行です。ただ、唱えるのではなく霊地や聖地の行場で、行を行う必要がありました。それが磐座を休みなく行道したり、洞窟での岩籠りしながら唱え続けるのです。その結果、あらゆる経典を記憶できるという効能が得られるというものです。これも密教の重要な修行法のひとつでした。空海も最初は、これに興味を持って、雑密に近づいていったようです。この他にも十一面観音法や千手観音法などもあり、その本尊として千手観音や十一面観音が造像されるようになります。以上を次のようにまとめておきます。
①奈良時代末期から密教仏の図像や経典などが断片的なかたち、わが国に請来された。
②それを受けて、日本の各地の行場で修験道と混淆し、様々の形で実践されるようになった
③四国にも奈良時代の終わり頃には、古密教が伝来し、大滝嶽、室戸崎、石鎚山などで実践されるようになった。
④そこに若き日の空海もやってきて山林修行者の群れの中に身を投じた。
 讃岐の空海修行地候補として、中寺廃寺からみていきましょう。
大川山 中寺廃寺
大川山から眺めた中寺廃寺
中寺廃寺跡(まんのう町)は、善通寺から見える大川山の手前の尾根上にあった古代山岳寺院です。「幻の寺院」とされていましたが、発掘調査で西播磨産の須恵器多口瓶や越州窯系青磁碗、鋼製の三鈷杵や錫杖頭などが出土しています。

中寺廃寺2
中寺廃寺の出土品
その内の三鈷杵は古密教系に属し、寺院の建立年代を奈良時代に遡るとする決め手の一つにもなっています。中寺廃寺が八世紀末期から九世紀初頭にすでにあったとすれば、それはまさに空海が山林修行に励んでいた時期と重なります。ここで若き日の空海が修行を行ったと考えることもできそうです。
 この時期の山林修行では、どんなことが行われていたのでしょうか。
それを考える手がかりは出土品です。鋼製の三鈷杵や錫杖頭が出ているので、密教的修法が行われていたことは間違いないようです。例えば空海が室戸で行った求問持法などを、周辺の行場で行われていたかも知れません。また、霊峰大川山が見渡せる割拝殿からは、昼夜祈りが捧げられていたことでしょう。さらには、大川山の山上では大きな火が焚かれて、里人を驚かせると同時に、霊山として信仰対象となっていたことも考えられます。
 奈良時代末期には密教系の十一面観音や千手観音が山林寺院を中心に登場します。これら新たに招来された観音さまのへの修法も行われていたはずです。新しい仏には、今までにない新しいお参りの仕方や接し方があったようです。
 讃岐と瀬戸内海をはさんだ備前地方には平安時代初期の千手観音像や聖観音立像などが数体残されています。

岡山・大賀島寺本尊・千手観音立像が特別公開されました。 2018.11.18 | ノンさんテラビスト

その中の大賀島寺(天台宗)の千手観音立像(像高126㎝)については、密教仏特有の顔立ちをした9世紀初頭の像と研究者は評します。

岡山・大賀島寺本尊・千手観音立像が特別公開されました。 2018.11.18 | ノンさんテラビスト
大賀島寺(天台宗)の千手観音立像

この仏からは平安時代の初めには、規模の大きな密教寺院が瀬戸内沿岸に建立されていたことがうかがえます。中寺廃寺跡は、これよりも前に古密教寺院として大川山に姿を見せていたことになります。

 次に善通寺の杣山(そまやま)であった尾野瀬山を見ていくことにします。
中世の高野山の高僧道範の「南海流浪記」には、善通寺末寺の尾背寺(まんのう町春日)を訪ねたことを、次のように記します。

尾背寺参拝 南海流浪記

①善通寺建立の木材は尾背寺周辺の山々から切り出された。善通寺の杣山であること。
②尾背寺は山林寺院で、数多くの子院があり、山岳修行者の拠点となっていること。
 ここからは空海の生家である佐伯直氏が、金倉川や土器川の源流地域に、木材などの山林資源の管理権を握り、そこに山岳寺院を建立していたことがうかがえます。尾背寺は、中寺廃寺に遅れて現れる山岳寺院です。中寺廃寺の管理運営には、讃岐国衙が関わっていたことが出土品からはうかがえます。そして、その西側の尾背寺には、多度郡郡司の佐伯直氏の影響力が垣間見えます。佐伯家では「我が家の山」として、尾野瀬山周辺を善通寺から眺めていたのかもしれません。そこに山岳寺院があることを空海は知っていたはずです。そうだとすれば、大学をドロップアウトして善通寺に帰省した空海が最初に足を伸ばすのが、尾野瀬山であり、中寺廃寺ではないでしょうか。
 ちなみにこれらの山岳寺院は、点として孤立するのではなく、いくつもの山岳寺院とネットワークで結ばれていました。それを結んで「行道」するのが「中辺路」でした。中寺廃寺を、讃岐山脈沿いに西に向かえば、尾背寺 → 中蓮寺跡(財田町) → 雲辺寺(観音寺市)へとつながります。この中辺路ルートも山林修行者の「行道」であったと私は考えています。
 しかし、尾背寺については、空海が修行を行った時期には、まだ姿を見せていなかったようです。
 さらに大川山から東に讃岐山脈を「行道」すれば、讃岐最高峰の龍王山を越えて、大滝寺から大窪寺へとつながります。
 大窪寺は四国八十八ケ所霊場の結願の札所です。

3大窪寺薬師如来坐像1

大窪寺本尊 薬師如来坐像(修理前)
以前にお話したように、この寺の本尊は、飛鳥様式の顔立ちを残す薬師如来坐像(座高89㎝)で、胴体部と膝前を共木とする一本造りで、古様様式です。調査報告書には「堂々とした姿態や面相表現から奈良時代末期から平安時代初期の制作」とされています。

4大窪寺薬師側面
        大窪寺本尊 薬師如来坐像(修理後)

 また弘法大師が使っていたと伝わる鉄錫杖(全長154㎝)は法隆寺や正倉院所蔵の錫杖に近く、栃木・男体山出上の平安時代前期の錫杖と酷似しています。ここからは大窪寺の鉄錫杖も平安時代前期に遡ると研究者は考えています。
 以上から大窪寺が空海が四国で山林修行を行っていた頃には、すでに密教的な寺院として姿を見せていたことになります。
 大窪寺には「医王山之図」という寺の景観図が残されています。
この図には薬師如来を安置する薬師堂を中心にして、図下部には大門、中門、三重塔などが描かれています。そして薬師堂の右側には、建物がところ狭しと並びます。これらが子院、塔頭のようです。また図の上部には大きな山々が七峰に描かれ、そこには奥院、独鈷水、青龍権現などの名称が見えます。この図は江戸時代のものですが、戦国時代の戦火以前の中世の景観を描いたものと研究者は考えています。ここからも大窪寺が山岳信仰の寺院であることが分かります。
 また研究者が注目するのが、背後の女体山です。
これは日光の男体山と対比され、また奥院には「扁割禅定」という行場や洞窟があります。ここからは背後の山岳地は山林修行者の修行地であったことが分かります。このことと先ほど見た平安時代初期の鉄錫杖を合わせて考えれば、大窪寺が空海の時代にまで遡る密教系山岳寺院であったことが裏付けられます。

 空海の大学ドロップアウトと山林修行について、私は、最初は次のように思っていました。
 大学での儒教的学問に疑問を持った空海は、父・母に黙ってドロップアウトして、山林修行に入ることを決意した。そして、山林修験者から聞いた四国の行場へと旅立っていった。
しかし、古代の山林修行は中世の修験者たちの修行スタイルとは大きく違っている点があるようです。それは古代の修行者は、単独で山に入っていたのではないことです。
五来重氏は、辺路修行者と従者の存在を次のように指摘します。
1 辺路修行者には従者が必要。山伏の場合なら強力。弁慶や義経が歩くときも強力が従っている。「勧進帳」の安宅関のシーンで強力に変身した義経を、怠けているといって弁慶がたたく芝居からも、強力が付いていたことが分かる。
2 修行をするにしても、水や食べ物を運んだり、柴灯護摩を焚くための薪を集めたりする人が必要。
3 修行者は米を食べない。主食としては果物を食べた。
4 『法華経』の中に出てくる「採菓・汲水、採薪、設食」は、山伏に付いて歩く人、新客に課せられる一つの行。

空海も従者を伴っての山岳修行だったと云います。例えば、修行者は食事を作りません。従者が鍋釜を担いで同行し、食料を調達し、薪を集め食事を準備します。空海は、山野を「行道」し、石の上や岬の先端に座って静かに瞑想しますが、自分の食事を自分で作っていたのではないと云うのです。
それを示すのが、室戸岬の御蔵洞です。
御厨人窟の御朱印~空と海との間には~(高知県室戸市室戸岬町) | 御朱印のじかん|週末ドロボー

