瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:大麻山

  入会林の覚え書き 1641年
山入会(入会林)付覚書(大麻山周辺の入会林について)

生駒藩お取りつぶし後に、讃岐が二つの藩が出来て、丸亀藩に山崎家が入ってくることになったのが1640年のことでした。その時に、大麻山周辺をめぐる中世以来の入会林の既得権が再確認されて文書化されます。そこには入山料を支払い、入山鑑札を持参した上で、小松庄(琴平)の農民たちに大麻山の西側の「麻山」への入山が認められていました。ところが佐文の農民に対しては、鑑札なしの入山が許されていました。その「特権」が古代以来、佐文が「麻分」で三野郡の麻の一部と認識されていたことからくるものであったことを前回は見てきました。
 入山権に関して特別な計らいを受けて有利な立場にあった佐文が、それから約70年後の正徳五(1715)年になると、周辺の村々と紛争(山論)を引き起こすようになります。その背景には何があったのかを、今回は見ていこうと思います。テキストは、「丸尾寛 近世西讃岐の林野制度雑考」です。
佐文周辺地域
佐文周辺の各村(佐文は那珂郡、他は三野郡)

正徳5(1715)年6月に、神田と上ノ村・羽方の3ケ村連名で、丸亀藩に次のような「奉願口上之覚」が提出されています。

佐文 上の村との争論
山論出入ニ付覚書写(高瀬町史資料編160P)
意訳変換しておくと
一、財田の上ノ村の昼丹波山の「不入来場所」とされる禁足地に佐文の百姓達が、無断で近年下草苅に入って来るようになりました。そこで、見つけ次第に拘束しました。ところが今度は昨年四月になると、西の別所山へ大勢でおしかけ、松の木を切荒し迷惑かえる始末です。佐文の庄屋伝兵衛方ヘ申し入れたので、その後はしばらくはやってこなくなりました。すると、今年の二月にまた大勢で押しかけてきたので、詰問し鎌などを取り上げました。
佐文 上の村との争論2

このままでは百姓どもの了簡が収まりませんので、口上書を差し出す次第です。村境設定以前に、上ノ村山の中に佐文の入会場所はありませんでした。30年以来、南は竹ノ尾山の一ノかけから上、西は別所野田ノ尾から東の分については入会で刈らせていました

一、神田山について
前々から佐文村は、入会の山であると主張しますが、そんなことはございません。先年、神田庄屋の理左衛門の時に、佐文の庄屋平左衛門と心易き関係だったころに、入割にして、かしの木峠から東之分を入会にして刈り取りを許したといいます。これは近年のなってことでので、大違です。由□□迄参、迷惑仕候
 以上のように入山禁止以外にも、今後は佐文の者どもが三野郡中へは入山した時には「勝手次第」に処置することを、御公儀様へもお断り申上ておきます。三ヶ村の百姓は、前々から佐文の入山を停止するように求めてきましたが、一向に改まることがありません。そのためここに至って、三ケ村の連判で訴え出た次第です。御表方様に対シ迷惑至極ではございましょうが、百姓たち一同の総意でありますので口上書を提出いたします。百御断被仰上可被下候、以上        
正徳五(1715)年六月   
     
三野郡神田村庄屋   六左衛門
          同神田村分りはかた(羽方)村庄屋  武右衛門
上ノ村大庄屋字野与三兵衛
庄野治郎右衛門様
  神田村(山本町)・羽方村(高瀬町)と上ノ村(財田町)の庄屋が連名で、丸亀藩に訴えた書状です。佐文の百姓が上ノ村との村境を越えて越境してきて、芝木刈りなどを勝手に行っていること、それが実力で阻止されると、神田村の神田山にも侵入していること、それに対して強硬な措置を取ることを事前に藩に知らせ置くという内容です。
佐文 地図2

 これに対して佐文からは、次のような口上書がだされています。

佐文 上の村との争論 佐文反論
   佐文からの追而申上候口上之覚 (高瀬町史史料編158P)
  意訳変換しておくと
一、この度、財田之衆が新法を企て、朝夕に佐文村からの入山に対して差し止めを行うようになって迷惑を受けていることについては、2月28日付けの書面で報告したとおりです。佐文村からの入山者は勾留すると宣言して、毎日多くの者が隠れて監視を行っています。こちらはお上の指図なしには、手出しができないと思っているので、作付用意も始まり、柴草の刈り取りなどが必要な時期になってきましたが、それも適わない状態で迷惑しています。新法になってからは財田方の柴草苅取が有利に取り計らわれるようになって、心外千万であると与頭は申しています。

一、新法によって財田山へ佐文の入山は停止されたと財田衆は云います。朝夕に佐文から侵入してくる証拠としてあげる場所(竹の尾越)は、箸蔵街道につながる佐文村の人馬が往来する道筋です。そこには、馬荷を積み下ろしする場所も確かにあります。2月14日に、この通行を突然に差し止めることを上ノ村側は通告してきました。が、竹の尾越は佐文の人馬が往来していた道なので、馬の踏跡や馬糞まで今でも残っています。佐文以外の人々も、何万の人たちがこの道筋を往来してきました。吟味・見分するとともにお知りおき下さい。(以下破損)
一、先に提出した文書でも申上げた通り、財田側は幾度も偽りを為して、出入り(紛争)を起こしてきました。財田方の言い分には、根拠もなく、証拠もありません。度々、新法を根拠にしての違法行為に迷惑しております。恐れながらこの度の詮儀については、申分のないように強く仰せつけていただけるよう申し上げます。右之通、宜被仰上可被下候、以上  
正徳五未四月十三日      佐文村庄屋 伝兵衛 印判
同村与頭覚兵衛 
同同村五人頭弥兵衛
同同村惣百性中
山地六郎右衛門殿
佐文の言い分をまとめてみると次のようになります。
①「新法」を根拠に、財田上ノ村が旧来の入会林への佐文側の入山を禁止し、実力行使に出たこと
②その一環として、箸蔵街道のに続く竹の尾峠の通行も規制するようになったこと
③佐文側が「新法」について批判的で、「改訂」を求めていること。

