瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:天霧城主

   南海治乱記と南海通記

『南海治乱記』『南海通記』は、香西氏の流れを汲む香西成資が、その一族顕彰のために書かれた記物風の編纂書です。同時に道徳書だと研究者は評します。この両書はベストセラーとして後世に大きな影響を与えています。戦後に書かれた市町村史も戦国時代の記述は、南海通記に頼っているものが多いようです。しかし、研究が進むにつれて、記述に対する問題がいろいろなところから指摘されるようになっています。今回は「香川民部少輔」について見ていくことにします。
テキストは「唐木裕志 戦国期の借船と臨戦態勢&香川民部少輔の虚実  香川県中世城館分布調査報告書2003年435P」です。
  西讃の守護代は多度津に館を置き、その背後の天霧山に山城を構えたとされます。香川氏のことについては以前にもお話しした通り、今に伝わる系図と資料に出てくる人物が合いません。つまり、史料としてはそのままは使えない系図です。
そのような中で、南海通記は香川氏の一族として阿野郡西庄城(坂出市)に拠点を置いた「香川民部少輔」がいたと記します。
長くなりますがその部分をまずは、見ていくことにします。
        53『南海通記』巻十三 抜三好存保攻北條香川民部少輔記
元亀年中二好存保讃州ノ諸将二命シテ、香川民部少輔ガ居城綾北條西庄ノ城ヲ囲ム、北條香川(昔文明年中細川政几優乱ノ時香西備中守二同意セズシテ細川澄元阿州ョリ上洛ヲ待タル忠義二依テ本領安賭シ、北條城付ノ知行ヲ加増二賜シカハ、是ヨリ細川三好世々上方二所領有テ相続シ来ル処二、今度信長公京都二入リテ、三好氏族家人ヲ逐フテ其所領ヲ奪ハル、是二依テ公方義昭公ノ御方人トシテ世二立ンコトワ欲ス。其才覚アルコトフ上方ノ三好家ヨリ三好存保ニ告ヶ来ル、是二因テ存保近隣ノ諸将二命シテ、西ノ庄ノ城ヲ囲マシム。香西伊賀守陣代久保三郎四郎吉茂、兵卒千人余を掲げて馳向フ。 羽床伊豆守、長尾大隅守、奈良太郎左衛門、安富寒川人千余人北條二来陣ス。香西陣代久利二郎四郎ハ西庄ノ城東表ヲ囲ム。

意訳変換しておくと
『南海通記』巻十三  三好(十河)存保の北條香川民部少輔・西庄城記攻防戦記

織田信長が上洛を果たした元亀年中(1570~73年)、三好(十河)存保が讃州の諸将に命じて、香川民部少輔の居城である綾北條郡の西庄城を囲んだ。①北條香川氏は文明年中(1469~87年)の細川政元の優乱の時に、香西備中守に反旗を翻して、阿波の細川澄元の上洛を支援した論功行賞で本領が安賭され、さらに北條城周辺の知行が加増された。
 細川・三好家は畿内に所領を以て相続してきたが、織田信長の上洛によって、三好一族は畿内の所領を奪われた。そんな時に公方義昭公が自立の動きを見せて、上方ノ三好家から三好存保に対して支援を求めてきた。そこで、②存保は近隣の諸将に命じて、香川民部少輔の西庄城を包囲させた。香西伊賀守の陣代である久保三郎四郎吉茂は、兵卒千人余を率いてこれに向かい、羽床伊豆守、長尾大隅守、奈良太郎左衛門、安富寒川氏など8千人余りが北條城を包囲して陣を敷いた。この時に香西陣代の久利三郎四郎は、西庄城東表を囲んでいたが、
永世の錯乱3

         讃岐武将の墓場となった永世の錯乱
①北條香川氏が阿野北平野の西庄城を領有するようになったのは「文明年中(1469~87年)の細川政元の優乱の時に、香西備中守に反旗を翻して、阿波の細川澄元の上洛を支援した論功行賞で本領が安賭され、西庄城周辺の知行が加増」のためと説明されています。確かに、この時の騒乱で香川氏や香西氏の棟梁達は討ち死にして、在京の讃岐勢力は壊滅的状態に追い込まれたことは以前にお話ししました。永世の錯乱が讃岐武将の墓場と言われる由縁です。

