女体山
大窪寺から女体山への四国の道をたどると奥の院
「四国遍礼霊場記」(寂本 1689年)には、大窪寺の奥の院のことが次のように記されています。
(前略) 本堂から十八町登ると、岩窟の奥の院がある。本尊は阿弥陀と観音が安置されている。大師がここで虚空蔵求聞持法の行を行った時に、神仏に阿伽(聖水)を捧げて、独古で岩根を加持すると、清らかな水がほとばしり出た。以後、どんな旱魃であろうとも枯れることはない。

D『四国遍礼名所図会』(1800)には、次のように記されています。
奥院は本堂から十八丁ほど上の山上にあり、今は人が通れないほど荒れている。
ここからは次のようなことが分かります。
①17世紀後半には、本堂から18町(約2㎞)登った岩屋に奥の院があり、阿弥陀と観音が安置されていたこと
②弘法大師虚空蔵求聞持法修行地とされ、井戸があったこと。
③それから約110年後の18世紀末には、訪れる人もなく荒れ果てていたこと。

大窪寺 奥の院
大窪寺奥の院
 大窪寺境内から四国の道に導かれて約2 kmほど登ると奥の院に着きます。お堂とは思えないような建物が岩壁を背負って建っています。現在の奥の院の建物は、屋根はトタン葺き、内部は十畳ほどの畳敷の奥に岩窟があり、堂は岩窟に取り付くように建てられています。両側の壁はコンクリートブロックで岩窟と連結されています。

大窪寺奥の院 内側
大窪寺奥の院の内側
畳敷の奥の岩窟は、三段になっていて、上段に1体、中段に3体、下段に2体、全部で6体に石仏たちが安置されています。前面には祭壇が設けられ、かつては行が行われていたことがうかがえます。この6体の石仏について、研究者が調査報告しています。今回は、この報告を見ていくことにします。テキストは「大窪寺調査報告書2021年 大窪寺奥の院調査  香川県教育委員会」です。

奥の院の堂内に安置された石仏たちを見ていきましょう。
大窪寺奥の院 石仏配置
大窪寺奥の院の石仏
(1)阿弥陀如来坐像 砂岩製  高さ38.5cm、幅29cm、奥行25.5cm
一番上に上に安置されているのが阿弥陀如来坐像のようです。研究者は次のように指摘します。

大窪寺奥の院 阿弥陀如来坐像
大窪寺奥の院 阿弥陀如来坐像
丸彫仏で背面の表現は見られないが、背面には刺突状の工具痕が顕著に認められる。蓮華座と一石で製作されており、背面は蓮華座との境界を表現していない。蓮華座の主弁は外縁に幅1.5cmの帯状の輪郭を巻いており、刺突状の工具痕が認められる。間弁は上部付近のみ表現をしている。
脚部前面の一部が欠失しており、蓮華座の一部も欠損しているが、欠損部は石仏横に置かれている。印は定印を結び、肉醤が小さく、髪際中央部のラインが上方に切れ込んでいる。また、白眉、三道を表現している。
 (2)十―面観世音菩薩坐像 砂岩製  高さ37cm、幅29cm、奥行25.5cm

大窪寺奥の院 十一面観世音
中段左側の十一面観世音菩薩坐像
研究者の指摘は次の通りです。
阿弥陀如来と同じく、丸彫仏で背面の表現は見られないが、背面には刺突状の工具痕が顕著に認められる。蓮華座も阿弥陀如来坐像と同じく、一石で製作されており、背面には蓮華座との境界を表現していない。蓮華座の主弁は外縁に幅1.5cmの帯状の輪郭を巻いており、刺突状の工具痕が認められる。間弁は上部付近のみ表現をしている。左手は、水瓶を持たず、直接蓮華を持っており、右手は掌を正面に向けた思惟印を結んでいる。蓮華の花部は三弁の簡易な形態を示してる。頭部は、上下三段に突起があり、上段に3つ、中段に2つ、下段に5つの合計10個認められ、正面の顔面を含めて十一面を表現している。体の特徴としては、首から肘にかけて傾斜して広がり、両肘部が胴部の最大幅となる。三道、条吊、腎釧、腕釧、右足を表現している。

