瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:天霧石製石造物

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       白峯寺の十三重石塔(手前が西塔)                                 
白峯寺には特徴のある中世石造物が多いのですが、その中で一番目を引くのが国の重文に指定されているふたつの十三重塔です。
東塔が花崗岩製、弘安元年(1278)で近畿産(?)
西塔が凝灰岩製、元亨4年(1324)で、天霧山の弥谷寺の石工集団による作成。
中央の有力者が近畿の石工に発注したものが東塔で、それから約40年後に、東塔をまねたものを地元の有力者が弥谷寺の石工に発注したものと従来はされてきました。ここからは、東塔が建てられて40年間で、それを模倣しながらも同じスタイルの十三重石塔を、弥谷寺の石工たちは作れる技術と能力を持つレベルにまで達していたことがうかがえます。その急速な「成長」には、どんな背景があったのでしょうか。それを今回は見ていくことにします。テキストは「松田 朝由 白峯寺の中世石造物     白峯寺調査報告書N02 2013年版 香川県教育委員会27P」です

DSC03848白峰寺十三重塔
白峰寺十三塔の東西の塔比較

東西ふたつの十三重石塔が白峯寺に姿を見せた14世紀前半の讃岐の石造物分布図を見ておきましょう。
白峯寺 讃岐石造物分布図

 天霧産と火山産の石造物と、花崗岩製石造物の分布
上図の中世讃岐の石造物分布図からは次のようなことが分かります。
①火山系凝灰岩で造られた石造物が東讃に分布していること
②弥谷寺を拠点とする天霧系凝灰岩製のものが西讃を中心に分布すること
③白峯寺や宇多津周辺には、讃岐には少ない花崗岩製の石塔(層塔)が集中して見られる「限定スポット」であること。
 この現象を研究者は、次のように説明します。
①白峯寺で最初の造塔は、火山石製・国分寺石製であり、そのモデルは京都府安楽寿院石仏と京都府鞍馬寺宝塔に求められること。
②鎌倉時代中期以前については、観音寺市神恵院宝塔や善通寺先師墓宝塔のように天霧系地域圏に火山石製が分布する。つまり、この時期には天霧系は生産開始されていなかった段階。
 以上から研究者は「鎌倉時代中期以前の讃岐は、火山系の世界であった。天霧系は、後になって登場する」と指摘します。

白峯寺 火山石製五輪塔
白峯寺の初期の火山製五輪塔と伝頓證寺宝塔

それでは関西系の石造物は、いつから白峯寺に登場するのでしょうか?
 白峯寺の最初の造塔は、火山系(国分寺石)石工集団が担当しています。火山石系の地元林田(坂出市)の石工集団は、平安時代には活動を開始していていて、白峯寺の初期段階の石造物整備計画の中心を担っていたと研究者は考えています。
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白峯陵前の層塔(花崗岩製)
例えば、崇徳陵前2基の層塔は、それぞれ花崗岩製と火山石製です。
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白峯陵前の層塔(火山系凝灰岩製)
これはふたつの石工集団が、分け合っての共同作業とも云えます。つまり、火山系の後に登場するのが花崗岩製の関西石工のようです。

  このように、もともと白峰寺のあるエリアは火山石の流通エリアであったところです。そこに、関西系の花崗岩製石造物が姿を現すようになります。
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白峰寺十三重石塔(西塔・弥谷寺天霧石製)

そして14世紀になると天霧石製が白峯寺に登場するようになります。天霧石製の最初の層塔が
東塔の西隣に建てられた十三重塔(1324年)と下乗石(1321年)です。十三重塔は、隣の花崗岩製東塔の模倣です。
白峯寺石造物の製造元変遷
白峯寺石造物の製造元変遷

白峯寺 下乗石(坂出側
白峯寺下乗石(坂出側) 天霧石製で弥谷寺の石工によって制作

下乗石は大和の奈良県談山神社下乗石の模倣と研究者は指摘します。
その他の塔
奈良県談山神社下乗石

弥谷寺を拠点とする天霧系石工集団は、関西系の花崗岩製石造物を模倣しながら14世紀には作風を確立し、その上に自らの個性を加えていったようです。それが十三重石塔(西塔)には集約されているようです。
 生産開始が遅れた天霧石製石造物が急速に販路を伸ばし、白峰方面に進出できたのはなぜでしょうか。
その背景には、13世紀後半から始まる瀬戸内海全域での造塔活動の始まりがあったようです。その流れの中で白峯寺でも層塔が数多く建てられるようになります。その技術を持っていた関西系の花崗岩製や天霧製へも発注がもたらされるようになったと研究者は考えています。
讃岐を2分する天霧系、火山系石造物の境界線は、時期によって次のように変化します。
①13・14世紀の鎌倉・南北朝時代は、坂出・宇多津地域
②15・16世紀の室町時代は、高松東部(山田郡と三木郡の境界付近)
ここからは、天霧系が、火山系の市場を奪って、東に拡大していることがうかがえます。つまり15世紀以降になると、天霧石製の発展と火山石製の衰退が見られるのです。
 天霧石製は14世紀までは、讃岐以外のエリアには、製品を提供することはほとんどありませんでした。ところが15世紀以降になると海運ルートを使って四国・瀬戸内海地方の広域に流通圏を拡大するようになります。 その背景には何があったのでしょうか?
  三豊市高瀬町の二宮川の源流に立つ式内社の大水上神社の境内の真ん中に康永4年(1345)の記銘を持つ灯籠が立っています。

