瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:妙音寺

     
1三豊の古墳地図

まず古代三野郡を取り巻く旧地形を見ておきましょう。
①北部で袋状に大きく湾入する三野津湾と、そこに注ぐ高瀬川旧河口部の不安定な土地(低地)
②南部で宮川・竿川が財田川に合流する地点周辺に広がる低地
①・②ともに条里型の施工は、中世になって行われたと考えられ、平野部に古代の集落は見つかっていません。現在のように平野が広がり、水田が続く光景ではなく、三野平野は古代は入江の中だったようです。これに、古代以前の集落遺跡の立地を重ねると、せまい耕地と、それを取り巻く微髙地にポツンポツンとはなれて集落が散在していたようです。
三野 宗吉遺跡1

宗吉窯から見る三野津湾
三野津湾の新田化は近世になってから
 三野津湾には、高瀬川と音田川が注いでいますが、流れが急で大量の土砂を流域に運びました。高瀬川は三野津湾に注ぐ手前で、葛ノ山(標高97m)と火上山から南西に延びる支丘(標高100m前後)が、行く手をふさぐように張り出しています。しかも、ここが音田川との合流点です。
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合流点に建つ横山神社
そのためこのあたりから上流は、土砂が堆積し湿地になっていたようです。この付近の字名「新名」は、中世以降の開発であることをうかがわせます。ここには条里型地割が引かれていますが、その施行は中世にまで下がると研究者は考えているようです。
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「新名」付近に溜まった土砂は河口部まで続き、三角州と自然堤防を形作ります。この自然堤防上に、鎌倉時代末期に建立されるのが日蓮宗の本門寺です。つまり、本門寺の裏は海で舟でやってこれたのです。三野津中学校は海の中でした。
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本門寺付近を流れる高瀬川
 土砂の流入を加速化したのが伐採による「山野の荒廃」だったようです。そのため三野津湾は土砂で埋まり、近世にはそこが干拓され新田化されることになります。そして現在の姿となります。

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 以上のような環境は、古代の稲作定住には不適です。
西からやってきた弥生人達は三豊平野・丸亀平野では、それぞれ財田川や弘田川の河口に定住し、次第にその流域沿いにムラを形作っていき、それがムラ連合からクニへと発展していきました。しかし、三野エリアでは平野が未形成で、ムラが発展しにくい環境であったようです。これが三野地区の停滞要因となります。そのため古墳を作る「体力」がなかったのです。これでは、前方後円墳もできません。ある意味、ヤマト政権にとって経済的・戦略的意味がない地域で「空白地帯」として放置されたのかもしれません。

三野平野1
復元地形に古墳を書き入れたものが上図です。
 三野郡域には前期末の矢ノ岡古墳と、葺石と埴輪列を伴う中期後半の円墳・大塚古墳以外に、3~5世紀の前期・中期古墳がありません。古墳の築造が活発になるのは、6世紀中葉のタヌキ山古墳を始まりとして、6世紀後葉~7世紀前葉に限られます。また前方後円墳もないのです。これも生産力の未発展としておきましょう。
古墳時代後期になって現れた三野エリアの古墳を見ておきましょう。
11のグループに分けられますが、この中で石室の規模から「準大型」にランク付けできるのは石舟1・2号墳(麻地区Ⅶ群)・延命古墳(XI群)の3つだけです。石舟古墳は玄室天丼石を前後に持ち送る穹寫的な構成から丸亀平野南部地域との関係性を、また延命古墳は片袖式で畿内的な要素を指摘できると研究者は指摘します。また古墳が集中する地域は、IV~Ⅵ群がまとまる高瀬郷域周辺であり、高瀬川旧河口域が中心地域と考えられます。しかし、この地域では大型とされる延命古墳や石舟古墳群(麻地区)は、中心部から離れた外縁にあります。なぜ中心部から遠く離れた所に、大型古墳が作られたのでしょうか。課題としておきましょう。