永世の錯乱2

この史料をそのまま信じると、永世の錯乱の敗者となった西氏や香川氏の勢力が弱まる中で、
勝ち組の阿波守護細川澄元についたのが北條香川氏になります。そして阿野北平野の西庄城を得たということになるようです。「中央での永世の錯乱を契機に讃岐は他国にさきがけて一足早く戦国時代を迎えた」と研究者は考えています。それが阿波の細川澄元やその家臣の三好氏の讃岐への勢力伸長を招く結果となります。その一環として細川澄元や三好側についた香川氏一族が領地を増やすというのはあり得ない話ではありません。それが具体的には香西氏の勢力範囲であった阿野北平野への進出の契機となったということでしょうか。しかし、これには問題点があります。香川一族と三好氏は犬猿の仲です。香川氏の基本的な外交戦略は「反三好」で一貫しています。長宗我部元親の侵入の際にも、対応は分かれます。最後まで両者が手をむすんだことはありません。こうしてみると、香川氏の一族の北条香川氏が細川澄元や三好側についたというのは、すぐには信じられないことです。

次の部分を見ていくことにします。
七月十三日ノ夜月明ナルニ東ノ攻ロヨリ真部弥助祐重、堀土居ヲ越テ城中ニ入り、大音ヲ揚テ名ノリ敵ヲ招ク、城中ノ兵弥介二人トハ知ラズシテ大二騒動シ手二持タル兵刃足二踏ム所ヲ知ズ混乱ス。城中ノ軍司栂取彦兵衛友貞卜名乗テ亘り合ヒ鎗ヲ合ス、弥介戦勝テ構取彦兵衛ヲ討取り、垣ヲ越テ我陣二帰ル。諸人其意旨ヲ知ラズシテ陣中驚キ感ズ。翌日城門ヲ開キ出テ駆合ノ戦有、香川家臣宮武源三兵衛良馬二乗り一騎許り馬ノ鼻ヲ並テ駆出ス。其騎二謂テ日、必ズ馬ヨリ下リ立テ首渡スベカラス。敵ノ背二乗リカケテ一サシニ駆破り引取ルヘシ城門ニハ待受ノ備アリト云間カセテ早々引取シカハ寄手モ互二知レ知リタル、朋友ナレバ感之卜也。然処二寄手大軍ナレバ城中ヨリ和ヲ乞テ城フ明渡ス。家人従類フ片付テ其身従卒廿人許り召具シ甲冑ヲモ帯セス、日来白愛ノ鷹フ壮ニシテ出デバ、敵モ見方モ佗方二非ズ、隣里ノ朋友ナレバ涙ヲ流サヌ者ハナシ.然シテ民部少輔ハ松力浦ヨリ船二乗り塩飽ノ広島へ渡り、舟用意シテ備後ノ三原二到り、小早川隆景二通シテ、帰郷ノコトワ頼ミケルトナリ。