両者の言い分は、大きく違うようです。それは「新法」をどう解釈するかにかかっているようです。新法とは何なのでしょうか?
貞享5年(1688)年に、丸亀藩から出された達には、次のように記されています。
「山林・竹木、無断に伐り取り申す間敷く候、居屋鋪廻り藪林育て申すべく候」

意訳変換しておくと
「林野(田畑以外の山や野原となっている土地)などに生えている木竹などは藩の許可もなく勝手に切ってはならない、屋敷の周囲の藪林も大切に育てよ

というものです。さらに史料の後半部には「焼き畑禁止条項」があります。ここからは、藩が田畑だけでなく山林全体をも含めて支配・管理する旨を宣言したものとも理解できます。この達が出る前後から、藩側からの山林への統制が進められていったようです。
 そのひとつが山検地であると研究者は指摘します。
山検地は、丸亀藩の山林への統制強化策です。山検地は、田畑の検地と同じように一筆ごとに面積と生えている木の種類を調査する形で行われています。京極高和が丸亀へ入部した万治元(1658)年の5月に、山奉行高木左内が仲郡の七ヶ村から山林地帯を豊田郡まで巡回しています。これが山検地の最初と研究者は考えているようです。検地の結果、山林については次の4つに分類されます
①藩の直轄する山林
②百姓の所有する山林
③村や郡単位での共有地となっている山林
④寺社の所有する山林
そして、5年毎に山検地は行われますが、検地を重ねる度に山林が藩の直轄林(御林)に組み込まれていきます。そして、入会地が次第に縮小されていきます。この結果、佐文が既得権利を持っていた「麻山」や「竹の尾越」周辺の入会地も縮小されていったことが推測できます。一方で、佐文でも江戸時代になって世の中が安定化すると、谷田や棚田が開発などで田んぼは増えます。その結果、肥料としての柴木の需要はますます増加します。増える需要に対して、狭まる入会地という「背に腹は刈られぬ状況」の中で、佐文の住民がとったのが「新法=山検地(?)」を無視して、それ以前の入会地への侵入だったようです。
①南は、竹の尾越を越えた財田上の村(財田町)方面
②南西は、立石山を越えた神田村(山本町)方面
③西は、伊予見峠を越えた羽方村(高瀬町)
佐文 地図2

これらの山々でも、入会地縮小が進んでいたようです。それが「新法」だったと私は考えています。特権として認められたいた麻山の旧入会地が狭められた結果、入るようになったのが①~③のエリアで、それも新法で規制を受けるようになったのかもしれません。どちらにしても丸亀藩の林野行政の転換で、入会林は狭められ、そこから閉め出された佐文が新たな刈敷山をもとめて周辺の山々に侵入を繰り返すようになったことがうかがえます。
 佐文村の百姓が藩が取り決めた境を越えて昼丹波山・別所山・神田山(二宮林)へ入って、柴草を刈ったことから起こった紛争の関係書類を見てきました。これに対する丸亀藩の決定は、「取り決めた以外の場所へ入り申す義は、少しも成らるべからざる由」で、「新法遵守」でした。佐文の既得権は認められなかったようです。
 これから享保10(1725)年には「神田村山番人二付、廻勤拍帳」という史料が残っています。これは「山番人」をめぐる神田・羽方両村の争いに関する史料です。ここからは、佐文との山争論の10年後には、村有林や入会林を監視するために「山番人」が置かれるようになったことが分かります。また、「御林」に山番人が監視にあたると、今まで入会地とされてきた場所は次第に「利用制限」されていきます。それまでは、村と村の境は、曖昧なところがあったのですが山林も財産とされることで、境界が明確化されていきます。山の境界をめぐって、藩の山への取り締まりは強化されていきます。
 しかし、百姓たちからする「御林(藩の直轄山林)」は、もともとは自分たちの共有林で入会林であった山です。そこに入山ができなくなった百姓たちの反発が高まります。そうして起こったのが享保17年の乙田山争論のようです。このような隣村との境界や入会権をめぐる争論を経て、近世の村は姿を整えていくことになります。
琴南林野 阿野郡南川東村絵図(図版)
阿野郡南 川東村絵図
(まんのう町川東地区の御林(緑色)と野山(赤色)を色分けした絵図
 中世の各郷による山林管理体制を引き継いだ生駒時代には、野山・山林の支配は村を単位にして、藩主と個人的関係のある代官や地元の有力者を中心に行われていました。とくに大麻山・琴平山と麻山の周辺の山林は、佐文のように古い体制を残しながら支配が複雑に入り組んでいました。それがきちんとした形に整えられていくのは享保年間ごろと研究者は考えています。生駒家時代の林野に対する政策は、京極藩で確立する林野政策の過渡的な形態を示しているようです。
まんのう町の郷
古代中世の各郷
 以上をまとめておくと
①生駒時代には、大麻山は入会林で鑑札を購入しての周辺村々の芝木刈りのための入山が認められていた。
②麻山の鑑札による入会林として利用されていたが、佐文は鑑札なしでの芝木刈りが認められていた
③丸亀京極藩は、田畑以外に山林に対しても山検地を始め、入会林を「御林(藩の直轄林)」へと組み込みこんでいった。
④「御林」の管理のために「山番人」が置かれるようになり、入山規制が強まる。
⑤こうして「麻山」周辺への入山規制が強化されるにつれて、佐文は南部の財田や神田への山林への侵入をするようになった。
⑥これに対して財田上の村、神田村、羽方村の3ケ村連名で「新法」遵守を佐文に求めさせる抗議書が提出された。
⑦丸亀藩の決定は「新法遵守」で、あらたに設定された境界を越えての入山は認められなかった。
⑧このような入会林や村境界の争論を経て、近世の村は確立されていく
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  「丸尾寛 近世西讃岐の林野制度雑考」

