瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:太興寺仁王門

本山寺 接待碑
本山寺の接待碑(1745年)
本山寺には延享2年(1745)の銘をもつ接待碑があます。
この碑の正面には「永代常接待」と刻まれ「施主 比地中村 石井万治」とあります。永代にわたって茶接待を行なうことが宣言されています。この頃から遍路者を含めた参詣者が増加し、それに対応して札所・本山寺が遍路接待の拠点とされたことが分かります。本山寺は、遍路者と地域住民とをつなぐ結節点となっていたようです。
茶堂について、明治12年(1879)本山寺が内務省に提出した届控えには、次のように記されています。
【史料1】茶堂 本尊弘法大師
由緒 延享二乙丑年二月施主当国三野郡比地中村石井万治郎ナル者是ヲ建立シ、永代茶ヲ焚摂待セン事心願二依テ耕宅地八反五畝拾一歩ヲ寄附ス、然ルニ該堂年ヲ経テ破損致シ候処、
安政六己未年九月仝当時(石井時四郎/石井増治郎〉両名ヲシテ是ヲ再建ス  建物梁行弐間半 桁行四間半
意訳変換しておくと
茶堂の由緒については、延享二(1745)年2月、当国三野郡比地中村石井万治郎が施主として建立した。永代に渡って茶の接待をすることを願って、耕宅地八反五畝拾一歩を寄付した。ところが年月を経て、破損が目立つようになり、安政六(1859)年9月に石井時四郎と石井増治郎が、これを再建した。
建物梁行弐間半 桁行四間半

ここからは、接待碑の施主と茶堂の施主とは同一人物であることがうかがえます。接待碑とあわせて茶堂がつくられたようです。建立から約110年後の安政6年の再建も、石井万治郎の子孫とみられる人たちによって行われています。このように本山寺では延享2年に遍路や参詣者を迎え入れる空間整備が行われたことが分かります。
 本山寺境内には、天保5年(1834)に亡くなった伯者国出身の締信法師の墓があります。「当山茶堂坊」との銘があるので、締信法師は茶堂で接待奉仕をしていたことがうかがえます。巡礼者や廻国者が、そのまま境内に居着いて寺に奉仕するということはよくあったようです。
本山寺 伽藍図




この茶堂は弘化4年(1847)の『金昆羅参詣名所図会』(第4図)にも描かれています。本文中には「茶堂(大師堂に並ぶ、摂待所なり)」と記されています。さらに明治28年(1895)の『本山寺伽藍井本坊改造図』(第5図)や大正3年(1914)頃の『七宝山本山寺全図』(第6図)にもそれぞれ確認することができるから、近代に入ってもなお維持されていたことが分かります。

本山寺境内改造図(明治28年)


貞享4(1687)年に、本山寺を訪れた僧真念は、『四国辺路道指南』に次のように記します。

「七十番本山寺平地。坤むき、此事は家居よく景気もよし。しかれども辺路やど(宿)不自由なり。本尊馬頭 坐二尺五寸、御作。」

ここからは、本山寺周辺は家も建ち並び、経済活動も活発に行われているが、「辺路やど(宿)不自由」とあるので、宿は整備されていなかったことがうかがえます。それを、住持や周辺の有力者も課題と考え、どうにかしたいとおもうようになります。
それから60年後に書かれた「遍路屋記録之覚」(本山寺蔵)を見てみます。
 遍路屋記録之覚
延享二年春令遍路屋造立其旨意趣者、竹田村辻治兵衛尉祐刹数年之依志願被建立、寄進之土地屋敷之分ハ承仕屋敷寺抱屋敷之内二而当寺先師威徳院現住法印周峯永代被寄進之、右施主方より伺之指構茂無之諸事寺之致支配様二と有之、尤番人等二至迄も村役人者不及申施主方迄も当寺住職之了簡相任、此後修復繕普請等ハ以奉加勧進可致支配之筈二相定候、