南海道と三野郡の設置 地図の太い点線が南海道です
南海道が大日峠を越えて「六の坪」と妙音寺を結ぶラインで一直線に通された
②南海道に直角に交わる形で、財田川沿いに苅田郡との郡郷が引かれた。
③郡境と南海道を基準ラインとして条里制引かれたが、その範囲は限定的であった。
 「和名類聚抄」には、三野郡は
勝間・大野・本山・高野・熊岡・高瀬・託間
の7郷が記されています。この他に、阿麻(平城宮木簡)・余戸(長岡京木簡)の2郷が8世紀の木簡には記されているようです。しかし、余戸郷の所在地については手がかりがありません。阿麻(海)郷は、託間郷と同じが、その一部である可能性が高いと研究者は考えているようです。
古墳時代以後の三野郡内の「生産拠点」を地図に書き入れたのが下図です。
三野平野2
まず古代の三野郡の復元図から読み取れることを重複もありますが確認しておきましょう。
①三野津湾が袋のような形で大きく入り込み、現在の本門寺から北は海だった。
②三野津湾の一番奥に宗岡瓦窯は位置し、舟で藤原京に向けて製品は積み出された。
③三野津湾に流れ込む高瀬川下流域は低地で、農耕定住には不向きであった
④そのため集落は、三野津湾奥の丘陵地帯に集中している。
⑤集落の背後の山には窯跡群が数多く残されている。

三野 宗吉遺跡1
ここからは、生産地拠点が三野津湾沿岸と河川流域の丘陵部に展開していることが分かります。その生産拠点を押さえておきます。
須恵器生産地の三野・高瀬窯跡群は、三野津湾の南・東側と高瀬川上流域丘陵部(託間・高瀬・勝間郷)
宗吉瓦窯跡は、三野津湾南岸部の丘陵地帯(託間郷)に立地。
 郷を越えた託間郷の荘内半島からの燃料薪調達が可能になって以後は大量生産が実現
③高瀬郷内の東大寺の柚山は、三野津湾北側の毘沙古山塊周辺
④阿麻郷での塩生産は、山名「汐木(しおぎ)山」より、三野津湾から荘内半島沿岸部にかけての塩田を想定
⑤865年(貞観7)に停廃された託間牧は、妙見山の北東麓の本村中遺跡を想定。轡(くつわ)や鏡板などの馬具が出土
 こうした沿岸部と周辺の開発に対し、南海道以東(以南)の阿讃山脈までつながる広大な山間部では、生産・原材料供給地としての役割をこの時点においては果たしていなかったようです。
 7世紀前半までは「低開発地域」であった三野郡に、突然に讃岐で最初の仏教寺院が建立されるのはどうしてなのでしょうか。また、それをやり遂げた氏族とは何者なのでしょうか?
参考文献 
佐藤 竜馬 讃岐国三野郡成立期の政治状況をめぐる試論
 

                        