佐文と満濃池跡
讃岐国絵図 佐文周辺

まんのう町佐文は、金刀比羅宮の西側の入口にあたる牛屋口があった村です。角川の地名辞典には、次のように記されています。
古くは相見・左文とも書いた。地名の由来は麻績(あさぶみ)が転訛して「さぶみ」となったもので、古代に忌部氏によって開拓された土地であるという(西讃府志)
 金刀比羅官が鎮座する山として有名な象頭山の西側に位置し、古来から水利の便が悪く、千害に苦しんだ土地で、竜王信仰に発した雨乞念仏綾子踊りの里として知られている。金刀比羅宮の西の玄関口に当たり、牛屋口付近には鳥居や石灯籠が多く残っている。阿波国の箸蔵街道が合流して地内に入るので、牛屋口(御使者口)には旅館や飲食店が立ち並んで繁盛を続けた。「西讃府志」によると、村の広さは東西15町。南北25町、丸亀から3里15町、隣村は東に官田、南東に追上、南に上之、西に上麻・神田、北に松尾、耕地(反別)は37町余(うち畑4町余。屋敷1町余)、貢租は米159石余。大麦3石余。小麦1石余。大豆2石余、戸数100。人口350(男184・女166)、牛45。馬17、
伊予土佐街道が村内を通過し、それに箸蔵街道も竹の尾越を超えて佐文で合流しました。そのため牛屋口周辺には、小さな町場もあり、荷駄や人を運ぶ馬も17頭いたことを、幕末の西讃府志は記します。

佐文は、1640年の入会林の設定の際に有利な条件で、郡境を越えた麻山(大麻山の西側)の入会権を認められていることを以前にお話ししました。この背景を今回は見ていくことにします。
讃岐国絵図 琴平 佐文周辺
讃岐那珂郡 赤い短冊が3つあるのが金比羅 その南が佐文 
 1640(寛永十七)年に、お家騒動で生駒家が改易され、讃岐は東西二藩に分割されることになります。
この時に幕府から派遣された伊丹播磨守と青山大蔵は、讃岐全域を「東2:西1」の割合で分割して、高松藩と丸亀藩の領分とせよという指示を受けていました。その際に両藩の境界となる那珂郡と多度郡では、入会林(のさん)をめぐる紛争が後に起ることを避けるために、寛永十八(1641)年十月に、関係村々の庄屋たちの意見書の提出を求めています。これに応じて各村の庄屋代表が確認事項を書き出し提出したものが、その年の10月8日に提出された「仲之郡より柴草刈り申す山の事」です。 
入会林の覚え書き 1641年

意訳変換しておくと
仲之郡の柴木を苅る山についての従来の慣例は次の通り
松尾山   苗田村 木徳村
西山 櫛無村 原田村
大麻山 与北村 郡家村 西高篠村
一、七ヶ村西東の山の柴草は、仲郡中の村々が刈ることができる
一、三野郡の麻山の柴草は、鑑札札で子松庄が刈ることを認められている
一、仲郡佐文の者は、先年から鑑札札なしで苅る権利を認められている
一、羽左馬(羽間)山の柴草は、垂水村・高篠村が刈ることができる
寛永拾八年巳ノ十月八日

ここには、芝草刈りのための従来の入会林が報告されています。注意しておきたいのは、新たに設定されたのでなく、いままであった入会林の権利の再確認であることです。ここからは中世末には、すでに大麻山や麻山(大麻山の西側)には入会林の既得権利が認められていたことがうかがえます。

DSC03786讃岐国絵図 中讃
讃岐国絵図(丸亀市立資料館) 
大麻山は 三野郡・多度郡・仲郡の三郡の柴を刈る入会山とされています。
また、三野郡「麻山」(大麻山の西側)は、仲郡の子松庄(現在の琴平町周辺)の住人が入山して「札にて刈り申す」山と記されています。札は入山の許可証で、札一枚には何匁かの支払い義務を果たした上で、琴平の農民たちの刈敷山となっていたことが分かります。
  大麻山は、仲郡、多度郡と三野郡との間の入会地だったようです。
ちなみに象頭山という山は出てきません。象頭山は近世になって登場する金毘羅大権現(クンピーラ)が住む山として名付けられたものです。この時代には、まだ定着していませんでした。
ここで押さえておきたいのは、4条目の「同郡山仲之郡佐文者ハ先年から札無苅申候」です。
仲郡の佐文(現在、まんのう町佐文)の住人は、札なしで自由に麻山の柴を刈ることができると書かれています。麻山と佐文とは隣接した地域ですが郡境を越えての入山になります。佐文には特別の既得権があったようです。佐文が麻山を鑑札なしの刈敷山としていたことを押さえておきます。
 庄屋たちからの従来の慣例などを聞いた上で、伊丹播磨守と青山大蔵少は、新たに丸亀藩主としてやってきた山崎甲斐守に、引継ぎに際して、次のようなの申し送り事項を残しています。
入会林の覚え書き2 1641年

意訳変換しておくと
一、那珂郡と鵜足郡の米は、前々から丸亀湊へ運んでいたが、百姓たちが要望するように従前通りにすること。
一、丸亀藩領内の宇足郡の内、三浦と船入(土器川河口の港)については、前々より(移住前の宇多津の平山・御供所の浦)へ出作しているが、今後は三浦の宇多津への出作を認めないこと。
一、仲郡の大麻山での草柴苅については、従前通りとする。ただ、(三野郡との)山境を築き境界をつくるなどの措置を行うこと。
一、仲郡と多度郡の大麻山での草柴苅払に入る者と、東西七ヶ村山へ入り、草柴苅りをおこなうことについて双方ともに手形(鑑札札)を義務づけることは、前々通りに行うこと
一、満濃池の林野入会について、仲郡と多度郡が前々から入山していたので認めること。また満濃池水たゝきゆり はちのこ採集に入ること、竹木人足については、三郡の百姓の姿が識別できるようにして、満濃池守に措置を任せること。これも従前通りである。
一、多度郡大麻村と仲郡与北・櫛無の水替(配分)について、従来通りの仕来りで行うこと。右如書付相定者也