(3)弘法大師坐像 砂岩製  高さ37.5cm、幅29.5cm、奥行き25.5cm
大窪寺奥の院 弘法大師
ふたつの弘法大師像

中段右側に安置されている小さい弘法大師坐像(3)です。阿弥陀如来と同じように、丸彫仏で背面の表現は見られませんが、背面には刺突状の工具痕が見えるようです。左手には数珠、右手には金剛杵を持っていて、弘法大師坐像のお決まりのポーズです。よく見ると、金剛杵を斜めに持っています。
(4)弘法大師坐像 砂岩製 高さ57.5cm、幅40cm、奥行き30.5cm
中段の真ん中に置かれた大きい弘法大師坐像(4)です。丸彫仏で、背面には法衣を表現しています。左手には数珠、右手には金剛杵を持つ、弘法大師坐像の一般型です。3の小さな弘法大師坐像とちがうのは、金剛杵を水平気味に持っていることだと研究者は指摘します。
(5)舟形光背型石仏(地蔵菩薩立像) 砂岩製 高さ37cm、幅20.5cm、奥行10.5cm

大窪寺奥の院 地蔵菩薩
下段の左側に安置されている地蔵菩薩立像(5)で、舟形光背型を背負っています。
これについては研究者は次のように指摘します。
簡略化された蓮華座が特徴的で、地蔵菩薩を半肉彫で表現している。目と口は線刻で簡易的に表現されている。両手は突線で簡易的に表現されており、腹前で合掌している。衣文の装は斜め方向の線刻で表現されている。像の周囲には刺突状の工具痕が残るが、光背形の縁辺部は幅1.5cm~2 cmで工具痕は認められない。

「突線で表現された両手、簡易で特徴的な蓮華座、正面の像の周囲に残る刺突状の工具痕」という特徴から、研究者は16世紀末~17世紀前半の特徴が見えるといいます。線刻による小さな目、口の表現などは、高知県に多く、讃岐では見つかっていないタイプだと云います。
 この石仏が作られた16世紀末~17世紀前半は、讃岐では生駒氏によって戦国の争乱に終止符が打たれて、生駒氏の保護を受けた弥谷寺などでは復興が始まる時期になります。以前お話しした弥谷寺では、採掘された天霧石で、大きな五輪塔が造られ、生駒氏の墓標として髙松の菩提寺などに運び出されています。ここからは大窪寺が、生駒氏の保護を受けられずに、独自の信仰集団を背後に持っていたことをうかがえます。大窪寺には独特の舟形光背型石仏が持ち込まれていることになります。


(6)舟形光背型石仏(地蔵菩薩立像) 砂岩製 高さ49cm、幅28cm、奥行き16cm
大窪寺奥の院 地蔵菩薩6


下段右側に安置されている地蔵菩薩立像(6)になります。形は左側と同じで舟形光背型ですが、直線的な立ち上がりで、角部の屈曲のが五角形です。半肉彫の地蔵菩薩を掘りだしたスペースは光背幅の1/3程度です。このタイプのものは19世紀ごろの特徴だと研究者は指摘します。下の蓮華座は、近世の丸彫石仏や近世五輪塔の蓮華座に共通する精級なものです。蓮華座下の突出部のスペースが広く、稜線によって3面に仕上げている点も特徴的なようです。

この地蔵菩薩には、次のような文字が掘られています。
右側「嘉永庚戊戊夏日 為先祖代々諸霊菩提」
左側「岩屋再営 施主 柿谷 澤女」
突出部正面に「幻主 慈心代」
ここからは、この石仏を寄進したのは、柿谷に住む澤女で、岩屋再営とあることから奥の院の堂宇の再建を行い、先祖供養のために嘉永3年(1850)に造立したことが分かります。「幻主」が何かしら気になる表現です。「奥の院の仮庵主である慈心代」という意味と研究者は考えているようです。慈心は、「大窪寺記録」には、第27代住持として記載がある人物ですが、位牌はなく、いつ亡くなったかなどは分かりません。位牌がない場合に考えられるのは、転院や退院した住持かもしれないということです。また、柿谷は地名のようですが、周辺にはない地名です。四国内で探すと、阿波国に柿谷という地名があるようですが、よく分かりません。
 どちらにしても、幕末に奥の院の堂宇が大窪寺の住職の手で行われ、その成就モニュメントしてこの地蔵菩薩が寄進されたようです。

