瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:天霧城

 南海通記は同時代史料でなく、伝聞に基づいて百年以上後に書かれたものです。誤りや「作為」もあることを前回までに見てきました。
  今回は南海通記が西讃岐守護代で天霧城主・香川氏について、どのように叙述しているのかをを見ていくことにします。テキストは「橋詰 茂 戦国期における香川氏の動向 ―『南海通記』の検証 香川県中世城館跡詳細分布調査報告2003年458P」です。

最初に、西讃岐守護代としての香川氏について「復習」をしておきます。
香川氏は相模国香川荘の出身で、鎌倉権五郎景政の後裔なる者が来讃して香川姓を名乗ったとされます。香川氏の来讃について、次のような2つの説があります。
①『西讃府志』説 承久の乱に戦功で所領を安芸と讃岐に賜り移住してきた
②『全讃史』説  南北朝期に細川頼之に従って来讃した)
来讃時期については、違いがありますが居館を多度津に置いて、要城を天霧山に築城した点は一致します。

DSC05421天霧城

天霧城跡縄張図(香川県中世城館跡詳細分布調査報告)

 香川氏が史料上に始めて出てくるのは永徳元年(1381)になります。
香川彦五郎景義が、相伝地である葛原庄内鴨公文職を京都建仁寺の塔頭永源庵に寄進した記録です。(『永源記』所収文書)。細川頼之が守護の時に弟頼有は、守護代として讃岐に在国していて、香川景義は頼有に従って讃岐に在国しています。ここからは、この頃には香川氏は細川氏の被官となっていたことが分かります。

香川氏の系譜2
香川氏の系譜(香川県史)

次の文書は応永7年(1400)9月、守護細川満元が石清水八幡宮雑掌に本山庄公文職を引き渡す旨の遵行状を香川帯刀左衛門尉へ発給したものです(石清水文書)。ここからは、香川帯刀左衛門尉が守護代であったことが分かります。14世紀末には、香川氏は守護代として西讃岐を統治していたとがうかがえます。

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             蔭涼軒日録

『蔭涼軒日録』の明応2年(1493)6月条には、相国寺の子院である蔭涼軒を訪ねた羽田源左衛門が雑談の中で、次のように讃岐のことを語っています
①讃岐国は十三郡なり、②六郡香川これを領す、寄子衆また皆小分限なり、然りといえども香川とよく相従うものなり、③七郡は安富これを領す、国衆大分限者これ多し、然りといえども香西党首としてみな各々三味して安富に相従わざるものこれ多しなり

意訳変換しておくと。
①讃岐十三郡のうち六郡を香川氏が、残り七郡を安富氏が支配していること。
②香川氏のエリアでは、小規模な国人武将が多く、よくまとまっている
③安富氏のエリアでは、香西氏などの「大分限者」がいて、安富氏に従わない者もいる
15世紀末には、綾北郡以西の7郡を香川氏が領有していたことが分かります。讃岐の両守護代分割支配は、守護細川氏の方針でもあったようです。讃岐は細川京兆家の重要な分国でした。南北朝末以降は京兆家は常時京都に在京し、讃岐には不在だったことは以前にお話ししました。そのため讃岐は守護代により支配されていました。東讃守護代の安富氏は在京していましたが、香川氏は在国することが多かったようです。結果として、香川氏の在地支配は安富氏以上に強力なものになったと研究者は考えています。

天霧城攻防図

天霧城攻防図
香川氏は多度津に居館を構え、天霧城を詰城としていました。その戦略的な意味合いを挙げて見ると
①天霧城は丸亀平野と三野平野を見下ろす天然の要害地形で、戦略的要地であること
②天霧山頂部からは備讃瀬戸が眺望できて、航行する船舶を監視できる。
③多度津は細川氏の国料船と香川氏の過書船専用の港として栄え、香川氏の経済基盤を支えた。
④天霧城の北麓の白方には、古くから白方衆と呼ばれる海賊衆(山路氏)がいて、香川氏の海上軍事力・輸送力を担った持つことが可能になります。
⑤白方衆は、香川氏が畿内へ出陣する際には水軍として活躍した
⑥現在も天霧城跡から白方へ通じる道が遍路道として残されているが、これは築城当時からのものと研究者は考えています。有事の際には、天霧城からただちに白方の港へと下ったのかもしれません。

兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳に出てくる多度津周辺をを母港とする輸送船一覧

それでは史料に現れる天霧城主の変遷(香川氏系譜)を見ていくことにします。
守護代を務めた香川氏の当主は、日頃は多度津の舘に生活していたのかも知れません。史料上に天霧城主と記された人物はほとんどでてきません。そのため城主の変遷はよく分かりません。そんな中で『道隆寺温故記』には「雨(天)霧城主」と割注が記された人物が何人かいます。その人物を見ておきましょう。
①康安2年(1362) 藤原長景が多度津道隆寺に花会田を寄進。そこに「天霧城主」が出てきます。
②永和4年(1378) 藤原長景が、宝輪蔵を建立し、一切経を奉納して経田を寄付
「道隆寺温故記」に記された記事の原文書が道隆寺に残っているので、その内容を裏付けられるようです。しかし、もともとは香川氏は平姓で、藤原姓を名乗る長景が香川氏一族かどうかは疑問の残るところです。一歩譲って、永景には香川氏が代々もつ景の字があるので、香川氏の一族かも知れないとしておきます。
③永正7年(1510)12月、白方八幡に大投若経が奉納され、そこに「願主平朝臣清景雨霧城主」とあります。
④永世8年(1511)には五郎次郎が混槃田を道隆寺に寄進。そこにも雨霧城主とあります。
⑤天文6年(1537)3月4日、「不動護摩灯明田、中務丞元景寄付給」

④の永正8年の五郎次郎と比べると、両名の花押が同じです。これは、この年に五郎次郎が香川氏の家督を相続して元景と名乗ったものと研究者は考えています。③の「願主平朝臣清景雨霧城主」とある清景の嫡男が五郎次郎(元景)と研究者は推測します。ここからは香川氏が平氏の子孫と自認していたこと、道隆寺を保護していたことなどが分かります。
⑥永正7年6月五郎次郎の香川備後守宛遵行状(秋山家文書)の花押は、五郎次郎のと花押が同じなので、同一人物のようです。五郎次郎は讃岐守護細川澄元の奉書を承けて又守護代の備後守に遵行しています。ここからは五郎次郎が守護代としての権限を持っていたことがうかがえます。
⑦天文8年(1539)に、元景は西谷妻兵衛に高瀬郷法華堂(本門寺)の特権を安堵することを伝えています(本門寺文書)。そこには「御判ならびに和景の折紙の旨に任せ」とあります。「御判」は文明元年(1469)の細川勝元の安堵状で、「和景の折紙」とは同2年の香川備前守宛の和景書下です。和景以来の本門寺への保護政策がうかがえます。この時期から香川氏は、戦国大名への道を歩み始めたと研究者は考えています。

香川氏発給文書一覧
香川氏の発給文書一覧

ところが⑦の天文8年(1539)以後の香川氏の発給文書は途切れます。⑧永禄元年(1558)の香川之景が豊田郡室本の麹商売を保障しています(観音寺市麹組合文書)。

香川氏花押
            香川之景の花押の変遷
この文書には「先規の重書ならびに元景の御折紙明鏡の上」とあるので、それまでの麹商売への保障を、元景に続き之景も継続して保障することを記したものです。ここからは元景の家督を之景が相続したことがうかがえます。同時に、香川氏の勢力範囲が観音寺までおよんでいたことがうかがえます。領域的な支配をすすめ戦国大名化していく姿が見えてきます。
⑨永禄3年(1560)香川之景が田地1町2段を寄進 天霧城主とはありませんが、記載例から見て之景が城主であることに間違いないようです。

天霧城3
天霧城
以上の史料に出てくる天霧城主が南海通記には、どのように登場してくるのか比較しながらを見ていくことにします。
『南海通記』に出てくる香川氏を一覧表化したのがものが次の表です

南海通記の天霧城主一覧表
南海通記に出てくる天霧城主名一覧表

南海通記に、天霧城主がはじめて登場するのは応仁・享徳年間(1452~55)になるようです。そして天正7年の香川信景まで続きます。しかし、結論から言うと、ここに出てくる人物は、信景以外は先ほど見た史料と一致しません。
 南海通記は、老人からの聞き取りや自らの体験を元に書いたとされます。そのために、時代が遡ればたどるほど不正確になっていることが考えられます。南海通記の作者である香西成資は、自分の一族の香西氏についても正しい史料や系図は持っていなかったことは、以前に見た通りです。史料に出てくる人物と、南海通記の系図がほとんど一致ませんでした、それは香川氏についても云えるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   橋詰 茂 戦国期における香川氏の動向 ―『南海通記』の検証 香川県中世城館跡詳細分布調査報告2003年458P
関連記事

   室町期に活発化するのが海民の「海賊」行為です。
その中で「海の武士」へ飛躍したのが芸予諸島能島の村上氏です。この時代の「海賊」には、次の二つの顔があったようです。
①荘園領主の依頼で警固をおこなう護衛役(海の武士)
②荘園押領(侵略)を行う海賊
このような「海賊=海の武士団」は、讃岐にもいたことを以前にお話ししました。多度津白方や詫間を拠点とした山地(路)氏です。

3弓削荘1
芸予諸島の塩の島・弓削島

山地氏は燧灘を越えて、芸予諸島まで出掛けて、塩の島と云われた弓削島を押領していることが史料から分かります。そこには押領(海賊)側として、「さぬきの国しらかたといふ所二あり。山路(山地)方」と記されています。「さぬきの国しらかた」とは、現在の多度津町白方のことです。ここからは15世紀後半の讃岐多度津白方に、山地氏という勢力がいて、芸予諸島にまで勢力を伸ばして弓削島を横領するような活動を行っていたことが分かります。そのためには海軍力は不可欠です。山地氏も「海賊」であったようです。

京都・東寺献上 弓削塩|弓削の荘
弓削は東寺の「塩の荘園」であった 

 今回は、山地氏がどのようにして香川氏の家臣団に組織化されていったのかという視点から見ていきたいと思います。テキストは 「橋詰茂  海賊衆の存在と転換 瀬戸内海地域社会と織田権力」
です。
瀬戸内海地域社会と織田権力(橋詰茂 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

山路氏は、『南海通記』に「西方関亭(立)中」として出てくることは、以前にお話ししました。
  香西成資の『南海通記巻七』(享保三年(1718)の「細川晴元継管領職記」の部分です。ここでは管領細川氏の内紛時に晴元が命じた動員について、当時の情勢を香西成資が次のように説明しています。その内容は、3段に分けることが出来ます。
1段目は、永正17年(1520)6月10日に細川澄元が亡くなり、その跡を継いだ晴元が、父の無念を晴らすために上洛を計画し、讃岐をはじめとする5ケ国に動員命令を出し、準備が整ったことを記します。
 2段目は「書二曰ク」と晴元書状を古文書から引用しています。その内容は
「京への上洛について、諸国の準備は整った。先兵として、明日軍勢を差し向けるので、急ぎ務めることが肝要である。香川氏にも申し付けてある」

日付は7月4日、差出人は細川晴元、受取人は「西方関亭(立)中」です。3段目が引用した晴元書状についての説明で、「この書、讃州西方山地右京進、その子左衛門督と云う者の家にあり」と注記しています。ここから、この文書が山地氏の手元に保管されていたことが分かります。
この文章で謎だったのが2段目の宛先「西方関亭(立)中」と山地氏との関係でした。これについては、以前に次のようにお話ししました。
①関亭は関立の誤記で「関を守るもの」が転じて海の通行税を徴収する「海賊衆」のこと
②山地氏は、能島村上氏とともに芸予諸島の弓削島を押領する「海賊衆」であったこと。
③山地氏は、多度津白方や詫間を拠点とする海賊衆で、後には香川氏に従うようになっていたこと
細川晴元が讃岐の海賊衆山地氏に対して、次のような意味で送った文書になるようです。
「上洛に向けた兵や兵粮などの準備が全て整ったので、そちらに送る。船の手配をよろしく頼む。このことについては、讃岐西方守護代の香川氏も連絡済みで、承知している。」

