瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:大麻神社

佐文と満濃池跡
讃岐国絵図 佐文周辺

まんのう町佐文は、金刀比羅宮の西側の入口にあたる牛屋口があった村です。角川の地名辞典には、次のように記されています。
古くは相見・左文とも書いた。地名の由来は麻績(あさぶみ)が転訛して「さぶみ」となったもので、古代に忌部氏によって開拓された土地であるという(西讃府志)
 金刀比羅官が鎮座する山として有名な象頭山の西側に位置し、古来から水利の便が悪く、千害に苦しんだ土地で、竜王信仰に発した雨乞念仏綾子踊りの里として知られている。金刀比羅宮の西の玄関口に当たり、牛屋口付近には鳥居や石灯籠が多く残っている。阿波国の箸蔵街道が合流して地内に入るので、牛屋口(御使者口)には旅館や飲食店が立ち並んで繁盛を続けた。「西讃府志」によると、村の広さは東西15町。南北25町、丸亀から3里15町、隣村は東に官田、南東に追上、南に上之、西に上麻・神田、北に松尾、耕地(反別)は37町余(うち畑4町余。屋敷1町余)、貢租は米159石余。大麦3石余。小麦1石余。大豆2石余、戸数100。人口350(男184・女166)、牛45。馬17、
伊予土佐街道が村内を通過し、それに箸蔵街道も竹の尾越を超えて佐文で合流しました。そのため牛屋口周辺には、小さな町場もあり、荷駄や人を運ぶ馬も17頭いたことを、幕末の西讃府志は記します。

佐文は、1640年の入会林の設定の際に有利な条件で、郡境を越えた麻山(大麻山の西側)の入会権を認められていることを以前にお話ししました。この背景を今回は見ていくことにします。
讃岐国絵図 琴平 佐文周辺
讃岐那珂郡 赤い短冊が3つあるのが金比羅 その南が佐文 
 1640(寛永十七)年に、お家騒動で生駒家が改易され、讃岐は東西二藩に分割されることになります。
この時に幕府から派遣された伊丹播磨守と青山大蔵は、讃岐全域を「東2:西1」の割合で分割して、高松藩と丸亀藩の領分とせよという指示を受けていました。その際に両藩の境界となる那珂郡と多度郡では、入会林(のさん)をめぐる紛争が後に起ることを避けるために、寛永十八(1641)年十月に、関係村々の庄屋たちの意見書の提出を求めています。これに応じて各村の庄屋代表が確認事項を書き出し提出したものが、その年の10月8日に提出された「仲之郡より柴草刈り申す山の事」です。 
入会林の覚え書き 1641年

意訳変換しておくと
仲之郡の柴木を苅る山についての従来の慣例は次の通り
松尾山   苗田村 木徳村
西山 櫛無村 原田村
大麻山 与北村 郡家村 西高篠村
一、七ヶ村西東の山の柴草は、仲郡中の村々が刈ることができる
一、三野郡の麻山の柴草は、鑑札札で子松庄が刈ることを認められている
一、仲郡佐文の者は、先年から鑑札札なしで苅る権利を認められている
一、羽左馬(羽間)山の柴草は、垂水村・高篠村が刈ることができる
寛永拾八年巳ノ十月八日

ここには、芝草刈りのための従来の入会林が報告されています。注意しておきたいのは、新たに設定されたのでなく、いままであった入会林の権利の再確認であることです。ここからは中世末には、すでに大麻山や麻山(大麻山の西側)には入会林の既得権利が認められていたことがうかがえます。

DSC03786讃岐国絵図 中讃
讃岐国絵図(丸亀市立資料館) 
大麻山は 三野郡・多度郡・仲郡の三郡の柴を刈る入会山とされています。
また、三野郡「麻山」(大麻山の西側)は、仲郡の子松庄(現在の琴平町周辺)の住人が入山して「札にて刈り申す」山と記されています。札は入山の許可証で、札一枚には何匁かの支払い義務を果たした上で、琴平の農民たちの刈敷山となっていたことが分かります。
  大麻山は、仲郡、多度郡と三野郡との間の入会地だったようです。
ちなみに象頭山という山は出てきません。象頭山は近世になって登場する金毘羅大権現(クンピーラ)が住む山として名付けられたものです。この時代には、まだ定着していませんでした。
ここで押さえておきたいのは、4条目の「同郡山仲之郡佐文者ハ先年から札無苅申候」です。
仲郡の佐文(現在、まんのう町佐文)の住人は、札なしで自由に麻山の柴を刈ることができると書かれています。麻山と佐文とは隣接した地域ですが郡境を越えての入山になります。佐文には特別の既得権があったようです。佐文が麻山を鑑札なしの刈敷山としていたことを押さえておきます。
 庄屋たちからの従来の慣例などを聞いた上で、伊丹播磨守と青山大蔵少は、新たに丸亀藩主としてやってきた山崎甲斐守に、引継ぎに際して、次のようなの申し送り事項を残しています。
入会林の覚え書き2 1641年

