瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:天福寺

  今は四国霊場の本堂に落書をすれば犯罪です。しかし、戦国時代に退転していた霊場札所の中には、住職もおらず本堂に四国辺路者が上がり込んで一夜を過ごしていたこともあったようです。そして、彼らは納経札を納めるのと同じ感覚で、本堂や厨子に「落書き」を書き付けています。今回は500年前の四国辺路者が残した落書きを見ていくことにします。
テキストは    「武田和昭  辺路者の落書き   四国へんろの歴史59P」

浄土寺
浄土寺
伊予の49番浄土寺の現在の本堂を建立したのは、伊予の河野氏です。
河野通信が源義経の召しに応じて壇ノ浦の合戦に軍船を出して、熊野水軍とともに源氏を勝利に導きました。この時に熊野水軍が500隻ぐらいの船を出しだのに対して、河野水軍はその半分の250隻ほど出したといわれています。その後、河野氏は伊予の北半分の守護になりました。その保護を受けて再興されたようです。

空也上人像と不動明王像の説明板 - 松山市、浄土寺の写真 - トリップアドバイザー

この寺の本尊の釈迦如来はですが秘仏で、本堂の厨子の中に入っています。
浄土寺厨子
浄土寺の厨子

その厨子には、室町時代の辺路者の次のような落書が残されています。
A 1525年(大水5年)「四国中辺路」「遍路」「越前の国一乗の住人ひさの小四郎」
B 1527年(大水7年)「四国中辺路同行五人・南無大師遍照金剛守護・阿州(阿波)名東住人」
C 1531年(享禄4年)「七月二十三日、筆覚円、連蔵、空重、泉重、覚円」
ここからは次のようなことが分かります。
①16世紀前半に、阿波や越前の「辺路同行五人」が「四国辺路」を行っていたこと
②「南無大師遍照金剛(空海のこと)」とあるので、弘法大師信仰をもつ人達であったこと。
以上から16世紀前半には、四国辺路を、弘法大師信仰をもつ宗教者が「辺路」していることを押さえておきます。

浄土寺厨子落書き
浄土寺の落書き(赤外線照射版)
本尊厨子には、この他にも次の落書があります。
D 金剛峯寺(高野山)谷上惣職善空 大永八年五月四国
E 金剛□□満□□□□□□同行六人 大永八年二月九日
F 左恵 同行二人 大永八(1528)年八月
ここからは次のようなことが分かります。
④翌年2月には、金剛峯寺(高野山)山谷上の善空という僧が6人で四国辺路を行っていたこと
⑥同年8月にも左恵が同行二人で四国辺路をしていること。
「本尊厨子に、書写山や高野山からやって来た宗教者が落書きをするとは、なんぞや」と、いうのが現在の私たちの第1印象かも知れません。まあ倫理観は、少し横に置いておいて次を見ていきます。

土佐神社】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
土佐神社(神仏分離前は札所だった)

30番土佐一宮拝殿には、次のような落書きが残されています。
四国辺路の身共只一人、城州之住人藤原富光是也、元亀二年(1571)弐月計七日書也
あらあら御はりやなふなふ何共やどなく、此宮にとまり申候、か(書)きを(置)くもかたみ(形見)となれや筆の跡、我はいづく(何処)の土となるとも、
ここからは次のようなことが分かります。
①単身で四国遍路中だった城州(京都南部)の住人が、宿もなく一宮の拝殿に入り込み一夜を過ごした。
②その時に遺言のつもりで次の歌を書き残した。
この拝殿の壁に書き残した筆の跡が形見になるかもしれない。私は、どこの土となって眠るのか。

同じ年の6月には、次のような落書きが書かれています。
元亀二(1571)年六月五日 全松
高連法師(中略) 六郎兵衛 四郎二郎 忠四郎 藤次郎 四郎二郎 妙才 妙勝 泰法法師  為六親眷属也。 南無阿弥陀仏
 元亀2年(1571)には高連法師と泰法法師とともに先達となって六親眷属の俗人を四国辺路に連れてきています。法師というのは修験者のことなので、彼らが四国辺路の先達役を務めていたことがうかがえます。時は、長宗我部元親が四国制圧に乗り出す少し前の戦国時代です。最後に「南無阿弥陀仏」とあるので、念仏阿弥陀信仰をもつ念仏聖だったことがうかがえます。そうだとすれば、先達の高連法師は、高野の念仏聖かも知れません。

国分寺の千手観音
千手観音立像(国分寺) 
80番讃岐国分寺(高松市)の本尊千手観音のお腹や腰のあたりにも、次のような落書きがあるようです。
同行五人 大永八(1528)年五月廿日
①□□谷上院穏□

同行五人 大永八年五月廿日
四州中辺路同行三人
六月廿□日 三位慶□

①の「□□谷上院穏□」は消えかけています。しかし、これは先ほど見た伊予の浄土寺「金剛峯寺谷上惣職善空大永八年五月四国」と同一人物で、金剛峯寺惣職善空のことのようです。どこにでも落書きして、こまった高野山の坊主やと思っていると、善空は辺路したすべての霊場に落書をのこした可能性があると研究者は指摘します。こうなると落書きと云うよりも、納札の意味をもっていた可能性もあると研究者は考えています。
ちなみに伊予浄土寺の落書きが5月4日の日付で、讃岐国分寺が5月20日の日付です。ここからは松山から高松まで16日で辺路していることになります。今とあまり変わらないペースだったことになります。ということは、善空は各札書の奥の院などには足を運んでいないし、行も行っていないことがうかがえます。プロの修験者でない節もあります。 
 讃岐番国分寺には、本尊以外にも落書があります。
落書された本堂の板壁が、後世に屋根の野地板に転用されて残っていました。
①当国井之原庄天福寺客僧教□良識
②四国中辺路同行二人 ③納申候□□らん
④永正十年七月十四日
ここからは次のようなことが分かります。
①からは「当国(讃岐)井之原庄天福寺・客僧教□良識が中辺路の途中で書いたこと。
②良識が四国中辺路を行っていたこと
③「納申候□□らん」からは、板壁などに墨書することで札納めと考えていた節があること
④永正十年(1513)は、札所に残された落書の中では一番古く、これを書いたのが良識であること。

①の「当国井之原庄天福寺客僧良識」についてもう少し詳しく見ていくことにします。
「当国井之原庄」とは讃岐国井原庄(いのはらのしょう)で、高松市香南町・香川町から塩江町一帯のことです。その庄域については、冠尾八幡宮(現冠櫻神社)由緒には、川東・岡・由佐・横井・吉光・池内・西庄からなる由佐郷と、川内原・東谷・西谷からなる安原三カ山を含むとあります。
岡舘跡・由佐城
天福寺は中世の岡舘近くにあった
「天福寺」は、高松市香南町岡の美応山宝勝院天福寺と研究者は考えています。この寺は、神仏分離以前には由佐の冠櫻神社の別当寺でした。

天福寺
天福寺

天福寺由来記には、次のような事が記されています。
①創建時は清性寺といい、行基が草堂を構え、自分で彫った薬師像を祀ったことに始まること、
②のち弘法大師が仏塔・僧房を整えて真言密教の精舎としたこと、
③円珍がさらに止観道場を建てて真言・天台両密教の兼学としたこと
ここでも真言・天台のふたつの流れを含み込む密教教学の場であると同時に、修験者たちの寺であったことがうかがえます。それを裏付けるように、天福寺の境内には、享保8年(1723)と明和7年(1770)の六十六部の廻国供養塔があります。ここからは江戸時代になっても、この寺は廻国行者との関係があったことが分かります。