紛争が起らないように、配慮するポイントを的確に丸亀藩藩主に伝えていることが分かります。入会林に関係のあるのは、3・4番目の項目です。3番目の項目については、那珂郡では大麻山、三野郡では麻山と呼ばれる山は、大麻山の西側のになるので、今後の混乱・騒動を避けるためには、境界ラインを明確にするなどの処置を求めています。
4番目は、大麻山の入会権については多度郡・那珂郡・三野郡の三郡のものが入り込むようになるので、混乱を避けるために鑑札を配布した方がいいというアドバイスです。
 こうして大麻山と麻山に金毘羅領や四条・五条村・買田村・七箇村などの子松庄およびその周辺の村々が芝木刈りのために出入りすることが今までの慣例通りに認められます。子松庄の村々では麻山へ入るには入山札が必要になります。札は「壱枚二付銀何匁」という額の銀が徴収されていたと研究者は考えています。
 「佐股組明細帳」(高瀬町史史料編)に佐股村(三豊市高瀬町)の入会林について、次のように記されています。
「先規より 財田山札三枚但し壱枚二付き三匁ツヽ 代銀九匁」

これは、入会地である財田山への入山利用料で、3枚配布されているので、一年間で三回の利用ができたことになります。鑑札1枚について銀3匁、3枚配布なので 3匁×3枚=銀9匁となります。
 麻村では8枚の山札使用、下勝間村では4枚の使用となっています。財田山は、固有名詞ではなく財田村の山といった広い意味で、佐俣や麻村・下勝間村は、財田の阿讃山脈の麓に柴草を取りに入るために利用料を払っていたということになります。同じ三野郡内でも佐股、上・下麻、下勝間村は、財田の刈敷山に入るには「札」が必要だったことを押さえておきます。
 各村への発行枚数が異なるのは、どうしてでしょうか?
 各村々と入会林との距離の遠近と牛馬の数だと研究者は考えています。麻村の場合は、秋に上納する山役米について、次のように記されています。
「麻村より山札出し、代米二て払い入れ申す村、金毘羅領、池領、多度郡内の内大麻・生野・善通寺・吉田両村・中村・弘田・三井、三野郡の内上高瀬・下高瀬」

山役を納めなければならない村として、金毘羅領、池領の村々と多度郡・三野郡の各村が挙がっています。これらは先ほど見た「山入会に付き覚書」の中に出ている地域です。ここからは、1640年以後、大麻山・麻山への入山料がずっと続いていたことが分かります。

他の村の刈敷山に入るときには有料の鑑札を購入する必要があったようです。
そのような中で「佐文の者は、先年から鑑札札なしで(三野郡の麻山の柴木を)苅る権利を認められている」という既得権は、特異な条件です。どのようにして形成されたのでしょうか。その理由を考えてみます。

佐文1
西讃府志 佐文の地誌部分

西讃府志には、佐文について次のように記します。
「旧説には佐文は麻積で、麻を紡ぐことを生業とするものが多いので、そうよばれていた」

麻績(あさぶみ)、或いは麻分(あさぶん)が転訛して「さぶみ」となったと伝えます。ここからは、西隣の麻から派生した集団によって最初の集落が形成されたと伝えられていたようです。確かに佐文は地理的に見ても三方を山に囲まれ、西方に開かれた印象を受けます。古代においては、丸亀平野よりも高瀬川源流の麻盆地との関係の方が強かったのかもしれません。
佐文5
佐文と麻の関係

麻盆地を開いた古代のパイオニアは忌部氏とされ、彼らが麻に建立したのが麻部神社になります。これが大麻山の西側で、その東側の善通寺市大麻町には、大麻神社が鎮座します。
DSC09453
大麻神社
 大麻神社の由来には、次のように記されています。
 阿波忌部氏が吉野川沿いに勢力を伸ばし、阿讃山脈を越えて、谷筋に定着しながら粟井神社の周辺に本拠を置いた。そして、粟井を拠点に、その一派が笠田、麻に広がり、麻峠を越えて善通寺側に進出し大麻神社の周辺にも進出した。それを裏付けるように、粟井神社が名神大社なのに、大麻神社は小社という格差のある社格になっている。

ここには阿波忌部氏が讃岐に進出し、三豊の粟井を拠点としたこと、そこから笠田・麻を経て大麻神社周辺へ「移住・進出」したと伝えます。
大麻神社随身門 古作両神之像img000024
大麻神社の古代神像 

「大麻神社」の社伝には、次のような記述もあります。
「神武天皇の時代に、当国忌部と阿波忌部が協力して麻を植え、讃岐平野を開いた。」
「大麻山(阿波)山麓部から平手置帆負命が孫、矛竿を造る。其の裔、今分かれて讃岐国に在り。年毎に調庸の外に、八百竿を貢る。」
ここには阿波と讃岐の忌部氏の協力関係と「麻」栽培がでてきます。また讃岐忌部氏が毎年800本の矛竿を中央へ献上していたことが記されています。讃岐は、気候が温暖で、樫などの照葉樹林の成育に適した土地ですから、矛竿の貢上がされるようになったのでしょう。弥生時代の唐古遺跡から出土した農耕具の大部分は樫でつくられているといいます。材質の堅い樫は、農具として、最適だったようですし、武器にも転用できます。 善通寺の古代豪族である佐伯直氏は、軍事集団出身とも云われます。ひょっとしたら忌部氏が作った武器は、佐伯氏に提供されていたのかもしれません。
 讃岐忌部氏は、矛竿の材料である樫や竹を求めて、讃岐の地に入り、原料供給地のとなる大麻山周辺の山野を支配下に置いていったのでしょう。 讃岐忌部は、中央への貢納品として樫木の生産にあたる一方で、周辺農民の需要に応じるための、農具の生産も行なっていたと考えられます。讃岐忌部の居住地として考えられるのが、次の神社や地名周辺です。
①粟井神社 (観音寺市大野原町粟井)
②大麻神社 (善通寺市大麻町)
③麻部神社 (三豊市高瀬町麻)
④忌部神社   (三豊市豊中町)
⑤高瀬町麻 (あさ)
⑥高瀬町佐股(麻またの意味)
⑦まんのう町佐文(さぶみ、麻分(あさぶんの意味)
 佐文と大麻山
大麻山を囲むようにある忌部氏関係の神社と地名

