白峯寺には特徴のある中世石造物が多いのですが、その中で一番目を引くのが国の重文に指定されているふたつの十三重塔です。
東塔が花崗岩製、弘安元年(1278)で近畿産(?)西塔が凝灰岩製、元亨4年(1324)で、天霧山の弥谷寺の石工集団による作成。
中央の有力者が近畿の石工に発注したものが東塔で、それから約40年後に、東塔をまねたものを地元の有力者が弥谷寺の石工に発注したものと従来はされてきました。ここからは、東塔が建てられて40年間で、それを模倣しながらも同じスタイルの十三重石塔を、弥谷寺の石工たちは作れる技術と能力を持つレベルにまで達していたことがうかがえます。その急速な「成長」には、どんな背景があったのでしょうか。それを今回は見ていくことにします。テキストは「松田 朝由 白峯寺の中世石造物 白峯寺調査報告書N02 2013年版 香川県教育委員会27P」です
白峰寺十三塔の東西の塔比較
東西ふたつの十三重石塔が白峯寺に姿を見せた14世紀前半の讃岐の石造物分布図を見ておきましょう。
天霧産と火山産の石造物と、花崗岩製石造物の分布
上図の中世讃岐の石造物分布図からは次のようなことが分かります。①火山系凝灰岩で造られた石造物が東讃に分布していること②弥谷寺を拠点とする天霧系凝灰岩製のものが西讃を中心に分布すること③白峯寺や宇多津周辺には、讃岐には少ない花崗岩製の石塔(層塔)が集中して見られる「限定スポット」であること。
この現象を研究者は、次のように説明します。
①白峯寺で最初の造塔は、火山石製・国分寺石製であり、そのモデルは京都府安楽寿院石仏と京都府鞍馬寺宝塔に求められること。②鎌倉時代中期以前については、観音寺市神恵院宝塔や善通寺先師墓宝塔のように天霧系地域圏に火山石製が分布する。つまり、この時期には天霧系は生産開始されていなかった段階。
以上から研究者は「鎌倉時代中期以前の讃岐は、火山系の世界であった。天霧系は、後になって登場する」と指摘します。
白峯寺の初期の火山製五輪塔と伝頓證寺宝塔
それでは関西系の石造物は、いつから白峯寺に登場するのでしょうか?
白峯寺の最初の造塔は、火山系(国分寺石)石工集団が担当しています。火山石系の地元林田(坂出市)の石工集団は、平安時代には活動を開始していていて、白峯寺の初期段階の石造物整備計画の中心を担っていたと研究者は考えています。
白峯陵前の層塔(花崗岩製)
例えば、崇徳陵前2基の層塔は、それぞれ花崗岩製と火山石製です。白峯陵前の層塔(火山系凝灰岩製)
これはふたつの石工集団が、分け合っての共同作業とも云えます。つまり、火山系の後に登場するのが花崗岩製の関西石工のようです。 このように、もともと白峰寺のあるエリアは火山石の流通エリアであったところです。そこに、関西系の花崗岩製石造物が姿を現すようになります。
白峯寺下乗石(坂出側) 天霧石製で弥谷寺の石工によって制作
下乗石は大和の奈良県談山神社下乗石の模倣と研究者は指摘します。
奈良県談山神社下乗石
弥谷寺を拠点とする天霧系石工集団は、関西系の花崗岩製石造物を模倣しながら14世紀には作風を確立し、その上に自らの個性を加えていったようです。それが十三重石塔(西塔)には集約されているようです。
生産開始が遅れた天霧石製石造物が急速に販路を伸ばし、白峰方面に進出できたのはなぜでしょうか。
その背景には、13世紀後半から始まる瀬戸内海全域での造塔活動の始まりがあったようです。その流れの中で白峯寺でも層塔が数多く建てられるようになります。その技術を持っていた関西系の花崗岩製や天霧製へも発注がもたらされるようになったと研究者は考えています。
その背景には、13世紀後半から始まる瀬戸内海全域での造塔活動の始まりがあったようです。その流れの中で白峯寺でも層塔が数多く建てられるようになります。その技術を持っていた関西系の花崗岩製や天霧製へも発注がもたらされるようになったと研究者は考えています。
讃岐を2分する天霧系、火山系石造物の境界線は、時期によって次のように変化します。
①13・14世紀の鎌倉・南北朝時代は、坂出・宇多津地域②15・16世紀の室町時代は、高松東部(山田郡と三木郡の境界付近)
ここからは、天霧系が、火山系の市場を奪って、東に拡大していることがうかがえます。つまり15世紀以降になると、天霧石製の発展と火山石製の衰退が見られるのです。
天霧石製は14世紀までは、讃岐以外のエリアには、製品を提供することはほとんどありませんでした。ところが15世紀以降になると海運ルートを使って四国・瀬戸内海地方の広域に流通圏を拡大するようになります。 その背景には何があったのでしょうか?
天霧石製は14世紀までは、讃岐以外のエリアには、製品を提供することはほとんどありませんでした。ところが15世紀以降になると海運ルートを使って四国・瀬戸内海地方の広域に流通圏を拡大するようになります。 その背景には何があったのでしょうか?