 この書状は細川晴元書状氏から山地氏への配船依頼状で、それが「讃州西方山地右京進、其子左衛門督」の家に伝わっていたようです。逆に山路(地)氏が「関亭中への命令」を保存していたと云うことは、山地氏が関亭中(海賊衆)の首であったことを示しています。
 ①守護細川氏→②守護代香川氏 → ③海賊衆(水軍)山地氏
という命令系統の中で、山地氏が香川氏の水軍や輸送船として活動し、時には守護細川氏の軍事行動の際には、讃岐武士団の輸送船団としても軍事的な役割を果たしていたことが見えてきます。

関亭は関立で海賊のことだとすると、「西方関立中」とは何のことなのでしょうか?
西方とは、讃岐を二つに分けたときに使われる言葉で、讃岐の西半分エリアをさします。守護代も「讃岐西方守護代」と呼ばれていました。つまり讃岐西方の海賊衆ということになります。文中に「此書は讃州西方山地有京進、その子左衛門督と云う者の家にあり」と記されています。最初に見たように寛正3年(1463)の弓削島を押領していた白方海賊衆山路氏が出てきました。その末裔がここに登場してくる山地氏だと研究者は考えています。「西方関立=海賊衆山路(地)氏」になるようです。そして、海賊衆山路氏は細川晴元の支配下にあったことが分かります。
 文書中に「香川可申候」とあります。この香川氏は讃岐西方守護代の香川氏です。
当時、西讃岐地方は多度津の香川氏によって管轄されていました。「香川氏も連絡済みで、承知している。」とあるので、細川氏は守護代の香川氏を通じて山路氏を支配していたことがうかがえます。

兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳 多度津船の活動
 文安2年(1445)の『兵庫北関入松納帳』には、守護細川氏の国料船の船籍地が、もともとは宇多津であったのが多度津に移動したことが記されています。また過書船は多度津を拠点とし、香川氏によって運行支配されていました。 つまり多度津港は、香川氏が直接に管理していた港だったようです。香川氏は多度津本台山に居館を構え、詰城として天霧城を築きます。香川氏が多度津に居館を築いたのは、港である多度津を掌握する目的があったと研究者は考えています。そうして香川氏は経済力を高めるとともに、これを基盤として西讃岐一帯へ支配力を強化していきます。山路氏のいる白方と多度津は隣接した地です。香川氏の多度津移動は山路氏の掌握を図ったものかもしれません。つまり海賊衆である山路を支配下におくことで、瀬戸内海の海上物資輸送の安全と船舶の確保を図ろうとしたと研究者は考えています。
3 天霧山4
香川氏の天霧城

香川氏は、永正16年(1519)、細川澄元・三好之長に従って畿内へ出陣しています。
しかし、五月の京都等持寺の戦いで細川高国に敗れて降伏し、その後は高国に属するようになります。その後の享禄元年(1528)からの高国と晴元の戦いでは、阿波の三好政長に与して晴元に属し高国軍と戦っています。その年の天王寺の戦いでは、香川元景は細川晴几の武将として木津川口に陣を敷いています。めまぐるしく仕える主君を変えていますが、「勝ち馬」に乗ることが生き残る術です。情報を集め、計算尽くで己の路を決めた結果がこのような処世術なのでしょう。
 これらの畿内への出陣には、輸送船と護衛船が必要になります。
その役割を担ったのが海賊衆の山路氏だったと研究者は考えています。文安年間(1444)以降は、山路氏は細川氏から香川氏の支配下に移り、香川氏の畿内出陣の際に活動しています。

多度津陣屋10
       多度津湛甫が出来る前の桜川河口港(19世紀前半)

晴元が政権を掌握した後、西讃岐の支配は香川氏によって行われています。
香川氏と細川晴元の関係を示すものとして次のような史料があります。
其国之体様無心元之処、無別儀段喜入候、弥香川弾正忠与相談、無落度様二調略肝要候、猶右津修理進可申候、謹言、
卯月十二日                            (細川)晴元(花押)
奈良千法師丸殿
発給年は記されていませんが、天文14、15年のものと研究者は推測します。宛て名の奈良千法師丸は誰かは分かりませんが、宇多津聖通寺城主の奈良氏が第1候補のようです。奈良氏は細川四天王の一人といわれていますが、讃岐での動向はよく分からないようです。この史料はわずかに残る奈良氏宛のものです。文中に「香川弾正忠与相談」とあります。守護の細川晴元は、守護代の香川弾正忠に相談してすすめろと指示しています。ここからは、次のような事が推測できます。
①それだけ西讃エリアでの香川氏の存在が大きかったこと。
②奈良氏の当主が幼少であったために、香川氏を後見役的立場としていたこと
奈良氏の支配領域は、鵜足郡が中心で聖通寺山に拠点をおいていました。香川氏にわざわざ相談すせよと指示しているのです。最初に見た山路氏の文章にも、香川氏には連絡済みであると記されていました。ここからは、細川晴元にとって香川忠与は頼りになる存在であったことがうかがえます。逆に言うと、香川氏を抜きにして西讃の支配は考えられなかったのかもしれません。それほど香川氏の支配力が西讃には浸透していことがうかがえます。内紛で細川氏の勢力が弱体化していることを示すものかもしれません。この時期には香川氏の勢力は、西讃岐だけでなく、中讃岐へも及んでいた気配がします。どちらにしても、細川氏の弱体化に反比例する形で、香川氏は戦国大名化の道を歩み始めることになります。
  以上をまとめておきます
①多度津白方や詫間を拠点として、芸予諸島の弓削島を押領していたのが山路(地)氏である
②山地氏は、海賊衆(海の武士団)として、管領細川氏に仕えていたことが史料から分かる。
③多度津からの讃岐武士団の畿内動員の際には、その海上輸送を山地氏が担当していた。
④多度津港は、香川氏の直轄港であり守護細川氏への物資を輸送する国領・過書船の母港でもあった。
⑤多度津港は、瀬戸内海交易の拠点港として大きな富をもたらすようになり、それが香川氏の成長の源になる。
⑥このような海上輸送のための人員やノウハウを提供したのが山地氏であった。
⑦細川家の衰退とともに、香川氏は戦国大名化の道を歩むようになり、山地氏も細川氏から香川氏へと仕える先を換えていく。
⑧その後の山地氏の一族の中には、海から陸に上がり香川氏の家臣団の一員として活躍する者も現れる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  「橋詰茂  海賊衆の存在と転換 瀬戸内海地域社会と織田権力」です。

 
守護細川氏の下で讃岐西方守護代を務めた多度津の香川氏については、分からないことがたくさんあるようです。20世紀末までの讃岐の歴史書や市町村史は軍記物の「南海通記」に従って、香川氏のことが記されてきました。しかし、高瀬の秋山文書などの研究を通じて、秋山氏が香川氏の下に被官として組み込まれていく過程が分かるようになりました。同時に、香川氏をめぐる謎にも迫れるようになってきたようです。今回は、秋山家文書から見えてきた香川氏の系譜について見ていくことにします。テキストは、「橋詰茂 香川氏の発展と国人の動向 瀬戸内海地域社会と織田権力」です。

香川氏の来讃について見ておきましょう。
  ①『全讃史』では
香河兵部少輔景房が細川頼之に仕え、貞治元年の白峰合戦で戦功を立て封を多度郡に受けたとします。以降は「景光-元明-景明-景美-元光-景則-元景(信景)=之景(長曽我部元親の子)」と記します。この系譜は、鎌倉権五郎景政の末孫、魚住八郎の流れだとします。
  ②『西讃府志』では、安芸の香川氏の分かれだと云います。
細川氏に仕えた刑部大輔景則が安芸から分かれて多度津の地を得て、以降は「景明-元景-之景(信景)=親政」と記されます。
  ③『善通寺市史』は、
相国寺供養記・鹿苑目録・道隆寺文書などの史料から、景則は嫡流とは認め難いとします。その系図を「五郎頼景─五郎次郎和景─五郎次郎満景─(五郎次郎)─中務丞元景─兵部大輔之景(信景)─五郎次郎親政」と考えています。これが現在では、妥当な線のようです。しかし、家伝などはなく根本史料には欠けます。史料のなさが香川氏を「謎の武士団」としてきたようです。

   以上のように香川氏の系譜については、さまざまな説があり『全讃史』『西讃府志』の系図も異同が多いようです。また史料的には、讃岐守護代を務めたと人物としては、香川帯刀左衛門尉、香川五郎次郎(複数の人物)、香川和景、香川孫兵衛元景などの名前が出てきます。史料には名前が出てくるのに、系譜に出てこない人物がいます。つまり、史料と系譜が一致しません。史料に出てくる香川氏の祖先が系図には見えないのは、どうしてでしょうか?
 その理由を、研究者は次のように考えているようです。

「現在に伝わる香川氏の系図は、みな後世のもので、本来の系図が失われた可能性が強い」

つまり、香川氏にはどこかで「家系断絶」があったとします。そして、断絶後の香川家の人々は、それ以前の祖先の記憶を失ったと云うのです。それが後世の南海通記などの軍記ものによって、あやふやなまま再生されたものが「流通」するようになったと、研究者は指摘します。
 系譜のあいまいさを押さえた上で、先に進みます。
香川氏は、鎌倉権五郎景政の子孫で、相模国香川荘に住んでいたと伝えられます。香川氏の来讃については、先ほど見たように承久の乱の戦功で所領を賜り安芸と讃岐に同時にやってきたとも、南北朝期に細川頼之に従って来讃したとも全讃史や西讃府志は記しますが、その真偽は史料からは分かりません。
「香川県史」(第二巻通史編中世313P)の香川氏について記されていることを要約しておきます。
①京兆家細川氏に仕える香川氏の先祖として最初に確認できるのは、香河五郎頼景
②香河五郎頼景は明徳3年(1392)8月28日の相国寺慶讃供養の際、細川頼元に随った「郎党二十三騎」の一人に名前がでてくる。
②香河五郎頼景以後、香川氏は讃岐半国(西方)守護代を歴任するようになる。
③讃岐守護代を務めたと人物としては、香川帯刀左衛門尉、香川五郎次郎(複数の人物)、香川和景、香川孫兵衛元景などの名前が出てくる。
④『建内記』には文安4年(1447)の時点で、香川氏のことを安富氏とともに「管領内随分之輩」であると記す。
①の永徳元(1381)年の香川氏に関する初見文書を見ておきましょう。
寄進 建仁寺水源庵
讃岐国葛原庄内鴨公文職事
右所領者、景義相伝之地也、然依所志之旨候、水代所寄進建仁寺永源庵也、不可有地妨、乃為後日亀鏡寄進状如件、
                          香川彦五郎     平景義 在判
永徳元年七月廿日                       
この文書からは次のようなことが分かります。
A 香川彦五郎景義が、多度郡の葛原荘内鴨公文職を京都建仁寺の塔頭永源庵に寄進していること
B 香川彦五郎は「平」景義と、平氏を名乗っていること
C 香川氏が葛原荘公文職を持っていたこと
応永七(1400)年9月、守護細川氏は石清水八幡宮雑掌に本山荘公文職を引き渡す旨の連行状を国元の香川帯刀左衛問尉へ発給しています。ここからは、帯刀左衛門尉が守護代として讃岐にとどまっていたことが分かります。この時期から香川氏は、守護代として西讃岐を統治していたことになります。

 『蔭涼軒日録』は、当時の讃岐の情勢を次のように記します。

「讃岐国十三郡也、大部香川領之、寄子衆亦皆小分限也、雖然興香川能相従者也、七郡者安富領之、国衆大分限者性多、雖然香西党為首皆各々三昧不相従安宮者性多也」

 ここからは讃岐13郡のうち6郡を香川氏が、残り7郡を安富氏が支配していたことが分かります。讃岐に関しては、香川氏と安富氏による東西分割管轄が、守護細川氏の方針だったようです。

 香川氏は多度津本台山に居館を構え、詰城として天霧城を築きます。
香川氏が多度津に居館を築いたのは、港である多度津を掌握する目的があったことは以前にお話ししました。
兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳(1445年) 多度津船の入港数


「兵庫北関人松納帳」には、多度津船の兵庫北関への入関状況が記されていますが、その回数は1年間で12回になります。注目すべきは、その内の7艘が国料船が7件、過書船(10艘)が1件で、多度津は香川氏の国料船・過書船専用港として機能しています。国料船は守護細川氏の京都での生活に必要な京上物を輸送する専用の船団でした。それに対して、過書船は「香川殿十艘」と注記があり、10艘に限って無税通行が認められています。

