振り返ると石段が続きます。
そしてお目当ての桜も満開。
金刀比羅宮大門
すぐ大門が迎えてくれます。金刀比羅宮大門
大門をくぐると・・・金刀比羅宮 五人百姓
大きな朱色の傘 の下で「こんぴら飴」を売るのが見えてきます。
これが金毘羅の「五人百姓」です。「五人百姓」は、金刀比羅宮から大門(二王門)内の飴売りについて独占的営業権を持っていてます。金毘羅大権現の神事祭礼に関与し、神役を勤めてきた特定の家筋(山百姓)であるとされています。
これが金毘羅の「五人百姓」です。「五人百姓」は、金刀比羅宮から大門(二王門)内の飴売りについて独占的営業権を持っていてます。金毘羅大権現の神事祭礼に関与し、神役を勤めてきた特定の家筋(山百姓)であるとされています。
金刀比羅宮 五人百姓と桜の馬場
しかし、近年新しい考えが出されています。「五人百姓」は、金比羅さん成立以前からあった御八講(法華八講)の神事の時から関与をしていたのではないかという説です。山門内の五人百姓の飴売り図(金毘羅山名所図会)
「金比羅神」は近世に創り出された流行神です。
もともと、真言宗松尾寺があり、松尾寺の守護神(鎮守)の一つとして金毘羅神が祀られるようになります。その金毘羅神が近世に流行神となり、金毘羅大権現として大いに繁栄したというのが歴史的事実のようです。金毘羅・金毘羅神(クンピーラ)とは本来はインドの土着神で仏教とともに伝来し、仏法の守護神の仏として祀られ、金比羅大権現に成長していきます。日本の所謂「神」とは何の関係もありません。
金刀比羅宮 桜の馬場
桜の馬場はまさに「桜のトンネル」状態になっています。
鎌倉期には西山山麓に称明院、山腹に滝寺があり、もともとは観音信仰の霊場であったようです。そして、これらの霊場は修験道者の行場センターでもありました。初期の金比羅信仰の指導者となった僧侶達も多くが修験道者です。その一人は、神として奥社に祀られています。奥社にはその行場の岸壁に天狗の面がかけられています。これが何よりの証拠です。天狗は修験者の象徴です。
奥社の岩場に架かる天狗面
それでは古代から中世に、この山に修験者が入ってくる前はどうであったのでしょうか?
修験者の宥盛が厳魂彦命(いずたまひこのみこと)として祀られる「厳魂神社」=奥社
行場を求めて山に入る修験者と在地の「百姓」(中世的意味での)との間には、最初は軋轢があったようです。それが空海伝説にも数多く伝えられています。対立を越えて、両者が共存していく術が創り出されていったのでしょう。修験者と「在地百姓」の関係が「五人百姓」の起源だという説です。
「五人百姓」も、もともとは象頭山(琴平山を含む大麻山塊周辺部)一帯で狩猟を業とする「百姓」を先祖にもつ人々でなかったのではないかというのです。 従来は「百姓」は農業従事者と理解されてきました。しかし、中世では、単なる農民ではなく「百の姓」つまり、農業者、漁業者、技術者(職人・芸人)など広く一般の民衆を指す言葉でした。そうすると「山百姓」とは、象頭山(金毘羅大権現)の山の百姓であるとも考えられます。
また、飴売りについても「五人百姓」が近世以来、独占販売権をもっていたようではないようです。
独占販売権について書かれた史料は次の1点だけです。
独占販売権について書かれた史料は次の1点だけです。
①天保四年(1833)12月1日付けの山百姓嘆願書に「従来御当山御神役」を勤めていることと「先年より御門内にて飴商売後(御)免」(琴陵光重『金毘羅信仰』S24)
ここからは、独占的飴売りと「五人百姓」とをストレートに結びつけるのは気が早いと研究者は指摘します。むしろ、五人百姓は金毘羅大権現の神役を勤めてきたことから得た利権であると見た方が自然だと云うのです。