大水上神社 灯籠
大水上(二宮)神社の灯籠(三豊市高瀬町・天霧石製)
幅の狭い笠部は、白峯寺頓証寺の灯籠とよく似ています。しかし、材質は花崗岩ではなく天霧石です。この灯籠は、弥谷寺の石工が頓證寺灯籠を模倣して作成し、地元の式内社の大水上神社に納めたものと研究者は考えています。
白峯寺 頓證寺灯籠 大水上神社類似
白峯寺頓證寺殿の灯籠 大水上神社のものとよく似ている

このように弥谷寺の石工集団は花崗岩製の模倣(=関西石工の模倣)を行います。それは、層塔、宝医印塔、石仏、宝塔など数多くのもので確認されています。これは弥谷寺石工の白峯寺への造塔活動への参加がきっかけでもたらされた「技術移転」とも云えます。

 天霧石製石造物が伊予や安芸などへの瀬戸内海での広域流通が始まるのは、鎌倉時代後期の14世紀紀前後になってからです。
これは白峯寺で塔が作られるようになるのと、瀬戸内海での広域流通の開始が、同じ時期だったことになります。これを「中世讃岐の石造物流通体制の確立」と呼ぶなら、白峯寺の造塔事業がそのきっかけであったことになります。

 白峯寺の麓の坂出市加茂町・神谷町・林田町・江尻町は、五夜ヶ岳の凝灰岩(=国分寺石)で、宝塔、石憧、石仏などが鎌倉・南北朝時代には多く造られていました。ところが、天霧石製の石造物が白峯寺に姿を見せるようになると、同時期に国分寺石製のシェアに進出し始めます。そして、室町時代になると、白峯以東の地域でも多くの天霧石の石造物が流通するようになります。そして、逆に国分寺石製の石工たちも天霧石製に類似した石造物を製作するようになります。

そして14世紀になると白峯寺の石造物のほとんどは、天霧石製のものになります。天霧石製が市場を制覇したようです。
つまり、関西系の花崗岩製から弥谷寺の石工集団に発注が移動したのです。このため関西系花崗岩製石造物は、白峯寺から姿を消します。
 その一方で衰退していくのが火山系です。14世紀までは紀伊、備前、安芸、伊予までも流通エリアにしていた火山石製は、15世紀以降になると阿波以外ではほとんど見られなくなります。生産・流通体制の変化によって流通圏が急激に縮小しています。これは天霧系に市場を奪われていった結果と推測できます。
白峯寺 讃岐石造物分布図

もういちど天霧系と火山系が讃岐の石造物流通圏を2分しているのを見ておきましょう。
そして今度は、その境界線を探してみます。両流通圏の境界付近に白峯寺があります。これは偶然ではないと研究者は考えています。それほど中世讃岐の石造物の流通圏形成に、白峯寺の造塔事業が与えたインパクトは大きかった証拠と捉えています。

ここまでをまとめておきます。
①もともとは火山系凝灰岩の石造物が讃岐全体で優勢であった
②13世紀後半の層塔建立の流行で、白峯寺にも京都の有力者が石造物を寄進することが増え、関西系花崗岩の層塔が造塔されるようになった。
③これに天霧系も参入し、その流通ルートを白峯寺エリアまで拡大した
④新興勢力の天霧系は、関西系の石造物のスタイルや技術をコピーして自分のものとして急成長をとげた。
⑤そして芸予の瀬戸内海西域方面まで市場エリアを拡大し、関西系や火山系を圧倒するようになった。

ここに関西系の花崗岩製石造物が白峰寺や宇多津などの限られたスポットにだけ残されている背景があるようです。さらに、中世の弥谷寺の隆盛は、このような石工集団の活発な活動によっても支えられていたことがうかがえます。修験者集団と石工集団は、密接な関係にあることを押さえておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  「松田 朝由 白峯寺の中世石造物     白峯寺調査報告書N02 2013年版 香川県教育委員会27P。」

 
弥谷寺石造物の時代区分表
Ⅰ期(12世紀後半~14世紀) 磨崖仏、磨崖五輪塔の盛んな製作
Ⅱ期(15世紀~16世紀後半) 西院の墓地で弥谷寺産の天霧石で五輪塔が造立される時期
Ⅲ期(16世紀末~17世紀前半)境内各所で石仏・宝筐印塔・五輪塔・ラントウが造立される時期
Ⅳ期(17世紀後半) 外部産の五輪塔・墓標の出現、弥谷寺産石造物の衰退
V期(18世紀初頭から1830年頃) 外部産の地蔵刻出墓標が造立される時期
Ⅵ期(1830年以降)  外部産地蔵刻出墓標の衰退