 ここには延享2年(1745)に、竹田村の辻治兵衛尉が遍路屋を建立したことについて記されています。この年は、先に見た接待碑・茶堂の建立と同じ年に当たります。また、竹田村は、本山寺の北側に位置する近隣村落です。増える巡礼者に対して、茶堂などの接待所や、宿泊のための遍路屋が周辺の有力者によって建立寄進されていることが分かります。これは、以前にお話しした弥谷寺でも同じような動きがありました。寺の遍路受入に周辺有力者が積極的に協力していく姿が見えます。これも弘法大師伝説の浸透の成果かも知れません。

本山寺の大師堂

今は、どこの札所寺院にも大師堂があります。しかし、江戸時代初期には大師堂がある札所は、ほんのわずかでした。四国辺路から四国遍路へと、巡礼者が修行者から一般庶民へと変わって行く中で、「大師一尊化」が急激に進んでいきます。その結果、札所にとって大師堂は欠かせないものとなります。そして、大師堂の建立が進み、戦後は大師像が境内に姿を見せるようになります。これは、弘法大師信仰は各札所寺院には江戸時代になって遅れてやってきたものであることを示しています。それまでの霊場に根付いていた「熊野信仰 + 阿弥陀信仰 + 修験道」などの信仰に、近世になって弘法大師信仰が接ぎ木されたと研究者は考えているようです
大師堂(本山寺) 

本山寺にはどのように大師堂が、建てられたのでしょうか?
大師堂の棟札には寛政7年(1795)9月29日に建立されたと記されています。発願主が「三箇邑中」(寺家村・岡本村・本大村)、大工棟梁が「三好源蔵長光鍛治等」です。この棟札には「弥勒堂」とありますが、これは「祖師堂」の別名で、建築時に事故があったために弥勒堂と称したと記されています。これが棟札から分かる大師堂建立についての情報です。
 本山寺文書の中には、より詳しく大師堂建立の経緯を記したものがあります。それを見ていきます。
本山大師堂、十一年以前寅冬東国之廻国行者源次郎与申者、本山之土地二而久々相煩九死一生之詢、弘法大師井本尊馬頭観音へ此伽藍御影堂建立可仕間、此方之命御助ヶ奉願上立願仕候由二而先住代建立被仰付被下度与願出少々勧進仕候得共、近年之世柄故に今建立相済不申、右開帳勧場二而今年建立仕度旨御願申上候、右廻国行者源次郎逗留仕居申願主相勤罷有候外二浄入与申道心者、是茂東国者二而願主相加り何角世話仕罷有候、元来少々奉

  意訳変換しておくと
本山の大師堂については、11年以前の冬に東国の廻国行者である源次郎と申す者が、本山の近くで九死一生の病となった時に、弘法大師と本山寺の本尊馬頭観音へ御影堂(大師堂)建立を行う代わりに助命を願った。そこで先住の院持は彼に建立勧進の願主を命じて、勧進活動を進めた。
 しかし、近年の世俗柄で建立までには至らなかった。そこで開帳勧場を行うことになり、廻国行者源次郎と供に、本山寺に逗留していた浄入という東国の道心者(下級仏教者)に世話をさせた。こうして奉加寄進を果たすことができた。         後略

