瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:奈良氏

 伊勢神宮~人はなぜ伊勢を目指す?~(前編)@ブラタモリ - メランコリア
伊勢御師
 以前に冠櫻神社(香南町)に残されている「さぬきの道者一円日記」を紹介しました。この史料は、永禄8年(1565)に伊勢外宮門前町の山田・岩淵の御師である岡田大夫によって作成されたものが、約300年後の安政三年(1856)に書写されたものです。その内容は、伊勢御師・岡田大夫が讃岐の中・東部(県高松市・さぬき市・坂出市・三木町)の旦那(道者)の家々を巡って、伊勢神宮ゆかりの伊勢土産や祈疇札を配り、その代価として初穂料を徴収した記録です。ここからは次のようなことが分かります。
①16世紀半ばの戦国時代に、伊勢御師が野原(髙松)にやってきて、周辺の伊勢信者の檀那衆へ伊勢土産を配り、初穂料を集めて廻っていこと。
②その際に残された記録からは、御師のたどったルートや村々・お土産の種類・初穂料の種類などが分かる。
③そのエリアは現在の高松市周辺にも及び、小領主層や海運関係者・商人・有力農民などが信者となっていたこと。彼らを結ぶのが御師であったこと
④御師は旦那廻りを通じて、村々の中に入り込み、村内部の情況に精通すると同時に、村々をつなぐ存在でもあった。
⑤村々の鎮守やお堂にいた在地の修験者たちも、このネットワークを支える存在であった。
⑥こうして修験者のネットワークを通じて村々の寺社もは結びつけられていったこと。
⑦備前では児島五流の修験者ネットワークを利用して棟別銭が徴収されたこと。
⑧修験者ネットワークをうまく利用し、政治に利用しようとする戦国大名がでてくること
⑨それが土佐の長宗我部元親であり、金毘羅神保護も修験者による流行神創出を支援するという意図があったこと
 その後、三重県史編纂過程で発見されたのが伊勢御師の白米家に伝わる三豊や多度・那珂郡の檀那名簿です。その文書が白米家に伝来するにいたった経緯を見ておきましょう。
 寛永十六年己卯五月讃岐国旦所(檀那名簿)、福井勘右衛門より代黄金九枚二買得、取置有之證文如左永代沽渡申御道者之事在所者、讃岐国我等持分一円、村数家数ハ賦日記相添進之候、右之御道者、我等雖数代持来候、依有急用、黄金九枚二永代沽渡申候処実正明白也、右賦日記之外二他国他所二御入候衆も不依上下、一人なり共御家付次第二其方御知行可有候、則本文書相添進之候、此御道者二借物少も無御座候、若以来六ヶ敷義出来候ハ我等罷出相済可申候、縦天下大法之政徳行候共、堅申合候間、至子々孫々不可違乱者也、仍為後日沽券證文如件
寬永十六己卯年五月吉日 福井勘右衛門書判
互すあい(仲介人) 加兵衛
       仁右衛門
白米弥兵衛尉殿
超意訳変換しておくと
寛永16年(1639)5月、福井勘右衛門が、数代持ち来った讃岐国の道者一覧を「本文書」を添えて黄金9枚で白米弥兵衛尉へ売り渡した。このときの売買の対象となったのは「讃岐国我等持分一円」で、その「村数家数」を記した「賦日記」が白米弥兵衛尉に渡さた。

「賦日記」とは、伊勢御師が諸国の道者(旦那)に伊勢の大麻やそのほかを配り、初穂銭等を受け取るときの記録です。いわば「道者台帳」になります。今回は、伊勢御師白米家から発見された「讃岐国檀那一覧」の三豊分を見ていきます。テキストは、「田中健二 天文20年(1551) 相模国・讃岐国檀那帳(白米家文書」です。
 この文書に、天文20年(1551)2月から10月にかけての間に讃岐・相模両国の持ち分の道者を売買した際に添付された賦日記や證文の一部です。ここには讃岐国の三豊・多度・那珂郡・鵜足郡の道「かすみ(テリトリー)」が次のように記されています。
伊勢御師の讃岐檀那リスト 山本郷周辺冒頭部
伊勢御師の讃岐国檀那帳(白米家文書)NO1
 