佐文を含む大麻山周辺は、忌部氏の勢力範囲にあったことがうかがえます。
大麻山をとりまくエリアに移住してきた忌部氏は、背後の大麻山を甘南備山としてあがめるとともに、この山の樫などを原料にして木材加工を行ったのでしょう。近世に金毘羅大権現が台頭してくるまでは、大麻山は忌部氏の支配下にあって、樫など木材や、麻栽培などが行われていたとしておきましょう。そのような大麻山をとりまくエリアのひとつが佐文であったことになります。当然、古代の佐文は、その背後の「麻山」での木材伐採権などを持っていたのでしょう。それは律令時代に郡が置かれる以前からの権利で、三野郡と那珂郡に分離されても「麻山」の権利は持ち続けたます。それが中世になると小松郷佐文でありながら、三野郡の麻山の入会林(刈敷山)として認められ続けたのでしょう。
讃岐国絵図 琴平 佐文周辺2
讃岐国図(生駒藩時代)
生駒藩の下で作られた讃岐国絵図としては、もっとも古い内容が描かれているとされる絵図で佐文周辺を見てみましょう。
  多宝塔などが朱色で描かれているのが、生駒藩の保護を受けて伽藍整備の進む金毘羅大権現です。その西側にあるのが大麻山です。山の頂上をまっすぐに太い黒線が引かれています。これが三野郡と那珂郡の郡境になります。赤い線が街道で、金毘羅から牛屋口を抜けると「七ケ村 相見」とあります。これが佐文のようです。注目して欲しいのは、郡境を越えた三野郡側にも「麻 相見」があることです。
 ここからは、次のようなことが分かります。
①佐文が「相見」と表記されたこと
②「相見」は、かつては郡を跨いで存在したこと
西讃府志には「麻績(あさぶみ)、或いは麻分(あさぶん)が転訛して「さぶみ」となった」と記されていました。これは、西讃府志の記述を裏付ける史料になります。

麻部神社
麻部神社 (三豊市高瀬町麻)
以上をまとめておくと
①大麻山周辺は、木工加工技術を持った讃岐忌部氏が定着し、大麻神社や麻部神社を建立した。
②大麻山は、忌部氏にとって霊山であると同時に、木工原料材の供給や麻栽培地として拓かれた。
③大麻山の西側の拠点となった麻は、高瀬川沿いに佐文方面に勢力エリアを伸ばした。
④そのため佐文は「麻績(あさぶみ)、或いは麻分(あさぶん)」とも呼ばれた。
⑤麻の分村的な存在であった佐文は、麻山にも大きな権益を持っていた。
⑥律令時代になって、大麻山に郡境が引かれ佐文と麻は行政的には分離されるが文化的には、佐文は三野郡との関係が強かった
⑦中世になると佐文は、次第に小松(郷)荘と一体化していくが、麻山への権益は保持し、入会権を認められていた。
⑧そのため生駒騒動後の刈敷山(入会林)の再確認の際にも、「仲郡佐文の者は、先年から鑑札札なしで苅る権利を認められている」と既得権を前提にした有利な入会権を得ることができた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  

琴平町の象頭山という呼び名は、近世以後に金毘羅大権現が鎮座して以後の名前です。それまでは延喜式内社の大麻神社が鎮座する山として、全山が大麻山と(現象頭山を含め)呼ばれていたと私は考えています。
ブラタモリ こんぴらさん - めご の ひとりごと

 この山はNHKのブラタモリでも紹介されていましたが、金比羅本殿が建つ地点から上は安山岩でできていて、所々に岩肌を露わにした山様を見せます。金毘羅本殿の奥には、岩窟があるとされます。その外に山中には風穴などもあり、奥社の背後も岩壁となっています。これらの岩窟や瀧(断崖は)は、修験者たちの格好の修行場ゲレンデとなり、彼らの聖地となります。山岳信仰の高まりととともに、善通寺の「奥の院」として修行に励む修験者たちのゲレンデとなり、時代が下ると、そこに山岳寺院が出現したことがうかがえます。これらの寺院は、善通寺→瀧寺→尾背寺→中寺廃寺→萩原寺と山岳寺院ネットワークでつながり、修験者たちの活発な交流が行われていたことが、史料から見えてきます。そこには、多くの修験者たちが入り込み、「中辺路」修行を行っていたことがうかがえます。
 金毘羅大権現以前の、この山の宗教施設を順番に挙げておくと次のようになります。
①式内社大麻神社(忌部氏の氏神?)
②瀧寺(中世の山岳寺院)
③称名寺(中世の阿弥陀・念仏信仰の寺院)
④三十番社
⑤松尾寺金光院を別当とする金毘羅大権現
ここからは、近世に金毘羅大権現が流行神として出現する以前に、大麻山にはそれに先行する宗教施設があったことが史料からは分かります。
もうひとつのこの山の性格は、「死霊のゆく山」でした。
中世以来、小松荘の人たちにとっては、死者を葬る山でした。現在も、琴平山と愛宕山の谷間を流れる清流沿いには、小松荘以来の墓地である広谷の墓地が広がります。そこには、墓を守る墓寺も建てられ、高野聖達の念仏布教活動が行われていたようです。いわゆる「滅罪寺」もあったのでしょう。
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丸亀平野から見る大麻山
 一方、丸亀平野の里人から見れば、この山は祖先が帰っていく甘南備山で、霊山でした。神体でもあるこの山を仰ぎ見て、気象の変化が占われたのかも知れません。そのような処には、中世に成ると、拝殿が姿を現すようになります。それが多度郡の延喜式内雲気神社(善通寺市弘田町)や那珂郡の雲気八幡宮(満濃町西高篠)なのかもしれません。中世以前においては、大麻山は霊山で、信仰の山だったと私は考えています。
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今回は金毘羅大権現登場以前の宗教施設である称名寺を訪ねてみます。 テキストは前回に続いて、山本祐三「琴平町の山城」です。ここには、称名寺付近の詳細な地図が載せられています。この地図を参考に実際に私も訪ねて見ました。その報告記でもあります。