 次に「天福寺客僧教□良識」の「客僧」とは、どんな存在なのでしょうか。
修行や勧進のため旅をしている僧、あるいは他寺や在俗の家に客として滞在している僧のことのようです。ここからは、31歳の「良識」は修行のための四国中辺路中で、天福寺に客僧として滞在していたと推察できます。
 以前にお話ししましたが、良識はもうひとつ痕跡を讃岐に残しています。
白峰寺の経筒に「四国讃岐住侶良識」とあり、晩年の良識が有力者に依頼され代参六十六部として法華経を納経したことが刻まれています。
経筒 白峰寺 (1)
良識が白峰寺(西院)に奉納した経筒

 中央には、上位に「釈迦如来」を示す種字「バク」、
続けて「奉納一乗真文六十六施内一部」
右側に「十羅刹女 四国讃岐住侶良識
左側に「三十番神」 「檀那下野国 道清」
更に右側外側に「享禄五季」、
更に左側外側に「今月今日」
経筒には「享禄五季」「今月今日」と紀年銘があるので、享禄5年(1532)年に奉納されたことが分かります。ここからは、1513年に四国中辺路を行っていた良識は、その20年後には、代参六十六部として白峰寺に経筒を奉納していたことになります。
 さらに、良識はただの高野聖ではなかったようです。
「高野山文書第五巻金剛三昧院文書」には、「良識」のことが次のように記されています。
高野山金剛三味院の住持で、讃岐国に生まれ、弘治2年(1556)に74歳で没した人物。

金剛三昧院は、尼将軍北条政子が、夫・源頼朝と息子・実朝の菩提を弔うために建立した将軍家の菩提寺のひとつです。そのため政子によって大日堂・観音堂・東西二基の多宝塔・護摩堂二宇・経蔵・僧堂などの堂宇が整備されていきます。建立経緯から鎌倉幕府と高野山を結ぶ寺院として機能し、高野山の中心的寺院の役割を担ったお寺です。空海の縁から讃岐出身の僧侶をトップに迎ることが多かったようで、良識の前後の住持も、次のように讃岐出身者で占められています。
第30長老 良恩(讃州中(那珂)郡垂水郷所生 現丸亀市垂水)
第31長老 良識(讃州之人)
第32長老 良昌(讃州財田所生 現三豊市財田町)
良識は良恩と同じように、讃岐の長命寺・金蔵(倉)寺を兼帯し、天文14年(1545)に権大僧都になっています。「良識」が、金剛三味院文書と同一人物だとすれば、次のような経歴が浮かんできます。
永正10年(1513)31歳で四国辺路を行い、国分寺で落書き
享禄 3年(1530)に、良恩を継いで、金剛三味院第31世長老となり
享禄 5年(1532)50歳で六十六部聖として白峯寺に経筒を奉納し
弘治 2年(1556)74歳で没した
享禄3年(1530)に没した良恩の死後に直ちに長老となったのであれば、長老となった2年後の享禄5年(1532)に日本国内の六十六部に奉納経するために廻国に出たことになります。しかし、金剛三味院の50歳の長老が全国廻国に出るのでしょうか、また「四国讃岐住侶良識」と名乗っていることも違和感があります。どうして「金剛三味院第31世長老」と名乗らないのでしょうか。これらの疑問点については、今後の検討課題のようです。

以上から、良識は若いときに、四国辺路を行って讃岐国分寺に落書きを残し、高野山の長老就任後には、六十六部として白峰寺に経筒を奉納したことを押さえておきます。有力者からの代参を頼まれての四国辺路や六十六部だったのかもしれませんが、彼の中では、「四国辺路・六十六部・高野聖」という活動は、矛盾しない行為であったようです。

以上、戦国時代の四国辺路に残された落書きを見てきました。
ここからは次のようなことがうかがえます。
①16世紀は本尊や厨子などに、落書きが書けるような甘い管理状態下にあったこと。それほど札所が退転していたこと。
②高野山や書写山などに拠点を置く聖や修験者が四国辺路を行っていたこと。
③その中には、先達として俗人を誘引し、集団で四国辺路を行っているものもいたこと。
④辺路者の中には、納札替わりに落書きを残したと考えられる節もあること。
⑤国分寺に落書きを残した天福寺(高松市香南町)客僧の良識は、高野聖として四国辺路を行い、後には六十六部として、白峰寺に経筒を奉納している。高野聖にとって、六十六部と四国辺路の垣根は低かったことがうかがえる。
 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
             「武田和昭  辺路者の落書き   四国へんろの歴史59P」

 前回は香西成資の南海治乱記と、阿波の三好記に書かれた記述内容を比較してみました。今回は、前回登場してきた岡城と由佐城について、もう少し詳しく見ていくことにします。テキストは「由佐城跡 香川県中世城館調査分布調査報告2003年206P 香川県教育委員会」です。

香川県中世城館分布調査報告書
香川県城館跡詳細分布調査報告

南海治乱記の阿波平定に関する記述は、大部分は『三好記』の記述を写しています。しかし、(富)岡城については、次のような記述の違いもありました。
三好記では「長曽加部内記亮親泰」は「富岡ノ城」に「被居」
南海治乱記は「牛岐ノ城ニハ香曽我部親泰入城(後略)」
ここに出てくる「(富)岡ノ城」とは、阿波にある城でなく讃岐国香川郡の「岡舘(岡城)」(香南町)のことでした。そして、岡城のすぐそばに由佐城があります。『南海治乱記』著者の香西成資は、そのことに気づいて、「長曽加部内記亮親泰」が「(富)岡ノ城」に「被居」たことを省略したようです。それは、土佐勢力が岡城を占領支配していたとすれば、その目と鼻の先にある由佐氏は、それに従っていたことになります。それはまずいとかんがえたのでしょう。  岡城について、別の史料で見ておきましょう。
岡城が文書に最初に登場するのは、観応2年(1351)の由佐家文書です。
「讃岐国香川郡由佐家文書」左兵衛尉某奉書写122'
安原鳥屋岡要害之事、京都御左右之間、不可有疎略候也、傷城中警固於無沙汰之輩者、載交名起請之詞、可有注進候也、乃執達如件、
観応二卯月十五日                          左兵衛尉 判
由佐弥次郎殿
   意訳変換しておくと
讃岐香川郡安原の鳥屋と岡要害について、京都騒乱中は、敵対勢力に奪われないように防備を固め死守すること。もし警固中に沙汰なく侵入しようとするものがいれば、氏名を糾して、京都に報告すること、乃執達如件、

 ここには「京都御左右」を理由として讃岐国「安原鳥屋岡要害」の警固を、京都の「左兵衛尉」が命じたものです。文書中の「安原鳥屋岡要害」は、反細川顕氏勢力の拠点の一つで、由佐氏にその守備・管理が命じられていたことが分かります。髙松平野における重要軍事施設だったことがうかがえます。「安原鳥屋岡要害」は、安原鳥屋の要害と岡の要害とは別々に、ふたつの要害があったと研究者は考えています。ここでの岡要害(岡城)は、「安原鳥屋」の「要害」とともに観応擾乱下での讃岐守護細川顕氏に対抗する勢力の拠点だったようで、その防備を由佐氏が命じられています。
 14世紀後半になると、讃岐守護細川頼之が宇多津を拠点にして、「岡屋形」は行業、岡蔵人、岡隼人正行康、岡有馬之允、さらには細川讃岐守成之、細川彦九郎義春がいたとされます。また、「城ノ正南二山有、其山上二無常院平等寺テフ香閣有」とも記され、現在の高松空港方面には無常院や平等寺などの寺院もあったようです。ここでは岡屋形が讃岐の守護所としての機能を持っていたことを押さえておきます。