最初に「讃岐国山本郷一円」とでてきます。山本郷にお札配布の拠点があったのかもしれませんが、よく分かりません。範囲は、山本郷周辺だけでなく、ほぼ三豊全域に及んでいます。記されている里名を見ていくことにします。①山本郷一円の最初に記されるのは、上河内(山本町河内)、常本・中村・辻・原などです。

伊勢御師の讃岐檀那リスト3
讃岐国山本郷一円の伊勢道者(檀那)とその分布エリア

続いて、中田井・池の尻、小松尾・西光寺、仁尾、などが続きます。財田や三野など、空白地帯もあります。ここには讃岐国豊田郡山本郷とその周辺、一部は山本郷を出身地とする人々で旦那となっている人々の名前が記されています。彼らは御師と、毎年音信する国人たちであったこと、国人らが、周辺の里や村のとりまとめ役をしていたと研究者は考えています。研究者は注目するのは、その中に混じって「寺家 こまつを(小松尾)」が出てくることです。これは、四国霊場の小松尾山不動光院大興寺のことです。後にその子坊が出てきます。これは後に触れることにして、先を急ぎます

2 「いんた(隠田 → 一ノ谷)」は、「香西氏の紀伊・続木殿の知行」
3 あわい(粟井)の里は、四良兵衛殿子孫の知行。その在所は曽根越州殿
  ここから多度郡に飛びます。
4 あまぎり(天霧)城のふもとの中村は、九郎右衛門殿の子孫の知行で、在所は余所。

伊勢御師の讃岐檀那リスト 山本郷周辺4
      伊勢御師の讃岐国檀那帳(白米家文書)に出てくる奈良氏・高井氏・細川氏

奈良氏の部分を意訳変換しておくと

 讃岐のなら(奈良)殿は、檀那であるが近年は音信がない。奈良氏の先祖(本家)は、昔からの檀那で、田宅の奈良殿とは今も音信がとれて檀那であるが、京の奈良殿(摂津守護代系統の一族)とは音信不通になっている。

   この「なら殿(奈良殿)」の第一候補が、坂出の聖通寺山城の奈良氏です。奈良氏は武蔵国の鎌倉御家人で、南北朝期に細川氏の被官となり、讃岐にやって来ます。管領細川氏の摂津守護代を務めるなど有力家臣でした。讃岐では鵜足郡宇多津に所領を得て、応仁の乱の時期には、元安が細川勝元の元で、香川元明・香西元資・安富盛長とともに細川京兆家の四天王と称されます。「南海通記』では宇多津聖通寺山に居城を築き、那珂・鶏足二郡を領し、長尾・新目・本目・山脇氏などを配下に置いたと記されています。そうだとすれば、ここに出てくる奈良殿は元安の子元信かその子元政に当たると研究者は考えています。奈良氏は、守護代香川氏の勢力が戦国大名への道を歩むようになると、次第にその勢力を弱めていきます。この日記が書かれた1551年段階では、畿内の奈良氏とは音信不通になっていたようです。どちらにしても、奈良氏は長く伊勢御師の檀那であったことが分かります。

 続いて登場するのが高井入道殿です
讃岐国人で豊後入道と称する出家武人であったようです。「西讃府志」には、山本町辻に高井下総守信昌が高井城主としていたことが記されています。下総守信昌は天正年中長宗我部元親の讃岐攻めにより戦死し、高井城は落城します。墓は大辻にあったと記しますが、この下総守の一族のようです。下総守の父親の可能性もあると研究者は考えています。
以下続きますが、この檀那一覧表は別の機会に追いかけるとして、ここからは、この檀那名簿が

その下に「にほ(仁尾)の 進上細河(川)土佐守殿」とあります。
「全讃史』の仁保城の項目に次のように記されています。
「仁尾浦にあり。今の覚院の地これなり。細河(川)土佐守頼弘、これに居りき」

この仁尾城主の細川頼弘が第一候補ですが、彼はその後は文献には現れません。頼弘は天正六年(1578)長宗我部元親の讃岐侵攻の際、仁尾城に立て籠もって抗戦、ついに落城したとされます。時は3月3日、これ以後落城の日を忘れないように、仁尾では桃の節句をしない風習がありました。ここで見る土佐守が天正年間の頼弘であるかどうかは、はっきりとしません。現在、仁尾の金光寺に細川土佐守頼弘と称す人物の墓がありますが、「西讃府志」には次のように記します。

