瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:大通智勝仏

前回は、一遍上人絵伝の伊予三島社(現大山祇神社)の詞書の前半部は、先祖越智氏のことや祖父河野通信とのかかわりなどが書かれていることを見ました。今回は、その後半を見ていくことにします。テキスト「山内一譲  『一遍聖絵』と伊予三島社 四国中世史研究NO12 2013年」です。
大山祇神社 (伊予三島神社)
一遍上人絵伝 伊予三島社(現大山祇神社)
後半部を要約したものを見ておきましょう。
⑥一遍が大三島を去ったあと、正応二年正月24日に供僧長観の夢の中に大明神が現われて次のように述べた。
「昔、書写の上人(性空)が参詣して(不殺生のために)鹿の贄を止めさせた。今、一遍上人が参詣して桜会の日に大行道にたちて大念仏を申し上げる。この所で衆生を済度させようとするのである。これに合力しない輩は後悔するであろう」

⑦その月の27日には地頭(代)の平忠康も神のお告げを受けた。神の詞は大略同じで、ほかにも夢想を受けた者が多くいた。
⑧そこで、2月5日に聖(一遍)を「召請」申し上げたところ、聖は6日に再び三島社に参詣し、9日には桜会が行われた。その大行道の最中に聖は、大明神が出現された山を見上げて、何の必要があって一遍をお招きになったのかと思案したが、贄をとどめるためであると思いあたった。
⑨正月と11月の魚鳥の供えをとどめることなど、人々の夢想に示されたことが多くあった。それについて何も聞いていないのに聖の言葉は一つも違いがなかった。人々は次のように語った。

「昔永観二年に叡山の堪延と性空上人が一緒に参詣して、七日間説教し、不殺生戒を授けられた。その時に、御宝殿が鳴動して『随喜、随云不殺』と唱える音があった。それ以来恒例の贄をとどめ、仏経供養を行ってきた。いままた霊夢のお告げがあって昔にかわらず感応の趣があらたかです。」

⑩そこで参詣した神官や国中の「頭人」等二七人が夢のお告げや聖の教えに従って制文を書き、連判を加えて記録した。

ここで有力者の夢の中にでてくる性空とは何者なのでしょうか? 
 
性空 書写山
性空
『ウィキペディア(Wikipedia)』には、次のように記します。
性空(しょうくう、延喜10年(910年) - 寛弘4年3月10日(1007年3月31日))は、平安時代中期の天台宗の僧。父は従四位下橘善根。俗名は橘善行。京都の生まれ。書写上人とも呼ばれる。
36歳の時、慈恵大師(元三大師)良源に師事して出家。霧島山や肥前国脊振山で修行し、966年(康保3年)播磨国書写山に入山し、国司藤原季孝の帰依を受けて圓教寺(西国三十三所霊場)を創建、花山法皇・源信(恵心僧都)・慶滋保胤の参詣を受けた。
980年(天元3年)には蔵賀とともに比叡山根本中堂の落慶法要に参列。
早くから山岳仏教を背景とする聖(ひじり)の系統に属する法華経持経者として知られ、存命中から多くの霊験があった。
1007年(寛弘4年)、播磨国弥勒寺で98歳(80歳)で亡くなった。
性空について整理しておくと、次の通りです。
①はじめ比叡山に登って天台教学を学んだが、それにあきたらず、
②日向国霧島山や筑前日背振山に籠り、「山岳仏教を背景とする聖(ひじり)の系統に属する法華経持経者」で
③播磨国の書写山円教寺を開いた山林修験者

霧島にある 性空上人の像と墓: ジオパークくろちゃんのブログ
霧島の性空像 山林修行者の姿

詞書後半には「永観二年に叡山の堪延と性空上人が一緒に参詣して、七日間説教し、不殺生戒を授けられた。」とあり、性空が三島社に参詣したと書かれています。

しかし、「性空上人伝」や「一乗妙行悉地菩薩性空上人伝」などには、三島神社に立ち寄ったことは書かれていません。ただ、円教寺の縁起や「播磨国飾磨郡円教寺縁起等事」には、筑前国背振山で修行をした後に書写山に帰る途中で伊予国に立ち寄ったこと、書写山で二、三年を過ごした後、もう一度伊予国へ赴いたことが記されています。どちらが本当か分かりませんが、伊予国との縁が全くなかったわけではないようです。三島社の側では、著名な参詣人の一人として性空の名を記録にとどめています。
 このように詞書の後半は、人々の夢想を借りる形で、性空らによる贄の停止が語られます。これをうけて一遍が再び贄を停止するという話が、桜会などの祭礼とからめて語られています。

伊予三島社に性空が登場してくる話は、どのようにしてできあがったのでしょうか?。
またそれは何を意味しているのであろうか。
実は、詞書の性空の話も、三島社の縁起を取り込んで書かれたものであること研究者は指摘します。
 
 伊予三島神社の根本史料としては、三島社の末社にあたる臼杵三島神社(愛媛県内子町)の「臼杵本三島神社記録」(「臼杵本」と略記)が挙げられます。

内子町臼杵 三島神社 | 何処へ行くんだ! 土佐瑞山
臼杵三島神社(愛媛県内子町)

この冒頭に「伊予国臼杵谷」、「伊予国寒水山三島大明神御垂跡」とあることからもわかるように、もともとは臼杵三島神社の縁起として書き始められています。それが二条目以降は本社三島社の緑起・記録に替わります。内容は年代ごとに本家・領家・地頭・神主の変遷を簡略に記した記事が大部分です。そのほかにも、性空や能因の参詣、社殿の焼失や造営などについても記述しており、領主の変遷を中心にしながら三島社にかかわるできことをまとめた縁起・記録です。
 末尾には、「芋時正和五年□月廿八日三嶋殿御人之時以其御本写畢」と記されています。ここから正和五年(1316)に三島社の「御本」を写したものであることが分かります。内容的にも、正和五年の書写として矛盾はないことから、三島社に伝えられていた縁起・記録を鎌倉末期に写したものと研究者は判断します。もちろん縁起・記録なので問題はありますが、少なくとも鎌倉期の記述については、かなり信憑性が高いとされます。
  「臼杵本」には、性空のことが次のように記されています。
円融院御時永観二年岬二月廿二日、播摩国書写山性空上人詣□堪延阿闇梨講師不殺生戒経誦□七日内第三日有神感云、随喜々々、随云□殺可依之、供僧妙尊并社司等国方就披露申、被止生贄之供、引替仏経供養、桜会井二季御祭仏経供養自是始ル
意訳変換しておくと
  円融院の永観二年二月廿二日、播摩国の書写山性空上人と叡山の堪延上人が一緒に参詣して、七日間説教し、不殺生戒を授けられた。その時に、御宝殿が鳴動して『随喜、随云不殺』と唱える音があった。そこで参詣した社僧や神官や国中の「頭人」は相談して、恒例の贄を止めて、仏経供養を行うことにした。これが桜会や御祭仏経供養の始まりである。