 讃岐で一番古い寺院と云えば? 
昔は、国府の置かれた府中の開法寺が讃岐で一番古いと云われていた時期もあったようですが、今では妙音寺が讃岐最古の古代寺院とされているようです。妙音寺と聞いても、馴染みがありませんが、地元では宝積院と呼ばれています。四国霊場第70番本山寺の奥の院でもあります。
まずは現場に足を運んでみましょう。
 四国霊場本山寺は国宝の本堂と明治の五重の塔で知られていますが、その奥の院と言われる妙音寺まで足を伸ばす人はあまりいません。本山寺が平地に建つ寺とすれば、妙音寺は丘の上に建つ寺という印象を受けます。「広々とした沃野が展開し、そこには条里制の遺跡が現在している」というイメージではありません。妙音寺の北側の尾根上では、古墳や8世紀代の遺物を出土した茶ノ岡遺跡やがあることから、低い平な尾根の上に古代集落が存在したようです。
「香川県妙音寺」の画像検索結果
さて、古代寺院を攻める場合には瓦が武器になりますが、古代瓦は私のような素人にとってはなかなか分かりにくので簡単に要約します
①妙音寺出土の軒丸瓦は6種7型式が出てくる
②この中で一番古いものは十一葉素弁蓮華文軒丸瓦M0101モデルの「高句麗系」のデザイン
③このM0101モデルは、大和・豊浦寺出土瓦とデザインが似ている
④作成時期は「瓦当の薄作りや、丸瓦を瓦当頂部で接合するといった技法の特徴は7世紀前半的だが、文様の構成や畿内での原型式からの変容が著しい点」
を考えると年代的には、630年代末~670年代頃の作成が考えられるようです。つまり壬申の乱に先行する形で建立が進められたことになります。
続いて登場するタイプが軒丸瓦MO102A ・ B型式とM0103型式です。
 これらは百済大寺で最初に使われた「山田寺式」の系譜に連なる瓦です。
ところで、これらの軒丸瓦はどこで生産されていたのでしょうか?
妙音寺の瓦は隣の三野町の宗吉瓦窯で焼かれていましたが、そこでは藤原京の宮殿造営のための瓦も同時に焼いていたのです。つまり妙音寺用のM0102A・Bや同103モデルは藤原宮軒丸瓦6278B型の瓦と同じ場所で同じ時期に作られていたことになります。
 妙音寺から出土した瓦は、650~670年代の幅の始まり、90年代にほぼ終了したと考えられるようです。ここから建立もこの時期のこととなります。瓦が年代をきめます。
 妙音寺の創建時に高句麗式と山田寺式の新旧の2つの瓦が使われていることをどう考えればいいのでしょうか。
新旧の瓦に年代差があるのは、出来上がった建物毎に瓦を焼いて、葺いていったということでしょう。古代寺院の建設は、まず本尊を安置する金堂から着手するのが通例です。そうだとすれば、最初の「高句麗系」瓦は金堂に、次いで「山田寺式」瓦はその後に出来上がった塔や回廊・中門に葺かれたこと。その場合、垂木先瓦や隅木先瓦が使われているので、塔が建立されていたと研究者は見ています。讃岐で垂木先・隅木先瓦が出土した寺院は妙音寺のみで、讃岐最古の寺院にふさわしい荘厳がされたようです。
なぜ地方豪族達は、競うように寺院を建立し始めたのでしょうか? 
  その謎解きのために目を美濃国の周辺に移してみましょう。
壬申の乱後に成立した天武朝になると、各地域の豪族はステイタスシンボルとして寺院建立が進められます。その背景は、地域で確立した強大な生産力でしたが、さらなる目的は官僚機構への参入でした。そのモデルが美濃の川原寺式軒瓦を持つ古代寺院です。美濃地域の古代寺院の建立は7世紀中頃に始まり、最初は3か寺ほどでした。尾張・伊勢の場合も同様です。ところが7世紀後半になると、川原寺式軒瓦で葺かれた寺が一挙に17か寺にも急増するのです。この傾向は尾張西部や伊勢北部の美濃に隣接する地域でも見られます。これは一体何が起こったのでしょうか?
  
それは壬申の乱に関係があるようです。
 天武天皇の壬申の乱の勝利への思いは強く、戦いに貢献した功臣への酬いは、さまざまな功賞として表されました。その論功は持統天皇へ、さらに奈良時代に至っても功臣の子々にまで及びました。例えば、乱でもっとも活躍が目立つ村国男依〔むらくにのおより〕は死に際し最高クラスの外小紫位〔げしょうしい〕を授けられ、下級貴族として中央に進出しました。このように戦功の功賞として、氏寺の建立を認めたのです。美濃や周辺の豪族による造寺に至るプロセスには、壬申の乱の論功行賞を契機として寺院を建立し、さらなる次のステップである央官僚組織への進出を窺うという地方豪族の目論見が見え隠れします。
 このような中で讃岐の三豊の豪族も藤原京造営への瓦供出という卓越した技術力を発揮し「論功行賞」として妙音寺の造営を認められたのではないでしょうか。
ちなみに、かつての前方後円墳と同じく寺院も中央政権の許可無く造営できるものではありませんでした。また寺院建築は瓦生産から木造木組み、相輪などの青銅鋳造技術など当時のハイテクの塊でした。渡来系のハイテク集団の存在なくしては作れるものではありません。それらも中央政府の管理下に置かれていたとされます。どちらにしても中央政府の認可と援助なくしては寺院はできなかったのです。逆にそれが作れるというのは、社会的地位を表す物として機能します。

この時代は白村江敗北で、大量の百済人亡命者が日本列島にやってきた時代でもありました。
亡命百済人の活躍

彼らの持つ先進技術が律令国家建設に用いられていきます。それは、地方豪族の氏寺建設にも活用されたと研究者は考えています。

亡命百済僧の活動

妙音寺の瓦は、どんなモデルなの
妙音寺の周辺には忌部神社があり「古代阿波との関係の深い忌部氏によって開かれた」というのが伝承です。果たしてそうなのでしょうか。讃岐で他の豪族に魁けて、仏教寺院の建立をなしえる技術と力を持った氏族とは?
 先ほど、これらの瓦は宗吉瓦窯で生産されたこと、その中でも創建期第2段階に生産されたM0103モデルは藤原宮式の影響を受けていることを述べました。研究者は、そこから進めて「藤原造宮事業への参画を契機に妙音寺は完成した」と見るのです。