大窪寺奥の院の石仏2
大窪寺奥の院の石仏

以上から奥の院堂内の石仏について、研究者は次のように考えているようです。
①阿弥陀如来坐像(1)、十一面観世音菩薩坐像(2)、弘法大師坐像(3)は法量がほぼ同じであること
②阿弥陀如来坐像(1)と十一面観世音書薩坐像(2)の蓮華座が類似すること
③3基ともに背面を省略することなどのの共通点がみられること
以上から、この3体の石仏は、同時期に作られたものと考えます。そして製作時期については、近世のものであるとします。中世のものではないというのです。
 私は元禄2年(1689)『四国偏礼霊場記』に、「奥院あり岩窟なり、・…本尊阿弥陀・観音也」と記されているので、これが奥の院にある現在の阿弥陀如来坐像(1)、十一面観世音菩薩坐像(2)を指しているものと思っていました。そして中世に製作されたものと思っていたのですが、研究者は、「(現)石仏を指している可能性はあるが、時期の特定が難しいため、現時点で断定はできない。」と慎重な判断をします。
④ふたつある大小の弘法大師坐像(3)(4)は、法量・形態・特徴が異なるので製作時期がちがう。製作時期の先後関係も現時点では判然としないと、これも慎重です。
⑤舟形光背型地蔵菩薩立像(5)は、16世紀後半~17世紀前半の特徴があり、似たような様式の者が高知県には多くあるようですが、香川県内では見られない珍しいタイプになるようです。これは、大窪寺の信者や属した寺社ネットワークを考える際に興味深い材料となります。
以上の材料をどのように判断すればいいのでしょうか?

  奥の院には、現在は6つの石仏が安置されていることになります。
大窪寺奥の院 石仏配置

 その配置をもう一度確認しておきます。私が注目したいのは、一番上段に安置されているのが①阿弥陀如来だと云うことです。そして、その下に十一面観音と弘法大師像2体、一番下に地蔵菩薩という配置になります。これと同じような石仏のレイアウトが、以前紹介した弥谷寺の獅子の岩屋にあったことを思い出します。
弥谷寺大師堂の獅子の岩屋には曼荼羅壇があり、10体の磨崖仏が彫りだされています。
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弥谷寺大師堂の獅子の岩屋の石仏レイアウト

壁奥の2体は頭部に肉髪を表現した如来像で、左像は定印を結んでいるので阿弥陀如来とされます。一番奥の磨崖仏が阿弥陀如来 その手前に、弘法大師・母玉依御前・父佐伯田公、その前に大型の弘法大師像があります。ここにも弘法大師像は大小2つありました。
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        弥谷寺大師堂の獅子の岩屋の石仏
側壁の磨崖仏については従来は、金剛界の大日如来坐像、胎蔵界の大日如来坐像、 地蔵菩薩坐像が左右対称的に陽刻(浮き彫り)とされてきました。しかし、ふたつの大日如来も両手で宝珠を持っているうえに、頭部が縦長の円頂に見えるので、研究者は大日如来ではなく地蔵菩薩と考えるようになっています。つまり、弥谷寺の獅子の岩屋の仏たちは「阿弥陀如来+弘法大師2体+弘法大師の父母、+地蔵菩薩」という構成メンバーになります。これは大窪寺奥の院の仏たちとメンバーも配置よく似ています。
 ここからは、大窪寺においても次のような宗教的な変遷があったことが推測できます。
①念仏聖や高野聖たちによる浄土=阿弥陀信仰
②志度寺・長尾寺など同じ観音信仰
③近世になっての弘法大師信仰
江戸時代になって、本山=末寺関係が強化されることによって、大窪寺も高野山の影響を強く受け、その管理下に入っていくようになります。同時に、四国霊場の札所としての地位が確立するにつれて、次第に①阿弥陀信仰は払拭されていきます。しかし、伽藍から遠く離れた奥の院では、阿弥陀仏が一番上に祀られ、礼拝されていたと私は考えています。幕末になって、大窪寺の住職が奥の院を修復し、地蔵菩薩を新たに安置する時にも、最上段の阿弥陀仏の位置を動かすことはなかったのでしょう。
冒頭でD『四国遍礼名所図会』(1800)には、「奥院は本堂から十八丁ほど上の山上にあり、今は人が通れないほど荒れている。」と記されていること紹介しました。しかし、大窪寺の住職が奥の院を改修し、新たに地蔵菩薩を寄進しているとすれば、奥の院は大窪寺のルーツとして忘れられていたわけではなかったことになります。

以上をまとめておくと
①大窪寺奥の院には、弘法大師が虚空蔵求聞持法の修行を行ったという伝説がある。
②奥の院には、現在6体の石仏が安置されている。
③この6体の中で、阿弥陀如来坐像(1)、十一面観世音菩薩坐像(2)、弘法大師坐像(3)は、同時代のもので中世に遡ることはない。
④ふたつある大小の弘法大師坐像も先後をつけることは出来ないが近世のものである。
⑤舟形光背型地蔵菩薩立像2体のうちの(5)は、16世紀後半~17世紀前半のもので、土佐タイプに似ていて、讃岐では珍しいものである。
以上から奥の院には、時代順に 阿弥陀・地蔵信仰 → 観音信仰 → 弘法大師信仰のモニュメントとして、これらの石仏が安置されたと私は考えています。
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大窪寺奥の院胎蔵峰寺の本尊は、阿弥陀如来

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
   「大窪寺調査報告書2021年 大窪寺奥の院調査  香川県教育委員会」