ここは、今では空海の中に朝日入り、悟りを開いた場所とされています。しかし、御蔵洞は、もともとは御厨(みくろ)洞で、空海の従者達の生活した洞窟だったという説もあります。そうだとすれば、空海が籠もった洞は、別にあることになります。どちらにしても、ここでは空海は単独で、山林修行を行っていたわけではないこと、当時の山岳修行は、富裕層だけにゆるされたことで、何人もの従者を従えての「特権的な修行」であったことを押さえておきます。
五来重氏の説を信じると、修行に旅立つためには、資金と従者が必要だったことになります。
それは父・田公に頼る以外に道はなかったはずです。父は無理をして、入学させた中央の大学を中退して帰ってきた空海を、どううけ止めたのでしょうか。どちらにしても、最終的には空海の申し入れを聞いて、資金と従者を提供する決意をしたのでしょう。

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出釈迦寺奥の院(善通寺五岳 我拝師山)
 その間も空海は善通寺の裏山である五岳の我拝師山で「小辺路」修行を行い、父親の怒りが解けるのを待ったかもしれません。我拝師山は、中世の山岳行者や弘法大師信仰をもつ高野聖にとっては、憧れの修行地だったことは以前にお話ししました。歌人として有名で、高野聖でもあった西行も、ここに庵を構えて何年か「修行」を行っています。また、後世には弘法大師修行中にお釈迦様が現れた聖地として「出釈迦」とも呼ばれ、それが弘法大師尊像にも描き込まれることになります。弘法大師が善通寺に帰ってきていたとした「行道」や「小辺路」を行ったことは十分に考えられます。
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出釈迦寺奥の院と釈迦如来

 父親の理解を得て、善通寺から従者を従えて目指したのが阿波の大瀧嶽や土佐・室戸崎になります。そこへの行程も「辺路」で修行です。尾背寺から中寺廃寺、大窪寺という山岳辺路ルートを選び、修行を重ねながら進んだと私は考えています。

  以上をまとめておきます
①空海が修行し、そこに寺院を開いたという寺伝や縁起を持つ四国霊場は数多くある。
②しかし、空海自らが書いた『三教指帰』に記されているのは、阿波大滝嶽・土佐室戸岬
金巌(金山出石寺)・石峰(石鎚山)の4霊場のみである。
③これ以外に讃岐で空海の修行地として、次の3ケ所が考えられる
  善通寺五岳の我拝師山(出釈迦)
  奈良時代後半には姿を見せて、国が管理下に置いていた中寺廃寺(まんのう町)
  飛鳥様式の本尊薬師如来をもち、山林修行者の拠点であった大窪寺

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
         「武田和昭 弘法大師空海の修行値 四国へんろの歴史3P」

女体山
大窪寺から女体山への四国の道をたどると奥の院
「四国遍礼霊場記」(寂本 1689年)には、大窪寺の奥の院のことが次のように記されています。
(前略) 本堂から十八町登ると、岩窟の奥の院がある。本尊は阿弥陀と観音が安置されている。大師がここで虚空蔵求聞持法の行を行った時に、神仏に阿伽(聖水)を捧げて、独古で岩根を加持すると、清らかな水がほとばしり出た。以後、どんな旱魃であろうとも枯れることはない。

D『四国遍礼名所図会』(1800)には、次のように記されています。
奥院は本堂から十八丁ほど上の山上にあり、今は人が通れないほど荒れている。
ここからは次のようなことが分かります。
①17世紀後半には、本堂から18町(約2㎞)登った岩屋に奥の院があり、阿弥陀と観音が安置されていたこと
②弘法大師虚空蔵求聞持法修行地とされ、井戸があったこと。
③それから約110年後の18世紀末には、訪れる人もなく荒れ果てていたこと。

大窪寺 奥の院
大窪寺奥の院
 大窪寺境内から四国の道に導かれて約2 kmほど登ると奥の院に着きます。お堂とは思えないような建物が岩壁を背負って建っています。現在の奥の院の建物は、屋根はトタン葺き、内部は十畳ほどの畳敷の奥に岩窟があり、堂は岩窟に取り付くように建てられています。両側の壁はコンクリートブロックで岩窟と連結されています。

大窪寺奥の院 内側
大窪寺奥の院の内側
畳敷の奥の岩窟は、三段になっていて、上段に1体、中段に3体、下段に2体、全部で6体に石仏たちが安置されています。前面には祭壇が設けられ、かつては行が行われていたことがうかがえます。この6体の石仏について、研究者が調査報告しています。今回は、この報告を見ていくことにします。テキストは「大窪寺調査報告書2021年 大窪寺奥の院調査  香川県教育委員会」です。

奥の院の堂内に安置された石仏たちを見ていきましょう。
大窪寺奥の院 石仏配置
大窪寺奥の院の石仏
(1)阿弥陀如来坐像 砂岩製  高さ38.5cm、幅29cm、奥行25.5cm
一番上に上に安置されているのが阿弥陀如来坐像のようです。研究者は次のように指摘します。

大窪寺奥の院 阿弥陀如来坐像
大窪寺奥の院 阿弥陀如来坐像
丸彫仏で背面の表現は見られないが、背面には刺突状の工具痕が顕著に認められる。蓮華座と一石で製作されており、背面は蓮華座との境界を表現していない。蓮華座の主弁は外縁に幅1.5cmの帯状の輪郭を巻いており、刺突状の工具痕が認められる。間弁は上部付近のみ表現をしている。
脚部前面の一部が欠失しており、蓮華座の一部も欠損しているが、欠損部は石仏横に置かれている。印は定印を結び、肉醤が小さく、髪際中央部のラインが上方に切れ込んでいる。また、白眉、三道を表現している。
 (2)十―面観世音菩薩坐像 砂岩製  高さ37cm、幅29cm、奥行25.5cm

大窪寺奥の院 十一面観世音
中段左側の十一面観世音菩薩坐像
研究者の指摘は次の通りです。
阿弥陀如来と同じく、丸彫仏で背面の表現は見られないが、背面には刺突状の工具痕が顕著に認められる。蓮華座も阿弥陀如来坐像と同じく、一石で製作されており、背面には蓮華座との境界を表現していない。蓮華座の主弁は外縁に幅1.5cmの帯状の輪郭を巻いており、刺突状の工具痕が認められる。間弁は上部付近のみ表現をしている。左手は、水瓶を持たず、直接蓮華を持っており、右手は掌を正面に向けた思惟印を結んでいる。蓮華の花部は三弁の簡易な形態を示してる。頭部は、上下三段に突起があり、上段に3つ、中段に2つ、下段に5つの合計10個認められ、正面の顔面を含めて十一面を表現している。体の特徴としては、首から肘にかけて傾斜して広がり、両肘部が胴部の最大幅となる。三道、条吊、腎釧、腕釧、右足を表現している。

(3)弘法大師坐像 砂岩製  高さ37.5cm、幅29.5cm、奥行き25.5cm
大窪寺奥の院 弘法大師
ふたつの弘法大師像

中段右側に安置されている小さい弘法大師坐像(3)です。阿弥陀如来と同じように、丸彫仏で背面の表現は見られませんが、背面には刺突状の工具痕が見えるようです。左手には数珠、右手には金剛杵を持っていて、弘法大師坐像のお決まりのポーズです。よく見ると、金剛杵を斜めに持っています。
(4)弘法大師坐像 砂岩製 高さ57.5cm、幅40cm、奥行き30.5cm
中段の真ん中に置かれた大きい弘法大師坐像(4)です。丸彫仏で、背面には法衣を表現しています。左手には数珠、右手には金剛杵を持つ、弘法大師坐像の一般型です。3の小さな弘法大師坐像とちがうのは、金剛杵を水平気味に持っていることだと研究者は指摘します。
(5)舟形光背型石仏(地蔵菩薩立像) 砂岩製 高さ37cm、幅20.5cm、奥行10.5cm

大窪寺奥の院 地蔵菩薩
下段の左側に安置されている地蔵菩薩立像(5)で、舟形光背型を背負っています。
これについては研究者は次のように指摘します。
簡略化された蓮華座が特徴的で、地蔵菩薩を半肉彫で表現している。目と口は線刻で簡易的に表現されている。両手は突線で簡易的に表現されており、腹前で合掌している。衣文の装は斜め方向の線刻で表現されている。像の周囲には刺突状の工具痕が残るが、光背形の縁辺部は幅1.5cm~2 cmで工具痕は認められない。

「突線で表現された両手、簡易で特徴的な蓮華座、正面の像の周囲に残る刺突状の工具痕」という特徴から、研究者は16世紀末~17世紀前半の特徴が見えるといいます。線刻による小さな目、口の表現などは、高知県に多く、讃岐では見つかっていないタイプだと云います。
 この石仏が作られた16世紀末~17世紀前半は、讃岐では生駒氏によって戦国の争乱に終止符が打たれて、生駒氏の保護を受けた弥谷寺などでは復興が始まる時期になります。以前お話しした弥谷寺では、採掘された天霧石で、大きな五輪塔が造られ、生駒氏の墓標として髙松の菩提寺などに運び出されています。ここからは大窪寺が、生駒氏の保護を受けられずに、独自の信仰集団を背後に持っていたことをうかがえます。大窪寺には独特の舟形光背型石仏が持ち込まれていることになります。