意訳変換しておくと
一、那珂郡と鵜足郡の米は、前々から丸亀湊へ運んでいたが、百姓たちが要望するように従前通りにすること。
一、丸亀藩領内の宇足郡の内、三浦と船入(土器川河口の港)については、前々より(移住前の宇多津の平山・御供所の浦)へ出作しているが、今後は三浦の宇多津への出作を認めないこと。
一、仲郡の大麻山での草柴苅については、従前通りとする。ただ、(三野郡との)山境を築き境界をつくるなどの措置を行うこと。
一、仲郡と多度郡の大麻山での草柴苅払に入る者と、東西七ヶ村山へ入り、草柴苅りをおこなうことについて双方ともに手形(鑑札札)を義務づけることは、前々通りに行うこと
一、満濃池の林野入会について、仲郡と多度郡が前々から入山していたので認めること。また満濃池水たゝきゆり はちのこ採集に入ること、竹木人足については、三郡の百姓の姿が識別できるようにして、満濃池守に措置を任せること。これも従前通りである。
一、多度郡大麻村と仲郡与北・櫛無の水替(配分)について、従来通りの仕来りで行うこと。右如書付相定者也

紛争が起らないように、配慮するポイントを的確に丸亀藩藩主に伝えていることが分かります。入会林に関係のあるのは、3・4番目の項目です。3番目の項目については、那珂郡では大麻山、三野郡では麻山と呼ばれる山は、大麻山の西側のになるので、今後の混乱・騒動を避けるためには、境界ラインを明確にするなどの処置を求めています。
4番目は、大麻山の入会権については多度郡・那珂郡・三野郡の三郡のものが入り込むようになるので、混乱を避けるために鑑札を配布した方がいいというアドバイスです。
 こうして大麻山と麻山に金毘羅領や四条・五条村・買田村・七箇村などの子松庄およびその周辺の村々が芝木刈りのために出入りすることが今までの慣例通りに認められます。子松庄の村々では麻山へ入るには入山札が必要になります。札は「壱枚二付銀何匁」という額の銀が徴収されていたと研究者は考えています。
 「佐股組明細帳」(高瀬町史史料編)に佐股村(三豊市高瀬町)の入会林について、次のように記されています。
「先規より 財田山札三枚但し壱枚二付き三匁ツヽ 代銀九匁」

これは、入会地である財田山への入山利用料で、3枚配布されているので、一年間で三回の利用ができたことになります。鑑札1枚について銀3匁、3枚配布なので 3匁×3枚=銀9匁となります。
 麻村では8枚の山札使用、下勝間村では4枚の使用となっています。財田山は、固有名詞ではなく財田村の山といった広い意味で、佐俣や麻村・下勝間村は、財田の阿讃山脈の麓に柴草を取りに入るために利用料を払っていたということになります。同じ三野郡内でも佐股、上・下麻、下勝間村は、財田の刈敷山に入るには「札」が必要だったことを押さえておきます。
 各村への発行枚数が異なるのは、どうしてでしょうか?
 各村々と入会林との距離の遠近と牛馬の数だと研究者は考えています。麻村の場合は、秋に上納する山役米について、次のように記されています。
「麻村より山札出し、代米二て払い入れ申す村、金毘羅領、池領、多度郡内の内大麻・生野・善通寺・吉田両村・中村・弘田・三井、三野郡の内上高瀬・下高瀬」

山役を納めなければならない村として、金毘羅領、池領の村々と多度郡・三野郡の各村が挙がっています。これらは先ほど見た「山入会に付き覚書」の中に出ている地域です。ここからは、1640年以後、大麻山・麻山への入山料がずっと続いていたことが分かります。

他の村の刈敷山に入るときには有料の鑑札を購入する必要があったようです。
そのような中で「佐文の者は、先年から鑑札札なしで(三野郡の麻山の柴木を)苅る権利を認められている」という既得権は、特異な条件です。どのようにして形成されたのでしょうか。その理由を考えてみます。

佐文1
西讃府志 佐文の地誌部分

西讃府志には、佐文について次のように記します。
「旧説には佐文は麻積で、麻を紡ぐことを生業とするものが多いので、そうよばれていた」

麻績(あさぶみ)、或いは麻分(あさぶん)が転訛して「さぶみ」となったと伝えます。ここからは、西隣の麻から派生した集団によって最初の集落が形成されたと伝えられていたようです。確かに佐文は地理的に見ても三方を山に囲まれ、西方に開かれた印象を受けます。古代においては、丸亀平野よりも高瀬川源流の麻盆地との関係の方が強かったのかもしれません。
佐文5
佐文と麻の関係

麻盆地を開いた古代のパイオニアは忌部氏とされ、彼らが麻に建立したのが麻部神社になります。これが大麻山の西側で、その東側の善通寺市大麻町には、大麻神社が鎮座します。
DSC09453
大麻神社
 大麻神社の由来には、次のように記されています。
 阿波忌部氏が吉野川沿いに勢力を伸ばし、阿讃山脈を越えて、谷筋に定着しながら粟井神社の周辺に本拠を置いた。そして、粟井を拠点に、その一派が笠田、麻に広がり、麻峠を越えて善通寺側に進出し大麻神社の周辺にも進出した。それを裏付けるように、粟井神社が名神大社なのに、大麻神社は小社という格差のある社格になっている。

ここには阿波忌部氏が讃岐に進出し、三豊の粟井を拠点としたこと、そこから笠田・麻を経て大麻神社周辺へ「移住・進出」したと伝えます。
大麻神社随身門 古作両神之像img000024
大麻神社の古代神像 

