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観音寺市の木の郷町は、讃岐忌部氏の村があったところと言われます。
 713年の風土記撰進には中国にならって
「郡郷などの地名には漢字二字から成る好名をつけよと」
の命令が出されています。それに従って「木」郷は「紀伊」郷へと表記を変えます。木の郷町の近くには、忌部氏の祖神の天太玉命をまつる粟井神社があって、忌部氏によってまつられていました。また、大麻山の山麓東側にも忌部氏の祖神、天太玉命をまつる大麻神社があります。これは木の郷町の忌部氏の一族が分かれて、この地で発展したと伝えられています。
images粟井神社

讃岐忌部氏の粟井神社
忌部(いんべ)氏は、斎部氏とも記されます。
もともとは中臣氏と共に祭祀氏族として天皇家に仕えてきた神別氏族でした。忌部氏の本拠地は、大和国高市郡金橋村忌部(現在:奈良県橿原市忌部町)辺りとされていて、現在は天太玉命神社があようです。延喜式神名帳では名神大社でしたが、その後衰退して明治時代には村社でした。 
 忌部氏は祭具の製造・神殿宮殿造営に関わっていました。
その中でも特に玉造が得意であったようです。しかし、古墳時代以後は玉造の重要度が薄れ、忌部氏の出番は少なくなっていきます。また、時代を経るに従って中臣氏が政治的な力を持つようになり、中臣氏に押されて影が薄くなっていきます。そこで、自らの祭儀における正統性を主張し、復権を図った作成されたのが『古語拾遣』です。この資料は忌部氏側の立場で作成されたものですから、注意しながら見ていきましょう。この書には
 天太玉命所率神名、天日鷲命 これは阿波国忌部氏の祖なり 手置帆負命は讃岐国忌部氏の祖 彦狭知命 紀伊忌部氏の祖 天目一箇命 筑紫・伊勢両国忌部氏の祖なり

とあって、天太玉命を祖神とする中央忌部が、阿波・讃岐・紀伊・筑紫・伊勢などの枝属を率いたととあります。手置帆負命を祖神とする讃岐忌部も、その一族であったようです。
 整理すると次のようになります。
忌部一族の祖神は天布刀玉命(あめのふとだまのみこと)
阿波忌部氏は天日鷲命(あめのひわしのみこと)、
讃岐忌部氏は手置帆負命(たおきほおいのみこと)
紀伊忌部氏は彦狭知命(ひこさしりのみこと)、
安房忌部氏は天富命(あめのとみのみこと)、
  『延喜式』の臨時祭、梓木の条によると、
凡柿木千二百四十四竿。讃岐国十一月以前差二綱丁進納。
とあります。ここからは、讃岐国から毎年、矛竿を1244本も貢納することになっていたことがわかります。多くの竿を納めるので竿調国(さおのみつぎ)と呼ばれ、それが「さぬき」という国名になったという説もあるほどです。
また、『日本書紀』第二の一書には、
即以紀伊国忌部遠祖手置帆負神、定為作者.彦狭知神為作者・天目一箇神為作者.天日鷲神為作木綿者.櫛明玉神為作者.(以下略)
率手置帆負、彦狭知、二神之孫、以二斎斧斎紺、始採山材・構立正殿

ここからは笠・盾・金(金属)・綿・玉などの祭礼用具が、各忌部氏によって「業務分担」して作成したことが分かります。また、紀伊と讃岐の忌部は、木材の切り出しや神社の建築等を通じて密接に結び付いていたこと。そして、木工技術者として讃岐忌部が竿をつくり、紀伊忌部が笠・楯をつくっていたようです。

  各国の忌部の職務分担をを整理すると次のようになります。
(中央)(天太玉命 忌蔵の管理大殿祭・御門祭等紀伊
〈地方 阿波(天日鷲命) 木綿・鹿布の製作
        讃岐(手置帆負命)矛竿の製作
        紀伊(彦狭知命) 笠・盾の製作           
    出雲(櫛明玉命) 玉の製作
    筑紫(天目一箇命)金属器の製造
    伊勢(天目一箇命)金属器の製造
 これをみればわかるように、諸国の忌部は天太玉命を遠祖とする中央忌部に率いられ、各種の神具の生産に従事していました。筑紫や伊勢の己部が金属器の製造に関係しているのは、神具としての金属器の製造です。その職務の一つとして、沖ノ島の祭祀遺跡にみられるような、金属製(金・銀・銅)ひながた品の製作などもありました。沖ノ島は、対外関係を中心とした、国家的祭祀が、四世紀以後行なわれた所で、伊勢神宮の創始も6世紀頃とされます。沖ノ島の中心的祭祀者は、宗像氏ですが、沖ノ島の祭祀遺物の中には、忌部氏によってつくられたものもあったはずです。各忌部氏が分担しながら国家の祭礼に使う神具の作成調達に当たったことが考えられます。