  また、「三島社縁起」にも、次のように記されています。
永観二年二月廿一日、書写聖(性)空上人堪然大徳相共、毎日之生贄鹿一頭被申止、同和尚請講四巻経給剋、自天稲種雨下、取其種令耕作、至当代無断続、毎年二月九日、号桜会御神事、四月十一日祭魚鳥懸給、玉澄和尚奉請、致精誠御祈祷在之

意訳変換しておくと
永観二年二月廿一日、書写山の聖(性)空上人と叡山の堪然大徳がともに当社にやってきて、生贄に鹿一頭を捧げているのを止めるように申し入れた。生け贄にかわって仏講を開き仏典四巻を読経した。すると天から稲の種子が降り、その種を植えて耕作するようになった。これを祝って毎年二月九日に行われる神事を桜会と呼んでいる。4月11日の魚鳥懸給、玉澄和尚奉請、致精誠御祈祷在之

二つを比べて、研究者は次のように考えています。
①表現に違いはあるが、内容はほぼ同じで、もともとは同じ内容の原伝承があること。
②それを異なった形でそれぞれ筆録したのが「臼杵本」や「縁起」であること。
③「聖絵」の詞書も同じようにその原伝承を取り入れつつ書かれたもの

ここで研究者が注目するのは、「臼杵本」と詞書の間にも同じ文言があることです。
それは「臼杵本」の「随喜々々、随云□殺」と、詞書の「随喜、随云不殺」です。ここにも聖戒が縁起や伝承を取り入れる際に、単に神社で耳にしたことを書くのではなく、「臼杵本」など典拠となるものとそばに置いて執筆を進めていたことがうかがえます。聖戒は、縁起だけを題材にして詞書をまとめ上げたのもなさそうです。
もうひとつ研究者が注目するのは、詞書に供僧長観、地頭(代)平忠康などの人物固有名詞が登場してくることです。この二人は何者なのでしょうか?
供僧長観の名は他の史料で確認することはできませんが、三島社の供僧の例としてはいくつかの記述があります。最も古い者は「臼杵本」の中に、永観二年(984)、性空の参詣のとき贄の停止を行った人物として出てくる供僧妙尊です。近世の「御鎮座本縁」は、妙尊は神主為澄の二男で、社辺に一寺を建てて、それがのちの東円坊となり、妙尊が供僧の初めである、と解説を加えています。この時代から三島神社では神仏混淆が始まったことがうかがえます。

 また「臼杵本」は、保延二年(1136)6月に「大宮」を造営したときの供僧が勝鑑で、「院主」と「検校」を兼帯したと記します。そして「御鎮座本縁」は、供僧妙尊と勝鑑が社の傍らに「神供寺」、大通智勝仏等をまつる「仏供寺」を建立し、それ以後上官社家の二男を供僧とするようになったと述べています。 これらを見ると10~12世紀ころの三島社では、神仏習合が進み、供僧が置かれたことがうかがえます。同時に近世三島社では、東円坊や神宮寺など神社に付属する堂舎の起源をこれに求めていたことが分かります。
 その後、一遍参詣の直前の弘安九年(1286)2月に、悲田院領伊予国井於、同船山、角村等での三島社神人の妨を停止させる旨の某御教書が三島庄の神官・供僧等あてに出されています。ここからは東寺の三島社神人たちが、周辺地域で紛争を起こしていたことが分かります。逆に見ると、この頃になると供僧は神官たちは社領の経営に関与して「俗人化」していたことになります。詞書に見える長観も、このような流れのなかに位置づけることができる人物ということになります。
次に、神の「示現」をうけたとされる地頭代平忠康についても見ておきましょう。
まず、地頭代平忠康はどこの地頭なのかということです。これは宣陽門院領三島庄だと研究者は判断します。「臼杵本」は建久二年(1191)に「宣陽門女院、後白河院乙姫宮」が三島庄の本家となったと記します。これは同年十月の長講堂目録のなかに三島庄が含まれていることによって裏付けられます。
 また年未詳ですが、鎌倉期の伊予の荘園の面積を列挙したと思われる伊予国内宮役夫工米未済注文には、「三嶋御領嶋々八十九町一反小」とあります。これが三島庄だと研究者は考えています。これらの島々はのちに三島七島などと呼ばれるようになります。三島社自体も、そのような荘園支配の対象となっていたことを押さえておきます。多くの有力寺社が神社と社領が一体となって荘園化し、皇室や権門によって領知されるという形態が三島社でも見られるのです。
三島庄の地頭について「臼杵本」は、次のように記します。
建久八年四月四日三嶋地頭始御補任 北条四郎嗣相模守御事也、御代官藤七盛房下着上下廿九人
ここには建久八年(1197)に北条義時(鎌倉幕府の第2代執権)が最初の地頭となり、代官藤七盛房がやってきたと記します。建久八年といえば、義時は25歳で、時政の子として幕府内での存在感を大きくしていたころです。この記述を、そのまま信じることはできません。
「臼杵本」には次のような記述もあります。

正治二年 地頭改大夫志人道殿息進士信平代官□云有慶下着。

3年後の正治二年(1200)に地頭が大夫志入道殿息進士信平に改められ、やはり地頭代がやってきたというのです。ここに登場する大夫志入道は、この頃『吾妻鏡』に、「大夫属入道」とか「大夫属入道善信」などと記される初代の門注所執事三善康信である可能性があると研究者は指摘します。三善康信については

