瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:太閤検地


タイムトラベル 太閤検地 全体図
   タイムトラベル 秀吉の太閤検地と刀狩り 中学校社会科歴史教科書(帝国書院)

前回は、秀吉によって天下平定が進む西日本のお城と城下をイメージして描かれた絵図で太閤検地を見ました。
 今回は刀狩りを見ていくことにします。この絵図で刀狩りが描かれているのは右端のシーンです。拡大して見ます。

タイムトラベル 刀狩り寺院に対する刀狩シーン
豊臣政権は「刀狩令」によって、百姓から武器を取りあげましたが、寺社勢力からも取りあげています。それは中世の大きな寺院が比叡山の延暦寺や紀州の根来寺のようにたくさんの僧兵をかかえ一大軍事拠点でもあったからです。善通寺も室町時代には軍事集団の拠点として機能していたことは、以前にお話ししました。そのため信長や秀吉は、寺社勢力の勢力を削ぐ政策を進めました。
 
刀狩り セリフネーム

門前にやって来た刀狩執行役人と対応する住職は、どんなやりとりを行っているのでしょうか。セリフを入れさせて、生徒の理解度を測ることが授業では行われているようです。たとえばこんなやりとりでしょうか。
担当役人
太閤秀吉様によって、天下泰平の世の中がもたらされた。もはや刀や薙刀などの武具は不用である。ちなみに、平和な世の中の到来を感謝して、太閤さまは京に大仏を建立することになった。ついては、その工事に使うのでお寺にある武具を、差し出すようにとの命令である。この寺には、多くの武具がしまい込まれていると聞いているぞ。隠し立てすると、ためにならんぞ。すべてここに持って参れ
住職
はは、分かりました。秀吉様のありがたい功績に感謝して、武具を差し出します。大仏建立に使われるのであれば、本望です。
こうして兵農分離が進みましたという授業の流れのようです。
タイムトラベル 秀吉が近世への道を開いた

しかし、近年では短期間で一気に変わったのではないと研究者は考えるようになっています。その説を今回は見ていくことにします。テキストは「太閤検地と刀狩~その時、時代は変わらなかった!?  歴史街道2019年3月号」です。

刀狩については、太閤検地以上にわからないことが多いようです。
刀狩令の原本は13通が伝わっていますが、九州方面に残っているものが多いのです。その背景として、天正15年(1587)の秀吉の九州征伐の際に、国衆や農民の一揆を鎮めに出されたためと研究者は考えています。つまり、最初は九州限定で発布されたが、徐々に全国的な法令として広められたという説になります。その内容を押さえておきます。

刀狩り令1
 秀吉の刀狩令 第一条
 条々
一 諸国百姓刀わきさして鑓(やり)てつぽう(鉄砲) 其外武具の類所持候事堅御停候。いらざる子細ハ不入道具を相たくハへ 年貢所当を難渋しめ自然一揆を企て給ひ人に対し非儀動(ひぎのうごき)をなす族(やから)勿論可有御成敗 然者(しかれば)其所の田畠令不作 知行ついゑになり候間 其国主給人代官として武具悉取集 可致進上事
一 右とりをかるへき刀脇指ついゑにさせらるべき 儀にあらす 今度大仏御建立の釘かすかいにおおせつけらるべし。可被仰付然者今生の儀者不及申 来世までも百姓たすかる儀に候事

一 百姓ハ農具さへ持耕作専に仕候へは子々孫々まで長久に候百姓御あれミを以てかくのごとくまことにらく如此被仰/出候誠国土安全万民快楽之基異国にてハ唐のそのかミ天下を鍛のうきにもちう撫宝剣利刀を農器用となり本朝にてためしあるへからす此旨をまもり各々趣を存知百姓い農桑を精に可入事いるべき右道具急度取集可致進上候不可油断候也
                            秀吉朱印
天正十六年七月八日印 

意訳変換しておくと
 条々
一 諸国の百姓は刀(わきさし)・鑓(やり)てつぽう(鉄砲)以外の武具のの所持を禁止する。不必要な武具を持ち、年貢徴税に抵抗し、一揆を企てるような非儀を行う者達は成敗する。ついては、その国の大名はすべての武具を集めて、進上すること。
一 差し出された刀や脇指については、今度に建立される大仏の釘やかすかいに使用される。刀が大仏建立のために役立てば、来世でも百姓たちは救済されることになる。

