瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:大西覚用

池田町史 「上・中・下3冊揃(徳島県)」(池田町史編纂委員会編) / エイワ書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

前回は、長宗我部元親の阿波侵攻を史料で押さえました。今回は、地元の池田町史には白地城の大西覚用の対応・抵抗がどのように書かれているかを見ていくことにします。テキストは「池田町史156P 白地城落城と大西氏滅亡」です。
三好氏系図.4jpg
  三好氏系図 長慶死後は、弟実休(義賢)の息子・長治が継承

三好氏を支えていた三好義賢、長慶が亡くなり、その後を継いだのが長治です。そんな中で元親に阿波進出の口実を与える事件が、阿波の南方と海瑞で同時に持ちあがります。
南方の事件は、元亀2年(1571)のことです。元親の末弟・島弥九郎親益が、病弱のため有馬の湯治に出かけた帰りに、海部郡奈佐の港に風浪をさけて停泊します。これを知った海部城主海部宗寿が、これを攻めて殺してしまいます。この時にちょうど海部城には、元親に滅された土佐安芸氏の遺臣が客分になっていました。彼らが旧主の敵討ちのために、この拳に出たようです。一方、海瑞では元親に討たれた土佐本山氏の一族が長治を頼って来ます。「志」には次のように記します。

「本山式部小輔主従七十三人阿波国へ行き(中略)勝瑞に至れば三好河内守長治大いに悦び、所領を与え一方の大将に定めぬ」

土佐の敗軍である本山氏を身内に招き入れることも、長宗我部元親を刺激します。こうして阿波と土佐の間で戦雲が広がります。ところが、軍記書には次のように記します。

「三好長治愚昧にして策なく「元親本山の遺臣を遣し、阿波に於て小輔を殺す」(「蠹簡集」)

蜂須賀藩時代になって書かれた軍記書は、どれも長治のことを「暴君・無能」と記します。しかし、これは以前にお話したように前政権担当者を悪く言って、現政権担当者を引き立たせようとする暦書の常套手段のひとつです。これをそのまま信じることは出来ません。しかし、長治の代になって三好政権に陰りが見え始めたことは事実です。有能な家臣の篠原長房を攻め殺し、阿波国内の混乱が続く中で、それを見透かしたように土佐の長宗我部元親の阿波侵攻が始まります。

長宗我部元親の阿波侵攻1
 天正三年(1575)、島弥九郎の事件を口実に、元親は宍喰に侵入し、海部城を攻めます。
この時に、海部宗寿は三好氏に従軍して讃岐へ出兵中で留守のために、簡単に落城したようです。土佐軍は、海部城を拠点として阿波南方の足がかりとして、由岐城、日和佐城、牟岐城を戦わずして次々と陥していきます。阿波の南方に侵入した長宗我部氏は、同時に阿波の西方への進出も開始します。目標となったのが四国中央にあたり、大西覚用が城主であった白地城です。
大西家系図 池田町史

大西家系図(池田町史)
長宗我部元親と大西覚用の関係はどうだったのでしょうか?
  池田町史は「上名藤川家家記」の内容を、次のように載せています。(意訳)

「藤川助兵衛長定が天神山城において侵入軍を撃退し主将嶋田善兵衛を討ち取り、その後も立川丹後守、佐川兵衛等の侵入軍を退け、その功により大西覚用より、信正、所窪を加増せられた」

ここには藤川氏が土佐軍の侵入を阻止し、その軍功に対して白地城の大西覚用から加増を受けたとします。しかし、実際には土佐軍は戦うことなく調略で、阿波国境の「山岳武士」たちを味方に付けていたことは以前に次のようにお話ししました。
A 阿波国西部の祖谷地方などの「山岳武士」たちを豊楽寺への信仰で組織し味方に引き入れていること。祖谷山衆も天正年間初期には、掌握していたこと。
B  『祖谷山旧記』には、長宗我部元親の指令に応じて祖谷山衆が「さたミつ(貞光)口」へ侵攻していること。
C 天正7(1573)年12月の岩倉城をめぐる攻防戦の際の長宗我部元親の感状に木屋平氏の軍忠を「暦々無比類手柄共候」と賞していること。つまり、木屋平氏が長宗我部元親の傘下で働いていたことを裏付けられます。
 長宗我部元親は土佐国境の祖谷山衆を天正年間の初めには配下に置いていたと研究者は判断します。そうだとすると、阿波と土佐の国境附近では戦闘は行われず、無傷で土佐軍は大歩危・小歩危の難所を、祖谷山衆の手引きで越えたことになります。

 このあたりのことを「元親記」は、次のように記します。

天正四年、元親は大西(白地城周辺の地名)入りの評議をしたが、「大西への道筋は日本一の難所で、力態に越さるる所に之無く(中略)先ず覚用を繰りて見んとて(「元親記」)」、
ちょうど覚用の弟了秀が出家し、土佐国野根の万福寺住職であったので、この了秀を遣わして和議を申込ませた。

しかし、これを史料で確認することはできません。 以前に紹介した長宗我部元親が大西覚用を味方に引き入れるため栗野氏に宛てた書状を見ておきましょう。(意訳)
今までは連絡を行う事ができなかったが、今回初めて書簡を送る。現在の阿波国は、相争い国が乱れた状態にあり、辛労を察する。ついては、これより今後は、別書に誓った通り、御入魂を傾け吾のために働くことを願う。なお、大西方・三好安藝守の和睦仲介について、尽力していることは喜ばしい限りである。重ねて使者を差しだし、双方を我が方に引き入れるように活動していただきたい。また御太刀一腰・馬一疋を進覧いただいたことは、祝儀である。猶委山口上含候可得御意候、恐慢謹言、
十一月廿三日       (長宗我部)元親(花押)
栗野殿人々御中
ここに登場する栗野氏は、「古城記」の三好郡部分に記載されている「栗野殿 十六葉菊三」のことと研究者は考えています。
白地城周辺
白地城の西の粟野屋敷

このように、大西覚用の重臣たちを密に味方に引き入れ、彼らを通じて和睦交渉を進めていたことが分かります。つまり、大西覚用は、家臣団を切り崩された状態にあったことになります。これでは戦えません。
このような情勢を讃岐の香西成資の「南海通記」は、次のように記します。

 阿波国ノコト三好長治政ヲニシ国内ノ諸将威勢と謡ヒ、親族ノ者モ皆離れて長治ニ服せず。故ニ南方が羈縻ニ属す。大西ハ猶以テ土佐二近シ。隣国ノ好ヲ以テ土州二一意シハバ互いの悅之ニ過グベカラズ。今阿州の人心ヲ思フニ大西ニ事アリトモ誰カカッ合スペキヤ。却テ大西ヲラントスル者多カルベシ。コノ程ヲ思量シテ和親ノ約ヲナシ玉ハバムッマジキガ中ニモ猶ムツマジク成テ大西領地モ広マリ繁栄ナルベキコトコノ時ニアリ。

意訳変換しておくと
 阿波国については三好長治の代になって、国内諸将の支持を失い、親族も皆離れて長治に従わなくなった。そのため阿波南方は土佐軍に奪われてしまった。一方、白地城の大西覚用は、土佐国境に近く、長宗我部元親と隣国のよしみもあって、敵対関係はなかった。そこで大西覚用は次のように考えた「白地城が長宗我部元親に攻められても、三好氏が救ってくれることはないだろう。そうだとすると三好氏を捨て長宗我部元親と和睦するほうが、大西の領地も拡大し、繁栄する道につながる」

香西成資の南海通記は、長老の伝聞と阿波や土佐の軍記ものを参考に書かれたものなので、曖昧なことや誤謬も多いことは以前にお話ししました。この部分も阿波の編纂史に頼った記述内容となっています。しかし、当時の情勢をよくつかんでいるように思えます。町史などを記述する立場であれば、こういう記事に頼りたくなるのは当然だと思います。
 大西覚用の立場になって考えて見ると、三好長治の失政のため阿波の政局は混乱し、三好氏内部も二分して争う状況です。阿波南方の海部城は落城しましたが、三好氏はこの奪回に手をかそうとしません。こうした動きを見ると、三好氏に頼ることは危険に思えてきます。そこで頼りとするのが毛利氏と長宗我部元親です。大西覚用が元親と交渉を持つ一方で、中国の毛利氏に文書を送っていたことや、讃岐に独自の利権を持つようになっていたことは以前にお話ししました。こうして、大西覚用は戦わずして長宗我部元親の軍門に降ります。元親記には、大西覚用を味方に引き入れたときの長宗我部元親の反応を次のように記します。

「先此大西(白地城)さへ手に入候へば、阿讃伊予三ヶ国の辻にて何方へ取出すべきも自由なりとて、満足し給ひけり。」

 阿波・讃岐・伊予への進入路となる白地城の大西覚用を味方に付けたことの戦略的な重要性をよく認識しています。元親にとっては「大西覚用を手繰りてみん」という謀略の一環だったのでしょう。

阿波大西氏5

 ところが何があったのかはよくわかりませんが大西覚用は、長宗我部元親をすぐに裏切ります。
その寝返りの理由とされるのが、畿内の三好康長(笑岩)からの書状だとされます。当時畿内では、織田信長が「天下布武」に向けて足固めを行っていました。天下人に近づく信長に従って各地で転戦するようになったのが河内国高屋城主三好康長(笑岩)です。康長(笑岩)は、阿波国内の城持ち衆に、信長の意を汲んだ書簡を送りつけてきます。そこには次のように記されていました。

 来年(天正六年) 我信長公は大軍を挙げて阿波に出陣、土佐方へ奪取所の南方を取返し、阿波を安堵す。ついては阿波国中の城持衆は、力を合せて敵(土佐軍)に抵抗し、その領地を護り、信長軍の来軍に備えよ。

 大西覚用は、この書簡を受けて長宗我部元親を裏切り、三好側に寝返って戦いの準備を始めたとされます。
この決定で困難な立場になったのが人質として元親のもとにあった大西覚用の弟・上野介です。
普通だと切腹です。ところが元親は深謀を発揮して、上野介の一命を助けます。そのことを元親記は次のように記します。

「覚用に捨てられたる人質上野守は已に気遣に及ぶ。元親卿より上野方へ有使。身上心安致すべし。其方に対し毛頭別儀無之助置て上る。其より上野をば家人同前に心易居候へと宣て弓鉄砲を免じ鳥など打遊山せよと宜し也」

意訳変換しておくと

「兄の覚用に捨てられた人質上野守は、切腹を覚悟した。ところが元親卿よりの使者は、身上心安くすべし。その方に対しは何の責めも危害も加えない。これよりは上野を家人同様にあつかうので、そう心易よ。今まで通り、弓・鉄砲で鳥などを狩猟することも許す」

上野介はこの恩義に感激して、元親の西阿進攻に犬馬の労をいとわないことを誓います。そして白地城落城に大きな功績をあげたと軍記ものには詳しく活躍が記されます。そのため上野介はある意味では、英雄譚のように語られることになります。上野介が登場するシーンは、注意する必要があるようです。

天正五年(1577)3月 讃岐で毛利軍が丸亀平野南部の元吉城(櫛梨城)に入り、三好氏の率いる讃岐国衆と元吉合戦が戦われる4ヶ月前のことです。
勝瑞城を出奔して仁宇谷に拠った細川真之を攻めた三好長治が、逆に細川方の急襲で、長原で戦死してしまいます。
 長治戦死という事態を知った長宗我部元親は、このチャンスを見逃しません。上野介を道案内兼参謀として、西阿波に侵攻します。この様子を池田町史で見ておきましょう。

白地城では、年老いた頼武が、戦いに疲れ病弱の身を城内で起き伏していた。城主である頼武の子・大西覚用は、長宗我部軍の侵攻の近いことを知って、勝瑞の三好氏や、畿内の三好軍に援軍を求めた。しかし、勝瑞の三好方は長治の戦死でそれどころではなかった。信長の大軍をたのんで応援にかけつけるはずだった高屋城の三好康長(岩)も信長も、紀伊の雑賀党の鉄砲隊に悩まされて、身動きできない状況だった。

