瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:奧前神寺

       
現在の黒瀬ダム周辺
           「伊豫之高根 石鎚山圖繪」(昭和9年発行)
 各地から集まった石鎚参拝をめざす講員は、里前神寺(現石鎚神社)や香園寺を基点にして、いろいろなルートで常住(成就)社をめざしました。どのルートをとっても最終的には西条川上流の河口(こうぐち)集落へと集まってきます。ロープウエイができるまでは、ここが登山バスの終点で、ここから成就社に向けて歩き始めました。
石鎚古道 今宮道と黒川宿の入口の河口
水祓所、三碧橋が架かる前の河口橋 ここが今宮道と黒川道のスタート地点
河口からは
  ①西条藩領である尾根を登る今宮道と(前神寺・極楽寺信徒)
  ②小松藩領である黒川の谷筋を登る黒川道(横峰寺信徒)
のどちらかをたどって常住(現在の成就社)に向かいました。
さて、お山開きに集まってきた参拝者たちは、どこに泊まったのでしょうか。
最初に見たように、12000人近くの参拝者が三日間で山頂を目指しているのです。宿泊所は成就にいくつかの宿坊があるだけです。 これを引き受けたのが「季節宿」だったようです。いわばお山開中の「民宿」です。

石鎚古道 今宮道と黒川宿の繁栄様子がはっきり記されている
 季節宿が開いたのは、今宮・黒川登山道筋の黒川と今宮部落です。
 各地からやってくる講中は泊まる宿を決めていて、毎年決まって定期的に訪れるので、宿の入口に講札を打ちつけて目印にしていました。宿になる民家は、有力者の家で石鎚参りの宿にふさわしく、間取りも三間並列型で、襖を取り払えば大広間に一変するような家でした。宿に到着した講中は、旅装を解くとオツトメにかかります。会符・鈴・法螺貝・数珠・もば(海藻)などを床の間(権現様を祀る)に置き、先達の唱導にて勤行をなし、その後に白衣を脱いで休息します。

石鎚山今宮3
今宮の大きな廃屋
 民宿は米持参で昔から「一山八合」といわれます。一泊して登拝をするに必用な分量です。一人四食分で一食1,5合で二合余ります。これが宿へのお礼米になりました。水田のない黒川や今川では、この余米が貴重でした。食事は一汁一菜の簡素なものだったようです。
石鎚山今宮2
 ちなみに、今宮・黒川の季節宿はその後も参拝者達を迎え続け栄えます。もっとも賑わった大正8年には今宮集落では、「全戸数36戸(人口178人)中,11軒の宿屋があった」とあり,小学校の分校もあったようです。そしてお山開き中の10日間に1万人を越える宿泊者があったといいます。
石鎚山黒川集落1
 私が最初に、この登山道を通ったときに、今宮は廃墟になっていました。そして不思議に思ったものです。こんな山の中に、どうしてこんな大きな家があったのだろう?と、
しかし、交通ルートの変更があった場合には沿線の商業施設は大きな影響を受けるのは、歴史が示すとおりです。東の川から成就へのロープウエイ開設が、人の流れを大きく変えました。歩いて成就を目指す参拝客は、ほとんどいなくなったのです。そして、今宮の家屋は自然に帰っています。
石鎚山お山開き2
江戸時代の石鎚山のお山開き お上りとお下りとは?
  お上りとは、冬の間、里前山寺に下りていた本尊の蔵王権現を頂上に上げるて開張することです。旧五月晦日に前神寺から仏像三鉢を唐櫃に納めて、成就社に遷します。そして翌日の朝に弥山に奉安するのです。このとき信者たちは、仏像を奪い合い熱狂的な信仰世界を山上に展開するのです。

蔵王権現
 石鎚の本尊だった蔵王権現

 仏像奉遷は道中奉行が差配しましたが、土佐の信者が供奉して行なうのが古式の慣行でした。また道中奉行は、石鉄山御用会符一号を所持する伊藤家(天徳院)が世襲していました。
 弥山に開帳された蔵王権現(石鎚権現)を前にして、大自然の中(天上に近い霊域)で、心ゆくまで加護を直接的に請けられるのです。信者にとっては、何にも代えがたい空間に身を置く喜びを感じる瞬間です。
石鎚山お山開き8
  お山開きの最終日のお下り行事(下山)は、仏像を弥山から本寺に遷す行事です。
仏像が里前神寺の山門に到着すると、長い参道に信者たちは土下座して「走り込み」を待ちます。仏像を納めた唐櫃が信者の頭上を通り抜けてゆくと、そのとき信者は合掌念仏をして、奉迎します。この前神寺お山開き行事は、形を変えながらも神仏分離後の石鎚神社に継承されているようです。
石鎚山お山開き4