 「京都の下級文人貴族・三善氏の生まれで、叔母が頼朝の乳母であった縁から、流人時代の頼朝に、頻繁に使者を送り京都の情勢を伝えていました。以仁王(もちひとおう)の敗走と源氏追討の命令が出ていることを頼朝に伝えたのも康信で、奥州に逃げるよう助言しています。鎌倉に下向してからは、頼朝のもと、京都でのキャリアを生かし、文書作成などの実務や寺社関係の職務に携わります。さらに訴訟機関の問注所が設置されると、初代の執事(長官)に就任し、鎌倉幕府の組織の整備に貢献しました。承久の乱が起こると、京都へ進撃することを提案した大江広元を後押しし、勝利に貢献しました。」


三善氏と三島社とのかかわりについては、「予章記」に次のように記します。

三嶋七嶋社務職等ハ全ク他ノ競望不可有事ナレトモ、京都ョリ善家ノ者ヲ進止セラルヽ事、誠無念ノ次第也、善三嶋卜云ハ飯尾末葉也、

意訳変換しておくと
  (伊予)三嶋七嶋社務職等は、領地関係に含まれないはずなのに、京都から三善家の者がやってきて管理することになった。誠に無念の次第である、善家の者と云うのは飯尾氏の末葉である、

ここからは、次のような情報が得られます。
①河野通信から三島社の社務職が没収されたこと
②京都より善家の者が派遣されて三島七島の社務職を握ったこと
③善家の者とは飯尾の末葉である
②について、「予章記」が成立した戦国になると三善氏と三島社の関係は、このように説明されていたのかもしれません。こうして見ると、三善康信の子・信平が地頭職を持っていて、その代官が現地にやってきていた可能性は高いと研究者は考えています。
以上から、平忠康が大三島とその周辺地域を荘域とする宣陽門院領三島庄の地頭代としてやってきていたと研究者は判断します。
 「臼杵本」によると、貞応二年壬午正月一日に火災が発生した際、宝殿以下の建物といっしょに「地頭殿政所」も類焼したと記します。ここからは、地頭が三島社の社殿の一角に政所を設けて、支配拠点としていたことがうかがえます。もう少し、突っ込んで云うと、三島社自体が地頭の支配拠点となっていたということです。このような例は、中世の寺社ではよくあることは以前に善通寺の例でお話ししました。
詞書後半の物語に出てくる「桜会」について見ておきましょう。
この神事の開始については、次のように説明されていました
A 「臼杵本」は、永観二年に性空と堪延が参詣して鹿の贄を止めさせた際に、それにかわって仏経供養としての桜会を始めた
B 「縁起」は、その時に天から稲の種子が降り、それを以て耕作したこと、毎年二月九日に祭礼が行われていた。
この桜会についてはかつては、「縁起」の記述を参考にして、京都紫野の今宮神社で行われる「やすらい祭り」と同じで、豊作を祈り、同時に疫病退散を析る神事であったとされてきました。 しかし、近年発見された文政十三年(1830)成立の今宮神社の社家記録には、次のように記されています。

四月桜会之御祭礼八日より十五日迄、寺社家参詣仕、神前江献新茶、御祈祷相勤、寺家ハ経陀羅尼読誦法楽仕候、同十五日より二十三日迄本地仏(大通智勝仏)開帳寺社家出合申候
意訳変換しておくと
  四月の桜会の御祭礼は八日より十五日迄、寺社家が参詣し、神前に新茶を奉納し、祈祷相勤、社僧は経陀羅尼を読誦し法楽を奉納する。同十五日より二十三日まで本地仏(大通智勝仏)の開帳に寺社両家が立ち会う。

ここには、日時は『聖絵』や「縁起」の記す2月9日から4月にかわっていますが、「寺社家」出仕の祭礼がおこなわれています。そこでは神前への献茶、法楽のための読経、本地仏大通智勝仏の開帳が行われていたことが分かります。
 あらゆるいのちを大切にする不殺生という願いが、性空と一遍を結ぶ糸として見えて来ます。性空と一遍とが霊的に通い合っている、深い関係を伝えたかったとしておきます。

大通智勝仏
伊予三島神社の本地仏大通智勝仏
以上からは、研究者は次のように判断します。
①供僧長観や地頭代平忠康は、実在の人物であり三島社や三島庄の歴史の中にきちんと位置付けられること。
②桜会も聖戒が実際に見聞した祭礼であったこと
③ 詞書後半は、三島社での聖戒の実際の体験と、縁起・記録類に残されていた性空の参詣伝承を結び付けて新しい物語を作ろうとしたもの
それでは聖戒は、わざわざ性空と一遍を結びつけるような物語を伊予三島社の場面に挿入したのでしょうか。
それは、聖戒が生前の一遍が性空に対して熱い思慕の念を持っていたことをよく知っていたからだと研究者は考えています。一遍の性空に対する思いは、性空が開いた書写山円教寺に前年に参詣したときの記事からうかがえます。それを詞書は次のように記します。

DSC03542書写山圓教寺
書写山圓教寺(一遍上人絵伝)

弘安十年(1287)の春に円教寺を訪れたとき、 一遍は本尊を拝見することを望んだが、寺僧は「久住練行の常住僧」のほかは例がないとしてこれを拒んだ。そこで一遍は、本尊の意向を仰ぎたいと四句の偶文と一首の歌を棒げた。すると本尊が受け入れたのであろうか、寺僧の許しが出て本尊を拝することができた。また一遍は、「上人の仏法修行の霊徳、ことはもおよひかたし、諸国遊行の思いて、たヽ当山巡礼にあり」と述べて一夜行法して、翌朝去って行った。