Ⅱ期までの境内への石造物の造立は、特定の限られたエリアだけでした。それがⅢ期は境内の至る所に石仏など石造物の配置が本格化するようです。Ⅲ期は戦国時代末期から江戸時代で、秀吉の命で生駒氏が讃岐藩主としてやって来る時期と重なります。
Ⅲ期の特徴ついてて、研究者は、次のような点を指摘します。
①Ⅱ期の五輪塔に替わって石仏・宝筐印塔が中心になること
②祠形をしたラントウが17世紀初頭に姿を現すこと
③大師堂前の岩壁にも磨崖五輪塔が彫られるようになること。
 この中で①の石仏は地蔵坐像がほとんどで、抽象的な表現で頭部と腕の目立つ特異な形態です。記銘のある石仏の類例と比較して、弥谷寺境内に地蔵坐像が姿を現すのは16世紀前半~17世紀前半と研究者は考えているようです。
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弥谷寺Ⅲ期の地蔵菩薩

さらに弥谷寺石仏の形態を、研究者は次のように分類しています
弥谷寺 Ⅲ期の地蔵菩薩
弥谷寺Ⅲ期の地蔵菩薩
①背後に円形或いは舟形光背を表現した上図1・2
②像と光背の境界の不明瞭な上図6・7
③両者の中間的なスタイルの上図3~5
①の簡略形が②③と研究者は考えているようです。
 17世紀後半になると花崗岩・砂岩製で船形光背に収まるように立像を表現したものが主流になります。そのため②の上図の6・7は17世紀後半よりの時期に位置づけられますが、その像容は中世以来の抽象化したモチーフを留めていると研究者は指摘します。そのため17世紀後半まで下ることはないようです。これもほぼ生駒期と重なります。
弥谷寺 Ⅲ期の宝筐印塔
弥谷寺Ⅲ期の宝筐印塔
Ⅲ期の宝筐印塔は、阿弥陀如来磨崖仏下の「九品浄土」エリアに、香川氏のものが4基あります
NO9-37 慶長6年(1601)、「順教院/微摂/妙用」「詫間住則包娘俗名一月妻
NO9-38 慶長6年、「大成院/続風/一用」「俗名香川備後景高」
NO9-39は「浄蓮院/証頓/妙咬」「山城大西氏娘」
NO9-40は「寂照院/較潔/成功」「俗名香川山城景澄
9ー40の「香川山城景澄」は、西讃の守護香川氏の筆頭家老で山城守、讃岐国高谷城主であった香川元春のようです。9ー37の慶長6年の「則包娘俗名一月妻」の花崗岩製台石組みの宝筐印塔笠部(上図12)は、8の笠部に比べて軒が厚くなっています。厚くなるのは17世紀初頭の五輪塔に共通する要素で、形態的には慶長6年頃のものとしても違和感はないと研究者は指摘します。以上から宝筐印塔の年代も、石仏と同じ、16世紀後半~17世紀前半のものとされます。

嘉永7年(1854)の「香川氏・生駒氏両家石碑写去御方より御尋二付認者也」には、次のように記されています。
「九品浄土の前二幾多の五輪石塔あり、古伝へて香川氏一族の石塔なりと云、銘文あれここ漫滅して明白ならす、今払苔磨垢閲之、纏二四箇之院号を写得たり」

意訳変換しておくと
九品浄土(阿弥陀三尊磨崖仏の前)には数多くの五輪塔があるが、これは香川一族の石塔と伝承されてきた。この中には、銘文の見られるものがあるがよく分からないので、苔をおとして判読を行い。4つの院号を描き写した」

文書に記載された銘文と花崗岩製台石の銘文は、ほぼ一致するようです。しかし、花崗岩製台石に月日は刻まれていないなどの相違点もありますが、これらが香川氏のものであることは確かなようです。ただ、香川氏は1585年に同盟関係にあった長宗我部元親が秀吉に屈服し、土佐に引き上げた際に行動を共にして、天霧山を退いています。家老職級の一族の中には、1601年になっても、讃岐に留まり、それまで通り、死者を菩提寺の弥谷寺に埋葬していたことが分かります。しかし、その墓標の形は、それまでの五輪塔ではなく宝筐印塔に姿を変えています。ちなみに、これ以後は、香川氏のものらしき五輪塔や宝筐印塔はないようです。香川氏の一族は、その消息が辿れなくなっていきます。
 同時期に阿弥陀如来三尊磨崖仏の下に姿を現すのが讃岐最大の五輪塔です。
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生駒一正の墓(弥谷寺)
これは、組合せ五輪塔は、高さ352cmで生駒一正の墓とされます。この五輪塔は直線的な立ち上がりの空風輪、軒が強く傾斜し軒厚の火輪、筒形の水輪等などの特徴があります。この特徴は、生駒家の石造物として県内に点在する天霧石製五輪塔に共通します。