一 百姓は農具のみを持ち耕作に専念し、子々孫々まで長久に暮らしていけるようにとの太閤様のはからいである。国土安全・万民快楽の基礎とする。中国の唐の時代には、天下を耕すために宝剣利刀を農器用したこともある。この趣旨に学び、百姓は農業に精をだすべし。よって農業に不必要な武具などは急ぎ回収するので差し出すこと。この布令に従い協力すること 
                                    秀吉朱印 
天正十六年七月

第1条は、農民の武具の所持を禁じて、国主らに農民の武具の没収と進上を命じている。
第2条は、取り上げた刀などの武器は、大仏(方広寺)を建立する際の釘などに活用すること。これにより、農民は現世だけでなく、来世までも救済されると説く。
第3条は、農民は農具をもって耕作に専念すれば、子々孫々まで長く続き、それは秀吉が農民を憐れむ気持ちの顕れである
ただ差し出せと云わずに、「大仏殿の釘などに使う。それがお前達の功徳となる」という言い回しが秀吉らしいところです。しかし、この刀狩には例外事項が数多くあると研究者は指摘します。例えば、町人には帯刀を許しています。また、寺社などの神事のときには刀などの使用を認め、所持を許しています。言わば祭器として許可されていたとも云えますが、総てが没収されたわけではないことを押さえておきます。農民の場合も、害獣(鹿、猪)駆除のためには鉄砲の所持を認めています。こうして見ると、総て一律に武器所有を禁止したものではないのです。そういう意味では、刀狩そのものは不徹底なものだったと研究者は指摘します。
 また、村々に代官を派遣して、一軒一軒を訪ねて調査したうえで、武器を取り上げることは現実的には無理がありました。そのため村の代表者に依頼し、適当に済ませることもあったようです。例えば加賀・前田家の場合は、村の代表者が誓紙(誓約書)を提出し、辻褄合わせだけをしたと伝えられます。そうすると、「刀狩り=農民の全面的な武装解除」というイメージとは程遠い現状であったことになります。
 以上から、刀狩の目的は、農民の武装解除ではなく、身分標識(帯刀できるのは武士身分だけ)を明確にする点にあったと考える研究者もいます。
 中世社会は危険な社会で、農民も脇差しを手放さなかったことは以前にお話ししました。
村では水争いや、入会権など縄張り争いが頻発していました。戦乱に巻き込まれることもありました。日頃の治安維持や害獣の駆除にも武器が必要です。これはアメリカの西部劇と同じで、自分たちの身は自分たちで守らねばならなかった時代だったのです。そんな中では、刀などの武器は農民に必要不可欠でした。そんな中で、刀狩令という布告だけで農民達が刀や鉄砲を手放したと考えるのは不自然です。江戸時代になっても農民は武器を所持し続けていたことが次のように報告されています。
A 1588 年8月に京から贈られた加賀の大聖寺領内への 「加州江沼百姓らの武具の請取状」の添え書には次のように記します。

「町人で田畠をつくらない者には、人を指定して、刀・脇差 をもたせてもよい」

ここからは町人に対しては、免許制にして協力的な者には帯刀を認めていたことが分かります。百姓は禁止し、町人には認めると云うことは「農と商の分離」の身分分断政策の一環として刀狩令が出されたと研究者は指摘します。(藤木久志『刀狩り』岩波新書、pp.77 ~ 78、要約)
B 同じく刀狩令が出されてから1カ月後の加賀の大聖寺領内ではすでに刀狩が終了し、刀1073腰、脇差1540 腰、 鑓身 160 本、こうがい 500 本、小刀 700 本の多量 の武具が集められました。ところが、ここにはもっとも強力な武器である弓矢や鉄砲は一つも記されていません。しかも、京の取次ぎ役からは「刀・脇差の員数が少ない」と催促されています。(前出『刀狩り』pp.75 ~ 77、要約)
C 1590 年の出羽仙北の一揆解体を進めた上杉景勝軍の奉行は、一揆方の村々から 4473 点の武具を没収しています。その中から秀吉方で受けとったのは刀・脇差だけで、鉄砲はありません。すると17世紀末の農村には、武士層のもつ以上の鉄砲が残されていたことになります。それを裏付けるのが徳川綱吉の時代に、仙台藩には 3948 挺、尾張 藩 3080 挺以上、長州藩 4158 挺、紀州藩に至っては 8013 挺もの鉄砲があったことを研究者の報告です。(塚本学『生類をめぐる 政治』講談社学術文庫、p.13、要約)
以上からは、刀狩令以後も村には鉄砲などの大量の武具が残されていたことが分かります。すぐに兵農分離は実現したわけではないようです。