つまり、孤立無援のまま長宗我部元親と戦わなければならないことになります。
大西覚用は、土佐軍への迎撃体制を次のように整えたと池田町史は記します。
①白地域をとりまく城を移築し、有力な武将を配置した
②土佐の正面にあたる山城谷の尾城を移築して、弟大西京進穎信を城主とし、老臣寺野源左衛門を補佐させます。
③白地城をとりまくように大利城(城主大西石見守)、天神山塁、漆川城(城主大西左門衛尉頼光)、中西城(城主東條隠岐守)馬路城、佐野城、さらに三好町の東山城と守りを固めた。
④急を告げる狼煙の道が、三名の茶園の休場→天神山城→根津木越→越の田尾→田尾城→大利城→白地城と整備された。
一方、雲辺寺文書の中には、次のような年紀不明の大西覚用の「馬借用」書状が残っています。

大西覚用から雲辺寺への借用書
  年紀不明の大西覚用の「馬借用」書状
 馬数入候問四五日逗留候てかり申す可く候 くら(鞍)をきて下さるべく候 態此者参らせ候やがてやがて返し申す可く候 恐々謹言
閏七月十二日             (大西覚用) 覚(花押)
俊崇坊
雲辺寺 
意訳変換しておくと
 荷馬が緊急に必要なので四、五日逗留して借用(徴用)を申しつける。鞍を付けておいてくれれば、配下の者を使わし連れて帰る。馬は後日改めて返還する 恐々謹言
閏七月十二日
                                 (大西覚用)覚(花押)
俊崇坊参
雲辺寺 
ここからは次のような情報が読み取れます。
①日付が閏7月12日とあり、閏年が7月にあったのは天正3(1575)年で、白地落城の二年前
②そのころの大西氏は讃岐へ出兵しているので、そのための荷馬借用を命じるものか
③あるいは、土佐軍侵攻近しというので、そのための準備か
④雲辺寺に馬が何頭も飼育されていたこと
⑤馬の借用依頼文だが、一種の軍事微発ともとれる。
⑥当時の雲辺寺の責任者が「俊崇坊」で、坊連合による寺院運営が行われていたこと
⑦雲辺寺には自衛のために僧兵・軍馬がいて、大西覚用の影響下にあったこと
 この手紙によって馬が借りられたかどうかなどは分かりません。しかし、長宗我部元親との戦いに備えて、大西覚用が戦備を整えている様子がうかがえます。

これに対して、白地城攻略の先兵を命じられたのが大西覚用の弟大西上野介です。
上野助は、国境の豪族や、白地城の一族や武将たちへ開者を放ち、三好家頼むに足らず、元親と和平することこそ大西家を保つ道であると説かせます。そして、一族や家臣団の戦意を削ぎます。
天正5年5月下句、土佐軍は味方に付けていた阿土国境の三名士(藤川大黒西宇三氏)の先導で国境の大難所も容易に通過して、白地山城と言われた田尾城に殺到します。土佐軍は、竹の水筒に、煎麦の粉(オチラシ)を糧食として腰に下げた歴戦の3000人余でした。 

阿波田尾城2 大西覚用
白地山(田尾)城
白地山(田尾)城の戦いについては、阿波や讃岐方の軍記ものである「阿波志」・「南海通記」・「四国軍記」「大西譜略」等の軍記ものをまとめて、池田町史は次のように記します。

 第一日目
三千人の土佐軍は、三百人余の城兵が守る田尾城の南方正面から攻撃を開始した。しかし、このことあるを覚悟していた城方は鉄砲を並べ、矢を連ねてこれを防いだ。老いたりとは言え寺野源左衛門の用兵は見事に功を奏し、小城とあなどって攻めかけた土佐軍の戦死する者数を知らず、たちまちの尾根は屍の山を築き、後世まで屍の田尾と呼ばれるようになったほどだった。田尾城から屍の田尾に至る畑の中にも点々と戦死者お残っています。こうして土佐方の第一日目の攻撃は完全に失敗した。

阿波田尾城 大西覚用
阿波田尾城

 第二日目
上野介は、このままだと損害が大きくなるばかりであると考え、手からの夜襲を献策した。田尾城の北側は、険しい谷になっているので、恐らく、守りも手薄であろうと考えたのであるが、それ以上に、夜の戦いであれば、かねて意を通じてある城内の武士が土佐軍に味方して動き易くなるであろうと考えたのであろう。
 その夜、主力は火を並べて、正面からの夜翼の気配を見せ、上野介は五、六十名を引きつれ乾いた熱を手に手に搦手に回った。夜が更けて、正面の恒火も一つずつ消え、物音も静まって夜のしじまがやって来た。城中では第一日の勝利に、土佐軍は夜襲をあきらめたものと警戒を解き土張を枕にまどろむ者もあった。
阿波田尾城3 大西覚用
阿波田尾城

 夜半を過ぎたころ、搦手の上野介の兵士は、乾いた煙に火を放ち、どっとときの声をあげて城内へ殺到した。これに呼応して正面からも一時にかん声をあげて城内へ突入していった。城内では、もう夜はないものと安心していただけに、混乱の樹に達し、内通者の動きも混乱を一層大きくした。
 すっかり戦意を失った城内の兵は、勝手知った暗闇の退路を相川橋に向かって走った。わずかの兵に守られた右京進頼信と寺野源左衛門→相川橋にたどりつき、橋をこわして白地域に向かって退却していった。三千人の土佐軍は、これを追って相川橋方面へ進んだが、暗さは暗し、慣れない山道で、小谷に落ち、崖からころぶ者数を知らずという状況だった。ことに橋のこわされていることを知らない土佐軍が一度に相川橋に押し寄せたため、後から押されて伊川に落ちて溺れる者も多かったという。
 相川橋付近の狭い土地に三千の兵がひしめき、勝ち戦とは言え、土佐軍も一時混乱に陥っていたが、やがて主力を大和川に集結し、右翼を下川に、左翼を馬路付近に集め、白地本城攻撃の陣形をたてなおしていった。

白地城 大西覚用 池田町史
白地城(池田町史)
3日目

 一夜明けると白地城の中は大騒ぎとなった。これほど早く田尾城が落ちるとは思っていなかったのである。頼武は老弱であったので覚用が、さっそく土佐軍を迎えうつ軍議を開いた。ところが、「土佐方と和議を結ぶべし」という意見が出て軍議はまとまらず混乱に陥った。上野介の説得が開者によって広く将兵の間に浸透していたのであろう。
「元親公は決して大西を敵としているのでなく、めざすのは三好氏であり、勝瑞の十川存保である。それに、元親公は、普通であれば当然断罪に処せられているはずの上野介様を大切に扱われ、その上野介様は今度の戦いには参謀格で来ておられる。和議を結んでも決して悪いようにはなるまい。」という和平派の主張は将兵の耳に快く響いたに違いなかった。
 和平派が大勢を占めたため、大西覚用は小数の部下と家族をつれて増川(三好町)の東山城に逃れた。東山城も安住の地でな家族を増川に残し、弟長頼の居城である讃岐の城へ落ちて行ったのである。こうして、土佐軍は白地城を無血占領し、白地の台は元親の将兵が満ち満ちたのである。白地落城が伝わると佐野城も馬路城も、川崎城も戦わずして開城し、思い思いに落ちていった。
 白地城2

以上が「阿波志」・「南海通記」・「四国軍記」「大西譜略」などに書かれていることをまとめたものです。田尾城攻防戦の様子がなどが見てきたように描かれています。しかし、これらは蜂須賀藩の時代になって書かれたもので「反長宗我部元親」「阿波郷土防衛戦」の色彩が強く出ていることは以前にお話ししました。ちなみに土佐側の史料や軍記ものには、白地城に至るまでに抵抗があったことは記されていません。これは讃岐における長宗我部元親の西讃侵攻時と同じです。侵略された側は、我が軍はこれだけの抵抗を行い多くの犠牲者を出したと記します。しかし、それは土佐側の史料には記されていません。実際に激しい抵抗があったのかどうかは分からないと研究者は考えています。それは、後の上野助の行動を見ると分かります。また大西覚用は後に、婚姻関係で結ばれていた讃岐の麻口城の近藤氏のもとに落ちのびていきます。その後は再度、長宗我部元親の下で働くことになるのです。もしここで大西覚用が激しい抵抗をした場合には、二度目の帰順は許されなかったと思います。
 「長宗我部元親の四国平定の際の軍事戦略について、野本亮氏は次のように記します。

急峻な四国山地を一領具足を主力とした数万の軍勢が越えるのはほとんど不可能に近く、武器・弾薬・食料の輸送という面から見ても現実的ではない。阿・讃・予における元親の勝利の陰には、土佐方に内通、もしくは積極的に協力した同盟者の存在が第一であり、彼等の利害関係に乗じる形で契約を結び、兵と物資の支援を受けたと考える方が無理がない」

長宗我部元親の基本戦術は、「兵力温存・長期戦になっても死者の数をできるだけ減らす」「交渉によって味方に付ける」であったことは以前にお話ししました。阿波や讃岐側の軍記ものの記述は、長宗我部元親の戦術に反するものです。
 こうして白地城をはじめ、阿波と伊子、土佐の大西方の城はすべて落城します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
池田町史156P 白地城落城と大西氏滅亡
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長宗我部元親の阿波侵攻1
ふたつの方向から阿波に侵入した長宗我部軍
戦国末期の阿波情勢 1573~76

天正3(1575)年に土佐国内を統一した長宗我部元親は、阿波に対して南部(海部郡)と西部(三好郡)の二方面から侵攻します。阿波南部への出兵時期に関しては、「元親記」に天正3年秋と記されています。しかし、現在一次史料で確認できるのは天正5年になるようです。長宗我部軍の阿波侵攻については、これまでも何回か見てきましたが、今回は一次史料で押さえておきます。テキストは「山下知之 戦国末期阿波国の政治情勢と阿波三好氏権力 四国中世史研究NO15 2019年」 です。

日和佐城

この時期の阿波南方領主の動向を示す史料として、海部郡内の日和佐肥前守に宛てた長宗我部氏方の起請文があります。
【史料3】(「高知県立歴史民俗資料館所蔵旧浜家文書」)
今度当方帰参之儀、尤珍重存候、自今以後猶以忠節御覚悟専用候、然上者御進退等儀、不可有疎意候、若此旨於偽者、 弓矢八幡・愛宕山殊氏神可蒙御罰者也、傷起請文如件、
天正五(1577)年 十一月十七日           香宗我部安芸守  親泰(花押)
日和佐肥前守殿
同新次郎殿
この史料は、香宗我部親泰(元親の甥)が日和佐氏の長宗我部氏への「帰参」に際して、今後は忠信を誓うことを誓約させたした起請文です。親泰は海部郡内への侵攻後、攻略した海部城に入城し、周辺領主への調略を図っていたことがうかがえます。これが長宗我部の日和佐方面の軍事行動が最初に見える史料のようです。
 翌年9月には、長宗我部元親自らが日和佐肥前守に起請文を発給して同盟関係を強化しています。天正5年から翌年にかけて阿波南方における長宗我部氏の勢力範囲は、香宗我部親泰の指揮のもとに拡大したことが裏付けられます。調略が順調に進んだ背景には、天正4年に三好長治と対立して阿波南方へ出奔した旧阿波守護家細川真之の強力があったと研究者は考えています。長宗我部氏が反三好方の細川真之を何らか利用しようとした可能性はありますが、両者の連携を史料で裏付けることはできません。

白地城2
大西覚用の白地城
次に、長宗我部氏の阿波西部(上郡)への侵攻を見ていくことにします。
この方面では三好郡内の白地城の大西覚用との役割が重要です。しかし、彼に関する一次史料はほとんどないようです。ウキは大西覚用について、次のように記します。