(6)舟形光背型石仏(地蔵菩薩立像) 砂岩製 高さ49cm、幅28cm、奥行き16cm
大窪寺奥の院 地蔵菩薩6


下段右側に安置されている地蔵菩薩立像(6)になります。形は左側と同じで舟形光背型ですが、直線的な立ち上がりで、角部の屈曲のが五角形です。半肉彫の地蔵菩薩を掘りだしたスペースは光背幅の1/3程度です。このタイプのものは19世紀ごろの特徴だと研究者は指摘します。下の蓮華座は、近世の丸彫石仏や近世五輪塔の蓮華座に共通する精級なものです。蓮華座下の突出部のスペースが広く、稜線によって3面に仕上げている点も特徴的なようです。

この地蔵菩薩には、次のような文字が掘られています。
右側「嘉永庚戊戊夏日 為先祖代々諸霊菩提」
左側「岩屋再営 施主 柿谷 澤女」
突出部正面に「幻主 慈心代」
ここからは、この石仏を寄進したのは、柿谷に住む澤女で、岩屋再営とあることから奥の院の堂宇の再建を行い、先祖供養のために嘉永3年(1850)に造立したことが分かります。「幻主」が何かしら気になる表現です。「奥の院の仮庵主である慈心代」という意味と研究者は考えているようです。慈心は、「大窪寺記録」には、第27代住持として記載がある人物ですが、位牌はなく、いつ亡くなったかなどは分かりません。位牌がない場合に考えられるのは、転院や退院した住持かもしれないということです。また、柿谷は地名のようですが、周辺にはない地名です。四国内で探すと、阿波国に柿谷という地名があるようですが、よく分かりません。
 どちらにしても、幕末に奥の院の堂宇が大窪寺の住職の手で行われ、その成就モニュメントしてこの地蔵菩薩が寄進されたようです。

大窪寺奥の院の石仏2
大窪寺奥の院の石仏

以上から奥の院堂内の石仏について、研究者は次のように考えているようです。
①阿弥陀如来坐像(1)、十一面観世音菩薩坐像(2)、弘法大師坐像(3)は法量がほぼ同じであること
②阿弥陀如来坐像(1)と十一面観世音書薩坐像(2)の蓮華座が類似すること
③3基ともに背面を省略することなどのの共通点がみられること
以上から、この3体の石仏は、同時期に作られたものと考えます。そして製作時期については、近世のものであるとします。中世のものではないというのです。
 私は元禄2年(1689)『四国偏礼霊場記』に、「奥院あり岩窟なり、・…本尊阿弥陀・観音也」と記されているので、これが奥の院にある現在の阿弥陀如来坐像(1)、十一面観世音菩薩坐像(2)を指しているものと思っていました。そして中世に製作されたものと思っていたのですが、研究者は、「(現)石仏を指している可能性はあるが、時期の特定が難しいため、現時点で断定はできない。」と慎重な判断をします。
④ふたつある大小の弘法大師坐像(3)(4)は、法量・形態・特徴が異なるので製作時期がちがう。製作時期の先後関係も現時点では判然としないと、これも慎重です。
⑤舟形光背型地蔵菩薩立像(5)は、16世紀後半~17世紀前半の特徴があり、似たような様式の者が高知県には多くあるようですが、香川県内では見られない珍しいタイプになるようです。これは、大窪寺の信者や属した寺社ネットワークを考える際に興味深い材料となります。
以上の材料をどのように判断すればいいのでしょうか?

  奥の院には、現在は6つの石仏が安置されていることになります。
大窪寺奥の院 石仏配置

 その配置をもう一度確認しておきます。私が注目したいのは、一番上段に安置されているのが①阿弥陀如来だと云うことです。そして、その下に十一面観音と弘法大師像2体、一番下に地蔵菩薩という配置になります。これと同じような石仏のレイアウトが、以前紹介した弥谷寺の獅子の岩屋にあったことを思い出します。
弥谷寺大師堂の獅子の岩屋には曼荼羅壇があり、10体の磨崖仏が彫りだされています。
P1150148
弥谷寺大師堂の獅子の岩屋の石仏レイアウト

壁奥の2体は頭部に肉髪を表現した如来像で、左像は定印を結んでいるので阿弥陀如来とされます。一番奥の磨崖仏が阿弥陀如来 その手前に、弘法大師・母玉依御前・父佐伯田公、その前に大型の弘法大師像があります。ここにも弘法大師像は大小2つありました。
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        弥谷寺大師堂の獅子の岩屋の石仏
側壁の磨崖仏については従来は、金剛界の大日如来坐像、胎蔵界の大日如来坐像、 地蔵菩薩坐像が左右対称的に陽刻(浮き彫り)とされてきました。しかし、ふたつの大日如来も両手で宝珠を持っているうえに、頭部が縦長の円頂に見えるので、研究者は大日如来ではなく地蔵菩薩と考えるようになっています。つまり、弥谷寺の獅子の岩屋の仏たちは「阿弥陀如来+弘法大師2体+弘法大師の父母、+地蔵菩薩」という構成メンバーになります。これは大窪寺奥の院の仏たちとメンバーも配置よく似ています。
 ここからは、大窪寺においても次のような宗教的な変遷があったことが推測できます。
①念仏聖や高野聖たちによる浄土=阿弥陀信仰
②志度寺・長尾寺など同じ観音信仰
③近世になっての弘法大師信仰
江戸時代になって、本山=末寺関係が強化されることによって、大窪寺も高野山の影響を強く受け、その管理下に入っていくようになります。同時に、四国霊場の札所としての地位が確立するにつれて、次第に①阿弥陀信仰は払拭されていきます。しかし、伽藍から遠く離れた奥の院では、阿弥陀仏が一番上に祀られ、礼拝されていたと私は考えています。幕末になって、大窪寺の住職が奥の院を修復し、地蔵菩薩を新たに安置する時にも、最上段の阿弥陀仏の位置を動かすことはなかったのでしょう。
冒頭でD『四国遍礼名所図会』(1800)には、「奥院は本堂から十八丁ほど上の山上にあり、今は人が通れないほど荒れている。」と記されていること紹介しました。しかし、大窪寺の住職が奥の院を改修し、新たに地蔵菩薩を寄進しているとすれば、奥の院は大窪寺のルーツとして忘れられていたわけではなかったことになります。

以上をまとめておくと
①大窪寺奥の院には、弘法大師が虚空蔵求聞持法の修行を行ったという伝説がある。
②奥の院には、現在6体の石仏が安置されている。
③この6体の中で、阿弥陀如来坐像(1)、十一面観世音菩薩坐像(2)、弘法大師坐像(3)は、同時代のもので中世に遡ることはない。
④ふたつある大小の弘法大師坐像も先後をつけることは出来ないが近世のものである。
⑤舟形光背型地蔵菩薩立像2体のうちの(5)は、16世紀後半~17世紀前半のもので、土佐タイプに似ていて、讃岐では珍しいものである。
以上から奥の院には、時代順に 阿弥陀・地蔵信仰 → 観音信仰 → 弘法大師信仰のモニュメントとして、これらの石仏が安置されたと私は考えています。
88番 大窪寺 奥の院 胎蔵峯寺 全景 御影 御朱印 案内八丁とある) 案内 登り 案内 休憩所から下を見る 内部 脇の地蔵尊 脇の地蔵尊  四国八十八ヶ所霊場奥の院ホームページ1 四国八十八ヶ所霊場奥の院ホームページ2 タイトルに戻る 遍路の目次に戻る 四国八 ...
大窪寺奥の院胎蔵峰寺の本尊は、阿弥陀如来

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
   「大窪寺調査報告書2021年 大窪寺奥の院調査  香川県教育委員会」

  大窪寺 伽藍変遷表
大窪寺伽藍変遷図
前回は、大窪寺の江戸時代の伽藍変遷を残された絵図から見てきました。その結果、本堂の位置は動いていないけれども、阿弥陀堂や大師堂などその他の建造物は江戸時代前半と、後半では移動していることが分かりました。今回は、現存する大窪寺の堂宇を見ていくことにします。
大窪寺 伽藍配置図
現在の大窪寺伽藍配置図
テキストは「大窪寺調査報告書2021年 大窪寺の建造物  香川県教育委員会」です。
大窪寺 本堂上空図
大窪寺の本堂と多宝塔(奥殿)

まずは 本堂・中堂・奥殿です
大窪寺の本堂は、正面に立って見ると分からないのですが上から見ると変わったレイアウトをしていることが分かります。本堂の後に奥殿(多宝塔形式)があり、中殿が二つの建物を繋いでいます。つまり三段構えになっている念入りな本堂です。この配置は前回に見た江戸時代の絵図には出てきませんので古いものではなく、明治33年(1900)の火災後に姿を見せた建物のようです。飛鳥様式が残るとされる本尊の薬師如来が座っているのは、奥の多宝塔です。

4大窪寺薬師正面
飛鳥様式の残る薬師如来坐像(大窪寺)