「金光寺に細川土佐守の墓あり、此のいかなる人か詳ならず、・・・武家平林に源頼義の一族に讃岐守賴弘言う人見ゆなれど永禄十年丁卯十月三日薨ずとあれば此の人にはあらず」

西讃府志は、死亡日時からこの墓が土佐守頼弘とするのはおかしいと判断しています。しかし、仁尾に細川土佐守がいたことは確かなようです。長宗我部元親侵攻時の仁尾城の主人は細川土佐守の可能性が高くなります。

伊勢御師の讃岐檀那リスト 大平氏
        伊勢御師の讃岐国檀那帳(白米家文書)に出てくる大平氏

最初に「大平三河守殿国人」の名前があります。
この人物は「西讃府志』の大平氏系図の国祐の三代前に国匡(参(三)河守)と記されています。

大水上神社 近藤氏系図
麻の近藤氏の系譜(近藤氏と大平氏は一族)

その後国敏・国雅・国祐と続きます。国祐は和田村の獅子ヶ鼻城(和田城)の城主で、香川氏の家臣として活躍しています。「大平氏系図」によれば、大平氏は藤原秀郷の五男千常の子孫と言われ、千常の子は近藤氏を名乗るようになります。七代目の国平は正治元年(1199)讃岐守護に任じられ、国平の子国から大平姓を名乗り、頼朝より土佐にて所領を給付されたとします。その後、国有の時に三野郡大野村を拝領し讃岐に土着したようです。その四代後がこの国匡になります。
 一方、別の史料では、永禄5年(1562)に国祐は、長宗我部元親に攻められ香川氏を頼って讃岐へ来て、多度郡中村に居住し、のち和田村を領したとも伝えます。しかしこの内容よりも前記のほうが妥当性があると研究者は考えています。ここでは「西讃府志」に見える国匡としておきます。しかし、一族の麻や神田の近藤氏は出てきません。
伊勢御師の讃岐檀那リスト 詫間氏
     伊勢御師の讃岐国檀那帳(白米家文書)に出てくる詫間氏
たくま将監殿とあります
 監天文九年(1540)の「浪打八幡宮遷宮奉加」に「詫間将監三貫文」と出てきます。他に詫間姓の者が多数出てきますが、五百文から二貫文の奉納です。それに対して、詫間新次郎の五貫文に次いで多く奉納している人物です。詫間一族の中でも有力者であったことがうかがえます。
 詫間氏は、藤原氏三井家を祖とし、14世紀に讃岐へ配流されます。三井信行は詫間城主の海崎大隅守元高から三野郡に所領を賜って、海崎氏が西長尾城(まんのう町)に本拠を移すと、詫間城番となり、詫間氏を称するようになります。以後、詫間地域を領有していました。「西讃府志」では詫間城主は詫間弾正とあります。その後、山地氏が入り、荒神城へ移り城主となりますが、天正6年(1578)長宗我部元親の攻撃を受け、敗北して滅亡したとされます。「奉加帳」に弾正の名はないので、弾正の父がそれに準ずる人物と研究者は考えています。
伊勢御師の讃岐檀那リスト 山本郷周辺4
       伊勢御師の讃岐国檀那帳(白米家文書)に出てくる西光寺と大興寺

  上段には、中田井→宗安→池の尻に続いて、西光寺が出てきます。「西光寺」は、今は辻地区の字名となっていますが、もともとは三豊中学校運動場北の畑が「西光寺屋敷」と呼ばれていたと『新修山本町誌』は記します。財田川の左岸に建立された寺院だったようです。

下段後半には、國(柞)田、鋳物師原、原野、しうらく(十楽寺)と続いて、小松尾の坊名が並びます。「新坊」「せしやう(殺生?)坊」「同中ノ坊」「同さいりん(西林)坊」「同とうりん(東輪)坊」です。これらは先ほど見た大興寺(小松尾寺)の坊だったようです。
 大興寺蔵「寺格昇格進之序』には次のように記します。

