瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:奈良家文書

大堀居館と木ノ崎新池の流路
まんのう町吉野上 木ノ崎から大堀居館へのかつての土器川の流路跡(まんのう町HP
 以前にまんのう町の吉野の中世居館跡とされる大堀遺跡を紹介しました。この居館の外堀には出水があり、そこから下流に供給される灌漑用水が、この居館の主人の地域支配の根源だったのではないかという説をお話ししました。その際に、水源は出水だけでなく上流からの流れ込みもあるような感じがしました。そこで確認のためにいつものように原付バイクで、フィールドワークに行ってきました。
 丸亀平野は土器川と金倉川の扇状地です。阿讃の山々の谷間を縫うように流れ下った土器川が、まんのう町吉野の木崎(きのさき)で丸亀平野に解き放たれます。そのため吉野は、洪水時には土器川と金倉川の遊水池化し葦(吉)野と呼ばれていたことは以前にお話ししました。それは吉野が古代の条里制施行エリア外になっていることからもうかがえます。
 中世になると吉野には大堀居館跡が現れます。

中世居館と井堰型水源

大堀の居館の主人が居館外堀に水を引き込む用水路を整備し、その下流域の灌漑権を握っていたという説を以前にお話ししました。湿地帯だった吉野開発は、この時期に始まったと私は考えています。さらに秀吉の命で近世領主としてやってきた生駒氏は、新田開発を推奨します。その結果、土器川や金倉川の湿地帶や氾濫原で今まで耕地化されていなかった荒地の新田開発が急速に進められます。それは水不足を招きます。そのため溜池の築造や灌漑用水路の整備も進められます。新田開発と溜池築造は、セットになっていることを押さえておきます。西嶋八兵衛の満濃池再築の際にも、灌漑用水網の整備が行われたはずです。

 まんのう町吉野
吉野は土器川扇状地で地下水脈が何本も流れている(国土地理院の土地利用図)
この地図からは次のような事が読み取れます。
①吉野は土器川と金倉川に挟まれたエリアであり、洪水時は遊水地であったこと。
②土器川は、吉野木ノ崎を扇頂にして、いくつもの流れに分流し扇状地を形成していたこと。
③その分流のひとつは、木ノ崎から南泉寺前→大堀居館→水戸で合流していたこと。
③の流路が最初に示した地図上の青斜線ルートになります。このあたりは大規模な農地改善事業(耕地整理)が行われていないので、ルート沿いは凹地がはっきりと見られかつて流路跡がたどれます。流路跡沿いに原付バイクを走らせていると、吉野のセレモニー会館当たりで一直線に続く石組み跡に出会いました。水田沿いに並ぶので、田んぼの石垣かと思いました。しかし、どうもその機能を果たしていません。これはいったいなんだろうかと、私の抱える謎のひとつになっていました。
  そんな中で図書館で出会ったのが「芳澤 直起 那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図追跡調査  香川県立ミュージアム調査研究報告13号 2022年」です。ここには、木ノ崎新池という溜池があったことが書かれています。江戸時代の溜池跡を絵図で見ていくことにします。
那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図
              「那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図」(奈良家文書)
この絵図は「那珂郡吉野上邑木之崎新池」と題されていて、吉岸上村(まんのう町岸上)の庄屋役を勤めた奈良家文書の中に含まれているようです。奈良家文書については、以前にお話ししましたが、当時の当主がいろいろな七箇念仏踊りなどの記録を丹念に記録しています。その中の絵図で、あたらしい池の建設予定図のようです。絵図内には新池建設予定の場所や、周辺の寺院・百姓家・山地の様子が特徴的に描かれています。大きさは縦93、5cm、横58、8cmで、細かい字で注釈が何カ所かに書き込まれています。まず絵図上部の木ノ崎から見ていくことにします。

木之崎新池絵図2
木ノ崎周辺拡大部分(那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図)
①上が土器川方面で、石垣の土器川西堤が真っ直ぐにのびている
②木ノ崎には金毘羅街道が通り、その沿線沿いに民家が建ち並んでいる
③鳥居と須佐神社が書き込まれ、このまえに関所があった。
④木之崎新池絵図が描かれた当時、岩崎平蔵は新池の北側付近の木ノ崎に居住していた。
⑤須佐神社の敷地内に、大正12年(1922)5月に、水利のために活躍した岩崎平蔵を顕彰する石碑が建てられている。
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新池跡付近から見た木ノ崎の須佐神社
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近づいて見た須佐神社(土器川扇状地の扇頂に鎮座する)
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南側から望むと鳥居のかなたに象頭山
木ノ崎は土器川扇状地の扇頂部にあり、谷間をくぐり抜けてきた土器川が平野に解き放たれる所でもありました。また、阿波・金毘羅街道が通過するとともに、土器川の渡川地点でもあり、ここには木戸も設けられ通行料が徴収されたいたようです。大庄屋の岩崎平蔵の屋敷もこの近くにあり、彼の顕彰碑が須佐神社の入口の岡の上にはあります。

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岩崎平蔵顕彰碑(吉野上木ノ崎須佐神社)
次に須佐神社から200mほど西に位置する新池の部分を見ていくことにします。

木ノ崎新池5

絵図からは次のような情報が読み取れます。
①水田6枚を積み重ねた縦長の形をした池
②それを南泉寺の上で堤を一文字に築造して水をせき止める。
③北側に石積みの堤築造、南側は山際で堤の必要はない。
ため池予定地の水田には「指上地(差しあげ地)」と書き込まれています。