意訳変換しておくと
七月十三日に夜の月が出て明るくなる頃に、東の攻から真部弥助祐重が只一人で堀土居を越えて城中攻め入り、大声をあげて名乗って敵を招いた。城中の兵は弥介一人とは分からずに、大騒ぎになり手に持った兵刃を踏むなどして混乱に陥った。城中の軍司栂取彦兵衛友貞が名乗り出て、互いに鎗を合わした。その結果、弥介が勝って栂取彦兵衛を討取り、垣を越て我陣に帰ってきた。陣中では、この行為に驚き感じいった。翌日には、城門を開いて討って出てきたので、騎馬戦が展開された。香川家臣の宮武源三兵衛は良馬に乗って、10騎ほどの馬が鼻を並べて駆出す。その時に臣下に「馬から下りて戦ってはならない。敵の背に乗りかけて一差しすれば、ただちに城門に引き返すべし。城門には敵を待ち受ける仕掛けを講じている」と。しかし、寄手側もその気配を察知して、策にははまらない。
 こうして大軍の寄せ手に対して、北條香川氏は和を乞うて城を明渡すことになった。家人や従類を落ちのびさせて、その身は従卒20人ばかりと、甲冑もつけないで、日頃から可愛がっていた鷹狩りの鷹を胸に抱いて城を後にした。この時には、隣里の朋友という間柄なので敵も見方も区別なく涙をながさない者はいなかった。こうして香川民部少輔は松カ浦から船に乗って、塩飽の広島へ渡り、そこで舟を乗り換えて備後に向かった。そして、小早川隆景に讃岐への帰郷復帰の支援を求めた。
この前半部は軍記ものには欠かせない功名物語が書かれています。ここで注目したいのは最後の部分です。攻防戦の結果、香川民部少輔は船に乗って三原に渡り、小早川隆景に讃岐への帰郷復帰の支援を求めたとあるところです。その続きには次のように記します。
毛利家ノ記曰く、公方義昭公御内書ヲ賜テ日香川帰郷ノコト頼被成ノ間早々可被相催候、阿波三好事和平フ願可申入候、然就承引不可有候、畿内三好徒堂¨大半令追状候者也.隆景其旨二応ジ、浦兵部太輔井上伯者守二五千余人ヲ附シテ、大船三百余艘二取乗五月十二日三原ヲ発シ、讃州松ケ浦並鵜足郡鵜足津二着岸ス。然シテ西ノ庄ノ城二押寄スル処二、香西伊賀守番勢ノ者トモ城ヲ明テ引去ル。香川ヲ西ノ庄ノ城へ入城セシメ元ノ如ク安住ス.中国ノ兵将香川ヲ本地へ還附
   然トモ敵ハ五千人地衆ハ五百人ナレバ相対スベキ様モナシ。地衆兵引テ綾坂ノ上二旗ヲ立テ相侍ツ。敵モ功者ナレバ川ヲ越エズシテ引去ル。六月一日二中国ノ兵衆二百余人ヲ西ノ庄二残シ置キ、総軍三原二帰ル。是ョリ香川民部少輔ハ毛利家ノ旗下トシテ中国フ後援トスル也。備後ノ三原ハ海上十里二過ズシテ行程近シ、国二事アル時ハ一日ノ中二通ス。故二国中ノ諸将侮ルコトフ得ザル也。
意訳変換しておくと
その当たりの事情を毛利家の記録には次のように記す。公方義昭公は将軍内書を発行して、香川氏の帰郷を支援することを毛利氏に促す一方で、阿波三好氏に対しては、両者の和平交渉を求める書状を送ったが、これは実現しなかった。
 これに対して、小早川隆景は義昭の求めに応じて、浦兵部の太輔井上伯者守に五千余人を率いらせて、大船三百余艘で五月十二日に三原を出港し、讃州松ケ浦や鵜足郡鵜足津に着岸した。そして西庄城に攻め寄せた。これに対して、香西伊賀守の守備兵たちは城を開けて引き去っていた。そこで香川氏は西庄城へ入城して、元のように安住することになった。一方毛利家の兵将は、香川氏を西庄城に帰還させ、その余勢で阿野南条郡にも勢力を拡大させようと、綾川周辺にも押し出そうとした。これに対して、周辺の地侍達は綾坂に守備陣を敷いた。ちょうど季節は5月の長雨時期で、綾川の水量が増え、川を渡ることが出来ずに双方共に綾川を挟んでのにらみ合いとなった。しかし、500対5000という兵力差はいかんともしがたく、地侍衆は兵を引いて綾坂の上に旗を立て待ち受けた。これに対して、敵(小早川軍)も戦い功者で、川を渡らずに引下がった。
 6月1日に中国の兵衆二百余人を西庄に残して、総軍が三原に帰った。これから香川民部少輔は毛利家の旗下として中国(毛利氏)の傘下となった。備後・三原は海上十里ほどで海路で近い。なにか事あるときには一日の内に報告できる。こうして、香川民部少輔は讃岐中の諸将から一目置かれる存在となった。

ここには次のようなことが記されています。

①将軍義昭が対信長包囲網の一環として、香川民部少輔の讃岐帰還を毛利氏に働きかけた
②その結果、毛利配下の小早川軍5000が
香川民部少輔の西庄城帰還を支援し、実現させた。
③以後、香川民部少輔は毛利・小早川勢力の讃岐拠点として、周囲の武将から一目置かれる存在となった。
この話を読んでいると、元吉(櫛梨城)合戦とストーリーが基本的に一緒な事に気がつきます。考えられる事は、元吉合戦から100年後に書かれた南海通記は、古老達の昔話によって構成された軍記ものです。話が混同・混戦しフェイクな内容として、筆者によって採録され記録されたようです。