「お上り」を体験した俳人の坂上羨鳥は、『花橘』に、次のように記しています。
一七日の精進清火の前行を修め奥前神寺(成就)に通夜
晦日は塔の禅定方百町斗南ノ嵩二行、高サ十六丈余の岩窟の塔、大師(空海)暫時祈玉ふて湧出となり。頂に苔むす諸木露にしやれ魔風昼夜をはかず。此外密所数多を詣る。
極楽を汲か岩洩る苔清水 羨鳥 
朔日前宵丑ノ刻、別当先達貴賤ともに白衣を着し、かけまくも縄の厚、続松手毎に燈、一同高音に御名を唱。空天に響、気も魂もそぞろくるはしく、木の根菅の根取付くなど所々の王子に読経。弥山間近き小笹原、夜明しとこそ云ル 岩戸原明を待って、ものいはじと臍る数十丈の鉄の鎖掌に冷て南無南無南無を観念せしは何にたとへん。
やんごとなく頂上に禅定宝殿御尊像を拝し、空澄渡る朝気色所々の山海雲下にミゆ。つみもむくいもただ消然たる心の底如意満足しかならむ。
此涼し現未新に無垢世界 羨鳥
 この文章を見ると、上りの前々日に成就の奧前神寺の宿坊に泊まっています。お上りに参加するためには、成就社の近くに前泊しなければならなかったのです。それが今宮や黒川の季節宿が繁盛した理由でした。
翌日は空海が修行した「塔の禅定」の下の「岩窟の塔」を訪れています。これが石鎚三十六王子のひとつでもある天柱金剛石のことでしょう。
石鎚山 天柱金剛石
言葉を添えて意訳してみると
「お上り」当日である。夜明け前、別当先達貴賤を問わず白衣を着た多くの信者が縄でつながれた本尊を高みへと誘っていく。暗闇の中、松明を持ち、高く真言を唱える声が、天空に響く。
気持ちが高揚し、魂が揺り動かされる。行く道の神木の根に鎮座する王子にその都度、読経しながら隊列は進む。
空が白み、弥山(石鎚)が間近に見えてくる笹原に出た。ここが夜明け峠だ。
そして、覆い被さるような岩稜に架けられた数十丈の鉄鎖を登る。手は冷やされるが、心は熱く南無南無南無」を唱えるのみ。この瞬間を何に喩えられようか
無事に安置された蔵王権現に祈念し、そして空澄み渡る朝の冷気の中から雲下に見える山海をながめる。罪も報いもただ消えゆき、心の底には満ち足りた思いで満たされる。
 羨鳥は熱心な仏教信者で深く仏道に帰依していたようです。石鎚登拝を「補陀落」と感じています。「雪解る高根の方か補陀落か」(『高根』元禄十四年刊)の句を残している事からも分かります。
石鎚山開山3

 石鎚山上の自然の「大劇場」で展開されるドラマは、非日常的で宗教的な情熱を沸き立たせるものだったのでしょう。この興奮と感激は忘れがたいものとなったはずです。だから、信者となり、そして先達として、この霊山に通い続ける人々を生み続けたのでしょう。
 こうして、石鎚は劇場化するとともに霊山としての神秘性を高めて云ったのかも知れません。
石鎚山お山開き9

次回は、石鎚参拝登山から帰った人たちを待っていたものは何かを見てみようと思います

参考文献 森 正史  石鎚信仰と民俗  大山・石鎚と西国修験道 所収
絵図は「
旅する石鎚信仰者https://ameblo.jp/akaikurepasu/entry-12225893233.htmlからお借りしたものを使わせていただいています。

 

   
石鎚山お山開き

 霊峰石鎚山の山開きは、現在は七月一日から十日までの十日間です。
でも、もともとは旧暦の旧六月一日からの三日間だけでした。お参りする場合は、大和の大峯山や伯者の大山と同じように、六月一日から三日までの間に登らなければなりません。その間が山開きです。その三日問を除いては、山を閉ざしたのです。それが江戸末期になって旧暦五月二十五日より六月三日まで十日間開くようになりました。