大西覚用は三好長慶の妹を娶り、三好家と密接な関係を築きあげ、白地城を拠点に阿波・讃岐・伊予の辺境地帯を支配した。阿波国における三好氏の勢力が後退し、土佐長宗我部氏が台頭すると、四国の中央に位置する白地城は四国統一を目指す長宗我部元親の攻勢にあう。城主の覚用は、一族の大西頼包を人質として一旦は和議を結んだ。しかし、三好氏が織田氏に援軍を頼み長宗我部氏に対し対決姿勢を鮮明にすると、覚用は三好笑岩の求めに応じ、和議の条件を破り戦闘準備に取り掛かった。それを知った元親は、まずは阿波の三好軍を破り、続いて天正5年(1577年)白地城の支城・田尾城をわずか2日で攻め落とすと、覚用は讃岐国麻城へ逃げ延びた。天正6年(1578年)には麻城も落城し、覚用は元親に厚遇されていた頼包の勧めに応じて降伏した。阿波に戻った覚用は、三好方に服属している重清城城主で娘婿の重清長政を頼り、長宗我部への降伏を勧めるも拒否されたのでこれを謀殺した。覚用は元親より重清城の守備を任せられるが、程なくして三好方の十河存保の反撃を受けて敗死した
白地城と大西氏
三好郡の阿波大西氏

「元親記」には、次のように記します。
①天正四年に大西覚用は長宗我部氏の調略に内応するが、その後離反し、翌年長宗我部氏の大西攻めで覚用は讃岐の麻口城の近藤氏の元へ落ちのびた。
②一方、大西覚用の弟・上野守〔介〕頼包?)は、阿・讃・予州の境目で長宗我部氏に対し忠功を励んだ。
③その後、長宗我部氏が重清城(美馬郡)を攻略し、その際に岩倉城主三好式部少輔が降伏した
これらを、一次史料で見ておきましょう。
前回に見た史料「(天正5年)二月付大西覚用・同高森書状」には、前回に見たように毛利氏に対して接近し「隣国表(讃岐国)第一申合候」とあって、この時期に長宗我部氏の侵攻の気配を窺うことはできません。従って阿波西部への侵攻は、天正5年以後と考えられます。
次の史料は、長宗我部元親が三好式部少輔に宛てた書状です。
【史料④】(天正6(1578年)十月十三日長宗我部元親書状「長宮三式少 御宿所  一九親」

尚々虎口之様林具可示給候、脇上・太丹へも此由申度候、①先度至南方被示越即御報申候き敵動之事、②頓而引退之由御飛脚日上之間、乗野方之儀も堅固申付、為番手昨日打入候、③然者又自勝瑞十日二相動候由大西方注進候、ホ今居陣候欺、於事実者加勢之儀不可移時日候、⑤将亦大西之儀覚用下郡被取組之由候、⑥大左・同上此方無別義趣共候、乍去彼邊之事弥承究機遣緩有間敷候、⑦定而敵表之儀為指事雖不可在之候、御手前堅固御武略肝要候、猶追々可申入候、恐々謹言、
拾月十三日        元親(花押)
三式少御宿所

意訳変換しておくと
三好式部少輔が阿波南方(勝浦郡以南の地域)に対して10月13日に連絡をとった書簡
①返事が出された敵の動きについて、まもなく撤退したという南方からの飛脚の口上があった
②それを受けて10月12日に那東郡桑野についても堅岡に命じ、番手を配置した。
③10月10日には、勝瑞から岩倉表へ軍事行動があったと大西から注進を受けた。
④現在も居陣しているのか、事実であれば早期に加勢を派遣したい。
⑤大西の動向について、大西覚用が下郡と戦闘に及んでいるとのことである。
⑥「太左」「同上」は、長宗我部氏に別儀ない様子である
⑦敵の動きは大したことはないだろうが、三好式部少輔の堅固な武略が肝要である。
⑦虎口の様子を詳しく知らせて欲しい。
⑨「太丹」「脇上」へもこの旨を伝えたい。」
宛所の「長宮三式少 御宿所 」は美馬郡岩倉城主の三好式部少輔(三好康長の一族?)とされます。ここからは長宗我部元親と式部少輔の間で阿波国内の戦況についての連絡が交わされていたことが分かります。つまり、岩倉城は毛利方が握っていたことになります。内容としては、
①元親が阿波南方の「敵動(三好勢の動き)を受けて桑野城の守備を命じ、番手を配置したこと、
②勝瑞(三好氏本拠)から当月十日に軍事行動があったことが大西(三好郡の大西覚用?)注進があり、現在も三好勢の居陣の事実があれば、すぐに加勢をすることなど
以上からは、三好勢と長宗我部勢との間には、南方や上郡で交戦状態にあったことが分かります。
③大西氏の動向に関しては「大西之儀、覚用下郡被取組之由候」とあり、大西覚用が「下郡」(三好勢)に与していることに対して、「太左・同上此方無別儀趣共候」とあることから、大西左馬頭長頼と大西上野介頼包は、長宗我部方であったことが分かります。
④「このような情勢のもとに元親は、岩倉城主三好式部少輔に対し堅固な武略を求めるとともに、「虎口之様躰」についての教示を依頼しています。
史料⑤の年次については、勝端の三好氏の軍事行動から判断して天正6(1578)年と研究者は判断します。
以上からは、天正6(1578)年前後について、次のような事がうかがえます。
A この時期の長宗我部氏の勢力範囲が南部では那東郡桑野周辺まで、西部では三好・美馬両郡(上郡)に及んでいたこと
B これら地域で三好氏勢力と交戦状態にあったこと、
C 上郡では、大西氏(覚用を除く)をはじめ三好式部少輔、武田氏等が長宗我部氏に従属していたこと
 .次の史料は、岩倉表(美馬郡)での三好氏と長宗我部氏との合戦の様子を伝えるものです

岩倉城2
岩倉城(脇町)
【史料⑤】(「藩中古文書」穂出5郎右衛門蔵)    38P
今度於岩倉表不慮儀、不及是非□、渡辺源太差越候処、関二相帰国候、然者左右延引候、然処二従其方人数可被越之旨、従両所中被申越候、誠不始千今儀快然候、此表之儀、敵於相働者、以一戦可討果候、兎角其方ョリ馳走段、可為喜悦候、恐々謹言、
正月朔日              (三好存保)義賢判
穂出五郎右衛門尉殿
これは、三好義堅(存保)が紀伊雑賀衆の穂出氏に宛てた書状(写)です。この時期、三好氏と穂出氏などの紀州雑賀衆が「反信長」で団結して軍事行動していたことがうかがえます。この史料で研究者が注目するのは、「今度於岩倉表不慮儀」です。これは三好氏が岩倉表で長宗我部勢と戦い、敗退したことを示しています。
 この合戦については、同時期の麻植郡山間部領主の木屋平越前守に宛てた長宗我部元親書状にも「今度於岩倉被及一戦、彼表へ歴々無比類手柄共候」とあります。元親は従軍した木屋平氏の戦功を賞しています。これがいつだったかについては、「元親記」などから天正7年末~天正8年のことと研究者は考えています。ここからは三好氏の勢力範囲が、本拠地の勝瑞に向かって後退を続けていることが見えて来ます。
 この時期の長宗我部元親は、阿波国内への侵攻作戦と同時に、織田信長との関係強化を図ります。
(天正6年)十月の(A)織田信長書状写や(B)同年12月の長宗我部元親書状には、信長から元親嫡男弥三郎(信親)への偏諄授与のことが記されています。
(A)の信長書状写に「阿州面在陣尤候」
(B)の元親書状には「阿州之儀、調略不存由断候」
とあるので、長宗我部氏は織田信長との関係を強めながら、織田権力を背景に隣国への侵攻と調略を進めたことがうかがえます。この時期の三好氏は、国内で長宗我部勢と対戦する一方で、毛利氏らと大坂本願寺を支援して織田権力に対峙していたと研究者は判断します。
以上 1576年から77年までの阿波三好氏を取り囲む情勢を史料でみてみました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
山下知之 戦国末期阿波国の政治情勢と阿波三好氏権力 四国中世史研究NO15 2019年」 

戦国末期の三好氏の動きは複雑で、きちんと一次史料を元に追いかけたものがなくて、なかなか見えて来ません。そんな中で、史料で基づいて戦国末期の三好氏を追った論文に出会いましたのでアップしておきます。テキストは「山下知之 戦国末期阿波国の政治情勢と阿波三好氏権力 四国中世史研究NO15 2019年」 
戦国末期の阿波三好氏についての研究史を次のように整理します。
A 藤田達生氏
織田・三好両氏の関係に着目して信長の東瀬戸内支配の推移を明らかにする中で、信長の三好氏に対する政策を信長の統一戦の観点から論じている。

B 天野忠幸氏
藤田氏の研究を批判的検討し、阿波三好氏の動向を分析しつつ、信長の四国政策を段階的に捉え、その変遷を信長の統一戦に位置づけた。さらに三好好長治・存保・神五郎兄弟(実休三子)の動向を跡づけて、織豊期の阿波三好氏の歴史的評価を行った。

C 中平景介氏
信長の四国政策を論じる際に三好存保ら阿波三好氏の動向が十分に整理されていないとして、三好存保の動向を追究して信長の四国政策の意味を捉え直した。

各氏の研究は、信長の統一戦とからめて三好氏を見ているところに共通点があります。一方、阿波三好氏については、当主の存保の捉え方にそれぞれ異なった見解があるようです。存保をどう評価するかが、阿波三好氏の歴史的評価と結びつくことを押さえておきます。

研究者が対象とするのは、次の9年間です。
A 天正4年(1576)末以後、阿波三好氏の当主長治が自害に追い込まれた年
B 天正13年(1585)の羽柴秀吉による四国平定まで
この9年間を、次のような4つの視点で捉えようとします。
①長宗我部氏の侵攻とそれに対する阿波三好氏(当主存保)との攻防
②織田権力による統一戦と、対立勢力の毛利氏・大坂本願寺等との交戦
③「織田 対 毛利・本願寺」抗争の中で、三好氏もその対立抗争に巻き込まれたこと。
④信長亡き後、長宗我部氏の攻勢が強まる中で、三好氏が羽柴秀吉との関係をどうするか
渦巻く情勢の中で阿波国衆は、もはや三好氏一辺倒ではなくなっていきます。三好方か長宗我部方につくかの判断をそれぞれ求められ、異なった軍事行動を取るようになります。この時期になると、阿波国内は三好氏支配下に一元化されていたわけではないようです。阿波国の政治情勢は、中央権力の動向と密接に関係しつつ、阿波をめぐって複雑な様相を見せていたことを押さえておきます。

研究者は9年間を、さらに次のように3期に時期区分します。

戦国末期の三好氏時代区分表

A 第一期(天正9年1月以前)
三好長治没後、三好(十河)存保(長治弟で讃岐十河家を継承)が阿波に入国し、阿波三好氏の家督を継承したとされる天正6年の前年から、織田信長による三好康長の阿波派遣が史料に見える
B 第2期 天正10年9月頃まで
康長の阿波派遣から、三好存保が長宗我部氏に中富川の合戦で敗れ、讃岐に退去する
C第3期は 天正13年8月まで
中富川合戦以後、羽柴秀吉による四国平定が終結し、新国主蜂須賀家政が入封する

今回はAの時期を見ていくことにします。
三好(十河)存保入国前後の阿波の政治情勢      讃岐国元吉合戦と阿波三好・毛利両氏の関係
次の史料は、阿波西部の白地城城主・大西覚用が毛利氏と結んでいたことを示すものです。
【史料①】(「乃美文書」)
先度同名越前守以書状申入候之処、御懇報畏悦存候、如仰就御入洛之儀、去年以来今村紀伊守方申談候之筋目、隣国(讃岐)表第一申合候、無相違御才覚専用候、猶於時宣者口上申候之条、可被成御尋候、恐々謹百、
(大西)覚用 (花押)
(大西)高森  (花押)
(天正五年)二月廿七日               
吉川駿河守(元春)殿
福原出羽守(貞俊)殿
日羽下野守(通良)殿
小早川左衛門助(隆景)殿 まいる御宿所
  この書簡は、白地城の大西覚用とその息子の高森が毛利氏重臣の小早川隆景などに宛てたものです。
ここからは次のようなことが読み取れます。
①足利義昭(備後国鞆に滞在)の入洛について、今村紀伊守と相談している
②その実施については「隣国表」(讃岐国)の情勢を第一に考えることを申し合わせているので不確定である。
③文面からは、これまでに両者の間に書状が交わされていたことがうかがえる
以上から、白地城の大西覚用が毛利氏と相談しながら足利義昭の入洛のための軍事行動の準備を進めていたことが分かります。かつて大西氏は、三好氏に従軍し讃岐西部へ侵攻を繰り返し、領地や利権を得ていたことわお話ししました。しかし、この時期は三好氏と毛利氏は備中をめぐって対立関係にありました。その毛利氏と大西覚用が緊密な関係を結んでいることを、どう理解すればいいのでしょうか? 三好氏の指導力が低下する中で、西讃への進出を計る大西覚用は毛利氏と結ぶという独自の外交政策をとって、三好氏から離反していたことが考えられます。