このお薬師さんは、薬壷のかわりに法螺貝をもっています。これは修験の本尊にふさわしく、病難災厄を吹き払う意昧をこめたものなのでしょう。『四国辺賂日記』には、「弘法大師所持の法螺と錫杖がある」と書いてあります。が弘法大師所持の法螺を、お薬師さんが持っているのかどうかは分かりません。
   多宝塔の薬師如来坐像を礼拝するのは、中堂からになります。本堂と中堂が礼堂的な役目をし、後方の奥殿(多宝塔)が内陣的な役目を果たしていることになります。
大窪寺 本堂平面図
大窪寺本堂・中堂・奥殿(多宝塔)の平面図
本堂をもう少し詳しく見ておきましょう
本堂は、奥殿の礼堂としての機能を持ち、正面二間を土足で礼拝部、奥三間を法要時の着座作法の外陣として使用されていたようです。そのため内部には本尊がないようです。本堂と奥殿とを繋ぐ中殿は、本堂背面の中央間に合わせて桁行三間を接続、中央に法要具足を配置して、奥堂本尊を礼拝することになります。
本堂・中堂・奥殿は、明治33年(1900)に本堂が焼失した後に新築されたものです。
前回見たように江戸時代に書かれた『四国偏礼霊場記』(承応2年,1689)、『四国遍礼名所図会』(寛政12年,1800)、『讃岐国名勝図会』(嘉永7年1854)には、本堂しか描かれてなかったのは見てきた通りです。ただ、次のように記されていました。
「四国遍路日記」(承応2年,1653)に
本堂南向、本尊薬師如来。堂ノ西二在、半ハ破損シタリ。
『四国偏礼霊場記』に
多宝塔去寛文の初めまでありしかど倒れたり。
これらの記事から明治の再建新築の際に、多宝塔の再建が計画され、参拝や法要時の利便を考えて本堂と一体の拡張新築となったと研究者は考えているようです。
 本堂の構造について、研究者は次のように指摘します。
本堂は向拝から正面二間分の外礼堂までは、軸部・組物に伝統的な様式を採用しているが、後方三間では中堂も含めて、柱が直接桁を受けて組物を省略、奥堂平面では正面は三間とする。側面は四間、内部四天柱内須弥壇を置かず後方にずらし、周囲に畳敷きを採用、当初から軒下張り出し部を作り位牌壇を設けるなど、内部の構成は本堂としての機能が優先している。また上層組物は三手先組みにするなど、本来の様式から少し違うものに変更されている箇所が見られる。近代化を図るなかでの伝統建築の保全。活用の一形態を示しており、今後の一指針となり得るものである。

大窪寺 もみじやイチョウの紅葉 四国八十八ヶ所結願の寺と初詣 さぬき市 - あははライフ   
大窪寺 旧太子堂(現納経所)

旧大師堂は、昭和になって境内西側に新たに現在の大師堂が建設されたので、納経所に改められたようです。
『四国遍礼名所図会』(寛政12年,1800)、『讃岐国名勝図会』(嘉永7年,1854)に描かれている大師堂と同じ位置にあります。
明治33年の大火で、大窪寺は本堂以外にもほとんどの堂宇を失ったようです。旧太子堂も、その後に再建されたものです。
研究者は大師堂について次のように指摘します。
背面軒下に仏壇、来迎柱が半丸柱、内部頭貫の省略と、近世から近代への変化が見られる。納経所に改装された際には各部補修や改変があったようである。内部後方の間仕切りや、外部サッシヘの変更、床組みの改修等が行われているが、その他軸部。組物・天丼や背面仏壇廻りは明治再建のものであろう。


大窪寺阿弥陀堂

阿弥陀堂も本堂・旧大師堂と同じように明治33年(1900)に焼失し、再建されたもののようです。
『四国遍礼名所図会』では建物は描かれていますが、本文中では「護摩堂、本堂に並ぶ」とあって、阿弥陀堂が出てきません。のちの『讃岐国名勝図会』では、再び「アミダ堂」となっています。高野山での念仏聖の追放と阿弥陀信仰弾圧が地方にも影響をもたらしていたのでしょうか。何かしらの「勢力争い」の気配はしますが、よく分かりません。
大窪寺 阿弥陀堂
大窪寺阿弥陀堂(調査報告書より)
研究者は次のように指摘します。
建物は、向拝に組物を組み、母屋正面中央間内法に虹梁を入れて諸折桟唐戸で装飾性を高めてはいるが、母屋柱上は側桁を直接受け、内部天丼も悼縁天丼など、比較的簡素な建物である。柱の大面取や建具、向拝廻り垂木の扱いなど、大師堂より近世の様式が窺われる建物である。
大窪寺 もみじやイチョウの紅葉 四国八十八ヶ所結願の寺と初詣 さぬき市 - あははライフ
大窪寺二天門

二天門は明治の大火から唯一免れた建物のようです。
大窪寺  讃岐国名勝図解
『讃岐国名勝図会』(1854年)
『四国遍礼名所図会』(1800年)に描かれている楼門と同じように見えます。『讃岐国名勝図会』には二王門の表記があります。絵図資料からは、この建物が『四国遍礼名所図会』(1800年)が書かれる以前に建てられたいたことを示します。
研究者は、次のような時代的特徴を指摘し、建立年代を示します。
①上部側廻りが吹き放し
②中央柱間貫に吊り環状の金具があり
③正面中央間柱内側に撞木吊り金具状のものが残る。
④正面腰貫が入れられてない
以上から、寺伝にいう明和4年(1767)には二天門が建立され、梵鐘が吊られた可能性もあるとします。しかし、細部の様式からは18世紀の中期建立は想定しにくく、どちらかというと19世紀になって建てられたといってもでもおかしくない建物だと考えているようです。
現在の二天門の上層には外部柱間装置の痕跡が見られません。それは、当初から梵鐘を吊ることを想定して建立されているからです。すでにそれまであった門に仮に鐘を釣り込んで、後に新たに建造された可能性もあると指摘します。
大窪寺 二天門
大窪寺二天門
二天門の組物については、次のように述べています。
下層組物は側廻り柱上に大斗を置いて、四周縁葛を受ける絵様肘木を乗せている。正背面中央間頭貫下正面には「龍」、背面には「獅子」の持ち送りが入る。その他中央仕切り上の虹梁中央に暮股を入れ、正背面中央間の頭貫上に天丼桁を受ける斗を置くのみである。上層柱上は平三斗組み、実肘木で、側桁を受けている。両妻は化粧母屋桁下、前包み水切り上に三斗組み、実肘木を組み、化粧母屋と同高に虹梁、中央は大瓶束のみとして棟木を受ける。

第88番大窪寺(おおくぼじ)

かつて女体山には年に2回はテントとシュラフをザックに担いで、長尾側から登っていました。山頂の東屋で「野宿」したことも何度かあります。この山が修験者たちの行場であったことは、山を歩いているとうすうすは感じるようになってきました。しかし、私の中では、それと麓の大窪寺がなかなかつながらなかったのです。
 整備された四国の道を通って南側の大窪寺に下りていくと、見事なもみじの紅葉が迎えてくれたことを思い出します。しかし、その伽藍は威風堂々として、若い頃の私は違和感を覚えたものです。その原因がこの寺の堂宇が二天門を除いて、ほとんどが近代になって作られたものであることに気づいたのは最近のことです。明治の大火で大窪寺は、ほとんどを失っているのです。その後の再建計画と復興への動きを知りたくなりました。しかし、手元にはその史料はありません。・・・

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「大窪寺調査報告書2021年 大窪寺の建造物  香川県教育委員会」

  医王山大窪寺絵図
大窪寺絵図

 大窪寺の創建とその歴史については、よく分からないようです
『大窪寺縁起』には奈良時代の養老元年(717年)に行基の開創であり、平安時代になり、弘仁六年(815)に弘法大師が現在の地に再興したとされます。「行基創建=空海中興というのは、由来が分からないと云うことや」と私の師匠は教えてくれました。根本史料となる古代・中世の史料はないようです。
 弘法大師の弟子である真済が跡を継ぐと、寺域は百町四方、寺坊は百宇を数え、外門は寒川郡奥山村・石田村、阿波国阿波郡大影村、美馬郡五所野村にあったと、広大な寺域を保有していたと近世の史料は記しますが、これも信じるに足りません。現在の寺域や旧寺域とされる場所からは、中世の古瓦が出土していますが、古代にさかのぼるものはないようです。冒頭に示した「大窪寺絵図」も、これが実際の大窪寺を描いたものとは研究者は考えていません。
 しかし、以前に紹介したように香川県歴史博物館が行った総合調査では、次のことが分かっています。
①本尊の薬師如来坐像が飛鳥・天平様式で、平安時代前期のものであること
②弘法大師伝来とされる鉄錫杖が平安時代初期のものであること
ここからは大窪寺の創建が平安時代初期にまで遡れるの可能性は出てきたようです。しかし、本尊や聖遺物などは後世の「伝来品」である可能性もあるので、確定ではありません。弥谷寺・白峰寺などに比べると中世の史料が決定的に少ないのです。
4大窪寺薬師正面
薬師如来坐像(大窪寺本尊)