香川氏は過書船の無税通行を「活用」することで、香川氏に関わる物資輸送を無税で行う権利を持ち、大きな利益をあげることができたようです。香川氏は多度津港を拠点とする交易活動を掌握することで、経済基盤を築き、西讃岐一帯を支配するようになります。

香川氏の経済活動を示すものとして、永禄元年(1558)の豊田郡室本の麹商売を、之景が保証した次の史料があります。
讃岐国室本地下人等申麹商売事、先規之重書等並元景御折紙明鏡上者、以共筋目不可有別儀、若又有子細者可註中者也、乃状如件、
永禄元年六月二日                           之景(花押) 
王子大明神別当多宝坊
「先規之重書並に元景御折紙明鏡上」とあるので、従来の麹商売に関する保証を之景が再度保証したものです。王子大明神を本所とする麹座が、早い時期から室本の港にはあったことが分かります。
同時に、16世紀半ばには香川氏のテリトリーが燧灘の海岸沿いの港にも及んでいたことがうかがえます。

戦国期の当主・香川之景を見ておきましょう。
この人物については分からないことが多い謎の人物です。之景が史料に最初に現れるのは、先ほどの室本への麹販売の特権承認文書で永禄元(1558)年6月1日になります。以下之景に関する文書は14点あります。その下限が永禄8年(1565)の文書です。

香川氏発給文書一覧
香川氏の発給文書一覧

14点のうち6点が五郎次郎との連署です。文書を並べて、研究者は次のように指摘します。
①永禄6年(1563)から花押が微妙に変化していること、
②同時にこの時期から、五郎次郎との連署がでてくること
永禄8年(1565)を最後に、天正5(1577)に信景の文書が発給されるまで、約12年間は香川氏関係の文書は出てきません。これをどう考えればいいのでしょうか? 文書の散逸・消滅などの理由だけでは、片付けられない問題があったのではないかと研究者は推測します。この間に香川氏に重大な事件があり、発行できない状況に追い詰められていたのではないかというのです。それが、天霧城の落城であり、毛利氏を頼っての安芸への亡命であったと史料は語り始めています。
  
香川之景の花押一覧を見ておきましょう。
香川氏花押
香川之景の花押
①が香川氏発給文書一覧の4(年未詳之景感状 従来は1558年比定)
②が香川氏発給文書一覧の1(永禄元年の観音寺麹組合文書)
③が香川氏発給文書一覧の2(永禄3(1560)年
④が香川氏発給文書一覧の7(永禄6(1563)年
⑤が香川氏発給文書一覧の16
 研究者は、この時期の之景の花押が「微妙に変化」していること、次のように指摘します。
①と②の香川之景の花押を比較すると、下部の左手の部分が図②は真っすぐのに対して図①は斜め上に撥ねていること。また右の膨みも微妙に異なっていること。その下部の撥ねの部分にも違いが見えること。
図③の花押は同じ秋山文書ですが、図①とほぼ同一に見えます。
③は永禄3(1560)年のもので、同四年の花押も同じです。ここからは図①は永禄元年とするよりも、③と同じ時期のもので永禄3年か4年頃のものと推定したほうがよさそうだと研究者は判断します。

④の永禄6(1563)年になると、少し縦長になり、上部の左へ突き出した部分が尖ったようになっています。永禄7年のものも同じです。この花押の微妙な変化については、之景を取り巻く状況に何らかの変化があったことが推定できると研究者は考えています。

信景の花押(図⑤=文書一覧16)を見てみましょう。
香川氏花押2
信景の花押(図⑤)
之景と信景は別の人物?
今までは、「之景が信長の字を拝領して信景と称した」という記述に従って、之景と信景は同一人物とされていました。その根拠は『南海通記』で、次のように記します。

「天正四年二識州香川兵部大輔元景、香西伊賀守佳清使者ヲ以テ信長ノ幕下二候センコトラ乞フ、……香川元景二一字ヲ賜テ信景卜称ス」

ここに出てくる元景は、之景の誤りです。ここにも南海通記には誤りがあります。この南海通記の記事が、之景が信景に改名した根拠とされてきました。
しかし、之景と信景の花押は、素人目に見ても大きく違っていることが分かります。花押を見る限りでは、之景と信景は別の人物と研究者は考えています。
次に研究者が注目するのが、永禄六年の史料に現れる五郎次郎です。
之景との連署状が四点残っています。この五郎次郎をどのように考えればいいのでしょうか?五郎次郎は、代々香川氏の嫡流が名乗った名前です。その人物が之景と連署しています。
文書一覧23の五郎次郎は、長宗我部元親の次男で信景の養子となった親和です。他の文書に見える五郎次郎とは別人になります。信景の発給文書が天正7(1577)年からであることと関連があると研究者は考えています。

  以上をまとめておきましょう
①香川氏の系譜と史料に登場してくる香川氏当主と考えられる守護代名が一致しない。
②そこからは現在に伝わる香川氏の系図は、後世のもので、本来の系図が失われた可能性が強い。
③香川氏には一時的な断絶があったことが推定できる。
④これと天正6年~11年までの間に、香川氏発給の文書がないことと関係がある。
⑤この期間に、香川氏は阿波の篠原長房によって、天霧城を失い安芸に亡命していた。
⑥従来は「之景と信景」は同一人物とされてきたが、花押を見る限り別人物の可能性が強い。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
  「橋詰茂 香川氏の発展と国人の動向 瀬戸内海地域社会と織田権力」
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  室町時代になると、綾氏などの讃岐の国人武将達は守護細川氏に被官し、勢力を伸ばしていきました。それが下克上のなかで、三好氏が細川氏に取って代わると、阿波三好氏の配下で活動するようになります。三好氏は、東讃地方から次第に西に向けて、勢力を伸ばします。そして、寒川氏や安富氏、香西氏などの讃岐国人衆を配下においていきます。

3 天霧山5

そんな中で、三好の配下に入ることを最後まで拒んだのが天霧城の香川氏です。
香川氏には、細川氏の西讃岐守護代としてのプライドがあったようです。自分の主君は細川氏であって、三好氏はその家臣である。三好氏と香川氏は同輩だ。その下につくのは、潔しとしないという心持ちだったのでしょう。香川氏は、「反三好政策」を最後まで貫き、後には長宗我部元親と同盟を結んで、対三好勢力打倒の先兵として活躍することになります。

3 天霧山4
天霧城
阿波の三好氏と香川氏の決戦の場として、語られてきたのが「天霧城攻防戦」です。
今回は、天霧城攻防戦がいつ戦れたのか、またその攻め手側の大将はだれだったのかを見ていくことにします。
3 天霧山2
天霧城

天霧城攻防戦を南海通記は、次のように記します。

阿波三好の進出に対して、天霧城主・香川之景は、中国の毛利氏に保護を求めた。これを討つために、阿波の三好実休(義賢)は、永禄元(1558)年8月、阿波、淡路、東・西讃の大軍を率いて丸亀平野に攻め入り、9月25日には善通寺に本陣をおいて天霧城攻撃を開始した。
 これに対して香川之景は一族や、三野氏や秋山氏など家臣と共に城に立て龍もり籠城戦となった。城の守りは堅固であったので、実休は香西氏を介して之景に降伏を勧め、之景もこれに従うことにした。これにより西讃は三好氏の支配下に入った。10月20日 実休は兵を引いて阿波に還った。が、その日の夜、本陣とされていた善通寺で火災が生じ、寺は全焼した。
 
これを整理しておくと以下のようになります
①阿波の三好実休が、香西氏などの東・中讃の勢力を従え,香川之景の天霧城を囲み、善通寺に本陣を置いたこと。
②香川之景は降伏して、西讃全域が三好氏の勢力下に収まったこと
③史料の中には、降伏後の香川氏が毛利氏を頼って「亡命」したとするものもあること
④善通寺は、三好氏の撤退後に全焼したこと

香川県の戦国時代の歴史書や、各市町村史も、南海通記を史料として使っているので、ほんとんどが、以上のようなストーリー展開で書かれています。香川県史の年表にも次のように記されています。

1558 永禄1
6・2 香川之景,豊田郡室本地下人等の麹商売を保証する
8・- 天霧城籠城戦(?)三好実休,讃岐に侵入し,香川之景と戦う(南海通記)
10・20 善通寺,兵火にかかり焼失する(讃岐国大日記)
10・21 秋山兵庫助,乱入してきた阿波衆と戦い,麻口合戦において山路甚五郎を討つ(秋山家文書)
10・- 三好実休,香川之景と和し,阿波へ帰る(南海通記)
 しかし、近年の研究で実休は、この時期には讃岐にはいないことが分かってきました。『足利季世記』・『細川両家記』には、三好実休の足取りについて次のように記されています
8月18日 三好実休は阿波より兵庫に着し、
9月18日 堺において三好長慶・十河一存・安宅冬康らとの会議に出席
10月3日 堺の豪商津田宗及の茶会記に、実休・長慶・冬康・篠原長房らが、尼崎で茶会開催
つまり、実休が天霧城を包囲していたとされる永禄元(1558)年の夏から秋には、彼は阿波勢を率いて畿内にいたと根本史料には記されているのです。三好実休が永禄元年に、兵を率いて善通寺に布陣することはありえないことになります。

天霧城縄張り図
天霧城縄張り図
 
南海通記は、天霧合戦以後のことを次のように記します。
「実休は香西氏を介して之景に降伏を勧め、香川之景もこれに従うことにした。これにより西讃は三好氏の支配下に入った」

つまり永禄元(1558)年以後は、香川氏は阿波三好氏に従った、讃岐は全域が三好氏配下に入ったというのです。しかし、秋山文書にはこれを否定する次のような動きが記されています。
 1560年 永禄3 
6・28 香川之景,多田又次郎に,院御荘内知行分における夫役を免除する
11・13 香川之景,秋山又介に給した豊島谷土居職の替として,三野郡大見の久光・道重の両名を秋山兵庫助に宛行う
1561 永禄4 
1・13 香川之景,秋山兵庫助に,秋山の本領であった三野郡高瀬郷水田分内原樋口三野掃部助知行分と同分内真鍋三郎五郎買得地を,本知行地であるとして宛行う。
(秋山家文書)
 ここからは、香川之景が「就弓矢之儀」の恩賞をたびたび宛がっていることが分かります。この時点では、次のことが云えます。
①香川之景は、未だ三好氏に従っておらず、永禄4年ごろにはたびたび阿州衆の攻撃をうけ、小規模な戦いをくり返していること
②香川之景は、戦闘の都に家臣に知行を宛行って領域支配を強固にし、防衛に務めていたこと。
つまり、天霧城籠城戦はこの時点ではまだ起きていなかったようです。天霧合戦が起こるのは、この後になります。
1562 永禄5
 3・5 三好実休,和泉久米田の合戦で戦死する(厳助往年記)
                  換わって三好の重臣篠原長房が実権掌握
1563 永禄6
 6・1 香川之景,帰来小三郎跡職と国吉扶持分の所々を,新恩として帰来善五郎に宛行うべきことを,河田伝右衛門に命じる(秋山家文書)
 8・10 香川之景・同五郎次郎,三野菅左衛門尉に,天霧籠城および退城の時の働きを賞し,本知を新恩として返すことなどを約する(三野文書)
この年表からは篠原長房が三好氏の実権を握って以後、西讃地域への進出圧力が強まったことがうかがえます。
永禄6年(1563)8月10日の三野文書を見ておきましょう。

飯山従在陣天霧籠城之砌、別而御辛労候、殊今度退城之時同道候而、即無別義被相届段難申尽候、然者御本知之儀、河田七郎左衛門尉二雖令扶持候、為新恩返進之候、並びに柞原寺分之儀、松肥江以替之知、令異見可返付候、弥御忠節肝要候、恐々謹言、
永禄六 八月十日                   五郎次郎 (花押)
之  景 (花押)
三野菅左衛門尉殿進之候