弥谷寺 Ⅲ期の五輪塔
 上図1・2は弥谷寺にある組合せの五輪塔です。1は大師堂前の108段の階段の下にあるものです。筒型化した水輪や直線的な立ち上がりの風輪など香川氏代々の墓にみる五輪塔よりも、一段階新しスタイルと研究者は考えています。2の火輪は、さらに形態変化の進んだ事例で四隅が突起状になっています。

  高松市役所の裏にある法泉寺は、生駒家三代目の正俊の戒名に由来するようです。
弥谷寺 宝泉寺の生駒一正五輪塔
生駒一正・正俊の五輪塔(法泉寺)

この寺の釈迦像の北側の奥まった場所に小さな半間四方の堂があります。この堂が生駒廟で、生駒家二代・生駒一正(1555~1610)と三代・生駒正俊(1586~1621)の五輪塔の墓が並んで安置されいます。これは弥谷寺の五輪塔に比べると小さなもので、それぞれ戒名が墨書されています。天霧石製なので、弥谷寺の採石場から切り出されたものを加工して、三野湾から船で髙松に運ばれたのでしょう。一正は1610年に亡くなっているので、これらの五輪塔は、それ以後に造られたことになります。
  私は、弥谷寺は1585年に香川氏が天霧城を退城し、土佐に移った後には保護者を失い、一時的な衰退期を迎えたのではないかと思っていました。しかし、石造物の生産活動を見る限りは、その復活は思ったよりも早い感じがします。弥谷寺は香川氏に代わって、新たに讃岐の主としてやって来た生駒氏の保護を受けるようになっていたようです。
 香川氏の重臣であった三野氏の一族の中には、生駒氏に登用され家老級にまで出世し、西嶋八兵衛と生駒藩の経営を担当する者も現れます。三野氏も弥谷寺と何らかの関係があったことは考えられます。三野氏を通じて生駒氏は、弥谷寺に2代目の墓碑として巨大な五輪塔を造らせたのかも知れません。それは、いままでの香川氏が造らせていたものよりもはるかに大きなもです。時代が変わったことを、印象づける効果もあったでしょう。

讃岐の武将 生駒氏の家老を勤め、生駒騒動の原因を作り出した三野氏 : 瀬戸の島から
生駒一正の五輪塔(弥谷寺)

次にラントウを見ておきましょう
讃岐のラントウは17世紀前半では全て天霧石製で、17世紀後半になると豊島石製が見られるようになります。名称の由来は伽藍(がらん)の塔とする説、墓地を示すラントウバにあるとする説がるようですがよくわからないようです。漢字では蘭塔、藍塔、卵塔、乱塔と様々な時が当てられます。墓石の一種でとして、17世紀に流行しますが、18世紀以降になって墓標が現れると姿を消して行きます。龕部は観音扉で、正面の両軸部に被供養者の没年月日が刻まれます。龕部の奥は五輪塔や墓標が彫刻されることが多いようです。
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弥谷寺のラントウ
天霧石製と豊島石製のラントウの違いを、研究者は次のように指摘します。
①天霧石製は紀年銘が入ったものがないが、豊島石製には紀年銘が入ったものが比較的多い
②天霧石製は形態が稚拙でシンプル
③豊島製の屋根上端部の鬼瓦の表現、屋根下端部の削り抜き、祠部正面下端部の突出など複雑で手が込んでいる
ラントウの変遷は屋根が上方に細長く延びてく変化があるようです。
弥谷寺 ラントウ
弥谷寺と豊島産のラントウ

そこに注意すると、第54図1は17世紀初頭、図2は17世紀中頃、第54図3の豊島石製は18世紀前後頃になるようです。第54図1の祠部奥の石仏の下半身の上端部が両端に反り上がる類例は1599~1620年の豊島石製ラントウ内に彫刻された石仏に見られ、第52図1の石仏とも共通します。天霧石製ラントウは17世紀前半に登場したようです。
弥谷寺 石造物の流通エリア
天霧石製石造物の分布エリア
室町期のⅡ期には、天霧石製石造物が瀬戸内海で広域流通しましたが、Ⅲ期になると急速に衰退します。
その背景には、16世紀後半の阿波の三好勢力の侵入による香川氏との抗争激化があったようです。以前にお話したように三好勢の侵入により香川氏は、天霧城を落ち延び、毛利氏を頼って安芸に一時的に亡命しています。このような混乱の中で三好氏の乱入を受け、弥谷寺も退転し、石工たちも四散したのかもしれません。ここで弥谷寺における石造物の生産は一時的な活動停止に追い込まれたようです。注意しておきたいのは、この混乱が阿波の三好氏によるものであり、土佐の長宗我部元親によるものではないことです。