「大麻神社」の社伝には、次のような記述もあります。
「神武天皇の時代に、当国忌部と阿波忌部が協力して麻を植え、讃岐平野を開いた。」
「大麻山(阿波)山麓部から平手置帆負命が孫、矛竿を造る。其の裔、今分かれて讃岐国に在り。年毎に調庸の外に、八百竿を貢る。」
ここには阿波と讃岐の忌部氏の協力関係と「麻」栽培がでてきます。また讃岐忌部氏が毎年800本の矛竿を中央へ献上していたことが記されています。讃岐は、気候が温暖で、樫などの照葉樹林の成育に適した土地ですから、矛竿の貢上がされるようになったのでしょう。弥生時代の唐古遺跡から出土した農耕具の大部分は樫でつくられているといいます。材質の堅い樫は、農具として、最適だったようですし、武器にも転用できます。 善通寺の古代豪族である佐伯直氏は、軍事集団出身とも云われます。ひょっとしたら忌部氏が作った武器は、佐伯氏に提供されていたのかもしれません。
 讃岐忌部氏は、矛竿の材料である樫や竹を求めて、讃岐の地に入り、原料供給地のとなる大麻山周辺の山野を支配下に置いていったのでしょう。 讃岐忌部は、中央への貢納品として樫木の生産にあたる一方で、周辺農民の需要に応じるための、農具の生産も行なっていたと考えられます。讃岐忌部の居住地として考えられるのが、次の神社や地名周辺です。
①粟井神社 (観音寺市大野原町粟井)
②大麻神社 (善通寺市大麻町)
③麻部神社 (三豊市高瀬町麻)
④忌部神社   (三豊市豊中町)
⑤高瀬町麻 (あさ)
⑥高瀬町佐股(麻またの意味)
⑦まんのう町佐文(さぶみ、麻分(あさぶんの意味)
 佐文と大麻山
大麻山を囲むようにある忌部氏関係の神社と地名

佐文を含む大麻山周辺は、忌部氏の勢力範囲にあったことがうかがえます。
大麻山をとりまくエリアに移住してきた忌部氏は、背後の大麻山を甘南備山としてあがめるとともに、この山の樫などを原料にして木材加工を行ったのでしょう。近世に金毘羅大権現が台頭してくるまでは、大麻山は忌部氏の支配下にあって、樫など木材や、麻栽培などが行われていたとしておきましょう。そのような大麻山をとりまくエリアのひとつが佐文であったことになります。当然、古代の佐文は、その背後の「麻山」での木材伐採権などを持っていたのでしょう。それは律令時代に郡が置かれる以前からの権利で、三野郡と那珂郡に分離されても「麻山」の権利は持ち続けたます。それが中世になると小松郷佐文でありながら、三野郡の麻山の入会林(刈敷山)として認められ続けたのでしょう。
讃岐国絵図 琴平 佐文周辺2
讃岐国図(生駒藩時代)
生駒藩の下で作られた讃岐国絵図としては、もっとも古い内容が描かれているとされる絵図で佐文周辺を見てみましょう。
  多宝塔などが朱色で描かれているのが、生駒藩の保護を受けて伽藍整備の進む金毘羅大権現です。その西側にあるのが大麻山です。山の頂上をまっすぐに太い黒線が引かれています。これが三野郡と那珂郡の郡境になります。赤い線が街道で、金毘羅から牛屋口を抜けると「七ケ村 相見」とあります。これが佐文のようです。注目して欲しいのは、郡境を越えた三野郡側にも「麻 相見」があることです。
 ここからは、次のようなことが分かります。
①佐文が「相見」と表記されたこと
②「相見」は、かつては郡を跨いで存在したこと
西讃府志には「麻績(あさぶみ)、或いは麻分(あさぶん)が転訛して「さぶみ」となった」と記されていました。これは、西讃府志の記述を裏付ける史料になります。

麻部神社
麻部神社 (三豊市高瀬町麻)
以上をまとめておくと
①大麻山周辺は、木工加工技術を持った讃岐忌部氏が定着し、大麻神社や麻部神社を建立した。
②大麻山は、忌部氏にとって霊山であると同時に、木工原料材の供給や麻栽培地として拓かれた。
③大麻山の西側の拠点となった麻は、高瀬川沿いに佐文方面に勢力エリアを伸ばした。
④そのため佐文は「麻績(あさぶみ)、或いは麻分(あさぶん)」とも呼ばれた。
⑤麻の分村的な存在であった佐文は、麻山にも大きな権益を持っていた。
⑥律令時代になって、大麻山に郡境が引かれ佐文と麻は行政的には分離されるが文化的には、佐文は三野郡との関係が強かった
⑦中世になると佐文は、次第に小松(郷)荘と一体化していくが、麻山への権益は保持し、入会権を認められていた。
⑧そのため生駒騒動後の刈敷山(入会林)の再確認の際にも、「仲郡佐文の者は、先年から鑑札札なしで苅る権利を認められている」と既得権を前提にした有利な入会権を得ることができた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  

       
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観音寺市の木の郷町は、讃岐忌部氏の村があったところと言われます。
 713年の風土記撰進には中国にならって
「郡郷などの地名には漢字二字から成る好名をつけよと」
の命令が出されています。それに従って「木」郷は「紀伊」郷へと表記を変えます。木の郷町の近くには、忌部氏の祖神の天太玉命をまつる粟井神社があって、忌部氏によってまつられていました。また、大麻山の山麓東側にも忌部氏の祖神、天太玉命をまつる大麻神社があります。これは木の郷町の忌部氏の一族が分かれて、この地で発展したと伝えられています。
images粟井神社

