瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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横畑 平家伝説の里3
            横畑 阿波国境に面して竜王峠の北側に位置する
  横畑は、阿讃山脈の寒風越の北側にある集落です。かつては鵜足郡長尾郷六村の勝浦村に属して、鵜足郡でもっとも南にあり、阿波国と国境を接していました。

横畑3 三条神社
横畑は川奥集会所(旧川奥小学校)から明神橋を渡る
横畑へは三頭トンネルの手前を土器川支流の明神川沿いに遡っていきます。川奥集会所(川奥小学校跡)の手前を右に曲がって林道を登っていくと開けてくるのが横畑集落です。

まんのう町 横畑集落3
横畑から望む竜王山方面
谷を越えた南側には、目の前に阿讃山脈が連なります。奥の山々が竜王山に連なり、三方を山に囲まれた地形です。阿讃山脈の向こうは阿波なので、阿波の村々との交流が古くからあり、寒風峠を越えて阿波文化圏の強い影響を受けています。ある意味では、讃岐のソラの集落と云えるかもしれません。今回は、この横畑について「香川県史14民俗539P」に「村の起こりと旧家」と題して、フィールドワークの成果が報告されてますので紹介したいと思います。

横畑 三条神社.と宮本家jpg
横畑の三条神社と宮前の宮本家
横畑の集落でもっとも古いとされる宮本家には、次のような平久盛の子孫説が伝えられます。
屋島の源平合戦に敗れた平久盛以下数十人の集団は、海上へ逃げることができずに、屋島の津から山へ山へと入りこんだ。春日川沿いを上流へ上流へとさかのぼる。途中、高松市西植田町あたりに、馬切りだとか平家落人の塚というのが点在する。さらに川沿いの道は谷に入りこむ。炭焼窯に身を隠して果てた落人を祀った。(中略)
 平久盛一行は、横畑からさらに阿讃山脈の峠を越えて祖谷まで落ちて行くつもりであった。が、あまりにも兵たちの疲れが激しいので、ひとまずこの地に落ちつくこととした。持っていた旗さしものを倒して横に寝かせ、山を開きはじめた。旅さしものを横に寝かせたということで、横畑の地名になった。このとき、武士の数は七人になっていた。
横畑は不思議な地形で、南面した山肌は比較的ゆるやかで、落人が隠れ住むにふさわしい。ふもとからは見通すことができないが、こちらからは意外に遠くまで見渡すことができる。だから、明神川に架かった橋、もちろん、昔は橋の形も違っていたのだが、このところへ見張りの番卒をたて、さらに、背後の山と山との峠道にも番卒をたてて固めておけば、追捕の兵をかわすことができると、厳重な木戸口を設けた。橋のほとりからは、木戸番の墓というのが掘り出されたことがある。峠道のキビヂリ屋敷時は、かって番卒が住んだところと伝えられている。(香川県史14巻540P)
ここには横畑が、平家の落武者7人を中心に開かれたことが語られます。これをそのまま信じることは出来ません。平家の落人伝説は、修験者や山伏によって広められたと研究者は考えています。また、修験者が開発・開墾し、そこに定住した「坊集落」は、落人伝説と重なることころが多いという報告もあります。つまり、横畑は修験者の坊集落として開発されたという見方も出来ます。定住後の開発の様子を、次のように記します。
 
横畑 平家伝説の里
横畑
まんのう町横畑

一段一段と山を聞いた。山を開墾し始めた最初の地には、オコンドサンという小さな石を重ねたものが祀られた。県史14巻541P)
まず、②木を切り、草を刈枯らして火をつけて焼く。木や草を焼いたは、土とまぜて種を播はじめは、ヒエの種を播いた。庄次郎畑という名がついているから庄次郎という人が開いた畑だろうと言う。次郎畑にヒエが実った。ヒエを刈りとり束にして積み重ねた。日当たりがよく平たい地形のところをヒエグロと呼んでいる。
③このヒエグロの続きの土地へ七人の武士の一人が屋敷を構えた。
ヨモギと屋号で呼ばれる屋敷地は、かってよもぎ原だったと言う。平久盛の子孫という宮本家は宮の前とも川崎屋とも呼ばれている。他に、カミジ、フルヤ、ニシ、ナカウラ、カイケノシタ、ニギヤ、クリノシタと、おいおい人口も増えて戸数も増し、屋号も多くなってきた。宮本家へは阿波から嫁入りすることもある。
 ④宮の前と呼ばれる宮本家は、三条神社のすぐ近く、さしものにはじまり刀などさまざまなものがあったという。⑤平家ゆかりのものを奉納して三条神社を祀った。
ここからは次のような情報が読み取れます。
②には、焼畑から開墾が始まり、最初にヒエの種を蒔いたこと
③には、開墾地の近くに家を建て屋号で呼ばれるようになったこと
④には、建立した三条神社の前に、宮本家の屋敷が位置したこと
⑤には、三条神社には平家ゆかりのものが奉納仏としておさめられたこと

