
前回は、長宗我部元親の阿波侵攻を史料で押さえました。今回は、地元の池田町史には白地城の大西覚用の対応・抵抗がどのように書かれているかを見ていくことにします。テキストは「池田町史156P 白地城落城と大西氏滅亡」です。
三好氏系図 長慶死後は、弟実休(義賢)の息子・長治が継承
三好氏を支えていた三好義賢、長慶が亡くなり、その後を継いだのが長治です。そんな中で元親に阿波進出の口実を与える事件が、阿波の南方と海瑞で同時に持ちあがります。
南方の事件は、元亀2年(1571)のことです。元親の末弟・島弥九郎親益が、病弱のため有馬の湯治に出かけた帰りに、海部郡奈佐の港に風浪をさけて停泊します。これを知った海部城主海部宗寿が、これを攻めて殺してしまいます。この時にちょうど海部城には、元親に滅された土佐安芸氏の遺臣が客分になっていました。彼らが旧主の敵討ちのために、この拳に出たようです。一方、海瑞では元親に討たれた土佐本山氏の一族が長治を頼って来ます。「志」には次のように記します。
「本山式部小輔主従七十三人阿波国へ行き(中略)勝瑞に至れば三好河内守長治大いに悦び、所領を与え一方の大将に定めぬ」
土佐の敗軍である本山氏を身内に招き入れることも、長宗我部元親を刺激します。こうして阿波と土佐の間で戦雲が広がります。ところが、軍記書には次のように記します。
「三好長治愚昧にして策なく「元親本山の遺臣を遣し、阿波に於て小輔を殺す」(「蠹簡集」)
蜂須賀藩時代になって書かれた軍記書は、どれも長治のことを「暴君・無能」と記します。しかし、これは以前にお話したように前政権担当者を悪く言って、現政権担当者を引き立たせようとする暦書の常套手段のひとつです。これをそのまま信じることは出来ません。しかし、長治の代になって三好政権に陰りが見え始めたことは事実です。有能な家臣の篠原長房を攻め殺し、阿波国内の混乱が続く中で、それを見透かしたように土佐の長宗我部元親の阿波侵攻が始まります。

天正三年(1575)、島弥九郎の事件を口実に、元親は宍喰に侵入し、海部城を攻めます。
この時に、海部宗寿は三好氏に従軍して讃岐へ出兵中で留守のために、簡単に落城したようです。土佐軍は、海部城を拠点として阿波南方の足がかりとして、由岐城、日和佐城、牟岐城を戦わずして次々と陥していきます。阿波の南方に侵入した長宗我部氏は、同時に阿波の西方への進出も開始します。目標となったのが四国中央にあたり、大西覚用が城主であった白地城です。
池田町史は「上名藤川家家記」の内容を、次のように載せています。(意訳)
「藤川助兵衛長定が天神山城において侵入軍を撃退し主将嶋田善兵衛を討ち取り、その後も立川丹後守、佐川兵衛等の侵入軍を退け、その功により大西覚用より、信正、所窪を加増せられた」
ここには藤川氏が土佐軍の侵入を阻止し、その軍功に対して白地城の大西覚用から加増を受けたとします。しかし、実際には土佐軍は戦うことなく調略で、阿波国境の「山岳武士」たちを味方に付けていたことは以前に次のようにお話ししました。
A 阿波国西部の祖谷地方などの「山岳武士」たちを豊楽寺への信仰で組織し味方に引き入れていること。祖谷山衆も天正年間初期には、掌握していたこと。B 『祖谷山旧記』には、長宗我部元親の指令に応じて祖谷山衆が「さたミつ(貞光)口」へ侵攻していること。C 天正7(1573)年12月の岩倉城をめぐる攻防戦の際の長宗我部元親の感状に木屋平氏の軍忠を「暦々無比類手柄共候」と賞していること。つまり、木屋平氏が長宗我部元親の傘下で働いていたことを裏付けられます。
長宗我部元親は土佐国境の祖谷山衆を天正年間の初めには配下に置いていたと研究者は判断します。そうだとすると、阿波と土佐の国境附近では戦闘は行われず、無傷で土佐軍は大歩危・小歩危の難所を、祖谷山衆の手引きで越えたことになります。
このあたりのことを「元親記」は、次のように記します。