「岡村」付近のことは「由佐長曽我部合戦記」に書かれています。
「由佐長曽我部合戦記」は、阿波の中富川合戦に勝利し、勝瑞城を落城させ阿波平定を成し遂げた長宗我部軍が讃岐へ侵攻した時の由佐氏の戦いの様子を後世になって記したものです。一次資料ではないので年代や人名、合戦経過などについては、そのまま信じることが出来ない部分はあるようです。研究者はその記述内容の中で、合戦が行われた場所に注目します。主な合戦は、由佐城をめぐって攻める長宗我部軍と防御する由佐軍の対決です。由佐城の攻防に先立って、由佐城の南方において合戦があったと次のように記します。

南ハ久武右近ヲ大将ニテ千人百余騎、天福寺ノ境内二込入テ陣ヲトル、衆徒大二騒テ、如何セント詮議半ナル中、若大衆七八十人、鑓、長刀ノ鞘ヲ迦シ、(中略)、土佐勢是ヲ聞テ、悪キ法師ノ腕達カナ、イテ物見セント、大将ノ許モナキニ、衆徒ヲ中ニヲツトリ籠テ、息ヲツカセス揉タリケル、(中略)、塔中六十二坊一宇モ残ラス焼失セリ、(中略)、僧俗共二煙二咽テ道路二厳倒シ、或ハ炎中二転臥テ焚死スル者数ヲ不知、(後略)、

意訳変換しておくと
由佐城の南は、久武右近を大将にして千人百余騎が、天福寺の境内に陣取る。衆徒は慌ててどうしようかと対応策を協議していると、若大衆の数十人が、鑓、長刀の鞘を抜いて、(中略)、土佐勢はこれを聞いて、悪法師の腕達を物見しようと、大将の許しも得ずに、衆徒が籠城する所に、息も尽かせないほどの波状攻撃を仕掛けた。(中略)、その結果、塔中六十二坊が残らずに焼失した。(中略)、僧侶や俗人も煙に巻かれて、道路に倒れ、あるいは炎に巻き込まれ転臥して焚死する者が数えきれないほど出た、(後略)、

由佐城の「南」、岡屋敷の西側に、「天福寺」があります。そこを拠点にしてに長宗我部軍側と、「天福寺」「衆徒」との間に合戦があったというのです。
岡舘跡・由佐城
由佐城と天福寺

天福寺は、舌状に北側の髙松平野に伸びた丘陵部の頂部にあり、平野部から山岳部に入っていく道筋を東に見下ろす戦略的な意味をもつ場所にあります。そのすぐ北に由佐城はあります。また「岡要害(岡舘)」にも近い位置です。天正10年秋に長宗我部内記亮親康が兄の元親から占領を命じられた「岡城」は、この「岡要害」のことだったと研究者は考えていることは以前にお話ししました。
香川県中世城館跡調査報告書(209P)には「3630-06岡館跡(岡屋形跡)」に、次のように記されています。(要約)
この高台は従来は行業城跡とも考えられていました。しかし、測量調査の結果から岡氏の居館(行業城)とするには大きすぎます。守護所とするにぴったりの規模です。「キタダイ」「ヒガシキタダイ」の小地名や現地踏査結果からこの高台を、今では岡館跡と専門家は判断しています。そうすると従来の「宇多津=讃岐守護所」説の捉えなおしが必要になってきます。

由佐城跡に建つ歴史民俗郷土館(高松市香南町)

次に岡舘のすぐ北側にあった由佐城跡を見ていくことにします。
歴史民俗郷土館が建ている場所が「お城」と呼ばれる由佐城跡の一部になるようです。館内には土塁跡が一部保存されています。

由佐城土塁断面
由佐城跡土塁断面図
郷土館を建てる際の調査では、建物下の北部分で幅3m。深さ1、5mの東西向きの堀2本が並んだものや、柱穴やごみ穴などが出てきています。堀は江戸時代初期に埋められていことが分かりました。調査報告書は、つぎのように「まとめ」ています。
由佐城報告書まとめ
由佐城調査報告書のまとめ
由佐城跡を含む付近には「中屋」というやや広範囲の地名があり、「西門」や堀の存在も伝えられています。郷土館の東には「中屋敷」の屋号もあり、いくつかの居館があった可能性もあります。由佐氏は、益戸氏が建武期に讃岐国香川郡において所領を給されたことによってはじまるとされます。
江戸時代になって由佐氏一族によって作成された系図(由佐家文書)には、次のように記されています。

「益戸下野守藤原顕助」は代々「常州益戸」に居していたが、元弘・建武期に足利尊氏に属して鎌倉幕府および新田氏との戦いに従い、京都で討死する。顕助の子・益戸弥次郎秀助は、父・顕助への賞として足利氏から讃岐国香川郡において所領を給される。秀助は、細川氏とともに讃岐国に入り、由佐に居して苗字を由佐と改めた。

由佐城についての基本的な史料は次の3つです。
①「由佐氏由緒臨本」の由佐弥二郎秀助の説明
②「由佐城之図」
③近世の由佐家文書

①「由佐氏由緒臨本」には、由佐城について次のように記されています。(要約)
由佐氏の居城は「沼之城」とも称した。城の「東ハ大川」、「西ハ深沼」であり、「大川」は「水常不絶川端二大柳有数本」、「深沼」は「今田地」となっている。外郭の四方廻りは「十六丁余」ある。その築地の内には「三丸」を構えている。本丸は少し高くなっていて「上城」と称し、東の川端には少し下って「下城」と称すところがある。西には「安倍晴明屋敷」と称される部分がある。そして、「外郭丼内城廻り惣堀」である。外郭には「南門」があり、そこには「冠木門」があった。また「南門」の前には「二之堀」と称される「大堀」があった。外郭には「西門」もあり、「乾」(北西)には「角櫓」があった。

由佐城2
由佐城跡周辺地図
「本城」の北には「小山」が築かれていた。「小山」は「矢籠」とも称されていた。「北川端筋F」は「蒻手日」と称され、「ゴトクロ」ともいう。「東丸」すなわち「下城」は「慶長比」に流出したとする。
  安原の「鳥屋之城」を「根城」としていた。
鳥屋域から東へ「三町」のところは「安原海道端」にあたり、そこには「木戸門」が構えられていた。鳥屋城の麓には「城ケ原」「籠屋」と称するところがある。「里城」から「本道」である「安原海道」を通ると遠くなるために、「岡奥谷」を越える「通路」がもうけられていた。

②「由佐城之図」は「由佐氏由緒臨本」などを後世に図化したものと研究者は考えています。由佐城絵図
由佐城絵図
居城の東端部分のこととして次のように記します。
「昔奥山繁茂水常不絶、城辺固メ仕、此東側柳ヲ植、固岸靡満水由処、近頃皆切払大水西へ切込、次第西流出云」(以下略)

意訳変換しておくと
①「昔は奥山のように木々が繁茂して、水害が絶えなかった。城辺を固めるために、東側に柳を植え、岸を固めて水由とした。近頃、柳を総て切払ったところ大水が西へ流れ込んで、西流が起きた。