意訳変換しておくと
天霧城籠城戦の際に、飯山に在陣し辛労したこと、特に、今度の(天霧城)退城の際には同道した。この功績は言葉で云い表せないほど大きいものである。この功労に対して、新恩として河田七郎左衛門尉に扶持していた菅左衛門尉の本知行地の返進に加えて、別に杵原寺分については、松肥との交換を行うように申しつける。令異見可返付候、弥御忠節肝要候、恐々謹言、
永禄六(1563)年 八月十日        五郎次郎(花押)
(香川)之 景(花押)
三野菅左衛門尉殿
進之候
ここからは次のようなことが分かります。
①最初に「天霧籠城之砌」とあり、永禄6(1563)年8月10日以前に、天霧城で籠城戦があったこと
②香川氏の天霧城退城の際に、河田七郎左衛門尉が同行したこと
③その論功行賞に新恩として本知行地が返還され、さらに杵原寺分の返附を三野菅左衛門尉殿に命じていること
④三野氏の方が河田氏よりも上位ポストにいること。
⑤高瀬の柞原寺が河田氏の氏寺であったこと

 ここからは天霧城を退城しても、香川之景が領国全体の支配を失うところまでには至っていないことがうかがえます。これを裏付けるのが、年不詳ですが翌年の永禄七年のものと思われる二月三日付秋山藤五郎宛香川五郎次郎書状です。ここには秋山藤五郎が無事豊島に退いたことをねぎらった後に、
「總而く、此方へ可有御越候、万以面可令申候」
「国之儀存分可成行子細多候間、可御心安候、西方へも切々働申附候、定而可有其聞候」
と、分散した家臣の再組織を計り、再起への見通しを述べ、すでに西方(豊田郡方面?)への軍事行動を開始したことを伝えています。
 それを裏付けるかのように香川之景は、次の文書を発給しています。
①永禄7(1564)年5月に三野菅左衛門尉に返進を約束した鴨村祚原守分について、その宛行いを実行
②永禄8(1565)年八月には、秋山藤五郎に対して、三野郡熊岡香川之景が知行地の安堵、新恩地の給与などを行っていること
これだけを見ると、香川之景が再び三豊エリアを支配下に取り戻したかのように思えます。ここで阿波三好方の情勢を見ておきます
 
天霧城を落とし、香川氏を追放した篠原長房のその後の動きを見ておきましょう。
1564永禄7年3月 三好の重臣篠原長房,豊田郡地蔵院に禁制を下す
1567永禄 10年
6月 篠原長房,鵜足郡宇多津鍋屋下之道場に禁制を下す(西光寺文書) 6月 篠原長房,備前で毛利側の乃美氏と戦う(乃美文書)
1569永禄12年6月 篠原長房,鵜足郡聖通寺に禁制を下す(聖通寺文書)
1571元亀2年
1月 篠原長重,鵜足郡宇多津西光寺道場に禁制を下す(西光寺文書) 5月篠原長房,備前児島に乱入する.
  6月12日,足利義昭が小早川隆景に,香川某と相談して讃岐へ攻め渡るべきことを要請する(柳沢文書・小早川家文書)
  8月1日 足利義昭が三好氏によって追われた香川某の帰国を援助することを毛利氏に要請する.なお,三好氏より和談の申し入れがあっても拒否すべきことを命じる(吉川家文書)
  9月17日 小早川隆景.配下の岡就栄らに,22日に讃岐へ渡海し,攻めることを命じる(萩藩閥閲録所収文書)
ここからは、次のようなことが分かります。
①香川氏を追放した、篠原長房が、宇多津の「鍋屋下之道場(本妙寺)や聖通寺に禁制を出し、西讃を支配下に置いたこと
②西讃の宇多津を戦略基地として、備中児島に軍事遠征を行ったこと
③「
三好氏(篠原長房)によって追われた香川某」が安芸に亡命していること
④香川某の讃岐帰国運動を、鞆亡命中の足利義昭が支援し、毛利氏に働きかけていること
 同時に香川氏の発給した文書は、以後10年近く見られなくなります。毛利氏の史料にも、香川氏は安芸に「亡命」していたと記されていることを押さえておきます。

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三好長慶年表3
1564年の三好長慶死後に活躍するようになる篠原長房

 以上の年表からは次のようなストーリーが描けます。
①三好実休の戦死後に、阿波の実権を握った篠原長房は、讃岐への支配強化のために抵抗を続ける香川氏を攻撃し、勝利を得た。
②その結果、ほぼ讃岐全域の讃岐国人武将達を従属させることになった。
③香川氏は安芸の毛利氏を頼って亡命しながらも、抵抗運動を続けた。
④香川氏を、支援するように足利義昭は毛利氏に働きかけていた
⑤篠原長房は、宇多津を拠点に瀬戸内海対岸の備中へ兵を送り、毛利側と攻防を展開した。
 篠原長房の戦略的な視野から見ると、備中での対毛利戦の戦局を有利に働かるために、戦略的支援基地としての機能を讃岐に求めたこと、それに対抗する香川氏を排除したとも思えてきます。

 天霧城攻防戦後の三好氏の讃岐での政策内容を見ると、その中心にいるのは篠原長房です。天霧城の攻め手の大将も、篠原長房が最有力になってきます。
篠原長房の転戦図
篠原長房の転戦図
篠原長房にとって、讃岐は主戦場ではありません。
天霧城攻防戦以後の彼の動きを、年表化して見ておきましょう。
永禄7年(1564年)12月
三好長慶没後は、三好長逸・松永久秀らと提携し、阿波本国統治
永禄9年(1566年)6月
三好宗家の内紛発生後は、四国勢を動員し畿内へ進出。
三好三人衆と協調路線をとり、松永久秀と敵対。
 9月 松永方の摂津越水城を奪い、ここを拠点として大和ほか各地に転戦
永禄11年10月  この年まで畿内駐屯。(東大寺大仏殿の戦い)。

この時期の長房のことを『フロイス日本史』は、次のように記します。
「この頃、彼ら(三好三人衆)以上に勢力を有し、彼らを管轄せんばかりであったのは篠原殿で、彼は阿波国において絶対的執政であった」

ここからは、阿波・讃岐両国をよくまとめて、長慶死後の三好勢力を支えていたことがうかがえます。
永禄11年(1568年) 織田信長が足利義昭を擁して上洛してきます。
これに対して、篠原長房は自らは信長と戦うことなく阿波へ撤退し、三好三人衆を支援して信長に対抗する方策をとります。2年後の元亀元年(1570年)7月 三好三人衆・三好康長らが兵を挙げると、再び阿波・讃岐2万の兵を動員して畿内に上陸、摂津・和泉の旧領をほぼ回復します。これに対して信長は、朝廷工作をおこない正親町天皇の「講和斡旋」を引き出します。こうして和睦が成立し、浅井長政、朝倉義景、六角義賢の撤兵とともに、長房も阿波へ軍をひきます。

 この間の篠原長房の対讃岐政策を見ておきましょう。
 自分の娘を東讃守護代の安富筑前守に嫁がせて姻戚関係を結び、東讃での勢力を強化していきます。さらに、守護所があったとされる宇多津を中心に丸亀平野にも勢力を伸ばしていきます。宇多津は、「兵庫北関入船納帳」に記されるように当時は、讃岐最大の交易湊でもありました。その交易利益をもとめて、本妙寺や郷照寺など各宗派の寺が建ち並ぶ宗教都市の側面も持っていました。天文18(1550)年に、向専法師が、大谷本願寺・証知の弟子になって、西光寺を開きます。本願寺直営の真宗寺院が宇多津に姿を見せます。

宇多津 西光寺 中世復元図
中世地形復元図上の西光寺(宇多津)

 この西光寺に、篠原長房が出した禁制(保護)が残っています。  
  史料⑤篠原長絞禁制〔西光寺文書〕
  禁制  千足津(宇多津)鍋屋下之道場
  一 当手軍勢甲乙矢等乱妨狼籍事
  一 剪株前栽事 附殺生之事
  一 相懸矢銭兵根本事 附放火之事
右粂々堅介停止屹、若此旨於違犯此輩者、遂可校庭躾料者也、掲下知知性
    永禄十年六月   日右京進橘(花押)
「千足津(宇多津)鍋屋下之道場」と記されています。鍋屋というのは地名です。鍋などを作る鋳物師屋集団の居住エリアの一角に道場はあったようです。それが「元亀貳年正月」には「西光寺道場」と寺院名を持つまでに「成長」しています。
DSC07104
本願寺派の西光寺(宇多津)最初は「鍋屋下之道場」

1574(天正2)年4月、石山本願寺と信長との石山戦争が再発します。
翌年には西光寺は本願寺の求めに応じて「青銅七百貫、俵米五十石、大麦小麦拾石一斗」の軍事物資や兵糧を本願寺に送っています。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
     西光寺(江戸時代の宇多津絵図 大束川の船着場あたり)

宇多津には、真宗の「渡り」(一揆水軍)がいました。
石山籠城の時には、安芸門徒の「渡り」が、瀬戸内海を通じて本願寺へ兵糧搬入を行っています。この安芸門徒は、瀬戸内海を通じて讃岐門徒と連携関係にあったようです。その中心が宇多津の西光寺になると研究者は考えています。西光寺は丸亀平野の真宗寺院のからの石山本願寺への援助物資の集約センターでもあり、積み出し港でもあったことになります。そのため西光寺はその後、本願寺の蓮如からの支援督促も受けています。
 西光寺は、本願寺の「直営」末寺でした。それまでに、丸亀平野の奥から伸びて来た真宗の教線ラインは、真宗興正寺派末の安楽寺のものであったことは、以前にお話ししました。しかし、宇多津の西光寺は本願寺「直営」末寺です。石山合戦が始まると、讃岐の真宗門徒の支援物資は西光寺に集約されて、本願寺に送り出されていたのです。

DSC07236
西光寺
 石山戦争が勃発すると讃岐では、篠原長房に率いられて、多くの国人たちが参陣します。
これは長房の本願寺との婚姻関係が背後にあったからだと研究者は指摘します。篠原長房が真宗門徒でないのに、本願寺を支援するような動きを見せたのは、どうしてでしょうか?
考えられるのは、織田信長への対抗手段です。
三好勢にとって主敵は織田信長です。外交戦略の基本は「敵の敵は味方だ」です。当時畿内で、もっとも大きな反信長勢力は石山本願寺でした。阿波防衛を図ろうとする長房にとって、本願寺と提携するのが得策と考え、そのために真宗をうまく活用しようとしたことが考えられます。本願寺にとっても、阿波・讃岐を押さえる長房との連携は、教団勢力の拡大に結びつきます。こうして両者の利害が一致したとしておきましょう。
  石山戦争が始まると、宇多津の西光寺は本願寺への戦略物資や兵粮の集積基地として機能します。
それができたのは、反信長勢力である篠原長房の支配下にあったから可能であったとしておきましょう。そして、宇多津の背後の丸亀平野では、土器川の上流から中流に向かってのエリアで真宗門徒の道場が急速に増えていたのです。

以上をまとめておくと
①阿波三好氏は東讃方面から中讃にかけて勢力を伸ばし、讃岐国人武将を配下に繰り入れていった。
②三好実休死後の阿波三好氏においては、家臣の篠原長房が実権をにぎり対外的な政策が決定された。
③篠原長房は、実休死後の翌年に善通寺に軍を置いて天霧城の香川氏を攻めた。
④これは従来の南海通記の天霧城攻防戦よりも、5年時代を下らせることになる。
⑤香川氏は毛利を頼って安芸に一時的な亡命を余儀なくされた
⑥篠原長房が、ほぼ讃岐全域を勢力下においたことが各寺院に残された禁制からもうかがえます。⑦宇多津を勢力下に置いた篠原長房は、ここを拠点に備中児島方面に讃岐の兵を送り、毛利と幾度も戦っている。
このように、長宗我部元親が侵攻してくる以前の讃岐は阿波三好方の勢力下に置かれ、武将達は三好方の軍隊として各地を転戦していたようです。そんな中にあって、最後まで反三好の看板を下ろさずに抵抗を続けたのが香川氏です。香川氏は、「反三好」戦略のために、信長に接近し、長宗我部元親にも接近し同盟関係をむすんでいくのです。
DSC07103
髙松街道沿いに建つ西光寺
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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蔭凉軒日録 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