弥谷寺において石造物の生産活動が再開されるのは、16世紀末になってからです。
香川氏の宝筐印塔4基は1601年のものです。つまり、先ほど見たように生駒氏の登場と保護によって、荒廃した弥谷寺の再興が開始され、同時に石造物の生産活動も再開されたと考えられます。
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      牛額寺薬師堂(善通寺市)お堂の後が採石場跡
 この再開時に新たな採石場として拓かれたのが善通寺市牛額寺薬師堂付近だったようです。
これは弥谷寺の採石場からの「移動」ではなく、「分散化」だったと研究者は考えているようです。弥谷寺境内にはⅢ期になっても天霧石製石造物が活発に造られ続けています。採石活動が継続していたことがうかがえます。Ⅲ期に弥谷寺に造立された天霧石製石造物の多くは、天霧Cです。天霧Bが中心であったⅡ期と比べると石材選択の変化が見られます。牛額寺薬師堂には天霧Cの転石が多く見られます。

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牛額寺薬師堂裏の転石

同じように弥谷寺境内にも生駒一正五輪塔から磨崖阿弥陀三尊像にかけて天霧Cの露頭があります。Ⅲ期に造立された石造物は、これらからの石を使って製作されていたと研究者は考えているようです。 しかし、弥谷寺産の天霧石で造られた石造物が瀬戸内海エリアに広く積み出され供給されるということは、もはやなかったようです。

以上をまとめておくと
①弥谷寺石造物生産活動のⅡ期は、保護者であった天霧城城主の香川氏の退城で終わりを迎える。
②再び生産活動が再開されるのは、1587年に生駒氏がやって来て新たな保護者となって以後のことになる。
③生駒氏は弥谷寺を保護し、伽藍復興が進むようになり、境内にも石造物が造営されるようになる。
④Ⅲ期の代表作としては、1601年の香川氏の宝筐印塔4基、1610年以後に作成された生駒一正の巨大五輪塔などが挙げられる。
⑤再開時に、善通寺市牛額寺薬師堂付近に新たな採石場が開かれた。
⑥しかし、競争相手としてて豊島産石造物が市場を占有するようになり。弥谷寺産の石造物が瀬戸内海エリアに供給されることはなかった。

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弥谷寺のラントウ

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

弥谷寺石造物の時代区分表
Ⅰ期(12世紀後半~14世紀) 磨崖仏、磨崖五輪塔の盛んな製作
Ⅱ期(15世紀~16世紀後半) 西院の墓地で弥谷寺産の天霧石で五輪塔が造立される時期
Ⅲ期(16世紀末~17世紀前半)境内各所で石仏・宝筐印塔・五輪塔・ラントウが造立される時期
Ⅳ期(17世紀後半) 外部産の五輪塔・墓標の出現、弥谷寺産石造物の衰退
V期(18世紀初頭から1830年頃) 外部産の地蔵刻出墓標が造立される時期
Ⅵ期(1830年以降)  外部産地蔵刻出墓標の衰退

前回はⅠ期に、鎌倉時代に弥谷寺の聖地に、磨崖仏や磨崖五輪塔が造られ続けたことを見てきました。それは、浄土=阿弥陀信仰にもとづく祖先の慰霊のためのものでした。しかし、室町時代になると、磨崖五輪塔が作られなくなります。それと入れ替わるように、登場するのが石造物です。これがⅡ期の始まりになります。今回は室町時代の弥谷寺の石造物を見ていくことにします。テキストは   「松田 朝由 弥谷寺の石造物 弥谷寺調査報告書(2015年)」です。
弥谷寺 西院跡
弥谷寺全図(1760年)西院跡と香川氏墓域が見える

  Ⅱ期の石造物のほとんどは五輪塔です。その五輪塔が設置されたのが西院周辺です。
   前回お話ししたように、中世の弥谷寺には東の峰に釈迦如来、西の峰に阿弥陀如来が安置され、二尊合わせて「撥遣釈迦、来迎阿弥陀」と考えられていました。弥谷寺の伽藍の中で、釈迦と阿弥陀の置かれている位置は、時衆の「二河白道図」を現実化したもになっています。弥谷寺は、中世の時衆思想に基づいて伽藍が作られていたと研究者は考えています。そうすると灌頂川が「水火の河」で、その東方の山に現世としての釈迦、そして現在の本堂や阿弥陀三尊がある西方が極楽浄土と見立てていたことになります。つまり、西院は極楽浄土につながる聖地とされていたのです。そのために、この磨崖に阿弥陀如来三尊や南無阿弥陀仏の六文字名号が彫られ、その周辺に磨崖五輪塔が造られ続けたようです。

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弥谷寺から天霧城への道標
 ここを墓域として、墓標としての五輪塔を設置するようになったのが細川氏の守護代としてやってきた香川氏です。
香川氏は天霧城を拠点に守護代として勢力を伸ばし、後には戦国大名化していきます。弥谷寺の東院の道を登り詰めると、1時間足らずで天霧城のあった天霧山頂上にたどり着けます。弥谷寺の裏山が天霧山で、香川氏はそこに山城を築いたことになります。