 織田信長が戦に強かったのは、兵農分離を実現し、農閑期以外も戦えたためと云われてきました。
しかし、これは史料によって裏付けられたものではありません。断片的な史料をつないで推測されているに過ぎないのです。先進的とみられる織田軍団でさえも、兵農未分離だったと研究者は指摘します。   
兵農分離の通説と異説

 歴史教科書に書かれていることを要約すると、次のようになります。

近世の城下町には武士が集住し、町人の居住地が定められたり、寺社も集中配置され寺町を形成する。そして百姓は村落で農耕に専念する。つまり、秀吉の検地と刀狩りによって兵農分離が進み、村にいた武士たちは城下町に住むようになった。そのため近世の村には武士はいなくなった。

しかし、兵農分離による城下町の形成は、どうもこのように円滑に進んだわけではないようです。
武士は、それまでは自分の所領に住んでいて「一所懸命」で土地とのつながりが強かったのです。そのため所領から引き離し城下に集住させるのには、いろいろな困難がありました。讃岐生駒藩では、江戸時代になっても生駒藩に登用された地元の武士集団が、相変わらず自分の領地に居住し、盛んに新田開発などを進め、農業に従事しています。これが生駒氏が連れてきた家臣集団と対立し、生駒騒動の原因となることは以前にお話ししました。 そのため高松城の城下町には、家臣団の屋敷が建設されずに空き地が数多くあったのです。そうなると藩主が描いた城下町プランは、なかなか進まずに「絵に描いた餅」状態になります。その一例が、生駒藩時代の高松城だったと研究者は考えているようです。
 
最後に  香川叢書第二(名著出版1972年)の「高松領郷中帯刀人別」という史料を見ておきましょう。
高松藩 郷中住居の御家来

ここには宝暦年間の高松藩内の郷士・牢人などの帯刀人を一覧化されていて、帯刀を許された由来が記されています。「郷中住居之御家来(村に住んでいる家臣)」とあって、上記の12名の名前が挙げられています。  郷居武士とは、藩に仕える身ですが訳あって村に居住する武士です。兵農分離で、武士は城下町に住むのが普通です。彼らは、村に住んでいますが身分的には、れっきとした武士です。そのため村内での立場や位置は、明確に区別されていたようです。 藩士は高松城下町に居住するのが原則でしたが、村に住む武士もいたようです。ここからも、一律に兵農分離が行われた訳ではないことが見えて来ます。
兵農分離が実現しなかったからといって、秀吉の行なった諸政策が否定された訳ではありません。
秀吉の目指した政策は、現実社会との葛藤のなかで、実現のためには長い時間を要したということになります。そういう意味では、秀吉の政策は江戸幕府に継承されながら時間をかけながら整備されていったということになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「太閤検地と刀狩~その時、時代は変わらなかった!?  歴史街道2019年3月号」
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          中学校歴史教科書 帝国書院 タイムトラベル 太閤検地

 このイラストは秀吉によって天下平定が進む西日本のお城と城下をイメージして描かれているようです。
前面には田んぼと農家、その背後に姿を現しつつあるお城と城下町が描かれています。遠くの山の上には中世の山城が見えます。それがやって来た藩主によって、海の近くに新しいお城が築かれています。丸亀城や高松城もこんな風に作られたのかも知れません。 城の周りには同時並行で、城下町が作られます。これについては、また別の機会に見ていきます。今回見るのは、中央の田んぼの中です。