②居城の西は「沼」と記し、「天正乱後為田地云(天正の乱後は、水田化されたと伝えられる」
③居城全体は「此総外郭十六町、亘四町、土居八町、総堀幅五間深サー間余、土居執モ竹林生茂」。
④外郭南辺には「株木南門」とあり、「此所迫手口門跡故南門卜云、則今邑之小名トス、此故二順道帳二如右記」
⑤外郭内の西北付近は「此辺元之浦卜云、当郷御検地竿始」とあり、検地測量がここからスタートしたので「元の浦」と呼ばれる。
⑥内の城の堀の北辺には小山を描き、「此の築山諺二櫓卜云、元禄コロ迄流レ残り少シアリ、真立三間、東西十余間」
⑦この小山の西側に五輪塔を描いて「由佐左京進墓」と記す。「由佐左京進」は天正期の由佐秀盛のことと研究者は考えています。
⑧ 砦城については、居城の西方に古川右岸に南から「天福寺」「追上原」「西砦城」「八幡」「コゴン堂」と記す。
⑨このうちの「西岩城」については次のように記します。
「御所原也、又一名天神岡卜云、観応中南朝岡た近、阿州大西、讃羽床、伴安原居陣窺中讃、由佐秀助対鳥屋城日夜合戦、羽床氏襲里城故此時構砦」
⑩居城の東の川を挟んで、東側には山並みを描いて「油山」「揚手回」「京見峰」などと記す。
⑪「油山」北端付近には「東砦城也、城丸卜云」と記す。

③文化14年(1817)11月に、由佐義澄は「騒動一件」への対応のために自分の持高の畝をしたためた絵図を指出しています。
由佐城跡畝高図
由佐義澄持高畝絵図(1817年)
絵図は「由佐邑穐破免願騒動一件」(由佐家文書)に収められています。これを見ると、次のようなことが書き込まれています。
①「屋敷」という記入があり
②屋敷の南・西・北に「ホリ」がある。堀に囲まれた方形区画が、本丸跡
③「屋敷」西側の「上々田五畝九歩」と「上畑六畝歩」および「元ウラ」という記載のある細長い区画は、堀跡?
④「屋敷」南の「七畝地」区画も堀跡?

④由佐城跡と冠尾(櫻)八幡宮は、近接していて密接な関係がうかがえます。冠尾(櫻)八幡宮の由緒を記した文書には、次のように記されています。
天正度長宗我部宮内少輔秦元親催大軍西讃悉切従由佐城責寄時、先祖代々墳墓有冠山ノ後墓守居住」
「此時八幡社地并二墓所士兵ノ冒ス事ヲ歎キ墓所西側南北数十間堀切土手等ヲ築ク此跡近年次第二開拓今少シ残ス」
意訳変換しておくと
   天正年間に長宗我部元親大軍が西讃をことごとく切り従えて由佐城に攻め寄せてきたときに、由佐氏の先祖代々の墳墓は、冠尾(櫻)八幡宮の後ろの山に葬られていた。」「この時に侵入してきた土佐軍の兵士の中には、八幡社や墓所を荒らした。これを歎いて墓所西側に南北数十間の堀切土手を築いた。この堀切跡は、近年に次第に開拓されて、今は痕跡を残すにすぎない。」

ここには南海通記の記述の影響からか、土佐軍は西讃制圧後に西から髙松平野に侵入し、由佐城にあらわれたと記します。しかし、由佐城に姿を見せたのは、阿波制圧後の長宗我部元親の本隊で、それを率いたのは元親の弟だったことは、前回に見てきた通りです。また長宗我部元親の天正期に、冠尾八幡宮の西側に長さ数十間の堀切と土手がもうけられたとします。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

  経筒 白峰寺 (2)
白峯寺の六十六部経筒の蓋           
白峯寺の「西寺」から出土したと云われる経筒について、以前に紹介しましたが別の視点から見ておきたいと思います。それは、この経筒を納めたのが六十六部の良識と記されているからです。
まずは、経筒についてもう少し詳しく見ておきます。
①経筒は、全面に鍍金した銅製で、筒身と筒蓋に分かれます。
②筒身は円筒形でし、高さ9,9㎝、身底径4,8㎝ 身口径4,5㎝。
筒身には、縦書き五行で次のような文字が刻まれています。
白峰寺経筒2
①が「釈迦如来」を示す種字「バク」、
②が「奉納一乗真文六十六施内一部」で主文
③が「十羅刹女 」で、奉納経典の守護神
④が三十番神も経典守護神
⑤が「四国讃岐住侶良識」で、奉納代理人(六十六部)
⑥が「檀那下野国 道清」で、奉納者
⑦「享禄五季」、奉納年
⑧「今月今日」(奉納日時が未定なのでこう記す)
この経筒から研究者は、どんな情報を読み取り、考察していくのでしょうか?
銅経筒の全国的な出土傾向をは、11世紀後半~12世紀後半と16世紀前半~中葉に2つのピークがあります。11世紀後半~12世紀後半に銅経筒の出土例が多いのは、末法思想が影響しているものとされます。末法元年と考えられていた永承7年(1052)以後になると、法華経を中心とした仏教典を金属製の経筒に納め、霊地や聖地とされる山頂や社寺境内に経塚が造られるようになります。

2公式山.4jpg
経塚の埋葬例
この時期の経筒は。高さ20~45㎝程度の大型のもので、和鏡、銭貨、刀身、小仏、などの副納品とともに、陶製などの外容器にいれて埋納されています。これが県内では善通寺の香色山山頂の経塚やまんのう町金剛院背後の経塚群から出土しています。

2公式山3
    善通寺市香色山1号経塚(佐伯直一族のもの?)

12世紀をすぎると、経筒埋納は一時衰退していきます。こらが再び活発化するのは16世紀になってからです。その背景には、廻国聖の納経活動の活発化があります。庶民が現世利益や追善供養も含め諸国を廻国し、その先々で経筒埋納を祈願するというスタイルが流行するようになります。経筒は、永正11年(1514)~天正13年(1585)に多く、円筒形の経筒は、16世紀中頃~後半に多いようです。
以上をまとめておきます。
①11世紀末になると末法思想の流行と供にお経を書写し、経筒に埋めて霊地に奉納するようになった。
②この時は、大型の経筒が使われ、鏡や銭・小刀・などが副葬品として経塚に埋められた。
③16世紀に活発化する廻国聖六十六部は、全国をめぐり経筒を埋納するようになったが、使われた経筒は小型化した。
この程度の予備知識を持って、再び白峯寺の経筒を見てみましょう。
 白峯寺所蔵の経筒は、筒身外面の紀年銘から享禄5年(1532)であることが分かります。これは先ほど見た銅経筒の全国的な出上時期の傾向と一致します。また、大きさについては、この時期の経筒は10~12㎝と小型のものが中心ですが、白峯寺経筒も総高10、5㎝で、この範囲です。今度は銘文をひとうひとつ見ておきましょう。
  まず、中央の「奉納一乗真文六十六施内一部」です。
これは諸国六十六ケ国に納める内「施内」のひとつである経典(法華経)「一乗真文」を「奉納」したと研究者は考えています。この時期の経筒の主銘文には、「大乗経王」「大乗法花」「大乗真文」「法華妙典」「法華真文」「妙法典」「一条妙典」「如法経」と、経典の表現がさまざまです。「一条真文」の例はないようですが、埋納された経典の種類は、法華経と研究者は考えています。
 この文の上位には「釈迦如来」を示す種字である「バク」が描かれています。
真言文字バク 釈迦如来
バク 釈迦如来
ここからは奉納者(檀那下野国道清)が釈迦如来を信仰していたことが分かります。この時期の主銘文の種字には「阿弥陀三尊(キリーク、サ、サク)」「釈迦三尊(バク、アン、マン)「釈迦如来(バク)」「観青菩薩(サウ」などありますが、その中でも多いのは「釈迦如来(バク)」のようです。これも全国的な傾向と一致します。

守護神(十羅刹女)
十羅刹女
「十羅刹女」は、仏教の天部における10人の女性の鬼神で、鬼子母神とともに法華経の守護神です。

三十番神
三十番神

「三十番神」は神仏習合の信仰で、毎日交代で国家や国民等を守護する30柱の神々のことです。最澄が比叡山に祀ったのが最初で、鎌倉時代に盛んに信仰され、中世以降は特に日蓮宗・法華宗で重視され、法華経守護の神とされることは以前にお話ししました。このように「十羅刹女」や「三十番神」も法華経の守護神で、この時期の小型経筒の主銘文に、よく登場するようです。