天正四年、元親は大西(白地城周辺の地名)入りの評議をしたが、「大西への道筋は日本一の難所で、力態に越さるる所に之無く(中略)先ず覚用を繰りて見んとて(「元親記」)」、
ちょうど覚用の弟了秀が出家し、土佐国野根の万福寺住職であったので、この了秀を遣わして和議を申込ませた。
しかし、これを史料で確認することはできません。 以前に紹介した長宗我部元親が大西覚用を味方に引き入れるため栗野氏に宛てた書状を見ておきましょう。(意訳)
今までは連絡を行う事ができなかったが、今回初めて書簡を送る。現在の阿波国は、相争い国が乱れた状態にあり、辛労を察する。ついては、これより今後は、別書に誓った通り、御入魂を傾け吾のために働くことを願う。なお、大西方・三好安藝守の和睦仲介について、尽力していることは喜ばしい限りである。重ねて使者を差しだし、双方を我が方に引き入れるように活動していただきたい。また御太刀一腰・馬一疋を進覧いただいたことは、祝儀である。猶委山口上含候可得御意候、恐慢謹言、十一月廿三日 (長宗我部)元親(花押)栗野殿人々御中
ここに登場する栗野氏は、「古城記」の三好郡部分に記載されている「栗野殿 十六葉菊三」のことと研究者は考えています。
このように、大西覚用の重臣たちを密に味方に引き入れ、彼らを通じて和睦交渉を進めていたことが分かります。つまり、大西覚用は、家臣団を切り崩された状態にあったことになります。これでは戦えません。
白地城の西の粟野屋敷
このように、大西覚用の重臣たちを密に味方に引き入れ、彼らを通じて和睦交渉を進めていたことが分かります。つまり、大西覚用は、家臣団を切り崩された状態にあったことになります。これでは戦えません。
このような情勢を讃岐の香西成資の「南海通記」は、次のように記します。
阿波国ノコト三好長治政ヲニシ国内ノ諸将威勢と謡ヒ、親族ノ者モ皆離れて長治ニ服せず。故ニ南方が羈縻ニ属す。大西ハ猶以テ土佐二近シ。隣国ノ好ヲ以テ土州二一意シハバ互いの悅之ニ過グベカラズ。今阿州の人心ヲ思フニ大西ニ事アリトモ誰カカッ合スペキヤ。却テ大西ヲラントスル者多カルベシ。コノ程ヲ思量シテ和親ノ約ヲナシ玉ハバムッマジキガ中ニモ猶ムツマジク成テ大西領地モ広マリ繁栄ナルベキコトコノ時ニアリ。
意訳変換しておくと
阿波国については三好長治の代になって、国内諸将の支持を失い、親族も皆離れて長治に従わなくなった。そのため阿波南方は土佐軍に奪われてしまった。一方、白地城の大西覚用は、土佐国境に近く、長宗我部元親と隣国のよしみもあって、敵対関係はなかった。そこで大西覚用は次のように考えた「白地城が長宗我部元親に攻められても、三好氏が救ってくれることはないだろう。そうだとすると三好氏を捨て長宗我部元親と和睦するほうが、大西の領地も拡大し、繁栄する道につながる」
香西成資の南海通記は、長老の伝聞と阿波や土佐の軍記ものを参考に書かれたものなので、曖昧なことや誤謬も多いことは以前にお話ししました。この部分も阿波の編纂史に頼った記述内容となっています。しかし、当時の情勢をよくつかんでいるように思えます。町史などを記述する立場であれば、こういう記事に頼りたくなるのは当然だと思います。
大西覚用の立場になって考えて見ると、三好長治の失政のため阿波の政局は混乱し、三好氏内部も二分して争う状況です。阿波南方の海部城は落城しましたが、三好氏はこの奪回に手をかそうとしません。こうした動きを見ると、三好氏に頼ることは危険に思えてきます。そこで頼りとするのが毛利氏と長宗我部元親です。大西覚用が元親と交渉を持つ一方で、中国の毛利氏に文書を送っていたことや、讃岐に独自の利権を持つようになっていたことは以前にお話ししました。こうして、大西覚用は戦わずして長宗我部元親の軍門に降ります。元親記には、大西覚用を味方に引き入れたときの長宗我部元親の反応を次のように記します。