太閤検地 kakudai

竹竿と縄で測量が行われています。これが太閤検地です。田畑の面積は、それまでは百姓の自己申告による「指出検地」でした。それがひとつの土地にひとりの年貢請負人(=土地所有者)を決め、面積と田畑の質によって年貢を決める仕組みになります。役人が田畑に直接入り込んで検地をするというのは、それまでなかったことで画期的な出来事です。今回は、秀吉によって行われた太閤検地を、阿波に残された史料で見ていくことにします。テキストは、徳島県立文書館の展示史料です。

上のイラストをもう一度見てみます。
中央の田んぼの中では、棹を立て縄を張っているようすが見えます。これは検地をしている場面です。編笠をかぶり刀を差している武士らしい人が何人か見えます。彼らは検地役人です。戦国時代の検地は,その土地の持ち主の自主申告による差出検地でした。しかし、ここで行われている太閤検地は,検地役人が実際にその土地に入り,決められた基準で検地を行っています。これを丈量(じょうりょう)検地といいます。土地の所有者、面積、生産力ランクなどが決められると、それに応じた年貢が定められます。
検地2
         『徳川幕府県治要略』に描かれている江戸時代の検地
①真ん中の十字の器具をもった人がいて、この「十字木」を中心に縄が張られる。
②田んぼ周囲には長い竿をもった人達が8人。
③四角形の頂点に立つのが「細見竹持(さいみだけもち)」
④各辺中点に立つのが、先に梵天のついた竿をもつ「梵天竹持(ぼんてんたけもち)
⑤指揮・記載していく役人(二本差しの武士)

検地用用具 茨城大学
復元された十字木と縄(茨城大学教育学部)
面積を測りたい土地について、それがどんなに複雑な形だったとしても、同程度の面積の四角形に見なします。そして梵天竹持や細見竹持の動きで、さまざまな形の土地を等積の四角形にしていきます。
検地台帳には何が記録されたのでしょうか。阿波に残る史料で見ていくことにします。

検地帳 阿波那賀郡
阿波那賀郡の検地帳
 
阿波の本格的検地は1589(天正十七)年に始まります。
その前年に佐々成政が秀吉の命令を無視して肥後で検地を強行して失敗します。それを受けて秀吉は、蜂須賀家政、浅野長政・加藤清正・福島正則などを肥後に派遣して検地を行わせます。その経験を活かして翌年に、蜂須賀家政は自国阿波で検地を行います。この時の「阿波天正十七年検地」は、里の村だけでなく、ソラの村も含めた全域で実施されています。
太閤検地 阿波の検地台帳
                      阿波天正十七年の検地台帳

検地の4つの項目
土地ランクを灌漑の実利便性・作物の生育状況等から、上々田・上田にランク分け、
田畑一筆ごとに検地縄と検地竿を使って土地の面積を計測
その土地の生産力を米の収穫高として表示する石高を算出
名請(名負=所有権を認められた)百姓を定めて検地帳。
具体的な表記例を見ておきましょう。
阿波の 太閤検地の記載例 

太閤検地 天正検地帳の基本石高

上記のように検地によって田畑の面積が確定され、それに応じた税が決定されます。
これは農民にとってはそれまでになかった利点がありました。名負人に名前が記されれば、その土地の所有者として認められたことになります。もっと云えば、農民の土地所有が新たにやってきた大名によって保障されたことになります。これは、古代以来の荘園制にとどめをさします。
太閤検地が中世を終わらせた
同時に、荘園の財政基盤としてきた寺社勢力にとっては大きな打撃となります。ある意味で、太閤検地によって中世は終わったと云えそうです。そういう意味では、秀吉は中世を終わらせ、近世の幕を開いたといえるのかもしれません。
  検地を行う役人への注意書きも残されていますので見ておきましょう。