「五人百姓」が持つの神役の役割を探ることが必要です
桜の馬場の前の五人百姓
五人百姓は金毘羅神事において重要な役割を果たしてきました。
なかでも金毘羅大祭会式の10月11日の夜に本殿で行われる秘密神事に研究者は注目します。現在でも神官が蝶(ゆかけ=生乾きの獣皮で作った革手袋)で頭人の頭を撫でる所作があります。この秘儀は、古老の伝として、次のように伝えられます。
「・・・この行事は、以前三十番神を祀ったおかり堂(三十番神社)で、五人百姓の関与のもとに行われ、頭人のクライオトシといっていた。また、ここでの行事が、最も重要なものであった」という。さらに、「・・・頭人たちは、血生ぐさい牛革を頭につけられるのをきらった」ともいう。土井久義氏(「金刀比羅宮の宮座について」『日本民俗学』31号)
金毘羅大権現 観音堂行堂(道)巡図
このように「五人百姓」は金毘羅信仰の導入以前からあった御八講(法華八講)の神事の時から関与しています。この絵図を見ると行道しているのは、金毘羅大権現の本道ではなく観音堂です。ここからは金比羅の大祭がもともとは観音堂に対する祭りであったことがうかがえます。この絵の右側で何かを担いでいる人が五人百姓のようです。何を担いでいるのかは、よく分からないのですが「奉納品」だと研究者は考えています。つまり、近世に流行神として金毘羅大権現がこの地にやって来る以前から、五人百姓と修験者たちは観音堂への信仰によって結ばれていたことになります。ここでは、五人百姓が金毘羅大権現が現れる前から観音堂の信者であり、祭礼に重要な役割を果たしていたことを押さえておきます。
先住者と行場を求めてやってきた山林修行者(修験者)の間には、何かと衝突が繰り返されます。それは地主神と新しくもたらされた神々(仏たち)との対立という形で、空海伝説のテーマとしてもよく出てきます。
五人百姓の起源を求めると、彼らはもともとは象頭山(大麻山)一帯で狩猟・林業)を業とする「百姓」を先祖にもつ人々でなかったかと研究者は考えています。
大麻神社(讃岐国名勝図会)
そんな目で見てみると、象頭山はかつては大麻山と呼ばれ、今でも式内社の大麻神社が鎮座しています。この神社は、木工や建築などに高い技術を有していた讃岐忌部氏の氏神ともされます。そのため大麻山周辺は忌部氏の痕跡が、いろいろと残っています。大麻神社の神像(平安時代後期)
大麻神社には平安時代後期の作とされる祭神の天太玉命木像と彦火瓊々杵命木像があります。また、讃岐で最も古いと考えられる木造の獅子頭もありました。これらは木工技術者だった忌部氏の手によるものと私は考えています。 大麻神社随身門の神像
大麻神社の古代の木造神像もそのひとつです。東讃の大水上神社の別当の与田寺がそうであったように、中世には周辺神社に神像を提供する「神像制作センター」でもあったようです。そこには、古代の讃岐忌部氏の流れを汲む集団の存在が見えて来ます。
ここから次のようなストーリー(仮説)を考えて見ました。
五人百姓と讃岐忌部氏
①古代の大麻周辺は、讃岐忌部氏の勢力エリアで、彼らは木製品や神社建築などに特別な技術を持っていた②その拠点となったのが大麻神社周辺であり、木材確保のために「山の民」であった。
③そこに、行場を求めて山林修行者が入ってきて、山の支配権を巡って衝突が繰り返された。
④その結果、「山の民」は観音仏の信者となり、重要な祭礼儀式をになう存在として取り込まれた。
⑤観音信仰の聖地に流行神の金毘羅神が接ぎ木されると、「山の民(五人百姓の先祖)」は、金毘羅神の祭礼として参加する形式にすり替えられた。
大麻神社
そんなことを考えながら五人百姓の今の姿をみまもっていました。
改訂版2024年11月29日