香西成資が「香川民部少輔伝」について記している部分を一覧表化したものを見ておきましょう。
香川民部少輔伝
香川民部少輔伝(南海通記)
香川民部少輔は永正の政変(政元暗殺)以降の初代讃岐守護代香川氏の弟であるようです。彼が西庄を得たことについては、表番号①に永正4(1507)年の政変(政元謀殺)の功によって、細川澄元から西庄城を賜うと記します。しかし、永世の政変については以前にお話ししたように、政情がめまぐるしく移りかわります。そして、細川氏の四天皇とされる香西氏や香川氏の棟梁たちも京都在留し、戦乱の中で討ち死にしています。ここで香西氏や香川氏には系図的な断絶があると研究者は考えています。どちらにして、棟梁を失った一族の間で後継者や相続などをめぐって、讃岐本国でも混乱がおきたことが予想されます。これが讃岐に他国よりもはやく戦国時代をもたらしたといわれる由縁です。そのような中で「細川澄元から西庄城を賜う」が本当に行われたのかどうかはよくわかりません。またそれを裏付ける史料もありません。
表番号2には、香西氏傘下として従軍しています。
そして、阿波の細川晴元配下で各方面に従軍しています。表番号6からは、香西氏配下として同族の天霧城の香川氏を攻める軍陣に参加しています。これをどう考えればいいのでしょうか。本家筋の守護代香川氏に対して、同族意識すらなかったことになります。このように香川民部少輔の行動は、南海通記には香西氏の与力的存在として記されていることを押さえておきます。
最大の疑問は、香川氏の有力枝族が阿野郡西庄周辺に勢力を構えることができたのかということです。
これに対して南海通記巻十九の末尾に、香西成資は次のように記します。
「綾南北香河東西四郡は香西氏旗頭なるに、香川氏北条に居住の事、後人の不審なきにしも非ず、我其聴所を記して後年に遺す。世換り時移て事の跡を失ひ、かかる所以を知る人鮮かられ歎、荀も故実を好む人ありて、是を採る事あらば実に予が幸ならん、故に記して以故郷に送る。」
  意訳変換しておくと
「綾南・北香河・東西四郡は香西氏が旗頭となっているのに、香川氏が北条に居住するという。これは後世の人が不審に思うのも当然である。ここでは伝聞先を記して後年に遺すことにしたい。時代が移り、事績が失われ、このことについて知る人が少なくなり、記憶も薄れていくおそれもある。故実を好む人もあり、残した史料が参考になることもあろう。そうならば私にとっては実に幸なことである。それを願って、記して故郷に送ることにする。」

ここからは香西成資自身も香川氏が阿野郡の西庄城を居城としていたことについては、不審を抱いていたことがうかがえます。南海通記は故老の聞き取りをまとめたとするスタイルで記述されています。しかし「是を採る事あらば実に予が幸ならん」という言葉には、なにか胡散臭さと、香川民部少輔についての「意図」がうかがえると研究者は考えています。

香川民部少輔の年齢と、その継嗣について
南海通記には、香川民部少輔が讃岐阿野北条郡西庄城を与えられたのは、永正4年(1507)と記します。そして彼の生存の最終年紀は、表21・22の天正11年(1583)、天正15年(1587)とされます。そうすると香川民部少輔は、76年以上も讃岐に在国したことになります。西庄城を賜って讃岐へ下国した時が青年であったとしても、齢90歳の長寿だったことになります。この年齢まで現役で合戦に出陣できたととは思え得ません。『新修香川県史』では、数代続いたものが「香川民部少輔」として記されていると考えています。おなじ官途名「民部少輔」を称した西庄城主香川氏が、2~3代継承されたとしておきます。

香川民部少輔は、いつ西庄城に入城したのか、その経過は?
南海通記には香川民部少輔は、香川肥前守元明の第2子と記します。長子は、香川兵部大輔と記される香川元光とします。元光は、讃岐西方守護代とされていますが、文献的に名跡確認はされていません。また、父元光も細川勝元の股肱の四臣(四天王)と記されていますが、これも史料上で確認することはできません。ちなみに、四天王の他の三人は、香西備後守元資、安富山城守盛長、奈良太郎左衛門尉元安ですが、このうち文献上にも登場するのは、香西氏と安富氏です。奈良氏も、史料的には出てきません。なお、同時代の香川氏には、備後守と肥後守がいて、史料的にも確認できるようです。