ここからは、書写山参詣に対する一遍の思いがひとかたならぬものであったことがうかがえます。人跡未踏の深山幽谷をめぐりながら修行を重ね、ついに書写山で悟りを開いた性空の生涯と自らの遊行の生涯を重ね合わせるところがあったのもしれません.
また兵庫観音堂での臨終の直前に、 一遍が所持の書籍等を自ら焼き捨てたことはよく知られています。
その前に持っていた経典の少々を渡したのも書写山の寺僧でした。ここにも性空と書写山に対する思いが込められていたのかもしれません。.
 このような一遍の想いをよく知っていた聖戒は、一遍が三島社参詣しただけでは終わらすことができなかったのでしょう。性空と伊予三島社との関係、具体的には桜会の起源を通じての性空と一遍の結びつきだったとしておきます。
以上を整理しておきます。
①一遍上人絵伝の伊予三島社(現大山祇神社)参拝場面の詞書後半には、性空が桜会を始めたことが記される
②性空は比叡山で修行した後に、九州の霧島などで山岳修行を行い、播州書写山を開いた。
③一遍は性空に対して、強い尊敬の念を抱いていた。
④それを知っていた聖戒は、性空が伊予三島社にやってきて鹿の生け贄を奉納することを止めさせたエピソードを挿入した。
⑤そこに登場する僧侶や地頭は、実在性の高い人物で、当時の三島社の置かれた状況が見えてくる。⑥例えば、地頭としてやってきた平忠康は、三島社の境内に地頭舘を置いた。
⑦ここからは三島社自体が荘園支配の対象となっていて、皇室や権門によって領知されていたことことが分かります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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大山祗神社神域図

大山祇神社の神仏分離前の痕跡である
祖霊社を探して、神域を歩いてみまた。
 宝物館の裏から長い階段が伸びています。上にある建物は見えません。登って行くと入母屋の寺院的な建物が現れます。しかし賽銭箱子もなければ宗教的な雰囲気さえしません。なによりもまわりはフェンスで囲まれて、有刺鉄線も張られています。倉庫のような雰囲気さえ醸し出しています。何が祀られているのか?
 ここが祖霊社と呼ばれる建物です。
祖霊殿3
大山祇神社の祖霊社

『大三島詣で』(大山祇神社々務所)は、この建物ついて次のように記します。
「神宮(供)寺は四国霊場八十八ヶ寺の第五十五番札所・月光山神宮寺(今は今治市南光坊)として殷賑を極めた時代もあったが、明治元年の神仏分離令によって仏像・仏具その他全てが他所に移され」寺は大山祇神社末社「祖霊社」になった

祖霊社と呼ばれていますが、今は何にも使われていない建物のようです。しかし、神仏分離前はここが寺院ゾーンの中心センターだったのです。そして、その他の院坊が現在の国宝館辺りには立ち並んでいたようです。確かに、北側に神社ゾーンがあり、それに並ぶように寺院ゾーンがあった気配はあります。
 ここでも中世は、神仏習合が行われていたのです。
  本地仏の大通智勝仏について
  霊力を低下させた神様は、蛮神の仏に姿を変えて人々を救うとされ、神仏習合が中世には広がります。大山祇神が権化(=変身)したのが「大通智勝仏」という仏様です。人の名前のようで聞き慣れない仏名です。この仏については、後に触れるとして・・・
大通智勝仏
大通智勝仏

大山祇神が権化の本地仏「大通智勝仏」 16人の王子を持ちます
大山祇神社に神宮寺ができるのは保延元年(1135)のことで、当初は「神供寺」と呼ばれていました。「三島宮御鎮座本縁」には
七十五代崇徳院御宇保延元(乙卯)年、天下卒て暗夜の如く、雲靉靆と為し、人民日月光を見ず三日に及ぶ。 時に虚空に軍陣の音隙無く聞へ、其の響き恰も雷霆の如し。 故に人民大に騒動す。 此の時大山積神託宣に曰く、吾諸大地祇を率ひて、これを掃い除く也。 少く頃ありて快晴す。 これに依り諸人奇異の思ひを為しこれを伝へ聞く。 遠近の貴賤当社へ群集参運ころ数日夥しと云云。 此の事叡聞に達し、藤原忠隆を勅使と為し、当社の本宮を始め末社迄悉く造営之宣旨。 
 別て神代巻造化を以て人体に教へ給ふ通り、本社に雷神・高龗を加へ、三社を以て本社に崇むべしとの宣旨これ有り。 此の時に臨み、供僧妙専・勝鑑等国中に進め社の傍に一寺を建立し、神供寺と号す。 外に一宇の堂を建立し、大通智勝仏の像を安置し、大山積の本地と為す。 其の外摂社末社の本地仏を斯の如に調へ、御正体と号し、大通智勝仏の左右に掛け並へ、仏供院と号す。 亦は本寺堂と云。 是れ神供寺の初め也云云。
前半部は暗闇が何日も続く「天変地異」が続いたこと、これを大山祗神が治めたので、朝廷から勅使がやって来て本宮・末社を造営した事が記されます。同時に別当寺が建立されます。さらに
「神供寺のほかに「一于の堂」を建て、そこに大通智勝仏(東西南北四方八方を守護するとされる仏)の像を安置し、大山積神の本地仏とした、また、摂社末社の本地仏も調え、それらを大通智勝仏の左右に並べ、この堂を「仏供院」とも「本寺堂」とも称した、これが大山祇神社の「神供寺」の初めである」
と記します。このようにして、この神社では国家主導の形で神仏習合は進めれたようです。
神仏習合時代、神宮寺の最盛期には二十四坊があったと伝えられます。
『大三島詣で』は、その二十四坊の名を、次のように記します。

泉楽坊・本覚坊・西之坊・北之坊・大善坊・宝蔵坊・東円坊瀧本坊・尺蔵坊・東之坊・中之坊・円光坊・新泉坊・上臺坊・山乗坊・光林坊・乗蔵坊・西光坊・宝積坊・安楽坊・大谷坊・地福坊・通蔵坊・南光坊
 
『本縁』は、天正五年(1577)には「検校東円坊、院主法積坊、上大坊、地福坊」の四坊しか残っていなかったと記します。南北朝から戦国期に多くの坊が廃絶したようです。ここが修験者たちの拠点であったのでしょう。現在にまで法燈をつないでいるのが、今治市の南光坊(四国巡礼札所)と大山祗社に隣接する東円坊の二坊のみのようです。瀧本坊は、熊野における那智大滝を統括していた坊名です。ここからも大三島における熊野修験者の活動がうかがえます。