讃岐忌部氏の粟井神社
忌部(いんべ)氏は、斎部氏とも記されます。
もともとは中臣氏と共に祭祀氏族として天皇家に仕えてきた神別氏族でした。忌部氏の本拠地は、大和国高市郡金橋村忌部(現在:奈良県橿原市忌部町)辺りとされていて、現在は天太玉命神社があようです。延喜式神名帳では名神大社でしたが、その後衰退して明治時代には村社でした。 
 忌部氏は祭具の製造・神殿宮殿造営に関わっていました。
その中でも特に玉造が得意であったようです。しかし、古墳時代以後は玉造の重要度が薄れ、忌部氏の出番は少なくなっていきます。また、時代を経るに従って中臣氏が政治的な力を持つようになり、中臣氏に押されて影が薄くなっていきます。そこで、自らの祭儀における正統性を主張し、復権を図った作成されたのが『古語拾遣』です。この資料は忌部氏側の立場で作成されたものですから、注意しながら見ていきましょう。この書には
 天太玉命所率神名、天日鷲命 これは阿波国忌部氏の祖なり 手置帆負命は讃岐国忌部氏の祖 彦狭知命 紀伊忌部氏の祖 天目一箇命 筑紫・伊勢両国忌部氏の祖なり

とあって、天太玉命を祖神とする中央忌部が、阿波・讃岐・紀伊・筑紫・伊勢などの枝属を率いたととあります。手置帆負命を祖神とする讃岐忌部も、その一族であったようです。
 整理すると次のようになります。
忌部一族の祖神は天布刀玉命(あめのふとだまのみこと)
阿波忌部氏は天日鷲命(あめのひわしのみこと)、
讃岐忌部氏は手置帆負命(たおきほおいのみこと)
紀伊忌部氏は彦狭知命(ひこさしりのみこと)、
安房忌部氏は天富命(あめのとみのみこと)、
  『延喜式』の臨時祭、梓木の条によると、
凡柿木千二百四十四竿。讃岐国十一月以前差二綱丁進納。
とあります。ここからは、讃岐国から毎年、矛竿を1244本も貢納することになっていたことがわかります。多くの竿を納めるので竿調国(さおのみつぎ)と呼ばれ、それが「さぬき」という国名になったという説もあるほどです。
また、『日本書紀』第二の一書には、
即以紀伊国忌部遠祖手置帆負神、定為作者.彦狭知神為作者・天目一箇神為作者.天日鷲神為作木綿者.櫛明玉神為作者.(以下略)
率手置帆負、彦狭知、二神之孫、以二斎斧斎紺、始採山材・構立正殿

ここからは笠・盾・金(金属)・綿・玉などの祭礼用具が、各忌部氏によって「業務分担」して作成したことが分かります。また、紀伊と讃岐の忌部は、木材の切り出しや神社の建築等を通じて密接に結び付いていたこと。そして、木工技術者として讃岐忌部が竿をつくり、紀伊忌部が笠・楯をつくっていたようです。

  各国の忌部の職務分担をを整理すると次のようになります。
(中央)(天太玉命 忌蔵の管理大殿祭・御門祭等紀伊
〈地方 阿波(天日鷲命) 木綿・鹿布の製作
        讃岐(手置帆負命)矛竿の製作
        紀伊(彦狭知命) 笠・盾の製作           
    出雲(櫛明玉命) 玉の製作
    筑紫(天目一箇命)金属器の製造
    伊勢(天目一箇命)金属器の製造
 これをみればわかるように、諸国の忌部は天太玉命を遠祖とする中央忌部に率いられ、各種の神具の生産に従事していました。筑紫や伊勢の己部が金属器の製造に関係しているのは、神具としての金属器の製造です。その職務の一つとして、沖ノ島の祭祀遺跡にみられるような、金属製(金・銀・銅)ひながた品の製作などもありました。沖ノ島は、対外関係を中心とした、国家的祭祀が、四世紀以後行なわれた所で、伊勢神宮の創始も6世紀頃とされます。沖ノ島の中心的祭祀者は、宗像氏ですが、沖ノ島の祭祀遺物の中には、忌部氏によってつくられたものもあったはずです。各忌部氏が分担しながら国家の祭礼に使う神具の作成調達に当たったことが考えられます。

 このように、忌部氏は神具製作者としての性格が濃いようです
 紀伊や讃岐の忌部氏ように盾や矛竿の製作者として、軍事面を支える活躍したものもあったでしょう。讃岐の国から貢上された1244本の矛竿が、すべて、神具としての矛竿に使われたとは思えません。中には、軍事的な矛竿として利用されたものもあったでしょう。
 讃岐は、気候が温暖で、樫などの照葉樹林の成育に適した土地ですから、矛竿の貢上がされるようになったのでしょう。弥生時代の唐古遺跡から出土した農耕具の大部分は樫でつくられているといいます。材質の堅い樫は、農具として、最適だったようです。 讃岐忌部氏は、矛竿の材料である樫や竹を求めて、讃岐の地に入り、原料供給地のとなる周辺の山野を支配下に置いていったのでしょう。

 このように讃岐忌部は、中央への貢納品として、樫木の生産にあたる一方で、周辺農民の需要に応じるための、農具の生産も行なっていたとは考えられます。この讃岐忌部の居住地は、粟井神社(観音寺市粟井町)の周辺であり、条里制の基準になったとされる菩提山の山麓部にあたります。ここに、矛竿をはじめとした、木工業従事者の忌部のむらが存在したと研究者は考えています。

