瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:天行山

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              川井峠
今回やって来たのは、木屋平の川井峠です。穴吹川を原付バイクで遡ること2時間余り。穴吹川沿いの国道は、ススキの穂が秋風に揺られて、おいでおいでと招いてくれるし、遅くなった彼岸花も花道のように迎えてくれます。たどり着いた川井峠には、大きな鳥居が建っていますが、これが「天行山窟大師」への入口になります。この窟大師にお参りして、修験者の活動を考えるというのが今回の課題です。さて、どうなりますか。

まず、「天行山窟大師」のことを「事前学習」しておきます。

木屋平村絵図1
「木屋平分間村絵図」の森遠名のエリア
以前、紹介したように江戸時代の「木屋平分間村絵図」には、いろいろな情報が書き込まれています。例えば、神社や寺院ばかりでなく小祠・お堂など以外にも、村人が毎日仰ぎ見る村境の霊山,さらには自然物崇拝としての巨岩(磐座)や峯峯の頂きにある権現なども描かれています。そういう意味では木屋平一帯は、「民間信仰と修験の山の複合した景観」が色濃く漂うエリアだったことがうかがえます。その中に「天行山窟大師」は、次のように描かれています。

木屋平 川井村の雨行大権現 大師の岩屋付近
           天(雨)行大権現と大師の岩屋付近(木屋平分間村絵図)
この絵図からは、次のようなことが読み取れます。
①三ツ木村と川井村の境界となる山頂には、雨(天)行大権現が祀られていた
②南側の石段の上に「香合(川井)ノ岩」があった。
③その西側に「護摩壇」と「大師の岩屋」があった。
この山は「権現」が祀られているので、修験者たちによって開かれた信仰の山であったようです。もともとは「雨(天)行山」とあるので、ここで雨乞祈祷などが行われていのかもしれません。それが明治以後になって今風に「天行山」と改名されたのではないかと私は想像しています。

明治9年(1876)の『阿波国郡村誌・麻植郡下・川井村』には、次のように記されています。

 大師檀 本村東ノ方大北雨行山ニアリ 巌窟アリ三拾人ヲ容ルヘク 少シ離レテ護摩檀ト称スル処アリ 古昔僧空海茲ニ来リテ 此檀ニ護摩ヲ修業シ 岩窟ノ悪蛇を除シタリ 土人之ヲ大師檀ト称ス

ここに書かれていることを箇条書きにすると・・。
①大師檀は、川井村東方の大北の「雨(天)行山」にある。
②30人ほど入れる岩屋があり、少し離れて護摩檀と呼ばれる所がある。
③かつて空海がここに来て、この檀で護摩修業して岩窟に住んでいた悪蛇を退散させたと伝えられる。
④そのため地元では大師檀と呼ばれている。
ここからは、天行山の岩屋は修験者たちの修行の場であり、護摩がここで焚かれていた。それが後に弘法大師が接ぎ木され、大師壇とされるようになったことがうかがえます。どちらにしても、天行山が修験者の霊山で、周辺に修行場であったようです。事前学習は、このあたりにして実際に行って見ることにします。
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                   川井峠の「天行山窟大師」への鳥居

しだれ桜の向こうに立つ鳥居を越えて参道は続いています。

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                「天行山窟大師」への登山道
猪除けの柵を越えると、手入れされた檜林が続きます。その中を整備された平坦で高低差の少ない歩きやすいトラバース道が続きます。途中、林道途中からの参拝道と合流しますが、このあたりが中間地点になります。
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               林道途中からの参拝道との合流点
運搬車が入ってこれそうな道です。尾根沿いに突き上げてくるのこのルートがもともとの参拝道で、川井峠からのトラバース道は、後に作られたようです。そういえば、峠の鳥居も古いものではなく近年のものでした。
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                    参道途中の磐岩
窟大師への荷物運搬用に整備された道を行くと、修験者が歓びそうな奇岩が現れてきます。窟大師が近づいてきたようです。いつのまにか周囲も檜の人工林から、大きな松が混成する自然林へと替わっていました。
そして、現れたのが絵図にあった
「香合(川井)ノ岩」です。

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                    香合(川井)ノ岩の石段

ここには次のような句碑があります。
立山に各段築く八町坂
大師一夜に設けしたり

木屋平 天行山の石段
その下に続く「弘法大師一夜建立伝説」の石段です。
この石段が、谷沿いに伸びていることからも、今歩いてきたトラバース道は近年のものであることが分かります。