ここからは次のようなことが分かります。
①「東国之廻国行者源次郎」が、本山寺の御影堂(大師堂)建立の願主となり、勧進を行っていたこと
②本山寺には東国者の「浄入」という道心者がて、源次郎とともに勧進活動を進めたこと。
大師堂建立に関わった勧進僧の勧善浄行の墓が境内にあります。
その墓碑銘には正面・側面・裏面の銘文を合わせ、次のように記されています。
俗名宗七、肥之前州松浦郡里邑之人、寛政中、拝四国霊場巡而請当山、万謁光師教英法印、時師有祖堂当建之願志、后以促之、即奉命日吾雖無金銭、以□営事而希投身命而胎師之願□廼勧奨十方四来之檀越而募一粒半銭之助縁、於是道俗喜而投資財、貴賤群而曳土木、遂乃弥勒堂一宇、不日造畢後、有本堂修理之志、未果病而区、
文化二年乙丑四月七日、本山寺現住体教誌
意訳変換しておくと
俗名宗七は肥之前州松浦郡里邑の人である。寛政年間(1789~1801)に、四国霊場の巡礼中に、当山の教英法印から「祖堂(大師堂)」建立の志を聞いて、助力することになった。金銭はないけれども、勧進活動に身を投じ、教英法印の願いを実現すべく十方四来を行き来し、一粒半銭に至るまで助縁を願い、人々は喜んで資財を寄進した。貴賤に関わらず多くの人々が土や木を曳き、ここに弥勒堂(大師堂)は姿を見せた。大師堂完成後は、本堂の修繕を願っていたが、これは適わずに病没した。文化二(1805)年4月7日のことであった。本山寺現住体教誌

 彼の墓が境内につくられていることからみて、その功績が大きかったことがうかがえます。ここからは、本山寺の大師堂建立に際して、廻国行者源次郎や道心者浄入・遍路の浄行などの勧進僧が集団を形成して勧進活動に当たっていたことが分かります。

四国遍路形成史 大興寺周辺の六十六部の活動を追いかけて見ると : 瀬戸の島から
太興寺の仁王門

本山寺周辺の勧進僧の活動を見ておきましょう。
 66番大興寺の仁王門は、関東からやってきた唯円という廻国行者が享保12(1727)から10年間の勧進活動で建立したことは以前にお話ししました。唯円はその業績を買われて、その後は善通寺五重塔の勧進活動に携わっています。唯円の再築から60年後の寛政元(1789)年に、この仁王門は改修されることになります。その改修について仁王門脇の自然石には、次のように刻まれています。
   播州池田回国  金子志 小兵衛
寛政元(1789)年    十方施主
奉再興仁王尊像 並門修覆為廻国中供養
 己山―月     本願主 長崎廻国大助
ここからは、長崎の廻国行者大助が、仁王像と仁王門を勧進修理したことが分かります。大助も、助力した播磨池田の小兵衛もともに廻国行者で、六十六部だったようです。仁王門の台石にも、数多くの人名が刻まれています。これらの人々の力によって改修のための費用は賄われたのでしょう。修理規模がどの程度腕、勧進金額がどのくらいだったかなどは分かりません。しかし、勧進を仕切ったのは、他国からやって来た廻国行者たちであったことになります。
大興寺周辺の廻国六十六部の動きを年表化して見ておきましょう。
宝永7年(1710) 粟井に六十六部の廻国供養塔建立
享保6年(1721) 粟井村の合田利兵衛正照が全国廻国行に旅立つ。同年に「濃州土器郡妻木村の求清房」という廻国行者が地蔵菩薩や丁石を建立。
享保9年(1724) 粟井に遍路と六十六部廻国行者の札供養行われる
享保12年(1727)唯円により善通寺の五重塔の勧進活動をはじまる。唯円はそれ以前に、大興寺仁王門を勧進で建立した実績あり
宝磨5年(1755) 覚心により粟井に庵が建立   同7年に大師堂を建立
宝暦七年(1757) 地元の古兵衛武啓が大興寺境内に廻国供養塔建立
明和4年(1767) 覚心の六十六部日本廻国塔が粟井に建立
安永5年(1776) 覚心の墓碑が建てられる(行年61歳)
安永十年(1781) 河内村の有兵衛門の廻国供養搭が太興寺境内に建立
寛成元年(1789) 長崎の廻国行者大助が、大興寺の仁王像と仁王門を修理勧進

こうしてみると、雲辺寺の麓の粟井の遍路路道筋には、六十六部廻国行者の痕跡が色濃く残っています。周辺の札所寺院で勧進活動を行い、実績や評判を高め、さらに辺路道沿いにある庵などに定着していく六十六部廻国行者の姿が見えてきます。弘法大師伝説をひろめ功徳のためにお接待の心を説いたのも彼らかも知れません。六十六部廻国行者は四国辺路の中に、重要な役割を持って組み込まれていたようです。
  そして、本山寺が大師堂を建立することになると、彼らが勧進グループを形成して、建設資金の調達から人夫募集まで手がけるようになります。