 「 宗吉瓦窯」の画像検索結果
 妙音寺の創建第1段階の「高句麗系」瓦は、畿内では「型落ち」のデザインでした。
そして第2段階の妙音寺の所用瓦も最新形式の藤原宮式でなく、デザイン系譜としては時代遅れの「山田寺式」なのです。藤原京に船で運ばれるのは最新モデルで、地元の妙音寺に運ばれるのは型落ちモデルということになります。これは何を物語るのでしょうか。
 こうした現象は、政権中枢を構成する畿内勢力とその外縁地域との技術伝播のあり方を物語るもののなのでしょう。もっとストレートに言えば畿内と機内外(讃岐)との「格差政策」の一貫なのかも知れません。
 三野の宗吉瓦窯を経営する氏族と妙音寺を建立した氏族は同じ氏族であった可能性が高いと研究者は考えています。それにも関わらず中央政権は、讃岐在住の氏族への論功行賞として妙音寺に最新式の藤原宮式瓦の使用を許さなかったと研究者は考えています。

「 宗吉瓦窯」の画像検索結果
 


  
参考文献
佐藤 竜馬 讃岐国三野郡成立期の政治状況をめぐる試論

         讃岐で最初の古代寺院妙音寺を作ったのは?  

 三豊人と話していると「鳥坂峠の向こうとこちらでは、文化圏がちがう」
「三豊は独自の文化を持つ」という話題が出てくることがあります。
確かに、三豊には独自の文化があった気配がします。例えば、財田川河口に稲作を持ち込んだ弥生人とその子孫は、わざわざ九州から阿蘇山の石棺を運んできて、自らの前方後円墳に設置し、その中に眠る首長もいます。古墳時代には、三豊は九州とのつながりを感じさせるものが多いようです。
そんななかで、三豊の古代史の謎がいくつかあります。
その1 高瀬川流域の旧三野郡に前方後円墳がないこと
その2 讃岐最初の古代寺院妙音寺がなぜ三豊に建てられたのか、その背景は?
その3 藤原京の宮殿用の宮瓦を焼いた「古代の大工場」が、なぜ三野に作られたのか?
この疑問に答えてくれる文章に出会いました。
香川県立ミュージアム「讃岐びと 時代を動かす 地方豪族が見た古代世界」という冊子です。

       讃岐最初の古代寺院妙音寺を建立したのは誰か?

 この冊子は、白村江の敗北から藤原京の造営にいたる変動の時代を、果敢に乗り切った地域として三野評(郡)(現三豊市)に光を当てます。現在の三豊市の高瀬川流域では、前方後円墳の姿を見ることができません。古代における首長の存在が見当たらないのです。大野原に見られるような六~七世紀の大型横穴式石室墳もありません。延命院古墳などの中規模の石室墳がありますが、それもわずかです。

 ところが白村江の敗北後の七世紀中ごろ、ここに讃岐最古の古代寺院・妙音寺が突然のように姿を現します。 隣の多度郡の善通寺地区と比較するとその突然さが分かります。善通寺地区では大麻山と五岳に挟まれた有岡の盆地では、首長墓である前方後円墳が東から磨臼山古墳 → 丸山古墳 → 大墓山古墳 → 菊塚古墳 と順番に造られ「王家の谷」を形作っていきます。7世紀後半になると古墳の造営をやめて、古代寺院の建立に変わっていきます。それを担った古代豪族が佐伯氏を名乗り、後の空海を産みだした氏族です。

 つまり、古代寺院の出現地には、周辺に古墳後期の巨大な横穴式石室を持つ古墳を伴うことが多いのです。そして、古墳時代の首長が律令国家の国造や地方政府の役人に「変質・成長」するというパターンが見られます。ところが、繰り返しますが三野平野はその痕跡が見えません。それをどう考えたらよいのでしょうか?