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香合(川井)ノ岩
修験道にとって山は、天上や地下にある聖地への入口=関門と考えられていました。聖界と、自分たちが生活する俗界である里の境界が「お山」というイメージです。聖界に行くためには「入口=関門」を
通過しなければなりません。
「異界への入口」と考えられていたのは次のような所でした。

①大空に接し、時には雲によっておおわれる峰
②山頂近くの高い木、岩
③滝などは天界への道とされ、
④奈落の底まで通じるかと思われる火口、断崖
⑤深く遠くつづく鍾乳洞などは地下の入口

そうすると、
香合(川井)ノ岩は②、大師窟は⑤ということになるのでしょうか
石段上の石碑を見ておきましょう。

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金剛大師と刻まれた石碑
側面の年期は、明治18年2月と読めます。石造物は、近代になって設置されたもののようです。「金剛大師」とあるので、弘法大師信仰をもった集団によって造られたことが分かります。台座に刻まれた集落名と人をみると,次のようになります。
世話人の川井村5人
三ッ木村4人
大北名3人
管蔵名1人
今丸名13人
市初名(三ッ木村)1人
上分上山村9人
下分上山村3人
不明2人
全体で41人
ここからは、この金剛大師像が,近隣の村人の人たちが中心になって、明治になって建立されたことが分かります。

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参拝道は、まだ奥へと続いています。断崖の際を通る道は、人の手で削られた痕跡があります。岩を越えて行くと見えて来たのが・・

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石垣が積み上げられ、その上に建物が建っています。これが「護摩壇」のあった所のようです。その上からオーバーハングした岩がのしかかっています。護摩を焚く場所としては最適です。

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                 大師の窟(天行山窟大師)

先ほど見たように「大師檀 本村東ノ方大北雨行山ニアリ 巌窟アリ三拾人ヲ容ル」とある窟を塞ぐように建っているのがこの建物です。

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残念ながら鍵がかかっていて、中の窟を見ることはできません。ここまで、導いてくれたことに感謝して合掌。「導き給え 授け給え、教え給え」

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                   大師堂周辺の三十三観音石仏群

 大師堂の北側斜面には、いくつもの石仏が置かれています。その中の祠に入った仏を見てみました。

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                  天行山窟大師の大日如来
 台座に「大日如来」と刻まれています。側面には、明治9年3月吉日の銘と、「施主 中山今丸名(三ッ木村管蔵名南にある麻植郡中山村今丸名)中川儀蔵と刻まれています。

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       天行山窟大師の「大日如来」像の横の石碑は、次のように記します。

「大正十五年十二月 天行山三十三番観世音建設 大施主當山中與開基大法師清海

ここからは周辺に鎮座する33体の観世音像は、大正15年12月に天行山窟大師を「中興」した清海によって建立されたことが分かります。気がつくのは、それまでの「雨行山」でなく「天行山」と記されています。ここからも明治以後に改名されたことがうかがえます。
 今まで見てきた石造物を時代順に並べてみると、次のようになります。
①明治9年3月吉日 祠の中の大日如来像
②明治18年2月  香合(川井)ノ岩の下の金剛大師像
③大正15年12月 
中興の祖・清海による33観音像

こうしてみると
天行山窟大師には、明治以前の石造物はないようです。現在のような姿になったのは、中興の祖清海が現れた大正時代の終わりだったことになります。そういえば、最初に見た「木屋平分間村絵図」にも、「香合(川井)ノ岩」・「護摩壇」・「大師の岩屋」とは記されていますが、建物らしきモノはなにも描かれていません。近代以後に、この行場は周辺から信仰を集めるようになったことがうかがえます。それをどう考え、説明できるのでしょうか。

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大師堂の横には、小さな広場がベンチが置いてあります。そこに腰掛けて、少ない情報を並べて、回らなくなった頭で考えた結果を記しておきます。
①剣山の開山は江戸時代になってからのことで、それ以前に木屋平に修験者の姿は見えない。
②この地に修験者が現れるのは、龍光寺によって剣山が開山されて以後のことである。
③この結果、剣山はあらたな霊山として、阿波各地から信者が参拝登山に訪れる聖地となった。
④こうして先達に連れられた信者達がベースキャンプとなる龍光寺のある木屋平にやってくるようになった。
⑤その受入の宿坊や先達を勤めるための修験者も木屋平周辺に大勢やって来て定着するようになる。
⑥修験者たちは、毎日仰ぎ見る村境の霊山や自然物崇拝としての巨岩(磐座)や峯峯の頂きにある権現を聖地として信仰対象にした。
⑦それが
「木屋平分間村絵図」に描かれた「民間信仰と修験の山の複合した景観」である。
木屋平 富士の池両剣神社
剣山修行の中心 両剣前神社と富士池坊(木屋平分間村絵図)建物が描かれている

それでは、天行
山窟大師と龍光寺の剣山開山とは、どのような関係があったのでしょうか?