大山祗神社3

 神域を歩くと、楠の巨木に何本も出会います。
その中で、もっとも存在感があるのは、境内の中心に聳える「小千命御手植の楠」でしょう。
『大山祇神社略誌』には、次のように紹介されています。
 小千(おち=越知氏の祖先)命は神武天皇御東征にさきがけて祖神大山積神を大三島に祀り、その前駆をされたと伝える。境内中央に聳え御神木として崇められている。

小千命御手植の楠

 そしてもう一本、霊木「能因法師雨乞いの楠」があります。
『略誌』は、この楠について次のように奇譚を述べます。
 伊予守藤原範国の命により祈雨のため大三島へ詣でた能因法師が「天の川苗代水にせきくだせ天降ります神ならば神」と詠じて幣を奉ったところ、伊予国中に三日三晩降り続いた(金葉和歌集)という。宇迦神社前の古木がこれである。

お隣の讃岐では、国守の菅原道真自身が雨乞祈祷を行っていますが、ここでは霊験のある修験者に雨乞祈願を行わせています。
そのために
能因法師がやって来たのがここです。注意したいのは「幣を奉った」のが本殿ではなく、この大楠であったこと。また、「天の川苗代水にせきくだせ天降ります神ならば神」にしても、本殿神ではなく大楠に宿る神への奉納歌であること。ここからは能因法師は、この大楠に大三島の水霊神(雨を司る神)が宿ると認識していたことがうかがえます。
 『略誌』は「宇迦神社前の古木がこれである」と書かれているだけで、その後の説明はありません。しかし、この霊木があるのは宇迦神社の前で、その本尊は龍神のようです。境内の中にも、いろいろな神々が祀られていたことがうかがえます。
大三島詣で』は、宇迦神社について、次のように書いています。
宇迦神社
鎮座地  本社境内(放生池の島
祭 神  宇賀神
例祭日 三月十五日
 木造・素木・流れ造り・屋根銅板葺き。池をはさんで木造・素木・屋根銅板葺きの拝殿。現在の社殿は昭和五十七年十二月新築。
 例祭のほか、本社の例大祭にさきだち、旧暦四月十五日から二十一日までの七日間、大祭期間中の好天を祈る祈晴祭が、当日晴天のときには旧暦四月二十四日に祈晴奉賽祭が行なはれ、その神饌は放生池に投供される。
 古来祈雨・祈晴の霊験あらたかな神社として信仰されており、雩の神事には安神山頂の龍神社にお籠りをし、つづいて宇迦神社の放生池(土地の人が、べだいけんと呼ぶ)をさらえ、境内で千人踊りをした。

放生池の中島にまつられる宇迦神社
放生池の中島にまつられる宇迦神社
 宇迦神社は「古来祈雨・祈晴の霊験あらたかな神社」とあります。
このことを知っていたから能因法師は、本殿ではなく宇迦神社の前の霊木の前で、雨乞祈祷をおこなったのかもしれません。ここには、大山祗神と宇賀神が「地主神と客神」の関係にあったのではないかという疑問も沸いてきますが、それはここでは封印しておいて・・・
 ここで見ておきたいのは、中世において院坊が数多く成立し、そこを拠点に熊野系の修験者が周辺への「布教活動」を展開している様子がうかがえることです。大三島周辺の島々への布教を行い、勃興する村上氏などを信仰下に置いて行ったのは、修験者たちだったようです。

それでは大山祗神社の社僧(=修験者)たちが聖地とし、行場としたのはどこでしょうか?
 大山祇神社の神体山はふたつあります。

安神山(大山祇神社の神体山の一つ)

ひとつは、龍神社を山頂にまつる山が安神山です。
もうひとつが、大山祇神社本殿の右後方に聳える山、鷲ヶ頭山です。この山には現在TV塔が建っていて、サイクリストのヒルクライムのトレーニングゲレンデにもなっていますが、ここに立てば絶景が広がります。
 さて、この山の谷にあるのが行場の「入日の滝」です。
研究者は「大三島において、修行・信仰の対象となりうる滝は、この「入日の滝」をおいてほかにはありません。」とまで云います。
滝山寺2
入日の滝

この滝までが、かつては大山祇神社の神域だったのではないでしょうか? 
現在、ここには滝山寺(無住)があり、その本尊は十一面観音です。古い供養塔などがみられ、その鎮守社は小さな祠ですが、祠内には「出雲大社」の神札がみえます。
 大山祇神社一の鳥居の横にある観光案内板は、この「入日の滝」について、
「鷲ヶ頭山の山麓にあり、高さ一六m男瀧女瀧にわかれている。その飛沫が夕陽に映じて美観を呈する夢幻境で俗塵が洗われる。古くから蛍の名所として知られている」
と記すのみです。神仏混淆時代の修験者の活動について、触れる事は当然ありません。

滝山寺本尊
滝寺の十一面観音
 しかし、しかしここの滝神は、先ほど述べたように本地仏を十一面観音とし、出雲大神を滝神と見立てています。この神仏習合関係を研究者は次のように指摘します

「この関係は、熊野・那智と似ています。那智において、大滝の神(飛滝権現)の本地仏は十一面千手観音ですし、熊野那智大社は那智大滝の神を出雲大神としています。また、滝山寺の御詠歌には、「大三島西国第一番台[うてな]の瀧山」とあます。
 これは、熊野那智(那智山青岸渡寺)が西国三十三観音巡礼第一番札所であったことを擬したものでしょう。「入日の滝」の滝神が、熊野那智の滝姫神を投影させたものであることは明らかで、熊野那智の滝信仰が、大三島の「入日の滝」にはまるごと再現されているようです。」

 ここからも大三島周辺で活躍した修験者達が熊野系であったことが推察できます。さらに一歩踏み込むなら、吉備児島の五流修験の流れではないかと考えられます。五流修験は、修験道開祖の役行者が国家からの弾圧を受けた際に、弟子達が熊野を亡命し、新コロニーを児島に打ち立てて「新熊野」を名乗り、瀬戸内海周辺に影響力を伸ばしていきます。その流れがここまで及んでいるようです。