勧進活動と聖人の関係を振り返って起きます。
「勧進」のスタイルは東大寺造営を成し遂げた行基に始まると云われます。彼の勧進は、次のように評されます。

「無明の闇にしずむ衆生をすくい、律令国家の苛酷な抑圧にくるしむ農民を解放する菩薩行」

しかし、経済的な視点で見ると「勧進」は、聖人の傘下にあつまる弟子の聖たちをやしなうという側面もありました。行基のもとには、班田農民が逃亡して私度沙弥や優婆塞となった者たちや、社会から脱落した遊民などが流れ込んでいました。彼等の生きていくための術は、勧進の余剰利益にかかっていました。
 時が経つに従って、大伽藍の炎上があれば、勧進聖は再興事業をうけおった大親分(大勧進聖人)の傘下に集まってくるようになります。東大寺・善光寺・清涼寺・長谷寺・高野山・千生寺などの勧進の例がこれを示しています。経済的視点からすると。勧進を研究者は次のようにも指摘します。

勧進は教化と作善に名をかりた、事業資金と教団の生活資金の獲得

 寺社はその勧進権(大勧進職)を有能な勧進聖人にあたえ、契約した堂塔・仏像、参道を造り終えれば、その余剰とリベートは大勧進聖人の所得となり、また配下の聖たちの取り分となったようです。ここでは勧進聖人は、土木建築請負業の側面を持つことになります。
 勧進組織は、道路・架橋・池造りなどの土木事業にも威力を発揮しました。それが、道昭や行基、万福法師と花影禅師(後述)、あるいは空海・空也などの社会事業の内実です。四国霊場札所の堂宇建設や遍路道整備などに、廻国の六十六部のような勧進僧が活躍するのは、このような歴史的な背景があったからのようです。
      最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献       上野進 札所霊場としての本山寺 本山寺調査報告書2016年 香川県教育委員会

 
6大興寺 明治の伽藍図

前回までは、大興寺の歴史や伽藍変遷について見てきました。今回は、報告書を見ながら実際に諸堂を廻ってみたいと思います。その前に「復習」しておくと
①太興寺は白鳳期の古代寺院からスタートしている
②中世期は、熊野権現の別当寺として修験者達の拠点でもあった
③戦国期に衰退し、江戸時代になって現在地に移転してきて伽藍整備が進んだ
④それを勧めたのは現在の房号となっている山伏寺の泉上坊である。
⑤よって、建造物は江戸時代後期のものがほとんどである。
⑥仏像も近世以後のものが多いが一部平安期に遡るものもある。
以上の予備知識を頭の中に入れて「見仏記」を始めましょう。

6大興寺2
まず駐車場から下りて迎えてくれるのは仁王門です。
 この仁王門には棟札が残されていて、寛政8年(1796)に再興されたことがわかります。報告書には、その特徴を次のように指摘します。
「建物の各様式は、江戸時代中夜期の特徴をよく現し、後期の装飾性の高い建物への移行を検討する指標になる建物]
「禅宗様を多分に取り入れた折衷様式が18世紀以降盛んに使われて定形化していく過程の位置基準」

 仁王門前には寛政元年(1789)の銘のある石造物に、
「再興 仁王尊像井門修覆為廻国中供養」とあり、仁王門の修覆記念碑と考えられます。
ここからはこの仁王門が、寛政元年に長崎廻国の大助が中心となり、仁王門の修覆に取り掛かり、8年後の寛政8年に完成したとものと考えることができます。全国を廻国する勧進者のネットワークの力で二百年以上前に建立されたもののようです。