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                伝説「東宮山の幻の岩屋」
穴吹川沿いをを遡る国道の分岐点で見つけた看板です。ここには冒頭に、次のように記します。
高越山と剣山脈をつなぐ唯一の山脈東宮山は幾多の伝説を秘めた山である。山頂近くに檜の瀧と呼ばれる高さ百数十mの断崖絶壁があり、人は簡単には近づけない岩穴があり、幻の岩屋と呼ばれていた。

番外:天行山、謎の石窟 - ぐーたら気延日記(重箱の隅)

東宮山と天行山

「高越山と剣山脈をつなぐ唯一の山」が東宮山なのです。高越山の麓の山川やその周辺の信者集団は、東宮山ー天行山を経て木屋平に入っていたことがうかがえます。このルートは、高越山からの修験者たちの修行の道であったかもしれません。そして天行山は修験者の修行の場であり、霊山にもなり、次第の里人の信仰を集めるようになります。それが「木屋平分間村絵図」に描かれた天行山窟大師の姿かも知れません。
木屋平 三ツ木村・川井村の宗教景観
文化9年の木屋平村の宗教景観 雨(天)行山大権現も見える

では、どうして明治になって石造が安置され、大師堂などの建物が姿を見せるようになったのでしょうか。

 明治の神仏分離令によって、全国的には修験の急速な衰退が始まります。ところが、剣山では衰退でなく発展が見られるのです。修験者の中心センターであった龍光寺や円福寺は、中央の混乱を好機としてとらえて、自寺を長とする修験道組織の再編に乗り出すのです。龍光寺・円福寺は、自ら「先達」などの辞令書を信者に交付したり、宝剣・絵符その他の修験要具を給付するようになります。そして、先達や信者の歓心を買い、新客の獲得につなげます。つまり、剣山信仰は明治を境により隆盛をみるようになるのです。それが木屋平周辺の霊場の発展にもつながります。『木屋平村史』には、村内に宿泊所として機能する修験寺が次のように挙げられています。
 持福院、理照院、持性院、宝蔵院、正学院、威徳院、玉蔵院、亀寿坊、峯徳坊、徳寿坊、恵教坊、永善坊、三光院、理徳院、智観坊、玉泉院、満主坊、妙意坊、長用坊、玉円坊、常光院、学用坊、般若院、吉祥院、新蔵院、教学院、理性院

龍光寺は支配下に数多くの子院と修験者たちを抱えていたいたようです。
そのような環境の中で、天行山窟大師でも伽藍が整備され、石造物があらたに安置されたのではないかと私は考えています。
以上、天行山のベンチで考えたことでした。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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              天(雨)行山頂上の三角点 
もともとここに雨行山大権現の祠があったと私は考えています。


参考文献
 「羽山 久男 文化9年分間村絵図からみた美馬市木屋平の集落・宗教景観 阿波学会紀要 

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木屋平村絵図1
木屋平分間村絵図の森遠名エリア

前回は、「木屋平分間村絵図」の森遠名のエリアを見てみました。そこには中世の木屋平氏が近世には松家氏と名前を変えながらも、森遠名を拓き集落を形成してきたプロセスが見えてきました。今回は、この地図に描かれた修験道関係の「宗教施設」を追っていきたいと思います。この絵図には、神社や寺院、ばかりでなく小祠・お堂が描かれています。この絵図の面白い所は、それだけではありません。村人が毎日仰ぎ見る村境の霊山,さらには自然物崇拝としての巨岩(磐座)や峯峯の頂きにある権現なども描かれています。木屋平一帯は、「民間信仰と修験の山の複合した景観」が形成されていたと研究者は考えています。
 修験道にとって山は、天上や地下に想定された聖地に到るための入口=関門と考えられていました。
天上や地下にある聖界と、自分たちが生活する俗界である里の中間に位置する境界が「お山」というイメージです。この場合には、神や仏は山上の空中に、あるいは地下にいるということになります。そこに行くためには「入口=関門」を通過しなければなりません。
「異界への入口」と考えられていたのは次のような所でした。
①大空に接し、時には雲によっておおわれる峰、
②山頂近くの高い木、岩
③滝などは天界への道とされ、
④奈落の底まで通じるかと思われる火口、断崖、
⑤深く遠くつづく鍾乳洞などは地下の入口
 これらの①~⑤の「異界への入口」が、「木屋平分間村絵図」には数多く描かれているのです。その中には,村人がつけた河谷名や山頂名,小地名,さらに修験の霊場数も含まれます。それを研究者は、次の一覧表にまとめています。
木屋平 三ツ木村・川井村の宗教景観一覧表