「四国讃岐住侶良識」からは、四国讃岐の僧侶・良識によって経筒が奉納されたことが分かります。
「高野山文書第五巻金剛三昧院文書」には、「良識」ことが次のように記されています。
高野山金剛三味院の住持で、讃岐国に生まれ、弘治2年(1556)に74歳で没した人物。

高野山 金剛三昧院
高野山金剛三昧院
金剛三昧院は、尼将軍北条政子が、夫・源頼朝と息子・実朝の菩提を弔うために建立した将軍家の菩提寺のひとつです。そのため政子によって大日堂・観音堂・東西二基の多宝塔・護摩堂二宇・経蔵・僧堂などの堂宇が整備されていきます。建立経緯から鎌倉幕府と高野山を結ぶ寺院として機能し、高野山の中心的寺院の役割を担ったお寺です。空海の縁から讃岐出身の僧侶をトップに迎ることが多かったようで、良識の前後の住持も、次のように讃岐出身者で占められています。
第30長老良恩(讃州中(那珂)郡垂水郷所生 現丸亀市垂水)
第31長老良識(讃州之人)
第32長老良昌(讃州財田所生 現三豊市財田町)
良識は良恩と同じように、讃岐の長命寺・金蔵(倉)寺を兼帯し、天文14年(1545)に権大僧都になっています。また、「良識」は、讃岐の国分寺本堂の板壁に落書きを残しています。その落書きを書いていた板壁が屋根の野地板に転用されてて残っていました。そこには次のように記されています。
  当国並びに井之原庄天福寺客僧教□良識
  四国中辺路同行二人納中候□□らん
 永正十年七月十三日」
「当国井之原庄」は、讃岐国の井原庄(いのはらのしょう)で、旧香川郡南部(現高松市香南町・香川町)から塩江町一帯のことです。その庄域については、冠尾八幡宮(現冠櫻神社)由緒(近世成立)には、川東・岡・由佐・横井・吉光・池内・西庄からなる由佐郷と、川内原・東谷・西谷からなる安原三カ山を含むとあります。
「天福寺」は、高松市香南町岡にある美応山宝勝院天福寺と考えられます。
岡舘跡・由佐城
高松市香南町岡天福寺

この寺は、神仏分離以前には香南町由佐にある冠櫻神社の別当寺でした。天福寺は本尊薬師如来、真言宗御室派です。天福寺由来記には次のような事が記されています。
①創建時は清性寺といい、行基が草堂を構え、自分で彫った薬師像を祀ったことに始まること、
②のち弘法大師が仏塔・僧房を整えて真言密教の精舎としたこと、
③円珍がさらに止観道場を建てて真言・天台両密教の兼学としたこと
ここでも真言・天台のふたつの流れを含み込む密教教学の場であると同時に、修験者たちの寺であったことがうかがえます。それを裏付けるように、天福寺の境内には、享保8年(1723)と明和7年(1770)の六十六部の廻国供養塔があります。ここからは江戸時代になっても、この寺は廻国行者との関係があったことが分かります。
「客僧」とは、修行や勧進のため旅をしている僧、あるいは他寺や在俗の家に客として滞在している僧のことです。
31歳の「良識」は修行のため廻国し、天福寺に滞在した僧侶と研究者は考えています。つまり、四国霊場第80番札所国分寺の「落書」からは、高松市香南町岡にある天福寺の客僧だった良識が四国遍路を行い、永正10年(1513)7月14日、札所である国分寺に札等を納めた時に「落書」を書いたことが分かります。
経筒の銘文にもどって「旦那下野国道清」を見てみます。
ここからは、この法華経を納めた小型経筒の施主は下野国の道清であることが分かります。良識は、下野国(栃木県)の道清から依頼を受けて、法華経を経筒に納め、諸国の社寺に奉納していたことになります。社寺への奉納には、直接社寺へ法華経を奉納する場合と、自ら塚などを築き法華経を納めた経筒を奉納する場合があったようですあります。白峯寺の経筒の場合は後者で、宝医印塔も同時に造立したと研究者は考えています。ただ、経筒を奉納しただけでなく、埋納施設や印塔も建立しているというのです。これを全国でやっていたとしたら多額の資金と労力が必要になります。下野国の檀那道清は、それだけの資力を持っていた人物だったようです。このように当寺の六十六部は、かつての熊野行者のように有力者の依頼を受けて、全国を代参していたものもいたようです。
 経筒には「享禄五季」「今月今日」と紀年銘があるので、享禄5年(1532)年に奉納されたことが分かります。
廻国聖の場合は、諸国を廻国するので社寺に奉納する時期がいつになるか分かりません。そのために「今月今日」としていたようです。ここからは、良識は、白峯寺にやてきて長期滞在して経典を書写したのではなく、出発前に書写されたものを持参していたことがうかがえます。確かに経筒は10㎝程度の小さいものなので、それも可能かも知れません。

以上のから「良識」が、金剛三味院文書と同一人物だとすれが、次のような経歴が浮かんできます。
永正10年(1513)31歳で四国辺路を行い、国分寺で落書き
享禄 3年(1530)に没した良恩に次いで、金剛三味院第31世長老となり
享禄 5年(1532)50歳で六十六部聖として白峯寺に経筒を奉納し
弘治 2年(1556)74歳で没した
享禄3年(1530)に没した良恩の死後に直ちに長老となったのであれば、長老となった2年後の享禄5年(1532)に日本国内の六十六部に奉納経するために廻国に出たことになります。しかし、金剛三味院の50歳の長老が全国廻国に出るのでしょうか、またが「四国讃岐住侶良識」と名乗っていることも違和感があります。どうして「金剛三味院第31世長老」と名乗らないのでしょうか。これらの疑問点については、今後の検討課題のようです。
経筒外面に刻まれた文字から、この経筒は廻國行者である「良識」によって奉納されたことを見てきました。
私が気になるのは、この経筒を納めた良識につながる法脈です。
先ほど見たように金剛三昧院の住持は、戦国時代には「第30長老良恩 →第31長老良識 →第32長老良昌と続きます。
良識の跡を継いだ良昌を見ておきましょう。
高野山大学図書館蔵の『折負輯』には、次のようにあります。
「第三十二世良昌善房、讃州財田所生、法勲寺嶋田寺兼之、天正八年庚辰四月朔日寂」

ここからは、良昌は、讃岐三野郡の財田の生まれで、法勲寺と島田寺を兼帯していたことが分かります。そして、天正8(1580)年に亡くなっています。
 ちなみに、法勲寺といえば、「綾氏系図」に出てくる古代寺院で、綾氏の氏寺とされます。法勲寺を継承する島田寺も『讃留王神霊記』(島田寺蔵)には綾氏の氏寺と記されています。そして、「大魚退治伝説」は、島田寺僧侶による「創作神話」と考えられています。このふたつの寺は、神櫛王の「大魚退治伝説」の「発信地」なのです。背後には、綾氏一族の勢力があります。
  財田で生まれた良昌が、綾氏の氏寺とされる丸亀市飯山町の法勲寺や島田寺の住持になる。そして、さらに高野山三間維持の住持へと転進する。そこには、どんな「選考基準」や「ネットワーク」があったのかと不思議になります。考えられる事は、次のようなステップです。
①有力者(武将)の一族の子弟が、近くの学問寺に入り出家する。(例 萩原寺・大興寺・金倉寺・金倉寺)
②能力と資力のある若い僧侶は、師匠から推薦されて、讃岐出身者が住持を務める高野山金剛三昧院に留学する。
③そこで教学を学ぶと供に、真言系修験道も身につける。(例 良識の四国辺路や廻国六十六部)
④教学と修法の両道を納め地元讃岐の島田寺などの住持に収まる。
⑤金剛三昧院の「次期長老候補リスト」があり、師弟関係にある弟子として後継者指名を待つ。
こうして、「第30長老良恩 →第31長老良識 →第32長老良昌」という讃岐出身者による住持継承が行われたと私は考えています。
そうだとすると、高野山金剛三昧院の住持になるための必要要件としては、次のような要件が求められることになります。
①有力武将の一族であること 一族の支援が受けられること ある程度の経済力があること 
②地元の学問寺で初期的な手ほどきを受けて、師匠から師匠の推薦を受けて高野山留学を行う事
③高野山留学中に、修業先の住持と師弟関係を結び法脈の中に名前が入ること
④経典研究など山内での修養だけでなく、真言修験者としての山林修行も積むこと
⑤以上を満たして、現住持との信頼を得て、「次期長老候補リスト」に入ること
 こんなところでしょうか。これを史料で裏付けておきます。