これは「蔭涼軒日録」(いんりょうけんにちろく・おんりょうけん)と読むようです。
蔭涼軒というのは、京都御所の北側にある相国寺の子院の子院に当たるお寺です。かつての相国寺にはたくさん子院や搭頭があり、現在の同志社大学の敷地もかつては、このお寺の敷地だったようです。その中の塔頭のひとつが鹿苑院で、さらに鹿苑院の中に属したのが蔭涼軒のようです。ここの歴代の住職が残した日記が「蔭涼軒日録」になります。これはある意味では、お寺の公用日記なのですが、私的なこともたくさん書いてあって当時のことがうかがえる史料になっているようです。その中の明応二年(1402)の記事に、当時の讃岐のことが書かれています。今回は「蔭涼軒日録」に出てくる15世紀初頭の讃岐の姿を追いかけて見ようと思います。テキストは 「田中健二 中世の讃岐-郡の変遷-    香川県文書館紀要創刊号 1997年」です
 蔭涼軒に出入りしている人の中に、羽田(花田)さんがいます。
この人は「はねだ」さんで、漆器作りの塗師です。この人があるとき団扇を持ってきます。この羽田という人は、よく讃岐のうわさ話を伝えます。どこから聞いてくるのかは分からないんですが、この人が話すことは、讃岐関係のことが多いようです。それを聞いた蔭涼軒主が日記に書きのこしています。こんな風に京都の人たちは、地方の情報収集を行っていたのかとおもわせるものが多々あります。
塗師の羽田さんの語る室町時代の讃岐の情勢を見てみましょう。
①『蔭凛軒日録』明応二年六月十八日条        
羽田源左衛門尉 団扇一柄持ちて来たり。年々の嘉例なり。約するに来たれる日の斎を以てす。羽田の話に云く、讃岐国は十三郡なり。六郡 香川これを領す。寄子衆亦皆小分限なり。しかりと雖も香川に与し能く相従う者なり。七郡は安富これを領す。国衆大分限の者惟多し。しかりと雖も香西党首として皆各々三昧。安富に相従わざる者惟多きなり。
 小豆島亦安富これを管すと云々。備中国衡は一万六千貫の在所なり。安富・秋庭両人これを管す。各々八千貫充つこれを取る。上分綸に一方より五万疋ばかりこれを進納すと云々。
意訳変換しておくと
 羽田の話によると、讃岐国は十三郡という。西の六郡は香川氏がこれを領する。寄子衆(従っている武士団)は、小分限(領地が少ない)ものが多いが、そうは云っても香川氏に与してよく従う者たちである。
 一方、東部七郡は安富が支配するエリアである。こちらは、大分限の武士団が多いが、しかし、香西氏のように独立性が高く、皆各々三昧(勝手次第)で、安富氏に従わない者も多い。
  小豆島は安富が支配する。備中は16000貫の所領であるが、これを安富と秋庭で管理し、折半してそれぞれ8000貫を取る

 団扇職人がもたらした讃岐についての情報を分析してみましょう。
最初に「讃岐国は十三郡」という情報が語られます。これについては、先日見たように古代の「和名抄」に11郡であったのが、平安後期に2つ増えていますから戦国時代の初めには13郡になっていたはずです。この情報は正しいことになります。
古代讃岐の郡と郷 大内・寒川郡の古代郷は、中世にはほとんどが荘園化された : 瀬戸の島から
和名抄の郡は11、阿野郡と香川郡が分割されて13へ

 そのうちの六郡は香川氏が統治し、残りの七郡は安富氏が統治しているということが分かります。安富氏が統治している方に香西氏がいると記されています。香西氏は管領細川氏の四天王として京都でも有名でした。香西氏は古代綾氏の流れを引く武士団で、その本拠は、綾南町から香東、香西付近に伸びていました。特に香西、勝賀が主要拠点で、高松西高校付近のに勝賀山が香西氏の本拠でした。知る人が聞くと、安富氏は讃岐の東半分であろう、そして香川氏が西半分であろうと見当が付きます。
香川県の戦国時代特集!戦国大名十河存保を産み出した歴史を解説【ご当地戦国特集】 | ほのぼの日本史
 小豆島も安富が管轄すると記され、小豆島だけが特別扱いになっています。当時は小豆島は、備前国に所属していて、それを安富氏が管轄していたようです。ここから安富氏と香川氏が、讃岐国を東西の二つに分けて支配しているというのは分かります。一方、讃岐守護は管領を勤めていた細川政元が守護です。香川氏も安富氏もこの細川氏の家臣になります。主人の守護に代わって、預かっているので守護代と呼ばれます。
戦国と火の魔王 | 螢源氏の言霊
讃岐の守護と守護代の関係を見ておきましょう。
A「石清水文書」
 石清水八幡宮領 讃岐国本山庄公文職事。戸島三郎左衛門入道、本知行と号しながら、鐙文を出さず。旧冬軍陣に於て、安堵を申し賜ると雖も、召し返さるる所なり。厳重の神領たるの上は、社家雑掌に沙汰し付け、請取を執り進むべきの状くだんのごとし。
応永七(1400)年四月廿八日  (花押)
  細河右京大夫殿
  (折封ウハ書)
  「香川帯刀左衛門尉殿   右京大夫満元」
  意訳変換しておくと
 石清水八幡宮領である讃岐国本山庄の公文職について。戸島三郎左衛門入道は、本山荘について自分の知行であるといいながら契約口銭を支払わず、旧冬軍陣において、安堵されたが返還を命じられた次第である。本山荘は石清水八幡宮の神領であるので、社家雑掌と連絡を取りながら、戸島三郎左衛門入道から返還させ受け取りを進めること。
ここには「石清水八幡宮領 讃岐国本山庄公文職事」と見えます。
ここに出てくる本山荘は、三豊の本山寺周辺にあった荘園のことです。本山荘の公文職として管理に当たっていたのが地元の武士である戸島三郎左衛門入道のようです。しかし、決められた口銭を支払わないので岩清水八幡から幕府に訴えられたのでしょう。その判決文(命令書)がこの文書に当たるようです。戸島三郎は、都人から云うと「悪党」にあたる人物になります。
 ここで確認したいのは、幕府の地方に対する命令系統です。
讃岐国の本山荘に関わることですから幕府の命令は、讃岐守護の細河右京大夫殿(細川満元)に宛てられています。
細川満元 - Wikipedia
細川満元
それでは、これを受け取った讃岐守護の細川満元は、どうしたのでしょうか?  次のような通信を守護代に送っています。
B 石清水八幡宮領讃岐国本山庄公文職事。今年四月廿八日御教書かくのごとし。早く豊島三郎左衛門入道の知行を退け、社家雑掌に沙汰し付けらるべきの状くだんのごとし。
 応永七年九月十五日      右京大夫(花押)
 香川帯刀左衛門尉殿
  意訳変換しておくと
B 石清水八幡宮領である讃岐国本山庄の公文職のことについて。今年4月28日の教書で命じたとおり、早々に豊(戸)島三郎左衛門入道の知行を返却させ、石清水八幡宮に変換させること。

 AとBを比べると、まるで伝言ゲームのようです。幕府からの命令書を受け取った讃岐守護である右京大夫(細川満元)は、西讃守護代の「香川帯刀左衛門尉殿」に命令書Bを出しています。命令を受けた天霧城の香川氏が豊島三郎から公文職知行を返却させることになったのでしょう。ここからは次のような命令系統が働いていたことが分かります。
室町幕府 → 讃岐守護・細川満元 → 西讃守護代・香川帯刀左衛門尉 → 豊島三郎へ

という命令系統だったことが分かります。この史料の場合は「土地の打ち渡し」に関する命令書だったようです。年号は応永七(1400)年で、室町時代の初めの頃です。香川氏が細川氏から命令を受ける立場にあったことを確認しておきます。
戦国大名の誕生について|社会の部屋|学習教材の部屋

次は京都の醍醐寺の「三宝院文書」を見てみましょう
C[三宝院文書]
 三宝院御門跡領讃岐国長尾庄事、公田中分を止め、先例に任せ、所務をまっとうせしむべき旨、地頭に相触れらるべきの由候なり。侶て執達くだんのごとし。
 応永十六年九月十七日      聖信(花押)
 安富安芸入道殿(東讃守護代)
意訳変換しておくと
三宝院御門跡領の讃岐国長尾庄について、今行われている公田中分を停止し、先例にもどし、業務を行うように、地頭に通達すること 相触れらるべきの由候なり。侶て執達くだんのごとし。

こんどは東讃の長尾荘の香田中分の停止命令です。送信者は「聖信」とありますが、この人は細川満元の家来で、今風に言えば秘書にあたるようです。最初の文書は守護の細川氏の命令を伝えたもので、宛先は安富安芸入道となっていました。ここで東讃守護代の安富氏が出てきました。安富安芸入道は、法名を宝城と云ったようで、これが安富安芸入道宝城という人物になるようです。彼が安富次郎左衛門入道という人に出したのが次の通信Dです

D  三宝院御門跡領讃岐国長尾庄事、今年十七日の御奉書の旨に任せ、公田中分の儀を止め、先例のごとく、領家所務をまっとうせしむべきの由、地頭沙汰人に相触れらるべきの状くだんのごとし。
  応永十六 九月十八日      宝城(花押)
  安富次郎左衛門入道殿

CとDは「伝言ゲーム」の文面のようなものなので意訳はしません。しかし、送信者と受取人は変化しています。
 以上見てきたように、守護細川氏から西讃に関する命令は、香川氏に行き、東讃に関する命令は安富氏に行くという命令系統が確認できます。同じ細川氏が出す命令でも、讃岐国の東の方の場合には安富氏に命令が行き、西の方は香川氏に行くんだというふうに讃岐は東西に郡で分けて管轄されていたことを確認しておきます。
ここで研究者が注目するのは、これらの文書の日付です。
Cは、主人の細川氏の命令を安富氏が受けたのが9月17日になっています。そして、安富安芸入道が、命令を出しだのが翌日の18日になっています。当時、讃岐と都の間はどんなに急いでも4・5日はかかります。一日で京からの通信が、讃岐の安富氏のもとに届けられることは不可能です。これをどう考えればいいのでしょうか。
「安富安芸入道宝城は、細川氏と同じ京都に居た」と研究者は指摘します。
だから命令を受けて、翌日出せたというのです。つまり、守護と守護代は細川氏の屋形がある京都にいた、安富氏も香川氏も主人の細川氏と一緒に居たということになります。守護代たちも守護の細川氏と同じように讃岐を留守にしていたのです。
管領細川家とその一族 - 探検!日本の歴史

香川・安富両氏のような役割を果たしている人を、守護の代官であることから守護代と呼ぶと教科書にも書かれています


細川氏の場合は管領でもあります。管領は将軍を補佐して政治を執るのが仕事なので、京都に居なければいけません。将軍の補佐役、あるいは将軍の代執行人に当たる存在です。となると、安富と香川の両氏も細川氏に仕えなければならない立場なので京都に滞在することになります。そこで、本国讃岐のことは一族に任せます。これを守護代の又代官だから「守護又代」、単に「又代」とも呼んだようです。こうして都にいる一族と地元にいる一族が次第に分かれていくようになります。細川氏は少ない時で四か国、多い時には数カ国の守護を兼ねていましたから、それぞれの国の守護代がみんな都にいることになります。これを現代風に例えると、一つの会社みたいなもので、守護が社長で、守護代は支店長でなく重役です。重役が社長と別の所にいるわけにいかないので、社長がいる所に重役達も一緒にいることになります。つまり細川カンパニーの重役達が京都の本店に一族を連れて勤務していることになります。そこには和泉担当重役・摂津担当重役・東讃担当重役・西讃担当重役ということになります。

戦国大名の誕生と大名家の国家戦略 | 楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
 一般の守護の場合を見てみると、南九州の島津などは国元にいます。都にいても、将軍が何か仕事をさせてくれるわけじゃありませんから。都に出向く必要がないのです。ところが、細川氏とか斯波氏・畠山氏などは、将軍足利氏の一族なので、一族の長である将軍を補佐する立場にありますから将軍と一緒にいます。そうしたら、この主人を守って補佐する人達も、都に出向いて滞在することになります。
香川氏も安富氏も自分の一族を又代官として讃岐に置いていました。
 実際の讃岐での仕事は、代官の代官すなわち又代官がやっていることになります。つまり、代理人の代理人が職務を遂行していることになります。