「先此大西(白地城)さへ手に入候へば、阿讃伊予三ヶ国の辻にて何方へ取出すべきも自由なりとて、満足し給ひけり。」
ところが何があったのかはよくわかりませんが大西覚用は、長宗我部元親をすぐに裏切ります。
その寝返りの理由とされるのが、畿内の三好康長(笑岩)からの書状だとされます。当時畿内では、織田信長が「天下布武」に向けて足固めを行っていました。天下人に近づく信長に従って各地で転戦するようになったのが河内国高屋城主三好康長(笑岩)です。康長(笑岩)は、阿波国内の城持ち衆に、信長の意を汲んだ書簡を送りつけてきます。そこには次のように記されていました。
来年(天正六年) 我信長公は大軍を挙げて阿波に出陣、土佐方へ奪取所の南方を取返し、阿波を安堵す。ついては阿波国中の城持衆は、力を合せて敵(土佐軍)に抵抗し、その領地を護り、信長軍の来軍に備えよ。
大西覚用は、この書簡を受けて長宗我部元親を裏切り、三好側に寝返って戦いの準備を始めたとされます。
この決定で困難な立場になったのが人質として元親のもとにあった大西覚用の弟・上野介です。
普通だと切腹です。ところが元親は深謀を発揮して、上野介の一命を助けます。そのことを元親記は次のように記します。
「覚用に捨てられたる人質上野守は已に気遣に及ぶ。元親卿より上野方へ有使。身上心安致すべし。其方に対し毛頭別儀無之助置て上る。其より上野をば家人同前に心易居候へと宣て弓鉄砲を免じ鳥など打遊山せよと宜し也」
意訳変換しておくと
「兄の覚用に捨てられた人質上野守は、切腹を覚悟した。ところが元親卿よりの使者は、身上心安くすべし。その方に対しは何の責めも危害も加えない。これよりは上野を家人同様にあつかうので、そう心易よ。今まで通り、弓・鉄砲で鳥などを狩猟することも許す」
上野介はこの恩義に感激して、元親の西阿進攻に犬馬の労をいとわないことを誓います。そして白地城落城に大きな功績をあげたと軍記ものには詳しく活躍が記されます。そのため上野介はある意味では、英雄譚のように語られることになります。上野介が登場するシーンは、注意する必要があるようです。
天正五年(1577)3月 讃岐で毛利軍が丸亀平野南部の元吉城(櫛梨城)に入り、三好氏の率いる讃岐国衆と元吉合戦が戦われる4ヶ月前のことです。
勝瑞城を出奔して仁宇谷に拠った細川真之を攻めた三好長治が、逆に細川方の急襲で、長原で戦死してしまいます。
長治戦死という事態を知った長宗我部元親は、このチャンスを見逃しません。上野介を道案内兼参謀として、西阿波に侵攻します。この様子を池田町史で見ておきましょう。
白地城では、年老いた頼武が、戦いに疲れ病弱の身を城内で起き伏していた。城主である頼武の子・大西覚用は、長宗我部軍の侵攻の近いことを知って、勝瑞の三好氏や、畿内の三好軍に援軍を求めた。しかし、勝瑞の三好方は長治の戦死でそれどころではなかった。信長の大軍をたのんで応援にかけつけるはずだった高屋城の三好康長(岩)も信長も、紀伊の雑賀党の鉄砲隊に悩まされて、身動きできない状況だった。
つまり、孤立無援のまま長宗我部元親と戦わなければならないことになります。
大西覚用は、土佐軍への迎撃体制を次のように整えたと池田町史は記します。
①白地域をとりまく城を移築し、有力な武将を配置した②土佐の正面にあたる山城谷の尾城を移築して、弟大西京進穎信を城主とし、老臣寺野源左衛門を補佐させます。③白地城をとりまくように大利城(城主大西石見守)、天神山塁、漆川城(城主大西左門衛尉頼光)、中西城(城主東條隠岐守)馬路城、佐野城、さらに三好町の東山城と守りを固めた。④急を告げる狼煙の道が、三名の茶園の休場→天神山城→根津木越→越の田尾→田尾城→大利城→白地城と整備された。
馬数入候問四五日逗留候てかり申す可く候 くら(鞍)をきて下さるべく候 態此者参らせ候やがてやがて返し申す可く候 恐々謹言閏七月十二日 (大西覚用) 覚(花押)俊崇坊雲辺寺