下の史料は「良恩授慶祐印信」と呼ばれる真言密教の相伝系譜です。
萩原寺文書 真言法脈
「良恩授慶祐印信」(萩原寺文書)
これは、萩原寺(観音寺市大野原町)の聖教の中にあったもので、「町誌ことひら 史料編282P」に掲載されています。ここで登場する「良恩」とは、「第30長老良恩(讃州中(那珂)郡垂水郷所生 現丸亀市垂水」のことです。良識や良昌の前の金剛三昧院の住持になります。彼の法脈がどのように伝えられてきたかを示すものです。

これを見ると、そのスタートは大日如来や金剛菩薩から始まります。そして①長安の惠果 ②弘法大師 ③真雅(弘法大師弟)と法脈が記されています。この法脈の実際の創始者は④の三品親王になるようです。それを引き継いでいくのが「⑥勝義 ⑦忠義」です。彼らについては、後述しますが讃岐岸上(まんのう町岸上)出身の師弟コンビです。さらに、この法脈は島田寺の⑧良識 ⑨良昌に受け継がれていきます。

「⑥勝義 ⑦忠義」は、高野山の明王院の「歴代先師録」に登場します。
⑥勝義は次のように記されています。
「泉聖房と呼ばれ 高野山明王院と讃岐国岸上の光明寺を兼務し、享徳三年二月二十日入寂」

と記されます。忠義も「讚岐國岸上之人で泉行房」と呼ばれたようで、勝義の弟子になるようです。彼も光明院と兼務したことが分かります。泉聖房・泉行房からは、彼らが修験者であったことが分かります。
また「析負輯」の「谷上多聞院代々先師過去帳写」の項には、次のように記されています。
「第十六重義泉慶房 讃岐国人也。香西浦産、文明五年二月廿八日書諸院家記、明王院勝義阿閣梨之資也」

 ここからは多門院の重義は、讃岐の香西浦の出身で、勝義の弟子であったことが分かります。
  以上の史料からは、次のような事が分かります。
①南北朝から室町中期にかけて、高野山明王院の住持を「讃岐国岸上人」である勝義や忠義がつとめていたこと。
②彼らは出身地のまんのう町岸上の光明寺を兼住していたこと
③彼らが修験者でもあったこと
これは、先ほど見た金剛三昧院の住持「第30長老良恩 →第31長老良識 →第32長老良昌」と同じパターンです。先ほどの仮説を裏付ける史料となりそうです。また、別の法脈として次のようなものもあります。

①明王院の勝義・忠義→②金剛三昧院良恩→③萩原寺五代慶祐

ここからは、この時期の高野山で修行・勉学した讃岐人は、幾重もの人的ネットワークで結ばれていたことが分かります。例えば、①の兼帯する光明寺と、②の兼帯する島田寺と③の萩原寺は、この法脈につながる僧侶が多数存在し、人脈的なつながりがあったことが推測できます。さらに、このような高野山ネットワークの中に、善通寺の歴代院主や後の金毘羅大権現金光院の宥雅や宥盛もいたことになります。彼らは「高野山」という釜の飯を一緒に食べた「同胞意識」を強く持ち、師弟関係や受け継いだ法脈で結ばれると同時に、時には反発し合うライバル関係でもあったことが考えられます。そこに多数の高野聖たちが入り込んでくるのです。
 それでは、高野山の今号三昧院や明王院など有力寺院の住持を、讃岐から輩出する背景は、何だったのでしょうか?
その答えも、萩原寺の聖教の中にあります。残された経典に記された奥書は、当時の光明寺ことを、さらに詳しく教えてくれます。
                                 
一、志求佛生三味耶戒云々
奥書貞和二、高野宝憧院細谷博士、勢義廿四、永徳元年六月二日、於讃州岸上光明寺椀市書篤畢、
穴賢々々、可秘々々、                   祐賢之
意訳変換しておくと
一、「志求佛生三味耶戒云々」について
この経典の奥書には次のように記されている。貞和二(1346)年に、高野宝憧院の細谷博士・勢義(24歳)がこれを書写した。永徳元年(1381)6月2日、讃岐岸上の光明寺椀市で、祐賢が書き写し終えた。
 ここからは、高野山宝憧院勢義が写した「志求仏生三昧耶戒云々」が、約40年後に讃岐にもたらされて、祐賢が光明寺で書写したことが記されます。また「光明寺椀市」を「光明寺には修行僧が集まって学校のような雰囲気であった」と研究者は解釈します。以前にお話ししたように、三豊の萩原寺・大興寺や 丸亀平野の善通寺・道隆寺や金蔵寺、そしてまんのう町の尾背寺なども「学問寺」でした。修行の一環として、若い層が書写にとりくんでいたようです。それは、一人だけの孤立した作業でなく、何人もが机を並べて書写する姿が「光明寺椀市」という言葉から見えてきます。
 同時に彼らは学僧という面だけではありませんでした。行者としても山林修行に励むのがあるべき姿とされたのです。後の「文武両道」でいうなれば「右手に筆、左手に錫杖」という感じでしょうか。
 彼らが地元の修行ゲレンデとしたのが、次のような中辺路ルートだと私は考えています。
①三豊の七宝山から善通寺我拝師山まで(観音寺から曼荼羅寺まで)
②弥谷寺と白方海岸寺の行道
③善通寺から大麻山・象頭山の行場を経てまんのう町の尾野瀬寺まで
このような行場ルートに、他国からも多くの山林修行者がやてきて写経と行道を長期に渡って繰り返します。これがプロの宗教者による「中辺路ルート」の形成につながります。それが近世になると、行場での修行を伴わないアマチュアによる札所めぐりに変化していきます。そうなると行場のそばにあったお堂や庵は、里に下りてきて本寺へと変身していきます。これが四国遍路へと成長していくというのが、現在の研究者の見解のようです。

 良識は若い頃には、四国辺路を行い、長老となっていても廻国六十六部として諸国をめぐっていたとするなら、プロの修験者でもあったことになります。そして、良識と師弟関係を結ぶ者、法脈を同じくする者は、同じく山林修行者であった可能性が強いと私は考えています。彼らは「不動明王・愛染明王」など怒れる明王たちを守護神とする修験者でもあり、各地の行場を求めて「辺路」修行を行っていたのです。その代表例が、東さぬき市の与田寺を拠点とした増吽だったのでしょう。まんのう町の光明寺も、丸亀市飯山の島田寺も与田寺のような書写センターや学問寺として機能していたとしましょう。こうした学問寺が数多くあったことが、優秀な真言僧侶を輩出し続けた背景にあったようです。
 それは「古代に大師を何人も輩出したのが讃岐」の伝統を受け継ぐシステムとして機能していたように思えます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