「御両国御検地御作法之事」出原家文書九三 役人への注意書き1
意訳変換しておくと
 (「御両国御検地御作法之事(出原家文書九三)
一 検地をする村々については、前年の収穫高の善し悪しを考慮して竿を入れること。
一  検地に出かけた時は、村全体を見た上で、土地の善し悪しを考慮して検地を行う事
一 御検地之村々、第一用水之有無、悪水仕之趣洪水之害被是相考、田畠之差別尤矩之了簡可仕事
一 方円曲直之外異形之地面竿立難随其地形、猶又地主難心得於地面引地主とも致得心候様可仕候地面之広狹相改候儀竿立肝要之事
一 大地を以小切ニ仕入、尤間数相延口地面ハ是又ヲ引、随其縄打可申事
一 竿立之次第雖為委細、竿之打様依善悪余田不足地有之事二候故、竿ニハ両手をかケヲ折右之ヲ、竿先不曲候様打可申旨、打之者とも二可申付候、竿立竿打悪敷、縦ハ壱反之地壱歩広ク成候へハ壱歩之御年貢百姓永代作取仕、赤壱反之地壱歩狭ク成候へハ壱歩之無地御年貢永代百姓まとひ中段、彼是ヲ以無物仕合、不安義二候事【後略】
(「御両国御検地御作法之事」出原家文書九三)
意訳変換しておくと
一 検地をする村々については、用水の有無、排水の状況洪水の害など、いろいろ考えて、田畠のランク付けを行い、石盛の基準を決定すること。
一 方形・円形・曲線・直線のほか特異な地形の土地の検地は、その地形にしたがって計測すること。それでも、地主が納得しない土地は地縄を引いて、地主共が承服するように検地をせよ。土地の広さ・狭さを再調査する場合も竿できちんと測ることが大事である。
一 広い土地は検地縄で小さく分割して竿で測れ。長さが長い土地も検地縄を引いて、縄に沿って竿で測ること。
一 検地竿の立て方の善し悪しにより、実際の土地より広くなったり狭くなったりする。そこで竿には両手をかけ、腰を折り、右膝を突き、竿先が曲がらないように測れと打ちの者共に申し付けるべし。検地の仕方が悪く、例えば一反の土地で一歩広くなれば、一歩の年貢を百姓が永代作り徳になり、逆に一歩狭くなれば、実際には一歩の土地が無いにもかかわらず、百姓はその年貢を永代払い続けねばならなくなる。あれこれ無駄になるのが惜しく、心配である。
【後略】                 
ここには農民達の反発に学んで、できるだけ納得のいく形で検地を進めていこうとする藩の意向が具体的に示されています。ここには悪代官と大庄屋の賄賂や癒着などは入り込めない緊張感が感じられます。
 時代は下りますが19世紀の住吉新田の検地古文書を見ておきましょう。
住吉新田は、笹木野村の東側に広がる扇形の干潟で干拓されたものです。天明三(1783)年に阿波郡伊沢村(阿波町)の伊沢亀三郎が大坂の商人鴻池清助の出資を受け天明七(1787)年に37町歩の新田を完成させます。その後、弘化四(1847)年に初めて検地を受けています。この時の検地文書を対岸の村の大松村の中家の人が写したものには次のように記します。(意訳)
御検地に付き、氏神の前にて以下のことを誓った
起請文前書きのこと当新田(住吉新田)にご検地が仰せ付けられた。田畑は一カ所も一歩も隠すようなことはしないこと。また道・溝(用水路等)・堀・岸等を田畑にするようなことは少しもしないこと。もちろん、村境もはっきりと申し出ること。
1 田畑であると言って掠めるようなことはしないこと。
2 この度のご検地で、万一竿違い(土地の計り違い)があり、田畑の広い狭いがあった場合は、遠慮なく申し出ること。
3 この度お断り申し上げた、道・畦・用水・堀などに仰せ付けられた土地は、後年になって田畑にすることがないようにすること。
4 この度ご逗留中のお奉行様方は当然ですが、お竿打衆、ご家来衆まで草履、草鞋、雑子(人夫役もしくは粗末な食事の外は、少しもお礼のようなことはしないこと。
この文書が村の氏神(住吉神社?)の前で検地について間違いがないように、起請文形式で取交わしたものであることが分かります。第四条の「お礼をするな」というのは、役人へ賄賂を送るなと云うことです。ここでも同じような細かい注意がされています。(「起請文前書之事」中財家文書二〇)