祖霊殿2

参考文献 月の抒情、瀧の激情 http://teamtamayura.blog87.fc2.com/blog-entry-9.html?sp

 

 
大山祗神社1

 大山積神社は芸予諸島の真ん中にあり、一番大きな大三島にあります。古来から瀬戸内海交易ルートのど真ん中にあるで、モノと人が行き交う流通ルートに位置していました。この神社の由緒は古く延喜式内社で、のちに一ノ宮と称せられ、明治時代には国幣大社となっています。この神社には、有名な武将たちが奉納した鎧兜・太刀等が数多くあります。その数量は国宝七点、重要文化財七四点に達し「刀剣・兜の宝庫」ともいわれます。平安初期から鎌倉・室町・戦国・江戸の各時代を通じての、逸品が時代を超えて納められています。
大山祗神社 甲冑1

例えば国宝に指定されている平安期のものを4つ挙げてみると、
①わが国最古の作品といわれる沢潟威鎧兜(国宝)
②源頼朝が寄進したという豪壮華麗な紫綾威鎧(平安末期の制作 国宝)
③源義経の奉納と伝える赤糸威胴丸鎧(平安末期、国宝)
④伊予の豪族河野通信の寄進にかかる紺糸威鎧兜(平安末期 国宝)
  武将が武具類を奉納した背景には、祭神大山祗神が海の守護神であるとの信仰があったようです。
「大山祗神社=大三島神社=海の神様」というイメージを私も、何の抵抗もなくうけいれてきました。しかし、考えて見れば、大山祗神そのものは山の神です。それが、なぜ海の神に「変身」したのでしょうか。そこには、神社をとりまくいろいろな社会事象があったようです。それを今回は見ていく事にします。

大山祗神2
 大山祗神は、もともとは山を祀る神
 この神社の祭神は大山祗神であって、大山積・大山津見とも書き、三島大神・三島大明神とも呼ばれました。今では大山祗と表記しますが、古くは大山積でした。『古事記』によると、大山祗神はイザナギ・イザナミの二神の子です。この神を同書および『日本書紀』の一書では山の神とし、また書紀の一書に火神の分神としています。大山祗とは山津持を意味し、山を持つ神すなわち山を掌る神としています。
大山祗神1
大山祗神
 また古事記では、伊井諾命が十拳剣カグツチ石神を斬った時、オド山津見神・奥山津見神・志芸山津見神・羽山津見神・原山津見神・戸山津見神らの山神が生まれたことを伝えます。本居宣長の説によると、大山祗神はこれらの山神を統轄する神であるとしています。
 ところが、天平二十年(七四八)までに編集されたと思われる『伊予国風土記』逸文のなかに大山祗神に関する異説が記載されています。そこには次のように記されます。

 宇知(越知)郡御島坐神御名大山積神、一名和多志大神也、是神者仁徳天皇御世、此神自百済度来坐而津国坐云々、謂御島者津国御島名也、
この本文のなかの「宇知」は「乎知」(すなわちのちの越智)の当字と考えられます。意訳変換しておくと、
越智郡の大三島に鎮座する大山祗神は、別名を和多志大神と称する。この神は仁徳天皇の時代に百済国から渡来して津国(伊予)に鎮座したという。御島とは伊予の島名である。

ここに書かれる津国の神社とは、式内社の三島鴨神社のことのようです。伊予以外に、由緒の古い三島神社は、伊豆国賀茂郡にもあって、同社の金石文によると天平二年に伊予国から勧請したと記されます。これらの三島神社が賀茂氏と関係が深いこと、また伊予国越智郡内に鴨部郷があるので、はじめは伊予国には賀茂氏の手によって勧進されたと研究者は考えます。
 越知氏が越智郡司となって権勢が強大になると、越智氏は大山祗神を氏神(一族の守護神)として祭祀するようになります。
 風土記逸文のなかに書かれた大山祗神の説話については、次のようないろいろな解釈があります。
その1 仁徳期の朝鮮半島遠征の際に、従軍した越知氏がもたらした説
しかし、仁徳期に、越智氏とよぶ強大な部族の出現は視られません。越知氏の存在が分かるのは7世紀になってからです。この説を研究者は次のように考えています。
「この説話は史実ではなく、恐らく風土記が編集されたころ、大山祗神が百済国から渡来したとの伝承が醸成せられていたのであろう。この説話の背景に、先進国家百済国と関係づけ、その評価を高めようとする考えがひろく存在していたことがうかがえる。」

  その2 越智直が百済救援軍に参加した伝承と深い関係があるとする説
『日本国現報善悪霊異記』のなかに、越智直が百済に出征した際、不幸にして唐軍の捕虜となり中国に拉致され、九死に一生を得て帰国した。朝廷ではその労苦をねぎらうため、彼の要望によって越智郡がつくられた旨を述べています。そこで、彼が帰国した事件を奇縁として大山祗神が百済から渡来したとの説話を生むようになったと解釈する説です。
   霊異記は弘仁十三年(812)に景戒の手によって編集された仏教説話集です。そのため大部分は因果応報物語で、資料的な信憑性について問題があるのは当然です。研究者達は次のように指摘します。
「この説話は史実として見るべきではなく、越智郡の創設された時期を推察する一参考資料として取扱わなければならない」