 翌年の元吉合戦の際にも、元吉城を攻めたのは丸亀平野以東の讃岐国衆と三好氏です。そこにも大西覚用や近藤氏の名前はありません。ここからも、大西覚用は三好氏の支配から脱して、「親毛利」という独自の歩みをはじめていたことが裏付けられます。このように天正4~5年にかけて、阿波国内の領主の中には大西覚用のように毛利氏と連携する動きがあったことを押さえておきます。

三好長治没後の天正5年(1577)間7月に、讃岐の元吉城(琴平町櫛梨)で三好氏配下の「讃岐惣国衆」と毛利勢との間で元吉合戦が戦われます。
この戦いは何度もお話ししたので、ここでは概略だけ押さえておきます。
 この時期の毛利氏は、石山本願寺支援のために信長との対立を深めていく時期です。天正4(1576)年7月に、村上水軍などの毛利配下の水軍は、紀伊雑賀衆と連携して木津川河口で織田方の水軍を破り、大坂本願寺に戦略物資を搬人することに成功します。こうした中で、毛利氏は三好氏勢力下の讃岐国に進出します。
毛利氏の西讃経営戦略と元吉合戦

三好氏の家督を継承する三好存保がまだ阿波に入国していない時期です。
元吉合戦後の和睦について、小早川隆景は次のような文書を発給しています。
      【史料2】「厳島野坂文書」
追而申入候、讃州表之儀、長尾・羽床人質堅固収置、阿州衆と参会、悉隙明候、於迂今阿・讃平均二成行、自他以大慶無申計候、(中略)
(天正五年)十一月二十日             (小早川)隆景(花押)
棚守方近衛将監殿
同左近大夫殿御宿所
  この史料からは次の情報が読み取れます。
①11月20日以前に毛利氏と三好氏の和睦が成立したこと
②讃岐惣国衆の長尾氏・羽床氏から毛利方に人質が差し出されたこと
③この和睦によって毛利氏は、阿波・讃岐を平定したとの認識があったこと
私が分からないのは、元吉城を攻めた讃岐惣国衆は「国衆長尾・羽床・安富・香西・田村・三好安芸守」とありました。ところが和睦交渉で人質を差し出したのは長尾氏と羽床氏しか記されていません。香西氏や奈良氏の名前がないのはどうしてなのでしょうか。

和睦成立後、三好氏は毛利氏と連携したようです。
天正6年2月のものとされる小早川隆景書状に次のように記します。

「播州衆現形二付而、諸警団至岩屋(淡路国津名郡)来上、阿・淡・雑賀。大坂申談及行候」

ここからは毛利方が「播州衆現形」(別所長治の挙兵?)に応じて、阿波・淡路・紀伊雑賀・大坂本願寺と連携した行動を取ろうとしていたことが分かります。このような中で三好氏は、元吉合戦後の毛利氏との和睦を経て、反織田戦線に加わったと研究者は判断します。

十河存保の阿波入国に際しては、毛利方の史料に次のように記します。

「阿州十川〔河〕所へ入国為祝儀使僧差渡可然之由、御内儀得其心候」

ここからは、毛利氏が十河存保が阿波に帰って三好を名のることになったことについて、祝儀として使僧を遣わしたことが分かります。ここからも元吉合戦の和睦後に、三好・毛利両氏の関係が良好になったことが裏付けられます。
ここで私が気になるのは香川氏のことです。天霧城退城後の香川氏について、次のように私は考えています。
天霧城落城後の香川氏

これについて、①②③④⑤については、史料的にも裏付けることができます。しかし、⑥についてはよく分かりません。
以上を整理しておきます。
①戦国末期の三好氏を取り巻く状況は、信長・毛利・長宗我部元親の動きに翻弄される。
②三好長慶や実休の死後、三好家は混乱・衰退期を迎える。
③そのような中で、白地城の大西覚用は三好氏から自立し、独自外交を行うようになる。
④それは讃岐への進出を計ろうとしていた毛利氏と結んで、讃岐方面への勢力拡大を図るものであった。
⑤そのため大西覚用は、毛利氏側に立った政策をとり、元吉合戦にも三好側には合力していない。
⑥元吉合戦の和睦後、毛利氏と三好氏は接近し、反信長戦線を形成した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
山下知之 戦国末期阿波国の政治情勢と阿波三好氏権力 四国中世史研究NO15 2019年」
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讃岐戦国史年表2

1563年に天霧城陥落し、その2年後以降は、香川氏の発給文書が途絶えます。代わって三好氏の重臣・篠原長房・長重父子の発給した禁制が萩原寺の地蔵院などの各寺に残されています。ここからは三好氏による讃岐支配が固まり、天霧城を追われた香川氏は備中に亡命し、毛利氏の傭兵部隊として活動しながら讃岐帰国のチャンスをうかがっていたと研究者は考えるようになっています。三好氏の讃岐制圧によって、讃岐の土地支配権は阿波三好家のものとなりました。その結果、三好家に従って戦った阿波の国人たちが、讃岐に所領を得ることになります。篠原氏の禁制を除くと、阿波国人が讃岐で知行地を得たことを直接に示す史料は今のところは見つかっていません。しかし、その一端を窺うことができる史料を以前に見ました。今回は、阿波白地城の大西氏が、三豊にどのような利権を持つようになっていたかを見ていくことにします。テキストは「中平景介 阿波大西氏に関する長宗我部元親書状について   四国中世史研究NO12 2013年」です。
まず、天霧城退城後の香川氏の発給文書を香川県史の年表で押さえておきます。
1563年8月7日
A 香川之景・同五郎次郎、阿波勢の攻撃を受けて天霧城を退城した時の秋山藤五郎の奮戦に対し感状を発する(秋山家文書)
8月18日 
B 香川之景・同五郎次郎が、三野菅左衛門尉に、天霧籠城と退城の時の働きを賞し、本知行地と杵原寺分を返付することを約する(三野文書)
C 12月6日 帰来秋山氏、財田で阿波の大西衆と戦う(帰来秋山家文書)
1564年2月3日
D 香川五郎次郎、秋山藤五郎が無事豊島に退却したことをねぎらう(秋山家文書)
E 3月~  三好の重臣篠原長房、豊田郡地蔵院に禁制を下す(地蔵院文書)
5月13日 香川之景・同五郎次郎、三野勘左衛門尉に、鴨村の作原寺の領有分を返却
 1565年6月28日 
F 香川之景、秋山藤五郎に、三野郡熊岡・上高野御料所分内の父秋山兵庫助の所領分を安堵し、家弘名を新恩として宛行う(秋山家文書)
1568年 
G  篠原長房、讃岐国衆を率いて備前児島に出陣し、毛利軍と戦う。
この年表からは次のような情報が読み取れます。
①A・Bより1563年8月に、三好氏との攻防戦の結果、香川氏は天霧城を退城したこと。
②C・D・Fから、香川氏はその後も約2年間、三豊を拠点に三好氏に抵抗を続けていたこと
③1565年6月28日を最後に、香川氏の発給文書が途絶える。これは香川氏が讃岐から備中に亡命したことを示す。
④Gから三好氏の重臣篠原長房の備中遠征に、讃岐国衆は従軍し、毛利軍と戦っている。

上の年表のC帰来秋山家文書の感状を見ておきましょう。
A 閏年永禄6年(1563)の香川之景・同五郎次郎連書状 (香川氏発給文書一覧NO10)
一昨日於財田合戦、抽余人大西衆以収合分捕、無比類働忠節之至神妙候、弥其心懸肝要候、謹言閏十二月六日   五郎次郎(花押)
             香川之景(花押)
帰来善五郎とのヘ
意訳変換しておくと
一昨日の財田合戦に、阿波大西衆を破り、何人も捕虜とする比類ない忠節を挙げたことは誠に神妙の至りである。その心懸が肝要である。
謹言閏十二月六日

ここからは次のような事が分かります。
①財田方面で阿波の大西衆との戦闘があって、そこで帰来(秋山)善五郎が軍功を挙げたこと。
②その軍功に対して、香川之景・五郎次郎が連書で感状を出していること
③帰来秋山氏が、香川氏の家臣として従っていたこと
④日時は「潤十二月」とあるので閏年の永禄6年(1563)の発給であること

同じような内容の感状が、翌年の3月20日も香川五郎次郎から発給されています。ここでは、天霧城落城の後も財田方面で「大西衆」と香川氏の戦闘が続き、従軍していた帰来善五郎が軍功を挙げていたことを押さえておきます。
 香川氏の抵抗は2年ほど続きますが、1565年には篠原長房の圧迫を受けて、毛利氏を頼って備中に落ちのびます。そこで傭兵活動を行いながら臥薪嘗胆の時期を送ります。西讃の香川氏の領地は、阿波の武将たちに論功行賞として与えられたのです。この文書に登場する大西衆が、阿波白地城の大西覚用を中心とする一族だったようです。彼らが西讃地方に領地や権益をを確保するようになったことがうかがえます。
阿波大西氏は、阿波三好郡の白地城を中心に讃岐豊田郡・三野郡・伊予宇摩郡・土佐長岡郡にまで勢力を持ったとされる国人とされます。
阿波大西氏についてのまとまった研究としては、以下の2つが挙げられます。
A 田村左源大「阿波大西氏の研究」(1937)
B 池田町史 上巻(1983年、132P~183P)
池田町史 「上・中・下3冊揃(徳島県)」(池田町史編纂委員会編) / エイワ書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

しかし、史料不足のために詳しいことは分かりません。
大西覚用系図
阿波大西氏系図
例えば系譜については、系図・軍記によって違いがあります。大西出雲守頼武と覚用については、親子関係が逆転していたり、同一人物として扱われるなど混乱しています。『池田町史 上巻」は、頼武を親、覚用を子とします。なお、覚用の母は三好元長女(実休妹)とされているので、覚用は三好長治・存保の従兄弟になります。また、大西覚用の妻は三好長慶の妹とされます。三好氏と何重もの婚姻関係を持ち、深いつながりがあったことがうかがえます。

戦国時代の讃岐・阿波の群雄割拠図
天正年間の当主である大西覚用について、ウキの前半部には次のように記します。
「大西 覚用(かくよう)- 天正6年(1578年))は、阿波国の国人領主。出雲守と称す。俗名は輝武。父は大西元高、子は大西頼武(親子が逆転している)
①大西氏は鎌倉時代に荘官として京都より派遣されていた近藤氏が土着・改姓したもの。
②承久の乱で功のあった小笠原長清の子小笠原長経が、守護代として阿波池田に赴任してきた際に小笠原氏に属した。
③南北朝時代には大西氏と小笠原氏は南朝方として戦っていたが、南朝方が不利になると小笠原氏は細川氏と和議を結びこの地を離れ三好と改姓。これを契機に大西氏は小笠原氏より独立、戦国時代には阿波西部の最大勢力となっていた。
④大西覚用は三好長慶の妹を娶り、三好家と密接な関係を築きあげ、白地城を拠点に阿波・讃岐・伊予の辺境地帯を支配した。
⑤阿波国における三好氏の勢力が後退し、土佐の長宗我部氏が台頭すると、四国の中央に位置する白地城は四国統一を目指す長宗我部元親の攻勢にあう。

①~④までについては、軍記ものに書かれている内容で、これを裏付ける史料はありません。しかし、①では、大西氏も従来は近藤氏と名乗っていたとします。
④からは婚姻関係を通じて三好家と大西家は強く結ばれていたことが分かります。三好氏の讃岐制圧戦の先陣を切って、大西覚用が西讃の丸亀平野や三豊平野に侵攻し、領地を確保したことがうかがえます。それをうかがわせる史料が冒頭の財田合戦に出てくる「大西衆」です。