住吉新田の検地前には、担当名主に対して次のような心得が出されています。
  申渡覚【中略】
板野郡住吉新田が、この度御検地を仰せ付けられ、名主の心得は誓紙前書きの通り大事なことなので、すべて忘れることがないようにしなさい。少しでも心得にくいことがあれば指図を受けなさい。
 御検地のことは百姓にとってずっと気にかかることであり不安なことである。だから心して取り組んで行くが、問題は多岐に渡るので、土地の善し悪しをきちんと掌握することは難しく、不行届になることもある。だから名主(庄屋)の覚悟が肝心である。御検地に出来不出来があっては、後々まで煩わしいことになり、作人共の苦労はとても重いことになる。名主はすべてに心を配り、問題が生じたときには申し出なさい。言うには及ばないことだが、不埒な申し出に対しては、監督不届きとして処罰もある。
一 検地の際に、周辺に戸外に出て見守ることは、役目を勤める者以外で無用の者が出てくることは、絶対に止めさせること。
一 郷役の雑子(人夫役もしくは粗末な食事)、草履、草鞋以外、少しのお礼(賄賂)も厳禁でである。そのことは役人の家来の者共へも申し付けてある。万一家来の理不尽な行動があったならば、早速申し出なさい。そのことを隠しおいて後で分かった場合は、あなた方が不届きなこととなり処罰の対象となる。
一 役人の旅宿へ名主の外、無用の人々の出入りは差し止める。もっとも、名主であっても用事が済んだならば、早速退出すること。
 火の用心を堅く申し付けておく。
 右の条文の通り、忘れないように、堅く心得ておくこと。
(「申渡覚」中財家文書二〇七)
 これを見ると起請文前書きを受けて、さらに細かな名主の心得が書き出されています。第六条には起請文前書きと同じく検地役人に対する賄賂の禁止が繰り返して記されています。さら第七条では、農民が検地役人に近づくことまで規制しています。幕末になっても検地作業の現場は、緊張感でピリピリしていたことがうかがえます。研究者は次のように指摘します。
私たちは、映画やテレビドラマから、ともすれば、検地役人が一方的に土地の面積を測り、等級を決め、石高を定めたように思いがちですが農民側の意向も踏まえながら慎重に検地をしたようです。検地帳は、土地基本台帳として、筆写されたり、付箋が貼られたりし ながら幕末・明治初めまで、大切に使用・保管されてきました。 
次に一番手前の農家の庭先を見ていくことにします。

タイムトラベル 太閤検地 升

庭先には、役人がやってきて、村絵図を見ながら枡を主人に渡しています。なんと言いながら渡しているのでしょうか?
こことここが、お前の土地に間違いないか。この土地の面積や等級は検地台帳の通りに決まった。ついては、これらの土地の所有をみとめるので、定められた石高の年貢をきちんと納めること。その際には、この升を使用すること。今まで使っていた升は廃棄せよ。

秀吉の度量衡


この農家を見ると、築地塀に囲まれ、牛や馬がいるので、この村を代表する指導的な本百姓のようです。彼らは戦国時代には国衆として、戦国大名の軍事力を担う存在でもありました。新たにやって来た大名とっては彼らを支配下にうまく組み込んでいき、年貢徴収などに協力させることが大きな課題となります。江戸時代になると彼らに,年貢の徴収や村の中のさまざまな事件の処理,人心の掌握などを任せるようになります。その最初の接点が、検地であり、刀狩りであったことになります。

石高制の確立
太閤検地 年貢米の計算

こうしてみると、秀吉は課税をしにくい畠や宅地(居屋敷)についても、米価に換算するための価値尺度を作ったことになります。豆類や大根やニンジン、野菜などの農作物を、米だったら○石○斗になりますと換算表示するのが石高制です。そしてその石高をもとに徴税するシステムです。また、田も畠も土地の善し悪し(土質)や水利によって収穫高は異なるります。そのために田畠をランク分けして、公平に徴税できるようなしくみをつくったことになります。現在なら、給料30万円の月収といえばその人の財力をだいたい知ることができるように、30石の米がとれる農地を持っている百姓とか、30万石の米がとれる領地を持っている大名とかいえば、同じ米という価値基準でその人の財力をはかることができます。石高や徴税の原則を立ててしまえば、米という価値に一本化するので、徴税・納税もやりやすくなります。ここでは石高制とは、お金の代わりに米で農民や武士の収入基盤を表現し、課税したり知行地として支給したりするために考え出された制度であるとしておきます。しかし、米はお金と違って、年によって収穫量が変化します。
 