6大興寺8
仁王門の阿吽の金剛力士像に、御挨拶します。報告書には次のように紹介されています
力感にあふれた写実的な造形は、鎌倉時代中ごろの制作とみられよう。
本像にみる塊量性の強さは、当代に流行した慶派風の引き締まった体躯の力士像とは異質であり、やや古風な趣きのあることが指摘されよう。寛政2年(1790)に彩色がなされ、門の修理がなされたことは木札2と門前の石碑から知られ、肥前長崎の安藤大助が本願主とする廻国行者たちの助力によるものであった。現状は彩色がほとんど剥落しているが、吽形の鼻孔内には朱彩が残る。
6大興寺9

つまり、この仁王さん達は、大興寺が現在地にやって来る前の古い伽藍にあった仏達ということになります。戦火の中で仁王門は焼かれても、僧侶達によって運び出され隠されていたのかもしれません。「古風な趣」の仁王さんと評されていますが、確かにボデービルダーのような筋肉隆々感はありません。そして、作られた鎌倉時代には朱で彩られていたようです。
6大興寺3
仁王門をくぐると正面に三段の石段が迎えてくれます。
報告書は、この石段についても「調査」しています。その石段にお付き合いします。仁王門から真っ直ぐに本堂に登って行く上図の黒く塗られた部分が凝灰岩が用いられている石段です。3つの石段の内、下段と上段が凝灰岩製の切石、中段が花岡岩の切石を使用していようです。下段の凝灰岩は、よく見ると風化が進み、ひび割れたりすり減ったりして、歴史を感じさせてくれます。
6太興寺切石

さて、ここから専門家の分析を聞いてみましょうです。
 この石段に使用されている凝灰岩には、
小豆島の西の豊島(てしま)で産出される「豊島石」
三豊と仲多度の境にまたがる天霧山で切り出された「天霧石」
の2種類が確認できる。
この2種類の石材の特徴は、
「豊島石」が「含有する黒っぽい安山岩が均質で、長石を含む」
「天霧石」が「含有する灰色っぽい安山岩が不均質で、長石が少なく、火山灰が多い」特徴を持つ。
 この特徴から、石段を詳細にみると、下段は左側に砂岩製の耳石を確認するが、ほとんどが「豊島石」であることが解る。また、上段は左右に「豊島石」の縁石及び耳石を確認するが、これ以外は「天霧石」であることが解る。
 県内の石塔などの石造物に使用する石材として、「豊島石」は15世紀後半から使用が確認でき、以降多用される。一方、「天霧石」は鎌倉中・後期からの使用が確認でき、17世紀に盛行することが確認されている。  大興寺の石段も当初は「豊島石」を使用していたが、のちに「天霧石」を使用したことが伺われる。
つまり、大興寺で諸堂が相次いで建立され、伽藍整備が進んだ17世紀後半に、ちょうど「豊島石」「天霧石」が石造物に多用されていると指摘します。この下段と上段の石段の整備は、本堂・大師堂の建立に伴い、境内の整備の一環として、構築されたものと研究者は考えています。
 大興寺境内では、この他にも、次のような所に凝灰岩の切石が使われています
仁王門の基壇前面の縁石
弘法大師堂の基壇右側の縁石
天台大師堂の基壇前面の縁石
庫裡門の基壇前後の縁石
の4ヶ所で、これらは全て「豊島石」の凝灰岩です。この4ヶ所以外は、花崗岩の切石を使用されています。
6大興寺16

報告書では、さらに話を進めて花崗岩の切石で境内を整備した時期がいつなのか探ります。
棟札からは寛保元年(1741)に本堂を再建、天保15年(1844)に屋根の修復を行ったことが分かります。江戸時代後半のこの時期に、風化した凝灰岩に替えて、花岡岩の切石で補修したと研究者は考えているようです。
 何気なく踏んで歩いている石段にまで、研究者は「調査研究」の視線を注いでいるようです。あらためて二百年ほど前に、瀬戸内海の島で切り出され、ここまで運ばれてきた石段の上を歩いているのだと、言い聞かせながら石段を登って行きます。
6大興寺18弘法大師堂.jezupg