 このように、忌部氏は神具製作者としての性格が濃いようです
 紀伊や讃岐の忌部氏ように盾や矛竿の製作者として、軍事面を支える活躍したものもあったでしょう。讃岐の国から貢上された1244本の矛竿が、すべて、神具としての矛竿に使われたとは思えません。中には、軍事的な矛竿として利用されたものもあったでしょう。
 讃岐は、気候が温暖で、樫などの照葉樹林の成育に適した土地ですから、矛竿の貢上がされるようになったのでしょう。弥生時代の唐古遺跡から出土した農耕具の大部分は樫でつくられているといいます。材質の堅い樫は、農具として、最適だったようです。 讃岐忌部氏は、矛竿の材料である樫や竹を求めて、讃岐の地に入り、原料供給地のとなる周辺の山野を支配下に置いていったのでしょう。

 このように讃岐忌部は、中央への貢納品として、樫木の生産にあたる一方で、周辺農民の需要に応じるための、農具の生産も行なっていたとは考えられます。この讃岐忌部の居住地は、粟井神社(観音寺市粟井町)の周辺であり、条里制の基準になったとされる菩提山の山麓部にあたります。ここに、矛竿をはじめとした、木工業従事者の忌部のむらが存在したと研究者は考えています。

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 どちらにしろ讃岐忌部氏は、木材伐採や加工、建築などの他にも金属精製などの技術者集団の性格をもっていたことがうかがえます。その技術を応用すれば、神社もつくれたことでしょう。
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粟井神社(観音寺市)
忌部氏の結びつきは「血縁ではなく技術」でつながっていたと考える研究者もいます。
忌部氏は血縁ではなく技術者集団(テクノクラート)だったのではないかというのです。つまり、様々な部族や渡来人が合流していきながら、忌部を形成していったと考えるのです。
例えば「続日本紀」には讃岐国にいた百済からの渡来の鍛冶師集団である韓鍛冶師部が神奈川に集団で移住し、この地に「寒川」を形成したとの記述があります。忌部グループの一員として、讃岐からやってきた鍛冶集団が、茅ヶ崎の海岸の砂浜から砂鉄を取り出して製鉄をしたのではないかというのです。

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 讃岐忌部氏は木・金属の技術者集団?
 讃岐忌部氏が木工技術者の集団であるなら、彼らの氏神である粟井神社(観音寺市)や大麻神社(善通寺市)の社殿は、忌部氏自らの手でつくったことでしょう。

大麻神社随身門 古作両神之像img000024

ちなみに、大麻神社には平安時代後期につくられたとされる、祭神の天太玉命木像と彦火瓊々杵命木像があります。また、讃岐で最も古いと考えられる木造の獅子頭もありました。これらは木工技術者だった忌部氏の手によるものではないのでしょうか。  

大麻神社 img000023

 現在の琴平の町には、一刀彫りの職人が数多く活躍しています。この職人もひょっとすると大麻神社につながる忌部氏の木造技術者集団の流れを引くものではないか、一刀彫りの中に忌部氏の伝統が生きているのではと と考えたりすると、楽しくなってきます。
讃岐忌部氏は、どこからやって来たのでしょうか?
  大麻神社の由来には次のように記されています。
 阿波忌部氏が吉野川沿いに勢力を伸ばし、阿讃山脈を越えて、谷筋に定着しながら粟井神社の周辺に本拠を置いた。そして、粟井を拠点に、その一派が笠田、麻に広がり、麻峠を越えて善通寺側に進出し大麻神社の周辺にも進出した。
 それを裏付けるように、粟井神社が名神大社なのに、大麻神社は小社という格差のある社格になっているというのです。これも三豊の粟井方面から大麻山周辺への一族の「移住・進出」といいます。
 