まんのう町 横畑 三条神社と宮本家
横畑の三条神社
しかし、現在は何も残っていない。こんな言い伝えのみが残されている。
 ⑥勝浦村明神の庄屋が、神社のものすべてを持って帰ってしまった。最初に畑を開いたところのオコンドハンまで運んでしまった。しばらくたってから、墓石を受け取りに来いと言う。オコンドハンは丸い石なので、どうも物石にしていたようである。この石が「横畑へいぬ、いぬ」と泣いたという。気味悪くなった庄屋が、石だけを返してきた。他のものについては何も言わない。横に寝かせたというさしものもこのとき紛失してしまった。
 また、三条神社が勝浦神社と合併したことがあった。寛文年間とも言われるが、その間、祭りも合併で挙行したのだが、勝浦神社の祭りでありながら、三条神社の氏子たちが上座に座って祭祀を行う。年の初めの祝いにも上を占めていた。

ここからは次のような情報が読み取れます。
⑥は横畑が江戸時代には勝浦村庄屋の管理下に置かれていたこと 
⑦横畑の三条神社と勝浦神社が合祀されたことがあったが、その時には、三条神社の氏子が各上扱いされた。 
(中略)(県史14巻542P)
宮本家のもうひとつの屋号、川崎屋というのは、伊勢の太夫さんが名付けてくれたものである。
 ⑧伊勢の太夫というのは、来田監物太夫のことで、長谷坂、半坂、勝浦、下福家、八峯、家六、谷田、粉所、猪之鼻、渕野、樫原 堀田 前之川、明神、中熊、川之奥、美角、横畑へとお札を配ってきていた。横畑では、松右衛門宅へ来てから峠道を越え、阿州の別床、伊沢へも足をのばしていた。監物太夫が、宮本家が水に不自由しているのを見かねて水を呼んでくれたと言う。同じくフルヤという家の井戸も掘ってくれ、双方とも現在まで使用中である。このとき、川崎屋という屋号をつけてくれた。
 伊勢の太夫へのもてなしはねんどろだったが、時節柄、御馳走はいらないと断った書状が残されているところをみると、かなり無理をしてもてなしていたことがうかがえる。
 ⑨二段になった聖地には、伊勢屋敷があり、お伊勢さんを祀っていた。二間半と三間の社を建て、年に一度太夫が来たときには参詣の後、ここへ籠もったという。そして、方々へお札を配って回った。現在は屋敷はなく小さな祠があるのみだが、一畝ばかりの土地は、聖なる地ということで人々は立ち入らない。
⑧からは、宮本家が伊勢太夫の伊勢お札配布の拠点となっていたことが分かります。このことについて、満濃町誌の記述を要約すると次のようになります。
A 横畑には、阿波から寒風峠を越えて伊勢太夫が正月にやってきた。
B 伊勢太夫のための宿舎として「伊勢家(おいせやはん)」と呼ばれる二間+三間の平屋に、お伊勢さんが祀られていた。(⑨)
C 伊勢太夫はここを拠点にして訪問、配札等の伝道活動を行った。
D 伊勢信仰が盛んになるにつれ、多くの檀那衆や信者が横畑へ集まってくるようになった。
E 伊勢太夫の中でも来田監物は横畑との関係が深かく、農業用水や井戸など水源を開いた。それは「伊勢太夫が呼んだ泉」と呼ばれ、今も二か所残っている

まんのう町 横畑集落4
横畑からの望む龍王山方面
文久三(1863)年4月に、来田監物大夫が勝浦村と川東村の檀家回りをしています。
その時の集落の講元は、稲毛文書によると次の通りです。(琴南町誌363P)
長谷坂 佐野甚平 (一宿)
半坂  佐野喜三郎。勝浦 佐野喜十郎 (一宿)
下福家  古川多兵衛 八峯 佐野徳兵衛 家六 岡坂甚四郎 (一宿)
谷田  牛田武之丞 本村 稲毛千賀助 (一宿)
所村  与平次 新谷村 牛田藤七 
猪の鼻  磯平 
渕野  次郎蔵 
樫原  梅之助、藤八 
明神  古川嘉太郎 中熊八百蔵 
中熊  源次郎 
川奥  西岡忠太郎 (一宿)
美角  七兵衛
横畑  拾右衛門 (一宿)
堀田  林兵衛
前の川  御世話人
来田監物から宮本家へ宛てた書状からは、勝浦、川東、中通の三村で22軒の檀那(伊勢太夫に奉仕する家)があり、これを五泊六日で巡回していたことが分かります。
「横畑の宮本家は伊勢太夫の世話をよくしたので、その功により「川崎屋」という屋号を与えらた」とあります。
これについて、別の視点で考えて見ます。

坊集落・金剛院の性格は
坊集落としてのまんのう町長炭の金剛院集落
中世の熊野詣での先達たちは、修験者たちでした。それが次第に里に定住する者が現れます。彼らが開墾して、姿を見せるのが「坊集落」です。このあたりでは、まんのう町の金剛院が典型的な坊集落であると研究者は考えています。阿波のソラの集落にも、修験者たちが定住して坊を開き、周辺を開拓したところがあることは以前にお話ししました。
村に現れた聖たち