意訳変換しておくと
荷馬が緊急に必要なので四、五日逗留して借用(徴用)を申しつける。鞍を付けておいてくれれば、配下の者を使わし連れて帰る。馬は後日改めて返還する 恐々謹言閏七月十二日(大西覚用)覚(花押)俊崇坊参雲辺寺
ここからは次のような情報が読み取れます。
①日付が閏7月12日とあり、閏年が7月にあったのは天正3(1575)年で、白地落城の二年前
②そのころの大西氏は讃岐へ出兵しているので、そのための荷馬借用を命じるものか
③あるいは、土佐軍侵攻近しというので、そのための準備か
④雲辺寺に馬が何頭も飼育されていたこと
⑤馬の借用依頼文だが、一種の軍事微発ともとれる。
⑥当時の雲辺寺の責任者が「俊崇坊」で、坊連合による寺院運営が行われていたこと
⑦雲辺寺には自衛のために僧兵・軍馬がいて、大西覚用の影響下にあったこと
この手紙によって馬が借りられたかどうかなどは分かりません。しかし、長宗我部元親との戦いに備えて、大西覚用が戦備を整えている様子がうかがえます。
これに対して、白地城攻略の先兵を命じられたのが大西覚用の弟大西上野介です。
上野助は、国境の豪族や、白地城の一族や武将たちへ開者を放ち、三好家頼むに足らず、元親と和平することこそ大西家を保つ道であると説かせます。そして、一族や家臣団の戦意を削ぎます。
上野助は、国境の豪族や、白地城の一族や武将たちへ開者を放ち、三好家頼むに足らず、元親と和平することこそ大西家を保つ道であると説かせます。そして、一族や家臣団の戦意を削ぎます。
天正5年5月下句、土佐軍は味方に付けていた阿土国境の三名士(藤川大黒西宇三氏)の先導で国境の大難所も容易に通過して、白地山城と言われた田尾城に殺到します。土佐軍は、竹の水筒に、煎麦の粉(オチラシ)を糧食として腰に下げた歴戦の3000人余でした。
白地山(田尾)城の戦いについては、阿波や讃岐方の軍記ものである「阿波志」・「南海通記」・「四国軍記」「大西譜略」等の軍記ものをまとめて、池田町史は次のように記します。
第一日目
三千人の土佐軍は、三百人余の城兵が守る田尾城の南方正面から攻撃を開始した。しかし、このことあるを覚悟していた城方は鉄砲を並べ、矢を連ねてこれを防いだ。老いたりとは言え寺野源左衛門の用兵は見事に功を奏し、小城とあなどって攻めかけた土佐軍の戦死する者数を知らず、たちまちの尾根は屍の山を築き、後世まで屍の田尾と呼ばれるようになったほどだった。田尾城から屍の田尾に至る畑の中にも点々と戦死者お残っています。こうして土佐方の第一日目の攻撃は完全に失敗した。
上野介は、このままだと損害が大きくなるばかりであると考え、手からの夜襲を献策した。田尾城の北側は、険しい谷になっているので、恐らく、守りも手薄であろうと考えたのであるが、それ以上に、夜の戦いであれば、かねて意を通じてある城内の武士が土佐軍に味方して動き易くなるであろうと考えたのであろう。その夜、主力は火を並べて、正面からの夜翼の気配を見せ、上野介は五、六十名を引きつれ乾いた熱を手に手に搦手に回った。夜が更けて、正面の恒火も一つずつ消え、物音も静まって夜のしじまがやって来た。城中では第一日の勝利に、土佐軍は夜襲をあきらめたものと警戒を解き土張を枕にまどろむ者もあった。
阿波田尾城
夜半を過ぎたころ、搦手の上野介の兵士は、乾いた煙に火を放ち、どっとときの声をあげて城内へ殺到した。これに呼応して正面からも一時にかん声をあげて城内へ突入していった。城内では、もう夜はないものと安心していただけに、混乱の樹に達し、内通者の動きも混乱を一層大きくした。