もともと香西(上香西氏)元直の所領であった西庄を誰から受領したのか?
第1候補者は、阿波屋形の影響力が強い時期なので、細川澄之の自殺後に京兆家の跡を継いだ澄元が考えられます。時の実権者は、澄元の実家である阿波屋形の阿波守護細川讃岐守成之が考えられます。しかし、讃岐阿野郡北条の地を香川氏一族に渡すのを香西氏ら讃岐藤原氏一門が黙って認めたのでしょうか。それは現実的ではありません。もしあったとしても、名目だけの充いだった可能性を研究者は推測します。
三好実休の天霧城攻めについて
今まで定説化されてきた三好実休による天霧城攻めについては、新史料から次の2点が明らかになっています。ことは以前にお話ししました。
①天霧城攻防戦は、永禄元年(1558)のことではなく永禄6年(1563)のことであること。1558年には実休は畿内で合戦中だったことが史料で確認されました。実休配下の篠原長房も畿内に従軍しています。永禄元年に、実休が大軍を率いて讃岐にやってくる余裕はないようです。
②永正3~4年(1506~07)年に天霧城周辺各所で小競り合いが発生していることが「秋山文書」から見えることは以前にお話ししました。

西庄城主の香川民部少輔は、天霧城の本家香川氏を攻めたのか?


表番号6には、香川民部少輔が三好実休に従軍して天霧城を攻めたとあります。これは、南海通記以外の史料には出てきません。永正4年の政変では、讃岐守護代であった香川某が京都で討死にしています。南海通記は、民部少輔の兄香川元光が変後の香川守護代になったとします。確かに、香川某の跡を香川氏一族の中から後継者が出て、讃岐西方守護代に就任していることは、永正7年(1510)の香川五郎次郎以降の徴証があります。そうだとすると、守護代香川氏と民部少輔は、兄弟ということになります。永正4年(1507)以後に、守護代が代替わりしたとしても甥と叔父の近親関係です。非常に近い血縁関係にある香川氏同士が争う理由が見当たりません。香川民部少輔による天霧城攻めは現実的ではないと研究者は考えています。そうすると表番号6の実休の天霧城(香川本家)攻防戦には虚構の疑いがあることになります。
香川民部少輔伝2

元亀2年・(1571)の阿波・讃岐連合の四国勢と毛利勢による備前児島合戦は?
この時の備中出兵も阿野郡北条から出撃ではなく宇多津からです。讃岐に伝わる多くの歴史編纂物は、この合戦に参加した武将に香川民部西庄城主を挙げます。それに対して南海通記は、表番号7~9項のように、香川民部少輔が香西氏らの讃岐諸将に包囲されていると伝えます。ここにも大きな違いがあります。
 さらには1571年中に毛利氏支援によって、香川民部少輔が西庄城帰還に成功したとします。しかし、この時点ではまだ毛利氏には備讃瀬戸地域の海上覇権を手に入れる必要性がありません。未だ足固めができていない状況で讃岐への遠征は無理です。南海通記は「讃岐勢によって西庄城が攻められ香川民部少輔は、開城して落ち延びた」としますが、これは天霧城攻防戦と混同している可能性があります。天霧城落城後に香川某も毛利氏を頼って安芸に亡命しています。

香川民部少輔の西庄城開城と元吉合戦の関連について
表番号15・16と20・21を見ると、香川民部少輔は居城である西庄城を都合4度開城して攻城側に引渡しています。このうち、表15・16と20・21は伝承年紀の誤りで、1回の同じことを2回とカウントしていることがうかがえます。また、過去に毛利氏に援護されて帰城できたことへの恩義のことと自尊心から長宗我部元親への寝返りを拒否したと南海通記は記します。これはいかにも道徳的であり、著者の香西成資の好みそうな内容です。 