木之崎新池絵図3

予定地の水田には「上田壱反六畝三歩」などと、水田の等級と広さが記されています。その中に「指上地(差しあげ地)」と記されているものがあります。これが私有の田畑を藩に差し出し、その地に池を築こうとしていたものだと研究者は指摘します。  この「築造予定図」からは池は、六枚の水田を立てに並べた細長い形だったことが分かります。それは先ほど見たように、土器川の分流のひとつが開発新田化されていたからでしょう。開発されていた水田がため池に転用されることになります。そのために、旧流路に沿った形で細長くなったとしておきます。
⑤の場所には、「朱引新池西本堤」とあるので、ここにえん堤があったとことが分かります。この北側に見ることができる上留め状の場所が、かつて西の堤の痕跡と伝えられているようです。
 堤の左側には、「揺」の文字が見えます。
「揺(ゆる)」は、ため池の樋管のことで、ここから下流へ水が落とされます。「揺」付近には「朱引新池西本堤」や「朱引新池揺尻井手」と書かれていので、池の水が下流域にある水掛りの田畑へ配水されたことがうかがえます。
 堤の右側(西側)「此所台目(うてめ)」とあります。「うてめ」は増水の際に、池を護るためにオーバーフローさせる「余水吐」のことです。

木ノ崎新池6
木ノ崎新池の堤とユル・うてめ

こうしてみると、私有の田畑を「指上地(差しあげ地)」として藩に上納し、新たに「木ノ崎新池」が築造されたと云えそうです。しかし、今はここには池はありません。

HPTIMAGE
          木ノ崎新池の位置(まんのう町HP 遺跡マップ)
今は、この池跡を横切る道ができて、そこにはセレモニー会館と広い駐車場があります。現在の姿を見ておきましょう。
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南泉寺から望む木ノ崎新池跡 青い屋根の倉庫が堤があった所

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堤とユルがあった所
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池の尻側からのながめ 左手遙かに象頭山

 いまは、池跡は再び水田に戻っています。田植えの準備をしていた老人は次のように話してくれました。
ここに池があったという話は聞いたことがない。しかし、この田んぼは少し掘ったら礫と砂ばかりで、水持ちが悪い。かつて耕地整理したときに2トンもある丸い大きな石が出てきた。土器川にながされ運ばれて角が取れた川原石や。

 このあたりが土器川の扇状地であることが改めて裏付けられます。
それでは、この池はいつまであったのでしょうか? こんな時に便利なのが戦前と現在の地形図が比較しながら見える「今昔マップ」です。これで日露戦争後の明治39年(1906)に作られた二万分之一測量図「琴平」を見てみます。

木之崎新池絵図4
吉野木ノ崎(明治39年 国土地理院地図)には、木ノ崎新池はない
この地図には、池はありません。山際まで水田が続いています。こうして見ると、幕末に新造された池は、明治末には姿を消したことになります。             
 研究者は、次のような現地での聞き取り調査の報告を行っています。
①年配の方々は、かつて池があったこの地を「シンケ(新池)」と呼んでいる。
②この地の田畑や墓の上留・囲いなどには、若干丸みを帯びた石が用いられているが、これは池の中や、周辺にあつた石を利用したものと伝えられている。
③今はなくなったが、かつては大きな目立つ石が、木之崎徊池であった場所にあり、そこがかつて池の揺があった場所と伝えられていた。
④木之崎新池は、山から流れてくる水を水源としていた
⑤池の水持ちが悪くて短期間で、田畑に戻した
丸亀平野は土器川と金倉川の扇状地で、その扇頂にあたるのが吉野木ノ崎です。そのためこのあたりは礫岩層で、水はけがよく地下に浸透してしたことは先ほど見たとおりです。ため池の立地条件としては相応しくなかったようです。水田化された後も、水不足が深刻で、背後の山にはいくつもの谷頭池が作られています。また、戦前には「線香水」がよく行われていたエリアでもあったようです。
最後に「那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図」が書かれた背景を見ておきましょう。
最初に述べた通り、この絵図は那珂郡岸上村の庄屋役を勤めた奈良家文書の中にあります。奈良家の歴代の当主たちは記録をよく残しています。しかし、残された記録の過半数は、一家の縁者であり江戸時代後半、吉野上村庄屋役や那珂郡大庄れた岩崎平蔵(1768~1840)によるものとされているようです。その中に寛政十年(1798)に、詳細測量を行った上で描いた「満濃池絵図」という絵図資料があります。ここには作成者として岩崎平蔵の名が自署があります。この絵図と「那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図」を比べて見ると、絵図内に描かれている百姓家や、周辺に描かれている円畑の描き方や、文字の筆跡が、両者はよく似ていると研究者は指摘します。つまり同一人物の手によるもので、それはは、岩崎平蔵により描かれたと研究者は判断します。

以上をまとめておきます。
①まんのう町吉野の木ノ崎は、丸亀扇状地の扇頂部に位置し、礫岩が多く水持ちが悪い
②ここに19世紀前半に木ノ崎新池が岩崎平蔵によって築造された
③しかし、水持ちが悪くてため池としての機能が果たせずに短期間で廃絶され姿を消した。
④その跡は、再び水田に戻され、近年はセレモニーホールが建てられている。
⑤地元の人達もここに池があったことを知る人は少ないが、絵図がそのことを伝えている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