すっかり戦意を失った城内の兵は、勝手知った暗闇の退路を相川橋に向かって走った。わずかの兵に守られた右京進頼信と寺野源左衛門→相川橋にたどりつき、橋をこわして白地域に向かって退却していった。三千人の土佐軍は、これを追って相川橋方面へ進んだが、暗さは暗し、慣れない山道で、小谷に落ち、崖からころぶ者数を知らずという状況だった。ことに橋のこわされていることを知らない土佐軍が一度に相川橋に押し寄せたため、後から押されて伊川に落ちて溺れる者も多かったという。
相川橋付近の狭い土地に三千の兵がひしめき、勝ち戦とは言え、土佐軍も一時混乱に陥っていたが、やがて主力を大和川に集結し、右翼を下川に、左翼を馬路付近に集め、白地本城攻撃の陣形をたてなおしていった。
白地城(池田町史)
3日目一夜明けると白地城の中は大騒ぎとなった。これほど早く田尾城が落ちるとは思っていなかったのである。頼武は老弱であったので覚用が、さっそく土佐軍を迎えうつ軍議を開いた。ところが、「土佐方と和議を結ぶべし」という意見が出て軍議はまとまらず混乱に陥った。上野介の説得が開者によって広く将兵の間に浸透していたのであろう。
「元親公は決して大西を敵としているのでなく、めざすのは三好氏であり、勝瑞の十川存保である。それに、元親公は、普通であれば当然断罪に処せられているはずの上野介様を大切に扱われ、その上野介様は今度の戦いには参謀格で来ておられる。和議を結んでも決して悪いようにはなるまい。」という和平派の主張は将兵の耳に快く響いたに違いなかった。
和平派が大勢を占めたため、大西覚用は小数の部下と家族をつれて増川(三好町)の東山城に逃れた。東山城も安住の地でな家族を増川に残し、弟長頼の居城である讃岐の城へ落ちて行ったのである。こうして、土佐軍は白地城を無血占領し、白地の台は元親の将兵が満ち満ちたのである。白地落城が伝わると佐野城も馬路城も、川崎城も戦わずして開城し、思い思いに落ちていった。

以上が「阿波志」・「南海通記」・「四国軍記」「大西譜略」などに書かれていることをまとめたものです。田尾城攻防戦の様子がなどが見てきたように描かれています。しかし、これらは蜂須賀藩の時代になって書かれたもので「反長宗我部元親」「阿波郷土防衛戦」の色彩が強く出ていることは以前にお話ししました。ちなみに土佐側の史料や軍記ものには、白地城に至るまでに抵抗があったことは記されていません。これは讃岐における長宗我部元親の西讃侵攻時と同じです。侵略された側は、我が軍はこれだけの抵抗を行い多くの犠牲者を出したと記します。しかし、それは土佐側の史料には記されていません。実際に激しい抵抗があったのかどうかは分からないと研究者は考えています。それは、後の上野助の行動を見ると分かります。また大西覚用は後に、婚姻関係で結ばれていた讃岐の麻口城の近藤氏のもとに落ちのびていきます。その後は再度、長宗我部元親の下で働くことになるのです。もしここで大西覚用が激しい抵抗をした場合には、二度目の帰順は許されなかったと思います。
「長宗我部元親の四国平定の際の軍事戦略について、野本亮氏は次のように記します。
長宗我部元親の基本戦術は、「兵力温存・長期戦になっても死者の数をできるだけ減らす」「交渉によって味方に付ける」であったことは以前にお話ししました。阿波や讃岐側の軍記ものの記述は、長宗我部元親の戦術に反するものです。急峻な四国山地を一領具足を主力とした数万の軍勢が越えるのはほとんど不可能に近く、武器・弾薬・食料の輸送という面から見ても現実的ではない。阿・讃・予における元親の勝利の陰には、土佐方に内通、もしくは積極的に協力した同盟者の存在が第一であり、彼等の利害関係に乗じる形で契約を結び、兵と物資の支援を受けたと考える方が無理がない」
こうして白地城をはじめ、阿波と伊子、土佐の大西方の城はすべて落城します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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