大西覚用の西讃侵攻の「相棒」となったのが二宮・麻の近藤氏です。
中世の近藤氏については、以前にも触れましたのでここでは省略します。

大水上神社 近藤氏系図

近藤国敏は、阿波の三好婦楽の娘を妻に迎えています。この背景には、永世の錯乱によって、阿波細川家と讃岐細川氏が対立し、阿波勢力が讃岐に侵攻してきたことが背景にあります。その先兵が三好氏でした。三好氏の讃岐侵攻は東讃地方では、十河氏を中心に進められたことは以前にお話ししました。それに対して、西讃については三好氏の侵攻制圧過程が史料からは、なかなかたどれません。そのため、南海通記ばかりを見ていると、西讃は天霧城の香川氏の配下にあったと思えてきます。しかし、長尾氏や奈良氏・羽床氏・滝宮氏なども三好氏に従属していたこと、また香川氏は1573年に天霧城を退城後は、備中で毛利軍の「傭兵部隊」として10年近く活動していたことが分かっています。そして、讃岐国衆の安富氏や中讃の滝宮氏などは、三好氏の重臣と婚姻関係を結び、三好氏の遠征に従軍するようになっていたことは以前にお話ししました。そのような流れの中で、三豊の近藤氏を捉える必要があります。
 
三好氏の近藤氏への懐柔策の一つが「近藤国敏は、阿波の三好婦楽の娘を妻に迎えた」という婚姻政策でしょう。
そして、生まれるのが国雅で、大永二(1522)年のことです。国雅の代になると、三好氏との連携強化が進みます。三好氏から見ると西讃制圧が進み、讃岐の国人衆を配下に入れで動員できる体制が整ったといえます。こうして近藤氏は、阿波三好氏に従軍しして動くようになります。これに対して、反三好を旗印とする天霧城の香川氏は、織田信長や長宗我部側につこうとします。こうして次のような関係ができます。
信長と三好氏の対立
         織田信長=天霧城の香川氏 VS 阿波三好氏=麻・二宮近藤氏

永禄三(1560)年、麻や二宮周辺で小競り合いがあったことが秋山家文書から分かります。天霧城主の香川氏から秋山氏に戦功を賞する書状や知行宛行状が残されていることは先ほどお話ししました。麻口合戦とあるので、高瀬町の麻周辺のことだと思われますが、よくは分かりません。この戦いで近藤国雅が永禄三年に討死しています。三好氏の侵攻が天霧城をめざして、じりじりと迫っていることがうかがえます。近藤氏は、この時点で大西覚用と同盟関係にあったことがうかがえます。

次に近藤氏の一族(?)である大平氏を見ておきましょう。
麻口合戦で討ち死にした国雅の跡を継いだのが国祐です。国祐を取り巻く肉親関係は少々複雑です。国祐は大平氏を名乗ります。母親は阿波白地城の大西長清の娘と伝えられ、弟が出羽守国久です。とすると、近藤氏は、当主の嫁を三好氏に続いて、大西家から迎え入れていたことになります。近藤氏の阿波勢力とのつながりが深化していることがうかがえます。

大西覚用が讃岐において何らかの権益を得ていたことは次の史料から分かります。
 次の史料は、1574(天正2)年に京兆家の当主・細川信良が、備後亡命中の香川信景に讃岐に帰国し、反三好的な行動を起こすことを求めたものです。
「【史料3】細川信良書状「尊経閣所蔵文書」
今度峻遠路上洛段、誠以無是非候、殊阿・讃事、此刻以才覚可及行旨尤可然候、乃大西跡職事申付候、但調略子細於在之者可申聞候、弥忠節肝要候、尚波々伯部伯者守(広政)可申候、恐々謹言、三月三日             細川信元(花押)
香川中務人輔(香川信景)殿
意訳変換しておくと
今度の遠路の上洛については、誠に以って喜ばしいことである。ついてはそれに報いるための恩賞として、大西跡職を与えるものとする。但し、調略の子細については追って知らせるものとするので忠節を務めることが肝要である。詳細は伯部伯者守(広政)が申し伝える。恐々謹言、
三月三日                細川信元(花押)
香川中務人輔(香川信景)殿

上洛してきた香川氏に対して反三好的な軍事行動を起こすなら「大西跡職」を与えるとあります。「大西跡職」というものがなんのことか私にはよく分かりません。ただ大西覚用が西讃に持っている権益を香川氏に与えると読み取れます。そうだとすると、大西覚用は三好氏から恩賞として、なんらかの権益を讃岐に持っていたことになります。以上からも篠原氏、高品氏、市原氏、大西氏といった三好氏に近い阿波国人たちが、讃岐に所領を得ていたことがうかがえます。三好氏による讃岐侵攻に従い功績を挙げたため、付与されたと考えられます。一方で、天正年間に入ると阿波三好家は、三好氏に与力するようになった讃岐国人に知行地を与えるようになります。この中には近藤氏も含まれていたことが推測できます。こうして阿波三好氏による讃岐平定は着々と進められて行きます。奈良氏・長尾氏・羽床氏も三好氏の配下となり、香川氏追放後の西讃は三好氏の氏配下にあったことを改めて押さえておきます。そういう視点から見ると、これまでの南海通記に基づいて書かれてきた歴史は辻褄があわなくなってきます。

讃岐戦国史年表3 1570年代

例えば1574年10月に「大西覚養(用)が香川氏を討つために那珂郡へ侵入」とあります。しかし、香川氏はこの時点では亡命中です。そして、奈良氏や長尾氏は三好氏へ従属しています。大西覚用は、二宮や麻の近藤氏と婚姻関係を結び、同盟軍として動いています。すでに10年前から讃岐国衆は三好配下にあるのです。そこに大西覚用が「讃岐侵入」するはずがありません。ここにも南海通記の時代認識の誤りが見られます。

長宗我部元親の阿波侵攻1
 このような中で三好氏の讃岐支配をひっくり返す動きが起こります。それが次の2つの事件です。
A 毛利軍の支援による香川氏の天霧城復帰と元吉城占領
B 長宗我部元親による阿波侵攻
長宗我部元親の阿波・讃岐・伊予侵攻について、野本亮氏は次のように記します。

急峻な四国山地を一領具足を主力とした数万の軍勢が越えるのはほとんど不可能に近く、武器・弾薬・食料の輸送という面から見ても現実的ではない。阿・讃・予における元親の勝利の陰には、土佐方に内通、もしくは積極的に協力した同盟者の存在が第一であり、彼等の利害関係に乗じる形で契約を結び、兵と物資の支援を受けたと考える方が無理がない」

長宗我部元親は、阿波や讃岐でも懐柔策を進めます。『祖谷山旧記』には、次のように記されています。

「土佐国長曽我部宮内少輔元親、四国分国之節、私共六代之曾祖父菅生孫一郎、久保源次郎、西山主殿介三人旗下二加り、土佐并御当日・伊予・讃岐二而知行給候」

意訳変換しておくと

「土佐の長曽我部元親は、四国分国の際に、私どもの六代曾祖父である菅生孫一郎、久保源次郎、西山主殿介の三人が長宗我部元親の旗下に加り、土佐や阿波・伊予・讃岐に知行を得ました」

ここにはいち早く長宗我部元親に帰順した祖谷山衆が、四国各地で知行を得ていたことが記されています。祖谷山間部の土豪を、豊永の豊楽寺の信仰集団に組織し、見方に引き入れた土佐軍は、吉野川上流から大西覚用の白地城に近づきます。そのような中で、長宗我部元親が栗野氏に宛てた書状を見ておきましょう。
十一月二十三日長宗我部元親書状

雖未申入候、令啓達候、
貴国が今不昇平御心
遣令察候、自今以後
別而可得御意候条、於御
入魂者可畏存候、就中
大西方・三好安藝守方
和睦
之儀、此中申試候
殊被添御情由大慶至候、
重而使者差越申義
候之間、双方納得之御助
言所仰候、傷御太刀一腰
馬一疋進覧之候、卿
表御祝儀計候、猶
委山口上含候可得御意候、
恐慢謹言、
十一月廿三日       元親(花押)
栗野殿人々御中

意訳変換しておくと

今までは連絡を行う事ができなかったが、今回初めて書簡を送る。現在の阿波国は、相争い国が乱れた状態にあり、辛労を察する。ついては、これより今後は、別書に誓った通り、御入魂を傾け吾のために働くことを願う。なお、大西方・三好安藝守の和睦仲介について、尽力していることは喜ばしい限りである。重ねて使者を差しだし、双方の納得を得れるように助言していただきたい。また御太刀一腰・馬一疋を進覧いただいたことは、祝儀である。猶委山口上含候可得御意候、
恐慢謹言、
十一月廿三日       元親(花押)
栗野殿人々御中

内容を次のように整理して起きます。
①長宗我部元親から栗野氏への初信で、阿波国内の混乱に言及した上で、今後の従属を求めています。
②阿波大西氏と三好安芸守の和睦を試みていることについて喜び、重ねて調停の使者を派遣するため双方が納得するような助言を求めています。

ここに登場する栗野氏は、「古城記」の三好郡部分に記載されている「栗野殿 十六葉菊三」のことと研究者は考えています。

白地城周辺
阿波白地城と栗野屋敷

白地城から西へ1㎞ほどにある池田町白地字井ノ久保には栗野屋敷という城館跡があり、栗野大膳を祀った塚があります。この栗野氏は白地城主の一族ともされます。この栗野氏の三好郡内における立場がどんなものだったのかはよく分かりませんが、阿波山間部の南朝年号文書に見える南朝武将の中には、粟野三位中将が出てきます。三好部内に子孫を称する家が多数あると「池田町史 上巻115P」には記します。しかし、南朝年号文書については近年は、近世の偽書の可能性が指摘されていて、そのまま信じることはできません。
 ここでは栗野氏が、阿波大西氏・三好安芸守の懐柔に影響力を持つ人物と元親は見ていたことがうかがえます。この後の天正5年に、大西氏・三好安芸守は帰順します。

ウキには、大西覚用の後半部が次のように記されています。
⑥城主の大西覚用は、一族の大西頼包(弟?)を人質として一旦は長宗我部元親に従属した。
⑦しかし、三好氏が織田氏と同盟し、長宗我部氏に対し対決姿勢を鮮明にすると、大西覚用は三好笑岩の求めに応じ三好側に寝返った。
⑧それに対して元親は、天正5年(1577年)白地城の支城・田尾城をわずか2日で攻め落とし、覚用は讃岐国麻城の近藤氏のもとへ逃げ延びた。
⑨天正6年(1578年)には麻城も落城し、覚用は元親に厚遇されていた頼包の勧めに応じて降伏した。
⑩阿波に戻った覚用は、三好方に服属している重清城城主で娘婿の重清長政を頼り、長宗我部への降伏を勧めるも拒否されたのでこれを謀殺した。
⑪覚用は元親より重清城の守備を任せられるが、程なくして三好方の十河存保の反撃を受けて敗死した

この時期の大西覚用の動向を、一次史料と『元親記』『昔阿波物語』「三好記』などの軍記でもう少し詳しく見ておきましょう。
    ⑥については「元親記(上)」には、次のように記されています。(要約)

天正四年(1576)、前年に阿波南部に侵攻を果たした長宗我部元親は大西入りを評議した。当時、大西覚用は土佐の寺院の住持だった兄を通じて元親と音信を交わす関係にあった。このため元親は、覚用を調略し、覚用は甥の大西上野介頼包を元親への人質とした。しかし、その後覚用は三好長治に寝返り頼包を見捨てた。しかし、元親はその後も人質の頼包を重用した。

「大西覚用の兄」については、「芝生大西系図」「阿波志」六に覚用の弟として土佐野根万福寺の僧である了秀の名が記されています。長宗我部元親は修験者をブレーンとして重用して、情報収集や凋落などの外交交渉にも当たらせていたことは以前にお話ししました。ここにも、その一端が見えてきます。