以上をまとめておきます
①讃岐は守護であった細川氏がいくつもの守護を兼ねていた上に、幕府の親族として管領として幕政にも参加したので、京都に滞在し、讃岐にいることはほとんどなかった。
②そのため有力武士団である安富・香西・香川なども、主君に従って京都に滞在することが多くなった。
③彼らの中には、讃岐以外の守護代を務める者も現れ、本国よりも京都での利権の方が重くなっていった。
④讃岐の守護代を務めた東讃の安富も、西讃の香川も又守護代に本国当地を任せることが常体化するようになった。
⑤この結果、細川氏一族での内部抗争が激化すると、「細川四天王」と呼ばれた讃岐武士団の中には、うち続く抗争の中で衰退するものも現れた。
⑥そのような中で香川氏は、天霧城を中心に周辺武士団を家臣化し、戦国大名への道を歩みはじめる。
⑦その他の多くの武士団は、阿波三好氏の軍門に降り、その軍団の一部として動き始める。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献      「田中健二 中世の讃岐-郡の変遷-    香川県文書館紀要創刊号 1997年」

   青龍古墳1

前回に青龍古墳は、平地に築造された大きな古墳で、調査前には二重の濠を有すると云われ、前方後円墳とされていました。しかし発掘調査の結果は、青龍古墳に二重の濠はなく、前方後円墳でもないことが分かりました。濠ではなく広い周庭部を持つ珍しい大円墳だったのです。それが後世の改変を受けて、現在のような周壕を持つように見える姿になっていったよです。
まずは、それが明らかになる調査過程を見ておきましょう
調査では、10㎝間隔の等高図と要所にトレンチが何本か掘られます。
青龍古墳トレンチ調査

その結果、第1トレンチ西端の埋土上層から中世の土鍋片が多数、下層からは5世紀代のものと見られる須恵器片が1点と、最下層から埴輪片を含む土師器の小片がでてきました。ここからは5世紀の造成後に中世になって、掘り返されていることが分かります。遺構底部は、周壕と呼ぶほど深くはなく、底部も平坦なのです。これを考え併せると、周濠ではなく周庭を伴う円墳の可能性が出てきました。周庭の底部は東に向かって緩やかに上がり、続けて古墳南側に露出している周堤と外濠、それぞれの延長線上で同じような遺構が出てきます。
 周堤をさらに詳しく踏査すると、崩壊した複数の箇所に中世頃の土器片が見つかります。ここからは外濠及び周堤と考えられていた遺構は、中世の改変で造られたものと推測できます。
DSC03632
青龍古墳の周庭部
 周庭部と考えられる部分の第9トレンチを見てみましょう。上層からは土鍋等、多量の中世遺物が出ています。古墳裾部まで掘っても埴輪片などは出てきません。トレンチの南端では地山が緩やかに上がり、ここに埋土以外の人工的な盛土が確認されています。ここを周庭部端とすると、その幅は11m程です。人工的な盛土は、後世に造られた周堤部のようです。古墳南側から西側にかけて残る周庭部は、かつては水田だったようですが、近年は耕作されておらず湿地化し葦が生えています。ここは湧水量が極めて多く、湧水点も極めて浅くいため湿田であったことが予想できます。
以上を整理しておくと
①青龍古墳は、周囲に浅い周庭をともなう大型古墳であった。
②中世に周庭部などの土を用いて、周囲に周堤を築いた。
③南側の周庭は湧水量が多く、水田化されて利用されてきた
④周庭部の水田の水位調整のために、畝(陸橋)が造られて小さく間仕切り化された。

以上から青龍古墳は5世紀後半に築造された後に、中世に大規模な地形の改変が行われているようです。その改変時期については、遺構から中世の土器片が出土することから、改変されたのは南北朝~戦国時代頃と報告書は推察します。

DSC03652
吉原からの天霧山
「中世の改変」とは、具体的になんなのでしょうか?
 吉原町の北西には、今は石切場となって、かつての姿を失ってしまった天霧山が目の前にあります。ここには西讃岐守護代の香川氏の居城「天霧城跡」がありました。香川氏は阿波の三好氏と対立し、その侵攻に悩まされていたのは以前にもお話ししました。16世紀後半の永禄年間には、善通寺に陣を敷いた三好勢力に対して籠城戦を強いられています。それ以外にも多くの戦闘が行われていて、付近には甲山城跡や仲村城跡等の関連遺跡があります。
青龍古墳と中世城郭

 青龍古墳は、我拝師山から張り出した尾根状地形の先端に更に7mの盛り土がされています。古墳からは周辺に視界を遮るものがないので、古墳北側に作られたテラス状平坦部に立てば正面に天霧山を仰ぎ見ることができたはずです。しかし、天霧城を攻める三好方が攻城拠点として築いた砦ではないようです。なぜなら、砦の正面は南側に、向けて武装強化されています。天霧城の出城的な性格が見られます。どちらにしても、戦国時代の天霧城攻防戦の際に、砦が置かれそのための改変を受けたと報告書は推測します。

青龍古墳地図拡大図
 
青龍古墳を中世の砦を兼ね備えた複合遺跡として考えれば、古墳の外濠とされていた遺構は堀であり、周堤は土塁だったことになります。墳丘の北側平坦部や傾斜地の構造も、納得ができます。城と云うには規模がかなり小さいので砦的なもので、にわか工事で造られた可能性もありますが、史料的に裏付けるものはありません。


一円保絵図 五岳山
善通寺一円保絵図 中央下のまんだら寺周辺が吉原地区

視点を変えれば、青龍古墳は、整然と区画された条里遺構の端にあります。
1307(徳治二)年に作成された「善通寺一円保絵図」(重要文化財)には、善通寺領を含めてこの付近の様子が記されています。この絵図が書かれた頃の善通寺は、曼荼羅寺との寺領境界をめぐる紛争がようやく確定し、新しく多くの所領が編入されました。鷺井神社は立地条件やその特異な構造から、荘園制のもとで神社でありながら他の重要な機能を果たしていた可能性があると報告書は指摘します。
一円保絵図 東部
一円保絵図

  以上をまとめておきます。
①青龍古墳は我拝師山中腹にある曼荼羅寺あたりから平野部に低く派生した尾根の先端を利用し、5世紀後半に築造された巨大な二段築成の円墳である。
②円墳の周囲には浅く削り込み整形した幅の広い周庭帯があることが分かった。周庭帯は傾斜地に造られた墳丘を巡っているため、下方はテラス状地形になっている。
③この時期の古墳は県下では数が少なく、しかも周庭帯を持つ古墳は特異な存在である。
④周濠を有するものも数は少なく、大川町の富田茶臼山古墳の他は善通寺市の菊壕と生野カンス塚、観音寺市の青塚古墳が知られている程度でる。しかもいずれも前方円墳ある。

青龍古墳 碗貸塚古墳との比較
碗貸塚古墳(観音寺市大野原町)との比較

  青龍古墳の広大な周庭部は、規模が大き過ぎます。なんらかの特別な使用目的があった施設なのでしょう。もしそうだとすれば、前方後円墳並みに計画的に造営された古墳であり、それ相当の被葬者が考えられます。
  当時の西讃岐は善通寺周辺を中心に佐伯一族の勢力範囲でした。有岡古墳群がその一代系譜の墓所とされています。それに対して、吉原を拠点とする首長が造った青龍古墳は、佐伯氏から前方後円墳造営に制限を受けていた可能性があることは触れた通りです。そのような関係の中で、特異で凝った周庭を持った円墳が造られたとしておきましょう。
この時に調査目的は青龍古墳の規模や形態の把握であったために、墳丘部の調査は行なわれていないようです。そのため縦穴式石室の構造や副葬品については分かりません。ただ石室は崩壊部分から出ている露出状況から見ると東西方位で、その位置から二基ある可能性もあるが、古い社殿が墳丘上にあったことから破壊されている可能性も報告書は指摘します。
ある。

青龍古墳拡大図3

この調査では、これまで言われて来たような二重の濠を有する前方後円墳ではないことが分かって、残念な気持ちにもなります。しかし、周庭部を含めての全長は78mの円墳で、その規模は大きく、県下では比類ない存在です。その勢力を善通寺王国の首長は配下に組み込んでいたことになります。善通寺王国の形成過程や構造を考える上では、いろいろな手がかりを与えてくれる古墳です。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  秋山家文書は、大永7(1527)年から永禄3(1560)年までの約30年間は空白期間で、秋山氏の状況はほとんど分かりません。しかし、この期間に起きたことを推察すると、次のようになります。
①新たに秋山家の統領となった分家の源太郎死後は、一族は求心力を失い、内部抗争に明け暮れたこと
②調停に入った管領細川に「喧嘩両成敗」で領地没収処分を受け、秋山一族の力は弱まったこと。
③そのような中で、秋山氏は天霧城主香川氏への従属を強めていくこと
 秋山氏の「香川氏への従属化=家臣化」を残された秋山文書で見ていくことにします。 テキストは前回に続いて「高瀬町史」と「高瀬文化史1 中世高瀬を読む 秋山家文書①」です。

  21香川之景感状(折紙)(23・5㎝×45、2㎝)   麻口合戦
1 秋山兵庫助 麻口合戦

 このような形式の文書を包紙と呼ぶそうです。本紙を上から包むもので、さまざまな工夫がされてます。包紙に本紙を入れたあと、上下を持って捻ること(捻封)で、開封されていない状態を示す証拠とされたり、「折封」や「切封」などの方法がありました。包紙に記された「之景感状」とは、当初記されたものではなく、受領者側の方で整理のため後に書き込まれたもののようです。宛人の(香川)「之景」に尊称等が付けられていないので、同時代のものではなく時代を下って書き加えられたものと研究者は考えているようです。

1 秋山兵庫助 麻口合戦2
  読み下し文に変換します。
今度阿州衆乱入に付いて、
去る十月十一日麻口合戦に於いて
自身手を砕かれ
山路甚五郎討ち捕られる、誠に比類無き働き
神妙に候、傷って、三野郡高瀬
郷の内、御知行分反銭並びに
同郡熊岡・上高野御
料所分内参拾石新恩として
合力申し候、向後に於いて全て
御知行有るべく候、此の外の公物の儀は、
有り様納所有るべく候、在所の
事に於いては、代官として進退有るべく候、
いよいよ忠節御入魂肝要に候、
恐々謹言
(香川)
十一月十五日   之景(花押)
秋山兵庫助殿
御陣所
 内容を見ていくことにします
まず見ておくのは、いつ、だれが、だれに宛てた文書なのかを見ておきます。年号がありません。発給者は「之景」とあります。当時の天霧城主で香川氏統領の香川之景のようです。受信者は、「秋山兵庫助殿  御陣所」とあります。
1秋山氏の系図4


秋山氏の系図で見てみると、「兵庫助」は昨日紹介した秋山家分家のA 源太郎元泰の嫡男になるようです。父親源太郎の活躍で分家ながらも秋山氏の統領家にのし上がってきたことは、昨日お話しした通りです。父が1511年の櫛梨山の戦いの活躍で、秋山家における位置を不動にしたように、その息子兵庫助良泰も戦功をあげたようです。
 感状とは、合戦の司令官が、委任を受けた権限の範囲で発給するものです。この場合は、秋山兵庫助の司令官(所属長)は香川之景になっています。ここからは秋山氏が、香川氏の家臣として従っていたことが分かります。
 内容を見ていきましょう
文頭の「今度阿州衆乱入」とは、阿波三好氏の軍勢が讃岐に攻め込んできたことを示しているようです。あるいは、阿波勢の先陣としての東讃の武士団かもしれません。
 「麻口」は、高瀬町の麻のことでしょう。
ここには近藤氏の「麻城」がありました。近藤氏が、この時にどのような動きを見せたかは、史料がないので分かりません。どちらにしても、長宗我部元親の土佐軍の侵攻の20年ほど前に、阿波の三好軍(実態は三好側の讃岐武士団?)が麻口まで攻め寄せてきたようです。その際に、 秋山兵庫助が山路氏を討ち取る戦功をあげ、それに対して、天霧城の香川之景から出された感状ということになります。「御陣中」とありますので、作戦行動中の兵庫助の陣中に、之景からの使者が持ってきて、その場で渡したものと考えられます。この後に正式な論功行賞が行われるのが普通です。