称名寺 「琴平町の山城」より
称名寺周辺地図(「琴平町の山城」)
称名院へは、ホテル琴参閣の裏のあかね幼稚園のそばから山に伸びる道を辿ります。この辺りは「大西山」と呼ばれ、山から流れ出す谷川沿の橋がとりつきになります。
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大門口
地図上には「大門口」あります。称名院(後の称明寺?)の大門跡と伝えられます。確かに、両側が狭まった所に大門が建っていたような雰囲気がします。しかし、研究者は後に道を付けるために切通したものと一蹴します。
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大門口を振り返って見た所
 ここを抜けると、空間が開け目の前に田んぼが現れます。なんでこんな所に・・と思っていまいますが、金毘羅宮の神田のようです。
金刀比羅宮神饌田 御田植祭3

6月には田植え祭が毎年行われ、田舞の歌が奉納される中で、早乙女(巫女)が苗を植える姿が見られます。神前にお供えするお米が古式に則って、栽培されています。
金刀比羅宮神饌田 御田植祭7

 さらに管理道を真っ直ぐに登っていくと、左手に伸びる広場に神馬(しんめ)の墓があります。ここからは琴参閣の向こうに西長尾城の城山が望めます。
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さらに林道を登り、原生林の中に入っていきます。砂防ダムの建設のために付けられた林道は、今は役割を終えて廃道になっていますが人が通るには快適な道です。
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薄暗くなった中を、すぐに右手にカーブすると森の中の大木の根元に、朽ちそうになった小さな祠が迎えてくれました。
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ここが、称名寺跡のようです。確かに周辺は広い平坦地です。しかし、林道整備の際に、造成された土地かも知れませんが、この盆地状に開けた所が称名寺跡としておきます。史料には、ここからは、五輪塔に用いた石が多く見られ、瓦も見つかることがあると記されています。

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 林道を上っていくと、谷川のせせらぎが響き、下には砂防ダムの湖面が見えます。さらに登ると林道の分岐点が現れ、そこに池があります。森の中に青い水面を見せる池で、趣を感じさせてくれました。
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しばし佇んでいたのですが、五月末の快晴の温かい日なので、ヤブ蚊の襲来を受けました。早々に退散します。里山歩きには、防虫ネット付きの帽子と長袖と防虫スプレーが必需品であることを忘れていました。 
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称名寺を訪れているのが高野山のエリート僧侶の道範です。
道範は、和泉国松尾の人で、高野山正智院で学び文暦元年(1224)には、その院主となり、嘉禎三年(1237)には金剛峯寺執行を兼ねた真言宗の逸材でした。それが内部抗争の責任を取らされて、仁治三年(1242)、讃岐に流されます。
 道範は、赦免される建長元年(1249)までの8年間を讃岐国で滞留します。最初は守護所(宇多津)の近くで窮屈な生活を送っていましたが、善通寺の寺僧らの働きかけで、まもなく善通寺に移り住んでからは、かなり自由な生活を送っています。例えば、宝治二年(1248)には、伊予まで開眼供養導師を勤めに旅行をしているほどです。
 その年十一月に、道範は尾背寺(まんのう町本目)に参詣をしています。この寺は、善通寺創建の時の柚(そま)山で、建築用材を供給した山と伝えられています。この時も、当時進められていた善通寺復興のための木材確保のためであったかもしれません。尾背寺も中世は、山岳寺院と多くの修行僧がやってきて書経なども行っていたことが、大野原の萩原寺に保存されている聖教の書き付けから分かるようになっていたようです。
 一泊した翌日、道範は帰路に称名院を訪ね、次のような記録を残しています。
「同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。
松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」  (原漢文『南海流浪記』)
 このあと、道範から二首の歌を念々房におくり、念々房からも二首の返歌があったようです。さらに、同じ称名院の三品房の許へこれらの贈答歌のことを書簡に書き送ったようです。三品房からの返書に五首の腰折(愚作の歌)が添えられ届けられています。
ここからは次のようなことが分かります。
①「九品の庵室」は、九品浄土の略で、この寺は浄土信仰のの寺
②念々房と三品房という僧侶がいた。念々房からは念仏信仰の僧侶であることがうかがえる
③三品房の書状には、称名院は弘法大師の建立であるとも記されている。
ここからは、まばらな松林の景観の中に、こじんまりとした洒脱な浄土教の庵寺があり、そこで念仏僧(高野聖?)が、慎ましい信仰生活を生活を送っていたことが見えてきます。以前に見た弥谷寺の念仏僧侶と同じような生活ぶりがうかがえます。
 私も称名院跡で、いろいろと想像してみようとしたのですが、その試みはヤブ蚊たちによってもろくも打ち砕かれたことは、先ほど述べた通りです。
瀧寺について
 道範は、念々房が不在だったために、その足で瀧寺を訪れ、『南海流浪記』に次のように記しています。
「十一月十八日、滝寺に参詣す。坂十六丁、此の寺東向きの高山にて瀧有り。古寺の礎石等處々に之れ有り。本堂五間、本仏御作千手云々」

 『西讃府志』(1852年)には、次のように記されています。
『南海流浪記』ニ宝治2年(1248)11月18日 参詣瀧寺 坂十六町  此寺東向高山有瀧  古寺礎石等庭々有之 本堂五間 本佛御作千手云々 此寺ハ大麻山ナル葵瀧ノアタリニアリシト云博ヘリ
 今ハ何ノ趾モ見エズ 又同書二称名寺卜云フモ載ス 是ハ此山ノ麓ニテ 今地ノ名二残リテ 其趾アリ 
意訳変換しておくと
「南海流浪記」には、1248年11月18日に、称名寺から坂を16丁(1,7㎞)ほど登った瀧寺に参拝した。この寺は、東向きの高山にあり、近くに瀧がある。古寺の礎石が庭に散在している。本堂は五間で、本佛は弘法大師御作の千手観音と云う。この寺は大麻山の葵瀧のあたりにあったと伝えられている。 今はなにも残っていないが、同書には称名寺も載せている。 この寺はこの山の麓にあった寺院で、 今は地名のみが残っている。 