追記
木ノ崎新池については、当時の満濃池の決壊と、その復旧ができない状況への対応策だったようです。
嘉永六(1853)の満濃池修築では底樋を初めて石材化する工事が行われました。ところが翌年6月14日に強い地震が起こります。それから約3週間後の7月5日に、満濃池の底樋の周辺から、濁り水が噴出し始めます。 そして7月9日、揺(ユル)が横転水没し、午後十時ごろ堰堤は決壊します。これに対して、多度津藩や丸亀藩が早期修復に消極的で、満濃池は明治維新になるまで決壊したまま放置されます。つまり、満濃池は幕末14年間は姿を消していました。そのため、髙松藩は周辺の池を修築拡大したり、干ばつに備える方針をとります。例えば、この時に回収されたのが善通寺市買田池です。そのような中で、吉野村の木崎に新池が築かれることになったようです。(『満濃池記』)
 つまり、木ノ崎新池は満濃池がなくなったことへの対応策として作られた新池ということになります。もともと木ノ崎新池は三角州の礫地上に作られた池で水持ちが悪かったことは先ほど見たとおりです。そのため明治維新に長谷川佐太郎によって満濃池が再築されると、その「有効性」が薄れて、もとの田んぼに返されたようです。(2025/05/31記)

参考文献
芳澤 直起 那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図追跡調査  香川県立ミュージアム調査研究報告13号 2022年
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滝宮念仏踊り(滝宮牛頭天王社)

 天保12(1841)年7月に、滝宮念仏踊りをめぐって北条組と那珂郡七カ村との間で争論が起きます。
当時の青海村庄屋渡辺駒之助から大庄屋を通じ高松藩に次のような訴願が提出されています。「天保十二年七月 念仏踊一件留 口上」(『綾・松山史』)です。
⑦ 天保十二丑年七月 念仏踊一件留
口上
当村念仏踊当年順年二付、当月二十五日踊人数之者召連、同日早朝滝宮迄罷越居申テ、七ケ村念仏踊済、当村念仏踊候儀ニ付七ケ村村念仏踊済相待居申候所、同日9ツ時分過済ニ付当郡大庄屋中初私共郡中 同役共、人数引継イ入場仕掛候処に付、双方除合(排除)卜相見へ棒突二先フ払ハセ、二王門前へ帰掛候二付、双方除合入場仕候テ踊済候処、大庄屋中ヨリ被申聞候者、御出役所へ先例之通申出仕候哉卜尋御座候二付、踊人数夫々目録今朝組頭ニ持セ御出役所迄相納候段申出候処、尚又右御出役所へ、罷出候様被仰聞ニ付、私義茂七郎同道仕御出役人宿迄罷出申候所、右目録指出候ヘハ則御届相済候義ニテ、前々ヨリ前段御届ハ不仕段御答仕候義二御座候、前々ハ七ケ村踊人数者、前夜ヨリ人込居申候二付、早朝滝宮踊済来候処、当年ハ如何之次第二御座候哉、九ツ過迄も相踊不申二付、当郡踊り人数之者共私共極早朝ヨリ入込相待居申候得共、前願之次第二付大二迷惑仕候、当郡者同日鴨村迄罷帰り、同村ヨリ氏部西庄迄相踊申日割二御座候処、当年ハ右の次第二付一統加茂村迄罷帰候処及暮、其日滝ノ宮計ニテ相済申候、
一 七ケ村念仏踊滝ノ宮踊人数者不残引取、村役人計り右様跡へ相残り居申義二付、私共踊人数引纏罷出申途中ニテ行合候様相成申候、大庄屋中私共罷出候義ハ多人数他郡越踊二参候義二付、右人数召連警固之為罷出候義と相心得罷在候処、七ケ村連も右同様と存候処、右の通踊人数引払候跡へ相残、市立多人数之中ヲ棒突ヲ以片寄可申由、先ヲ払ハセ打通候義、不得其意存申候、当郡ハ多人数引纏入場二相掛候二付、片寄候義も難出来存候得共、当年ハ存不寄義二付、双方除合無難二相済候得共、以後者右様当郡之邪魔致不申様 被仰付置可被下候様 宜奉願上候、以上
  意訳変換しておくと
⑦ 天保十二丑年七月 念仏踊一件留
口上
今年の滝宮への念仏踊奉納は、当村が順年でしたので、7月25日に踊人数を引き連れて、同日早朝に滝宮に参りました。七ケ村念仏踊が終わった後が当村の念仏踊の順番なので七ケ村念仏踊が終わるのを待っていました。同日9ツ時分過ぎ(13時)にやっと終了し、阿野郡大庄屋をはじめ郡中の役共が、踊衆を引き連れて入場しようとすると、那珂郡の付役人と双方で小競り合いが起きて、棒突に先払をさせて、二王門前へ退場しようとしました。この小競り合いについて踊り奉納終了後に、大庄屋から聞き取り調査があり、先例通り御出役所へ報告することになりました。
 踊り人数などについては、目録で前日に組頭に持参させて出役に届け出るのが決まりです。ところが私(義茂七郎)が役人宿に出向いて問い合わせたところ、目録は提出されていないとのことです。以前は七ケ村も踊人数者を、前夜の内に報告していました。しかし、今年はその報告がありませんでした。そればかりか、(予定時刻を大幅に超えて)九ツ過迄(昼過ぎ)までも踊り続ける始末です。
 当阿野郡の踊り組の者達は、早朝から滝宮にやってきて待機していたのに、大迷惑を蒙りました。
当方の北条踊りは、滝宮への奉納終了後に、その日のうちに鴨村まで帰って、鴨村から氏部・西庄と各村社への奉納を例年予定しています。ところが七ケ村の遅延行為のために、加茂(鴨)村まで帰ることが出来ず、この日は滝宮だけになってしまいました。
一 七ケ村念仏踊は踊り終了後に、踊り手たちが残らず退場した後、七ケ村の村役だけが残ったのを確認した上で、私ども北条組は入場しようとしました。大人数の観客の間を入場するために、警固の人数を引き連れています。これは七ケ村組も同じと心得ています。
 私たち北条組が入場しようとすると(七ケ村役員は、市が立つほど多くの人数がひしめく中を棒突を先頭に、打ち払いながら退場しようとしました。そこで入場しようとする北条組と衝突し、小競り合いとなりました。入場中の当方に、除き合いを仕掛けてくるのは、はなはだ迷惑な行為です。以後は、このような当郡の邪魔をするようなことがないように、お上から仰付いただきたい。
宜奉願上候、以上