「下坊三六坊ありし霊剰にして猶寺名伝え有り、東林坊・蓮花坊・三味坊・大円坊等之れなり」

この外、新坊、中之坊があり、これらは大興寺山内に近接してあったようです。太興寺の坊の数は、九坊が確認できることになります。 さらに「寺格昇格進之序」や大興寺蔵「小松尾山不動光院大興寺遺跡略記」(寛文11年以降成立)などには、大興寺には真言系24坊、天台系12計の計36坊があったと記されています。大興寺周辺に地名伝承として残るものと大野の須賀神社に伝来した「大埜村両社記』(貞享五(1688年成立)は、次のような宗教施設があったと記します。
大興寺付近に、 東連坊・普門院、辻東側の十輪寺
大野には 八幡下の円坊、天皇下の円結び知坊・廻向坊・安楽坊・地蔵坊と西之村の智蔵坊
これらが「三十六坊」とされていた宗教施設と研究者は考えています。

6大興寺周辺の字切地図 
四国霊場大興寺周辺の坊跡

 さらに、「いん田」が「隠田」で、それが訛って「一の谷」になったとすれば、大興寺に接続したエリアになります。そうすると、そこにあった行識坊も三十六坊のひとつに数えられます。以前に見た「太興寺調査報告書」にも触れていましたが、この周辺には坊が集中していたようです。ここからも、大興寺が修験者などの山林修行者の拠点であったことが裏付けられます。
 髙松周辺の御師のお札配布活動でも、無量寿寺の各坊の僧侶達が檀那として名前が挙がっていました。彼ら伊勢信仰のお札配布の拠点になっていました。三豊でも大興寺(小松尾寺)の各坊の修験者(聖)の中には、伊勢講の先達となっていた者達がいたのかもしれません。

   末尾に「此衆へ毎年御状を以て音信申し候」とあります。
毎年、ここに出てくる三豊の檀那と伊勢御師が連絡を取り合って、伊勢お札の配布を行っていたことが分かります。また冒頭に「四国の日記讃岐の分」とあります。ここからもこれらの文書が「賦日記」であることが裏付けられます。ません。なお、證文に見える「すあい」とは口入と同じ、仲介者のことだそうです。

以上をまとめておくと
①16世紀半ばに伊勢御師が三豊郡の有力者を檀那に得て、伊勢のお札を配布していたこと
②そのテリトリーは、財田や三野・詫間などには及ばないこと
③四国霊場の大興寺は多くの坊を抱え、院主たちが伊勢お札の配布に関わっていたこと。
④奈良氏や高井氏・大平氏など有力国人層含まれているが、近藤氏・三野氏・秋山氏などは出てこないこと
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     「田中健二 天文20年(1551) 相模国・讃岐国檀那帳(白米家文書」

香西成資の『南海治乱記』の記述を強く批判する文書が、由佐家文書のなかにあります。それが「香川県中世城館跡詳細分布調査報告2003年 香川県教育委員会」の中に参考史料として紹介されています。これを今回は見ていくことにします。テキストは「野中寛文   天正10・11年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録史料 香川県中世城館調査分布調査報告2003年452P」です。

香川県中世城館分布調査報告書
香川県中世城館調査分布調査報告
紹介されているのは「前田清八方江之返答(松縄城主・・。)」(讃岐国香川郡由佐家文書)です。その南海治乱記や南海通記批判のエッセンスを最初に見ておきましょう。
南海治乱記と南海通記

南海治乱記の事、当国事ハ不残実説ハ無之候、阿波、淡路ハ三好記、西国大平記、土佐ハ土佐軍記、伊予ハ後太平記、西国大平記、是二我了簡を加書候与見申候、是二茂虚説可有之候ても、我等不存国候故誹言ハ不申候、当国の事ハ十か九虚説二而候、(中略)香西か威勢計を書候迪、(後略)

  意訳変換しておくと
南海治乱記は、讃岐の実説を伝える歴史書ではありません。阿波・淡路の三好記と西国大平記、土佐の土佐軍記、伊予の後太平記と西国大平記の記載内容に、(香西成資が)自分の了簡を書き加えた書です。そのため虚説が多く、讃岐の事については十中八九は虚説です。(中略)香西氏の威勢ばかりを誇張して書いたものです。