⑦については、元親から離反する前の大西覚用の動向を次のよう史料で確認できます。
この史料は、大西覚用・高森が毛利氏の重臣「御四人」に宛てたものです。
小早川左衛助殿参
吉川駿河守殿御宿所        
先度同名越前守以書状申人候之虎、御懇報畏悦存候、如仰就御入洛之儀、去年以来今村紀伊守方申談候之筋目、隣国(讃岐)表第一申合候、無相違御才覚専用候、猶於時宜者日上申候之条、暉被成御尋候、恐々謹言、
  二月廿七日       (大西)覚用(花押)
                  高森(花押)
吉川駿河守(元春)殿
福原出羽守(貞俊)殿
口羽下野守(通良)殿
小早川左衛門助(隆景)殿
参 御宿所
この史料は、大西覚用・高森が毛利氏重臣「御四人」に宛てたものです。大西越前守からの書状に対する毛利氏の返信を受けての書状で、覚用らが足利義昭の入洛について前年より今村紀伊守と相談し、隣国表(讃岐)を第一とする申し合わせをしていることを伝え、毛利氏にその了承を求めています。内容からは、元吉合戦のあった天正五(1577)年のものと研究者は判断します。
  ここからは前年の天正四(1576)年に、大西覚用が、毛利氏の進める義昭の入洛(織田氏に対する軍事行動)に従軍していたことが確認できます。毛利氏と長宗我部元親の間には不戦条約的なものがあり、準同盟的な関係にあったと研究者は考えています。この頃の毛利氏は「海陸行」と称される対織田氏の大規模な軍事行動を計画していて、大西氏の讃岐への侵攻計画もその一環と研究者は考えています。なお、毛利氏の軍事行動は2月に実施され、讃岐では7月に元吉合戦が戦われています。大西覚用は、天正四年から義昭人洛について協議し、翌5年には毛利氏と連携した讃岐への軍事行動を予定していたようです。しかし、これは長宗我部元親の侵攻で頓挫します。
「元親記』上には、長宗我部氏の大西攻めは、大西頼包の先導によって行われ、在地領主の離反にあった覚用は讃岐三野郡麻城に逃亡したと記されています。西讃府志には、麻城主は近藤出羽守国久で、国久は大平伊賀守国祐の弟と記されています。大平国祐の母は、先ほど見たように大西備前守長清女とされます。その関係で大西覚用は縁戚関係にあった近藤国久を頼って麻城に逃れたようです。なお、覚用弟の長頼も覚用敗死後に麻城に逃れたと西讃府史は記します。

この大西覚用追放の功績で、頼包は元親より白地城の領地を認められます。さらに三好郡西部の馬路を得て、三好郡東部の足代を攻略します。この長宗我部氏の大西侵攻については、一次史料によって4月頃であったことが分かります。

長宗我部元親文書の中に、大西覚用や弟たちが登場するものがあるので見ておきましょう。

長宗我部元親 【史料②】十月十三日長宗我部元親書状
上の右部分の拡大
【史料②】十月十三日長宗我部元親書状 拡大

【史料2】十月十三日長宗我部元親書状
「 (墨引)   長宮
三式少御宿所  一九親」
尚々虎口之様林具
可示給候、脇上・太丹へも
此由申度候、
先度至南方被示越
即御報中候き敵動之事、頓而
引退之由御飛脚日上之間、
乗野方之儀も堅固申付、

為番手昨日打入候、然者又
自勝瑞十日二相動候由大西方
注進候、ホ今居陣候欺、於事
実者加勢之儀不可移時日候、
将亦大西之儀覚用下郡被取
組之由候、大左・同上此方無別
義趣共候、乍去彼邊之事
弥承究機遣緩有間敷候、
定而敵表之儀為指事雖
不可在之候、御手前堅固御武
略肝要候、猶追々可申入候、恐々
謹言、
拾月十三日  元親(花押)
三式少
御宿所
意訳変換しておくと
①三好式部少輔が阿波南方(勝浦郡以南の地域)に対して連絡をとった際に、返事が出された敵の動きについて、まもなく撤退したという南方からの飛脚の口上があった
②そのため那東郡桑野についても堅岡に命じ、十月十二日に番手を配置した。
③勝瑞から十月十日に岩倉表へ軍事行動があったと大西から注進を受けた。
④現在も居陣しているのか、事実であれば早期に加勢を派遣したい。
⑤大西の動向について、大西覚用が下郡と戦闘に及んでいるとのことである。
「太左」「同上」は、長宗我部氏に別儀ない様子である
⑦敵の動きは大したことはないだろうが、三好式部少輔の堅固な武略が肝要である。
⑧虎口の様子を詳しく知らせて欲しい。
⑨「太丹」「脇上」へもこの旨を伝えたい。
宛所の「長宮三式少 御宿所 」は美馬郡岩倉城主の三好式部少輔(三好康長の一族?)にとされます。ここからは長宗我部元親と式部少輔の間で阿波国内の戦況についての連絡が交わされていたことが分かります。書かれていることを、もう少し詳しく見ておきましょう。
①については「御飛脚」と敬意を表していることから、「南方」とは阿波南部で阿波三好氏と敵対していた阿波守護家細川真之を指すと研究者は考えています。
この史料の中で注目したいのは、⑤の大西覚用とともに文中に出てくる⑥の「太左」「同上」です。
⑥のふたりは覚用の弟たちで、(A)大西左馬頭長頼と(B)大西上野介頼包と研究者は考えています。
(A)「太左」=大西左馬頭長頼については、次のように考えられています。
(1)「善正寺系図」(三豊郡史 1921年、328P)では、讃岐三野郡麻城主
(2)「芝生大西系図」(大西徹之「阿波大西氏明視録(その四)」『宇摩史談」八八号)では、讃岐豊田部不二見城主
(3)「日本城郭大系』第15巻160頁は、讃岐三野郡麻口城を「大西左馬守長頼の居城」(典拠不明)
麻口城は、高瀬町史などでは讃岐では麻近藤氏の居城とされています。そこが大西覚用の弟たちの城だったというのです。それほど近藤氏と大西覚用の一族は関係が深かったと言えるのかもしれません。ただ、大西覚用の弟たちが讃岐の城主として活動していることは押さえておきます。
(4)「太左」については、『阿波志』六は、阿波三好郡漆川城主とある大西左衛門尉の可能性もあると研究者は指摘します。
(B)大西左衛門尉は、人質として長宗我部元親に出されていた人物ともされます。
(5)「漆川村大西鎮一所蔵系図」では「大西七郎兵衛 後上野守」、「阿波志」六では「頼包 称上野介」として記され、いずれも覚用の弟とされます。
(6)「元親記」上は「上野守」として覚用の甥、「みよしき」「昔阿波物語」「三好記」では「七郎兵衛」と見え、覚用の弟とします。
⑨の「太丹」「脇上」は、三好式部少輔重臣とされる大島丹波守と岩倉城に程近い美馬郡脇城主の武田上野介信顕と研究者は考えています。いずれも三好式部少輔に近い人物で、式部少輔とともに長宗我部氏に服属し、阿波三好氏と敵対していたようです。

内容としては、次のような事が分かります。
①元親が阿波南方の「敵動(三好勢の動き)を受けて桑野城の守備を命じ、番手を配置したこと、
②勝瑞(三好氏本拠)から当月十日に軍事行動があったことが大西(三好郡の大西覚用?)から注進があり、現在も三好勢の居陣の事実があれば、すぐに加勢をすることなど。以上からは、三好勢と長宗我部勢との間には、南方や上郡で交戦状態にあったことが分かります。
③大西氏の動向に関しては「大西之儀、覚用下郡被取組之由候」とあり、大西覚用が「下郡」(三好勢)に与していることに対して、「太左・同上此方無別儀趣共候」とあることから、弟の大西左馬頭長頼と大西上野介頼包は、長宗我部方であったことが分かります。
④元親は、岩倉城主三好式部少輔に対し堅固な武略を求めるとともに、「虎口之様躰」についての教示を依頼しています。
史料⑤の年次については、勝端の三好氏の軍事行動から判断して天正6年と研究者は判断します。
 内容を整理すると、次のようになります。
A 長宗我部元親が三好式部少輔に対して、阿波三好勢の侵攻があった阿波南方の状況を伝えている。
B 同時に、大西より三好勢侵攻の注進があった岩倉表の状況について問い合わせ、大西覚用ら阿波大西氏の動向についても知らせたもの
この史料は「史料綜覧』巻11に天正四年十月十日条の「阿波三好長治、其将大西覚泰の長宗我部元親に降るに依り、之を攻む」の出典として挙げられているものです。

以上をまとめておきます。
①三好実休の時代には、東讃は十河一存を中心に三好氏の勢力浸透が行われた。
②一方、西讃においては白地城の大西覚用などが三豊地域への進出を行う
③その際に大西覚用は、二宮・麻の近藤氏と婚姻関係を深めながら進出を計る。
④近藤氏の麻口城は、阿波の大西覚用の進出拠点として機能した
⑤そのため周辺では、天霧城の香川氏配下の秋山氏などとの小競り合いが多発した。
⑥しかし、三好氏の重臣篠原長房の西讃制圧によって、香川氏は備中への亡命を余儀なくされた。
⑦以後は、香川氏の領地は阿波国衆に配分され、大西覚用も西讃に領地や利権を得た。
⑧このような中で1577年に、元吉合戦と同時並行で毛利氏支援による香川氏帰国が実現する。
⑨一方、長宗我部元親に従属していた大西覚用は寝返り、白地城を追われ麻口城に落ちのびてくる。
⑩大西覚用と近藤氏は、長宗我部元親の西讃侵攻に対して徹底して抵抗する。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
中平景介 阿波大西氏に関する長宗我部元親書状について   四国中世史研究NO12 2013年
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                  長宗我部元親の阿波侵攻1

長宗我部元親は天正5(1577)年には、海部郡や祖谷山を支配下に収め、さらに池田城主の大西覚用の籠絡にも成功します。大西覚用は元親に甥の上野介を入質として差し出しますが、後に元親を離反し三好方につきます。そこで元親は香宗我部親泰に大将を命じて4月末には池田城侵攻を行っています。その時には、人質であった大西上野介が先導役を勤めています。覚用は敗れて讃岐に逃れ、元親は戦後処理として白地城を築き谷忠兵衛に守らせ、上野介には馬路城を与えます。

白地城

白地城 吉野川水運の終点
この白地の地は、「土佐の豊永と云ふ在所より道のほど二里、讃岐堺(境)なり」(『長元物語』)とされ、土佐国から阿波国に入る玄関口にあたり、吉野川水運の終点でもあり、伊予や讃岐への分岐点で交通の要衝地でした。
天正6年には重清城を陥落させ、翌年の天正7(1579)年には岩倉城を攻略して阿波国西半を手中にします。
岩倉城2
岩倉城(脇町)
   岩倉城は、美馬市脇町の田上にあった城で、文永4年(1267年)に守護としてやってきた小笠原長房が居城としていたとされます。戦国時代に入ると三好康俊が城主となり、脇城と連携して、この地方一帯を支配していました。徳島自動車道の建設に伴う発掘調査では、空堀状の溝や犬走状の遺構が出てきています。本丸曲輪は東西約17m・南北約39m、北側に幅約9mの堀切があります。本丸の周辺には、観音坊や丹波ノ坊など六坊と呼ばれる6つの出城が配され、防御を固めています。城跡北側の真楽寺(真言宗大覚寺派)は、岩倉城廃城後に六坊の1つである北ノ坊に建立されています。

天正7(1579)年のこととして『元親記』には、次のように記します。

「大西の下郡へ打出でらるる処、三好も大西の下、重清と云ふ城まで打出で、川越に戦あり。大西上野守・久武内蔵助先陣して川を渡り、三好方の武者、川へ下り入りて、鎗を合す処に、猛勢に追立てられ数人討たるなり。重清の城へも籠らず、下郡さして敗軍す。その儘重清の城を乗取り、この競を以て則ち下郡岩倉表へ発向すべしと、人数を差向けらるる処、岩倉城主式部少輔の老、大嶋丹波と云ふ者御礼に罷出る。是も実子を召しつれ人質に進る。この度にて上郡二郡分相済み、先づ帰陣ありしなり」
 