この「口上」は青海村庄屋から大庄屋を経て、藩に提出されたものです。いわゆる正式文書になります。北条組の言い分は、次の2点にあるようです。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
滝宮念仏踊り 那珂郡七ケ村の構成村と役割一覧

第一は、「七ケ村」が定めを守っていない点を指摘しています。
①例年なら前日に踊込人数目録が提出されるはずなのに、今年は届けられていないこと
②「七ケ村」組が、終了時刻を大幅にオーバーしても踊り続けたこと
③そのため北条組の踊りの開始が、午後からになり、当日の滝宮からの帰り掛けに奉納する予定であった鴨・氏部・西庄村の村社への奉納が出来なくなったこと。
つまり、七ケ村のルール違反に、北条組は大迷惑をこうむっていたとします。
第二は、「七ケ村」役人の横暴ぶりを指摘してます。
七ケ村の踊りが終わるのを、いらいらしながら待っていた北条組に対して、七ケ村は謝罪もせずに退場しようとします。しかも「七ケ村」村役人が棒引き(警護人)に先を払わせながら群衆を払い分けて出て行こうとします。それに対して入場しようとする北条組の先頭の棒引きは、応戦しないと責任問題になります。売られた喧嘩は買わなければならないのです。そこで両者のあいだに「除け合い」(小競り合い)が発生します。

この史料からは、次のようなことが分かります。
①七ケ村組と北条組がセットで同年に、滝宮に踊り奉納を行っていたこと
②北条組は七ケ村組の奉納中は別所で待機し、終了後に入場する手はずとなっていたこと
③北条組は、滝宮2社への奉納後に、鴨村から氏部・西庄と各村社への奉納を予定していたこと
④棒引き(警護)は、先払役で実際に群衆を払い分けていたこと。
 この北条組の訴えについて、高松藩がどのような裁定をしたのかは史料が残っていないので分かりません。
 幕末に岸の上村(まんのう町)の庄屋を務めた奈良家には、多くの文書が残っています。
その中に「滝宮念仏踊行事取遺留」には、文政9(1826)年から安政6(1859)年までの、13回にわたる七箇村組念仏踊の記録が綴りこまれています。筆者は、岸上村の庄屋奈良亮助とその子彦助の二人です。この綴りの冒頭には、次のように記されています。

 正保二(1645)年の滝宮念仏踊の時、夜半からの豪雨で、綾川は水嵩の増した。橋のない時代のことで、七箇村組は対岸で水が引くのを待っていた。ところが、定刻が来て七箇村組の後庭で踊ることになっていた北条念仏踊組が、滝宮神社の境内に入場しようとした。これを川の向こう側から見ていた七箇村組の衆はいきり立った。世話人の真野久保神社の神職浅倉権之守は、長刀を杖にして急流を渡り、北条組の小踊二人を切り殺した。この事件後、北条組は48人の抜刀隊に警固されて、七箇村組とは順年を変えて踊奉納をすることになった。そして、両踊組の間には根深い対立感情が横たわるようになった。

 私は、これは事実を伝えるもので、警護役というのは、実際に起きた事件を教訓をもとに、各組でつけられていると思っていました。しかし、だんだんとこの記述については、次のような視点から疑念を持つようになりました。
①神前で神の子とされる子踊りの幼児を斬り殺しているにも関わらず、その後も朝倉家が久保宮の神職を続けていること。普通ならば厳罰に処せられるはずである。
②高松藩初代松平頼重が滝宮念仏踊りを復活させるのは、慶安三年(1650)年七月のことで、事件のあった正保二(1645)年には、中断期に当たること。
つまり、この年には高松藩では各念仏踊の滝宮へ奉納は中断していて、踊り込みはなかった時期になります。どうして200年後の七ケ村組の記録は、あえて北条村との関係を悪く記す必要があったのでしょうか。
  奈良家文書の「滝宮念仏踊行事取遺留」には、次のようにも記します。(意訳)
 文政九(1826)年に、その北条組に内証が起こって、踊組が二つに分裂した。分裂した一つが七箇村組の後庭で踊らせてもらいたいと、阿野郡北の大庄屋を通じて、那珂郡の大庄屋岩崎平蔵(吉野上村)に申し入れがあった。岩崎平蔵は、「正保の刃傷事件から180年も経っているので、もう大丈夫だろう」と考えて、これを認めた。しかし、踊組の内には根強い反対意見もあって、岩崎平蔵の強引なやり方に反発する勢力が生まれた。
 