この表を見ると、もっとも描かれているのは巨岩197です。巨岩197のある場所を、研究者が縮尺1/5000分の1の「木屋平村全図」(1990)と、ひとつひとつ突き合わせてみると、それが露岩・散岩・岩場として現在の地形図上で確認できるようです。絵図は、巨石や祠の位置までかなり正確にかかれていることが分かります。

描かれた巨石(磐座)の中で名前のつけられたもの挙げてみると次のようになります。
①三ッ木村葛尾名の「畳石(870m)」(美馬郡半平村境付近),
②南開名の「龍ノ口」(穴吹川左岸),
③川井村大北名の「雨行(あまぎょう)山(925m)」の頂直下の「大師ノ岩屋」・「香合ノ谷」・「護摩檀」
④名西郡上分上山村境の「穀敷石(950m)
⑤木屋平村の「谷口カゲ」の「権現休石(410m)」
⑥那賀郡川成村境の「塔ノ石(1,487m)」
⑦美馬郡一宇村境の「ヨビ石(881m)」
⑧剣山修験の行場である「垢離掻川(750m)」北の「鏡石(910m)」
 これは異界への入口でもあり、修験行場の可能性が高いと研究者は考えています。
ここでは③の天行山の大師の岩屋を見ておきましょう。
木屋平 天行山
天行山(大師の岩屋や護摩壇などかつての行場) 
川井トンネルから北西に天行山(925m)があります。
木屋平天行山入口

この山腹の岩場に「大師ノ岩屋」・「護摩檀」・「香合ノ岩」などの行場が描かれています。そして絵図では「雨行大権現」が天行山頂に鎮座しています。現在は「雨行大権現」は、頂上ではなく、「大師ノ岩屋」の上方にあり,地元では「大師庵」と呼ばれているようです。
木屋平 川井村の雨行大権現 大師の岩屋付近
天行山の大師の岩屋
明治9年(1876)の『阿波国郡村誌・麻植郡下・川井村』には、次のように記されています。
「大師檀 本村東ノ方大北雨行山ニアリ巌窟アリ三拾人ヲ容ルヘク少シ離レテ護摩檀ト称スル処アリ 古昔僧空海茲ニ来リテ此檀ニ護摩ヲ修業シ岩窟ノ悪蛇を除シタリ土人之ヲ大師檀ト称ス」

意訳変換しておくと
「大師檀は、川井村東方の大北の雨(天)行山にある。人が30人ほど入れる岩屋があり、少し離れて護摩檀と呼ばれる所がある。かつて僧空海がここに来て、この檀で護摩修業して岩窟に住んでいた悪蛇を退散させたと伝えられる。そのため地元では大師檀と呼ばれている。

弘法大師伝説と結びつけられていますが、ここが行者たちの行場であったことがうかがえます。
木屋平 天行山の石段
大師の岩屋への石段 「大師一夜建鉄立の石段」
大師の岩屋には「大師一夜建鉄立の石段」と伝わる結晶片岩でできた急な石段が続いています。頂上直下の岩屋に下りていくと岩にへばりつくように大師庵が見えてきます。
木屋平 大師庵
天行山窟大師

「護摩檀」の横には、「大日如来」像が鎮座します。その台座には、明治9年3月吉日の銘と、「施主 中山今丸名(三ッ木村管蔵名南にある麻植郡中山村今丸名)中川儀蔵と刻まれています。台座に刻まれた集落名と人をみると,世話人の川井村5人をはじめ,三ッ木村4人,大北名3人,管蔵名1人,今丸名13人,市初名(三ッ木村)1人,上分上山村9人,下分上山村3人,不明2人の41人で,近隣の村人の人たちが中心になって建立されたことが分かります。

木屋平 天行山3

 「大日如来」像の横には「大正十五年十二月 天行山三十三番観世音建設大施主當山中與開基大法師清海」と刻まれた33体の観世音像が鎮座しています。ここからは、この岩場は「修験の行場 + 周辺の村人の尊崇の対象となった民間信仰」が複合した「宗教施設」と研究者は推測します。これを計画し、勧進したのは修験者だったことが考えられます。かつては、雨行大権現として頂上に祀られていたお堂は、今は窟大師として太子伝説に接ぎ木されて、大師の岩屋に移されているようです。
 このような「行場+民間信仰」の場が木屋平周辺にはいくつも見られます。