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 どちらにしろ讃岐忌部氏は、木材伐採や加工、建築などの他にも金属精製などの技術者集団の性格をもっていたことがうかがえます。その技術を応用すれば、神社もつくれたことでしょう。
Awaizinzya_11粟井神社
粟井神社(観音寺市)
忌部氏の結びつきは「血縁ではなく技術」でつながっていたと考える研究者もいます。
忌部氏は血縁ではなく技術者集団(テクノクラート)だったのではないかというのです。つまり、様々な部族や渡来人が合流していきながら、忌部を形成していったと考えるのです。
例えば「続日本紀」には讃岐国にいた百済からの渡来の鍛冶師集団である韓鍛冶師部が神奈川に集団で移住し、この地に「寒川」を形成したとの記述があります。忌部グループの一員として、讃岐からやってきた鍛冶集団が、茅ヶ崎の海岸の砂浜から砂鉄を取り出して製鉄をしたのではないかというのです。

Awaizinzya_11粟井神社.jpg1

 讃岐忌部氏は木・金属の技術者集団?
 讃岐忌部氏が木工技術者の集団であるなら、彼らの氏神である粟井神社(観音寺市)や大麻神社(善通寺市)の社殿は、忌部氏自らの手でつくったことでしょう。

大麻神社随身門 古作両神之像img000024

ちなみに、大麻神社には平安時代後期につくられたとされる、祭神の天太玉命木像と彦火瓊々杵命木像があります。また、讃岐で最も古いと考えられる木造の獅子頭もありました。これらは木工技術者だった忌部氏の手によるものではないのでしょうか。  

大麻神社 img000023

 現在の琴平の町には、一刀彫りの職人が数多く活躍しています。この職人もひょっとすると大麻神社につながる忌部氏の木造技術者集団の流れを引くものではないか、一刀彫りの中に忌部氏の伝統が生きているのではと と考えたりすると、楽しくなってきます。
讃岐忌部氏は、どこからやって来たのでしょうか?
  大麻神社の由来には次のように記されています。
 阿波忌部氏が吉野川沿いに勢力を伸ばし、阿讃山脈を越えて、谷筋に定着しながら粟井神社の周辺に本拠を置いた。そして、粟井を拠点に、その一派が笠田、麻に広がり、麻峠を越えて善通寺側に進出し大麻神社の周辺にも進出した。
 それを裏付けるように、粟井神社が名神大社なのに、大麻神社は小社という格差のある社格になっているというのです。これも三豊の粟井方面から大麻山周辺への一族の「移住・進出」といいます。
 

0cf3f03aawai粟井神社
 粟井神社は、延喜神名式に「讃岐国刈田郡粟井神社」と記されています。
『続日本後紀』承和九年十一月乙卯条に「讃岐国粟井神預二之名神」と見え、『三代実録』貞観六年十月十五日条に「授二讃岐国正六位上粟井神従五位下一」とある古社です。祭神は忌部の祖で、阿波の一宮である大麻神社と同じ天太玉命でした。いまは社域全体にあじさいが植えられて「あじさいの神社」としても有名です。
考古学的には、粟井町射場には射場1~9号墳があります。また、粟井町から木の郷町にかけては母神1~39号墳が並び、木の郷町には十数基から成る百々古墳群もあります。6~7世紀にかかて、この地域には古墳が群集し、人口が急増し、過密な地域だったことを示します。この古墳群の中には忌部氏のものもあるのではないでしょうか。ここから大麻山の山麓へ移住が計画されたのかもしれません。

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大麻神社参道(善通寺市大麻町)

 大麻神社(善通寺市)は、延喜神名式に「讃岐国多度郡大麻神社」とあります。
『三代実録』貞観七年十月九日条に、「讃岐国従五位下大麻神授二従五位上」と見え、『日本紀略』延喜十年八月二十三日条に「授二讃岐国大麻神従四位」と記された古社です。祭神は、こちらも天太玉命でした。

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大麻神社
 考古学的には、大麻神社周辺には大麻神社周辺古墳群があります。また、大麻山の東側山腹には、小型の積石型の前方後円墳も数多くありました。積石型というタイプに阿波との共通点を指摘する研究者もいます。このように大麻神社の周辺にはかなりの数の古墳があり、これらの被葬者が忌部氏の一族だったとすると、大麻神社周辺への忌部氏の進出は古墳時代後期に行われたことになります。

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大麻神社

 「大麻神社」の社伝には、次のような記述があります。
「神武天皇の時代に、当国忌部と阿波忌部が協力して麻を植え、讃岐平野を開いた。」
「大麻山(阿波)山麓部から平手置帆負命が孫、矛竿を造る。其の裔、今分かれて讃岐国に在り。年毎に調庸の外に、八百竿を貢る。」
とあり、忌部氏の阿波からの進出と毎年800本の矛竿献上がここにも記されています。
大麻神社周辺に移住してきた忌部氏は、背後の山を甘南備山としてあがめるとともに、この山の樫などを原料にして木材加工を行ったのでしょう。近世に金毘羅大権現が台頭してくるまでは、この山は忌部氏の支配下にある大麻山だったのです。
 忌部氏の痕跡がうかがえる神社や地名を列挙しておきます。
三豊市高瀬町の麻部神社、
三豊市豊中町の忌部神社
高瀬町麻(あさ)、同町佐股(麻またの意味)、仲多度郡まんのう町佐文(さぶみ、麻分の意味)
香川県神社誌(上巻)には、
「東かがわ市引田町の誉田神社は忌部宿禰正國(いんべのすくねまさくに)の創始で、正國は旧大内郡の戸主であった。」
高瀬町誌に
「讃岐忌部氏は江戸時代の中ごろまで豊中町竹田字忌部にいたが、その後高瀬町上麻に転住し現在に至る」