 しかし、前回見たように北条組は、寛政6(1794)年の調停書「滝宮念仏踊次第書出覚」で、三ケ村(青海村と神谷・高屋村)の争論を調停し、以後は大庄屋渡辺家の下で円滑に運営が行われています。それは文政元(1818)年7月の大庄屋渡辺家と三ケ村の書簡史料からもうかがえます。奈良家文書が記すように「文政九(1826)年に、その北条組に内証が起こって、踊組が二つに分裂」という事実は確認できません。

  天保12(1841)年7月に、北条組が那珂郡七カ村を訴えたことについて、高松藩がどのような裁定をしたのかは分からないとしました。しかし、次の天保15(1844)年の順年にはある変化が起きています。踊りの奉納日が次のようになっています
①北条組  7月24日
②七箇村組   25日
 ふたつの踊組の奉納日が別の日になっています。また、24日が雨天で、踊奉納ができなかった場合には、北条組は25日の七箇村組の後庭で踊ることとされています。これは、前回の北条組の訴えを受けての高松藩の対応策だったことがうかがえます。
 その次の順年である弘化4年(1847)年を見ておきましょう。
 この順年は、七ケ村念仏踊組は7月14日に大洪水があって、土器川が大破したので、各村社への巡回を中止し、滝宮両社と金毘羅山の奉納踊だけにしています。注目しておきたいのは、久保神社の宮司朝倉石見が、高松藩の命令で笛吹株を召し上げられていることです。代わって真野村から元次郎が担当しています。浅倉石見は、正保二(1645)年の滝宮念仏踊の時に殺傷事件を起こしたとされる子孫になります。
   以上見てきたように、どうも奈良家文書の念仏踊りの北条組との関係について記した部分については、北条組に残る文書と整合性がとれないものがあるようです。

以上をまとめておきます
①正保二(1645)年の滝宮念仏踊の時、七箇村組と北条念仏踊組の間に殺傷事件があったと奈良家文書は伝えること。
②しかし、これについては高松藩による滝宮念仏踊り復活以前のことで、中断時期にあたり疑問が残ること
③北条組は、寛政6(1794)年に調停書で、三ケ村(青海村と神谷・高屋村)の争論を調停し、以後は大庄屋渡辺家の下で円滑に運営が行われるようになる。
④北条組については、文政元(1818)年7月の大庄屋渡辺家と三ケ村の書簡史料からも円滑に運営されていたことがうかがえる。
⑤岸の上の奈良家文書は、「文政九(1826)年に、その北条組に内証が起こって、踊組が二つに分裂し、ひとつが七ケ村の後で踊るようになった」と記すが、史料からは確認できない。
⑥天保12(1841)年7月に、那珂郡七カ村のルール違反を北条組が高松藩に訴える。
⑦その結果、次回からは両者の奉納日が24日と25日に分かれることになった。
⑧またその次の順年には、久保宮の神職の宮座株が没収されている。
 奈良文書の七ケ村組と北条組との諍いについては、綴りの表紙として後世に書かれたものです。19世紀になってからの北条組からの藩への控訴を、過去にまで遡らせて偽作した疑いがあると私は考えるようになりました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

    
最初に前回にお話しした幕府の巡見使について、簡単に「復習」しておきます。
江戸幕府は将軍の代替わりごとに巡見使を派遣して民情の監察を行いました。各藩の寺社数、町数、切支丹の改め、飢人の手当、孝行人、荒地、番所、船数、名産、鉱物、古城址、酒造人数、牢屋敷等々を聴取して領主の施政を把握し、帰還後は幕政に反映するべく将軍に報告しています。
 監察は全国を8つの地域に分け、それぞれ3人1組で一斉に行われました。巡見使は千石から数千石取りの幕臣が任命さるのが通常で、1名につき数名の直属の部下と十数名の近習者、および十名を越える足軽や供回りが随行したので、30名ほどの人数になりました。それが、3名の巡見使では百人ほどの一団となり、迎える側の準備も大変でした。

 受け入れ側は事前の情報収集に努め、傷んだ道路や橋梁を修築し、必要な人足と馬匹、水夫と船舶などを揃えました。巡見使の昼休憩と宿泊には、城下や藩の施設(藩主のための御茶屋)が利用されましたが、農山の村々をまわるときは座敷のある上層の農民や商人の家か、寺院があてられました。休泊所となった民家には、藩の費用で門や湯殿、雪隠が増設され、道路の清掃やさまざまな物資の手配などに追われたようです。その中心となって対応したのは、各郡の大庄屋たちだったようです。今回は、大庄屋の対応ぶりを残された史料から見ていくことにします。
テキストは、  「徳川幕府の巡見使と讃岐 新編満濃町誌245P」です。