3 天霧山4
弥谷寺の裏山が天霧城のある天霧山
 管領細川氏の守護代として讃岐にやってきた香川氏と弥谷寺との関係がどんなものであったかを知る文書史料はないようです。しかし、弥谷寺を拠点に活動していた高野山の念仏聖たちは浄土=阿弥陀信仰を説き、香川氏を信者としたようです。それは、香川氏が弥谷寺の西院に残した大量の五輪塔から分かります。香川氏は弥谷寺を菩提寺としていたのです。周辺の人々が西院の「九品の浄土」に、磨崖五輪塔を彫って骨をおさめたように、香川氏は立体的な五輪塔を製作し、西院周辺に安置するようになります。この時期の石造物は、ほとんどが五輪塔で、西院周辺以外の場所には見当たらないようです。
弥谷寺 一山之図(1760年)
弥谷寺全図(一山之図)の拡大図

大正6年(1917)の『大見村史』には、次のように記されています。
本堂ノ前面石段ヲ降リテ天霧城主香川信景祖先ヨリノ石塔多数アリ

本堂前の石段を下りていくと、天霧城主香川信景の祖先の石塔(五輪塔)が多数あるというのです。

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現在の香川氏の墓域
しかし、現在の香川氏の墓は十王堂の下にあります。
これは近年になって、弥谷寺によって移されたもので、もともとは西院跡にあったようです。西院跡には今でも、近世石仏から上の傾斜面に五輪塔の残欠が多数埋もれています。研究者が表面に現れているものを数えると「空風輪1点、火輪22点、水輪35点、地輪14点、宝筐印塔笠部1点、基礎1点」で、ほとんどが五輪塔だったと報告しています。西院跡の墓域は、傾斜面下方に2段の帯状の長いテラス、最上位には石垣があり、その間は斜面を段々に区画造成した5段程度の小テラスがあったようです。石造物残欠は各テラスに散在しています。露出している石造物残欠からは百基近い造塔数があったと研究者は考えているようです。土中の中に埋もれているものもあるので、その数はさらに多くなるようです。この区画は中世墓地と研究者は考えています。

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西院跡から移された五輪塔
この時期の五輪塔のスタイルの変化を見ておきましょう
まず十王堂下、鐘楼西に移転された香川氏代々の墓に移された五輪塔です。これは西院の墓域で倒れて埋もれかけていた部位を移築して組み上げたものもあるので、製作当初のまんまの形ではないようです。そのためパーツに分解して、分析する必要があります。研究者は部位を見て、空風輪2点、空輪4点、風輪5点、火輪51点、華40点、地輪30点を報告しています。また、五輪塔以外は宝筐印塔塔身の可能性のある1点と笠塔婆笠部の可能性のある1点のわずか2点だけです。

弥谷寺 五輪塔変遷図
弥谷寺五輪塔
形に注目すると上図7の火輪が古く、中型で軒反りが見て取れます。
軒の厚さから14世紀後半頃と研究者は考えています。図8~10は、軒反が見られますがやや小型化しているので、14世紀末~15世紀前半を想定します。石材は図7~9が天霧A、図10が天霧Bになるようです。図11~20は軒反りが見られないので、15世紀後半以降のものとされます。屋根の下りが直線的となり、隅が突出気味になる変化が見て取れます。
図19は屋根が直線的に下り、鎌倉時代以来再び軒が厚くなった形で17世紀初頭の生駒親正五輪塔につながるタイプで、16世紀後半頃が想定されます。石材は天霧Cです。
図29~31は西院跡に残されている残欠です。図29は唯一の宝筐印塔笠部で、小型で段形は3段に省略されています。軒の傾斜は弱く垂直気味に立ち上がり、境内に多く見られる宝筐印塔よりも先行する形態で、16世紀前半頃のものとされます。五輪塔は15世紀後半~16世紀が想定されます。
以上から西院の墓地に五輪塔が数多く作られた時期は、14世紀後半から16世紀後半で、その多くは15世紀後半以降であることが分かります。
これは香川氏が讃岐守護代として天霧城を拠点に活動した時期とほぼ重なります。
石造物群が香川氏代々の墓と伝えることと矛盾しません。石造物群全てが香川氏関連のものと断定することはできませんが、西院の中世墓地に香川氏を中心とする供養塔群が14世紀後半~16世紀後半にかけて連綿と造立され続けたことが分かります。弥谷寺は、祖先の慰霊の寺として守護代香川氏の菩提寺になり、その保護を受けて発展していくことになります。
弥谷寺 香川氏の宝筐印塔
香川氏の四基の宝筐印塔
香川氏の墓について安政5年(1858)の『西讃府志』には、次のように記されています。
「香川氏ノ墓、弥谷寺ニアリ、皆五輪塔ナリ、寂照院咬潔成成俗名山城景澄浄蓮院証頓妙販山城妻大西氏娘大成院続風一用、慶長六年二月二十一日、俗名香川備後景高順教院徴摂妙用、慶長六年五月二十一日、詫間住則包娘俗名需妻此他多カレト、文字分明ナラズ」