 後半は「反銭」や「新恩」の論功行賞が記されています。
この戦いで勝利を得たのは、どちらなのかは分かりませんが、両軍の雌雄を決するような大規模の戦いでなかったようです。これは、2年後の天霧城籠城合戦の前哨戦のようです。
 それでは、この麻口の戦いがあったのはいつのことなのでしょうか。
『香川県史』8「古代・中世史料編」では、永禄元(1558)年としています。それは『南海通記』に、この年に阿波の三好実休の攻撃を受けた香川氏が天霧城に籠城したことが記されているからです。これは讃岐中世史においては、大きな事件で、これ以後は香川氏は三好氏に従属し、讃岐全域が三好氏の支配下に置かれたとされてきました。『南海通記』の記述を信じた研究者たちは、この文書を永禄元(1558)年の香川氏の籠城戦を裏付ける史料と考えてきたのです。
 しかし、永禄元年に天霧城籠城戦が行われたとする記述は、『南海通記』にしかありません。しかも同書は、年代にしばしば誤りが見られます。秋山文書の分析からは、この文書の年代は、他の史料の検討や之景の花押の変遷などから、永禄三年のものと研究者は考えているようになってきました。
 また、三好側の総大将の実休が、この時には近畿方面で転戦中で四国にはいなかったことも分かってきました。三好軍の讃岐侵入と香川氏の籠城戦は、永禄元(1558)年ではなかったようです。

論功行賞の内容を見ておきましょう
「三野郡高瀬郷の内、御知行分反銭」の「反銭」とは、はじめは臨時の税でしたが、この時代には恒常的に徴収されていたようで、その徴収権です。「熊岡上高野御料所分内参拾石」の三〇石は、収入高を表し、その内の香川氏の取り分を示しています。この収入高は検地を施行するなど、厳密に決められたものではないようです。
「代官として進退あるべく候」とありますので、熊岡や上高野には、秋山氏の一族が代官として分かれ住んだ可能性があります。先ほども確認しましたが、この文書には日付のみで年号がありません。そんな場合は、両者の間の私的な意味合いが濃いとされます。ここからも天霧城主の香川之景と秋山兵庫助が懇意の間柄であったことがうかがえます。
 ここからは秋山氏が細川氏に代わって、香川氏の臣下として従軍していたことが分かります。逆に、香川氏は国人武士たちを家臣化し、戦国大名への道を歩み始めていたこともうかがえます。
 従来は讃岐に戦国大名は生まれなかったとされてきましたが、香川県史では、香川氏を戦国大名と考えるようになっています。

   次に、永禄4年(1561)の香川之景「知行宛行状」を見てみましょう。   
1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」
   
1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」2

書き下し文に変換しておきましょう
今度弓箭に付いて、別して
御辛労の儀候間、三野郡
高瀬郷水田分内原。
樋日、三野掃部助知行
分並びに同分守利名内、
真鍋三郎五郎買徳の田地、
彼の両所本知として、様体
承り候条、合力せしめ候、全く
領知有るべく候、恐々謹言
永禄四
正月十三日
(香川)
之景(花押)
秋山兵庫助殿
御陣所

これも先ほどの感状と同じく、香川之景が秋山兵庫助に宛てた文書で、これは知行宛行状です。これには永禄4(1561)年の年紀が入っています。年号の「永禄四」は付け年号といって、月日の右肩に付けた形のものです。宛て名の脇付の「御陣所」とは、出陣先の秋山氏に宛てていることが分かります。次の戦いへの戦闘意欲を高まるために陣中の秋山兵庫助に贈られた知行宛行状のようです。
  先ほどの麻口の戦いと併せての軍功に対しての次のような論功行賞が行われています。
①高瀬郷大見(現三野町大見)・高瀬郷内知行分反銭と
②熊岡・上高野御料所分の内の三〇石が新恩
③高瀬郷水田分のうち原・樋口にある三野掃部助の知行分
④水田分のうち守利名の真鍋三郎五郎の買徳地
以上が新恩として兵庫助に与えられています。
 水田名は大永7(1527)年に、幸久丸(兵庫助の幼名?)が阿波の細川氏の書記官・飯尾元運から安堵された土地でした。それが30年の間に、三野掃部助の手に渡っていたことが分かります。つまり、失った所領を兵庫助は、自らの軍功で取り返したということになります。兵庫助は、香川氏のもとで軍忠に励み、旧領の回復を果たそうと必死に戦う姿が見えてきます。この2つの文書からは、侵入してくる阿波三好勢への秋山兵庫助の奮闘ぶりが見えてきます。
しかし、視野をもっと広くすると讃岐中世史の定説への疑いも生まれてきます。
従来の定説は、永禄元(1558)年に阿波の三好氏が讃岐に侵攻し、天霧城攻防戦の末に三豊は、三好氏の支配下に収められたとされてきました。
しかし、それは秋山文書を見る限り疑わしくなります。なぜなら見てきたように、永禄3・4年に香川之景が秋山氏に知行宛行状を発給していることが確認できるからです。つまり、この段階でも香川氏は、西讃地方において知行を宛行うことができたことをしめしています。永禄4(1561)年には、香川氏はまだ西讃地域を支配していたのです。この時点では、三好氏に従属したわけではないようです。
 この文書で秋山兵庫助に与えられているのは、かつての三野郡高瀬郷の秋山水田(秋山家本家)が持っていた土地のうちの原・樋口にある三野掃部助の知行分と、同じく水田分のうち守利名の真鍋三郎五郎買得の田地のニカ所です。
 宛行の理由は「今度弓箭に付いて、別して御辛労の儀」とあるとおり、合戦の恩賞として与えられています。合戦の相手は前年の麻口の戦いに続いて、阿波の三好勢のようです。香川氏の所領の周辺に、三好勢力が現れ小競り合いが続いていたことがうかがえます。三好軍が丸亀平野に侵入し、善通寺に本陣を構え、天霧城を取り囲んだというのは、これ以後のことになるようです。
それでは天霧城の籠城戦は、いつ戦われたのでしょうか。
それは永禄6(1563)年のことだと研究者は考えているようです。
三野文書のなかの香川之景発給文書には、天霧龍城戦をうかがわせるものがあります。
永禄6(1563)年8月10日付の三野文書に、香川之景と五郎次郎が三野勘左衛門尉へ、天霧城籠城の働きを賞して知行を宛行った文書です。合戦に伴う家臣統制の手段として発給されたものと考えられます。
『香川県史』では、この文書について次のように記します。
「籠城戦が『南海通記』の記述の訂正を求めるものなのか、またその後西讃岐において別の合戦があったのか讃岐戦国史に新たな問題を提起した」

 この永禄6年の天霧龍城こそ『南海通記』に記述された実休の讃岐侵攻だと、研究者は考えているようです。
 この当時、香川氏の対戦相手は、前年に三好実体が死去していることから、三好氏家臣の篠原長房に率いられた阿波・東讃連合勢になります。善通寺に陣取った三好軍に対して、香川氏が天霧城に籠城するようです。従来の説よりも5年後に、天霧城籠城戦は下げられることになりそうです。
 永禄8(1565)年には、秋山家は兵庫助から藤五郎へと代替わりをしています。
天霧寵城戦で、兵庫助か戦死して藤五郎に家督が継承されたことも考えられます。その後、天正5(1577)年まで秋山文書には空白の期間がります。この間の秋山氏・香川氏の動向は分かりません。この時期の瀬戸内海の諸勢力は、織田政権と石山本願寺・毛利氏との抗争を軸に、どちらの勢力につくのかの決断を求められた時代でした。
以上をまとめておくと次のようになります
秋山氏は鎌倉末期には足利尊氏、南北期には細川氏と勝ち馬に乗ることによって勢力を拡大してきました。しかし、16世紀初頭の細川氏の内部抗争に巻き込まれ、秋山一族も一族間で相争うことになり、勢力を削られていきます。そして、16世紀後半になると戦国大名に成長脱皮していく天霧城主・香川氏に仕えるようになっていきます。そして、失った旧領復活と生き残りをかけて、必死の活動を戦場で見せる姿が秋山文書には残されていました。
 同時に秋山文書からは、阿波三好氏の西讃進攻や支配が従来よりも遅い時期であること、さらに香川氏を完全に服従したとは云えず、西讃地方までも支配下に治めたとは云えないことが分かってきました。
以上です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
高瀬町史
高瀬文化史1 中世高瀬を読む 秋山家文書①

 海民から海賊へ、そして海の武士へ
  室町期に活発化するのが海民の「海賊」行為です。その中で「海の武士」へ飛躍したのが芸予諸島能島の村上氏です。このような「海賊=海の武士団」のような性格の勢力は讃岐にもいました。それが多度津白方や詫間を拠点とした山地氏のようです。 今回は讃岐の海賊・山地氏を探ってみましょう。テキストは「田中健二 中世讃岐の海賊について 白方の山路氏」 香川県文書館紀要」です 

塩の荘園弓削(ゆげ)庄を押領した海賊たち
 海賊行為は南北朝の動乱の中で活発化します。
芸予諸島の弓削島は、塩の荘園として京都の東寺の荘園でした。しかし、南北朝以後になると小早川氏が芸予諸島に進出しはじめ、荘園領主東寺と対立するようになります。このような在地勢力の「押領」に対して、東寺は、さまざまな手段で対抗します。貞和五(1349)年には、室町幕府に訴えて、二名の使節を島に派遣し、荘園下地を獲得することに成功しています。それに要した費用を計算した算用状の中に、能島村上氏が次のように登場します。

野島(能島)酒肴料、三貫文」

これは、野(能)島氏の警固活動に対する報酬と研究者は考えているようです。 このように能島村上氏の先祖は、荘園を警固する海上勢力の姿で記録に残っています。

3弓削荘1
 ところが約百年後の康正二(1456)年には、村上氏は押領側として、次のように記されています。
東寺百合文書 『日本塩業大系史料編』古代・中世一〔康正三年(1456)村上治部進書状〕
弓削島之事、於此方近所之子細候間、委存知申候、左候ほとに、(あきの国)小早河少泉方、(さぬきの国しらかたといふ所二あり)山路方、(いよの国)能島両村、以上四人してもち候、小早河少泉、山路ハ細河殿さま御奉公の面々にて候、能島の事ハ御そんちのまへにて候、かの面々、たというけ申候共、御さいそく二よつて公物等をもさた申候ハヽ、少分にても候へ、とりつき可申候
 ここには、応仁の乱の直前にの1456(寛正3)年に、島の経営を任されていた東寺の僧が弓削島から塩が納入されない背景を報告しています。その理由として挙げているのが、周辺勢力のからの押領です。押領者として挙げているのが次の3者です
①(あきの国)小早河少泉(小泉)氏
②(さぬきの国しらかたといふ所二あり)山路(山地)氏、
③(いよの国)能島両村(村上氏)
  5年後にも、次のような記録があります
東寺百合文書 『日本塩業大系史料編』古代・中世一 〔弓削島庄押領人交名案〕
一、弓削島押領人事、①小早川小泉方、③能島方、②山路方三人押領也、此三人内小泉専押領也、以永尊口説記之、寛正三年(1462)五十七

①の小早川少泉(小泉)氏は、後の毛利元就の息子隆景が養子として入ってきて、大大名に成長していく小早川氏の一族です。小早川氏が三原を拠点に、東寺の荘園を横領しながら芸予諸島に勢力を伸ばしていく様子がうかがえます。
③は能島ですから能島村上氏のことです。後の海賊大将といわれる村上武吉が登場してくる所です。
京都・東寺献上 弓削塩|弓削の荘

 安芸国の小早川氏の庶家小泉氏、能島村上氏と共に、讃岐国の山地氏は弓削荘を「押領」している「悪党=海賊」と東寺に訴えられています。村上氏は百年前には警固役だったのが、応仁の乱の前には押領(海賊)側になっています。ここからはこの時代の「海賊」には、次の二つの顔があったことがうかがえます。
   ①荘園領主の依頼で警固をおこなう護衛役(海の武士)
 ②荘園押領(侵略)を行う海賊
 香川県の研究者が注目するのが「(さぬきの国しらかたといふ所二あり)山路(山地)方」です。
この「さぬきの国しらかた」とは、現在の多度津町白方のことです。ここからは15世紀後半の讃岐多度津白方に、山地氏という勢力がいたこと、芸予諸島にまで勢力を伸ばして弓削島を横領するような活動を行っていたことが分かります。そのためには海軍力は不可欠です。山地氏も「海賊」であったようです。