今回は、江戸時代に大窪寺を訪れた巡礼者が記録した4つの史料に大窪寺が、どんな風に記されているのかを見ていくことにします。テキストは「大窪寺調査報告書2021年 大窪寺の歴史  香川県教育委員会」です。
近世になると、四国遍路に関する紀行文や概説書が出版されるようになり、大窪寺に関する記述が出てきます。その代表的なものが以下の4つです。
A『四国辺路日記』 (澄禅 承応二年:1653)
B『四国辺路道指南』 (真念 貞享四年:1687)
C『四国偏礼霊場記」 (寂本 元禄二年:1689)
D『四国遍礼名所図会』 (寛政十二年  :1800)  
Aから順番に見ていくことにします。   
四国辺路日記 : 瀬戸の島から
  
A『四国辺路日記』(澄禅 承応二年:1653)
大窪寺 本堂南向、本尊薬師如来 堂ノ西二在、半ハ破損シタリ。是モ昔ハ七堂伽藍ニテ十二坊在シガ、今ハ午縁所ニテ本坊斗在。大師御所持トテ六尺斗ノ鉄錫杖在り、同大師五筆ノ旧訳ノ仁王経在り、紺紙金泥也。扱、此寺ニー宿ス。中ノ刻ヨリ雨降ル。十三日、寺ヲ立テ谷河二付テ下ル、山中ノ細道ニテ殊二谷底ナレバ闇夜二迷フ様也。タドリくテー里斗往テ長野卜云所二至ル、愛迄讃岐ノ分也。次ニ尾隠云所ヨリ阿州ノ分ナリ。是ヨリー里行関所在、又一里行テ山中ヲ離テ広キ所二出ヅ。切畑(ママ)迄五里也。以上讃州一国十三ヶ所ノ札成就事。

  意訳変換しておくと
大窪寺の本堂は南向で、本尊は薬師如来、堂の西側に塔があるが半ば破損している。この寺も昔は七堂伽藍が備わり、十二の坊があったが、今は午縁所で本坊だけで住職はいない。また、弘法大師が使っていた六尺斗の鉄錫杖、大師自筆の旧訳仁王経があり、紺紙に金泥で書かれている。
 この寺に一泊した。申ノ刻(三時頃)から雨になった。十三日に、寺を出発して谷河沿いに下って行ったが山中は細道で谷底なので、闇夜で道に迷ってしまった。ようやく一里ほど下って長野という所についた。ここまでが讃岐分で、次の尾隠からは阿波分になる。ここからー里程行くと関所がある、また一里行くと山中を抜けて開た所に出た。切畑(ママ)迄五里である。以上讃州一国十三ヶ所ノ札所詣りを成就した。
ここからは境内については、次のようなことが分かります。
①本堂は南向で、本尊は薬師如来、堂の西側に塔があるが破損状態
②昔は七堂伽藍、12坊があったが、今は本坊だけで住職はいない。
③弘法大師が使っていた六尺斗の鉄錫杖、大師自筆の旧訳仁王経
①②の境内についての記述は、昔は七堂伽藍を誇っていたが今は本堂だけで、境内の西側に塔があるが、損壊していることが記されているだけです。 近世初頭の大窪寺は、まだ荒れていたことが分かります。生駒氏の援助を受けた讃岐の霊場が、復興の道を歩み出していた中で、大窪寺は遅れをとっていたのかもしれません。ただ、寺に宿泊したとありますので、阿波・土佐ののように「退転」という状態ではなかったようです。
四国お遍路|結願後のお礼参りとは?

澄禅の『四国辺路日記』の大窪寺の記述は、私たちの感覚からすると違和感があります。
それは、大窪寺が結願ではなく、阿波の切幡寺に向けて遍路を続ける姿が記されているからです。澄禅は、十七番の井戸寺から始めて、吉野川右岸の札所をめぐり、阿波から土佐、伊予、讃岐と現在とほぼ同じ順でめぐっています。そして、大窪寺から山を越えて阿波の吉野川左岸の十番から一番に通打ちして、一番霊山寺を結願としています。『四国辺路日記』では、霊山寺が結願寺となっています。
 また、現在のように阿波一番霊山寺を打ち始めとする者も、大窪寺で結願しても、そこがゴールとは考えられていなかったようです。阿波と讃岐の国境の山を越えて、十番の切幡寺から一番の霊山寺まで戻って帰るべきものとされていたようです。一番から十番まではすでに参拝しているのですが、もういっぺん大窪寺から逆打ちをして帰っています。つまり一番切幡寺から始めて、切幡寺で終わるべきものだとされていたようです。このように大窪寺が結願寺であるという認識は、この当時にはなかったことが分かります。それでは、いつごろから大窪寺が結願寺とされるようになったのでしょうか。それについては、また別の機会に・・・
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B『四国辺路道指南』(真念 貞享四年:1687)
八十八番大窪寺 山地、堂南むき。寒川郡。本尊薬師 坐三尺、大師御作。
なむやくし諸病なかれとねがひつゝまいれる人は大くぼの寺
これより阿州きりはた寺まで五里。
○ながの村、これまで壱里さぬき分。
○大かけ村、これより阿州分。
○犬のはか村○ひかひだに村、番所、切手あらたむ。大くぼじ(より)これまで山路、谷川あまたあり。是よりきりはたじまで壱里。
意訳変換しておくと
八十八番大窪寺は山中にあり、本堂は南むき。寒川郡。本尊は薬師坐像で三尺、大師御作と伝えられる。
ご詠歌は なむやくし諸病なかれとねがひつゝまいれる人は大くぼの寺
この寺から阿州切幡寺まで5里。○長野村ま2里で、そこまでが讃岐分。○大かけ村からは阿州分。○犬のはか村○ひかひだに村に番所があって、切手(手形)が点検される。大窪寺からここまでは山路で、谷川越が数多くある。ここから切幡寺までは壱里。
ここにも本堂だけしか出てきません。その他の建造物には、何も触れていません。澄禅の「辺路日記」から約30年ほど経っていますが、大窪寺の復興は、まだ進んでいなかったようにうかがえます。しかし、2年後の寂本の記録を見ると、そうとも云えないのです。

四国〓礼霊場記(しこくへんろれいじょうき) (教育社新書―原本現代訳) | 護, 村上, 寂本 |本 | 通販 - Amazon.co.jp

C「四国遍礼霊場記」(寂本 元禄二年:1689)
    医王山大窪寺遍照光院
此寺は行基菩薩ひらき玉ふと也。其後大師興起して密教弘通の道場となし給ヘリ。本尊は薬師如来座像長参尺に大師作り玉ふ、阿弥陀堂はもと如法堂也、是は寒川の郡幹藤原元正の立る所也。鎮守権現丼弁才天祠あり。大師堂、国のかみ吉家公建立し、民戸をわけて付られしとなりっ鐘楼鐘長四尺五寸、是も吉家の寄進なり。多宝塔去寛文の初までありしかど朴れたり。むかしは寺中四十二宇門拾を接へたりと、皆旧墟有。奥院あり岩窟なり、本堂より十八町のぼる、本尊阿弥陀・観音也。大師此所にして求聞持執行あそばされし時、阿伽とばしければ、独古をもて岩根を加持し給へば、清華ほとばしり出となり。炎早といへども涸渇する事なし。又大師いき木を率都婆にあそばされ、文字もあざやかにありしを、五十年以前、野火こゝに入て、いまは本かれぬるとなり。本堂より五町東に弁才天有。此寺むかし隆なりし時、四方の門遠く相隔れり、東西南北数十町とかや、今に其しるしありと也。
 
意訳変換しておくと
  この寺は行基菩薩の開山とされる。その後、弘法大師が中興して密教布教の道場となった。
本尊は薬師如来座像で、参尺あり、弘法大師作と云う。阿弥陀堂は、もともとは如法堂だったもので、これは寒川郡の郡幹藤原元正の建立した建物である。鎮守権現弁才天祠がある。大師堂は、国守吉家公が建立し、民戸を併せて寄進した。鐘楼の鐘は長四尺五寸、これも吉家の寄進である。多宝塔は寛文初め頃まではあったが、今は倒壊して失われた。むかしは寺中に四十二の堂舎があったというが、皆旧墟となっている。
 本堂から十八町登ると、岩窟の奥の院がある。本尊は阿弥陀と観音が安置されている。大師がここで虚空蔵求聞持法の行を行った時に、神仏に阿伽(聖水)を捧げて、独古で岩根を加持すると、清らかな水がほとばしり出た。以後、どんな旱魃であろうとも枯れることはない。大師は、生木を率都婆にして、文字を残した。これもあざやかに残っていたが、50年前に山火事で、この木も枯れてしまった。本堂から五町ほど東に弁才天がある。この寺が、かつて隆盛を誇った時には、四方の門は、遠く離れたところにあって、伽藍は東西南北数十町もあったという。今もその痕跡が残っている。
ここからは次のようなことが分かります。
①阿弥陀堂はもと如法堂だった。
②境内の東に鎮守権現と弁才天が祀られている
③国守吉家公寄進の大師堂と鐘楼がある。
④寛文期までは多宝塔があったが今は壊れている
⑤境内から十八町上ったところに奥院があり、弘法大師が虚空蔵求聞持法行った跡である