一方、西となりの財田川とその支流二宮川一帯の旧刈田郡(観音寺と旧本山町)は早くから開けたところで、財田川とその支流沿いに稲作が広がり、周辺の微髙地からは古代の村々が発掘されています。その村々を見下ろす台地の上に、讃岐最初の古代寺院妙音寺は建立されます。
妙音寺は、三豊市豊中町上高野の小高い上にある寺院です。
 周辺の古墳を探すと、妙音寺の北300mに大塚古墳があります。中期の古墳で墳頂に祠が立ち、かつては“王塚”と呼ばれていたようです。2014(平成26)年度に確認調査が行われ、径17.75m、埴輪列まで含めると径22.0m、周濠まで含めると径37.5mの円墳です。川原石の葺石および円筒・朝顔形埴輪がでてきていますが、形象埴輪はありません。埋葬部は未調査です。 

台地の下には、財田川の支流二宮川が蛇行しながら流れます。

その河岸の岡に延命院があります。その境内に開口部を南に向けているのが延命古墳です。地元に人は「延命の塚穴」と呼んでいます。先ほどの紹介した古墳時代中期の「大塚古墳」に続く後期古墳です。墳墓の上には立派な宝篋印塔が立っていて、径約16m以上とされる楕円形に近い円墳にアクセントを付けて簪のように似合っています。
 花崗岩の天井石の一部が露出し、片袖型横穴式石室が南東に開口し、サイズは羨道[長さ1.8m×幅1.4m]、玄室[長さ4.48m×幅2.4m×高さ2.8m]です。採集された須恵器から、6世紀後半から末の築造とされています。巨石の配置の見事さ、さらに整備された構造、境内の中にあって長年にわたって保護されきた環境などから、見ていて楽しい古墳です。
 妙音寺は、この古墳と大塚古墳の間にあり、どちらからも直線では数百mの距離です。善通寺地区の大墓山古墳と善通寺、坂出の府中地区の醍醐古墳群と醍醐寺のように終末古墳から古代寺院への建立へと進む地方豪族の動きが窺えます。この周辺に妙音寺の建立に係わった一族の拠点があったと推測されます。

 この丘の上に寺院が建立され始めたのは7世紀後半のことのようです。

昭和のはじめから周辺で工事や小規模な発掘調査が行わ多くの古代瓦が見つかっています。瓦からはいろいろな情報を読み取ることができます。この寺の完成までには20年ほどの歳月がかかったようです。そのために何種類かの瓦が使われています。
 最初の建物に使われた瓦は大和・豊浦寺にモデルがある独特の文様が採用されています。そして、竣工間際の七世紀も終わりごろには、天皇家の菩提寺である百済大寺式の瓦で軒が飾られるようになります。
どちらにしろ寺院の建設は地域の豪族にとって初めての経験であり、その高度な建築技術持つ大工や工人を都周辺から招いたと考えられます。一枚が10㎏もある重い古代瓦は、輸送コストのことを考えると、なるべく寺院の近くに瓦窯を作って生産するのが基本です。妙音寺の場合は、ここから約五㎞北の宗吉瓦窯跡(三豊市三野町)で生産されたことが発掘から分かってきました。 さらに驚くべき事が分かってきます。
ここで焼かれた瓦が持統天皇が造営した藤原京の宮殿に使われているのです。
瀬戸内海を越えて船で運ばれたのでしょうが、なぜこんなに遠いところから運ぶ必要があったのでしょうか? また、なぜ古代豪族の影が見えなかった高瀬川流域に忽然と大工場が現れたのでしょうか?

それには、もうすこしこの最新鋭の工場を見ていくことにしましょう。

 最盛期には、宗吉瓦窯跡では最新鋭構造の窯五基前後をセットにして、それを四グループ並べるかたちで、全部で20あまりの窯跡が稼働していました。窯詰め・窯焚き・冷まし・窯出し、といった工程をグループ毎にローテーションするような効率的な生産が行われたようです。
 これだけ集中的で組織化された生産方法や・監視システム・さらにはそれを担う技術者を集めることなど、地方豪族の力を越えています。この工場は、国家プロジェクトとしての形が見えると専門家は言います。
この地に、最新鋭の大規模工場が「誘致」されてきたのは、どんな背景があるのでしょう?
 誘致以前に、すでに三野地区には須恵器生産地(三野・高瀬窯跡群)があり、瓦作りの基礎技術や工人はすで存在していたようです。その経験を生かしながら国家からの財政的・技術的な支援を受けながらこの地に先端の瓦製造工場を呼び入れた地方豪族がいたのです。その人物は、中央政府との深いつながりを持っていた人物だったのでしょう。さて、その人物とは?