瀧寺のロケーションとしては、称名院から坂道を16丁ほど上った琴平山の中腹で、近くに瀧があると記します。この瀧は「葵の滝」と考えられてきました。本尊仏は、御作とあるので弘法大師作の千手観音菩薩だったとします。金刀比羅宮所蔵の十一面観音像が、この寺の本尊であったとする研究者もいます。そうすると、道範は、千手観音と記しますので、ここには矛盾が出てくるようです。
 「琴平町の山城」は、瀧寺の位置について次のように記します
象頭山頂近くの「葵滝」の位置は、急斜面でとても寺が立地できる所ではない。(中略)
大麻山の東側中腹に東に向って派出した尾根の根元部鞍部を「木戸口」といい、これはその東向き尾根に戦国時代にあっ大麻山城の入口(虎口)のことである。(中略)
 平成12年4月22日(土)私たち5人は「大麻山城」の調査に行った。尾根に到着してから、松田ら三人は城の縄張図を採りはじめたが、私と淀川氏の二人はそれをせず、手持ち無沙汰だったので、「木戸口」そばに「瀧寺跡」の標識があったので、そのあたりをあちこち歩いてみた。「瀧寺」がどんな寺か当時知らなかったもののいわば時間つぶしの呈で歩いてみたのである。しかし寺跡の礎石や瓦なども見つからず、何も収穫はなかった。その辺りはやや平坦地で面積もかなり広く、寺院を建てるには適当な場所だと思った。
  として、大麻山城の「木戸口」の鞍部に「瀧寺」があったと推定します。
道範以後の称名院は、どうなったのでしょうか。
道範が称名寺を訪れてから約150年後の応永九年(1402)に撰集された『宥範縁起』に登場します。宥範は、以前にお話ししましたが「善通寺中興の祖」として、中讃では当時は最も尊敬された僧侶です。そこのころの宥範は、
「嘉暦二年(1327)……小松の小堂に閑居し給へり。」

と、隠退をしようとしていた時期でもあったようです。しかし、その高名・学識のために、それもかなわず、さまざまの仕事や要職に引っ張り出されます。隠居地としていた「小松の小堂」と称名(明)院は、同じ寺内か同義と研究者は考えているようです。なぜなら、『宥範縁起』の後段に次のような同様の記述が見えるからです。
「安祥寺の一流、底を極め、源を尽く給て、販国之後、小松の小堂に、生涯を送り御座す處に、…」

 と、あって宥範は余生を小松の地、なかでも大麻山近辺にある隠居寺で過ごすという意志が見えます。そして、この記述が、金毘羅と宥範を結びつける材料にもなったようです。
金刀比羅宮神饌田 御田植祭
  
   この後は、称名院の名は見えなくなります。
称名院という寺そのものは荒廃してしまい、その寺跡としての地名だけが残ったようです。金刀比羅宮文書中の、慶長十四年(1609)9月6日付の生駒一正の判物に、
  「一 城山、勝名(称名?)寺如前々令寄進候事」

慶長十八年(1613)正月14日付生駒正俊判物に同文、同年同月16日付生駒家家老連署寄進状に、「……勝名寺林……」
 年未詳正月19九日付生駒一正寄進状に
  「照明(称名)寺山……」
 などと出てきます。現在の金刀比羅宮でも、この地を「正明寺神田御田植祭」のように「正明寺」と表記されています。
これらの「しょうみょうじ」は、称名院の遺称地と研究者は考えているようです。
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現在「正明寺」と呼ばれる旧地名の盆地状の場所を称名院跡であると町誌ことひらは比定しています。

 称名院を、道範が訪ねたときは、宝治二年(1248)の冬11月でした。
町誌ことひらは、そのころ、法然房の直弟であった讃岐出身の僧侶を紹介しています。京都九品寺の覚明房長西です。長西は、讃岐国三谷(飯山町)の出身で、19歳の時出家して法然房の門下となり、その後に九品寺流の派祖になった人です。29歳で師の法然がなくなると、諸国の高徳の僧を訪ねて行脚を重ね、讃岐を拠点に念仏布教を行います。讃岐での布教の時の弟子に、覚心、覚阿らがいたようです。これらの人々が讃岐で活動していた時期と、道範の配流の時期が一致することを町誌ことひらは指摘します。

 道範は、覚海に学びその門下四哲の一人として不二思想を身につけていたようです。また、真言念仏にも傾倒して『秘密念仏紗』を著し、念仏義も追及しています。つまり、念仏信仰に強い関心を持っていたことがうかがえます。ここからは、先ほど見た称名院の念仏者と道範は、かねてより親交があったと研究者は考えているようです。
 称名院の九品の庵室といい、念仏者といい、九品の浄土を思う浮かべるには、いいロケーションだったのではないでしょうか。彼らが、念仏布教ために法然の配流地である小松荘を選んだとも考えられます。そういう視点で見ると、浄土宗の文書に出てくる「讃岐国西三谷」は、「鵜足郡三谷(飯山町三谷)」か、もしかして「那珂郡三谷(琴平町)」、つまり、称名院かもしれないと研究者は考えているようです。その根拠としてあげるのが石井神社の由緒に、
  「……源朝臣重信、……那珂郡小松庄三谷に城を構へ」

 とあることです。小松庄に三谷という所があって、城を築くに相応しい土地だったようです。その地が後に、寺地となっていたという推理です。
最後に『古老伝旧記』は、称名院について、次のように記します。
当山の内、正明(称名)寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。

 ここには、浄土信仰、念仏信仰の寺、西山の氏神としての称名院の姿が見えます。なお、金毘羅の民が氏神として祭ってきていた称明寺(称明院の後身?)の鎮守社が慶長年間(1596~)に廃絶します。それを継承して、旧小松郷五力村の氏神と大井八幡神社に祀ったと伝えられます。称名寺の鎮守社がこのエリアの産土神であったことがうかがえます。

この称名寺の管理権を握ったのが当時の長尾城主の甥である宥雅のようです。
宥雅は、この称名寺を拠点に新たな宗教施設を、この山に創建しようとします。そのために作り出したのが金毘羅神です。これは「綾氏に伝わる悪魚伝説 + インドの蕃神クンピーラ + 薬師信仰」をミックスした新たな流行神でした。これを、この称名寺の上方の岩穴付近に、松尾寺の守護堂として建立します。こうして、称名寺が「下の堂」、金比羅堂が「上の堂」という配置が出来上がります。しかし、それもつかの間、長宗我部元親の讃岐侵入で宥雅は堺に亡命を余儀なくされます。新設された金比羅堂は、南光院という土佐の修験者のリーダーの管理下に置かれることになります。そして、四国の修験道のメッカとして機能していくようになるのです。これは以前にも述べたとおりです。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
山本祐三「琴平町の山城」
町誌ことひら第1巻 中世の宗教と文化
参考文献

     讃岐の大麻山・五岳山は牧場だった?