ここには、国守吉家の寄進を受けて大師堂や鐘楼などが整備されたと記されています。しかし、国司古家や寒川郡の郡司藤座元正については、どういう人物なのか、よくわからないようです。東西南北に数十町を隔てて山門跡があるとか、多宝塔も寛文年間(1661~73年)まではあった、寺中四十二坊があったとも云いますがそれを裏付ける史料はないようです。冒頭の絵図をもとに、かつての隆盛ぶりがかたられていた気配がします。
大窪寺奥の院までは四国の道が整備されている

ここで始めて奥の院のことが出てきます。
 弘法大師が虚空蔵求聞持法を修行したと記します。弘法大師が阿波の大滝嶽や土佐の室戸岬で虚空蔵求聞持法を修行したことは史料的にも裏付けられます。大学をドロップアウト(或いは卒業)した空海が善通寺に帰省し、そこから阿波の大滝嶽や室戸岬に行くには、大窪寺を通ったことは考えられます。その時には熊野行者たちによって、修行ゲレンデとなっていた女体山周辺で、若き空海も修行した可能性はあるかもしれません。大窪寺の発祥は、行者が奥の院を聞いて、やがて霊場巡礼が始まるようになると、山の下に本尊を下ろしてきて本堂を建てたということでしょうか。

大窪寺奥の院胎蔵峰寺 | kagawa1000seeのブログ
大窪寺奥の院 

奥の院については、岩壁を背にして、一間と二間の内陣に三間四方の外陣が張り出しています。中には、多くの石仏があります。内陣には、阿弥陀さんの石像、弘法大師の石像をまつっています。

大窪寺 奥の院の石仏
大窪寺奥の院の石仏

 奥の院は発祥地になりますので、奥の院の本尊阿弥陀が下におりだとすれは、阿弥陀堂がこの寺の根本になります。弥谷寺でもお話ししましたが、中世の高野山は全山が時衆の念仏僧侶に席巻されたような時代がありました。そのため高野聖たちは、浄土=阿弥陀信仰を各地で広めていきます。弥谷寺でも初期に造られた磨崖仏は阿弥陀三尊像でした。ここでも高野山系の念仏聖の痕跡が見えてきます。
 歴史のある寺院は、時代や社会変化や宗教的な流行に応じて本尊を換えていきます。行場を開いたのは熊野行者、その後にやって来た高野聖たちが念仏と阿弥陀信仰と弘法大師信仰を持ち込みます。弥谷寺の本坊は遍照光院といっているので、大日如来をまつったことも確かです。その後、いろいろな坊の修験者たちやお堂が分離併合されて、現在の伽藍配置になったと研究者は考えています。 ここで押さえておきたいことは、奥の院の本尊は阿弥陀如来であったこと。それが下ろされて阿弥陀堂が建立されていることです。
 たどり着いた結願寺|お遍路オンライン:四国八十八ヶ所のガイド&体験記
本堂背後に見える岩場に奥の院はあります。

 奥の院には「逼割禅定」の行場と洞窟があります。
寺の後ろに聳える女体山と矢筈山は、洞窟が多いところです。大きな岩窟がお寺の背後の峰に見えていて、行場としては絶好の山です。女体山の東部には虎丸山を中心に三山行道の行場があります。虎丸山は標高373mで高くはありませんが瀬戸内海が見渡せる景色のいいところです。その麓に、水主神社の奥の院があります。ここも熊野行者たちによって開かれた霊山で、別当寺としての与田寺の修験者たちの拠点でした。増吽は、ここを拠点にして写経センターを運営し、広域的な勧進活動や熊野詣でを行っていたことは以前にお話ししました。増吽を中心とする、修験ネットワークは備中や阿波にも伸びていて、讃岐では白峰寺や仁尾での勧進活動を行っています。中世の大窪寺は、そのような与田寺のネットワークの中にあったのではないかと私は考えています。
 増吽には「①熊野詣での先達 + ②書経センターの所長 + ③勧進僧 + ④ 弘法大師信仰」などの多面的な面がありました。増吽や廻国の高野聖などによって、弘法大師信仰がもたらされ、奥の院に空海修行の伝承が生まれるのは自然な流れです。

「四国偏礼霊場記」には、奥の院について「大師(空海)いき木(生木)を卒都婆にあそばされ」とあります。
卒塔婆は、もともとは生木を立てたようです。現在でも、生木塔婆あるいは二股塔婆といって、枝の出たものや皮のついた生木をもって塔婆にする場合もあります。これは、神道からすると、神の依代として神簸を立てたのが変形したものです。そういうまつり方をしていたことがここからは分かります。また、生木に仏を彫り込むのも修験者たちのやり方です。それを空海が行ったと記します。
大窪寺 四国遍礼霊場記
四国遍礼霊場記の大窪寺挿絵

寂本による「四国偏礼霊場記」の本文中には、本堂とともに、阿弥陀堂(元は如法堂)、鎮守・弁才天、大師堂、鐘楼、多宝塔などが出てきます。挿図からは次のようなことが分かります。
①本堂(薬師)は現在の位置にあるが、大師堂や弁才天は本堂の東側に、阿弥陀堂は本堂の西側に描かれていること。
②現在の本坊の位置に遍照光院と記されていること
③阿弥陀堂の西側に「塔跡」と記されていること。これが寛文の初めごろまであったと本文中に書かれている多宝塔跡のことか?
④現在は本堂の東側にある阿弥陀堂が、西側にあったこと
⑤この絵図では鎮守・弁才天は、境内には描かれていないこと。

D『四国遍礼名所図会』(寛政十二年:1800)        
八十八番医王山遍照院大窪寺 切幡寺へ五里霊山寺へ
当山は行基菩薩の開山とされ、その後に弘法大師が復興してと言われる。
詠歌、南無薬師しょびやうなかれと願ひつゝまいれる人ハあふくぼのてら
本堂の本尊は薬師如来座像で二尺、大師のお手製である。護摩堂は本堂に並んであり、大師堂は本堂の前にある。奥院は本堂から十八丁ほど上の山上にあり、今は人が通れないほど荒れている。
谷川が数多くある。五名村に一宿。
十六日 雨天の中を出立。長野村の分岐を右に行くと切幡寺、左が讃岐の白鳥道になる、山坂、仁井の山村の分岐は左が本道であるが、大雨の時は右を選んで、川沿いに行くこと、谷川、新川村の分岐から白鳥へ十六丁。馬場、白鳥町、本社白鳥大神宮末社、社家、塩屋川、と歩いて引田町で一宿。
閏四月十七日 日和がよい中を出発。引田町の浜辺を通って行くと、一里沖にふたつ並ぶ通念島が見える。小川を渡り、馬宿村の浜辺を通過する。坂本村から大坂峠への坂に懸る、途中の不動尊坂中に滝がある。讃岐・阿波の国境に峠がある。阿波板野郡、大師堂にも峠がある。峠より徳島城・麻植郡など南方一円の展望が開ける。大坂村に番所がある。切手(通行手形)が改められる。大寺村に荷物を置いて霊山寺え行って、再びここまで帰って来る。

ここからは次のようなことが分かります。
①本堂に並んで、今まで阿弥陀堂があったところが護摩堂になっていること。これは一時的なことで、幕末には現在と同じ阿弥陀堂にもどっています。
②本堂の前に大師堂があること。
②奥院は、ほとんど人が通らず荒れていること。
江戸時代の後半になると、修験者の活動も衰えて奥の院は、訪れる行者もいなくなっていたのがうかがえます。
大窪寺 四国遍礼名所図会
大窪寺 四国遍礼名所図会(1800年)

「四国遍礼名所図会」には、遍路道から階段を上った二天門を抜け、さらに階段を上がったところの奥側に本堂とその東側に並ぶ護摩堂、前面に位置する大師堂が描かれています。また、本堂の西側には、一段上がった石垣の上にあるのが鐘楼のようです。大師堂と護摩堂は屋根の形から見て茅葺か藁葺に見えます。
讃岐国名勝図会(梶原景紹著 松岡信正画) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