大山祗神が百済から渡来したとの説話を、霊異記と関係づけて伝承史料とするには、無理があるようです。
 仏教が伝わり、平安時代中期に神仏習合思想がおこり、日本の神々の本地は印度の仏菩薩であり、仏菩薩が衆生を救済するために神の姿で現れると説きます。
大山祗神は、どんな仏が神様に「変身」したものなのでしょうか?
伊予の豪族河野家で編集された『予章記』・『予陽河野家譜』等によると、大山祗神の本地仏は大通智勝仏としています。大通智勝仏は法華経化城喩品の中に登場する仏で、はるか昔に出世した仏となっています。
大通智勝仏
 大通智勝仏
大山祗の本地仏を大通智勝仏としたのなぜでしょうか? 
それは本社を祀った越智氏(のちの河野氏)が、自分の姓の越智すなわち「知慧に越ゆ」ことから出発して、仏教思想に結びつけたからのようです。また平安末期の河野通清・通信をはじめとして、その嫡子たちが名前に通の字を使用したのも、大通智勝仏にあやかったからでしょう。後世の記録ですが『北条五代実記』のなかには、このことについて次のように記します
 抑三島大明神卜申ハ 元来ハ伊予国二御鎮座アリ、(中略)本地ハ大通知勝仏ニテ御座ス、是二依テ彼御神ノ氏人伊予河野ノー門ハ、今二至テ大通ノ通字ヲ名乗トカヤ、越智ノ姓是也、

意訳しておくと
そもそも三島大明神は、もともとは伊予国に鎮座していた。(中略)
その本地仏は、ハ大通知勝仏である。ここにこの神の信者(氏人)の伊予河野ー門は、今にいたるまで大通の通字を名乗るという。越智の姓もそうである。
大通智勝仏の弟子達1
               大通智勝仏の弟子達

 大山祇神社の創建については、『予章記』などの郷土史料に次のような「創建説話」があります。

越智玉興が海路により伊予国に帰る途中、備後国の沖で飲料水の欠乏に苦しんだ時、霊験によって潮中に清水を得て、苦難をまぬかれた。そこで玉興はこの奇瑞を朝廷に報告し、勅宣によって大三島に社殿を造営し、大山積大明神と称した
 
創建説話とは別に、確実な史料によって本社の変遷をたどってみましょう。
『続日本紀』天平神護二年(七六六)四月の条に、大山祗神に神階従四位下と神戸五戸があてられています。
天平神護二年夏甲辰、伊予国神野郡伊曾乃神、越智郡大山積神、井授従四位下、充神戸各五戸、

この記事によってすでに奈良時代には本社が存在し、地域の尊崇をうけていたことが分かります。さらに大同一年(八〇六)に神封五戸があてられ(『新抄格勅符抄)承和四年(八三七)に明神に列しています(『続日本後紀』)。

大山祗神社3

 延長五年(九二七)に『延喜式』の編集が完成し、その神名帳のなかに、本社が国幣大社として記載されています。神名帳に登載された神社は、延喜式内社と呼ばれ、古くから朝廷の尊崇をうけ、祈年の頒幣に預かった官社でした。その中でも神祇官の祀る神社を官幣社、国司の祀る神社を国幣社と称しました。国幣社に指定されていたという事は、この神社が特別な厚遇をうけ、また国との関係も深かったことが分かります。
 天慶三年(九四〇)九月に封戸が施入されますが、これには藤原純友の乱討平の祈願がこめられていたようです。その後も幾たびかの火災に遭いながら現在の本殿および拝殿が再建されたのは、応永年間(一三九四~一四二八年)のことです。

大山祗神社2

さて、この神社を神仏混交時代に管理していたのはどのような人たちでしょうか
 この神社には早くから塔頭が置かれ僧侶が勤務していたことが『大山積神社文書』によって分かります。また大三島の『神原文書』からは、大三島の十六坊が16世紀初頭の文亀年間にはあったことも分かります。ここからも神仏習合の下に、社僧による神社の管理が行われていたことがうかがえます。そして社僧の多くは熊野系の山岳修験者であったようです。

越智氏の台頭と大山祗神社の関係は?
大山祗神社の保護者であった越智氏は、古代末期に風早郡河野郷に移住して河野氏と称するようになります。河野氏はどんな一族だったのでしょうか?また、どのような過程をたどって武士化したかのでしょうか。
 越智氏の出自については、古くからいろいろの説があります。
①孝霊天皇の子伊予親王から出た説(『予章記』・『予陽河野家譜』による)
②武内宿禰から出た説(一条院坊宮内侍原刑部卿家蔵本『河野系図』による)
③大山祗命から系統を引く説(『三島系図』および『水里玄義』による)
④伊予御村別の祖先である武国凝別命から出た説(『和気系図』・『与州新居系図』による)
 これらの説に対し考証がすすめられた結果、現在ではニギハヤヒ命から出た小致命の子孫とする説(『天孫本紀』・『国造本紀』による)が妥当なものと研究者達は考えているようです。
 越智氏は、はじめ伊予国の中枢部に位置する越智地区を本拠としていました。
『国造本紀』によると応神天皇の代に大新川命の孫の小致(おち)命が国造に任ぜられています。その後、越智郡が設置されると、その子孫は越智郡司に任命されます。したがって、越智氏は国造→郡司のコースを歩んだ地方豪族のようです。

 越知氏が郡司であったことを物語る史料は「正倉院文書」の「正税出挙帳」です。
これは天平八年(七三六)に伊予国から政府へ提出された正税に関する報告書で、次のように記されますある。
   郡司 越知直広国 主政越知東人
  「?」税穀「?」千伍栢弐拾肆餅玖斗陸升参合
  頴稲肆万伍仔陸俗五拾漆束捌把
  出挙壱万弐千束
  借貸壱万「?」
  「?」伍拾漆東捌把
この記録には、大領の越智広国と主政の越智東人らの名が見えます。さらに『続日本紀』の神護景雲一年(七六七)二月二十日の条によると、大領の越智飛鳥麻呂が「あし絹」および銭貨を献納した功によって、外従五位下に叙せられています。