順番が前後しますが最後に、元亀年中の表7~11項です。
これは天正5年の元吉合戦の混同(作為)だと研究者達は考えています。香川某の毛利方への退避・亡命は事実のようです。これに対して、香川民部少輔の動きが不整合です。
以上のように南海通記で奈良氏や香西方の旗下武将として描かれていますが、これ著者の香西成資の祖先びいきからくる作為があるというのです。実際は、戦国大名へと歩みはじめた香川氏と阿波三好勢力下でそれを阻止しようとする香西・奈良氏などの抗争が背景にあること。さらに元吉合戦については、発掘調査から元吉城が櫛梨城であると多くの研究者が考えるようになりました。つまり、香川本家の天霧城をめぐるエピソードを西庄城と混同させる作為があること。そして、西庄城を拠点とするさらに香川民部少輔が香西氏傘下にあったことを示すことで、香西氏の勢力を誇張しようととする作為が感じられるということのようです。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   「唐木裕志 戦国期の借船と臨戦態勢&香川民部少輔の虚実  香川県中世城館分布調査報告書2003年435P」
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  秋山家文書は、大永7(1527)年から永禄3(1560)年までの約30年間は空白期間で、秋山氏の状況はほとんど分かりません。しかし、この期間に起きたことを推察すると、次のようになります。
①新たに秋山家の統領となった分家の源太郎死後は、一族は求心力を失い、内部抗争に明け暮れたこと
②調停に入った管領細川に「喧嘩両成敗」で領地没収処分を受け、秋山一族の力は弱まったこと。
③そのような中で、秋山氏は天霧城主香川氏への従属を強めていくこと
 秋山氏の「香川氏への従属化=家臣化」を残された秋山文書で見ていくことにします。 テキストは前回に続いて「高瀬町史」と「高瀬文化史1 中世高瀬を読む 秋山家文書①」です。

  21香川之景感状(折紙)(23・5㎝×45、2㎝)   麻口合戦
1 秋山兵庫助 麻口合戦

 このような形式の文書を包紙と呼ぶそうです。本紙を上から包むもので、さまざまな工夫がされてます。包紙に本紙を入れたあと、上下を持って捻ること(捻封)で、開封されていない状態を示す証拠とされたり、「折封」や「切封」などの方法がありました。包紙に記された「之景感状」とは、当初記されたものではなく、受領者側の方で整理のため後に書き込まれたもののようです。宛人の(香川)「之景」に尊称等が付けられていないので、同時代のものではなく時代を下って書き加えられたものと研究者は考えているようです。

1 秋山兵庫助 麻口合戦2
  読み下し文に変換します。
今度阿州衆乱入に付いて、
去る十月十一日麻口合戦に於いて
自身手を砕かれ
山路甚五郎討ち捕られる、誠に比類無き働き
神妙に候、傷って、三野郡高瀬
郷の内、御知行分反銭並びに
同郡熊岡・上高野御
料所分内参拾石新恩として
合力申し候、向後に於いて全て
御知行有るべく候、此の外の公物の儀は、
有り様納所有るべく候、在所の
事に於いては、代官として進退有るべく候、
いよいよ忠節御入魂肝要に候、
恐々謹言
(香川)
十一月十五日   之景(花押)
秋山兵庫助殿
御陣所
 内容を見ていくことにします
まず見ておくのは、いつ、だれが、だれに宛てた文書なのかを見ておきます。年号がありません。発給者は「之景」とあります。当時の天霧城主で香川氏統領の香川之景のようです。受信者は、「秋山兵庫助殿  御陣所」とあります。
1秋山氏の系図4


秋山氏の系図で見てみると、「兵庫助」は昨日紹介した秋山家分家のA 源太郎元泰の嫡男になるようです。父親源太郎の活躍で分家ながらも秋山氏の統領家にのし上がってきたことは、昨日お話しした通りです。父が1511年の櫛梨山の戦いの活躍で、秋山家における位置を不動にしたように、その息子兵庫助良泰も戦功をあげたようです。
 感状とは、合戦の司令官が、委任を受けた権限の範囲で発給するものです。この場合は、秋山兵庫助の司令官(所属長)は香川之景になっています。ここからは秋山氏が、香川氏の家臣として従っていたことが分かります。
 内容を見ていきましょう
文頭の「今度阿州衆乱入」とは、阿波三好氏の軍勢が讃岐に攻め込んできたことを示しているようです。あるいは、阿波勢の先陣としての東讃の武士団かもしれません。
 「麻口」は、高瀬町の麻のことでしょう。
ここには近藤氏の「麻城」がありました。近藤氏が、この時にどのような動きを見せたかは、史料がないので分かりません。どちらにしても、長宗我部元親の土佐軍の侵攻の20年ほど前に、阿波の三好軍(実態は三好側の讃岐武士団?)が麻口まで攻め寄せてきたようです。その際に、 秋山兵庫助が山路氏を討ち取る戦功をあげ、それに対して、天霧城の香川之景から出された感状ということになります。「御陣中」とありますので、作戦行動中の兵庫助の陣中に、之景からの使者が持ってきて、その場で渡したものと考えられます。この後に正式な論功行賞が行われるのが普通です。