意訳変換しておくと
「大西城の下郡へ陣を進めていくと、三好方も重清城までやってきて、川越で戦いとなった。大西上野守・久武内蔵助が先陣として川を渡ると、三好方の武者も川へ入り、鎗を合せた。
しかし、猛勢に追立てられ数人討たれると三好方は、重清城を捨てて下郡へ敗走した。そこで、重清城に入城し、この勢いで岩倉城を目指すべし、軍勢を差向けようと準備していた。すると、岩倉城主の式部少輔の老、大嶋丹波と云ものが使者とやってきた。そして実子を人質に差し出した。こうして上郡二郡を占領下に置いて帰陣した」

康俊と脇城の武田信顕は、長宗我部元親に降ります。そして、三好勢を岩倉城に誘き出し、土佐勢とともに、三好方の多くの武将を脇城下で殲滅します。これが岩倉合戦(脇城外の戦い)です。これによって、天正7(1579)年には岩倉城のある美馬郡まで、土佐軍の占領下に置かれます。

徳島県 – KAGAWA GALLERY-歴史館
三好氏の拠点だった勝瑞城

勝瑞城は「阿州表之儀、重而被申越候、勝瑞弥堅固之由尤候」と言われていました。
ところが天正10(1582)年の本能寺の変を境に、長宗我部氏の侵攻を受けて、にわかに風雲急を告げます。この時期の三好氏をめぐる動向について、藤田達生氏は次のように述べています。(要約)
⓵天正3年10月に、信長が嫡子信親の烏帽子親となり、以降は明智光秀が取次として信長と元親を結びつける。
⓶ところが瀬戸内海での水軍掌握に努めることになった秀吉が、淡路水軍をつかさどる安宅信康に働きかけるとともに三好氏にも接近する。
③そのため、秀吉は三好康長に阿波旧領の回復の助成を行った。
④天正9年6月、秀吉は信長に対しても元親との関係を見直す四国政策の変更を決定させた。
⑤この直後、元親は伊予の金子氏と軍事同盟を結び、讃岐天霧城で毛利氏とも同盟を結び反信長の姿勢を鮮明にしていく。
⑥天正10年8月に中富河の戦いで長宗我部元親は十河(三好)存保を破り、9月に勝瑞城を陥落
藤田氏が「元親は本能寺の変と連動して軍事行動をおこない、短期間で四国統一を実現しようとした」と評価します。
中富川合戦記3
中富川の合戦
中富川の合戦から勝瑞の陥落、三好氏の讃岐敗走にいたる経緯を『南海通記』は次のように記します。
天正十年八月初に、土州元親二万三千の兵を挙げて、阿州牛岐の城に着陣す。同国勝瑞の城主三好存保は、後援信長公莞じ玉ひて、孤独と成て援けなけれども、責め我が一人の上に受けて、撓む気色もなく、勝瑞に住しける。
  凡二万三千余人の着到にて、親泰が居城牛岐に馳集まり、五日の評定有て、八月十六日に打立ち、其日一の宮・夷山両城の間を押通りて、早淵に至る。城より足軽を出し、鉄砲を打ちかくる。天正十年八月廿八日、中富川の戦に元親勝利を得て、直に勝瑞の城に取かくる。此城は上代より屋形構なれば、方一町にして土居堀一重なり.其内に楼十四、五掻双て、僅に五千余人を以て相守る
  (中略)
勝瑞の城は二万余の大兵を以て昼夜とり囲み、攻戦ふ処、六、七日過ぎて大雨ふり、雷動して山を崩す。世人みな、久しく相続したる屋形を攻崩す故に、天の咎かと恐る。元親は一里引取り、黒田原に陣を居へ、存保は勝瑞の城を明けて、九月十一日の夜、東讃岐へ退去す。元親即ち勝瑞の城を破却せらる。  撫養の内に、本津山城には篠原肥前人道自遁が居城なり。いまだ元親にも服せず、三好にも同心せずして、自立の志あり。其後は信長を後盾にて居たりしが、信長崩じ玉ひて後、元親力を得て、四国に横行する故に、城を明捨て、淡州へ退去す。

  意訳変換しておくと
天正10(1582)年8月初に、長宗我部元親23000の兵力で、阿波の牛岐の城を囲んだ。本能寺の変で同盟関係にあった信長の支援が受けられなくなった勝瑞城主の三好存保は、勝瑞を動こうとしない。  23000余人の軍勢が牛岐に結集し、5日に評定。8月16日に出陣し、一の宮・夷山両城の間を押通って、早淵に至る。両城からは足軽がでてきて、鉄砲を打ちかけてくる。天正10年8月28日、中富川の戦に長宗我部元親は勝利して、ただちに勝瑞城の後略に取りかかる。この城は細川氏や三好氏の屋形であったため、方一町で土居堀に囲まれていた。その中には楼十四が建ち並び、五千余人で護っていた。
  (中略)
  勝瑞城を土佐軍二万余の大兵が昼夜とり囲み、攻戦が行われた。六、七日過ぎて大雨が降り、雷動して山が崩れた。これを世人は、長く続いた屋形を攻崩ことへの天の怒りと噂した。 そこで、元親は一里ほど陣を下げて、黒田原に着陣し、城を明け渡すことを求めた。これに対して、存保は勝瑞城を明けて、9月11日の夜、東讃岐へ退去した。そこで元親は勝瑞城の破却を命じた。
  撫養の本津山城は、篠原肥前人道自遁のが居城であったが、元親にも服せず、三好にも就かずに、自立志向であった。そのため信長を後盾にていたが、信長が亡くなった後は、城を打ち捨てて、淡路に退去した。
中富川合戦記2
紫色が土佐軍の動き(二方面から侵攻) 水色が三好方 

以上を整理しておくと
① 1582年 長宗我部元親軍は牛岐城(富岡城)で作戦会議を開いた。
②8月26日 夷山城・一宮城を経て、勝瑞城を目指し、翌27日全軍を集結させた。
③二手に分け、香宗我部親秦が約3千兵を率いて中富川の南岸へ着陣した。
④これより前に十河存保は一宮、夷山の両城を放棄して、勝瑞城に兵力を集中させていた。
⑤28日長宗我部元親は全軍に出撃命令を下し、先陣の香宗我部親秦隊は北岸へ突入した。
⑥十河存保軍はこれに対して勝瑞城を本陣とし、矢上城を先陣とした。
⑦矢上城大手付近に約2千兵、後陣として約3千兵を配して防塞を築いた。

中富川合戦記 

⑧香宗我部親秦隊が中富川を渡り始め、長宗我部本隊が南東より、香宗我部親秦隊は南西より進み両方から攻め立てた。
⑨元親と和讓を結んでいた一宮城主小笠原成助、桑野城主桑野康明らが6千の兵を率いて中富川へ押し寄せた。
⑩十河軍の激しい反撃にあい、元親軍は一時怯んだが、大軍で数の力で勝瑞城まで追い詰め包囲した。
⑪9月5日に大雨が5日間降り続き、後方の吉野川本流と中富川が氾濫。板野平野一帯が大洪水となり戦略は一時休止。
⑫水が引いた後に、中富川を挟んで戦闘が始まり、勝瑞城の内外でも両軍の入り乱れで乱戦となり多くの死傷者がでた。
⑬三好勢の形成は不利で、矢上城主矢野虎村、赤澤、七条、寒川氏らの多くの戦死者を出した。
⑭勝瑞城の明け渡しを条件に讃岐への退去を十河存保は許された。
⑮両軍の死者数の合計は約1500名、重軽傷数はこれらをはるかに上回った。

  中富川合戦で三好方の戦死した城主一覧

矢上(矢上虎村)、下六条(三好何右衛門)、板東(板東清利)、七条(七条兼仲)、板西(赤沢宗伝)、保崎(馬詰駿河)、西条(西条益太夫)、北原(北原義行)、知恵島(知恵島重綱)、南島(甘利奥右衛門)、乗島(乗島来心)、高畠(高畠時清)、第十(第十拾太夫)、日開(鎌田光義)、徳里(白鳥左近)、下浦西(田村盤右衛門)、鈴江(鈴江友明)、櫛淵(櫛淵国武)、長塩(長塩六之進)、大寺(大寺松太夫)、野本(野本左近)、大代(大代内匠)、佐藤須賀(佐藤長勝)、瀬部(瀬部友光)、高志(高志右近)、讃岐・大内(寒川三河守)、讃岐・宇多津(奈良太郎左衛門)、飯尾(飯尾常重)、中島(片山重長)、角田(角田平右衛門)、湯浅(湯浅豊後守)、福井(芥川宗長)、大潟(四宮光武)、古川(古川友則)、市楽(石河吉行)、中庄(中庄主膳)、新居(堀江国正)、原(原田信綱)、香美(香美馬之進)、吉田(原田小内膳)、姫田(姫田甚左衛門)、由岐(由岐有興)【長宗我部に味方した阿波の城主】牛岐(新開道善)、一宮(一宮成助)、夷山(庄野兼時)、桑野(東条関之兵衛)【その他】木津(篠原自遁)」      

中富川合戦の戦士将兵の墓石集積(愛染院)
中富川合戦の墓石群(愛染院)
この戦死者名を見ると、板野郡の武将に集中していると研究者は指摘します。
その背景には中富川合戦の段階で、長宗我部元親に敵対するのは勝瑞のある板野郡に限られていたことがうかがえます。つまり、阿波国内の他地域の武将の多くは、この時すでに元親の傘下にあったことになります。
中富川合戦後、反元親の十河(三好)存保は9月21日、三好康俊は10月10日にそれぞれの居城である勝瑞城・岩倉城を明け渡して阿波から撤退しています。富岡城主新開道善は9月16日に、一宮城主一宮成助は11月7日に夷山城で虐殺されます。

十河(三好)存保を讃岐に追放して、阿波のほぼ全域を支配下においた元親は、服属した阿波の諸将に所領の宛行を次のように行っています。
今度及検地内参百町進之候、右之外於河北式千貫、申合之旨、不可有相違候、恐々謹言、
天正十一(1583)年二月十九日
                        長宗我部宮内少輔 元親(花押)
                        長宗我部弥三郎  信親(花押)
一宮民部少輔殿
御宿所へ
これは一官民部少輔に「河北式千貫」を宛行ったものです。その他、戦功のあった諸将を以下のように
配したことが『長元物語』に次のように記されています。
阿波一ケ国元親公御仕置ノ事
牛岐城ヘハ、御舎弟香宗我部親泰入城有テ、阿波一ケ国諸侍物頭二仰付ラルゝ
一ノ宮ヘハ先手物頭ノ江村孫左衛門入城ニテ、組与力此所ニヲイテ知行給ル
岩倉ノ城ヘハ、長宗我部掃部頭入城組与力此所ニテ知行給ル
海部ノ城ハ、香宗我部親泰根城
吉田ノ城ヘハ、北村間斎入城ス
宍喰ノ城ヘハ、野中三郎左衛門人城ス
二ウ殿、東条殿、其降参ノ国侍、歴々ノ城持、前々持来ル知行無相違仰付ラレ、年頭歳末ノ御礼有之事
主要な城主を挙げておくと次のようになります
牟岐城に香曽我部親泰
一宮城に江村孫左衛門
岩倉城に長宗我部掃部頭
古田城に北村問斎
宍喰城に野中三郎左衛門
この書状は天正11年のものとされ、長宗我部元親が阿波国内をほぼ制圧して以後のものです。
元親が阿波一国を征服たのかどうかについては、研究者の意見の分かれる所のようです。
例えば次のような秀吉の書状があります。
八木弐百石、あわとさとまり(阿波国土佐泊)の篠原甚五
はりましかまつにて可相渡者也、
天正十弐
十月十六日     秀吉(花押)
弥ひやうヘ
もりしまのかみかたへ、
この秀吉の書状が示すように天正12年10月の段階で、秀吉は阿波国土佐泊城に籠もる篠原甚五・森志摩守村春に支援を行っています。こうした動きは天正九年の頃から始まっています。