意訳変換しておくと
「香川氏ノ墓は弥谷寺にあって、全て五輪塔である。
寂照院咬潔成成俗名山城景澄浄蓮院証頓妙販 山城妻大西氏娘大成院続風一用、慶長六年二月二十一日、俗名香川備後景高順教院徴摂妙用、慶長六年五月二十一日、詫間住則包娘俗名需妻などの銘が見える。この他にも墓は数多くあるが、文字が消えて読み取れない」
ここに記されている香川氏の墓で記銘があるものは、阿弥陀三尊磨崖仏の宝筐印塔4基のようです。そこに刻まれている文字を調査書は次のように報告しています。(番号は調査報告書による)
NO9-37は慶長6年(1601)、「順教院/微摂/妙用」「詫間住則包娘俗名  一用妻」
NO9-38は、同じく慶長6年、「大成院/続風/一用」「俗名香川備後景高」銘
NO9-39は「浄蓮院/証頓/妙咬」「山城大西氏娘」
NO9-40は「寂照院/較潔/成功」「俗名香川山城景澄」
どれも基礎部分に刻銘されています。NO9ー40の「香川山城景澄」は、西讃の守護香川氏の筆頭家老で山城守、讃岐国高谷城主であった香川元春が比定されます。凝灰岩で造られていますが基礎だけが花崗岩製です。気になるのは『西讃府志』が「全て五輪塔である」としていることです。実際には。これらは宝筐印塔です。
嘉永7年(1854)の「香川氏・生駒氏両家石碑写去御方より御尋二付認者也」【文書2-106-1】には、次のように記されています。
「九品浄土の前二幾多の五輪石塔あり、古伝へて香川氏一族の石塔なりと云、銘文あれここ漫滅して明白ならす、今払苔磨垢閲之、纏二四箇之院号を写得たり」

「九品浄土」とは磨崖阿弥陀三尊像の下に刻字された六字名号のことなので、元々はこのあたりにも五輪塔があったことがうかがえます。ここでは「五輪石塔」と記されていますが、実は宝筐印塔で、嘉永の頃には刻字銘が分からなくなっていたようです。「香川氏一族の石塔」と伝られる宝筐印塔のうち、4基については花崗岩製の基礎部分を後に追加したと研究者は考えています。香川氏・生駒氏両家石碑写去御方より御尋二付認者也」から4年を経過して編纂された『西讃府志』で取り上げられているものも、銘によれば同じ4基です。しかし、翻刻された銘文が微妙に異なっているようです。
脇道に逸れてしまいました。この香川氏の宝筐印塔は、Ⅱ期のものではありません。次のⅢ期になります。Ⅲ期には五輪塔から宝筐印塔に墓標が変化していくようです。確認しておくと 室町時代の弥谷寺では西院以外には、石造物はほとんどないようです。大師堂北の岩壁や参道沿い、水場付近に五輪塔の残欠が見られますが、境内に造立されている石造物群の大多数は次のⅢ期に造立されたものです。

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穴薬師堂(弥谷寺)
その中の例外が曼荼羅寺道分岐近くにある穴薬師堂の石造物です。
穴薬師堂には石仏を中央に、その左右に五輪塔が並んでいます。長い間、石窟内や堂内に保管されていたためか保存状態は極めて良好です。
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穴薬師堂の石造物(弥谷寺)

中央の石仏は薬師さまとして信仰されているようですが、頭部が円頂の縦長であること、両手に宝珠を持つことなどから形態的には地蔵菩薩と研究者は指摘します。左右の五輪塔の空輪は最大幅が上位にあり、直線気味に立ち上がるスタイルなので15世紀前半の特徴が見られます。火輪の軒反りはほぼ消滅し、地輪には簡略された如来像が刻まれています。また、火輪の軒が四隅で突出気味になるなど15世紀後半以降の特徴も見られます。種子は薬研彫でしっかりと刻まれていますが、その表現方法には一部独自色があります。
弥谷寺 穴薬師
弥谷寺の穴薬師

これらを総合して、年代は15世紀後半頃のものと研究者は考えているようです。中央の石仏もほぼ同時期のものとします。Ⅱ期の良好な石造物史料と研究者は評価します。
弥谷寺 穴薬師2
穴薬師は現在の仁王門下と曼荼羅寺道との分岐の間にある。(弘法)大師七歳の時に造られたとされてきたことが分かります。

 15世紀後半と云えば、弥谷寺の麓の三野エリアでは、秋山氏の氏寺として建立された本門寺が勢力を拡大し、各坊を増やしていく時期にあたります。本門寺と弥谷寺の関係も興味あるところですが、それにかかわる史料はないようです。