ここでは「当国事ハ不残実説ハ無之候」や「当国の事ハ十か九虚説二而候」と、香西成資を痛烈に批判しています。

「前田清八方江之返答(松縄城主・・」という文書は、いつ、だれが、何の目的で書いたものなのでしょうか?
この文書は18世紀はじめに前田清八という人物から宮脇氏についての問い合わせがあり、それに対して由佐家の(X氏)が返答案を記したもののようです。内容的には「私云」として、前半部に戦国期の讃岐国香川郡の知行割、後半部に南海治乱記の批判文が記されています。
岡舘跡・由佐城
由佐城(高松市香南町)
 成立時期については、文中に「天正五年」から「年数百二三十年二成中候」とあるので元禄・宝永のころで、18世紀初頭頃の成立になります。南海治乱記が公刊されるのは18世紀初頭ですから、それ以後のことと考えられます。作成者(X氏)は、讃岐国香川郡由佐家の人物で「我等茂江戸二而逢申候」とあるので、江戸での奉公・生活体験をもち、由佐家の由緒をはじめとして「讃岐之地侍」のことにくわしい人物のようです。
 「前田清八」からの「不審書(質問・疑問)」には、「宮脇越中守、宮脇半入、宮脇九郎右衛門、宮脇長門守」など、宮脇氏に関する出自や城地、子孫についての疑問・質問が書かれています。それに対する「返答」は、もともとは宮脇氏は紀州田辺にいたが、天正5年(1577)の織田信長による雑賀一揆討伐時に紀州から阿波、淡路、讃岐へと立ち退いたものの一族だろうと記します。宮武氏が「松縄城主、小竹の古城主」という説は、城そのものの存在とともに否定しています。また「不審」の原因となっている部分について、「私云」として自分の意見を述べています。その後半に出てくるのが南海通記批判です。

「前田清八方江之返答(松縄城主・・)」の南海治乱記批判部を見ておきましょう。
冒頭に、南海治乱記に書かれたことは「当国の事ハ十か九虚説」に続いて、次のように記します。

□(香OR葛)西か人数六千人余見へ申候、葛(香)西も千貫の身体之由、然者高七千石二て候、其二て中間小者二ても六千ハ□□申間敷候、且而軍法存候者とは見へ不申候、惣別軍ハ其国其所之広狭をしり人数積いたし合戦を致し候事第一ニて候、■(香)西か威勢計を書候迪、ケ様之事を申段我前不知申者二て候、福家方を討申候事計実ニて候、福家右兵衛ハ葛西宗信妹婿ニて、七朗ハ現在甥ニて候。是之事長候故不申候、

意訳変換しておくと
南海治乱記は、香西の動員人数を六千人とする。しかし、香西氏は千貫程度の身体にしかすぎない。これを石高に直すと七千石程度である。これでは六千の軍を維持することは出来ない。この無知ぶりを見ても、軍法を学んだ者が書いたとは思えない。その国の地勢を知り、動員人数などを積算して動員兵力を知ることが合戦の第一歩である。
(南海治乱記)には、(香)西氏の威勢ばかりが書かれている。例えば、由佐家については、福家方を討伐したことが書かれているが、福家右兵衛は、葛西宗信の妹婿に当たり、七朗は現在は甥となっている。ここからも事実が書かれているとは云えない。
ここには「香西氏の威勢ばかりが(誇張して)書かれている」とされています。18世紀初頭にあっては、周辺のかつての武士団の一族にとっては、南海治乱記の内容には納得できない記述が多く、「当国の事ハ十か九虚説」とその内容を認めない者がいたようです。

次に、守護細川氏の四天王と言われたメンバーについて、次のように記します。
 讃岐四大名ハ、香川・安富・奈良・葛(香)西与申候、此内奈良与申者、本城持ニて□□郡七箇村ニ小城之跡有之候。元ハ奈良与兵衛与申候、後ニハむたもた諸方切取り鵜足郡ハ飯山より上、那賀郡ハ四条榎内より上不残討取、長尾山二城筑、長尾大隅守元高改申候、此城東之国吉山之城ハ北畠殿御城地二て候、西はじ佐岡郷之所二城地有之候を不存、奈良太郎左衛門七ケ条(城?)主合戦之取相迄□□□拵申候、聖通寺山之城ハ仙国権兵衛秀久始而筑候、是を奈良城ホ拵候段不存者ハ実示と可存候、貴様之只今御不審書之通、人の噺候口計御聞二而被仰越候与同前二て、此者もしらぬ事を信□思人之咄候口計二我か了簡を添書候故所々之合戦も皆違申候取分香西面合戦の事真と違申、此段事長候故不申候   