1789(寛政元)年5月には、巡見使池田政次郎・諏訪七左衛門・細井隼人がやってきます。
この巡見使の受入準備のために髙松藩は、事前に「国上書」を各巡見使用人宛に提出して「内々のお尋ね」をしています。その「御尋口上書」は50ケ条にもなります。どんな質問が行われていたのか、その一部を見ておきましょう。
一、讃成へはいつ頃御廻可被遊候哉
一、政次郎様御夜具御浴夜等用意仕候に及申間敷候哉御問合仕候
一、御供に御越被咸候御用人方御姓名承知仕度候事
一、御朱印人足の外何沿人程用意可申付候哉
一、御伝馬の外に何疋程用意可申付侯哉
一、御長持何棹程御座候哉
一、御三方様御休泊之内為伺御機嫌夜者等差出候儀是迄通可仕候哉本伺候
一、御三方様御名札是迄は御宿前に御名札長竹二鋏芝切建来り候家格も御座候余り仰山にも可営侯に付此度は御名札御休泊御宿門へ召置候様可仕侯哉御問合仕候
一、御二方御料理え義一汁一末に限り可申旨先達而被仰渡
本長候乍只一茉と申候而は奈り御不自由にも可被咸御座
侯に付′―、重箱何そ瑕集類え口"指上可然ヒロ在所役人共より私共存寄斗にて申童候も力何に村御内々御問合仕侯
一、 一茉に限り候へば平日不被召上候御品には御内々無御腹蔵御言付可被下候本頼候
意訳変換しておくと
一、讃岐へは、いつ頃巡回予定なのか
一、池田政次郎様の夜具や御浴夜などの用意のために、注意事項をうかがいたい
一、お供の御用人方の姓名が分かれば教えて欲しい
一、御朱印人足の他に、それくらいの人足を用意すればいいのか
一、御伝馬の他に、何頭ほどに馬を用意すればいいのか
一、長持は何棹程でやってくるのか御座候哉
一、御三方の休泊で夜伽などは差出した方がいいのか
一、御三方の名札は御宿前に名札を長竹に挟んで立てかけるが、家格のこともあって、この度は名札を休泊宿門へ置くようにしたいが如何か
一、御三方の料理について、一汁一菜に限るとされているが、これではあまりに質素すぎると思われるので、重箱などを加えてもよろしいか
一、 一菜に限るというなら内々にお出しするのはかまわないか

これに対し、巡見使の各御用人より一項一項に付いてこまごまと回答が寄せられています。事前の打ち合わせが髙松藩と、巡検使の用人の間で事前に行われていた事を押さえておきます。

江戸の巡見使用人からの情報を得て、高松藩では次のような指示を大庄屋を通じて、各村々の庄屋に回覧しています。
御巡見御越に付 大小庄屋別段心得
一、御宿近辺にて大破に及ぶ家々は自分より軽く取繕ひ申すべく候
一、御道筋の大制札矢来など破損の分は造作仰付られ候
尤も小破の方は郡方より取計仕L小制札場の分は村方より取繕致し申すべく候
一、御通行筋茶場水呑場郡々にて数か所相建候間見積をもって其の処へ取建仰付られ追て代銀可被ド候
一、御道筋の仮橋土橋掛渡の義幅壱間半に造立て右入用の材木等は最寄の御林にて御伐渡持運人足は七里持積り又は湯所見合積りを以て人足立遣し追て扶持被下候
一、御巡見御衆中御領分御滞留の内別けて火の元入念にいたすべく 御道筋家々戸障子常体に仕置御通の筋は土間にて下座仕るべく候 物蔭よりのぞき申す義仕る間敷惣て無礼無之様仕るべく併て無用の者外より御道筋に馳集候義堅く無用に候
一、御巡見御用に罷出候下々に至るまで惣て相慎み喧嘩口論仕候はゞ理非を構はず双方とも詑度曲事中付くべく候
勘忍成り難き趣意これあり候はゞ其段村役人共へ届置追而裁判致し遣はすべく候
一、御巡見御衆中当御領御逗留中猪鹿成鉄砲打ち申す間敷相渡し申すべく候
一、雨天にて御旅宿の前通行の節下駄足駄履き申す間敷候
一、御案内の村役人共御案内先に代り合いの節御性格等申遣りよく呑込み置きて代り合い申すべく候
一、御巡見御用に罷出候人足馬士等生れつき不具なるもの道心坊主惣髪者子供並に病後にて月代のびたる者指出す間敷候
一、相応の単物にても着用し御仕差出申すべく襦袢又は細帯等にて差出申間敷候 笠は平笠かぶらせ申すべく編笠並手拭にてほうかむりなど致候義相成中さず候
一、寛政の度政所と唱うるところ近年庄屋の名目に相改り居り申すに付自然相尋られ候へば文政六来年より庄屋と唱う様相成居候へども如何なる訳合にや存じ奉らず候段相答へ申すべく候
有の通り村々洩れぎる様中渡さるべく候