白峯寺 六字名号
白峯寺には、空海筆と書かれた南無阿弥陀仏の六字名号版木があります。この版木は縦110.6㎝、横30.5㎝、厚さ3.4㎝で、表に南無阿弥陀仏、裏面に不動明王と弘法大師が陽刻された室町時代末期のものです。研究者が注目するのは、南無阿弥陀仏の弥と陀の脇に「空海」と渦巻文(空海の御手判)が刻まれていることです。これは空海筆の六字名号であることを表していると研究者は指摘します。
 空海と「南無阿弥陀仏」の六字名号の組み合わせは、現代の私たちからすればミスマッチのようにも思えます。しかし、「空海筆 + 南無阿弥陀仏」の組み合わせの名号は、各地で見つかっているようです。今回は空海が書いたとされる六寺名号を見ていくことにします。
テキストは「武田 和昭 四国辺路と白峯寺   調査報告書2013年 141P」です。
六字名号 観自在寺の船板名号
観自在寺蔵の船板名号
まず最初に、観自在寺蔵(愛媛県)の船板名号版木を見ておきましょう。
観自在寺(真言宗)の船板名号で、身光、頭光をバックにして、南無阿弥陀仏が陽刻され、向かって左下に「空海」と御手判があります。伝来はよく分かりませんが、現在でも  病気平癒など霊験あらたかな船板名号として、信仰の対象となっているようです。印刷されたものが、参拝記念として販売されたりもしています。
   「船板名号」という呼び方は耳慣れない言葉です。これについては「空海=海岸寺生誕説」を説く説経『苅萱』「高野巻」に、次のような記事があります。
  空海が入唐に際し、筑紫の国宇佐八幡に参詣した時のこと.
二十七と、申すに、入唐せんとおぼしめし、筑紫の国宇佐八幡にこもり、御神体を拝まんとあれば、十五、六なる美人女人と拝まるる。空海御覧じて、それは愚僧が心を試さんかとて、「ただ御神体」とこそある。重ねて第六天の魔王と拝まるる。「それは魔王の姿なり。ただ御神体」と御意あれば、社壇の内が震動雷電つかまつり、火炎が燃えて、内より六字の名号が拝まるる。空海は「これこそ御神体よ」とて、船の船泄に彫り付けたまふによって、船板の名号と申すなり。
意訳変換しておくと
空海二十七歳の時に、入唐の安全祈願のために、筑紫の宇佐八幡にこもり、御神体を拝もうとしたところ、十五、六の美人女人が現れた。それを見て空海は「それは私の心を試そうとするものか」と思い、「ただ御神体」と、重ねて第六天の魔王を拝んだ。すると『それは魔王の姿なり。ただ御神体」との御意があり、社壇の内が激しく揺れ、天からは雷電が降り、火炎が立って、その内から六字の名号が現れた。空海は「これこそ御神体よ」として、舟の船杜に「南無阿弥陀」の六字名号を彫り付け出港していった。これが船板の名号の由来である。

ここからは空海が留学僧として唐に渡る時に、宇佐八幡に航海安全を祈願し参拝した時に「南無阿弥陀仏」の六字名号が降されます。空海はこれを御神体として船に彫りつけたことから「船板名号」と呼ばれるようになったというのです。船形の名号は「船板名号」と呼ばれ、弘法大師と深く関わるもののようです。

IMG_0015
弥谷寺の船板名号碑
弥谷寺の山門上の参道にも、船板名号碑が立っているのは、以前にお話ししました。空海筆銘六字名号は、弘法大師信仰と念仏信仰が混じり合ったもので真言宗寺院に残されていることが多いようです。別の見方をすると、説経「苅萱』「高野巻」を流布した聖たちの布教勢力下にあったお寺とも云えます。

曳覆五輪塔 
曳覆五輪塔

次に西明寺蔵(京都府)・曳覆曼茶羅版木を見てみます。
「曳覆」とは、死者の身体に曳いたり、覆い被せるもので、人の減罪の功徳を得て、極楽往生を約束する五輪塔や真言・陀羅尼などが書かれています。死者と供に葬られるので、実物が残っているものはないのですが、それを摺った版木は各地に残っています。

六字名号 曳覆曼荼羅 京都の西明寺 
曳覆曼荼羅 西明寺の六字名号版木
西明寺(真言宗)の版木は南無阿弥陀仏とともに「承和三年二月十五日書之空海」とあります。この年号は、この六字名号を空海が承和元年(834)3月15日に書いたことを示すものです。空海が高野山奥院に入定したのは承和2年です。その前年が承和元年です。この年が選ばれているのは、空海の筆によるものであることを強調する意味があると研究者は指摘します。

次に九州福岡の善導寺(浄土宗)の絹本墨書を見ておきましょう。
善導寺は浄土宗の開祖、法然上人の弟子鎮西派の祖・聖光上人による開山で、九州における浄土宗の重要な寺院です。ここには数多くの六字名号の掛軸が残されています。その中に空海筆六字名号があります。この掛軸には、次のような墨書があります。
俵背貼紙墨書
弘法大師真筆名号 慶長□年之一乱紛失然豊後国之住人羽矢安右衛門入道宗忍不見得重寄進於当寺畢
慶長十二丁未暦卯月吉日二十一世住持伝誉(花押)
空海御真筆也 一国陸(六)十六部 普賢坊快誉上人
永禄六癸亥年六月日
(巻留墨書)
  六字宝号弘法大師真蹟
(箱蓋表墨書)
弘法大師真蹟 弥陀宝号 善導寺什

ここには、この六字名号が空海の真筆であること、それが慶長年間に一時行方が分からなくなったが、豊後の国の入道が見つけて寄進したことなどが書かれています。その顛末を永禄6年(1563)に記したのが六十六部普賢坊快誉上人だと記します。快誉上人については、よく分かりません。が「誉」の係字を持つことから浄上系の僧でしょう。なお善導寺には別に船板名号もあります。
六字名号 天福寺
天福寺の船板名号
最後に香川県 天福寺の版木船板名号を見ておきましょう。
天福寺は香南町の真言宗のお寺で、創建は平安時代に遡るとされます。天福寺には、4幅の六字名号の掛軸があります。そのひとつは火炎付きの身光頭光をバックにした六字名号で、向かって左に「空海」と御手判があります。その上部には円形の中にキリーク(阿弥陀如来の種子)、下部にはア(大日如来の種子)があり、『観無量寿経』の偶がみられ、西明寺の版木によく似ています。なお同様のものが高野山不動院にもあるようです。空海御手番のある六字名号が真言宗と浄土宗のお寺に限られてあるのことを押さえておきます。
次に研究者は、六字名号と空海との関係を見ていきます。
空海と六寺名号の関係について『一遍上人聖絵』には、次のように記されています。
日域には弘法大師まさに竜華下生の春をまち給ふ。又六字の名号を印板にとどめ、五濁常没の本尊としたまえり、是によりて、かの三地薩坦の垂述の地をとぶらひ、九品浄土、同生の縁をむすばん為、はるかに分入りたまひけるにこそ、
意訳変換しておくと
弘法大師は竜華下生の春つ間に、六字名号を印板に彫りとどめ、本尊とした。これによって、三地薩坦の垂述の地を供来い、九品浄土との縁を結ぶために、修行地に分入っていった。

ここからは、弘法大師空海が六字名号を板に彫り付け本尊としたと、一遍は考えていたことが分かります。一遍は時衆の開祖で、高野山との関係は極めて濃厚です。文永11年(1274)に、高野山から熊野に上り、証誠殿で百日参籠し、その時に熊野権現の神勅を受けたと云われます。ここからは、空海と六字名号との関係が見えてきます。そしてそれを媒介しているのが、時衆の一遍ということになります。