三豊市高瀬町の二宮川の源流に立つ式内社の大水上神社の境内の真ん中に康永4年(1345)の記銘を持つ灯籠が立っています。
このように弥谷寺の石工集団は花崗岩製の模倣(=関西石工の模倣)を行います。それは、層塔、宝医印塔、石仏、宝塔など数多くのもので確認されています。これは弥谷寺石工の白峯寺への造塔活動への参加がきっかけでもたらされた「技術移転」とも云えます。
大水上(二宮)神社の灯籠(三豊市高瀬町・天霧石製)
幅の狭い笠部は、白峯寺頓証寺の灯籠とよく似ています。しかし、材質は花崗岩ではなく天霧石です。この灯籠は、弥谷寺の石工が頓證寺灯籠を模倣して作成し、地元の式内社の大水上神社に納めたものと研究者は考えています。白峯寺頓證寺殿の灯籠 大水上神社のものとよく似ている
このように弥谷寺の石工集団は花崗岩製の模倣(=関西石工の模倣)を行います。それは、層塔、宝医印塔、石仏、宝塔など数多くのもので確認されています。これは弥谷寺石工の白峯寺への造塔活動への参加がきっかけでもたらされた「技術移転」とも云えます。
天霧石製石造物が伊予や安芸などへの瀬戸内海での広域流通が始まるのは、鎌倉時代後期の14世紀紀前後になってからです。
これは白峯寺で塔が作られるようになるのと、瀬戸内海での広域流通の開始が、同じ時期だったことになります。これを「中世讃岐の石造物流通体制の確立」と呼ぶなら、白峯寺の造塔事業がそのきっかけであったことになります。
これは白峯寺で塔が作られるようになるのと、瀬戸内海での広域流通の開始が、同じ時期だったことになります。これを「中世讃岐の石造物流通体制の確立」と呼ぶなら、白峯寺の造塔事業がそのきっかけであったことになります。
白峯寺の麓の坂出市加茂町・神谷町・林田町・江尻町は、五夜ヶ岳の凝灰岩(=国分寺石)で、宝塔、石憧、石仏などが鎌倉・南北朝時代には多く造られていました。ところが、天霧石製の石造物が白峯寺に姿を見せるようになると、同時期に国分寺石製のシェアに進出し始めます。そして、室町時代になると、白峯以東の地域でも多くの天霧石の石造物が流通するようになります。そして、逆に国分寺石製の石工たちも天霧石製に類似した石造物を製作するようになります。
そして14世紀になると白峯寺の石造物のほとんどは、天霧石製のものになります。天霧石製が市場を制覇したようです。
つまり、関西系の花崗岩製から弥谷寺の石工集団に発注が移動したのです。このため関西系花崗岩製石造物は、白峯寺から姿を消します。
つまり、関西系の花崗岩製から弥谷寺の石工集団に発注が移動したのです。このため関西系花崗岩製石造物は、白峯寺から姿を消します。
その一方で衰退していくのが火山系です。14世紀までは紀伊、備前、安芸、伊予までも流通エリアにしていた火山石製は、15世紀以降になると阿波以外ではほとんど見られなくなります。生産・流通体制の変化によって流通圏が急激に縮小しています。これは天霧系に市場を奪われていった結果と推測できます。
もういちど天霧系と火山系が讃岐の石造物流通圏を2分しているのを見ておきましょう。
そして今度は、その境界線を探してみます。両流通圏の境界付近に白峯寺があります。これは偶然ではないと研究者は考えています。それほど中世讃岐の石造物の流通圏形成に、白峯寺の造塔事業が与えたインパクトは大きかった証拠と捉えています。
そして今度は、その境界線を探してみます。両流通圏の境界付近に白峯寺があります。これは偶然ではないと研究者は考えています。それほど中世讃岐の石造物の流通圏形成に、白峯寺の造塔事業が与えたインパクトは大きかった証拠と捉えています。
ここまでをまとめておきます。
①もともとは火山系凝灰岩の石造物が讃岐全体で優勢であった②13世紀後半の層塔建立の流行で、白峯寺にも京都の有力者が石造物を寄進することが増え、関西系花崗岩の層塔が造塔されるようになった。③これに天霧系も参入し、その流通ルートを白峯寺エリアまで拡大した④新興勢力の天霧系は、関西系の石造物のスタイルや技術をコピーして自分のものとして急成長をとげた。⑤そして芸予の瀬戸内海西域方面まで市場エリアを拡大し、関西系や火山系を圧倒するようになった。
ここに関西系の花崗岩製石造物が白峰寺や宇多津などの限られたスポットにだけ残されている背景があるようです。さらに、中世の弥谷寺の隆盛は、このような石工集団の活発な活動によっても支えられていたことがうかがえます。修験者集団と石工集団は、密接な関係にあることを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
「松田 朝由 白峯寺の中世石造物 白峯寺調査報告書N02 2013年版 香川県教育委員会27P。」