 彼らは修験者としての痕跡を持っているので、伊勢御師などの廻国の行者たちとのつながりがあり、保護・支援しました。横畑の宮本家も「伊勢家(おいせやはん)」という宿舎兼布教所を持ち、伊勢御師と深いつながりを持っています。宮本家も、もともとは修験者であった可能性があります。ここでは、このくらいにして県史の続きを見ていきます。  
 横畑から阿波の伊沢へ伊勢の太夫が行くのには理由がある。( 県史14巻543P)
七人の落武者が一段一段とだんだん畑を開いた。生活が落ち着くにつれ人口もおいおい増加し、そのなかの何人かが伊沢へ分村して行ったようだ。ある年のこと伊勢の太夫の都合が悪くなり、⑩横畑の者が太夫の代わりにお札を持って伊沢へ行った。ところが「炭焼きがやってきた」と伊沢の人たちは、横畑の者を粗略に扱った。別に大事にしてくれとは言わないが、お札を持って来たのであるからそれでは困ると伊勢の太夫に愚痴をこぼした。次の年、伊勢の太夫は、今年はこのお札を別に持って行き、夜は枕元へ置いておくようにと言った。さて、伊沢へ泊まった夜、伊沢の山々では山犬が騒いで恐ろしいこと限りがない。「どうしてこんなに山が荒れるのだろう」と伊沢の人々は言う。「それは伊勢のお札を大事におまつりしないからだ」と教えたという。それから、伊沢の人たちもお札を大切に祀り、横畑の者にも親切だったという。
⑩からは、伊勢御師のお札配布を「横畑の者=宮本家(?)」が行っていたと記します。以前見たように、伊勢御師の檀那とお札を配っているのは、「○○坊」と称する修験者や聖が多かったことは以前にお話ししました。これも宮本家=修験者起源説の補強になります。

三条神社横畑 平家伝説の里
横畑の三条神社
 三条神社の祭礼や正月には、必ず伊沢から参詣にやってきた。 県史14巻544P)
この阿波から来る人のために、寒風峠の道のミチツクリを毎年、十月三日に行なっている。阿波から来るという人のなかには、幼い者も混っているというが、まだだれも行き合った人はいない。
 寒風峠は風がたむろしているように吹きあげる峠道で、ここには物見やぐらがあって見張りをしていた。三頭越えをする人も、吉野川も見え、阿波の動静が一望にできるところである。また、何かのときには祖谷へ知らせ任務も帯びていたという。ここにも番卒の墓というのが十あまりかたまってある。これらは現在も宮本家が供養を続けている。(中略) 
 サルガフタエを行くときは、石鎚参りの山伏たちも、「ぼーぼー」と法螺貝を吹き鳴らして通り過ぎる。平家谷伝説が語られるのにふさわしい地形と言えよう。現在、道路はよく整備され、平家落人が聞いたという畑は茶の木に囲まれ一面のキャベツ畑になっている。
ここからは正月などには、伊沢から横畑の神社に参拝に人々が訪れていたことが記されています。それと、伊勢神社のお札配布はリンクします。つまり、伊沢集落は「修験者宮本家」のかすみ(テリトリー)であったことがうかがえます。
   修験者のなかで、定住した修験者のことを里山伏または末派山伏(里修験)と言います。

定住した修験者(里山伏)の活動は?

彼らは、村々の鎮守社や勧請社などの司祭者となり、拝み屋となって妻子を養い、田畑を耕し、あるいは細工師となり、鉱山・山林の開発に携わる者もいました。そのため、庚申塔などには導師として、その土地の修験院の名が刻まれたものが見つかっています。また、高野聖が修験道を学び修験者となり、村々の神社の別当職を兼ねる社僧になっている例は、数多く報告されています。近世の庶民信仰の担当者は、寺院の僧侶よりも高野聖や山伏だったようです。ソラの集落の信仰には、里山伏(修験者)たちが大きな役割を果たしていたことは以前にお話ししました。

庚申信仰=山伏形成説
 庚申信仰を拡げた修験者(山伏)たち
横畑の山向こうの葛寵野の大師堂には、次のような話が伝えられます。
昔、一人の修験者が大きなツヅラを背負ってこの地にやってきました。
ツヅラの中は立派な仏像でした。修験者はこの地の草庵に住み着いて、付近の集落を托鉢する日日を送ります。そのうちこの仏像が霊験あらたかで、どんな病気もなおしてくれ、願いごともかなえてくれることが近隣に知れわたるようになります。そのため遠くの村々からも参拝者が相つぎ、葛龍野の急坂に列をなしたというのです。そこで参詣者には、風呂を沸かして接待して大変喜ばれたと地元では言い伝えられています。
 伝説かと思っていると、実際に使われた護摩札が残っているようです。
護摩札は、文化11(1814)年のものと、文政三(1820)年の年号があります。山伏がツヅラに背負って持ってきた仏像もあり、江戸中期の作とされています。実際に、山伏たちがソラの集落に定住していたのです。
近世初頭の山伏の業務内容

こうして見ると横畑にも修験者の痕跡がおぼろに見えて来ます。
「石鎚参りの山伏たちも、「ぼーぼー」と法螺貝を吹き鳴らして」ともあります。石鎚講の先達に率いられて石鎚詣でをする人々がいたことがうかがえます。また、阿波のソラの集落に住み着いた山伏たちは、剣山詣での先達としても活躍する一方で、いろいろな加持祈祷を行っていました。同じような雰囲気が横畑からも感じます。
以上が、横畑から竜王山を見ながら考えたことです。しかし、横畑からは大川山は見えません。見えるのは竜王山です。ここに坊集落を開いた修験者たちは、大川山ではなく目の前の竜王山や大滝山を霊山として崇め、周辺の行場修行に励んでいたことが考えられます。
大滝山には太龍寺があります。 