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大麻神社の狛犬

 最後に、善通寺の佐伯氏との関係を見ておきましょう   
 矛竿の貢納などの管理を行っていたのは誰なのでしょうか。西讃地域では「讃岐国造」として佐伯氏が挙げられます。佐伯氏は軍事的色彩の濃い氏族といわれます。そういう意味では、武器としての矛竿貢納の管理者としては、最適です。こうして、矛竿の生産者・忌部氏と佐伯氏の関係は古くからあったと考えられます。その関係を通じて、佐伯氏がその大麻山東麓への忌部氏の一部移住を先導したとも思えてきます。こうして国造の佐伯氏の支持と承認をえて、忌部氏は粟井から笠田・麻地域へと勢力を拡大していったのではないでしょうか。
 しかし、古墳時代後期になると、三豊平野では大野原を基盤とする刈田氏が突然台頭します。そして、今まで目にすることのなかったかんす塚・角塚・平塚・椀貸塚等の大型巨石墳を次々と造営します。そして、この時期に、忌部氏の本拠地である粟井地区は、刈田氏の勢力圏と浬を接するようになります。そして、律令制の郡郷制度の中では、刈田氏の支配下に入れられてしまうのです。
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参考文献
羽床正明 忌部氏と琴平宮について      ことひら 平成7年 琴平山文化会

         
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    讃岐は獅子舞王国?
 田んぼの畦に彼岸花が咲くことになると、讃岐の里は秋祭りに向けた準備が進められていきます。讃岐のお祭りで演じられる芸能の代表格といえば獅子舞でしょう。獅子舞は県下全域に広がっていて、その数はうどん屋さんと同じ約800頭が「生息」していると言われます。「獅子生息密度」の高さは、全国のベストテンの上位にランクされ、富山県とトップ争いをしているそうです。(出典不詳・・・)
 獅子はいつ、どこから、何のためにやってきたのでしょうか? 
讃岐では、室町時代には獅子頭が祭礼に現れていたようです。南北朝時代に書かれた『小豆島肥土荘別宮八幡宮御縁起』(応安三年(1370)2月に初めて獅子が登場します。
「御器や銚子等とともに獅子装束が盗まれた
というあまり目出度くない記事ですが、これが一番が古いようです。ちなみにこの犯人は捕まったと、後にでてきます。この縁起の永和元年(1375)には
「放生会大行道之時獅子面を塗り直した
と記されています。ここからは獅子が放生会の「大行道」に加わっているのが分かります。行道(ぎょうどう)とは、大きな寺社の法会等で行われる行列を組んで進むパレードのようなものです。獅子は、行列の先払いで、厄やケガレをはらったり、福や健康を授けたりする役割を担っていたようです。
 さらに康暦元年(1379)には、「獅子裳束布五匹」が施されたとあるので、獅子は五匹以上いたようです。祭事のパレードに獅子たちが14世紀には、小豆島で登場していたのです。
 当時の小豆島や塩飽の島々は、人と物が流れる「瀬戸内海のハイウエー」に面して、幾つもの港が開かれていました。そこには「海のサービスエリア」として、京やその周辺での「流行物」がいち早く伝わってきたのでしょう。それを受入て、土地に根付かせる財力を持ったものもいたのでしょう。獅子たちは、瀬戸内海を渡り畿内から小豆島にやってきたようです。
 香川県内の古い神社には、中世の木製獅子頭が伝わっています。
 東かがわ市の水主(みずし)神社は、中世は四国の熊野信仰の中心拠点として機能し、それを背景に登場した勧進僧の増吽が阿波や吉備、瀬戸の島々の寺社を再興します。その河口の三本松も重要な港町でした。
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「讃岐国名勝図会』に描かれた水主神社の獅子頭
 ここにはは、県内で一番古い年代の入った木造獅子頭(県有形文化財)があります。
上顎裏側に文安五年(1448)に三位公全秀によってつくられ、文明四年(1472)に彩色されたと墨で書かれています。
銘文には「奉安置獅子頭事」とあります
が、胴衣を縫い付けた孔も残り、獅子頭内側には、上下顎をつなぐ軸棒のほか、上方にもう一本横棒が渡っており、そこを持ち手として獅子頭を扱ったと考えられます。「安置」するだけでなかったようですが激しく頭を振り回すような機能はありません。パレードへの参加用のようです。
次の訪れるのは善通寺と琴平町の境にある大麻神社です。
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 大麻山を甘南備山とする式内社大麻神社(善通寺市)に伝わる木製の獅子頭です。
下あごが失われているために少し見慣れない感じもしますが、形状などから水主神社の獅子頭とおなじく室町時代、ひょっとするとそれ以前の鎌倉時代のものと考える研究者もいるようです。そうだとすれば「現存する県内で一番古い獅子頭」ということになります。残念ながら下顎をなくしているが惜しまれます。この木造獅子頭は、江戸末期の『西讃府志』巻第五六にも「大麻神社所蔵之獅子頭圖」として上顎部のみが描かれています。
よくみると
後の方に、油単を縫い付けたと思われる小穴が7ヵ所ほどあるのが見えますか?
これもパレード用と考えられています。
祭礼行列の参加以外にも、獅子の出番が出てきます。
享徳元年(1452)に書かれた観音寺の『琴弾八幡宮放生会祭式配役記』には、行道の「獅子首二人」とは別の姿を見せます。それは「舞車」の上で舞う「師子舞」です。獅子が稚児「楠法師」と褐鼓舞(小さな鼓=掲鼓を胸に付けて打つ舞)を演じるのです。これは当時の都で、風流(ふりゅう)拍子物として人気のあった流行物です。新しい芸能の流れを汲んだ獅子の姿です。
  そんな中で登場してくるのが紙製の獅子頭です。
 紙製の獅子頭で一番古いのは式内神社の黒島神社(観音寺市池之尻町)に残るものです。江戸時代中期の宝暦八年(1758)の銘があります。
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この獅子頭の内部は「土」の字型の木組構造です。その構造は現在の獅子頭の持ち手と同じです。紙製の補強のための縦材を持ち手に利用することで、獅子頭を片手で持つことできるようになりました。これは紙製という軽量化とあわせて、獅子を使いやすくしたはずです。獅子が激しく動き舞えるようになったのです。
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 この黒島神社の獅子頭とセットで「稚児頭巾」と呼ばれる赤い紐飾りのついた円錐状の笠が残っています。これは先ほど見た琴弾八幡神社の「獅子が稚児と舞う褐鼓舞」の際に稚児がかぶっていたものではないでしょうか。観音寺に伝わった中世の風流踊りが近世三豊の地域に、祭礼の中で広がって行ったのではないかと私は考えています。
その際に紙製の獅子頭が果たした役割は、決して小さくないような気がします。芸能性に富んだ獅子舞が生まれた要因の一つかも知れません。