 後半は「反銭」や「新恩」の論功行賞が記されています。
この戦いで勝利を得たのは、どちらなのかは分かりませんが、両軍の雌雄を決するような大規模の戦いでなかったようです。これは、2年後の天霧城籠城合戦の前哨戦のようです。
 それでは、この麻口の戦いがあったのはいつのことなのでしょうか。
『香川県史』8「古代・中世史料編」では、永禄元(1558)年としています。それは『南海通記』に、この年に阿波の三好実休の攻撃を受けた香川氏が天霧城に籠城したことが記されているからです。これは讃岐中世史においては、大きな事件で、これ以後は香川氏は三好氏に従属し、讃岐全域が三好氏の支配下に置かれたとされてきました。『南海通記』の記述を信じた研究者たちは、この文書を永禄元(1558)年の香川氏の籠城戦を裏付ける史料と考えてきたのです。
 しかし、永禄元年に天霧城籠城戦が行われたとする記述は、『南海通記』にしかありません。しかも同書は、年代にしばしば誤りが見られます。秋山文書の分析からは、この文書の年代は、他の史料の検討や之景の花押の変遷などから、永禄三年のものと研究者は考えているようになってきました。
 また、三好側の総大将の実休が、この時には近畿方面で転戦中で四国にはいなかったことも分かってきました。三好軍の讃岐侵入と香川氏の籠城戦は、永禄元(1558)年ではなかったようです。

論功行賞の内容を見ておきましょう
「三野郡高瀬郷の内、御知行分反銭」の「反銭」とは、はじめは臨時の税でしたが、この時代には恒常的に徴収されていたようで、その徴収権です。「熊岡上高野御料所分内参拾石」の三〇石は、収入高を表し、その内の香川氏の取り分を示しています。この収入高は検地を施行するなど、厳密に決められたものではないようです。
「代官として進退あるべく候」とありますので、熊岡や上高野には、秋山氏の一族が代官として分かれ住んだ可能性があります。先ほども確認しましたが、この文書には日付のみで年号がありません。そんな場合は、両者の間の私的な意味合いが濃いとされます。ここからも天霧城主の香川之景と秋山兵庫助が懇意の間柄であったことがうかがえます。
 ここからは秋山氏が細川氏に代わって、香川氏の臣下として従軍していたことが分かります。逆に、香川氏は国人武士たちを家臣化し、戦国大名への道を歩み始めていたこともうかがえます。
 従来は讃岐に戦国大名は生まれなかったとされてきましたが、香川県史では、香川氏を戦国大名と考えるようになっています。

   次に、永禄4年(1561)の香川之景「知行宛行状」を見てみましょう。   
1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」
   
1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」2

書き下し文に変換しておきましょう
今度弓箭に付いて、別して
御辛労の儀候間、三野郡
高瀬郷水田分内原。
樋日、三野掃部助知行
分並びに同分守利名内、
真鍋三郎五郎買徳の田地、
彼の両所本知として、様体
承り候条、合力せしめ候、全く
領知有るべく候、恐々謹言
永禄四
正月十三日
(香川)
之景(花押)
秋山兵庫助殿
御陣所