神護景雲元年二月庚子、伊予国越智郡大領外正七位下越智飛鳥麻呂、献絶二百舟疋銭一千二百貫、授外従五位下。

当時は物資を献納して叙位されることはよく行われていました。ここからは越智氏が開発領主として大規模な農地経営に乗り出して経済的な成長を背景に位階を高めている様子がうかがえます。
 海賊討伐と越智氏の武士化
 古代律令体制の傾きとともに、瀬戸内には海賊が横行するようになります。伊予国も彼らの震源地となります。治安の維持のために警備増強が求められるようになります。しかし、海賊の横行は激しくなるばかりで官物を強奪し、人の命を奪うので瀬戸内海の交通も途絶えがちになります。『日本紀略』『本朝世紀』・『扶桑略記』等には、朝廷が各国府に対し山陽・南海の両道の海賊を逮捕するように命令し、諸社には海賊鎮圧の祈願をさせた記事が載せられています。
 このような中で伊予では、藤原純友が瀬戸内の海賊をまとめて、宇和郡日振島を拠点にして反乱をおこします。越智郡司であった越智氏も、政府の討伐指令に従って動いたはずですが、正史のなかにその名を見出すことはできません。
信頼できる史料によって、それ以後の越智氏の活躍を追ってみましょう。
『貞信公紀抄』によると、越智用忠が海賊の平定につくしだので、天暦二年(九四八)七月にその功労を賞するために、国衙から叙位を申請しています。
天暦二年七月十八日、伊予国申、越智用忠依 海賊時功、可叙位解文等、
令公輔朝臣奏之、加用忠貢書即還来、伝仰可被叙之状、
この海賊がどこのものであるかは解りませんが、純友の一軍だったものかもしれません。
また『権記』によると、長保四年(1002)に越智為保が伊予追捕使に任ぜられています。
 長保四年三月十二日戊申、(中略)伊予追捕使越智為保任符、
奉送前守許、依有彼守之所示、令労成也、
さらに『除目大成抄』によると、
治安三年(1023)に越智時任が大目に(『江家次第』)
永久五年(1117)に越智貞吉が大徐に任ぜられている(『除目大成抄』)
越智氏はもと武官ではありませんでした。しかし、在庁官人の地位を長く占める事で、中世の混乱かの中で在地土豪化し武装化するようになったようです。そして「海賊討伐」などを通じて地方の兵権に関わり、彼ら自身が武士集団化するようになります。当時の愛媛の在庁官人層は精神的な拠点として大山祗神社を重視し、その祭祀に務めていました。
大山祗神社6重文宝塔

 越智郡を本拠とした越智氏は、親清の代に風早郡河野郷に移ります。
そこで中世には姓を河野氏ともよばれるようになります。越智氏一族の移動した時期は、十二世紀の前半期のようです。河野氏は道前と道後との境にある髙縄山(986㍍)に城砦を築きます。
河野氏は武士団を結成するにあたって、越智郡から風早郡にわたる地域の中小領主層を多く従え、家臣団を組織していきます。その間、家臣による私有田経営も行なわれ、また荘園の開発も積極的にすすめられたようです。こうして河野氏一族の所領は、伊予国の各地域に拡大されていきます。
 一方河野氏は、引き続き大山祇神社を氏神として奉祀します。
また風早郡内の式内社である国津彦神社・櫛玉姫神社も尊崇します。これらの神社を本所とし、みずから領家となった荘園も出てきます。
大山祗神社5

  大山祗神は武士団の団結を誓う聖地へ
 源平の争いである保元・平治の二大乱(1156・1159)の結果、西国に根拠地を持つ平氏が源氏の勢力を圧倒して、一門の極盛時代を迎えます。河野氏は源氏に親しかった関係から、平氏の制圧をうけて失意時代を経験することになります。しかし、それも長くは続きませんでした。治承四年(1180)八月に、源頼朝が平氏討伐の兵をあげると、河野通清・通信父子はこれに応じ(『吾妻鏡』・『源平盛衰記』)高繩山城に兵を集結させます。
 さらに源義経が四国に上陸すると、その指令によって屋島・壇の浦海戦に舟師を率いて活躍しました。また義経の死後、頼朝は奥羽の藤原泰衡を討って、全国の統一をはかりますが、この奥州征伐に河野通信が従軍したことは『吾妻鏡』に詳細に記述されています。ここからは河野通信は頼朝に非常に近かったことがうかがえます。そのため河野家は頼朝亡き後の北条氏政権に素直に従えないところがありました。
 こうして上皇方に加担した河野氏は敗軍となります。
通信は伊予国に帰り、高縄山城によって抗戦しますが、幕府の征討軍によって陥落し、通信は傷ついて捕えられ、奥州平泉に配流されます。
 『築山本河野家譜』・『予陽河野家譜』には、承久の変のまえにして、通信は大山積神社に参詣し神託を請うたところ「幕府に応ずべし」とあったにかかわらず、神慮に背いて上皇側に味方したと書かれています。
 これは家譜の編者が承久の変における結果論から「創作した説話」とも考えられますが、その背後に大山祗神に対する崇敬心の厚かったこともうかがえます。

大山祗神社117

 承久の変によって、河野家は衰微の過程をたどります。これを再建したのは通信の孫通有です
彼は元寇で功績をたてます。通有は文永の役(1274)の後、幕命によって防衛のために九州に出動することになります。その際に『八幡愚童記』によると、大山祇神社に参詣し
「一〇年以内に蒙古が来襲しなかった場合、異国に渡って戦いを敢行する」
との起請文を神前に捧げ、これを焼きその灰をのんで武運の長久を祈願したという話を載せています。
 この後に、弘安の役(1281年)に通有は、博多湾内の志賀島の海戦に大きな功を挙げます(『八幡愚童記』・『蒙古襲来絵詞』)
 このエピソードからは、河野氏が大山祇神を深く信じていたことが分かります。
また河野氏にとって、大山祗神社が一族の精神的な精神的拠点であり、危機的事案が乗じたときには一族で、ここに集まり協議し、祈願したのです。そのため、この神社の神事費用は一国平均役として調達されたようです。これらの史実・伝承からは、河野氏が軍事的に海上に活躍する際には、お山の神様である大山祗神に海上の守護神の性格を習合していたことが見えてきます。

大山祗神社52

 長々と大山祇神社と越知氏(河野氏)の関係を述べてきましたが、ゴールにたどり着いたようです。武士化した越知氏、河野氏にとっては、戦いは海上戦を伴うものでした。そこでその戦いの勝利をもともとは「山の神様である大山祗神」に祈るようになったのです。
 こうして大山祗神社は、一族的な団結を図る聖地として機能すると同時に「海の神様」としての信仰を集めるようになったようです。

 

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