大滝寺2
大滝山直下の大瀧寺 神仏混淆時は、西照神社の別当寺

大瀧寺は寺伝によると、江戸時代には稲田氏から禄を与えられ、西照神社の峰より東へ八丁、西へ八丁、それから麓に至るまで寺領として認められたといいます。また、寺の裏手(北側)も高松藩より権現林(寺領)として寄進されています。さらに髙松藩からは供米として五十石を与えられていたと記します。その結果、山頂の伽藍の建築物としては、登山道には鳥居の数が十八基、寺域には西照大権現一宇、竜王堂・観音堂・不動堂・護摩堂・奥院に熊野十二社大権現などのほか、多数の建物があったと記します。今日に残された自然環境は、この時の寺域のようです。当時の盛大さがしのばれます。
 この大龍寺の影響力の下にあった修験者が開いたのが横畑ではないかと私は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 仲多度郡琴南町美合地区 香川県史14巻民俗編539P
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4大龍寺11

空海が阿波の大瀧山にやってきたころには、すでに修行を行っていた先行者がいました。空海が四国における行者のパイオニアではありません。空海は修行者の群れの中に身を投じた若き行者でした。
 当時の行者にとって、まず行うべき修行はなんだったのでしょう?
 それは、「窟龍り」、つまり洞窟に龍ることです。
そこで静に禅定(瞑想)することです。行場で修行するという事は、そこで暮らすということです。当時はお寺はありません。生活していくためには居住空間と水と食糧を確保する必用があります。行場と共に居住空間の役割を果たしたのが洞窟でした。阿波の四国霊場で、かつては難路とされた二十一番の太龍寺や十二番の焼山寺には龍の住み家とされる岩屋があります。ここで生活しながら「行道」を行ったようです。
4 阿州太龍寺岩谷図(龍の岩屋)

 行道の「静」が禅定なら、「動」は「廻行」です。
神聖なる岩、神聖なる建物、神聖なる本の周りを一日中、何十ぺんも回ります。修行者の徳本上人は、周囲500メートルぐらいの山を三十日回ったという記録があります。歩きながら食べたかもしれません。というのは休んではいけないからです。
 円空は伊吹山の平等岩で行道したということを書いています。
「行道岩」がなまって現在では「平等岩」と呼ばれるようになっています。江戸時代には、ここで百日と「行道」することが正式の行とされていたようです。空海も焼山寺山や大瀧山で、虚空蔵求聞持法の修行のための「行道」を行い、室戸岬で会得したのです。
4大龍寺12

仏教以前の人たちは、洞窟をどのように見ていたのでしょうか?
 古代の人々は、洞窟は死者の荒魂が出入りする他界への通路(関門)と信じていました。その関門を守るために悪魔、毒龍、毒蛇、鬼などが住むとされてきました。
 『本朝法華験記』(上巻十四話)の「志摩国窟洞宿雲浄法師」は、熊野から志摩への辺路をゆく途中で、海岸の大岩洞に一夜宿り、大毒蛇に呑まれかけた話です。このとき岩洞は、生臭かったとあります。それは、沖縄や南西諸島の海岸洞窟が、風葬洞窟にもちいられたことを思い起こさせます。洞窟に悪魔、悪霊とそのシンボル化された毒龍、毒蛇が住むという説話には、古代原始葬法の追憶と残像があると研究者は考えているようです。
4大龍寺15

 また、洞窟が黄泉に通じる関門であったことを思い出させます。
有名な『出雲国風土記』(出雲郡宇賀郷の条)の「脳(なづき)の磯」の「黄泉(よみ)の穴」の伝承です。その遺蹟とされる猪目洞窟(島根県平田市猪目)からは舟型木棺が出土しています。このように古代の洞窟観は黄泉への通路であり、毒龍や毒蛇が住むと思われていたのです。
4大龍寺14
そこへ行者達は入っていって、じっと座って禅譲しているのです。
これを見た人たちは
「行者達が、何らかのスーパーパワーで魑魅魍魎を封じ込めたに違いない、彼らは強力な呪力を持つに違いない」
と信じるようになったのかもしれません。窟龍り修行者を支持し、信者が集まってくるようになることは、近世にも見られます。
 しかし、原始修験道の孤独な修行者の窟龍りは、その信者たちによって寺院が建立されると忘れられ、ただ毒龍を封じ込めたという伝承だけが残ります。そして、それが無名の修行者であれば、「それは弘法大師であった」という縁起になっていったようです。
IMG_0903

太龍寺は、青年時代の空海が求聞持法修行をした山と研究者も考えているようです。
ただ空海は「大瀧(おおたき)」獄と書いていますが、現在の寺名は「太龍(たいりゅう)」寺で、山も太龍寺山(602メートル)になっています。いつ山名は変わったのでしょうか? それは後で考えるとして・・