    意訳変換しておくと
 讃岐四天王と言われた武将は、香川・安富・奈良・葛(香)西の4氏である。この内の奈良氏というのは、もともとは□□(那珂)郡七箇村に小城を構えていた。今でもそこに城跡がある。そして、奈良与兵衛を名のっていたが、その後次第に諸方を切取りとって鵜足郡の飯山より南の那賀郡の四条榎内から南を残らずに討ち取って、長尾山に城を構え、長尾大隅守元高と改名した。この長尾城の東の国吉山の城は、北畠殿の城であった。西はしの佐岡郷に城地があったかどうかは分からない。奈良太郎左衛門は七ケ条(城?)を合戦で奪い取った。
 聖通寺山城は仙国(石)権兵衛秀久が築いたものだが、これを奈良氏の居城を改修したいうのは事実を知らぬ者の云うことだ。貴様が御不審に思っていることは、人の伝聞として伝えられた誤ったことが書物として公刊されていることに原因がある。噂話として伝わってきたことに、(先祖の香西氏顕彰という)自分の了簡を書き加えたのが南海治乱記なのだ。そのためいろいろな合戦についても、取り違えたのか故意なのか香西氏の関わった合戦としているものが多い。このことについては、話せば長くなるの省略する。
ここには、これまでに見ない異説・新説がいくつか記されていていますので整理しておきます。まず奈良氏についてです。
中世讃岐の港 讃岐守護代 安富氏の宇多津・塩飽「支配」について : 瀬戸の島から
①讃岐四天王の一員である奈良氏は、もともとは□□(那珂)郡七箇村に小城を構えていた。
②その後、鵜足郡の飯山から那賀郡の四条榎内までを残らずに討ち取った。
③そして長尾山に城を構え、長尾大隅守元高と改名した。
④聖通寺城は仙石権兵衛秀久が築いたもので、奈良氏の居城を改修したいうのは事実でない。
これは「奈良=長尾」説で、不明なことの多い奈良氏のことをさぐっていく糸口になりそうです。今後の検討課題としておきます。

続いて、土佐軍侵入の羽床伊豆守の対応についてです。
南海治乱記は、土佐軍の侵攻に対する羽床氏の対応を次のように記します。(要約)
羽床氏の当主は伊豆守資載で、中讃諸将の盟主でもあった。資載は同族香西氏を幼少の身で継いだ佳清を援けて、その陣代となり香西氏のために尽くした。そして、娘を佳清に嫁がせたが、一年たらずで離縁されたことから、互いに反目、同族争いとなり次第に落ち目となっていった。そして、互いに刃を向けあううちに、土佐の長宗我部元親の讃岐侵攻に遭遇することになった。
    長宗我部氏の中讃侵攻に対して、西長尾城主長尾大隅守は、土器川に布陣して土佐軍を迎かえ撃った。大隅守は片岡伊賀守通高とともに、よく戦ったが、土佐の大軍のまえに大敗を喫した。長尾氏の敗戦を知った羽床伊豆守は、香西氏とたもとを分かっていたこともあって兵力は少なかったが、土器川を越えて高篠に布陣すると草むらに隠れて土佐軍を待ち受けた。これとは知らない長宗我部軍は進撃を開始し、先鋒の伊予軍がきたとき、羽床軍は一斉に飛び出して伊予軍を散々に打ち破った。
 これに対して、元親みずからが指揮して羽床軍にあたったため、羽床軍はたちまちにして大敗となった。伊豆守は自刃を決意したが、残兵をまとめて羽床城に引き上げた。元親もそれ以上の追撃はせず、後日、香川信景を羽床城に遣わして降伏をすすめた。すでに戦意を喪失していた伊豆守は。子を人質として差し出し、長宗我部氏の軍門に降った。ついで長尾氏、さらに滝宮・新名氏らも降伏したため、中讃地方は長宗我部氏の収めるところとなった。