検地帳に基づく年貢徴収は、村役人の高度な簿記・計算能力が求められました。
同時に、年貢割りつけの本百姓同士の連帯と調整能力も必要です。村役人の高い能力があって初めてできることでした。同時に、検地で本百姓に登録され、土地所有を認められたことは、子孫に至るまでずっとこの土地を耕し、年貢を皆済し、家を存続させていくことが勤めという意識が生まれることにもなりました。

ここまでは阿波蜂須賀藩の検地を見てきましたが、讃岐生駒藩の状況はどうだったのでしょうか?
生駒藩では組織的な検地が行われなかったようです。そして家臣が藩から与えられた所領(知行地)を自ら経営して米などを徴収する昔ながらの方法が続きます。生駒藩の出来事を記述した「小神野夜話」には次のように記します。

御家中も先代(生駒時代)は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,(松平家)御入部已後大勢之御家中故,新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷仰付・・」

意訳変換しておくと

家臣団も先代(生駒時代)は、地方で知行取が行われていた。そのため城下に家臣の屋敷は少なかった。それが松平家の入部以後に、家臣団の多くが城下に屋敷を構えるようになった。そのため新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁などに、侍屋敷が形成拡大されることになった

ここからは次のような事が読み取れます。
生駒時代は知行制が温存されため、高松城下に屋敷を持つ者が少なかったこと、
②松平家になって家中が大勢屋敷を構えるようになり、城の南に侍屋敷が広がったこと
つまり太閤検地によって否定された「国人領主制」が生駒藩では温存され、知行制がおこなわていたようです。そのために家臣団は、讃岐各地に自分の所領を持っていて、そこに屋敷を構えて生活している者が多かったと記されています。さらに、生駒家に新たにリクルートされた讃岐侍の中には、さかんに周辺開発を行い知行地を拡大する動きも各地で見られるようになります。つまり、生駒藩では検地も不徹底で、家臣団の髙松城下町への集住も進まなかったことを押さえておきます。言い換えると、讃岐では太閤検地は、農村に劇的な変化をもたらさなかったし、兵農分離も進まなかったということになります。
歴史の授業では、次のように展開します。
タイムトラベル 秀吉が近世への道を開いた

ここまでは太閤検地の統一性に重点を置いて見てきましたが、近年になって報告されている不統一性や不完全性を挙げておきます。
1590年の小田 原攻撃後に、秀吉は腹心の増田長盛を安房国に派遣して検地を行わせていますが、その知行充行状には次のように記します。

「一、本銭百六十五貫文 三百三拾石 な かさ郡かいすか村」

ここには知行高が石高で表示され ていますが、その実体は本銭の貫文を1貫文=2石の比 率で換算しなおしたものです。(川名登『戦国近世変革期 の研究』岩田書院、pp.230 ~ 233、要約)
②1597 年に徳川家康が行った武州入西郡妙覚寺内桃木村の検地では「一 畑百弐拾文」と貫文表示しか記録されていません。(中野達 哉『近世の検地と地域社会』吉川弘文館、pp.44 ~ 48、要約)
③太閤検地には朝鮮侵略の兵力動員の割当て を定める目的もあったと研究者は指摘します。。
④長宗我部元親が行った検地帳には石高の記録がない。長宗我部が秀吉に申告 した石高は9万8千石でうが、関ヶ原の戦い後に土佐国領主になった山内氏の報告では、24 万8千石だっ た。(三鬼清一郎「天下人秀吉の誤算」NHK取材班『歴史誕 生7』角川書店、pp.46 ~ 53、要約)

秀吉による近世の幕開け
秀吉による近世社会の幕開け
このような報告から近年の研究者は、秀吉の太閤検地や刀狩りで兵農分離が劇的に進行したとは考えていないようです。それは江戸時代を通じて長い年月を経て形成されたと考えるようになっています。次回は、この絵図に書かれている刀狩りを見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
徳島県立文書館の展示史料
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