4太龍寺縁起表紙
太龍寺縁起は東寺の賢宝の著した『弘法大師行状要集』応安七年(1374)に引用されているので、これ以前の作であることは確かなようです。
 この中には
「鎌倉末期ごろには太龍寺には滝があった」
と記されています。瀧を落ちる「水はインド雪山の無魏池の水が流れて来た」と密教的縁起らしく大法螺を吹いていますが・・
 さらに、寺から辰巳(東南)に三重の霊窟があると記します。これが今は、なくなってしまった滝近くの「龍の窟」で、この窟が「太龍寺」と呼ばれるようになった所以のようです。
4大龍寺13

 その理由は先述したように
「龍を封じ込めたという窟は、山麓や海辺の人々からおそれられた洞窟に修行者が寵って、龍を恩寵神にした」

という言い伝えがあったからでしょう。
しかし、それが忘れられて「龍の窟」の名だけがのこったようです。この寺はこの「龍の窟」によって寺名をつけていますから「弘法大師窟龍り」の伝承は、かなり後まであったようです。 
IMG_0910

   現在のこのお寺の山号は「舎心」山で、舎心というのは心を緩めるという意味です。
 しかし、鎌倉時代にの『阿波国太龍寺縁起』には「捨身」山と記されています。もともとは、身を捨てるほうの捨身だということがわかります。前回の我拝師山でも述べましたが、捨身の行われた岩を捨身岩といいます。行場にはどうしても跳ばなければ渡れない大き石があります。その間を跳ばなければなりません。飛び損ねると落ちて死にます。これが「捨身」行です。こういうところの行は一回では済みません。何回でもぐるぐる回るわけです。
 空海が、この山でも捨身をしたことは『阿波国太龍寺縁起』にも出てきます。
観ずるに夫れ当山の為体、嶺銀漢を挿しばさみ、天仙遊化し、薙嘱金輪を廻て、龍神棲息の谿。(中略)速やかに一生の身命を捨てて、三世の仏力を加うるにしかず。
即ち居を石室に遁れ、忽ち身を巌洞に擲つ。時に護法これを受け足を摂る。諸仏これを助けて以て頂を摩す。是れ即ち命を捨てて諸天の加護に預かり、身を投じて悉地の果生を得たり。(中略)是れ偏に法を重んじて、命を軽んじ身を捨てて道に帰す。雪童昔半偶港洙めて身を羅刹に与うるや。

「一生の身命を捨てて」というのは、捨身をすることです。自分の命を仏に捧げることによって水遠に生きることができるのです。石室は龍の窟です。そして、石室とか巌洞とか三重霊剛が出てきます。戦前の地図には「龍の窟」が出ていましたが、今はありません。セメント会社に売ってしまって、窟はつぶされてしまったようです。

4大龍寺2

 つまり、捨身山(身を捨てる山・捨身の行をする山)が、いつの間にか舎心山(心を休める山)となってしまったようです。この山で虚空蔵求聞持法を修したことは、空海自筆の「三教指帰』にも記されています。現在、太龍寺には本堂の南に立派な求聞持堂があります。

4大龍寺3
 行場をもう少し絞り込んでみましょう。
それは、「南の舎心」「北の舎心」という二つの舎心岩(捨身岩)と研究者は考えているようです。今は「舎心」と表記されていますが、もともとは「捨身」です。ここは捨身行が行われた行道行場だったようです。
太龍寺伽藍

 絵図右下隅の北舎心岩の上のお堂は、お寺では大黒天堂らしいと伝えます。これは焼山寺三面大黒天の岩からしても、考えられる事のようです。ここは岸壁で空中に橋が架けられています。
 また絵図左上には「南捨身」が描かれ。ここも空中を橋が結んでいます。ここから空海は、南舎心岩と北舎心岩の二つの岩の行場を周りながら行道をおこなったと研究者は考えているようです。
また、中央下には「大瀧」が描かれています。
『阿波国太龍寺縁起』には「三重之霊窟」と書かれています。
4大龍寺9

研究者は、今はなくなってしまった洞窟と、そこで行われた「行道」についてを次のように推論しています。
「龍の窟」は、上下に三段に三窟があったものとおもわれ、それは石灰岩質の崖にはよくできる窟である。おそらくその傍か内部を大滝が落ちていたので、「大瀧嶽」の名があったものとおもわれる。しかしカルスト地帯の常として水脈が変化すると滝は涸れ、龍の窟だけのこったために、大瀧嶽は太龍寺となったろうというのが、私の結論である。