意訳変換しておくと

一、御宿附近で大破して見苦しい家々は、自分で軽く修繕しておくこと
一、道筋の制札や矢来などで破損しているものは修繕する事。小破の場合は、郡方より修理し、小制札場については村方で修繕する事
一、通行筋の茶場や水呑場については、郡々で数か所設置する事。後日、見積りに基づいて、代銀を藩が支払う。
一、道筋の仮橋や土橋などについては壱間半の幅を確保する事。これに必要な材木等は最寄の御林で伐採し、運人足は七里持積りか場所見合積りで人足費用を計算しすること。追って支払う。
一、巡見衆の領分滞在中については、火の元に注意し、道筋の家々の戸障子で破れたものは張り直すこと。通の筋の家では、土間に下座して見送る事。物蔭からのぞき見るような無礼な事はしてはならない。併て無用の者が御道筋で集まることは禁止する。
一、巡見御用衆が郡外に出るまでは、互いに相慎んで喧嘩口論などは起こさないように申しつける。
  勘忍できないことがあれば、その都度村役人へ届け出て判断を仰ぐ事。
一、巡見衆中が滞在中は、猪鹿などを鉄砲で打ことを禁止する。
一、雨天に御旅宿の前を通行する際の、下駄足駄履は禁止する。
一、案内の村役人は交代時には、巡見使の性格などを申し送り、よく呑込んで交代する事。
一、巡見御用の人足や馬は、生れつき不具なるものや、道心坊主惣髪者子供や病後にて月代のびた者などは選ばない事
一、衣類については、相応しい単物を着用すること。襦袢や細帯の着用は禁止。笠は平笠を被ること。編笠や手拭ほうかむりなどはしないこと
一、寛政年間までは「政所」と呼んでいたのを、近年に「庄屋」と名称変更したことについて、どうしてかと尋ねられたときには、「文政六年より庄屋と呼ぶようになりましたが、その理由は存じません」と答える事。
以上を村々に洩れなく伝える事。

  「髙松藩 → 大庄屋 → 庄屋 → 村民」という伝達ルートを通じて、下々までこららのことが伝えられていたことが分かります。巡検を受ける藩にとっては、一大事だったことがあります。
 満濃池で植樹祭があった時に、時の天皇を迎える時の通達を思い出します。そこにも、「2階から見てはいけない、服装は適切な服装で、沿道の家は植木などの刈り込みも行うこと」など、細かい指導・指示が行政から自治会を通じて下りてきました。ある意味では、江戸時代の巡見使を迎える準備対応ぶりの昭和版の焼き直しかもしれません。この通達がルーツにあるのかも知れないと思えたりもします。

今度は大庄屋や庄屋に出された「御巡見御越に付大小庄屋別段心得」(満濃町誌253P)を見ておく事にします。
一、惣て御案内の仕方は郡境より同境までと相心得申すべく候 郡境へ罷出相待候節諸掛場所家居これなき処は相応の小屋掛にても致し出張村役人の散らぎる様相集め置き申すべく候
一、大庄屋は羽織袴半股立に草履を履き、草履取桃灯持召連れ郡境にて御待請御先御用人ら参候まで草履取桃灯持ども召連居申し右御用人間近に相成候はゞ右家来を先に遣置き尤も俄雨又は夜に入る節は夫々用向等辯じられる様申付置は勿論の事に候
御案内の庄屋は羽織小脇指に高股立 組頭は羽織ばかり無刀にて罷出候義と相心得いづれも草履にて候
尚右大庄屋中より先方駕籠脇へ挨拶済の上夫々役割御案内に相掛り申すべく候 尤も前々は却て御案内駕籠先へ立候義もこれあり候 既に寛政の度は御駕籠脇へ引添御案内致候指図これあり候義もこれあり是等の義は臨機応変の事に候
一、御先御用人御出の節太庄屋中出迎御駕籠脇にて
〈私儀何郡大庄屋何某と申す者にて御座候御三方様御案内の庄屋与頭共引纏め罷出候御用御座候へば仰付下さるべく候〉と申述べ御用人中より指図通り御案内仕るべき事
一、御朱印箱の義は甚だ御大切の御品にて御案内の者は勿論持人までも別けて気を付け有御箱取扱の節上問等へ指置候義は素より御旅宿にても上げ下げ等の節油断なく取扱申すべき事
一、御道中夜に人る節は御印付高張六張並八歩高付御桃灯三拾張差越候義と相心得申すべき事
一、御通筋家続のところは表軒下へ掛行燈にて燈さすべき事
一、御道筋廉末これ無き様手前に洒掃致し置候上は御通りの節俄に帯目入る義は却てごみ立ちよからず候間願くは水を打ち置く様致度き事
一、御道中夜に入る節庄屋与頭等御案内の者自分自分の定紋付桃灯燈し申すべき事
一、御案内合羽の義大小庄屋は青いろ与頭は赤合羽着用の事
一、大小庄屋組頭郡境にて他郡へ相渡候節先に相立居申す御案内の者少し先へ踏込み御巡見御衆中並用人迄も御通行順御性格等を他郡御案内の者へ申伝ふ事
六月十七日
意訳変換しておくと
一、案内の仕方は、郡境より郡境までと心得よ。郡境で出向いて待つ時に、近くに家などがない場合は仮小屋を建てて、出張村役人らがバラバラにならないように一箇所に集まるようにしておくこと。
一、大庄屋の服装は、羽織袴半股立で草履きとする。郡境で待請・先御用人などがやってくるまで草履取桃灯持を同伴して待機する事。御用人が間近に近づいてきたらその家来を先に立てて、その後に従う事。もっとも雨や夜になって暗い場合は、それぞれの対応を講じる事。案内の庄屋の服装は、羽織小脇指に高股立 組頭は羽織だけで無刀で、履き物は草履である。
 なお大庄屋は巡見使の乗る駕籠の脇で挨拶を済ませた上でそれぞれの役割案内に掛ること。以前には 案内駕籠先へ立って先導したこともあったようだが、寛政の巡検以後は駕籠脇へ従い案内するようにとの指示があったのでこれに従う。場所・時間によっては先導する必要もあるので臨機応変に対応する事
一、先達御用人が引継ぎ場所にやってきた時の大庄屋の駕籠脇での出迎え挨拶については次の通り
「私儀何郡大庄屋何某と申す者にて御座候。御三方様御案内の庄屋与頭共引纏め罷出候御用御座候へば仰付下さるべく候」と申し述べてから、用人の指図を受けて案内すること。
一、朱印箱については大切な品なので、案内の者はもちろんのこと、持人も特別な注意を払う事。朱印箱の取扱については、取り運びや旅宿での上げ下げについても油断なく行う事
一、道中で夜になった場合には、印付高張六張と八歩高付御桃灯三拾の提灯を捧げかける事
一、通筋の家には、表軒下へ掛行燈を燈させる事
一、道筋については、清潔さを保つために事前に清掃し、通過直前には帯目を入れ、水を打っておく事
一、道中で夜になった場合は、庄屋や与頭などの案内人は自分自分の定紋付桃灯を燈す事
一、案内合羽については、大小庄屋は青いろ、与頭は赤合羽を着用する事
一、大小庄屋組頭は郡境で他郡へ引き継ぐ時に、次の案内の者に巡見衆や用人などの性格などを次の案内者へ申し送る事
六月十七日
  この史料を読んでいて気づくのは、ここには受入側の髙松藩の武士達は一人も登場しないという事です。
私は、髙松藩の藩士達が全面に出て案内から接待まで仕切ったのかと思っていました。しかし、主役は、郡毎の大庄屋や庄屋などの村役人組織であったことが分かります。藩役人は、服装や対応の方法を書面で指示しますが、それを実際に行うのは、大庄屋や庄屋たちだったのです。これだけのことをやってのける行動力が大庄屋の下には組織されていたことに驚かされます。
 指示内容の中には、お下げ銀を出して見苦しい民家の修繕をしたり、道路に砂利を敷いたり、沿道に茶店を設けるなどして、藩の民政が行き届いて、百姓たちの生活が豊かであるように装ったことがうかがえます。
 出迎えに当たっての服装なども細かく指示されています。大庄屋は羽織袴を着用し、村方三役も規定の正装で郡境まで出迎え、宿泊には宿詰をつけて万事遺漏のないように配慮されています。