六字名号 空海筆
六字名号に書かれた空海のサイン

 また先ほど見た、室町時代末期~江戸時代初期の作と考えられる『苅萱』「高野巻」に書かれた「船板名号」も空海と六字名号との関係を説くものです。説経『苅萱』「高野巻」は、高野聖との関係が濃厚であることは以前にお話ししました。従って、この時期に作られた六字名号には高野聖が関わっていたと研究者は推測します。
 空海筆六字名号が時衆の念仏聖によって生み出された背景には、当時の高野聖たちがほとんどが時衆念仏僧化していたことがあります。
それでは、空海筆六字名号が真言宗だけでなく、浄土宗の寺院にも残されているのはどうしてなのでしょうか。

仏生山法然寺
仏生山法然寺(高松市)
 その謎を解く鍵が高松市の法然寺にあるようです。
法然寺は寛文10年(1670)に、初代高松藩主の松平頼重によって再興された浄土宗のお寺です。研究者が注目するのは、再興された年の正月25日に制定された『仏生山法然寺条目』の中の次の條です。
一、道心者十二人結衆相定有之間、於来迎堂、常念仏長時不闘仁可致執行、丼仏前之常燈・常香永代不可致退転事。附。結衆十二人之内、天台宗二人、真言宗二人、仏心宗二人、其外者可為浄土宗。不寄自宗他宗、平等仁為廻向値遇也。道心者共役儀非番之側者、方丈之用等可相違事。
意訳変換しておくと
来迎堂で行われる常念仏に参加する十二人の結衆は、仏前の燈や香永を絶やさないこと。また、結衆十二人のメンバー構成は、天台宗二人、真言宗二人、仏心宗二人、残りの名は浄土宗とすること。自宗他宗によらずに、平等に廻向待遇すること。

ここには、来迎堂での常念仏に参加する結衆には、天台、真言、仏心(禅)の各宗派2人と浄土宗6人の合せて12人が平等に参加することが決められています。このことから、この時代には天台、真言、禅宗に属する者も念仏を唱えていて、浄土宗の寺院に出入りすることができたことが分かります。どの宗派も「南無阿弥陀仏」を唱えていた時代なのです。
 また『讃岐国名勝図会』の法然寺の項目には、弥勒堂の弥勒菩薩は弘法大師作とあります。さらに宝物の中にも「弘法大師鉄印(南蛮鉄を以て造るの印文、竜虎二字図、次に出す)」とあり、次の図が掲載されています。
弘法大師鉄印 法然寺
弘法大師鉄印 (法然寺)

これは先ほど見てきた観自在寺、天福寺、筑後・善導寺などの六字名号の空海の文字の下に書かれている文様とよく似ています。なお天福寺には先ほど見た六字名号掛軸とは別の掛軸があり、その裏書きには次のように記されています。
讃州香川郡山佐郷天福寺什物 弥陀六字尊号者弘法大師真筆以母儀阿刀氏落髪所繍立之也
寛文四年十一月十一日源頼重(花押)
意訳変換しておくと
讃州香川郡山佐郷の天福寺の宝物 南無阿弥陀仏の六字尊号は、弘法大師真筆で母君の阿刀氏が落髪した地にあったものである。
寛文四年十一月十一日 髙松藩初代藩主(松平)頼重(花押)
これについて寺伝では、かつては法然寺の所蔵であったが、松平頼重により天福寺に寄進されたと伝えます。ここにも空海と六字名号、そして浄上宗の法然寺との関係が示されています。以上のように浄土宗寺院の中にも、空海の痕跡が見えてきます。

(3)一遍の念仏「六字名号」は救いの喜びの挨拶_b0221219_18335975.jpg
一遍と六字名号

これを、どのように考えればいいのでしょうか。
『一遍聖絵』や説経『苅萱』「高野の巻」などからは、空海筆六字名号が時衆の中で生まれ、展開してきたことを押さえました。それが時衆系高野聖などによって、各地に広がりを見せたと研究者は考えています。しかし、江戸時代初期の慶長11年(1606)に幕府の命令で、時衆聖の真言宗への帰入が強制的に実施されます。ただ、このような真言宗への帰入は16世紀からすでに始まっていたようです。高野聖が真言宗へ帰入した時に、空海筆六字名号も真言宗寺院へ持ち込まれたことが考えられます。
 一方、浄土宗寺院についてはよく分かりませんが、時衆の衰退とともに、念仏聖として浄土宗寺院に吸収、包含された時に、持ち込まれた可能性がありますが、これもよく分かりません。今後の検討課題になるようです。
弥谷寺 時衆の六字名号の書体
時衆の六字名号の書体一覧
どうして白峯寺に空海筆六字名号版木が残されていたのでしょうか?
版木を制作することは、六字名号が数多く必要とされたからでしょう。その「需要」は、どこからくるものだったのでしょうか。念仏を流布することが目的だったかもしれませんが、一遍が配った念仏札は小さなものです。しかし白峯寺のは縦約1mもあます。掛け幅装にすれば、礼拝の対象ともなります。これに関わったのは念仏信仰を持った僧であったことは間違いないでしょう。
 四国辺路の成立・展開は、弘法大師信仰と念仏阿弥陀信仰との絡み合い中から生まれたと研究者は考えています。白峯寺においても、この版木があるということは、戦国時代から江戸時代初期には、念仏信仰を持った僧が白峯寺に数多くいたことになります。それは、以前に見た弥谷寺と同じです。

六字名号 一遍
 六字名号( 一遍)

 研究者は、念仏僧が、この版木を白峯寺復興のための勧進用として「販売」したのではないかという仮説を出します。
それに関わった人物が「阿閣梨洞林院別名」とします。別名は、慶長9年(1604)に千手院を再興した勧進僧で、修験者でもあった可能性があります。別名が弥谷寺も兼帯していたことが海岸寺の元和6年(1620)の棟札から分かります。これは、白峰寺での勧進活動の成功を受けて、生駒藩が弥谷寺の再興のために命じた人事とも考えられます。江戸時代初期の弥谷寺や海岸寺は念仏信仰が盛んなお寺であったことは以前にお話ししました。
 また、白峯寺版木の不動明王と同じ版木の不動明王が弥谷寺にもあります。このことから江戸時代初期には、白峯寺と弥谷寺が深い関係を持っていたことが裏付けられます。別名によって、二つのお寺は運営管理されていたことが、このような共通性をもたらしたのかもしれません。ただ、この阿閣梨別名については、念仏信仰だけの僧ではなく、多面的な信仰を持ち合わせた真言宗の僧と研究者は考えています。
念仏賦算」と「踊り念仏」に込められた願いのかぎり 「捨てる」という霊性について(10) : 家田足穂のエキサイト・ブログ
一遍の配布札

以上をまとめておくと
①空海自筆とされる南無阿弥陀仏と書かれた六寺名号の版木が四国霊場の観自在寺、石手寺、太山寺に残っている。
②これは「弘法大師伝説 + 阿弥陀念仏信仰」の共存を示すものである。
③これを生み出したのは一遍の時衆念仏僧たちで、それを広げたのは時衆念仏化していた高野聖たちであった。
④戦国時代から近世初期にかけて、高野山では「真言復帰原理主義運動」が高まり、念仏僧が排除されるようになった。
⑤真言宗籍に復帰した念仏僧達は、いままでの阿弥陀信仰の流布スタイルを拠点とする札所寺院でも展開した。
⑥また、大型の版木で六寺名号を摺って、寄進活動などにも活用するようになった。
以上のように、四国辺路の形成に念仏信仰(時衆念仏僧や高野聖)などが関わっていたことが具体的に見えてきます。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

このページのトップヘ