4大龍寺8

 研究者は「瀧」にこだわっているようですが、古代の行場は水が流れてなくても断崖絶壁を「瀧」と呼んで地中の異界へ通じる関門=行場と考えていました。だから水が流れる流れないにこだわる必用はないように私は思っています。
さらに、この寺の奧の院と大龍寺山について次のように述べます。
この寺の奥之院は補陀落山といって、太龍寺山の最高峰である。この補陀落山からは太平洋が足下に一望できる。これが辺路修行の寺の重要な条件であり、この山の中腹に南舎心岩も龍の窟もある。南舎心岩の上からは東方に紀伊水道が望まれ、橘港の島々が見える。
 したがってこの岩の上で求聞持法を修すれば、東方の空に虚空蔵菩薩のシンボルである、明星(明星天子)を拝することができよう。このように海を拝み、明星を拝むことのできる山は、辺路信仰と山岳信仰の結合をしめすものとかんがえられる。太龍寺の奥之院が補陀落山であることは、その痕跡の一つとみとめることができる。
 おそらくここで修せられた昔の求聞持法は、龍の窟を出て、南舎心岩に登って、虚空蔵菩薩の真言を一万遍唱えて、夜明けには明星を拝して、その後に舎心岩の南の大巌塊の崖の上から海を拝し、次いで補陀落山に登って南方補陀落浄土を拝んでから、龍の窟に帰ったであろう。
 南舎心岩の南の大巌塊は、南側が直立の崖で、覗きの行ができそうな所であるから、『阿波国太龍寺縁起』にある空海の捨身行は、ここからかもしれないという気がする。この崖の上から大きな島が見えるが、これは牟岐港の沖の大島とおもわれる。この島は天禄三年(九七二)の『空也誄』に、出てくる湯島(紀伊水道の伊島説があるが、これは土佐から遠い)にあたる。
 まさに太龍寺の補陀落山から拝む補陀落観音浄土であったろう。
 このように「窟龍り」の洞窟である「龍の窟」と、求聞持法の禅定地である大滝寺山山頂をめぐる行道ルートが示されます。同時に山頂が補陀落山であり、海の彼方に補陀落観音浄土の島もみえるようです。
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    求聞持法に欠かせないもうひとつが聖火です。
 求聞持法は「行道」修行と「火を焚く」修行がセットになっていたことは、前々回の焼山寺山の所でお話ししました。古代の行者達は、不滅の聖なる火を「海の神」に捧げるために焚きました。
 その痕跡が、この山にも龍燈伝説として残っています
柳田国男の『神樹篇』に「龍燈松伝説」には、この山について次のような一節があります。
 阿波那賀郡見能林村の津峰権現と、同郡加茂谷村舎身山大龍寺との両所は、何れも除夜の晩に山の頂上へ龍燈が上った(阿州奇事雑話) 大龍寺にはおかかと云ふ山中第一の名木があったのを、大仏殿建立の為に豊太閤の時に伐ったと言へば、今では其龍燈も昔話であろう。
 太龍寺に大杉に龍燈が上るという話は、昔は有名だったようです。この杉は弘法大師の杖が成長したという杖立伝説もあったようです。ここには空海の辺路修行と龍燈の関係がうかがえます。
IMG_0924
 もともとは、辺路修行者が海の彼方の常世に向かって聖火を献じました。
ところが、時代が下って「常世」を龍神(海神)の都、龍宮とするようになって、この聖火は龍神に献ずる燈となっていきます。
 空海修行のころには、常世は法華経信仰や密教信仰の影響で龍神になっていたようです。この火は求聞持法修行が行われている霊山では、百日間は消すことはなかったとされます。毎日、霊山に燃やされる聖火を、麓の人々はどんな気持ちで仰ぎ見たでしょうか。
 沖の漁夫や航海者は、夜はこの火を望むことができました。そのような山の峰や巨木は昼には、航海や漁の目印になります。漁夫や航海者は、この火によって修行者の存在を知って参詣し、加護を願うとともに、危難にはこの聖火を念じるようになったというSTORYを考える事が出来ます。実際に、嵐に遭って助かった船は、土佐の青龍寺奥之院のある岬の不動尊に碇を献上しています。
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 原始の海洋宗教では、修行者が海の彼方の龍神のために燈を献ずることでした。それは海辺の洞窟や岬の上で柴を焚くことから、燈龍と呼ばれ、後の常夜燈やお燈明に「変身」していきます。そのような火が焚かれなくなると、危難のときの幻の火に変化し、また龍神の献ずる火があったという話に転換したようです。
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空海という名前についての違和感
 かつて空海という名前を、西安に再建されたばかりの青竜寺で現地の管理人に紙に書いて示したときに、驚いたような顔で「人の名前か?」と問い直されたことを思い出します。当時の中国の人たちにとって「空海」という沙弥名は、掟破りの変な沙弥名に思えたようです。確かに、空海という名前は僧侶の名前としては異質です。
 空海も最初からこの沙弥名を名乗っていたようではないようです。古い大師伝である「金剛峯寺建立修行縁起』に、空海がはじめ無空と称し、次いで教海と名乗り、また如空といったのちに、最後に空海と改めたとあります。その背景には、この大龍寺山や室戸岬で空と海を対象としての四国辺路修行の果てで、空海が選んだ沙弥名と考えれば、彼にふさわしいとも思えてきます。

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以上 今回の要点をまとめておきます
1 辺路でいちばん大事なのは「行道」をすること。
2 行道=「窟龍り」の禅定 + 神木・神岩の廻り
3 虚空蔵求聞持法= 行道 + 聖火(→龍燈伝説へ)
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参考文献 五来重 遍路と行道 修験道の修行と宗教民族

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大滝山5
          
  なだらかに続く阿讃の山脈(やまなみ)は、どれが頂上か見分けのつきにくい山が続きます。その中で一番高い龍王山と相栗峠をはさんで、並び立つのが大滝山(946m)です。この山の北側周辺は、藩政期から高松藩からの寄進を受け、大滝寺のひろい社領として護られてきたために、上部はいまでもよく自然林が残されています。