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仁王門上の船石名号(船バカ)
仁王門をくぐってすぐ上にある船石名号(船バカ)も、この時期のものとされます。
 船石名号(船バカ)は仁王門の上に建つ高さ約2mの凝灰岩製の船形の石造物です。江戸時代後の「剣五山弥谷寺一山之図」の刷物には、二王門の近くに「船ハカ」(墓)とあり、船形の表面には「南無阿弥陀仏」と記されています。以上から研究者はこの石造物を、舟形の名号石と判断します。「船ハカ」(墓)の表面には「南無阿弥陀仏」の六名名号と五輪塔が彫られていたようです。以前にお話したので詳しくは触れませんが、この舟石名号も中世に弥谷寺が念仏信仰の拠点であったことを示す貴重な史料です。

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         仁王門の上の船石名号(船バカ)

今は、風化して名号は見えず、五輪塔の配置もよく分かりませんが、五輪塔の形はかろうじて確認できます。
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        船石名号(船バカ)のレーザー透視撮影
空風輪の形は、Ⅲ期に位置付けられる太子堂前の磨崖五輪塔(第55図2・3)に先行し、善通寺市牛額寺薬師堂の磨崖五輪塔にやや後出すると研究者は指摘します。16世紀後半のⅢ期に位置付けることもできますが、石材がⅢ期には少ない天霧Bでやや先行する要素があるので、研究者はⅡ期のものとします。

弥谷寺 船形名号
舟石名号と磨崖五輪塔との比較

以上、穴薬師堂や「船ハカ」以外にはⅡ期になっても、西院以外の境内に石造物は姿を見せないようです。
最後にⅡ期の採石・流通活動との関連を見ておきましょう。
Ⅰ期の鎌倉時代には、数多くの磨崖仏や磨崖五輪塔が凝灰岩の岩の上に彫られました。このために専属の職人集団が弥谷寺にいたことがうかがえます。境内に磨崖五輪塔などを彫りだす音が響いていたのです。彼らは周辺の山々を歩き、採石に適した露頭も見つけたはずです。
弥谷寺 天霧石使用の白峰寺西塔
白峯寺十三重石塔 西塔
「白峯寺十三重石塔 西塔(重要文化財、鎌倉時代後期 元亨四年 1324年、角礫質凝灰岩、高さ 562Cm)」は、天霧石が使われているようです。東塔は畿内から持ち込まれたものですが、西塔は東塔を模倣して、讃岐で造られたものと研究者は考えています。そうだとするとその石材は弥谷寺で採石され、三野湾から松山港へ船で運ばれた可能性が高くなります。これを製作したのが弥谷寺の石工かどうかは分かりません。石材だけが運ばれた可能性もあります。しかし、弥谷寺の石工たちは磨崖五輪塔を彫ながら、次への飛躍を準備していたようです。そして、香川氏という強力な庇護者の登場を受けて五輪塔を造るようになり、それが宝筐印塔へとつながていきます。

弥谷寺 石造物の流通エリア
天霧石製石造物の流通エリア

天霧石製石造物はⅡ期になると瀬戸内海各地に運ばれて広域に流通するようになります。
かつては、これは豊島石産の石造物とされてきましたが、近年になって天霧石が使われていることが分かりました。弥谷寺境内の五輪塔需要だけでなく、外部からの注文を受けて数多くの石造物が弥谷寺境内で造られ、三野湾まで下ろされ、そこから船で瀬戸内海各地の港町の神社や寺院に運ばれて行ったのです。そのためにも弥谷寺境内で盛んに採石が行われたことが推測できます。ただ、後世の寺院整備のためか採石の痕跡は、あまり分かりません。

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賽の河原の参道沿いにある転石

しかし、次のような手がかりはあります
 ①現在の法雲橋の付近に多量の転石があること
 ②そこから北東に延びる谷に作業場に適した安定したテラスがあること
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石切場と考えられる法雲橋の東側斜面上方のテラス

以上から法雲橋の東側斜面の上方のテラスが石切場で作業所があったと研究者は推測します。ただ、未成品はまだ確認されていないようです。
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仁王門上の階段状に採石された遺構
採石痕は、仁王門を入って右側の岩壁に階段状に採石された遺構が見られます。ここからも石が切り出されていたようです。


以上をまとめておくと
①磨崖五輪塔の生産ストップと同時期に、五輪塔が弥谷寺に姿を見せるようになる。
②これは西讃岐守護代の香川氏の墓標として造られたもので、弥谷寺は香川氏の菩提寺になった。
③香川氏の墓域とされたのは阿弥陀如来が安置されていた西院周辺で、百基を越える五輪塔が造られ続けた。
④同時に弥谷寺の石工集団は、瀬戸内海各地からの石造物需要に応えて製品を造り出し供給するようになる
⑤香川氏という強力な庇護者を迎えて、弥谷寺は「慰霊の聖地」として発展していく。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   「松田 朝由 弥谷寺の石造物 弥谷寺調査報告書(2015年)」

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