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江戸時代初期、讃岐の生駒騒動により生駒家が改易となった時に引継史料として書かれた『生駒実記』に、こんな記事を見つけました。
「多度郡 田野平らにして山少し上に金ひら有り、
大麻山・五岳山等の能(よ)き牧有るに又三野郡麻山を加ふ」
多度郡は、平野が多く山が少ないが、山には金毘羅さんがある。
大麻山・五岳山(現、善通寺市)等には良好な牧場があって、これに三野郡の麻山が加えるということでしょう。牧とは牛馬が放たれて牧場となっていたと言うことでしょうか?

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ただ、大麻山と麻山とは一つの山の裏表で、多度郡側が大麻山、三野郡側は麻山と呼ばれている山です。現在は、琴平山(象頭山)と大麻山の二つのピーク名がついていますが、もともとは一つの山です。象頭山は、後の時代になって金毘羅さん側でつけられた呼称です。古くは大麻山でした。

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生駒高俊が琴平門前町の興泉寺に寄進した林

 大麻山に近接する山に地福寺山があり、ここに生駒高俊から興泉寺へ寄進された林がありました。
興泉寺(香川県琴平町) : 好奇心いっぱいこころ旅

興泉寺は、真宗興正寺派の寺院で、中世の本庄城のあった所とも言われています。もともとは金毘羅新町にありましたが、元禄元年の大火で類焼後この地に移転してきました。鐘楼には元和6年(1620)生駒正俊建立の額があります。鐘楼が寄進された時期に、林も寄進されたのでしょう。
 ちなみに幕末に高杉晋作を匿った日柳燕石(くさやなぎえんせき)が一時期住まいとして使用していた呑象楼(どんぞうろう)は、この寺の住職の隠居部屋でした。 燕石の幼名が刻まれた井戸枠も残っています。

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興泉寺の林への牛馬立ち入り禁止

 興泉寺に寄進された林に対して、寛永十四年閏三月十日の五ヶ村・金光院請書という文書には、
興泉寺林に牛馬を入れない、下木も伐らない
と約束しています。五ヶ村というのは買田・四条・五条・榎井の五村であり、金光院は現在の金刀比羅宮です。この五村は、おそらく大麻山と琴平山を牧場として利用していた地域だと研究者は考えているようです。これ以後は、大麻山などに近い地福寺山の興泉寺林に牛馬を入れない旨の誓約を興泉寺に対して出しています。それ以前には、この山も牧場として利用されていたのでしょう。
 どうやら本当に、大麻山には牛馬が放たれていたようです。
三野郡・多度郡・仲郡にまたがる大麻山・麻山山塊とこの近辺の山々一帯は、良質な飼い葉や柴草を供給する山だったようです。

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牛馬を入れることが出来なくなった百姓達は、どうしたのでしょうか?
寛永18年(1642)10月8日の「仲之郡より柴草刈り申す山の事」と入会の地について各村の庄屋が確認した史料には、
大麻山は 三野郡・多度郡・仲郡の三郡の柴を刈る入会山
として扱われていた記述があります。
 また、「麻山」は仲郡の子松庄(現在の琴平町)の住人が入山して「札にて刈り申す」山と記されています。札は入山の許可証で、札一枚には何匁かの支払い義務が課せられていました。仲郡、多度郡と三野郡との間の大麻山・麻山が入会地であったことを示す史料です。
 しかし、仲郡の佐文(現在、まんのう町佐文)の住人には札なしで自由に麻山の柴を刈ることができると書かれています。佐文は麻山に隣接した地域であることから既得権が強い入会地となっていたのでしょう。これらからも大麻山と麻山およびその周辺の山々は、地味の豊かなためか牧や入会地などとして多面的に利用されていたことが分かります。
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しかし、このようなバランスは寛永十八年以後の郡切や村切が進むことによって、きしみを見せ始めます。
京極丸亀藩の時代になると、正徳五年(1715)の史料に、財田上ノ村昼丹波山へ仲郡佐文の百姓が入ったことで山論(山の利用をめぐる上での争い)が発生したことが記されています。これをきっかけに、神田山でも同様の事件が起こったと記されています。
さらに、約十年後の享保十年には、神田山に山番が置かれ入会地としての利用に制限が加えられるなど、山の境界をめぐってさらに取り締まりが強まっていったことが分かります。
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貞享五年(1688)に丸亀藩から出された達には、
「山林・竹木、無断に伐り取り申す間敷く候、居屋鋪廻り藪林育て申すべく候」
という条文があります。
林野(田畑でなく、山や野原となっている土地)などに生えている本竹などは藩の許可もなく勝手に切ってはならない、屋敷の周囲の藪林も大切に育てよとのお達しです。さらに史料の後半部にある焼畑禁止条項を見れば、藩が田畑のみならず山林全体をも含めて支配・管理しようとしたことが分かります。これは丸亀藩が田畑のみならず山林全体を支配することを示したもので、藩側からの山林への統制が進められていったのです。
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そのひとつが山検地でした。

山検地は、田畑の検地と同じように一筆ごとに面積と生えている木の種類を調査する形で行われました。先ほどの佐文・財田山・神田山などでも入会地の境界設定が進み入会地が縮小していったのです。山騒動の背後には、このように入会地の縮小でそれまでの既得権を失っていく農民達の怒りが背後にあったのです。
1 象頭山 浮世絵

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