これも先ほどの感状と同じく、香川之景が秋山兵庫助に宛てた文書で、これは知行宛行状です。これには永禄4(1561)年の年紀が入っています。年号の「永禄四」は付け年号といって、月日の右肩に付けた形のものです。宛て名の脇付の「御陣所」とは、出陣先の秋山氏に宛てていることが分かります。次の戦いへの戦闘意欲を高まるために陣中の秋山兵庫助に贈られた知行宛行状のようです。
  先ほどの麻口の戦いと併せての軍功に対しての次のような論功行賞が行われています。
①高瀬郷大見(現三野町大見)・高瀬郷内知行分反銭と
②熊岡・上高野御料所分の内の三〇石が新恩
③高瀬郷水田分のうち原・樋口にある三野掃部助の知行分
④水田分のうち守利名の真鍋三郎五郎の買徳地
以上が新恩として兵庫助に与えられています。
 水田名は大永7(1527)年に、幸久丸(兵庫助の幼名?)が阿波の細川氏の書記官・飯尾元運から安堵された土地でした。それが30年の間に、三野掃部助の手に渡っていたことが分かります。つまり、失った所領を兵庫助は、自らの軍功で取り返したということになります。兵庫助は、香川氏のもとで軍忠に励み、旧領の回復を果たそうと必死に戦う姿が見えてきます。この2つの文書からは、侵入してくる阿波三好勢への秋山兵庫助の奮闘ぶりが見えてきます。
しかし、視野をもっと広くすると讃岐中世史の定説への疑いも生まれてきます。
従来の定説は、永禄元(1558)年に阿波の三好氏が讃岐に侵攻し、天霧城攻防戦の末に三豊は、三好氏の支配下に収められたとされてきました。
しかし、それは秋山文書を見る限り疑わしくなります。なぜなら見てきたように、永禄3・4年に香川之景が秋山氏に知行宛行状を発給していることが確認できるからです。つまり、この段階でも香川氏は、西讃地方において知行を宛行うことができたことをしめしています。永禄4(1561)年には、香川氏はまだ西讃地域を支配していたのです。この時点では、三好氏に従属したわけではないようです。
 この文書で秋山兵庫助に与えられているのは、かつての三野郡高瀬郷の秋山水田(秋山家本家)が持っていた土地のうちの原・樋口にある三野掃部助の知行分と、同じく水田分のうち守利名の真鍋三郎五郎買得の田地のニカ所です。
 宛行の理由は「今度弓箭に付いて、別して御辛労の儀」とあるとおり、合戦の恩賞として与えられています。合戦の相手は前年の麻口の戦いに続いて、阿波の三好勢のようです。香川氏の所領の周辺に、三好勢力が現れ小競り合いが続いていたことがうかがえます。三好軍が丸亀平野に侵入し、善通寺に本陣を構え、天霧城を取り囲んだというのは、これ以後のことになるようです。
それでは天霧城の籠城戦は、いつ戦われたのでしょうか。
それは永禄6(1563)年のことだと研究者は考えているようです。
三野文書のなかの香川之景発給文書には、天霧龍城戦をうかがわせるものがあります。
永禄6(1563)年8月10日付の三野文書に、香川之景と五郎次郎が三野勘左衛門尉へ、天霧城籠城の働きを賞して知行を宛行った文書です。合戦に伴う家臣統制の手段として発給されたものと考えられます。
『香川県史』では、この文書について次のように記します。
「籠城戦が『南海通記』の記述の訂正を求めるものなのか、またその後西讃岐において別の合戦があったのか讃岐戦国史に新たな問題を提起した」

 この永禄6年の天霧龍城こそ『南海通記』に記述された実休の讃岐侵攻だと、研究者は考えているようです。
 この当時、香川氏の対戦相手は、前年に三好実体が死去していることから、三好氏家臣の篠原長房に率いられた阿波・東讃連合勢になります。善通寺に陣取った三好軍に対して、香川氏が天霧城に籠城するようです。従来の説よりも5年後に、天霧城籠城戦は下げられることになりそうです。
 永禄8(1565)年には、秋山家は兵庫助から藤五郎へと代替わりをしています。
天霧寵城戦で、兵庫助か戦死して藤五郎に家督が継承されたことも考えられます。その後、天正5(1577)年まで秋山文書には空白の期間がります。この間の秋山氏・香川氏の動向は分かりません。この時期の瀬戸内海の諸勢力は、織田政権と石山本願寺・毛利氏との抗争を軸に、どちらの勢力につくのかの決断を求められた時代でした。
以上をまとめておくと次のようになります
秋山氏は鎌倉末期には足利尊氏、南北期には細川氏と勝ち馬に乗ることによって勢力を拡大してきました。しかし、16世紀初頭の細川氏の内部抗争に巻き込まれ、秋山一族も一族間で相争うことになり、勢力を削られていきます。そして、16世紀後半になると戦国大名に成長脱皮していく天霧城主・香川氏に仕えるようになっていきます。そして、失った旧領復活と生き残りをかけて、必死の活動を戦場で見せる姿が秋山文書には残されていました。
 同時に秋山文書からは、阿波三好氏の西讃進攻や支配が従来よりも遅い時期であること、さらに香川氏を完全に服従したとは云えず、西讃地方までも支配下に治めたとは云えないことが分かってきました。
以上です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
高瀬町史
高瀬文化史1 中世高瀬を読む 秋山家文書①

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