最後に讃岐国名勝図会(1854年)の大窪寺を見ておきましょう


大窪寺  讃岐国名勝図解

護摩堂が再び阿弥陀堂に還っています。それ以外には四国遍礼名所図会と変化はないようです。

大窪寺 伽藍変遷表
大窪寺伽藍変遷表

大窪寺の伽藍配置の変遷についてまとめておきます。
①本堂は、移動はしていない
②しかし「四国偏礼霊場記」に描かれた17世紀中葉ごろの伽藍と「四国遍礼名所図会」に描かれた18世紀末ごろの伽藍配置は、相当異なっていて、境内で堂字の移動があったことががうかがる。
③大師堂は、本堂の東側にあったものが西側へ移動している
④阿弥陀堂も本堂の西側にあったものが、護摩堂と名前を変えて本堂東側に移動している
⑤ただし、建物自体が移動しているものか、名称・機能のみが移動したのかは分からない。
 以上のように江戸時代前期と後期にの間に、伽藍配置に変動があるようですが、寺域については大きく変化はないようです。現在の大師堂が寺域の西側に新設されたこと以外は、近世後期の境内のレイアウトが現在まで受け継がれていると研究者は考えています。
大窪寺 伽藍配置図
現在の大窪寺伽藍配置
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大窪寺調査報告書2021年 大窪寺の歴史  香川県教育委員会
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四国霊場の結願寺である大窪寺本堂に安置される本尊、木造薬師如来坐像は20年ほど前に修理が行われ、その際に学術調査も実施されようです。その報告書には修理前と修理後の姿が載せられています。
3大窪寺薬師如来坐像1
大窪寺本尊 薬師如来坐像(修理前)
この姿を見てまず思ったのがなにか飛鳥仏のような感じ・・・
それと右手の指が折り曲げられて「おいでおいで」をしているように私には見えました。それと、座高が高そう、逆に言うと頭が小さいのでしょうか、胴が長いのでしょうか。
全体から受ける印象は、明るく、田舎っぽく、のほほんとして感じです。見ていると何となくほのぼのした気持ちにさせてくれます。
こんな印象を受けるお薬師さんの調査報告書を見ていきます。
1 基礎データ 総高 170,8㎝ 像高89,3㎝
2 本体、カヤ材  螺髪、ヒノキ材。
3 構造 一木造り、彫眼。
 報告書は「本体材は、半径70㎝以上の丸太を十文字に四分割した「四分一(しぶいち)」材であると云います。このお薬師さんは、左腕の前腕部をのぞくと、その他の部分は、縦一材から掘り出されたものだということです。右手も、後から付けられたものではないのです。頭や胴と一緒に、一つの木から掘り出されたようです。4等分した材から、生み出されたのですから直径140㎝以上のカヤの大木ということになります。

 そして、この仏さんは大手術を受けているようです。
「両脚付け根より少し上の位置で胴部を輪切り
にされているというのです。切目は「正面では腹部下寄りから左袖口(地付きより一五・六㎝の高さ)」の所にあるようです。どうして?
 疑問は置いておいて、前に進みます。
4大窪寺薬師背面
         大窪寺本尊 薬師如来坐像(修理前)
 後姿を見ると、肩から背中に、虫に食べられた穴が至る所に見えます。修理では、虫穴をふさぐとともに、虫損を受けてへこんだ彫刻を、木屎漆で補足したようです。

4大窪寺薬師底面

 底を見ると、平ノミで平らに削られています。寄木造りでなく、一木造りなのがよく分かります。 中央に円穴(直径八・二㎝、深さ1・0㎝)が開けられています。何のためなのでしょうか? これもよく分かりません。

4大窪寺薬師頭部
      大窪寺本尊 薬師如来坐像(修理前)

それでは、専門家の解説を聞かせてもらいましょう。
 本像は、頭部が小さく、上半身の伸びやかな体つきを示す。
両肘の左右への張り出しは小さく、ポーズにはいくぶん硬さも感じられるが、上半身を反り気味にして胸を張った姿勢には威厳がある。肉身部・衣部ともに彫刻面の抑揚は少ないが、肉身部は要所を彫り込んで、引き締めている。
   肉馨は低く、螺髪の額へのかぶりも少ない。
面貌は、眼瞼裂を少しうねらせ、口もとを引き締める。その表情には、端厳な趣とほのぼのとした明るさが感じられる。顔面の造形は、曲面と曲面の境目を明瞭に区切った硬い彫り口を示す。
両目は、まぶたのふくらみがごく少なく、目頭では浅く彫り出された上下の眼瞼裂が重なり、蒙古裴があらわされる。
鼻は、角のたった硬い形が印象的である。鼻梁は下端まで平らに削られ、その左右の稜線は眉の稜線とつながる。プロフィールでは、鋭角に尖った鼻先と、下唇を突き出した「受け口」の輪郭が印象的である。

4大窪寺薬師側面
 
 本体と共木より彫出された右手も、特徴的な形を示す。
一般に如来像の右手は、掌を正面に向けて立て、全指を伸ばす形にあらわされることが多い。これに対し、本像の右手は、第二指以下の指先をほぼ直角に揃えて屈し、第一指も少し前方に差し出して、手のひらの前の小空間を包み込むような形にあらわされる。手のひらも厚く、手指も太く、重たげな造形を示す。
着衣は、肉身に密着するように、総じて薄手にあらわされる
背面では、左肩より垂れる袖衣末端部に、左肘の出をあらわしたとみられるコブ状の隆起がつくられる。しかし、この隆起は、左側面から見ると、左腕の輪郭より後方に位置しており、左肘とは関係しない不思議なふくらみになっている。そこに、肉身どこれを包む着衣との関係を現実的にあらわそうとする意識をもちながら、それを合理的な立体に表現しきれなかった、作者のジレンマが看取される。円錐台状に裾を拡げた脊部の造形にも、同じような不自然さを指摘することができよう。
   衣部の彫刻面は、総じて起伏が小さい。
衣文の断面には丸みが少なく、平坦な段差状の表現が目だつ。ことに右肩や背面では、圭角だった硬い表現がみられる。これに対し、腹部や両脚部では、やや角を丸めた段差状の衣文線と、稜線を立てた衣文線とを交互に配した衣文表現がみられる。
4大窪寺薬師正面
修理を終えて新しい台座に座った薬師如来

全体を押さえた上で、自分流に今度は見ていきます
やはり、頭は小さいようです。全体のバランスから見てもそう見えます。お顔の特徴は鼻です。
①「鼻梁を平らに削り、その左右に両眉り続く稜線を立てる鼻の形」②「おいでおいで」の右手
は、法隆寺の銅造観音菩薩立像(伝金堂薬師如来脇侍、月光菩薩)など、飛鳥時代後期に同じような特徴を持った仏さんがいらっしゃるようです。第1印象として飛鳥仏のようだと感じたのは、的外れでもなかったようです。
 このお薬師さんの特徴的な鼻や右手のスタイルは、当時の法隆寺再建期(670~711年)に造られた「童顔童形」像と似ている所があると研究者は考えているようです。
 その一方で
「頭が小さく腹部を引き締めた体つき、胸を張った堂々とした姿勢、肉身の起伏を意識した着衣の表現」

などは、薬師寺金堂の銅造薬師如来坐像など天平時代(710~784年)の仏たちにも似ているとします。つまり、この仏さんは全体として天平様式を基礎にしながら、細かいところは飛鳥時代後期から天平時代後期にかけてのさまざまな要素を含み込んでいると研究者は考えているようです。

 このお薬師さんは、カヤの大木が使われています。
奈良の都では、針葉樹を使った木彫像は唐招提寺の天平後期の仏像群のように、8世紀後半からあらわれるようです。そんなことも考え合わせると、この仏さんが造られたのは、8世紀半ば以降になるようです。讃岐の豪族たちが次々と氏寺を建立し、聖武天皇が国分寺建設に取りかかる時代です。その時代に、讃岐の地で造られた
「部分的に飛鳥の雰囲気を残す、保守的な作風」

を残す仏さんと云えるようです。
 そのためか、着衣の一部には不合理な表現ありますが、顎を引き、胸を張って威儀を正した姿にもかかわらず、明るくのどかでおおらかな印象をうけるのでしょう。
4飛鳥仏ぽい地方仏

 このお薬師さんのもつ「保守的な作風、明朗な雰囲気、段差状の硬い衣文表現」とよく似たものを探すと、多田寺(福井県)の十一面観音菩薩立像(図5)や円満寺(和歌山県)の十一面観音菩薩立像(図6)があるようです。これらも地方で造られた仏たちです。

どうして「大手術」されたのか
 この仏は「縦一材の一木造り」です。それが胴部を輪切りにされていることは最初に触れました。切断面は、写真では見えませんが左袖口を通り、胴部を一周しているようです。研究者は、次のような理由を挙げます。
 ①切断面を境に、上半身の向きや傾きを調整する
 ②切断面を削り込んで、上半身の長さを短縮する
 ③切断面より像内にある節や枝などを除去する
 ④切断面より像内に小空間を設け、像内納入品を納める
 ①②は外観上のことです。③④は内部構造に関わる理由です。頭が小さくて、胴が長すぎるためバランスをとるために切断したというのが私の仮説なのですが、それも今となっては分かりません。

このお薬師さんの伝来は?
  最後に、この仏がどうして大窪寺にいらっしゃるのかを考えておきます。
まず、最初に考えられるのが「伝来説」です。
この仏像が造られたのが奈良時代の8世紀半ば頃とすると、それは讃岐に山岳密教寺院が姿を現す前になります。大窪寺が姿を現す以前に、このお薬師さんは作られていたことになります。どこかの氏寺に本尊としてあったものが、後世の大窪寺の隆盛の中で伝来したことが考えられます。つまり、この仏は大窪寺のために作られた仏ではないことになります。
もうひとつは、大窪寺の起源を8世紀半ばまで辿れるとすることです。まんのう町の国指定中寺廃寺は、空海の時代に活動を行っていたことが発掘調査から分かってきています。同じように、大窪寺もその時代まで遡ることが出来れば、本尊薬師如来は建立以来のものとすることができます。それが可能かどうか見ておきましょう。
①本尊の薬師如来が、奈良時代後期か平安時代前期とみるれること
②弘法大師所持の伝来を持つ鉄の錫杖も、平安時代前半期に遡ること①②を、大窪寺の創建時期のものと考えると、空海の山林修行時代と同時代のものとなります。この他にも阿弥陀如来立像は11世紀、四天王像四体は11世紀末頃の作と見ることができるようです。
 以上からすると大窪寺は、平安時代初期には、かなりの規模の山岳寺院であり、平安時代後期には、さらに発展していたと考えることは出来そうです。
この大窪寺の伽藍の立地をみると、寺の背後には大きく女体山が迫っています。そこには行場であった窟から形成された奥院があり、蔵王権現なども祀られています。澄禅『四国辺路日記』には、
本堂南向、本尊薬師如来。堂ノ西二塔在、半ハ破損シタリ。是も昔は七堂伽藍ニテ十二坊在シガ、今ハ午縁所ニテ本坊斗在。大師御所持トテ六尺斗ノ鉄錫杖在り、同法螺在り.同大師五筆ノ旧訳ノ仁仁王経在り、紺紙金泥也。