石鎚弥山
どうして「お山開き」の期間が延長されたのでしょうか?
 ペリーがやって来た4年後の安政四年(1857)六月三日の『小松藩会所日記』の記録に、
石鉄(石鎚)祭礼出役(中略)
参詣大夥敷、先は廿ヶ年来参詣と相唱候由。
五月廿五日四千五十人、其前後千人或は千五百人位、朔日二百人計、大凡一万二千五十人もこれあり。廿三日前にも少し登候趣、横峯寺も別条なく珍敷参詣人の趣、委細承之。
とあり、参拝者が大幅に増えていることが分かります。幕末のこの時期は、伊勢参りや金毘羅詣でも参拝者が急増して、それが「おかげまいり」へ暴走していく時流につながります。
 今までにないこの参拝登山客の急増に対応して、西条藩でも藩士を派遣して取締りと保安に当たらせています。しかし、その混雑ぶりは、お山のオーバーユース問題を引き起こします。この対応のために、山開きの期間を三日から十日に大幅に広げたようです。幕末には今までないほどの多くの人が山開きには石鎚を目指すようになっていたのです。
今回は石鎚参拝者の出発から帰宅までの動きを追ってみようと思います。

1石鎚山登山衣装
なぜ人々は、石鎚山を目指したのでしょうか。
 石鎚参拝は個人や家族で、登山するレクレーションではありませんでした。石鎚講という組織に属して、そのメンバーを先達(修験者)が引率・指導して行く集団登山でした。メンバーの中には毎回参加する人もいれば、初めて参加する少年もいました。

山伏装束1
どうして少年が参加したのでしょうか?
 「この山に登ったら一人前」と云われる霊山が各地にあります。村には若者組があって村祭りや芸能、公共事業などに奉仕しました。彼等は力石、俵持ちなどをして日頃から体力を鍛え、技量の練磨に励みました。それは「一人前」と云われるためでした。
 伊予では、石鎚登拝と四国遍路の体験が男一人前のひとつの前提条件になっていたようです。「石鎚は一度は来ても二度は来な」と云われ、村里では一度は体験すべき「山」と目されていたのです。


石鎚登拝は、普通十五歳が初山だったようです。
 親が出生のときに
「無事に育ちますように、元気に育てばお山にお参りさせます」
と願掛けしておいて、十五歳がくると「願ほどき」に登らせるケースが多かったと云われます。頂上の「のぞき」と呼ばれる岩場から断崖絶壁の谷を覗かせたり、宙吊りして誓約を誓わせたりすることが、石鎚でもかつては行なわれていたようです。この冒険的体験が「一人前の男」になれたような誇らしさを、そだてる契機になったのかもしれません。これに対し、四国遍路の体験は「世間を知って、見聞を広める」という「自己拡大」の方に意義があったようです。
 大峯山には、山からもどると洞川あたりで女遊びをし、若い精気を発散させる精進落しがありました。しかし、石鎚の場合はその気配は資料的には見えません。でもなかったともいえません。例えば新居浜市大島では、若衆組に加入すればまず石鎚をやり、ついで讃岐の金毘羅参りをして「女郎買いをしてもどると一人前」と見るふうがあったと云いますから・。
石鎚登坂
さて、今なら石鎚に登るのに、持って行くものを準備し、ザックに入れておけば前日の夜にビールを飲んでいても大丈夫です。しかし、霊山への参拝登山はそうはいきません。
まず、登拝者は7日前から「精進潔斎」をしなければなりません。
これは海、川などで沐浴して垢離(コリ=穢れ)をとり、魚肉を断ち、殺生を慎しみます。蚤や蚊も殺さないように気をつけたようです。海から遠い地域でも、出発前日は潮垢離(コリ)を行う所が多かったようです。この時には参加する人たちが連れ添って行き、帰りには海藻を持ち帰ったり、登拝の宴銭を清めてもどったりします。
石鎚の最古の文献『日本霊異記』は、
  「その山高く峙ちて、凡夫は登り到ることを得ず、ただ浄行の人のみ登りて居住す」
と記されています。「浄行の人」だけが登拝できる険阻高峻の霊峯なのです。不浄者は山の天狗に放られると信じられていました。
石鎚講2
 各地の石鎚登拝者の精進ぶりを見てみましょう。
八幡浜市川上地区では、氏神の社殿に寵って別火生活をしながら七日間の垢離をとりました。出発は夜半で、途中は婦女子に会わぬよう心掛けた。登拝中は家族も精進潔斎して家業の漁業も休業し、虫一匹も殺さず、もし万一組内や親類に不幸があってもお山参りがもどるまでは弔問もしなかったと云います。
 越智郡波方町小部地区の漁村地帯は、昔から石鎚信仰の篤い地域でした。
十五歳で初山を踏む少年は、二十一日間の精進生活を行ったと云います。座敷口の土間に白砂を敷き、門注連を立てて座敷に寵り、ここに竃を構えて別火し、かつ食事毎に一日三回の潮垢離をとります。