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 香川県の獅子舞の大きな特徴は、獅子頭が紙製ということです。
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紙製の獅子頭は、型にあわせて和紙を張り重ね、漆を塗ったり毛を植え込んだりして仕上げます。伝統的工芸品の「讃岐獅子頭」を見てきた私は、「獅子頭は紙製(張り子)」という思い込みありました。ところが差に非ず。全国的には獅子頭は木製が主流でないようです。
 たしかに紙製獅子頭も全国各地にあり、型抜きや竹骨組など形状や構造も様々なものがあるようです。しかし、香川県以外で二人立ち獅子舞で紙製獅子頭を使うのは、松山・徳島・播磨等の瀬戸内圈、と臼杵・宇土・熊本等の九州の一部、ほか京都・和歌山・静岡・長野・岩手等にも点々と広がる程度です。しかも、局所・散在的で香川ほどの分布密度はないようです。「紙製の獅子頭」というのは讃岐の大きな特徴のようです。

最後に、獅子頭の成長ぶりをもう一度確認しておきましょう。
 中世は 小豆島肥土山の祭礼のパレードに参加する獅子
 中世末は観音寺琴弾八幡の太鼓に合わせて舞う獅子
 近世は 紙製獅子頭の登場で舞い踊る獅子へ 
これを祭礼の風流(ふりゅう)化と言うそうです。
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参考文献 高嶋 賢二 香川県の獅子舞と獅子頭 
           香川県立ミュージアム「祭礼百選」所収





金刀比羅神社の鎮座する象頭(ぞうず)山です

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丸亀平野の東側から見ると、ほぼ南北に屛風を立てたような山塊が横たわります。この山は今では琴平側では象頭山(琴平山)、善通寺市側からは大麻山と呼ばれています。江戸時代に金毘羅大権現がデビューすると、祭神クンピーラの鎮座する山は象頭山なのでそう呼ばれるようになります。しかし、それ以前は別の名前で呼ばれていました。象頭山と呼ばれるようになったのは金毘羅神が登場する近世以後のようです。
 
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真っ直ぐな道の向こうが善通寺の五岳山 その左が大麻山(丸亀宝幢寺池より)

それまでは、この山は大麻山(おおあさ)と呼ばれていました。
この山は忌部氏の氏神であり、式内社大麻神社の御神体で霊山として信仰を集めていたようです。

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金毘羅大権現の鎮座した象頭山
この山の東山麓に鎮座する大麻神社の参道に立ってみます。
200017999_00083大麻神社
大麻神社(讃岐国名勝図会)
大麻神社
大麻神社(讃岐国名勝図会)
すると、鳥居から拝殿に向け一直線に階段が伸び、その背後に大麻山がそびえます。この山は、祖先神が天上世界から降り立ったという「甘南備(かんなび)山」にふさわしい山容です。そして、この山の周辺は、阿波の大麻山を御神体とする忌部氏の一族が開発したという伝承も伝わります。

 大麻神社以外にも、多度郡の延喜式内雲気神社(善通寺市弘田町)や那珂郡の雲気八幡宮(満濃町西高篠)は、そこから仰ぎ見る大麻山を御神体としたのでしょう。御神体(大麻山)の気象の変化を見極めるのに両神社は、格好の位置にあり、拝殿としてふさわしいロケーションです。山自体を御神体として、その山麓から遥拝する信仰施設を持つ霊山は数多くあります。

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多度津方面からの五岳山(右)と雲がかかる大麻山
 大麻山は瀬戸内海方面から見ると、善通寺の五岳山と屛風のようにならび円錐型の独立峰として美しい姿を見せます。その頂上付近には、積み石塚の前方後円墳である野田野院古墳が、この地域の古代における地域統合のモニュメントとして築かれています。