石段の下の段を上って辺りを見回して欲しいのです。このあたりは平地になっています。
前回見てもらった僧寂本によって書かれた『四国徊礼霊場記』(元禄2年(1689)の太興寺です。この平地に、この時点では大興寺があったことが分かります。また、太子堂や天台堂がここに下りてきた時期もありました。今は何もなくなって参道のみとなっています。
6大興寺1.本堂jpg

階段を登り切ると正面に本堂が迎えてくれます。
○本堂は、以下のような建立・改修を経てきた事が残された史料から分かります。
慶長2年(1597)に仮堂を建立して以来、承応2年(1653)を経て、
寛文9年(1669)に本堂を建立し、
寛保元年(1741)に、薬師堂(本堂)が再建
天保15年(1844)に屋根の修復
  しかし、調査報告書は「寛保元年(1741)の、薬師堂(本堂)再建説」に「異議あり!」として、次のような見解を示します。
  本堂の細部の様式をみると、寛政8年(1789)に再建された仁王門の頭貫や大斗の木鼻と酷似しており、安直に寛保再建を肯定することはできない。天保棟札にあるように、屋根勾配の緩い箇所や、日当たりの悪い面の修理が行われたこと、同時に仁王門や鐘楼堂の瓦修理も行われたこと、さらに江戸後期の瓦の品質があまり良くないことを考慮すると天保15年の50~60年前に再建されたものと考えられる。
  つまり、仁王門の修理と同じ時期の寛政8年(1789)に再建説を唱え、再建時期を50年遅らせるべきだとしています。どちらにしても、約四百年前の仮堂建立から現在まで、本堂の位置はほとんど動いてないようです。
6大興寺1
 報告書は本堂の総合所見を次のように述べます    
 内部については、内陣・後陣境の組物等に改修の痕跡がある。(中略)
中央来迎壁上部の天女の彫刻が江戸末期のものと推測できることから、弘法大師堂が建設された慶応元年頃に大きな改造が行われたと考える。
 平面形式では、一正面柱間は中央間から外へ柱間を落とし、側面は正面一間通りを礼堂的な外陣、内竃部分二間は床を上げて、建具で仕切り、柱間を外陣よりやや広くしている。後陣は外部からは半丸柱で二間とするが、内部は一間扱いとなり、外観上は五間堂であるが、梁間の空間は四間と考えられることから、密教建築の流れといえなくもない。どういった意図でこの平面計画としたかは定かではないが、興味深いところである。
 当本堂は、県下でも数少ない五間堂の遺構で、内部空間の扱いも密教系仏堂の流れがあり、内陣廻に改造がみられるものの、細部の様式も含め近世後期の特徴ある建物の一つに数えることができる。
次の3ポイントを頭の中に入れておきます
①江戸末期の弘法大師堂建設の際に、大きな改造が行われている
②内部空間に密教的な流れが感じられる
③五間堂は県下でも数少ない近世後期本堂である
さていよいよ本尊様にお会いしたいのですが・・・
残念ながらこの寺の本尊は秘仏という事で、お会いする事は出来ないようです。
6大興寺本尊薬師如来
大興寺本尊薬師如来坐像
写真と報告書で本尊にお会いしに行く事にします。
 薬師如来坐像が本尊です。報告書の所見を読みます
 (前略)
 右肩部から先の腕部は別材を寄せ、腹前で膝前部の横一材を寄せ付ける。左手首は体亙に差し込み、薬壷を掌上に置く。現状の仕上げは体部金泥衣部漆箔かとみられるが、仔細に観察すると大衣部には赤みが感じられるので、朱彩色の名残りとすれば、当初は朱衣金体像であった可能性がある。
 本像の造形は肩張り緩やかに肥痩なく均整良くまとめられ、全体に彫りの抑揚は少なく穏やかなで優美な印象が強い。この作風は平安時代に流行した、いわゆる定朝様に範をとったものといえる。等身で像ながら割り首としない一木割矧造の技量や、また、頭体の一材共木観をも伝えるものとしても興味深い作例といえる。
 定朝様は、平安時代中後期において全国的に風廊するが、木像面部にみる瞼の柔かな盛り上がり方や眼嵩の特徴ある窪み、あるいは豊かに張る頬の様子や整えられた衣文などからすれば、その制作年代は定朝活躍の時期に近い11世紀中後半ころかと推測される。
 この寺にある仏像は、平安時代3点、鎌倉時代4点、室町時代1点、江戸時代29点で、金銅製の神仏習合時代の懸仏中尊1点以外は、すべて木彫と報告書は記します。
平安期の仏さんのひとつで「11世紀中頃の定朝様の観音坐像」です。
6大興寺薬師本尊2g
 なぜ、お薬師さんがこの寺の本尊なのでしょうか?
 それは、まずここには熊野権現が勧進され、熊野神社が鎮座したからです。
神仏習合の時代には、熊野権現の本地仏は薬師さまでした。そこで熊野権現を勧進した行者は、この地の有力者の保護を受けつつ、熊野神社を建立し、別当寺として太興寺を建て、社僧として別当職を勤めるようになったというのが私の想像です。この仏も仁王さまと同じく戦果を逃れて、太興寺がここに遷た以後は、この本堂に秘仏として座っていらっしゃるのでしょう。 
  観音坐像の脇士として、両脇に立っているのが毘沙門天と不動明王です
報告書を見てみましょう。
6太興寺HPTIMAGE
不動明王立像は両眼開目して、