3 天霧山4
  香川氏の天霧城

 気になるのが白方の山地氏と多度津の香川氏の関係です。
香川氏は、讃岐守護細川氏の下で西讃の守護代を務めていました。居館を現在の多度津桃陵公園に置き、堅固な山城を天霧山に築いて丸亀平野や三野平野に睨みをきかせていました。山地氏の拠点白方は、そのお膝元になります。

3白方Map

 白方は、弘田川河口にあった古代多度郡の港です。
古代善通寺勢力の外港は白方港でした。盛土山古墳を初めとする古墳群が港周辺の小高い丘に並びます。弘田川の堆積作用を受けて、港としての機能が低下し、ラグーンの入江奥の堀江港にその地位を譲ります。堀江港の管理センターの役割を果たしたのが四国霊場道隆寺だったことは以前にもお話ししました。

3 堀江

 戦国時代の末期に、信長との石山合戦の戦局打開のために毛利軍が讃岐に押し寄せてきます。信長方の阿波三好勢力と元吉(櫛梨)城をめぐって戦った元吉合戦ですが、その際に毛利軍が上陸してきたのは堀江港でした。桃陵公園下の多度津の港が本格的に活動を始めるのは近世以後のようです。多度郡の港は 
①古代 白方港 → ② 中世 堀江港 → ③近世 多度津
と変遷していることは以前にお話ししました。

3 天霧山5

   話を山地氏と香川氏の関係に戻しましょう
 瀬戸内海の海の関所の通行記録である『兵庫北関入船納帳』には、多度津港を母港とする船も記録されています。多度津の船は、香川氏管理下にあって、京都在住の守護細川氏にいろいろなものを送り届けたので免税扱いとなっています。ここで注意したいのは、守護代香川氏の便船を動かしていた船乗りたちは、どんな海民たちだったかということです。第1候補は、白方を拠点とする山地氏ではなかったのかと研究者は考えているようです。
 以上から推察できることをまとめておきます。
①山地氏は詫間城を本拠にしながら、香川氏の配下として天霧城の外港である白方を守っていた
②山地氏は香川氏の水軍の指揮官で、近世の船手に当たる存在だった。
3 天霧山2

研究者は、山地氏について史料的に次のように裏付けます
  『讃陽古城記』香川叢書二
一、同池戸村(三本松)中城跡 安富端城也、後二山地九郎右衛門居之、山地之先祖者、山地右京之進、詫間ノ城ノ城主ニシテ、三野・多度・豊田三郡之旗頭ノ由
一、三野郡詫間村城跡 山地右京之進、三野・多度・豊田三郡之旗頭ナリ、後香川山城守西旗頭卜成、息山地九郎左衛門、三木郡池戸村城主卜成、香川信景右三郡之旗頭卜成、生駒家臣三野四郎左衛門先祖也
意訳すると
三本松の池戸村の中城跡は安富城の枝城で、後に山地九郎右衛門が居城とした。山地氏の先祖は、山地右京之介で詫間城の城主で、三野・多度・豊田三郡の旗頭役であったという。
三野郡詫間村の城跡は、山地右京進の城で三野・多度・豊田三郡の旗頭で、後に西讃守護代の香川氏の配下になった。息子の山地九郎左衛門は三木郡池戸村の城主となり、香川信景の旗頭であった。これが生駒家の重臣三野四郎左衛門の先祖である。
『翁嘔夜話』讃州府志の三野郡の項目
山地右京進城
在詫間、至山地九郎左衛門、徒千三木郡池戸城、天正十三年没、其臣冒姓、子孫於今為庶、秋山、山地泣原甲州人、従細川氏而来
意訳すると
 山地右京進の城は詫間にあり、山地九郎左衛門の時に、三木郡池戸城に移った。天正十三年の戦役で没落し、一族は下野した。秋山・山地氏は、もともとは甲州出身で、守護の細川氏とともに讃岐にやって来た

以上のように近世になって書かれた上の二つの資料からは、次のようなことが読み取れます。
①山地氏は甲斐国出身の武士で、右京進の時に三野郡詫間城が本拠
②山地右京進の時に、西讃守護代の香川氏の配下へ
③その子の九郎左衛門の時に、三木郡池辺城へ移動
④山地氏は、秀吉の四国制圧で没落
⑤生駒氏に重臣として登用された三野四郎左衛門は山地氏の子孫
疑問になるのは、どうして山地氏が詫間から三本松へ移されたかです。それはひとまず置いておいて先に進みます。
山地氏が香川氏の臣下となったとありますが、別の資料で確認します。
「壼簡集竹頭」所収文書 東京大学史 高知県立図書館原蔵
〔香川信景感状写〕
去十一日於入野庄合戦、首一ツ討捕、無比類働神妙候、猶可抽粉骨者也、
天正十一年五月二日           信景
山地九郎左衛門殿
(注記)
高知山地氏蔵、按元親庶子五郎次郎、為讃州香川中書信景養子、後因病帰土佐、居豊岡城西小野村、元親使中内藤左衛門・山地利奄侍之、此九郎左衛門香川家旧臣也、利奄蓋九郎左衛門子手、
  この文書は、注記に見えるように、香川氏と共に高知に亡命した山地家に残されていたものです。内容は天正11年(1583)4月21日に行なわれた大内郡入野庄での合戦で、山地九郎左衛門が挙げた軍功を香川信景が「首一ツ討捕、無比類働神妙候」と賞したものです。ここからは山地氏が香川氏の配下にあったことが分かります。
 この中に見える九郎左衛門は『讃陽古城記』と『翁嘔夜話』から山地右京進の息子で、三木郡池戸城へ移り天正十三年に没したと記されていた九郎左衛門と同一人物のようです。山地家は右京進のあとは、九郎左衛門と左衛門督の二家があり、九郎左衛門の子孫は香川信景の養子に従い土佐へ亡命し、左衛門督の子孫は讃岐に残ったようです。
 讃岐に残った一族が、先ほど資料で見た「生駒家で重臣に登用された三野四郎左衛門」の祖先になります。 
 山地氏も香川氏の家臣団に編入されていたことが分かります。

 山地氏は海賊であると同時に、香川氏の「水軍」部隊として活躍していたことが分かります。
九郎左衛門が詫間から三木郡へ移住したのも、香川氏の命令だったのでしょう。当時の香川氏の課題は、東讃の十川氏や阿波の三好氏と対立をどう有利に運ぶかでした。そのために海軍力を持ち機動性の高い山地氏を東讃に送り込んだと研究者は考えているようです。この文書では九郎左衛門が大内郡で戦い、その論功行賞を香川氏が行っています。戦った相手は、十川氏や三好氏だったのではないでしょうか。

3 天霧山からの庄内半島
天霧城より望む備後福山方面

山地氏が香川氏直属の海軍として、あるいは輸送部隊として活躍したと推察できる資料として、研究者は次の資料を挙げます。
18世紀初頭の『南海通記』の「細川晴元継管領職記」で、今からちょうど500年前のことが次のようにあります。
永正十七年(1520)6月10日細川右京大夫澄元卒シ、其子晴元ヲ以テ嗣トシテ、細川讃岐守之持之ヲ後見ス。三好筑前守之長入道喜雲ヲ以テ補佐トス。(中略)
讃岐国ハ、(中略)細川晴元二帰服セシム。伊予ノ河野ハ細川氏ノ催促二従ハス.阿波、讃岐、備中、土佐、淡路五ケ国ノ兵将ヲ合セテ節制ヲ定メ、糧食ヲ蓄テ諸方ノ身方二通シ兵ヲ挙ルコトヲ議ス。其書二曰ク

出張之事、諸国相調候間、為先勢、明日差上諸勢候、急度可相勤事肝要候ハ猶香川可申候也、謹言
七月四日               晴元
西方関亭中

  此書、讃州西方山地右京進、其子左衛門督卜云者ノ家ニアリ。此時澄元卒去ョリ八年二当テ大永七年(1527)二(中略)
細川晴元始テ上洛ノ旗ヲ上ルコト此ノ如ク也。
この史料は、管領細川氏の内紛時に晴元が命じた動員について当時の情勢を説明した内容で3段に分けることが出来ます。
 まず一段は澄元の跡を継いだ晴元が、父の無念を晴らすために上洛を計画し、讃岐をはじめとする5ケ国に動員命令を出し、準備が整ったことを記します。
 第2段に「書二曰ク」と晴元書状を古文書から引用します。その内容は
「京への上洛について、諸国の準備は整った。先兵として、明日軍勢を差し向けるので、急ぎ務めることが肝要である。香川氏にも申し付けてある」
 というのですが、これだけでは何のことかよく分かりません。
発給元は細川晴元 宛先は「西方関亭中」とあります。これも謎です。最後に晴元書状については、
「この書、讃州西方山地右京進、その子左衛門督と云う者の家にあり」と注記しています。ここから、この文書が山地氏の手元に保管されていたことが分かります。

 宛先の「西方関亭中」とは誰のことでしょうか。
研究者や次のように解読していきます。
中世の讃岐国で「西方」と呼ばれるのは、室町時代以降は、両守護代安富・香川両氏の管轄地をそれぞれ東方、西方と呼んでいるようです。つまり、西讃地方の「関亭中」となります。
それでは「関亭中」とは何のことでしょうか。
宛先の「○○中」の表記は、たとえば、名主中、年寄中のようにある集団を指すようです。現在の「○○御中」と同じ使い方です。最後に残ったのは「関亭」です。これは、「関立」の誤読だと研究者は指摘します。それでは「関立」とは何でしょうか.
「関立」については、山内譲氏が『海賊と海城』(平凡社選書一九九七)の第六章「海賊と関所」に次のように説明しています。
①中世は「関」「関方」「関立」は海賊の同義語
②海賊は「関」「関方」「関立」と呼ばれ遣明船の警護や荘園の年貢請負などを行っていた。
③彼らは関所で、通行料「切手・免符」や警護料に当たる「上乗り」を徴収していた。
「関立」(海賊)を「山立」(山賊)と比較すると、「山立」は縄張りとしている山を通行する人々から「山手」という通行料を徴収します。それに対して「関立」は「海手」を徴収します。つまり「関立」は海に設けられた「関」で、通行料を徴収することから関立という名前で呼ばれたようです。
 「関立」とは海賊のことのようです。
ちなみに、小豆島の明王寺釈迦堂の瓦銘には「児島中、関立中」と刻まれています。これは、今風に訳すると、児島中は備前児島の海賊、そして関立中は小豆島の海賊ということになります。小豆島にも海賊=海の武士集団がいたようです。

 宛先の「西方関亭中」は「西方関立中」で「西讃の海賊へ」ということになります。
そして、書状が山地家に保管されていました。これは「西方関亭中=山地氏」ということでしょう先ほどの細川晴元の書状を「超意訳」すると
「軍勢の準備が出来たので、明日そちらに向かわせる。輸送船を準備し早急に瀬戸内海を渡り畿内に輸送するように命じる。このことは香川氏の了解も得ている。
ということになります。
 ここからは 
①守護細川氏 → ②守護代香川氏 → ③水軍 山地氏
という封建関係の中で、山地氏が香川氏の水軍や輸送船として活動し、時には守護細川氏の軍事行動の際には、讃岐武士団の輸送船団としても軍事的な役割を果たしていたことが見えてきます。
 讃岐には塩飽の島々以外にも、海賊はいたようです。

以上をまとめておくと
①山地氏は、塩の荘園弓削庄を押領する海賊であった
②一方で詫間城主として、西讃守護代香川氏に仕える「海の武士団」でもあった
③山地氏は香川氏の海軍・輸送船団として、管領細川氏の軍事行動を支えた。
④山地氏の拠点港としては、天霧城の麓の白方港が考えられる。
⑤山地氏は香川氏の対三好・十川戦略のために三本松に拠点を構え戦った
⑥長宗我部の讃岐侵攻の際には、香川氏と共にその先兵を務めた
⑦秀吉の四国制圧で、山地氏の本家は香川氏について高知に亡命した
⑦山地氏の分家は、讃岐に留まり生駒藩では重臣として登用されるものもいた。
おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
橋詰茂 「室町後期讃岐国における港津支配」    四国中世史研究1992年
田中健二「中世讃岐の海賊について 白方の山路氏」 香川県文書館紀要
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