これに対して、「前田清八方江之返答」は、次のように批判します。
羽床伊豆守、長曽我部か手ヘ口討かけ候よし見申候□□□□□□□□□□見□□皆人言之様候問不申候) 
(頭書)跡形もなき虚言二て候、
伊豆守ハ惣領忠兵衛を龍宮豊後二討レ、其身ハ老極二て病□候、其上四国切取可中与存、当国江討入候大勢与申、殊二三里間有之候得者夜討事者存不寄事候、我城をさへ持兼申候是も事長候故不申候、■■(先年)我等先祖の事をも書入有之候得共、五六年以前我等より状を遣し指のけ候様ホ申越候故、治乱記十二巻迄ハ見へ不申候、其末ハ見不申候、
            意訳変換しておくと
  長宗我部元親の軍が、羽床伊豆守を攻めた時のことについても、(以下 文字判読不明で意味不明部分)
(頭書)これらの南海治乱記の記述は、跡形もない虚言である。当時の(讃岐藤原氏棟梁の羽床)伊豆守は、惣領忠兵衛を龍宮(氏)豊後に討たれ、老衰・病弱の身であった。それが「四国切取」の野望を持ち、讃岐に侵攻してきた土佐の大勢と交戦したとする。しかも、夜討をかけたと記す。当時の伊豆守は自分の城さえも持てないほど衰退した状態だったことを知れば、これが事実とは誰も思わない。
 我等先祖(由佐氏)のことも南海治乱記に書かれていたが、(事実に反するので)数年前に書状を送って削除するように申し入れた。そのため治乱記十二巻から由佐氏のことについての記述は見えなくなった。

つまり、羽床氏が長宗我部元親に抵抗して、戦ったことはないというのです。ここにも、香西氏に関係する讃岐藤原氏一族の活躍ぶりを顕彰しようとして、歴史を「偽作」していると批判しています。そのために由佐氏は、自分のことについて記述している部分の削除を求めたとします。南海治乱記の記述には、周辺武士団の子孫には、「香西氏やその一族だけがかっこよく記されて、事実を伝えていない」という不満や批判があったことが分かります。

香川県立図書館デジタルライブラリー | その他讃岐(香川)の歴史 | 古文書 | 香西記
香西記
このような『南海治乱記』批判に対して、『香西記』(『香川叢書第二』所収)は次のように記します。
  寛文中の述作南海治乱記を編て当地の重宝なり、世示流布せり、然るに治乱記ホ洩たる事ハ虚妄
の説也と云人あり、甚愚なり、治乱記十七巻の尾ホ日我未知事ハ如何ともする事なし、此書ハ誠ホ九牛か一毛たるべし、其不知ハ不知侭ホして、後の知者を挨と書たり、洩たる事又誤る事も量ならんと、悉く書を信せハ書なき力ヽしかすとかや、
  意訳変換しておくと
  寛文年間に公刊された南海治乱記は、讃岐当地の重宝で、世間に拡がっている。ところが治乱記に(自分の家のことが)洩れているのは、事実に忠実ないからだと云う輩がいる。これは愚かな説である。治乱記十七巻の「尾」には「我未知事ハ如何ともする事なし、此書ハ誠ホ九牛か一毛たるべし、其不知ハ不知侭ホして、後の知者を挨」と書かれている。

『香西記』の編者・新居直矩は、『南海治乱記』の「尾」の文に理解を示し、書かれた内容を好意的に利用するべきであるとしています。また、『香西記』は『南海治乱記』をただ引き写すのではなく、現地調査などをおこなうことによって批判的に使用しています。そのため『香西記』の記述は、検討すべき内容が含まれています。しかし、『南海治乱記』の編述過程にまで踏み込んだ批判は行っていません。つまり「前田清八方江之返答(松縄城主…)」に、正面から応えたとはいえないようです。
以上をまとめておきます。
①由佐家文書の中に、当時公刊されたばかりの南海治乱記を批判する文書がある。
②その批判点は、南海治乱記が讃岐の歴史の事実を伝えず、香西の顕彰に重点が置かれすぎていることにある。
③例として、奈良氏が長尾に城を築いて長尾氏になったという「奈良=長尾」説を記す。
④聖通寺山城は仙石秀久が始めて築いたもので、奈良氏の城を改修したものではないとする
⑤また、羽床氏が長尾氏と共に長宗我部元親に抵抗したというのも事実ではないとする。
⑥南海治乱記の記述に関しては、公刊当時から記述内容に、事実でないとの批判が多くあった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 野中寛文   天正10・11年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録史料 香川県中世城館調査分布調査報告2003年452P」

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