大滝山2
 大滝山の最高点は神社裏のピーク(946m)です。しかし、残念ながら山頂付近はヒノキが大きく繁り何も見えないので、訪れる人はあまりありません。多くの人が目指すのは、県境尾根を西に進んだ三角点のある城ケ丸です。なだらかで整備された尾根道はには、大きなブナも見えます。讃岐の尾根道で見られるのはここだけではないでしょうか。他にもケヤキ、アカガシ、ヤマザクラなどが茂り、森林浴には最適です。香川県側は「大滝山自然休養林・県民いこいの森」として整備されていますので、森林浴には最適です。

大滝山4
 ここまで書いてきてハイキング案内のようになっていることに気付きました。
今日は、修験道の拠点寺院であった大滝寺について、見ていきたいと思います
ここには現在、山頂に西照神社とその下に大滝山がありますが、明治以前の神仏分離以前は、このふたつは一体の施設で、僧籍を持つ修験者が管理していたようです。
「大滝寺縁起」によると、
①奈良時代に行基菩薩が香川県塩江より来山、この寺を建立したこと、
②平安期の初め延暦十年(791)空海が来山、修行し、
③空海が西照大権現の尊像を彫刻し、法華経出現品を一石毎に一字記し堂の左右に納めた
と記します。
 「行基ー空海」開山というのは、真言寺院の一般的な創建由来ですが、郷土史家や地元の人達の中には、この「空海伝説」を積極的に肯定する人も多いようです。
 というのは、空海の書である
『三教指帰』の中の「阿州大滝岳に求聞の法を修め……」
とある大滝岳を、この大滝山とみなすからです。
縁起は、また天安三年(859)の聖宝の登山を力説します。現在、寺の西方にある高野槙は、聖宝お手植であることや、聖宝にちなんだ男女の厄除厄流の行事が行なわれていることが記されています。

西照神社1
 どちらにしても「聖」伝説が色濃く漂うお寺なのです。
 阿波の美馬町郡里に願勝寺というお寺があります。
古寺で、いくつもの文化財があり、寺独自の記念館も整備されています。
この寺には中世以来、大滝寺と深い法縁関係があったことを示す史料があります。戦国末期の文禄三年(1594)に書かれた「願勝寺歴代系譜」です。この系譜は、当時の住職快盤によって記されたものです。その第六代智由上人の項に、大滝寺に関する記述が見えます。
…後空海上人モ阿波二来り 当福明寺(願勝寺の旧名)二留錫シテ 護摩堂ヲ立テ 本尊不動明王ヲ自作、爾来真言密宗二改ムト云、其比、空海上人 阿波卜讃岐中山ナル大滝ノ峯ニ登り 国土安全ノ祈ヲナスノ処 不思議ノ老翁忽然卜現レ、我是汝が遠祖天忍日命ノ神使也卜。
 空海曰く 其神跡イヅレナルヤ。翁曰 即此処也卜 古塚ヲ七つ其形バ古十墓 変シテ古塚二入テ身ヲ隠ス扨コト故アラ卜此処 一草庵ヲ構 其霊ヲ祭ル 其草庵後 一大滝寺卜改 其神ヲ西照権現ト号ス・智由ノ弟子智信坊ヲ以テ此寺ノ法燈ヲ続カシム
中略……国司藤原道雄西照宮二神田ヲ寄附スト云。
 空海が願勝寺で修行後に大滝峯に登って「老翁」に出会い、西照権現を祀るためにそれまであった庵を大滝寺と改めたとします。ここからは、ふたつのお寺が修験道の流れをくむ寺で密接な関係にあったことがうかがえます。
大滝山3
 もうひとつは、天正三年(1575)の阿波法華騒動です。
これは「中世阿波宗教史 最大の騒動」といわれれます。
騒動のきっかけは、戦国大名の三好長治が日蓮宗に熱烈に帰依して、阿波国内の一般庶民にまで、法華に改宗を強制したことに始まります。彼は堺の妙国寺の僧三百余人を阿波に派遣し、他宗寺院に改宗の折伏を働きかけたのです。この時に、最も果敢に抵抗を示したのが真言山伏たちでした。三千人の山伏達が、三好氏の居城勝瑞の城下で大デモンストレーションを行います。