とある。また寂本「四国偏礼霊場記』には、
此寺は行基吉薩ひらき給うふと也。其後大師興起して密教弘通の道場となし給へり。本尊薬師如来座像長二尺に大師作り玉ふ。阿弥陀堂はもと如法堂也。
(中略)多宝塔、去寛文の初までありしかど壊れれたり。むかしは寺中四二宇門塙を接へたりと、皆旧墟有。
(中略)奥院あり岩窟なり、本堂より十八町のはる。本尊阿弥陀・観音也。大師此所にして求聞持執行あそばされし時、阿伽とばしければ、独鈷をもて岩根を加持し給へば、清華ほとばしり出となり。炎早といへども涸渇する事なし。また大師いき木を率都婆にあそばされ、また字もあざやかにありしを、五十年以前、野火ここに人て、いまは木かれぬるとなり¨(以下略)

とあり、七常伽藍が整い、四十二宇もある大寺であったが、現在(元禄時代)では、その多くが旧蹟を残すのみであると記します。そして本堂から十八町の所に奥院があり、弘法人師が求聞持を修したところであるとします。
 さらに大窪寺には、江戸時代前期ころに描かれたとみられる「医王山之図」が残されています。図を見ると、右下部に大門が描かれ、上に向かうと中門四天王に・御影堂・鏡楼・経堂・毘沙門堂・阿弥陀堂・大塔・塔・孔雀堂が続き、薬師堂(本堂)に至たる緒堂が描かれます。その右にもおびただしし数の堂宇が描かれている。これは子院を表しているようです。これだけの僧侶(修験者)がいたことになります。
 図の上部は山岳部であるが、そこには『四国遍礼霊場記』に記されていた独鈷水、奥院とともに弁才天、蔵王権現、青龍権現が山中に散在しています。これは江戸時代以前の大窪寺の景観を示しているようです。
 ここには背後の山に、奥院をはじめとする蔵王権現、青龍権現などが祀られ、さらに岩窟も描かれていることです。これは大窪寺が山岳修験の修行の場であったことを物語っています。女体山という呼称も、栃木県男体山との対比が連想され、いかにも山岳宗教の霊山であることを主張しているようです。
 残された遺物などと併せて考えると、山岳修行の地として弘法人師の時代まで遡ることができると研究者は考えているようです。

 そんな説を読みながらもう一度大窪寺の薬師如来を見ていると、ウルトラマンに見えてきました。ウルトラマンは仏像のお顔を模したものと聞きました。飛鳥仏と天平仏がミックスされたような讃岐で作られた薬師如来坐像が大窪寺にはあります。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 
 松田誠一郎    大窪寺本尊の薬師如来坐像について
       香川県歴史博物館 調査報告書第三巻2007年

  「大窪密寺記」、「大窪寺記録」による寺史復元の成果は?

この寺の歴史について中世文書が残っていないため、よく分かっていないことが多いのです。その中で2007年に香川県歴史博物館から調査報告書が出され、寺に残る「大窪密寺記」「大窪寺記録」を基に寺史復元が行われています。その成果をまとめてみると・・・。
縁起は行基が開山してその後、弘法大師が中興したというありきたりのものになっています。中世については文書はありませんが、鎌倉時代末~室町時代の瓦などの遺物が寺域から出土しており、中世におけるこの寺の存在を示しています。
「大窪寺」の画像検索結果

本尊は ホラ貝を持ったお薬師さんで飛鳥・天平様式

 本尊の弘法大師作とされる薬師如来坐像は、飛鳥・天平様式を持ち、平安時代前期のものとされ県の指定になりました。普通、薬師如来は薬壷を持つものですが、ここのお薬師さんは、法螺貝を持っています。これはこの寺の由来を考える際のヒントになります。ホラ貝は修験者の持ち物です。修験の本尊にふさわしく、病難災厄を吹き払う意昧をこめたものだとおもわれます。同時に、この寺の大師信仰よりも古い、修験道・山岳宗教との関わりをうかがわせます。
 さらに寺宝の弘法大師伝来という鉄錫杖が平安時代初期のものであることが判明し、この寺の平安時代初期の建立の可能性が出てきました。

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  近世になると秀吉政権下で讃岐一国を領した生駒氏は
殊に神を尊び仏を敬い、古伝の寺社領を補い、新地をも奇符(寄付)し、長宗我部焼失の場を造栄して、いよいよ太平の基願う」(「生駒記」)
というように、旧寺社の復興、菩提寺法泉寺の創建などに力を注ぎます。こうして、生駒親正は入国直後に次の寺院を「讃岐十五箇院」に選定し、真言宗古刹の保護に努めます。
①虚空蔵院与田寺(東かがわ市中筋)、
②宝蔵院極楽寺(さぬき市長尾束)、
③遍照光院弘憲寺(高松市)、
④地蔵院香西寺(高松市)、
⑤無量寿院隋願寺(高松市)、
⑥千手院国分寺(高松市国分寺町)、
⑦洞林院白峰寺(坂出市)、
⑧宝光院聖通寺(綾歌郡宇多津町)、
⑨明王院道隆寺(仲多度郡多度津町)
⑩覚城院不動護国寺(三豊市仁尾町)、
⑪威徳院勝蔵寺三豊市高瀬町)、
⑫持宝院本山寺(三豊市豊中町)、
⑬延命院勝楽寺(三豊市豊中町)、
⑭伊舎那院如意輪寺(三豊市財田町)、
⑮地蔵院萩原寺(観音寺市大野原町)
 生駒氏転封後の高松・丸亀藩に分けると、⑧までが高松藩領寺院となります。これにニケ寺を加え松平藩時代に「十ケ寺」保護制度が整ったようです。大窪寺の寺格は、この「十ケ寺」の次席という格式であったと伝わります。

「四国霊場大窪寺 本尊薬師座像」の画像検索結果

荒廃した大窪寺を復興したのは、高松藩祖松平頼重

荒廃した大窪寺を復興したのは、水戸光圀の兄で水戸藩からやってきた高松藩祖松平頼重です。頼重の肝煎りで、本堂・鎮守社・弁天宮・二王門が姿を現します。頼重は同時期に、根香寺・志度寺・八栗寺など八十八ヵ所霊場の寺院復興を行っています。さらに頼重は、寺領十石に加え新開地十五石を寄進するなど厚い保護を行ったことが寺領寄進(安堵)状に書き留められています。藩祖に習って以後も高松藩は手厚い保護を行っていたことが資料から分かります。
「四国霊場大窪寺 本尊薬師座像」の画像検索結果
 
大窪寺は、頼重の時代(寛永~延宝期)までに京都・大覚寺末となっていたようで、現在でも真言宗大覚寺派に属します。本寺の大覚寺からは、寛政六年(1794))菊御紋の提灯・幕などを下賜されており、特別な処遇であったことがわかります。

  大窪寺の弘法大師坐像を解体修理したところ、面部裏から
「大仏師かまた喜内、京あやのかうち、東之とい北へ入る」
の墨書銘が発見されました。
その結果、この座像が江戸時代中期に京都の仏師鎌田喜内によって作られたことが分かりました。彼は三豊市の本山寺の愛染明王坐像(平安時代・県指定有形文化財)を修理し、同寺の十王・倶生神像を見積もった仏師でもあります。江戸時代の本山寺と大窪寺はともに大覚寺の末寺であり(本山寺は現在高野山真言宗)、同じ宗派の寺院と京仏師の関係が見えてきました。
 
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 明治33年(1900)5月9日、本堂脇から出火し、本堂・大師堂・阿弥陀堂・薬師堂などを全焼し、徳川光圀寄進法華経(自筆箱書阿弥陀経か)・鷹司右大臣寄進医王山額など多くの什物が焼失しました。このため、中世以前の古文書・古記録はありません。
 しかし、兵火・大火をくぐり抜けてきた、弘法大師ゆかりと伝わる本尊・錫杖が、遺された江戸時代の古記録から、藩主をはじめ、数多の人々の信仰を集める寺宝であったことがわかってきました。また、藩主一族や嵯峨御所(大覚寺)からの寄進物の存在は、当寺の格の高さを示しています。

参考史料 胡光 大窪寺の文物 香川県歴史博物館調査報告 第三号

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