阿波土佐泊城
秀吉からの支援を受けて、長宗我部元親に抵抗を続けた土佐泊城

土佐泊城
撫養港の入口に位置する土佐泊城

同年10月の黒田官兵衛宛ての秀吉書状には、次のように記されています。

木津・土佐泊兵糧之事、申付相渡候、右両城玉葉事、先度書付候分、是又申付候」

ここからは秀吉が三好勢を支える木津や土佐泊の篠原・森両氏への兵糧支援を、この時期にも黒田官兵衛に命じていたことが分かります。そのため長宗我部元親の土佐泊城攻略は、讃岐虎丸城とともに困難をきわめます。ここからは元親は、阿波や讃岐の完全攻略には成功していないと研究者は考えています。
 従来の通説では次の通りでした。

「小牧・長久手の戦いの最中であった天正11(1583)年6月に長宗我部氏が十河勢力を掃討したことで阿波と讃岐を掌中におさめた。」

これに対して津野氏は次のように疑問を呈します。

「実際には秀吉の支援をうける十河勢力が讃岐虎九・阿波土佐泊を拠点に抵抗しており、それは長宗我部氏が同盟者金子氏に加勢を要請するほどの攻勢をとりさえした」

長宗我部元親の阿波・讃岐・伊予侵攻について、野本亮氏の見解を再度挙げておきます。

急峻な四国山地を一領具足を主力とした数万の軍勢が越えるのはほとんど不可能に近く、武器・弾薬・食料の輸送という面から見ても現実的ではない。阿・讃・予における元親の勝利の陰には、土佐方に内通、もしくは積極的に協力した同盟者の存在が第一であり、彼等の利害関係に乗じる形で契約を結び、兵と物資の支援を受けたと考える方が無理がない」

以上をまとめておくと
①元親は、土佐から他国への軍事行動について、地理的に困難が伴うことを熟知していた。
②そのため土佐軍による単独の軍事的侵攻を極力抑えていた節がある。
③その方策として、日和佐氏と同盟関係を結んだり、豊楽寺を通して祖谷山衆を傘下に組み込んだりしている。
④侵攻に至るまでに充分な事前の工作と準備を行っている。
⑤このような情報収集や外交交渉を行ったのが長宗我部元親に仕える修験者ブレーンたちであった。

中世は宗教が科学の役割を果たしていました。武力や技術、医療なども宗教と深く結びついていました。そのため人々にとって神仏は、身近な存在でした。すべては神仏で説明されたのです。
そんな中で、上皇や貴族たちから始まった熊野信仰は、鎌倉時代になると、皇族や貴族をまねて地方の武士たちも熊野に参詣するようになります。そして、後には富裕層も参加するようになり、次第にさまざまな階層の人々に受け入れられ、全国に広がったようです。
熊野信仰は、どのようにして各地に広がったのでしょうかに

 「瀬戸内海交通路を通じた霊場の系列化により浸透した」

と研究者は考えているようです。
熊野水軍に代表されるように古代からの熊野の海上交易ルート沿いに熊野領荘園の設置や熊野権現の勧進が行われます。しかし、それだけでは熊野詣を行う原動力にはなりません。身近で熊野に行こうと働きかけてくれる人物が必要です。それが熊野先達でした。
熊野先達の果たした役割を見ておきましょう。
先達の指示した精進潔斎を行って、参拝者(檀那)は熊野に出発します。先達は道中の道案内、関所、渡船、宿泊などの世話を行ないます。船で紀伊について熊野詣道に入ってからは、熊野王子などの霊地で拝礼や垢離などの導師を勤め、帰路や帰還後の作法を取り仕切ります。これだけ見ると現在の団来旅行のインストラクターのようですが、これは先達の職務の一部でしかありません。さらに先達は参詣をできない人の喜捨を熊野にとどける「代参」も行います。つまり、参拝しない信徒も抱えているのです。そして、熊野に参詣したり、寄進する人(信者)を「檀那」と呼んでいました。
 熊野にやってきた檀那や先達を受け入れ、宿泊、祈祷、山内案内などに従事したのが御師です。
先達は檀那を熊野に導くと、御師あてに檀那の在所、氏名、自己の在所、名前、提出年月日などを記した願文を提出しました。その形式は、次のようなものです。
     上野国高山修理亮重行(花押)
一    応安五年三月四日
一   道先達金峯山別当民部律師
一   那智山御師六角堂弁法眼
 この願文は応安五年に、上野国高山の檀那の修理亮重行が、大和の先達・金峰山別当民部律師を仲介として、那智山御師六角堂弁法眼に提出したものです。このように願文は、本来は熊野に到着した際、檀那が先達・御師を介して熊野権現に祈願をとりついでもらうために提出する祈祷依頼状でした。ところがこの願文には、今後は必ずこの御師のもとに来ることを契約した内容も含まれています。それだけでなく、この先達が導いた檀那、その檀那の一族のものにも同様のことが義務づけられるようになります。そのため後には、願文とあわせて系図が提出させられ、御師は檀那の系図を作って保管するようになります。
つまり「願文提出」は、先達と檀那との契約関係ともいえるのです。今と違うのは神仏を介して成立していることです。熊野本宮の神前で御師・先達・檀那により交わされたもので、熊野権現への誓約という形で行われています。つまり神をバックにする御師・先達と、ただの人間の契約で対等なものではありません。契約を破れば、神仏から罰せられることになります。しかも契約は一代かぎりでないのです。子孫まで拘束するものであったことが文書から分かります。
  こうして以後は、子孫に至るまで「檀那・先達と御師」との結びつきが続くことになります。こうした御師と先達・檀那の関係を「師檀関係」と呼んでいるようです。願文は先達・檀那が署判して御師に提出する師檀関係の締結を示す契約状の性格をもつようになります。

 熊野の御師は、どんな風に全国の檀那を「登録管理」していたのでしょうか?
 熊野では、鎌倉時代から室町時代初期までは、檀那を一族単位で掌握していたようです。それが後には、在所単位に移っていきます。「那智山社法格式書」に、諸大名・諸氏は名字・氏・系図にもとづき、町人・百姓は生縁の在所によるとあるように、古くは、在地領主は一族単位で掌握されていたことが分かります。東北、関東など、在地領主の支配力が強い地域では、一族引きの形がとられたようです。ここからは、同じ地域に住む一族が一緒に、熊野詣をしていたことがうかがえます。
 御師にとっては師檀関係を結んだ檀那や先達は、他の御師へ鞍替えは出来ないシステムだったので、まさに永遠の「常客」です。このリストを持っている限り、参拝客が熊野にやって来てた場合には、宿泊料や取次料が入ってきます。そのため檀那リストは貴重な財産とされるようになります。
 御師は、檀那・先達の願文を保存し、さらに名簿や檀那の系図なども作って大切に保管するようになります。そしてやがてこれらの檀那・先達リストは譲渡や売買の対象としたり、借金の抵当となるのです。これは、そこに名前の記されている檀那や先達の意志と関係なく、御師の間で行なわれ、変更後にこのことを檀那や先達には知らせていたようです。現在の旅館がこんなことをやれば、怒りをかうでしょう。
 その際、御師の間ではのちの紛争を防ぐために檀那や先達の譲渡状、売買や借金に関する文書が取りかわされています。その上で、相手方に願文や檀那・先達リストが渡されています。
現在熊野の那智大社と本宮大社には、御師文書と呼ばれるこれらの文書が一括して保存されているようです。このうち那智大社所蔵のものは、『熊野那智大社文書』全六巻にまとめられています。
 この中にある「願文・願文帳・檀那譲状・檀那売券・借銭状・先達や檀那の名簿」をもとにして研究者は、各地の能野先達や檀那の活動を明らかにしているようです
その中の先達が「檀那権」を譲渡・売買した譲状を見てみましょう
これは、先達が親子・師弟などの間で檀那を無償で譲渡するものです。
    永譲渡檀那事
  合 上野国 玉村保住人讃岐公
  右件檀那者、京尊之相伝也 然聞所譲渡于玄善房実也、但後日証文之状如件、
   永仁七年卯月十七日                  京尊花押
 これは先達の京尊が上野国見桃保(群馬県玉村町)の檀那讃岐公を玄善房に譲渡したものです。
最初に「譲渡檀那事」とあります。「永」が文頭に記されているのは、「期間限定のレンタル譲渡」もあったからです。その場合には、レンタル期間が記されています。
 ここからは 参拝者(檀那) ー 熊野先達 ー 熊野の御師という関係(師檀関係)を、先達たちも互いに譲渡・売買していたことが分かります。 
 熊野先達を勤めた人たちは、どんな人だったのか
  先達は山伏だったと研究者は云います。石鎚山や中国地方の大山などの山岳霊場で修行する一方で、自分の拠点周辺の住民などを熊野へ引導しました。その途上、彼らは道筋にある神社や社寺などに泊まることもあったようで、その手続きや宗教儀礼なども執り行います。また。檀那の代理として参詣したり、礼を配ったりするなど、日常的に檀那と深くつなかっていました。今私たちが考える団体旅行のインストラクターとは、まったく違ったものです。ある意味、先達は檀那の信仰を菅理する立場で、師匠でもあり、怖れられる存在でもあったようです。13世紀の説話集「沙石集」からは、檀那が先達に畏怖の念を抱いていたことがうかがえます。
先達は檀那の信仰に深く関わり、その代償として利益を得ています。
だから、檀那との関係が動産化し譲渡や売買の対象となったと研究者は考えているようです。
徳島県吉野川市鴨島町の仙光寺所蔵の古文書は、地方の熊野先達に関する貴重な文書が残っています。そこには「十川先達」という熊野先達の名前が出てきます。彼は「柿原別当」という師匠について修験活動を行う山伏でした。彼の活動歴を残された文書から見てみると、周辺の先達から檀那株を買ったり、いろいろな手段で檀那を増やし、活動・経済基盤を固めている様子が次のように見えてきます。
① 14世紀には吉野川市鴨島・川島町が、檀那の分布域であった。
② 15世紀には柿原別当から石井町、吉野川市鴨島町の檀那を買い取った。
③ 16世紀初頭には、鴨島町西部に新たな檀那をもつようになる
④ さらに、鳴門市や徳島市、美波町、三好市などの檀那が散在するようになる。
このように、鴨島を中心に霞(かすみ)と呼ばれるテリトリーを拡大し、広域的に活動するようになります。ところで、檀那株を買った先の「柿原別当」は、もともは十川先達の師匠であったようです。ここからは十川先達が師匠から自立し、川島町を拠点に檀那を増やした。そして師匠の「柿原別当」が引退すると、その檀那株を譲り受けたという筋書きが描けそうです。
  熊野詣には、どれほどの費用が必要だったのでしょうか?
 吉野川市鴨島町の山伏であった十川先達の残した史料から、参詣の費用について見てみましょう。
 白地城(三好市)の城主として名高い武将である大西覚用(1578年没)が、永禄12年(1569)年、熊野三山の御師(祈祷や宿泊の世話などをした宗教者)に渡した費用を書き上げたものが残っています。
熊野三山御師え渡日記  大西覚用
 熊野三山御師え渡日記(仙光寺文書のうち)


ここからは次のような先達と檀那の関係が見えてきます。

檀那 大西覚用 ー 十川先達 - 御師という師檀関係

覚用がこのときに、自分自身が参詣したのか、それとも十川先達が代わって参詣したのかは分かりません。しかし、御師に対する負担の実態は分かります。史料には、脇差・舎六、綿、米など、各種の用途に応じた費用が列挙され、最後に合計額428貫100文と記されています。「1石5万2500円」として、428貫100文を米の量に換算すると、713石になります。これは3745万8750円で、大変な高額です。これは、御師に渡したものだけです。これ以外にも、檀那自身、隨行者、先達の装束や経費など、一切を支出しなければなりませんでした。こちらについての記録は内容ですが、地域の有力武士団の棟梁クラスは、このくらいの「参拝料」を収めていたようです。商人たちは参詣講を組織し、グループで参詣していたようなので、こんな高額にはならなかったのかもしれません。しかし、一般庶民の手の出る者ではありません。近世の伊勢詣でや、金毘羅詣でとは違って庶民性は薄いようです。ところが、こんな方法ではなく、信心の強い人は物乞いをしながら熊野へ向かった人もいたようです。参詣に要する経費はさまざまであったということになるのでしょうか。
 どちらにしても紀伊からやってきた熊野修験者たちが四国各地に定着し、多くの檀那を確保して熊野詣でに参道していたようです。

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