三好2
「願勝寺歴代系譜」には、その時の様子が次のように記されています
第二十五代快弁上人の項に、
 …又五郎勧メニヨリ長治公(義賢の子息)日蓮宗二帰依シ 同三年(天正三年)ニハ 阿波国中生レ子迄一人モ残ラス日蓮宗ニナシ 法花(華)経ヲ戴カセント泉州堺ノ妙国寺、経王寺、酒塩寺ノ三ケ寺ヲ阿波へ招待シテ 本行寺二住セシメ、法華坊主三百人南方北方手分シテ 士農工商ノ隔ナク残ラス法華経ヲ戴キ 法華宗トナルノ時、滝寺ノ上人ハ 上命辞シ難シト直二改宗シテ法華宗ノ弟子トナル。
 願勝寺快弁ハ 法華坊主ヲ相手トシテ問答ヲナスト雖、時ノ権威二当り難シト弟子三人ヲ連テ其夜二立退キ高野山二登り法華退治ノ計議ヲナス。此時阿波国中二真言坊主ハ願勝寺ノ外ナシト上方迄モ風聞ス。
 快弁ハ高野山ニテ法華退治ノ一策ヲ儲ケ。阿波へ帰りテ同意ノ寺院ヲ訪ラヒ密事ヲ談シ、阿波国ノ念行者数多クノ山伏ヲ催シ、持妙院へ訴訟シ、日蓮宗対シ不当状ヲ三尺坊二持タセテ本行寺へ遺ス処、妙国寺普伝上人返答延引、ヨツテ法華坊主ヲ打殺スベシト我々三千余人ノ坊主ハ 此度ノ法華ノ為ニスト無鉢二本行寺へ押入り騒動二及フ。
 其魁トナル人々二ハ 大西ノ畑栗寺、岩倉ノ白水寺、川田ノ下ノ坊、麻植曾川山、牛ノ島ノ願成寺、下浦ノ妙楽寺、柿ノ原別当坊、大粟ノ阿弥陀寺、田宮ノ妙福寺、別宮ノ長床、大代ノ至願寺、大谷ノ下ノ坊、河端大唐国寺、高磯ノ地福寺、板西ノ南勝坊、同蓮華寺、矢野ノ千秋坊、蔵本ノ川谷寺、一ノ宮ノ岡之坊、此外添山薬師院、香美虚空蔵院等ナリ。
 忌部郷忌部十八坊ヲ始 其余ノ神宮寺別当附属ノ修験神坊ノ行者共ハ 此事二与セズト雖、国中ノ騒動大方ナラス、是事ヲ聞テ三好家ノ大老篠原自遁馳来リ、種々曖ヒニヨツテ妙国寺、経王寺、酒塩寺等ヲ初メ此外三百人法華坊主ヲ森志麻守請取テ船ニテ上方へ送リケレハ、篠原自遁真言宗ノ寺々ヲ呼出シ、夫レ元ノ宗旨ヲ守ルベシトノ厳 命ニヨツテー旦(其騒動治リ……(後略)
 この中の法華教反対運動の中心として活動した寺院の中に、大滝寺の下寺的存在であるお寺がいくつかあるようです。それらの中に、先ほど見た願勝寺や脇町方面からの登山口の岩倉の地にあった白水寺(岩倉の坊)があります。これらの反対運動の背後に、大滝寺があったことがうかがえます。同時に、大滝山が中世の修験道山伏の一中心でもあったことも分かります。

三好氏1

 一方で、修験道でも「忌部十八坊」や「滝寺ノ上人」は、反対運動に参加しなかったようです。これは忌部十八坊が修験道の世界において、大滝山の系統と別系統であり、対立関係にあったことを示しているのではないかと研究者は指摘します。忌部十八坊は「忌部氏」を祀る地方的な修験道であり、中央(高野山)と連がる大滝山とは、相入れない一面をもっていたようです。

大滝山集落1
 ちなみに、大滝修験道と忌部修験道(高越山)には、こんな話が残っています。
大滝山と高越山は仲が悪く、再三にわたり「石合戦」をしたというのです。
高越山から投げた石が大滝寺の床下にあるとか、脇町や隣接の阿波町のあちこちに残っているという話が伝わっています。また逆に、大滝山から投げた石は、高越山まで届かず「拝原」と呼ぶ地にあるとかいわれます。この石合戦の背景には、大滝山と高越山をそれぞれ拠点とする山伏が修験道の世界では属する集団を別にして仲が悪かったということなのでしょう。
 岩倉の白水寺は江戸時代には愛行院と称し、この地方の修験道の一方の旗頭でした。
『阿波志』には
「愛行院、岩倉村に在り白水寺と称す、天文約書に見ゆ。泉あり白くして甘し、優婆塞居る、租及び丁役を除す」
と課役が免じられていたようです。白水寺は「願勝寺歴代系譜」のほか、高越山の概で記した天文約書にも見えているので、中世以降には、大滝寺に代わって修験道の世界で活躍したお寺であったようです。

大滝寺2
  江戸時代の大滝寺は? 
 大滝寺は寺伝によると、江戸時代にはこの地方の支配者稲田氏から禄を与えられます。
その他にも、西照神社の峰より東へ八丁、西へ八丁、それから麓に至るまで寺領として認められたといいます。また、寺の裏手(北側)も高松藩より権現林として寄附されていました。さらに同藩から供米として五十石を与えられていたと記します。
 その結果、山頂の伽藍の建築物としては、登山道には鳥居の数が十八基、寺域には西照大権現一宇、竜王堂・観音堂・不動堂・護摩堂・奥院に熊野十二社大権現などのほか、多数の建物があったと記します。今日に残された自然環境は、この時の寺域のようです。当時の盛大さがしのばれます。
大滝寺3
 
しかし、明治の神仏分離によってお寺と神社は分けられ、お寺は下に下ろされました。そして、多数あったという伽藍の建築物も地に帰り、ケヤキ、アカガシ、ヤマザクラやブナなどの巨木が茂る神域として私たちを迎えてくれます。

参考文献 田中善隆 阿波の霊山と修験道
 

 

                                     

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