大窪寺伽藍変遷図
前回は、大窪寺の江戸時代の伽藍変遷を残された絵図から見てきました。その結果、本堂の位置は動いていないけれども、阿弥陀堂や大師堂などその他の建造物は江戸時代前半と、後半では移動していることが分かりました。今回は、現存する大窪寺の堂宇を見ていくことにします。
現在の大窪寺伽藍配置図
テキストは「大窪寺調査報告書2021年 大窪寺の建造物 香川県教育委員会」です。まずは 本堂・中堂・奥殿です。
大窪寺の本堂は、正面に立って見ると分からないのですが上から見ると変わったレイアウトをしていることが分かります。本堂の後に奥殿(多宝塔形式)があり、中殿が二つの建物を繋いでいます。つまり三段構えになっている念入りな本堂です。この配置は前回に見た江戸時代の絵図には出てきませんので古いものではなく、明治33年(1900)の火災後に姿を見せた建物のようです。飛鳥様式が残るとされる本尊の薬師如来が座っているのは、奥の多宝塔です。
このお薬師さんは、薬壷のかわりに法螺貝をもっています。これは修験の本尊にふさわしく、病難災厄を吹き払う意昧をこめたものなのでしょう。『四国辺賂日記』には、「弘法大師所持の法螺と錫杖がある」と書いてあります。が弘法大師所持の法螺を、お薬師さんが持っているのかどうかは分かりません。
飛鳥様式の残る薬師如来坐像(大窪寺)
このお薬師さんは、薬壷のかわりに法螺貝をもっています。これは修験の本尊にふさわしく、病難災厄を吹き払う意昧をこめたものなのでしょう。『四国辺賂日記』には、「弘法大師所持の法螺と錫杖がある」と書いてあります。が弘法大師所持の法螺を、お薬師さんが持っているのかどうかは分かりません。
多宝塔の薬師如来坐像を礼拝するのは、中堂からになります。本堂と中堂が礼堂的な役目をし、後方の奥殿(多宝塔)が内陣的な役目を果たしていることになります。
本堂をもう少し詳しく見ておきましょう
本堂は、奥殿の礼堂としての機能を持ち、正面二間を土足で礼拝部、奥三間を法要時の着座作法の外陣として使用されていたようです。そのため内部には本尊がないようです。本堂と奥殿とを繋ぐ中殿は、本堂背面の中央間に合わせて桁行三間を接続、中央に法要具足を配置して、奥堂本尊を礼拝することになります。
本堂・中堂・奥殿は、明治33年(1900)に本堂が焼失した後に新築されたものです。
前回見たように江戸時代に書かれた『四国偏礼霊場記』(承応2年,1689)、『四国遍礼名所図会』(寛政12年,1800)、『讃岐国名勝図会』(嘉永7年1854)には、本堂しか描かれてなかったのは見てきた通りです。ただ、次のように記されていました。
「四国遍路日記」(承応2年,1653)に
本堂南向、本尊薬師如来。堂ノ西二塔在、半ハ破損シタリ。『四国偏礼霊場記』に
多宝塔去寛文の初めまでありしかど倒れたり。
これらの記事から明治の再建新築の際に、多宝塔の再建が計画され、参拝や法要時の利便を考えて本堂と一体の拡張新築となったと研究者は考えているようです。
本堂の構造について、研究者は次のように指摘します。
本堂は向拝から正面二間分の外礼堂までは、軸部・組物に伝統的な様式を採用しているが、後方三間では中堂も含めて、柱が直接桁を受けて組物を省略、奥堂平面では正面は三間とする。側面は四間、内部四天柱内須弥壇を置かず後方にずらし、周囲に畳敷きを採用、当初から軒下張り出し部を作り位牌壇を設けるなど、内部の構成は本堂としての機能が優先している。また上層組物は三手先組みにするなど、本来の様式から少し違うものに変更されている箇所が見られる。近代化を図るなかでの伝統建築の保全。活用の一形態を示しており、今後の一指針となり得るものである。
大窪寺 旧太子堂(現納経所)
旧大師堂は、昭和になって境内西側に新たに現在の大師堂が建設されたので、納経所に改められたようです。
『四国遍礼名所図会』(寛政12年,1800)、『讃岐国名勝図会』(嘉永7年,1854)に描かれている大師堂と同じ位置にあります。
明治33年の大火で、大窪寺は本堂以外にもほとんどの堂宇を失ったようです。旧太子堂も、その後に再建されたものです。