最後の巡見になる1838(天保9)年の時には、那珂郡の村役人達にどんな役割が割り当てられたのかが分かる史料が残っています。
各行事をきちんと記録していた岸上村庄屋奈良亮助が書き留めたものが満濃町誌に紹介されています。天保九戌午六月御巡見一件役割とあって、那珂郡の村役人の役割分担表であることが分かります。
巡見使役割分担表1

讃岐那珂郡の天保九戌午六月御巡見一件役割 その1

最初に平岩七之助様とあるので、3人の巡見使のうちの主査の担当係とその村名・役職が列挙されています。その役割の内で「案内」「籠付」は各村の村役人。「荷物下才領(人足)」「合印持」は百姓層に割り当てられています。人足も単独の村が出すのではなく、いくつかの村からのメンバーで編成されています。この後に残り2人の巡見使付の役割分担表が続きますが省略します。

巡見使 讃岐那珂郡ルート
讃岐那珂郡の巡見使ルート

那珂郡の巡検ルートは、丸亀を出発して、往路は金毘羅街道を金毘羅まで下って満濃池まで足を伸ばし、復路は宇多津街道を上って宇多津までであったことは前回お話しました。

巡見使役割分担表2
        天保九戌午六月御巡見一件役割 その2
この役割分担表には「公文村茶場・餅屋」とあるので、金毘羅街道沿いの休息所は公文に設けられたことが分かります。その担当者名が記されています。面白いのは、「茶運子供」とあって、給仕をおこなうのが「百姓達の倅」であったことです。
 また、宇多津への復路には「東高篠村水置場」とありますので、高篠にも休息所が設けられたようです。この他、郡家にも水置場が設置され、それぞれ担当者が割り当てられています。

巡見使想定問答書(島根県)

これは鳥取県智頭町の大庄屋が作成していた「想定問答集」です
巡見使から質問があったとき、案内などをした大庄屋、庄屋などの村方の役人が無難な返答をするためにつくられたようです。大庄屋たちがが考えた想定質問「銀札は円滑に流通しているか、勝手向き(財政のやり繰り)はうまく行っているか」などを藩に問い合わせたものに対して、藩が朱書きで模範答案を書いて送り返しています。まさにお役所仕事の入念さが、この時代から見られることにびっくりもしました。今と変わりないなあという風に思えてきます。
 このような準備が入念に行われるようになったため、江戸時代後期になると、幕府巡検は形式的になり儀礼化したともいわれます。しかし、幕府が全国支配の威光を体感せしめるための重要な役割を担っていたことに変わりはありません。このような支配システムを運用する事で、下々の「お上」意識が江戸時代に形成され、それが明治の地方行政にも形を変えながら活かされていくようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「徳川幕府の巡見使と讃岐 新編満濃町誌245P」

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