牙上出し、巻毛、頂蓮をつける。右手を垂下して剣を執り、左手は屈劈して絹索を握る。着衣の彫りは浅く、忿怒相も控えめであり、制作は平安時代後期期とみられるものである。

6太興寺
毘沙門天立像は、
現状では後世の修理を受けて粗い彫り口を呈する状態にあるが、頭部天冠台に遺された、列弁の内側に花弁型の飾りをあしらう形式は、平安時後期の特徴的な意匠であり、本像の制作年代を示しているものとみられよう。
中尊の左右に不動明王と毘沙門天天像を配する形式は、比叡山横川の観音堂に起源するとされるが、薬師如来が朱、衣金体であることころと併せて尊像構成も天台の系譜をひくものかと推測される。
本尊の薬師さんを、修験者の守護神である不動さんと毘沙門さんがお守りするというのも、いかにも密教修験者の寺らしい取り合わせだと思います。
この他に本堂には、江戸期の十二神将やかつて焔魔堂に祀られていた閻魔十王と奪衣婆の十一体も同居していて、にぎやかな雰囲気です。
6大興寺7 地蔵堂前
 報告書が気にしているのは「正面外陣に安置される地蔵菩薩立像」のようです。
 ほぼ等身大の地蔵さまについて次のように記します
作風と構造から江戸時代中ごろ以降とみられる。外陣に安置されることは客仏である可能性が高く、旧所在が不明なのは大いに不審である。像高からしてあるいは中世に所在した旧大興寺の本尊であった可能性もあるのではなかろうか。
 
私は、近世の絵図に仁王門前に描かれている「地蔵堂」に祀られていたお地蔵さまではないかと思っています。近世には地蔵信仰が庶民に広がり、新たに地蔵を祀る地蔵堂が霊場にも姿を見えるようになります。
6大興寺13

境内を歩いて感じる事は、直線的で近世近代的な伽藍配置であることです。それは、この寺が近世後半になって新しい場所で新しい伽藍が作られていったのですから当然かも知れません。しかし、江戸時代後半に出来上がった本堂には、平安期の観音様と不動様・毘沙門様がいらっしゃいました。
  以上、本堂まで見てきましたが今回はここまで
最後までお付き合いいただいてありがとうございました。
6大興寺5弘法大師

参考文献 香川県「四国霊場第67番太興寺調査報告書」2014年
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