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野田院古墳(善通寺)
その後は大麻山の北側の有岡の谷に茶臼山古墳から大墓山古墳に首長墓が続きます。彼らの子孫が古代豪族の佐伯氏で、空海を生み出したと考えられています。また、大麻山の東側山麓には阿波と共通する積石塚古墳が数多く分布していました。
 つまり現在の行政区分で言うと、大麻神社の北側の善通寺側は古墳や式内神社などの氏族勢力の存在を示す物が数多く見られます。しかし、大麻神社の南側(琴平町内)には、善通寺市側にあるような弥生時代や大規模な集落跡や古墳・古代寺院・式内社はありません。善通寺地区に比べると古代における開発は遅れたようです。

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琴平町苗田象頭山
古代においてこの山は、大麻神社の御神体として大麻山と呼ばれていたと考えるのが妥当のようです。
現在はどうなっているかというと、国土地理院の地図ではこの山の北側のピークに大麻山、中央のピークに象頭山の名前を印刷しています。そして、山塊の中央に防火帯が見えるのですが、これが善通寺市と琴平町の行政区分になっているようです。

称名寺 「琴平町の山城」より
大麻山の称名寺周辺地図
 大麻山には、中世にはどんな宗教施設があったのでしょうか?
まず、道範の『南海流浪記』には称名院や滝寺(滝寺跡)などの寺院・道場が記されています。道範は、13世紀前半に、高野山金剛峯寺執行を兼ねた真言宗の逸材です。当時の高野山内部の対立から発生した焼き討ち事件の責任を負って讃岐に配流となります。
 彼は、赦免される建長元年(1249)までの八年間を讃岐国に滞留しますが、その間に書いた日記が残っています。これは、当時の讃岐を知る貴重な資料となっています。最初は守護所(宇多津)の近くで窮屈な生活を送っていましたが、真言宗同門の善通寺の寺僧らの働きかけで、まもなく善通寺に移り住んできます。それからは、かなり自由な生活ができたようです。
 
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大麻神社参道階段
放免になる前年の宝治二年(1248)には、伊予国にまで開眼供養導師を勤めに旅行をしているほどです。この年11月、道範は、琴平の奥にある仲南の尾の背寺を訪ねます。この寺は満濃池の東側の讃岐山脈から張り出した尾根の上にある山岳寺院です。善通寺創建の時に柚(そま)山(建築用材を供給した山)と伝えられている善通寺にゆかりの深い寺院です。帰路に琴平山の称名院を訪ねたことが次のように記されています。
「……同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。
彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」
             (原漢文『南海流浪記』) 
意訳すると
こじんまりと灘洒な松林の中に庵寺があった。池とまばらな松林の景観といいなかなか風情のある雰囲気の空間であった
院主念念々房は留守にしていたので歌を2首を書き残した。
すると返歌が送られてきた
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象頭山と五岳山
 道範は、念々房不在であったので、その足で滝寺に参詣します。
「十一月十八日、滝寺に参詣す。坂十六丁、此の寺東向きの高山にて瀧有り。 古寺の礎石等處々に之れ有り。本堂五間、本仏御作千手云々」 (原漢文『南海流浪記』)
 滝寺は、称名院から坂道を一六丁ほど上った琴平山の中腹にある「葵の滝」辺りにあったようです。本尊仏は「御作」とあるので弘法大師手作りの千手観音菩薩と記しています。金刀比羅宮所蔵の十一面観音像が、この寺の本尊であったとされます。しかし、道範の記述は千手観音です。この後は、称名院の名は見えなくなります。寺そのものは荒廃してしまい、その寺跡としての「しょうみょうじ」という地名だけが遺ったようです。江戸時代の『古老伝旧記』に称名院のことが、次のように書かれています。
「当山の内、正明寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。」
 阿弥陀如来が祀られているので浄土教の寺としての称名院の姿を伝えているようです。また、河内正栄氏の「金刀比羅宮神域の地名」には
称名院は、町内の「大西山」という所から西に谷川沿いに少し上った場所が「大門口」といい、称名院(後の称明寺か)の大門跡と伝える。そこをさらに進んで、盆地状に開けた所が寺跡(「正明寺」)である。ここには、五輪塔に積んだ用石が多く見られ、瓦も見つかることがある

現在の町域を越えて古代の「大麻山」というエリアで考えると野田院跡や大麻神社などもあり、このような宗教施設を併せて、琴平山の宗教ゾーンが形作られていたようです。

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 現在の金刀比羅神社神域の中世の宗教施設については? 
プラタモリでこの山が取り上げられていましたが、奥社や葵の滝には、岩肌を露呈した断崖が見えますし、金毘羅本殿の奥には岩窟があり、山中には風穴もあると言われます。
修験者の行場としてはもってこいのロケーションです。山伏が天狗となって、山中を駆け回り修行する拠点としての山伏寺も中世にはあったでしょう。
それが善通寺 → 滝寺 → 尾の背寺 → 中寺廃寺 という真言密教系の修験道のネットワークを形成していたことが考えられます。

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もうひとつのこの山の性格は「死霊のゆく山」であったことです。
現在も琴平山と愛宕山の谷筋には広谷の墓地があります。ここは、民俗学者が言うように、四国霊場・弥谷寺と同じように「死霊のゆく山」でした。里の小松荘の住民にとっては、墓所の山でもあったのです。
 こうして先行する称名院や滝寺が姿を消し廃寺になっていく中で、琴平山の南部の現在琴平神社が鎮座する辺りに、松尾寺が姿を見せます。この寺の周辺で金毘羅神は生まれ出してくるのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 町史ことひら 第1巻 中世の宗教と文化
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