七~八世紀に都との際立った深いつながりをもつ人物として、讃岐国三野郡(評)の「丸部臣」(わにべのおみ)を専門家は挙げます。

この人物を、天武天皇の側近として『日本書紀』に名前が見える和現部臣君手とするのです。君手は、壬申の乱(六七二年)に際して美濃国に先遣され、近江大津宮を攻略する軍の主要メンバーとなる人物です。その後は「壬申の功臣」とされます(『続日本紀』)。そして息子の大石には、772年(霊亀二)に政府から田が与えられています。
 このように和現部臣君手を、三野郡の丸部臣出身と考えるなら、妙音寺や宗吉瓦窯跡も君手とその一族の活動と推察することが出来ます。妙音寺周辺の本山地区に拠点を置く丸部臣氏が、「権力空白地帯」の高瀬・三野地区に進出し、国家の支援を受けながら宗吉瓦窯跡を造り、船で藤原京に向けて送りだしたというストーリーが描けます。
 また、隣の多度郡の善通寺や那珂郡の宝憧寺造営に際しても、瓦を提供していることが出土した同版瓦から分かっています。讃岐における古代寺院建設ムーヴメントのトッレガーが丸部臣氏だったといえるのかもしれません。
 もし君手が三野評出身でなくとも、彼が同族関係にある三野郡の丸部臣と連携して藤原宮への瓦貢進を実現させたと推測できます。いずれにしても、政権の意図を理解し、讃岐最初の寺院を建立し、瓦を都に貢納するという活動を通じて、三野の「文明化」をなしとげ、それを足がかりに地域支配を進める丸部臣(わにべのおみ)氏の姿が見えてきます。  

妙音寺の建立から百年後、宗吉瓦窯跡が操業を終えた八世紀初めごろ、

三野津湾の東側にそびえる火上山の南のふもとに火葬墓が造られます。猫坂古墓と呼ばれるその墓では、銅製骨蔵器(骨壷)と銅板が須恵器外容器に収められていました。讃岐国の中では最も早い時期に火葬を受け入れた例とされます。専門家は、骨蔵器の優れた造りからみて郡司大領クラスの被葬者と考え、「立地場所からからみて三野郡司・丸部臣氏との関係が濃厚」としています。
 丸部臣氏は、7世紀後半から8世紀にかけて中央とのパイプを持つことに成功し、当時の政権の意図である「造宮と造寺」を巧みに利用し、三野郡における「古代の文明化」を達成していったのす。

それに対して隣の刈田郡(旧大野原町)は、どうだったのでしょうか?

 観音寺市大野原町には、六世紀後半から七世紀初めにかけて、傑出した大型横穴式石室墳である椀貸塚古墳、平塚古墳、角塚古墳(いずれも国史跡)が世代毎に築かれます。同時期の讃岐では、突出した巨大な石室をもつ大野原古墳群は、三豊平野南部に君臨した豪族の墳墓です。また県境を越えた四国中央市には、角塚古墳と石室の構造は近似しているものの使用している石材が異なる宇摩向山古墳があり、大野原古墳群の勢力と連合した豪族がいたことがうかがえます。この勢力が最後の平塚を完成させたのが7世紀半ば、それに前後して三野地区の丸部臣氏は寺院建立に着手していたことになります。この時流への対応が、後の両勢力の歩む道の分岐点になったと研究者は考えているようです。
 この大野原・川之江の燧灘東方の連合勢力(紀伊氏?)に、国家はくさびを打ち込むかのように国境を入れるのです。彼らこの地域の豪族たちにとって、これは「打撃」でした。この打撃から立ち直り、その衝撃を乗り越えて行くには、相当の時開かかかったようです。大野原地域に中心的な古代寺院、紀伊廃寺が建てられるのは、出土瓦からみると「丸部臣」が建立した妙音寺に遅れることと約百年。この間、三豊平野の主導権は、「丸部臣」ら三野郡の勢力に握られていたと考えられます。
 
 刈田郡の豪族も、遅れながらもやがては他の地域と同様に開発を進めていったのでしょう。平安時代になると、郡の名を負った苅田首氏が中央官界に進出します。打撃を被りながらも地域の経営を進め、九世紀には、他地域と同様に地域経営を進めた痕跡を見ることが出来ます。

参考文献 
香川県立ミュージアム「讃岐びと 時代を動かす 地方豪族が見た古代世界


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