0cf3f03aawai粟井神社
 粟井神社は、延喜神名式に「讃岐国刈田郡粟井神社」と記されています。
『続日本後紀』承和九年十一月乙卯条に「讃岐国粟井神預二之名神」と見え、『三代実録』貞観六年十月十五日条に「授二讃岐国正六位上粟井神従五位下一」とある古社です。祭神は忌部の祖で、阿波の一宮である大麻神社と同じ天太玉命でした。いまは社域全体にあじさいが植えられて「あじさいの神社」としても有名です。
考古学的には、粟井町射場には射場1~9号墳があります。また、粟井町から木の郷町にかけては母神1~39号墳が並び、木の郷町には十数基から成る百々古墳群もあります。6~7世紀にかかて、この地域には古墳が群集し、人口が急増し、過密な地域だったことを示します。この古墳群の中には忌部氏のものもあるのではないでしょうか。ここから大麻山の山麓へ移住が計画されたのかもしれません。

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大麻神社参道(善通寺市大麻町)

 大麻神社(善通寺市)は、延喜神名式に「讃岐国多度郡大麻神社」とあります。
『三代実録』貞観七年十月九日条に、「讃岐国従五位下大麻神授二従五位上」と見え、『日本紀略』延喜十年八月二十三日条に「授二讃岐国大麻神従四位」と記された古社です。祭神は、こちらも天太玉命でした。

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大麻神社
 考古学的には、大麻神社周辺には大麻神社周辺古墳群があります。また、大麻山の東側山腹には、小型の積石型の前方後円墳も数多くありました。積石型というタイプに阿波との共通点を指摘する研究者もいます。このように大麻神社の周辺にはかなりの数の古墳があり、これらの被葬者が忌部氏の一族だったとすると、大麻神社周辺への忌部氏の進出は古墳時代後期に行われたことになります。

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大麻神社

 「大麻神社」の社伝には、次のような記述があります。
「神武天皇の時代に、当国忌部と阿波忌部が協力して麻を植え、讃岐平野を開いた。」
「大麻山(阿波)山麓部から平手置帆負命が孫、矛竿を造る。其の裔、今分かれて讃岐国に在り。年毎に調庸の外に、八百竿を貢る。」
とあり、忌部氏の阿波からの進出と毎年800本の矛竿献上がここにも記されています。
大麻神社周辺に移住してきた忌部氏は、背後の山を甘南備山としてあがめるとともに、この山の樫などを原料にして木材加工を行ったのでしょう。近世に金毘羅大権現が台頭してくるまでは、この山は忌部氏の支配下にある大麻山だったのです。
 忌部氏の痕跡がうかがえる神社や地名を列挙しておきます。
三豊市高瀬町の麻部神社、
三豊市豊中町の忌部神社
高瀬町麻(あさ)、同町佐股(麻またの意味)、仲多度郡まんのう町佐文(さぶみ、麻分の意味)
香川県神社誌(上巻)には、
「東かがわ市引田町の誉田神社は忌部宿禰正國(いんべのすくねまさくに)の創始で、正國は旧大内郡の戸主であった。」
高瀬町誌に
「讃岐忌部氏は江戸時代の中ごろまで豊中町竹田字忌部にいたが、その後高瀬町上麻に転住し現在に至る」

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大麻神社の狛犬

 最後に、善通寺の佐伯氏との関係を見ておきましょう   
 矛竿の貢納などの管理を行っていたのは誰なのでしょうか。西讃地域では「讃岐国造」として佐伯氏が挙げられます。佐伯氏は軍事的色彩の濃い氏族といわれます。そういう意味では、武器としての矛竿貢納の管理者としては、最適です。こうして、矛竿の生産者・忌部氏と佐伯氏の関係は古くからあったと考えられます。その関係を通じて、佐伯氏がその大麻山東麓への忌部氏の一部移住を先導したとも思えてきます。こうして国造の佐伯氏の支持と承認をえて、忌部氏は粟井から笠田・麻地域へと勢力を拡大していったのではないでしょうか。
 しかし、古墳時代後期になると、三豊平野では大野原を基盤とする刈田氏が突然台頭します。そして、今まで目にすることのなかったかんす塚・角塚・平塚・椀貸塚等の大型巨石墳を次々と造営します。そして、この時期に、忌部氏の本拠地である粟井地区は、刈田氏の勢力圏と浬を接するようになります。そして、律令制の郡郷制度の中では、刈田氏の支配下に入れられてしまうのです。
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参考文献
羽床正明 忌部氏と琴平宮について      ことひら 平成7年 琴平山文化会