研究者は大師堂について次のように指摘します。
背面軒下に仏壇、来迎柱が半丸柱、内部頭貫の省略と、近世から近代への変化が見られる。納経所に改装された際には各部補修や改変があったようである。内部後方の間仕切りや、外部サッシヘの変更、床組みの改修等が行われているが、その他軸部。組物・天丼や背面仏壇廻りは明治再建のものであろう。
大窪寺阿弥陀堂
阿弥陀堂も本堂・旧大師堂と同じように明治33年(1900)に焼失し、再建されたもののようです。
『四国遍礼名所図会』では建物は描かれていますが、本文中では「護摩堂、本堂に並ぶ」とあって、阿弥陀堂が出てきません。のちの『讃岐国名勝図会』では、再び「アミダ堂」となっています。高野山での念仏聖の追放と阿弥陀信仰弾圧が地方にも影響をもたらしていたのでしょうか。何かしらの「勢力争い」の気配はしますが、よく分かりません。
大窪寺阿弥陀堂(調査報告書より)
研究者は次のように指摘します。建物は、向拝に組物を組み、母屋正面中央間内法に虹梁を入れて諸折桟唐戸で装飾性を高めてはいるが、母屋柱上は側桁を直接受け、内部天丼も悼縁天丼など、比較的簡素な建物である。柱の大面取や建具、向拝廻り垂木の扱いなど、大師堂より近世の様式が窺われる建物である。
大窪寺二天門
二天門は明治の大火から唯一免れた建物のようです。
『讃岐国名勝図会』(1854年)
『四国遍礼名所図会』(1800年)に描かれている楼門と同じように見えます。『讃岐国名勝図会』には二王門の表記があります。絵図資料からは、この建物が『四国遍礼名所図会』(1800年)が書かれる以前に建てられたいたことを示します。研究者は、次のような時代的特徴を指摘し、建立年代を示します。
①上部側廻りが吹き放し②中央柱間貫に吊り環状の金具があり③正面中央間柱内側に撞木吊り金具状のものが残る。④正面腰貫が入れられてない
以上から、寺伝にいう明和4年(1767)には二天門が建立され、梵鐘が吊られた可能性もあるとします。しかし、細部の様式からは18世紀の中期建立は想定しにくく、どちらかというと19世紀になって建てられたといってもでもおかしくない建物だと考えているようです。
現在の二天門の上層には外部柱間装置の痕跡が見られません。それは、当初から梵鐘を吊ることを想定して建立されているからです。すでにそれまであった門に仮に鐘を釣り込んで、後に新たに建造された可能性もあると指摘します。
大窪寺二天門
二天門の組物については、次のように述べています。
下層組物は側廻り柱上に大斗を置いて、四周縁葛を受ける絵様肘木を乗せている。正背面中央間頭貫下正面には「龍」、背面には「獅子」の持ち送りが入る。その他中央仕切り上の虹梁中央に暮股を入れ、正背面中央間の頭貫上に天丼桁を受ける斗を置くのみである。上層柱上は平三斗組み、実肘木で、側桁を受けている。両妻は化粧母屋桁下、前包み水切り上に三斗組み、実肘木を組み、化粧母屋と同高に虹梁、中央は大瓶束のみとして棟木を受ける。
かつて女体山には年に2回はテントとシュラフをザックに担いで、長尾側から登っていました。山頂の東屋で「野宿」したことも何度かあります。この山が修験者たちの行場であったことは、山を歩いているとうすうすは感じるようになってきました。しかし、私の中では、それと麓の大窪寺がなかなかつながらなかったのです。
整備された四国の道を通って南側の大窪寺に下りていくと、見事なもみじの紅葉が迎えてくれたことを思い出します。しかし、その伽藍は威風堂々として、若い頃の私は違和感を覚えたものです。その原因がこの寺の堂宇が二天門を除いて、ほとんどが近代になって作られたものであることに気づいたのは最近のことです。明治の大火で大窪寺は、ほとんどを失っているのです。その後の再建計画と復興への動きを知りたくなりました。しかし、手元にはその史料はありません。・・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「大窪寺調査報告書2021年 大窪寺の建造物 香川県教育委員会」