木屋平 三ツ木村・川井村の宗教景観
三ツ木村と川井村の「宗教施設」
次に権現を見ていきます。修験者たちは、仏や菩薩が衆生を救うために権(かり)に姿をあらわしたものを「権現」と呼びました。
絵図に権現と記されている所を挙げると次のようになります。
⑨木屋平村と一宇村境の「杖立権現(1,048m)」
⑩三ッ木村と半平村の境の「アザミ権現(1,138m)」
⑪東宮山(1,091m)西斜面の「杖立権現」
⑫川井村と上分上山村境の「雨行大権現」と「富貴権現(970m)」
⑬三ッ木村・川井村境の「城之丸大権現(1,060m)」
⑭岩倉村境の霊場「一ノ森(1,879m)」の「経塚大権現」・「二森大権現」,
⑮剣山山頂(1,955m)にある「宝蔵石権現」
⑯木屋平側の行場にある「古剣大権現(1,720m)」
⑰祖谷山側にある「大篠剣大権現(1,810m)」
⑱丸笹山頂付近の「権現(1,580m)」
⑲川井村麻衣名の「蔵王権現(現麻衣神社,600m)」
木屋平 宗教的概観
木屋平村西部の「宗教施設」
地図で位置を確認すると分かるように、隣村と境をなす聖なる霊山に多く鎮座しているのが分かります。これらの権現を繋ぐと霊山を繋ぐ権現スカイラインが見えてきます。天上の道を、修験者たちは権現を結んで「行道」していたことがうかがえます。「権現」は、剣山修験の霊場や行場に鎮座しているようです。
山津波(木屋平村 剣山龍光寺) - awa-otoko's blog
旧龍光寺(木屋平谷口)
 中世以来、木屋平周辺の行場の拠点となっていたのが木屋平村谷口にある龍光寺だったようです。
 龍光寺はもともとは長福寺と呼ばれ、忌部十八坊の一つでした。古代忌部氏の流れをくむ一族は、忌部神社を中心とする疑似血縁的な結束を持っていました。忌部十八坊というのは、忌部神社の別当であった高越寺の指導の下で寺名に福という字をもつ寺院の連帯組織で、忌部修験と呼ばれる数多くの山伏達を傘下に置いていました。江戸時代に入ると、こうした中世的組織は弱体化します。しかし、修験に関する限り、高越山の高越寺の名門としての地位は存続していたようです。
 長福寺(龍光寺)は、木屋平を取り巻く行場の管理権を握っていました。それは剣山の山頂近くにある剣神社の管理権も含んでいました。しかし、近世初頭までの剣山は著名な霊山や行場とは見られていなかったようです。高越山などに比べると霊山としての知名度も低く、プロの修験者が檀那から依頼されて代参する山にも入っていません。
  近世になると長福寺は、それまでは「一の森とか、立石、こざさ権現、太郎ぎゅう」と呼ばれていた山を「剣山」というキラキラネームに換えて、一大霊場として売り出す戦略に出ます。同時に、寺名も長福寺から龍光寺へと変えます。そして、「剣山開発プロジェクト」を勧めていきます。そのために取り組んだのが、受けいれ施設の整備です。それが絵図には、下図のように記されています。

木屋平 富士の池両剣神社
 富士の池坊と両剣前神社
  龍光寺は、剣の穴吹登山口の八合目の藤(富士)の池に「藤の池本坊」を作ります。登山客が頂上の剱祠でご来光を見るためには、前泊地が山の中に必用でした。そこで剱祠の前神を祀る剱山本宮を藤の池に造営し、寺が別当となります。これは「頂上へのベースーキャンプ」であり、これで頂上でご来光を遥拝することが出来るようになります。こうして、剣の参拝は「頂上での御来光」が売り物になり、山伏たちが先達となって多くの信者たちを引き連れてやって来るようになります。この結果、龍光院の得る収入は莫大なものとなていきます。龍光院による「剣山開発」は、軌道に乗ったのです。
  この結果、藤の池までの穴吹川沿いのルートや剣山周辺行場だけに多くの信者が集中するようになります。それでも、それまで行場として使われていた巨石(磐座)や権現は、修験者たちによって使われ続けたようです。それが19世紀初頭に書かれた村絵図に、巨石(磐座)や権現として描き込まれていると私は考えています。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「羽山 久男 文化9年分間村絵図からみた美馬市木屋平の集落・宗教景観 阿波学会紀要 

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