山伏信仰2
 温泉郡中島町では、満潮時の潮で清めた藁で注連縄をない、これを先達の家に張ったり、ある家に張ってそこにお龍りします。登拝中は家族の者が潮汲みをし、頂上に到着した頃を見計らって行をします。登拝者の家に門注連を張ることは各地に共通しているようです。今治付近には、登拝中の頃合いを見て、この注連竹を少し抜きかけにしたといいます。これをアシヤスメ(足休め)と云い、参拝中の当人の足が軽くなるというのです。
 頭髪をすくことも遠慮したようです。髪をすくと登拝者の弁当にそれが入っていたり、頭が疼くなったりするというのです。

石鎚大権現2
  また登拝中の豆いりはタブーになっていたようです。足に豆ができるというのが理由です。まるで洒落のようで、ここまでくると微笑ましくなります。
 出発前からの本人の精進も大変ですが、家にいる家族もそれを支えるためのタブーがいくつもあって大変です。別の見方をすると、個人でお山に登っているのではない、家族と一緒に登っているという強い連帯性が要求されていたようです。これらのタブーのひとつひとつを、初めて登る少年達は先達や先輩の講員から学んでいったのでしょう。厳しい緊張感が伴う参拝だったことが、私にも少しずつ分かってきました。これは、レクレーションでありません。
  さて石鎚講の参拝者が先ず目指したのは、先達の属する石鎚信仰の拠点寺院でした。
江戸時代には伊予側からは、前神寺と横峰寺がその拠点となっていました。

前神寺1
少し横道にそれて、前神寺について見ておきます。
  現在、四国霊場六十四番の石鉄山前神寺は真言宗石鉄派として独立寺院になっています。この寺は神仏分離前までは、石鎚山の別当寺として石鎚信仰の中心的役割を担ってきました。
石鎚山お山開き7
上社は弥山、つまり石鎚の頂上にあります。
現在は露坐の石上大神三体が立っています。昔は銅の祠の中に三体の蔵王権現がまつられていたという記録があります。それが石土大神の本地仏だったようです  

1成就社から石鎚山
  中社(奧前神寺)があったのが「常住」です。
今は成就と改名されています。中社は石鎚山山頂にいちばん近いところにあったので「前神」と称するようになります。同時に、これが石鎚山別当職を確保する要因になります。前神寺は、もともとはここに成立したお寺ですが、後に里に下社を作り庫裡を移し、そちらを里前神寺と呼ぶようになります。

前神寺1
  下社(里前神寺)は、現在の石鎚神社本社の場所にありました。
ところが明治時代の神仏分離で、頂上に祀る蔵王権現が仏体であると否定され、明治8年(1875)に一辺の通達で廃寺とされます。そして、里前神寺の権現神殿が神社となったのが石鎚神社(下社)です。神仏分離・廃仏毀釈の嵐は「前神寺がスクラップ、石鎚神社がビルトアップ」という現象を、石鎚信仰の上にもたらしたことになります。
 前神寺は、その後の檀家による復興運動が功を奏して、末寺の医王院があった現在地に前寺の名称で再建が認められます。そして各地の先達達の支援・協力もあって、長い時間をかけて復興し再び石鎚山修験道の中心地となり、南北に長い境内地の中に多くの伽藍が建ち並ぶようになりました。伽藍は明治以後の建物と空間配置なので近代的な感じを受けます。それも、このお寺のたどった歴史の所以なのでしょう。

石鎚山お山開き3
   ちなみに里前神寺は、江戸時代も納経所でした。
 前神寺に遍路の札を打つと、石鎚山に登ったことになります。『四国偏礼霊場記』には、ここにお参りした場合は、上(成就)まで登らなければいけない
と書いています。蔵王権現が前神寺の本尊なので、成就社まで行かないと参拝したことにはならない。前神寺は「庫裡」であった、本堂ではないという考え方があったようです。
 これが当時の霊場の実際の姿でした。江戸時代に入ってから、山岳信仰のお寺は本堂を建てて寺の体裁を整え、行場や山頂から庫裡は里に下りていきます。しかし、もともとはお山の上の権現が霊場です。そのほかのものは納経を受けたり、宿坊となって霊場が成り立っていたのです。だから奥の院に参らなければ意味がないと考えられていたようです。そのため四国巡礼のお遍路さんも成就までは登る人が多かったようです。

蔵王権現
石鎚山頂に祀られていた蔵王権現  

さて、ふもとのお寺までやって来たところで今回は終了、お山への道はまた次回に・・
石鎚信仰3

参考文献 森 正史  石鎚信仰と民俗  大山・石鎚と西国修験道 所収
                                       
 

 


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